シバは「良い人」だった。博人は最初の邂逅からのやり取りを経て、彼女をそう評価するに至った。
　
「ここは田舎だから、スーパーもコンビニも無いからね。それじゃあ色々不便だと思って、こうして店を構えたってわけさ」

　シバは初めて会う博人を邪険に扱わなかった。彼に優しく微笑み、自分の店について丁寧に説明をした。それでいて博人のプライベートな領域に踏み込むことは一度も無く、常に「適切な距離感」を保ち続けた。
　その時点で、博人にはありがたいことこの上なかった。近すぎず、遠すぎない。シバの保つ距離は、まだ精神が癒えきっていない彼にとっては非常に心地の良いものであった。
　魔物娘だからここまで空気が読めるのだろうか。シバの説明を聞きながら、博人はそんなことを思った。考えすぎか。
　
「遠出しなくてもここで賄える。ここに来れば全部揃う。そういう感じの店を目指してね。生活に必要そうなものを片っ端から置いていったの。そうしたらどんどん品が増えて行って、気づいたらこうなってたってことよ」
「ですが実際、とても助かっているのですよ。シバ様がここで店構えしていただいているおかげで、生活用品に不自由することは無くなったのですから」

　シバの説明にマギウスが合わせる。はあ、と、それを聞いた博人が相槌を打つ。気の抜けた、どこか上の空とも取れる返事だった。
　他にいい反応があったかもしれなかったが、今の博人にはそれで限界だった。彼はまだ完治していないことを忘れてはならない。
　
「それよりマギウス、今日はここに買い物に来たんだろう？　何を買っていくんだい？」
　
　マギウスもシバも、今の彼の精神状況をよく理解していた。だから二人の魔物娘は博人の心に踏み込むことはせず、本題に移って話題を逸らした。
　
「あ、はい。実は今日は――」

　マギウスが今日買っていく物を淡々と、且つスラスラと告げる。メモ用紙の類は出さず、マギウスは今日買うべき物を全て暗記していた。その姿が、博人には眩しく輝いて見えた。
　
「――以上となります。まだこちらにあるでしょうか？」
「もちろん。全部取り揃えているよ。安心してちょうだいな」
　
　必要品目を読み上げたマギウスの問いかけに、シバが素直に頷きながら返す。この時刑部狸はマギウスでなく博人を見つめていた。
　博人が視線に気づく。次に驚き、マギウスからシバに目を向ける。しかしそれと並行して、シバも博人からマギウスへ目線を移す。人間と刑部狸はすれ違って終わった。そしてマギウスを見ながら、シバが笑って言った。
　
「せっかくだ。今日は私も一緒に見て回るとするよ。この時間はあんまりお客も来ないからね」
「よろしいのですか？」
「いいの、いいの。この子に店の中を見せてあげたいしね。さ、ついて来て」

　困惑して尋ねるマギウスに景気よく答えながら、シバが先陣を切って歩き出す。これ以上の反論は許さないと言わんばかりの力強い進軍であった。なのでヒロトもマギウスもそれを止められず、結局彼女に釣られるままに歩き始めた。
　メインイベントの始まりである。




　店内の紹介を兼ねた買い物は、何の障害もなくつつがなく終了した。場の空気を読んだのか第三者の介入もなく、おかげで博人とマギウスは最初から最後までシバと共に行動することが出来た。
　
「それで十分かい？」
「はい。今日はこれだけで大丈夫です。わざわざ案内していただいてありがとうございます」
「なあに、こっちもちょうど暇してたところさ。それにこんな可愛い子とも知り合いになれたし、こっちがお礼を言いたいくらいだよ」

　レジで品を一つずつ確認しながら、シバがマギウスに言葉を返す。言われたマギウスは相手の寛大さに感謝するように笑みを浮かべ、博人は可愛いと言われたことに反応して頬を赤くした。自然と首が曲がり、逃げるように目線が下を向く。
　シバはそれを見逃さなかった。
　
「ウブだねえ。本当に可愛い子だこと」
「シバ様。あまりヒロト様を困らせないでくださいませ」

　博人を見ながら茶化してみせるシバに、マギウスが柔らかい口調で釘を刺す。博人の顔はまだ赤く、目線は下を向いたままだった。
　そしてシバは悪びれる素振りを見せなかった。
　
「いやあ、悪い悪い。さっきも言ったけど、ここじゃ彼みたいな若い男の子は珍しいからね。ついいたずらしたくなっちゃったのさ」
「駄目なものは駄目でございます」

　マギウスが再び釘を刺す。今度はそれと同時に博人の隣に寄り添い、彼の手をそっと握りしめる。マギウスの肌触りと体温を手で感じた博人が反射的に顔を上げ、驚いた表情で隣のマギウスを見上げる。
　その時既に、マギウスは博人の方を見つめていた。二人の視線が交錯し、不意を突かれた博人が息をのむ。その後すぐにマギウスが首を動かしてシバを見る。
　
「ヒロト様は療養のためにここまで来たのですからね」
「わかってるよ。私なりのスキンシップさ」

　詰問するようなマギウスの言葉に、シバが肩を竦めて答える。それからシバは博人の方を見て、優しげな眼差しを向けながら彼に言った。
　
「すまなかったね、坊ちゃん。どうか許しておくれ」
「い、いえ」

　素直な謝罪だった。謝られ慣れてない博人は、ただ困惑するばかりだった。マギウスはそんな彼を勇気づけるように手に力を込め、彼の手をより強く握りしめた。
　そこにシバの台詞が被さる。
　
「今日はこれだけだから、合計で……」

　続いて懐からそろばんを取り出し、台の上に置いて計算を始める。横にあったレジスターには目もくれなかった。シバの指が素早く珠を弾き、パチパチと鳴る小気味良い音が博人の耳をくすぐっていく。
　食料品。衣料品。その他各種消耗品。この日マギウスが購入したのは全部で十二点。それらの合算作業は数秒で終わった。シバの指捌きは神業であった。
　
「これくらいだね」

　作業を終えたシバがそろばんを差し出す。何十もの珠がそれぞれ上下に移動していたが、博人には何が何だかさっぱりだった。しかしマギウスはそれを一瞥しただけで、すぐに財布を取り出した。二つ折り型の小さな物である。
　
「これでぴったりかと」

　マギウスが財布を開き、迷いなく代金を置く。シバがそれらを引き寄せ、何度か数えた後満足げに笑う。
　
「確かに。ぴったりいただくよ」

　マギウスの出した金額は、シバの要求する額と完全に一致していた。そろばんを読めない博人は、ここで初めてそのことに気づいた。同時に彼は珠の並びを解読出来たマギウスを素直に凄いと思い、また軽い自己嫌悪に陥った。
　シバはそれに気づいていた。彼女は相手に悟られないよう横目で博人を見据え、彼の心の葛藤を見抜いていた。
　
「何か欲しくなったらまたおいで。マギウスも坊ちゃんも、いつでも歓迎するよ」

　だが指摘はしなかった。ただ二人にそう告げて、それで終わりだった。それから品物をビニール袋に丁寧に詰め、それをマギウスに渡した。
　マギウスがビニール袋を受け取る。片手でそれを持ち、もう片方の手で博人の手を握る。仲の良い姉弟にも見える二人組を見つめつつ、シバが二人に声をかける。
　
「また来るんだよ！」

　また来ます。博人は心の中で思った。ただし思うだけで、声には出さなかった。声に出す勇気はまだ無かった。
　
　
　
　
　実を言うと、この地域にはシバの店以外にきちんとした商店の類は存在しなかった。なので何か欲しいと思ったら、必然的にシバの店に行かざるを得なかった。要するに、シバとは嫌でも――あくまで比喩表現である――顔を合わせることになるのである。
　
「やあ、いらっしゃい。よく来たね」

　博人が件の店でシバと再会したのは、最初に顔を合わせた翌日の事だった。感動の再会と言うにはスパンが短すぎるが、ここ以外に満足に買い物が出来る店が無いから、しようがないと言えばしようがない。食料は適宜補給しなければならないのだ。
　なお今回も、博人はマギウスと一緒だった。というよりも、マギウスの買い物に博人がくっついてきたと言った方が正しかった。マギウスは心配の念を拭いきれずにいたが、博人が自分の意志で一歩前に踏み出したことに喜びを感じたのも事実だった。
　
「それで？　今日は何を買うんだい？」
「はい。今日は――」

　シバとマギウスが話し始める。博人は蚊帳の外だった。二人の会話に割って入ることは出来なかったが、マギウスの欲しい物を確認することは出来た。
　今日の自分は、マギウスの手伝いに来たのだ。ただのおまけではない。博人は誰にも悟られないよう、静かに気持ちを引き締めた。
　やがてマギウスの確認作業が終了する。シバが頷き、続けてマギウスに言う。
　
「今日も一緒に行こうか？　今ならお客さん少ないしね」
「いえ、大丈夫です。何度もお世話になるわけには参りませんので」

　シバの提案をマギウスがやんわり断る。シバも食い下がらず、先方の意見を尊重する。
　結局この日は、マギウスと博人の二人だけで買い物をした。その次の日も二人だけで買い物をしたが、さらにその次の日はシバと一緒に三人で店を回った。博人とマギウスは毎日シバの店に通ったが――博人が同行する以前から、マギウスは毎日ここで買い物をしていた――シバがお節介を焼くのは完全に不定期であった。
　
「坊ちゃん、大丈夫かい？　私が少し持とうか？」
「い、いえ、平気です。大丈夫ですっ」

　そしてシバがお節介を焼く時、彼女は何かにつけては博人を気に掛けた。博人も博人で二人の迷惑にはなるまいと、必死で自分の役目を果たした。荷物持ちである。誰でも出来る、地味な役回りだ。
　だがマギウスとシバは、そんな博人の頑張りを素直に評価した。少年の献身に喜びと感謝を抱き、愛おしさを感じた。
　
「ヒロト様、いつもありがとうございます」
「いえ、そんな。僕はこれくらいしか出来ないんで……」
「でも坊ちゃんのおかげで、マギウスが助かってるのは事実だ。坊ちゃんはちゃんと頑張ってるよ」
「その通りでございます。ですがご無理はなさらぬよう。お体を壊されてしまっては元も子もありません」
「は、はい……」

　マギウスに指摘され、博人が声のトーンを落とす。それを見たシバが困ったように微笑し、二人の男女を交互に見やる。
　何故彼がここまで頑張るのか、マギウスはまだ理解していなかった。
　
　
　
　
　マギウスの買い出しに博人がついていくようになって、二週間が過ぎた。最初に行くと言い出してから、博人は毎日マギウスに同行するようになり、博人とシバは完全に顔馴染みとなった。
　
「やあやあ二人とも。今日もいらっしゃい。よく来たね」
「こんにちは、シバ様」
「こ、こんにちは」

　シバがにこやかに挨拶し、マギウスも微笑んで挨拶を返す。遅れて博人が、ややぎこちない形ながらも挨拶する。
　その慣れない挨拶を見て、シバが満足げに頷く。
　
「うんうん。坊ちゃんも今日も元気そうで何よりだ。ゆっくりしていきなさいな」
「は、はいっ」

　控えめに、まだ遠慮が残る形で、博人がシバの提案に呼応する。それを見たシバが笑い、マギウスが博人の頭をそっと撫でる。博人は愛されていた。
　それから先はいつも通りだった。マギウスが今日買う物の確認をし、博人を連れて店の中を回る。そして買い物カゴに品物を詰め終えたら、シバの元に持って行って会計を済ませる。いつもの流れである。
　
「あ、そうだ」

　だが今日は様子が違った。そろばんを弾いて会計を行う傍ら、シバが視線を持ち上げ博人を見ながら言った。
　
「坊ちゃん、ちょっと私から提案があるんだけど」
「はい？」

　博人が反応する。シバが指を動かしながらじっと博人を見つめる。困惑するマギウスが両者を見比べる。
　シバの指が止まる。
　
「うちで働いてみないかい？」

　博人の息が止まるのとシバの合算作業が完了したのは、全く同時だった。