Tulip
ある日のこと。
物音がしたので玄関のドアを開けてみると、目の前に変なのが居座っていた。
「お久しぶりね、義人君」
花壇の横に、巨大な花が咲いていた。桃色に染め上げられた花弁が幾重にも重なって出来た、それは見事な花だった。
そして一番の驚きは、そんな流麗な花の中心部から、上半身裸の女が生え伸びていたことだった。花弁の下から生えた葉の部分と同じ緑色の肌をした、これまた息を?むほど綺麗な美女だった。胸も大きかった。
その女が、こちらを見ながらニコニコ笑って、家主の男にそう話しかけてきた。知らない人の名前を呼びながら。
これが驚かずにいられるだろうか。
「私のこと、忘れたとは言わせないわよ。約束は守ってもらうんだから」
突然のことに驚く男に向かって、緑色の女が一方的に告げる。男の意識が回復したのは、それから暫く経ってからのことだった。
「……えっ、あの、どこかで会いましたっけ?」
まるで覚えがない。心当たりが無かった。そもそも、こんな奇特な格好をした知り合いはいない。
義人と呼ばれた男はその旨を正直に伝えた。しかしそれを聞いた植物の女は一切動じず、微笑みながら首を横に振った。
「いいえ、貴方は私にとても良くしてくれたわ。毎日毎日、私は貴方と一緒にいたの。貴方は忘れてても、私は全部ちゃんと覚えてるんだから」
「なんですかそれ……」
女の変質者紛いの発言に、男は背筋が凍り付くのを感じた。そんな男の恐怖を感じ取ったのか、女は「違うわよ」とクスクス笑ってから言葉を続けた。
「貴方をつけ狙ってたとか、追い回してたとか、そういうんじゃないわ。私は最初から、貴方の傍にいたんですもの。運命の赤い糸で結ばれていたの」
「なんですかそれ。余計怖いですよ。本当のことを教えてください」
「知りたい?」
緑色の女が花から身を乗り出して顔を前に突き出し、それは楽しそうに弾んだ声で問いかける。
その前から来る圧力に対し、男は思わず背を反らして首をすくめた。しかしすぐに好奇心が勝り、彼はその姿勢のまま首を縦に振った。
それを見た緑色の女がにこやかに笑う。
「教えてあげてもいいけど、その代わり条件があるわ」
「条件?」
「ええ」
緑色の女が頷く。男がそこに食いつく。
「教えてください」
「いいわよ」
緑色の女が頷く。男が生唾を飲み込む。
「私に貴方の世話をさせてほしいの」
「……え?」
男は一瞬、目の前のそれが何を言っているのかわからなかった。しかし彼が何か言おうとするよりも前に、眼前の女が次のアクションを起こした。
「まあ嫌って言われてもやるんだけどね」
「ちょっ」
そう言いながら、緑色の女が動きだした。太いツルを絡めて四本の脚を形作って立ち上がり、それを器用に動かして前に動き始める。
動けたんだ。男が純粋に驚く。下半身が花の中に埋もれているから、てっきりその場から動けないと思っていたのだ。
「女の子はね、好きな人のためなら何だって出来るのよ」
そんな男に向かって、花に食われた女がぐいぐい進んでいく。途中でそんなことを言いながら、それでも進軍スピードは変えない。
二人の距離が容赦なく縮む。近づく女を見て、反射的に男が脇に退く。それによってベランダから室内に通じる道が開かれる。
その道を、緑色の女が我が物顔で進んでいく。
「私、アルラウネのリップ」
そうして室内へ堂々侵入を果たした緑色の女が、その場で百八十度向きを変えて男と向き合いながら口を開く。いきなりのことに呆気に取られる男に向かって、女が再び言葉を紡ぐ。
「私の種族と名前よ。アルラウネのリップ。アルラウネが種族名で、リップが名前」
なるほど。ようやく男が納得する。それが彼女の名前なのか。
そうして素直に頷く男を見て、女――アルラウネのリップが微笑みながら言い放つ。
「よろしくね、義人君」
知らない男の名前だった。薄気味悪かった。
結局、男はリップに押し切られる形となった。しかし彼としてもリップの正体が知りたかったし、何より彼女が――不思議なことに――悪い人には見えなかったので、彼はリップの進入に対して必要以上に悪印象を持っていなかった。
ちなみに男とリップが出会ったのは午前八時。この後男に予定はなく、男はそれを素直にリップに告げた。
「つまり、今日は特にすることが無いってことね?」
「はい」
リップの確認に男が頷く。それを聞いたリップは口を閉ざし、顎に手を当てて考え込むポーズを取った。なおこの時、リップは既にリビングの一角に腰を降ろし、当たり前のようにそこに居座っていた。
「洗濯とか掃除とかは? もう終わったのかしら?」
図々しくも居場所を確保したリップが、遠慮することなく再度確認する。男は何故そんなことを聞くのか困惑しながらも、やはり素直に首を縦に振った。
「なるほど」
それを聞いたリップの顔が明るく輝く。何かいいことを思いついたような、輝かしい笑顔だった。
何がそんなに嬉しいのだろうか。男は逆に怖くなった。
「じゃあそれ、私が手伝ってあげる!」
直後、自身の顔を輝かせた理由を、リップ自ら明かしてきた。それはもう弾んだ声で、これ以上ないほど嬉しそうなテンションで家事の手伝いを告げてきたのだ。
男はますます怖くなった。なんでこの人はこんなにもやる気を漲らせているんだろうか。初対面なのにどうして?
いくら考えても、答えは一向に出てこなかった。
「洗濯機はあそこで、掃除機はあの隅ね。それで台所が向こうにあるから、まずは……」
そして考える余裕も無かった。リップが彼の眼前で、勝手に家事の手伝いを始めたからだ。しかも恐ろしいことに、この緑色の女はこの家の間取りはおろか、どこに何が置いてあるのかも全て把握していた。それこそ、まるでここが自分の家であるかのように。
指さし確認しながら間取りと道具の位置関係を再確認していくリップを見て、男は恐怖に身震いした。自分でもまだどこに何があるのか把握しきれていないのに、何故そこまで正確にわかるんだ?
今日これで何度恐れ慄いたかわからないが、怖いものは怖いのだ。
「ああ良かった。配置は全然変わってないのね。なんか安心した」
こいつはどうして、そんなことまで知っているんだ? にこやかに呟くリップを見ながら、男は彼女を家の中に入れたのを後悔し始めていた。もしかしたらこいつは、性質の悪いストーカーなのではないのか?
しかしそんな男の葛藤など、リップはお構いなしだった。
「さーて、始めましょうか」
胸元で両手を組んで手首を回しながら、リップがやる気満々な顔で告げる。彼女の下半身を構成している花と葉も、彼女のやる気に呼応してゆらゆらと揺れていた。
男はそれを見て、リップを止めることは最早不可能だと悟った。そして彼の懸念通り、リップは男の許可も取らずに作業を始めた。そこに割って入って無理矢理行動を中断させるだけの度胸は、男は持っていなかった。
一方、リップの動きには迷いが無かった。それは動き始めた時だけでなく、その後の家事の様子においても同様だった。
「〜♪」
男の眼前でリップが作業をこなしていく。余裕たっぷりに鼻歌を歌いながら、掃除と洗濯と皿洗いをテキパキ片づけていく。
そのアルラウネの動きは素人のものではなかった。それは言うなれば、同じことを何千回何万回と繰り返す中で体に染みついていった、「熟練の母親」特有の自然な所作だった。
そんな無駄のない立ち居振る舞いを見て、男は思わず感嘆のため息を漏らした。
「すごい……」
ため息のみならず、自然と言葉が口から出る。自分ではとてもあんな風には動けない。
その直後、リップが掃除機のスイッチを切る。次いで絡めて作ったツル脚の動きも止めてその場で静止し、男の方を向いて返事を寄越す。
「ありがと。褒めてくれて嬉しいわ」
楽しそうに笑いながらの返礼であった。その後リップはすぐ前に向き直り、再び掃除機のスイッチを入れる。脚替わりにしていたツルの束を器用に動かし、やはり慣れた手つきで床のゴミを吸い取っていく。既に食器は片づけ終わっており、遠くの方からは洗濯機の回る音が聞こえてきていた。
「あの、俺も何か手伝いましょうか?」
「え? ああ、別にいいわよ。全部私がやっておくから、貴方はそこらへんでゆっくりしてて」
男の出番は完全に無かった。手伝う隙も無かった。そして男が手持ち無沙汰で終わるのは、その後の昼食時でも同様だった。
「ねえ義人君、何かお昼に食べたいものとかある?」
「いや、特にこれと言ってないですけど」
「そうなの? じゃあ私が特別美味しいものを作ってあげるわね」
午前十一時。家事を一人で終わらせたリップが男に問いかける。男は控え目に答え、それを受けたリップが鼻息荒く宣言する。
そこに男が反応する。
「あ、あなたが作るんですか? じゃあその、俺も手伝い――」
「いいの、いいの。私が好きでやってることなんだから。義人君は王様みたいに、そこでどーんとくつろいでなさい」
しかしリップは、男を台所に行かせようとはしなかった。男に対し、何もせず寛ぐことを頑なに薦めてきた。そして実際に助けなど不要なほど見事な手さばきで、彼女は昼食を作り上げていった。
数分も経たないうちに、台所からかぐわしい匂いが漂ってくる。その匂いを嗅いで腹の虫を鳴らしながら――心は未だ多少なり警戒していたが、体は正直だった――男はより一層リップへの関心を強くした。
何故そんなに家事が上手いのか。何故この家の造りを把握しているのか。何故自分を知らない名前で呼ぶのか。わからないことだらけだった。
「はーい、義人君。お昼ご飯出来たわよー♪」
十一時三十分。おぼんを持ちながらリップが台所から戻ってくる。相変わらず上機嫌だった。男の世話をするのが愉しくて仕方ない、そんな感じのテンションだった。
リビングの真ん中に置かれたテーブルの前に座り、そこで無意識に眉間に皺を寄せる男の隣に、当然のようにリップが腰を降ろす。巨大な花が真横にふわりと鎮座し、リップの「花」の放つ爽やかな芳香が、押し出された空気に混じって男の鼻腔をくすぐる。
一瞬、男がドキリとする。脳に衝撃が走り、反射的に背筋を伸ばす。
その男の目の前に、リップがおぼんの上にあった皿を手に取って静かに置く。
「今日のお昼は焼うどんよ。遠慮しないで食べてね」
彼女の言う通り、皿の上には焼うどんが盛られていた。味を吸って変色したうどんの上で、鰹節がゆらゆら躍っている。おまけに出来立ての料理全体から湯気が立ち昇り、それが焦げた醤油の匂いと風味を共に昇らせ、男の嗅覚と味覚をこれでもかと刺激する。うどんに混じって顔を覗かせる人参やピーマンもまた、彩りを豊かにして食欲を増進させるのに一役買っていた。。
まさかこいつは、自分の家にあった食材を勝手に使ったのか? 料理名を聞いた直後に男がリップに抱いた不満混じりの懸念は、その実に美味そうなビジュアルと気配で完全に打ち消されたのだった。
「まあ、色々聞きたいこともあるでしょうけど。とりあえずはそれを食べてから話しましょう。早くしないと冷めてしまうわ」
そこに追い打ちをかけるように、リップが焼うどんを食べるよう催促してくる。それが切欠になり、男の意識は再び目の前の料理に向かった。
改めて見ると、本当に美味そうだった。見ているだけで涎が湧き出してくる。正直な話、男は今すぐにでもそれを食べたくてたまらなくなっていた。
何故かはわからない。とにかくそれが食べたかった。本能がそれを欲していた。
「いいわよ。全部食べても」
リップがそう言って、箸を差し出す。男は迷いなくそれを受け取り、躊躇なく湯気の昇る焼うどんの中にそれを突っ込んだ。
軽く掻き回した後、うどんを野菜ごと掴んで持ち上げる。そこで少し待って冷ました後、待ってましたとばかりに勢いよくそれを頬張る。
「――!」
刹那、男の脳味噌に電流が走った。次いで頭をハンマーで殴られたような、強烈な衝撃が彼を襲った。
美味いから驚いたのではない。いや、不味くはない。十分美味だ。しかしそれは、決してお高い料理店で出されるような、所謂「プロの味」ではない。だから彼は味に驚かされたわけではない。
男の頭を殴ったのは、それとは別の要因だった。
「なんで……」
咀嚼もそこそこに飲み込んだ後、男が呆然と呟く。それは自分でも驚くほどに、自分に「馴染む」のだ。
しっくりくる、と言うべきか。それは自分の好みにぴったり合致する味であり、そしてそれは簡単に出せる味ではなかった。単純に美味いというだけでは、この領域には決して踏み込めない。
それが、どうして。
「あなた、なんなんですか」
ギリギリと首を動かし、唖然とした顔で男がリップに問う。リップはクスクス笑ってそれに答えた。
「私はね、あなたのことならなんでも知ってるのよ」
満面の笑み。実に嬉しそうな笑顔だった。男はそれがただひたすら恐ろしかった。
「どうして私がそこまで知っているのか、知りたい?」
そんな男に、リップが再び声をかける。最初に会った時と同じ問いだ。
男は即座に頷いた。しかしリップはマイペースだった。
「ちゃんと教えてあげるけど、まずはそれを全部食べてからね」
そう言って、リップがツルの一本を動かして焼うどんを指差す。男の視線もそこに向く。
「大丈夫。毒は入ってないから」
優しい声でリップが付け加える。好奇と恐れと空腹の間で葛藤を抱えた男が、生唾を飲み込んで二の足を踏む。
「信じて」
再び、リップが言葉を放つ。優しく静かで、そして力強い言葉だった。
それを聞いた瞬間、全く唐突に、男はそれを信じてみようと思った。
理由はわからない。ただ信じられると、肉体が反応したのだ。
そして男は、その肉体の直感に従った。
「……」
無言で焼うどんを食べ始める。一度動き出したら止まらない。どんどん箸の動きが速くなっていく。
もう我慢の限界だった。空いた手で皿を掴み、リップの視線もお構いなしに、ガツガツと貪っていく。マナーも何もない、飢えを満たすためだけの野蛮な食事風景。汚いと言われても仕方のない食べっぷりである。
それをリップは、穏やかな顔で見守っていた。咎めることもせず、その様を目に焼きつけた。
「いい子、いい子」
その最中、リップがか細い声で漏らす。それが男の耳に届くことは無かった。
男がそれを食べ終えた時、時刻はちょうど十二時を回っていた。ちょっと早かったかしら。掛け時計を見ながらリップが呟く。男の方は今しがた食べた料理の美味さに驚き、その余韻に浸るばかりであった。他のことを考える余裕は無かった。
「確か今日はこの後、特に予定は無いのよね?」
そこにリップの質問が飛んで来る。我に返った男はすぐにリップの方を向き、小さく首を縦に振る。
「それより」
直後、男が思い出したように声を上げる。今度はそれにリップが反応し、彼に注目する。
アルラウネの優しい視線が突き刺さる。その目を見つめ返しながら、男が意を決して口を開く。
「あなたは、誰なんですか」
暫しの沈黙。答えはすぐに返って来なかった。リップは何も言わず、黙って男を見つめていた。
その眼差しはどこか悲しげだった。
「本当に、知らないのね」
やがて打ち沈んだ声でリップが言う。まるで何も知らない自分が悪いかのような、本気で悲しんでいる声だった。
初めに感じた戦慄が再び鎌首をもたげる。しかしまだ全て聞きだしたわけではない。腹を括り、男が尋ねる。
「あなたは、俺のなんなんですか」
「……」
今回もまた、すぐに答えは返って来なかった。リップは何も言わず、代わりに眉間に皺を寄せていた。打ち沈んだ、重々しい表情だった。
それでも男が辛抱強く待っていると、やがてリップが口を開く。我慢比べは男に軍配が上がった。
「私は貴方の……友達よ」
途中、言葉を選ぶような沈黙が挟まれた。それが男に不気味な印象を与えた。
リップが続ける。
「家族ぐるみの付き合い、と言った方がいいかしら。貴方の家族が私の家の隣に引っ越してきてから、私はずっと貴方達と関わってきたの。一緒に遊んだり、お話ししたりとかね」
「あなたが?」
「ええ、そうよ。貴方のお父様とお母様……五郎さんと美代子さんとも親しくしていたし、もちろん貴方、義人君とも仲良くしていたわ」
誰だそれは。さっきから知らない人間の名前ばかり出てくる。
それは全部あなたの妄想なんじゃないのか。大真面目な顔で脳内設定を曝け出す緑色の女という眼前の絵面を前に、男はたまらず冷や汗をかいた。
「いいえ。全部本当のことよ。私は嘘は言っていないわ。貴方は私を姉と慕ってくれた。魔物の私を受け入れてくれた。全部本当のことなの」
心を読んだかのように最高のタイミングで、真剣な面持ちのままリップが告げる。男の顔が引きつる。
「姉……?」
「ええ、そうよ」
何かを期待するように、リップが力強く頷く。男も男で、自分が呟いたばかりの言葉を何度も反芻する。
「姉……俺に……」
なんだろう。何かが引っかかる。
全く記憶に無いはずなのに、なぜか心に響く。
それ以上踏み込んではいけない。生物としての本能が叫ぶ。これ以上奴の術中に嵌ってはいけない。
「俺に、姉……姉替わりの人が……?」
本当に心当たりがあるのか? それとも「そういう設定」に従うよう誘導されているだけなのか?
わからない。心臓の鼓動が速くなる。
真実が知りたい。
「あなたは」
欲求のままに口を開く。しかしその直後、強烈な眠気が男を襲った。
「……くあ……」
反射的に欠伸をする。大きく口を開け、目一杯酸素を脳に取り込む。
視界がかすむ。思い出したように体が重くなる。
「あれ、なんでだろ」
いきなり疲れが出てきた。訳も分からぬまま、男が目をこする。
「あんなことが起きたばかりだもの。疲れて当然だわ」
そこにリップの言葉が飛んで来る。思考が鈍った男の脳は、彼女の言葉の意味を理解できなかった。
「あんなこと……なんです……?」
「いいのよ。今は何も考えないでいいの。まずは体を休めて、リラックスしましょう」
リップは男の問いに答えなかった。代わりにツルを動かしてそれぞれ男の背中と手足と額に巻き付け、その場に寝かそうとする。
「ちょ、ちょっと」
「いいから。少し眠りなさい。考えすぎても体に悪いわ」
突然の拘束に驚き抵抗を試みる男に、リップが構わず睡眠を提案する。そして男の反抗を無視して、力任せに男を横にさせる。魔物娘の膂力は、大抵の場合人間よりも上であった。
「大丈夫。起きるまで私が傍にいてあげるから。もちろん変なことはしないわ。約束よ」
優しい声でリップが告げる。しかし背中と床を無理矢理くっつけられた男は、それを聞いて心休まることは無かった。
あるのは薄気味悪さと警戒心だけだ。男の眉間に自然と皺が寄る。
「気味悪い?」
その時、機先を制するかのようにリップが問いかける。先制攻撃を受けた男は一瞬面食らったが、すぐに渋い顔に戻って小さく頷いた。
「怖いです」
「そう。他には?」
「……信用できません」
「――そうよね」
それを聞いたリップが、また別のツルを持ち上げる。それを見た男が拘束されたまま体を強張らせる。
リップはその男の額を、件のツルで優しく撫でた。丸く冷たいツルの先端が、皺の寄った男の額をつうっと滑る。
男はまたも驚いた。襲われると思ったからだ。そしてその驚きのまま、男はリップに視線をやった。
「いい子ね。正直でよろしい」
「え――」
リップの顔は寂しさに翳っていた。悲しみと孤独に打ちひしがれたような、痛ましい面持ちをしていた。
「いいのよ、怖がっても。こんな状況で怖がるなっていう方が難しいもの」
静かな――そして震える声でリップが言った。男はどう返せばいいかわからず、ただ沈黙した。
リップが言葉を続ける。
「でも、これだけは信じて。私は貴方に危害は加えない。嫌らしいこともしない。襲ったりもしない。約束よ」
「じゃあ、何をするんです?」
「守ることよ」
男の問いにリップが答える。それまでの優しいそれとは打って変わった、力強い声色で発せられたものだった。表情もまた変わり、筋肉を無理矢理引き締めて決意に満ちた顔を見せる。そうして百八十度変転した雰囲気を前に、男が思わず息をのむ。
一方でその強いトーンのまま、リップが重ねて言った。
「貴方を守りたい。貴方の支えになりたい。貴方と一緒にいたい」
彼女は本気でそう思っていた。感情が顔に表れていた。ニコニコ笑う余裕などない。
「私はどうなってもいい。ただ貴方を助けたい。それだけなの」
その本気は、男にも伝わっていた。彼はそれを理屈ではなく心で感じ取っていた。同時にそれと同じものをずっと前に感じたことがあると、朧気ながら思ってもいた。一方で何故そんなことになるのかと、不思議に思う自分もいた。
だがそれに関して、男が結論を出すことは無かった。それまで小康状態にあった眠気が、ここに来て本気で牙を剥いてきたのだ。
「ああ……」
もっと聞きたいことは山ほどあるのに。襲い来る睡眠欲の前に、男の体はいとも容易く白旗を上げた。
全身の感覚がなくなる。瞼が重くなり、意識が遠のいていく。
「いいのよ」
微かにリップの声が聞こえてくる。優しい声。
いつもの優しいリップの声。
「私がついてるわ。眠りなさい、義人」
「うん……」
懐かしい。とても懐かしい。
記憶の蓋が僅かに開く。過去の残滓が僅かに漏れ出し、言葉となって体の外に現出する。
「おやすみ、姉さん……」
それが眠りにつく前に発した、男の最後の言葉だった。それを聞いたリップは目尻に涙を溜め、静かに寝息を立てる男の頬をツルでそっと撫でる。
「おやすみ、義人」
溢れ出す感情を抑え込むように、リップはそれだけ呟いた。
リップのお隣に橋本家が越してきたのは、今から半年前のことだった。父の五郎、母の美代子、そして息子の義人の三人家族だった。
橋本一家は魔物娘に偏見を持たないタイプの面々であり、お隣さんのリップとはすぐに仲良くなった。アルラウネのリップもまた、彼ら三人家族と仲良くなれることを喜ばしく思っていた。余程のことが無い限り、人間に悪感情を抱く魔物娘は存在しない。
一人息子の橋本義人とは、特に親密な関係になった。流石に出会ってすぐに恋人同士にはならなかったが、それでも二人が実の姉弟のような間柄になるのに、大して時間はかからなかった。
「姉さん、今日のお昼は?」
「聞いて驚きなさい? なんと貴方の大好きな焼うどんよ!」
「本当に? やった! 姉さんの焼うどん大好きなんだ!」
「もう、おだてても何も出ないわよ?」
休日になると、義人は当たり前のようにリップの家にお邪魔した。そこで二人仲良く昼食をとり、その後家で遊んだり、時には一緒に買い物にでかけたりして午後を過ごし、日が沈む頃に自分の家に帰る。知り合ってたった一週間で、義人の行動パターンは完全に固定された。
「姉さんおはよう! また来ちゃった!」
「うふふ、いらっしゃい義人君。今日もよろしくね?」
「うん!」
リップも義人も、それをすんなり受け入れた。顔を合わせることに飽きたり、嫌気が差したりすることもなかった。寧ろ二人とも、同じ時間を過ごせることを喜ばしく感じていた。そして義人の両親もまた、この息子の「お出かけ」を容認していた。
「お母様、今日はお世話になりますわ」
「いいのよ。いつも義人がお世話になってるんだから。今日はゆっくりしていってちょうだいね」
そして時には、リップが橋本家にお邪魔することもあった。そこでリップは一家から暖かい歓待を受け、四人揃って微笑ましく充実した時間を過ごした。リップが食材を買い込んで橋本家の冷蔵庫にしまい込み、後でそれを使ってリップが橋本一家に手料理を振舞うことも一度や二度ではなかった。
まさに家族ぐるみの付き合いだった。人間の家族と一人の魔物娘が手を取り合い、共に幸せの世界を築き上げていった。
「旅行?」
「うん。次の週末に、皆で旅行に行くことになったんだ」
だから義人は、自分達が家族旅行に出かけることも正直にリップに伝えた。学校の同級生や担任には伝えていない。リップだから話したのだ。そして義人はそこで、リップも一緒に来ないかと誘いもした。これも相手がリップだからこその行動だった。
しかしリップは、それを謹んで辞退した。家族のことを思っての決断だった。
「いつも一緒にいてばかりじゃ申し訳ないわ。たまには家族だけで楽しんでいらっしゃいな」
「えー? でも……」
「いいから。言う事聞きなさい。お姉さんの言う事聞けないの?」
「うう……」
義人は完全にリップの尻に敷かれていた。結局彼は、敬愛する姉の言葉に従った。リップが断って来たことを知った義人の両親も、素直にそれを残念がった。そもそもリップを一緒に連れて行こうと提案したのは、義人の両親の方だった。
しかし無理強いするわけにもいかない。家族は当初の計画を断念し、そのまま三人だけで旅行に行くことにした。そして出発当日、リップは一家を乗せた車を、手を振って見送った。
翌日、橋本家の車が事故に遭った。信号無視をした別の車に追突されて起きた事故だった。
五郎と美代子は即死。義人は意識不明の重体となった。
数日後、奇跡的に、義人は意識を取り戻した。しかし目覚めた代償として、彼は記憶を失った。
日常生活を送れるだけの最低限の知識は有していた。しかしそれ以外の事を、義人は全て忘れてしまった。
自分の名前。自分の年齢。両親の名前。通っていた学校。交友関係。家。
アルラウネ。
何もかも。
橋本義人は、闇の中で独りとなった。
この時、魔物娘が人間の後見人になることは法的に認められていなかった。まだそこまで理解は進んでいなかった。
だからリップは自主的に来た。そして立ち退くつもりもなかった。今の彼を守れるのは自分だけだと、彼女は強く思っていた。
「大丈夫だからね」
静かに寝息を立てる義人の頭を撫でながら、リップが小さく呟く。
「絶対、姉さんが守ってあげるからね」
決意を新たにするように、一語一語噛み締めるように言い放つ。
リップの眉間に皺が寄る。覚悟が彼女の体を強張らせる。
その時、ふと欲望が顔を覗かせる。力を込めた反動で、本心が理性の底から押し出されて表に出る。
「でも、もし、全部思い出したら……」
一緒に過ごす内に芽生えた感情。
魔物娘と人間。ある意味では当然の帰結。
姉弟ではなく、男女として――。
「……なんてね」
魔物娘としての本能を押し戻しながら、リップが呆れたように呟く。自分の中で肉欲よりも友愛の情が優先されたことに、我ながら驚きを覚える。
その時、寝ぼけた義人が手元に来たリップのツルを優しく掴む。一瞬リップはハッとなり、その後微笑みを浮かべていつもの調子を取り戻す。
――ああ、やっぱりこの子は大切な弟だ。
「おやすみなさい、義人」
慈愛を湛えた――そして一抹の寂しさを含んだ笑みを浮かべながら、リップはか細い声で告げるのだった。
物音がしたので玄関のドアを開けてみると、目の前に変なのが居座っていた。
「お久しぶりね、義人君」
花壇の横に、巨大な花が咲いていた。桃色に染め上げられた花弁が幾重にも重なって出来た、それは見事な花だった。
そして一番の驚きは、そんな流麗な花の中心部から、上半身裸の女が生え伸びていたことだった。花弁の下から生えた葉の部分と同じ緑色の肌をした、これまた息を?むほど綺麗な美女だった。胸も大きかった。
その女が、こちらを見ながらニコニコ笑って、家主の男にそう話しかけてきた。知らない人の名前を呼びながら。
これが驚かずにいられるだろうか。
「私のこと、忘れたとは言わせないわよ。約束は守ってもらうんだから」
突然のことに驚く男に向かって、緑色の女が一方的に告げる。男の意識が回復したのは、それから暫く経ってからのことだった。
「……えっ、あの、どこかで会いましたっけ?」
まるで覚えがない。心当たりが無かった。そもそも、こんな奇特な格好をした知り合いはいない。
義人と呼ばれた男はその旨を正直に伝えた。しかしそれを聞いた植物の女は一切動じず、微笑みながら首を横に振った。
「いいえ、貴方は私にとても良くしてくれたわ。毎日毎日、私は貴方と一緒にいたの。貴方は忘れてても、私は全部ちゃんと覚えてるんだから」
「なんですかそれ……」
女の変質者紛いの発言に、男は背筋が凍り付くのを感じた。そんな男の恐怖を感じ取ったのか、女は「違うわよ」とクスクス笑ってから言葉を続けた。
「貴方をつけ狙ってたとか、追い回してたとか、そういうんじゃないわ。私は最初から、貴方の傍にいたんですもの。運命の赤い糸で結ばれていたの」
「なんですかそれ。余計怖いですよ。本当のことを教えてください」
「知りたい?」
緑色の女が花から身を乗り出して顔を前に突き出し、それは楽しそうに弾んだ声で問いかける。
その前から来る圧力に対し、男は思わず背を反らして首をすくめた。しかしすぐに好奇心が勝り、彼はその姿勢のまま首を縦に振った。
それを見た緑色の女がにこやかに笑う。
「教えてあげてもいいけど、その代わり条件があるわ」
「条件?」
「ええ」
緑色の女が頷く。男がそこに食いつく。
「教えてください」
「いいわよ」
緑色の女が頷く。男が生唾を飲み込む。
「私に貴方の世話をさせてほしいの」
「……え?」
男は一瞬、目の前のそれが何を言っているのかわからなかった。しかし彼が何か言おうとするよりも前に、眼前の女が次のアクションを起こした。
「まあ嫌って言われてもやるんだけどね」
「ちょっ」
そう言いながら、緑色の女が動きだした。太いツルを絡めて四本の脚を形作って立ち上がり、それを器用に動かして前に動き始める。
動けたんだ。男が純粋に驚く。下半身が花の中に埋もれているから、てっきりその場から動けないと思っていたのだ。
「女の子はね、好きな人のためなら何だって出来るのよ」
そんな男に向かって、花に食われた女がぐいぐい進んでいく。途中でそんなことを言いながら、それでも進軍スピードは変えない。
二人の距離が容赦なく縮む。近づく女を見て、反射的に男が脇に退く。それによってベランダから室内に通じる道が開かれる。
その道を、緑色の女が我が物顔で進んでいく。
「私、アルラウネのリップ」
そうして室内へ堂々侵入を果たした緑色の女が、その場で百八十度向きを変えて男と向き合いながら口を開く。いきなりのことに呆気に取られる男に向かって、女が再び言葉を紡ぐ。
「私の種族と名前よ。アルラウネのリップ。アルラウネが種族名で、リップが名前」
なるほど。ようやく男が納得する。それが彼女の名前なのか。
そうして素直に頷く男を見て、女――アルラウネのリップが微笑みながら言い放つ。
「よろしくね、義人君」
知らない男の名前だった。薄気味悪かった。
結局、男はリップに押し切られる形となった。しかし彼としてもリップの正体が知りたかったし、何より彼女が――不思議なことに――悪い人には見えなかったので、彼はリップの進入に対して必要以上に悪印象を持っていなかった。
ちなみに男とリップが出会ったのは午前八時。この後男に予定はなく、男はそれを素直にリップに告げた。
「つまり、今日は特にすることが無いってことね?」
「はい」
リップの確認に男が頷く。それを聞いたリップは口を閉ざし、顎に手を当てて考え込むポーズを取った。なおこの時、リップは既にリビングの一角に腰を降ろし、当たり前のようにそこに居座っていた。
「洗濯とか掃除とかは? もう終わったのかしら?」
図々しくも居場所を確保したリップが、遠慮することなく再度確認する。男は何故そんなことを聞くのか困惑しながらも、やはり素直に首を縦に振った。
「なるほど」
それを聞いたリップの顔が明るく輝く。何かいいことを思いついたような、輝かしい笑顔だった。
何がそんなに嬉しいのだろうか。男は逆に怖くなった。
「じゃあそれ、私が手伝ってあげる!」
直後、自身の顔を輝かせた理由を、リップ自ら明かしてきた。それはもう弾んだ声で、これ以上ないほど嬉しそうなテンションで家事の手伝いを告げてきたのだ。
男はますます怖くなった。なんでこの人はこんなにもやる気を漲らせているんだろうか。初対面なのにどうして?
いくら考えても、答えは一向に出てこなかった。
「洗濯機はあそこで、掃除機はあの隅ね。それで台所が向こうにあるから、まずは……」
そして考える余裕も無かった。リップが彼の眼前で、勝手に家事の手伝いを始めたからだ。しかも恐ろしいことに、この緑色の女はこの家の間取りはおろか、どこに何が置いてあるのかも全て把握していた。それこそ、まるでここが自分の家であるかのように。
指さし確認しながら間取りと道具の位置関係を再確認していくリップを見て、男は恐怖に身震いした。自分でもまだどこに何があるのか把握しきれていないのに、何故そこまで正確にわかるんだ?
今日これで何度恐れ慄いたかわからないが、怖いものは怖いのだ。
「ああ良かった。配置は全然変わってないのね。なんか安心した」
こいつはどうして、そんなことまで知っているんだ? にこやかに呟くリップを見ながら、男は彼女を家の中に入れたのを後悔し始めていた。もしかしたらこいつは、性質の悪いストーカーなのではないのか?
しかしそんな男の葛藤など、リップはお構いなしだった。
「さーて、始めましょうか」
胸元で両手を組んで手首を回しながら、リップがやる気満々な顔で告げる。彼女の下半身を構成している花と葉も、彼女のやる気に呼応してゆらゆらと揺れていた。
男はそれを見て、リップを止めることは最早不可能だと悟った。そして彼の懸念通り、リップは男の許可も取らずに作業を始めた。そこに割って入って無理矢理行動を中断させるだけの度胸は、男は持っていなかった。
一方、リップの動きには迷いが無かった。それは動き始めた時だけでなく、その後の家事の様子においても同様だった。
「〜♪」
男の眼前でリップが作業をこなしていく。余裕たっぷりに鼻歌を歌いながら、掃除と洗濯と皿洗いをテキパキ片づけていく。
そのアルラウネの動きは素人のものではなかった。それは言うなれば、同じことを何千回何万回と繰り返す中で体に染みついていった、「熟練の母親」特有の自然な所作だった。
そんな無駄のない立ち居振る舞いを見て、男は思わず感嘆のため息を漏らした。
「すごい……」
ため息のみならず、自然と言葉が口から出る。自分ではとてもあんな風には動けない。
その直後、リップが掃除機のスイッチを切る。次いで絡めて作ったツル脚の動きも止めてその場で静止し、男の方を向いて返事を寄越す。
「ありがと。褒めてくれて嬉しいわ」
楽しそうに笑いながらの返礼であった。その後リップはすぐ前に向き直り、再び掃除機のスイッチを入れる。脚替わりにしていたツルの束を器用に動かし、やはり慣れた手つきで床のゴミを吸い取っていく。既に食器は片づけ終わっており、遠くの方からは洗濯機の回る音が聞こえてきていた。
「あの、俺も何か手伝いましょうか?」
「え? ああ、別にいいわよ。全部私がやっておくから、貴方はそこらへんでゆっくりしてて」
男の出番は完全に無かった。手伝う隙も無かった。そして男が手持ち無沙汰で終わるのは、その後の昼食時でも同様だった。
「ねえ義人君、何かお昼に食べたいものとかある?」
「いや、特にこれと言ってないですけど」
「そうなの? じゃあ私が特別美味しいものを作ってあげるわね」
午前十一時。家事を一人で終わらせたリップが男に問いかける。男は控え目に答え、それを受けたリップが鼻息荒く宣言する。
そこに男が反応する。
「あ、あなたが作るんですか? じゃあその、俺も手伝い――」
「いいの、いいの。私が好きでやってることなんだから。義人君は王様みたいに、そこでどーんとくつろいでなさい」
しかしリップは、男を台所に行かせようとはしなかった。男に対し、何もせず寛ぐことを頑なに薦めてきた。そして実際に助けなど不要なほど見事な手さばきで、彼女は昼食を作り上げていった。
数分も経たないうちに、台所からかぐわしい匂いが漂ってくる。その匂いを嗅いで腹の虫を鳴らしながら――心は未だ多少なり警戒していたが、体は正直だった――男はより一層リップへの関心を強くした。
何故そんなに家事が上手いのか。何故この家の造りを把握しているのか。何故自分を知らない名前で呼ぶのか。わからないことだらけだった。
「はーい、義人君。お昼ご飯出来たわよー♪」
十一時三十分。おぼんを持ちながらリップが台所から戻ってくる。相変わらず上機嫌だった。男の世話をするのが愉しくて仕方ない、そんな感じのテンションだった。
リビングの真ん中に置かれたテーブルの前に座り、そこで無意識に眉間に皺を寄せる男の隣に、当然のようにリップが腰を降ろす。巨大な花が真横にふわりと鎮座し、リップの「花」の放つ爽やかな芳香が、押し出された空気に混じって男の鼻腔をくすぐる。
一瞬、男がドキリとする。脳に衝撃が走り、反射的に背筋を伸ばす。
その男の目の前に、リップがおぼんの上にあった皿を手に取って静かに置く。
「今日のお昼は焼うどんよ。遠慮しないで食べてね」
彼女の言う通り、皿の上には焼うどんが盛られていた。味を吸って変色したうどんの上で、鰹節がゆらゆら躍っている。おまけに出来立ての料理全体から湯気が立ち昇り、それが焦げた醤油の匂いと風味を共に昇らせ、男の嗅覚と味覚をこれでもかと刺激する。うどんに混じって顔を覗かせる人参やピーマンもまた、彩りを豊かにして食欲を増進させるのに一役買っていた。。
まさかこいつは、自分の家にあった食材を勝手に使ったのか? 料理名を聞いた直後に男がリップに抱いた不満混じりの懸念は、その実に美味そうなビジュアルと気配で完全に打ち消されたのだった。
「まあ、色々聞きたいこともあるでしょうけど。とりあえずはそれを食べてから話しましょう。早くしないと冷めてしまうわ」
そこに追い打ちをかけるように、リップが焼うどんを食べるよう催促してくる。それが切欠になり、男の意識は再び目の前の料理に向かった。
改めて見ると、本当に美味そうだった。見ているだけで涎が湧き出してくる。正直な話、男は今すぐにでもそれを食べたくてたまらなくなっていた。
何故かはわからない。とにかくそれが食べたかった。本能がそれを欲していた。
「いいわよ。全部食べても」
リップがそう言って、箸を差し出す。男は迷いなくそれを受け取り、躊躇なく湯気の昇る焼うどんの中にそれを突っ込んだ。
軽く掻き回した後、うどんを野菜ごと掴んで持ち上げる。そこで少し待って冷ました後、待ってましたとばかりに勢いよくそれを頬張る。
「――!」
刹那、男の脳味噌に電流が走った。次いで頭をハンマーで殴られたような、強烈な衝撃が彼を襲った。
美味いから驚いたのではない。いや、不味くはない。十分美味だ。しかしそれは、決してお高い料理店で出されるような、所謂「プロの味」ではない。だから彼は味に驚かされたわけではない。
男の頭を殴ったのは、それとは別の要因だった。
「なんで……」
咀嚼もそこそこに飲み込んだ後、男が呆然と呟く。それは自分でも驚くほどに、自分に「馴染む」のだ。
しっくりくる、と言うべきか。それは自分の好みにぴったり合致する味であり、そしてそれは簡単に出せる味ではなかった。単純に美味いというだけでは、この領域には決して踏み込めない。
それが、どうして。
「あなた、なんなんですか」
ギリギリと首を動かし、唖然とした顔で男がリップに問う。リップはクスクス笑ってそれに答えた。
「私はね、あなたのことならなんでも知ってるのよ」
満面の笑み。実に嬉しそうな笑顔だった。男はそれがただひたすら恐ろしかった。
「どうして私がそこまで知っているのか、知りたい?」
そんな男に、リップが再び声をかける。最初に会った時と同じ問いだ。
男は即座に頷いた。しかしリップはマイペースだった。
「ちゃんと教えてあげるけど、まずはそれを全部食べてからね」
そう言って、リップがツルの一本を動かして焼うどんを指差す。男の視線もそこに向く。
「大丈夫。毒は入ってないから」
優しい声でリップが付け加える。好奇と恐れと空腹の間で葛藤を抱えた男が、生唾を飲み込んで二の足を踏む。
「信じて」
再び、リップが言葉を放つ。優しく静かで、そして力強い言葉だった。
それを聞いた瞬間、全く唐突に、男はそれを信じてみようと思った。
理由はわからない。ただ信じられると、肉体が反応したのだ。
そして男は、その肉体の直感に従った。
「……」
無言で焼うどんを食べ始める。一度動き出したら止まらない。どんどん箸の動きが速くなっていく。
もう我慢の限界だった。空いた手で皿を掴み、リップの視線もお構いなしに、ガツガツと貪っていく。マナーも何もない、飢えを満たすためだけの野蛮な食事風景。汚いと言われても仕方のない食べっぷりである。
それをリップは、穏やかな顔で見守っていた。咎めることもせず、その様を目に焼きつけた。
「いい子、いい子」
その最中、リップがか細い声で漏らす。それが男の耳に届くことは無かった。
男がそれを食べ終えた時、時刻はちょうど十二時を回っていた。ちょっと早かったかしら。掛け時計を見ながらリップが呟く。男の方は今しがた食べた料理の美味さに驚き、その余韻に浸るばかりであった。他のことを考える余裕は無かった。
「確か今日はこの後、特に予定は無いのよね?」
そこにリップの質問が飛んで来る。我に返った男はすぐにリップの方を向き、小さく首を縦に振る。
「それより」
直後、男が思い出したように声を上げる。今度はそれにリップが反応し、彼に注目する。
アルラウネの優しい視線が突き刺さる。その目を見つめ返しながら、男が意を決して口を開く。
「あなたは、誰なんですか」
暫しの沈黙。答えはすぐに返って来なかった。リップは何も言わず、黙って男を見つめていた。
その眼差しはどこか悲しげだった。
「本当に、知らないのね」
やがて打ち沈んだ声でリップが言う。まるで何も知らない自分が悪いかのような、本気で悲しんでいる声だった。
初めに感じた戦慄が再び鎌首をもたげる。しかしまだ全て聞きだしたわけではない。腹を括り、男が尋ねる。
「あなたは、俺のなんなんですか」
「……」
今回もまた、すぐに答えは返って来なかった。リップは何も言わず、代わりに眉間に皺を寄せていた。打ち沈んだ、重々しい表情だった。
それでも男が辛抱強く待っていると、やがてリップが口を開く。我慢比べは男に軍配が上がった。
「私は貴方の……友達よ」
途中、言葉を選ぶような沈黙が挟まれた。それが男に不気味な印象を与えた。
リップが続ける。
「家族ぐるみの付き合い、と言った方がいいかしら。貴方の家族が私の家の隣に引っ越してきてから、私はずっと貴方達と関わってきたの。一緒に遊んだり、お話ししたりとかね」
「あなたが?」
「ええ、そうよ。貴方のお父様とお母様……五郎さんと美代子さんとも親しくしていたし、もちろん貴方、義人君とも仲良くしていたわ」
誰だそれは。さっきから知らない人間の名前ばかり出てくる。
それは全部あなたの妄想なんじゃないのか。大真面目な顔で脳内設定を曝け出す緑色の女という眼前の絵面を前に、男はたまらず冷や汗をかいた。
「いいえ。全部本当のことよ。私は嘘は言っていないわ。貴方は私を姉と慕ってくれた。魔物の私を受け入れてくれた。全部本当のことなの」
心を読んだかのように最高のタイミングで、真剣な面持ちのままリップが告げる。男の顔が引きつる。
「姉……?」
「ええ、そうよ」
何かを期待するように、リップが力強く頷く。男も男で、自分が呟いたばかりの言葉を何度も反芻する。
「姉……俺に……」
なんだろう。何かが引っかかる。
全く記憶に無いはずなのに、なぜか心に響く。
それ以上踏み込んではいけない。生物としての本能が叫ぶ。これ以上奴の術中に嵌ってはいけない。
「俺に、姉……姉替わりの人が……?」
本当に心当たりがあるのか? それとも「そういう設定」に従うよう誘導されているだけなのか?
わからない。心臓の鼓動が速くなる。
真実が知りたい。
「あなたは」
欲求のままに口を開く。しかしその直後、強烈な眠気が男を襲った。
「……くあ……」
反射的に欠伸をする。大きく口を開け、目一杯酸素を脳に取り込む。
視界がかすむ。思い出したように体が重くなる。
「あれ、なんでだろ」
いきなり疲れが出てきた。訳も分からぬまま、男が目をこする。
「あんなことが起きたばかりだもの。疲れて当然だわ」
そこにリップの言葉が飛んで来る。思考が鈍った男の脳は、彼女の言葉の意味を理解できなかった。
「あんなこと……なんです……?」
「いいのよ。今は何も考えないでいいの。まずは体を休めて、リラックスしましょう」
リップは男の問いに答えなかった。代わりにツルを動かしてそれぞれ男の背中と手足と額に巻き付け、その場に寝かそうとする。
「ちょ、ちょっと」
「いいから。少し眠りなさい。考えすぎても体に悪いわ」
突然の拘束に驚き抵抗を試みる男に、リップが構わず睡眠を提案する。そして男の反抗を無視して、力任せに男を横にさせる。魔物娘の膂力は、大抵の場合人間よりも上であった。
「大丈夫。起きるまで私が傍にいてあげるから。もちろん変なことはしないわ。約束よ」
優しい声でリップが告げる。しかし背中と床を無理矢理くっつけられた男は、それを聞いて心休まることは無かった。
あるのは薄気味悪さと警戒心だけだ。男の眉間に自然と皺が寄る。
「気味悪い?」
その時、機先を制するかのようにリップが問いかける。先制攻撃を受けた男は一瞬面食らったが、すぐに渋い顔に戻って小さく頷いた。
「怖いです」
「そう。他には?」
「……信用できません」
「――そうよね」
それを聞いたリップが、また別のツルを持ち上げる。それを見た男が拘束されたまま体を強張らせる。
リップはその男の額を、件のツルで優しく撫でた。丸く冷たいツルの先端が、皺の寄った男の額をつうっと滑る。
男はまたも驚いた。襲われると思ったからだ。そしてその驚きのまま、男はリップに視線をやった。
「いい子ね。正直でよろしい」
「え――」
リップの顔は寂しさに翳っていた。悲しみと孤独に打ちひしがれたような、痛ましい面持ちをしていた。
「いいのよ、怖がっても。こんな状況で怖がるなっていう方が難しいもの」
静かな――そして震える声でリップが言った。男はどう返せばいいかわからず、ただ沈黙した。
リップが言葉を続ける。
「でも、これだけは信じて。私は貴方に危害は加えない。嫌らしいこともしない。襲ったりもしない。約束よ」
「じゃあ、何をするんです?」
「守ることよ」
男の問いにリップが答える。それまでの優しいそれとは打って変わった、力強い声色で発せられたものだった。表情もまた変わり、筋肉を無理矢理引き締めて決意に満ちた顔を見せる。そうして百八十度変転した雰囲気を前に、男が思わず息をのむ。
一方でその強いトーンのまま、リップが重ねて言った。
「貴方を守りたい。貴方の支えになりたい。貴方と一緒にいたい」
彼女は本気でそう思っていた。感情が顔に表れていた。ニコニコ笑う余裕などない。
「私はどうなってもいい。ただ貴方を助けたい。それだけなの」
その本気は、男にも伝わっていた。彼はそれを理屈ではなく心で感じ取っていた。同時にそれと同じものをずっと前に感じたことがあると、朧気ながら思ってもいた。一方で何故そんなことになるのかと、不思議に思う自分もいた。
だがそれに関して、男が結論を出すことは無かった。それまで小康状態にあった眠気が、ここに来て本気で牙を剥いてきたのだ。
「ああ……」
もっと聞きたいことは山ほどあるのに。襲い来る睡眠欲の前に、男の体はいとも容易く白旗を上げた。
全身の感覚がなくなる。瞼が重くなり、意識が遠のいていく。
「いいのよ」
微かにリップの声が聞こえてくる。優しい声。
いつもの優しいリップの声。
「私がついてるわ。眠りなさい、義人」
「うん……」
懐かしい。とても懐かしい。
記憶の蓋が僅かに開く。過去の残滓が僅かに漏れ出し、言葉となって体の外に現出する。
「おやすみ、姉さん……」
それが眠りにつく前に発した、男の最後の言葉だった。それを聞いたリップは目尻に涙を溜め、静かに寝息を立てる男の頬をツルでそっと撫でる。
「おやすみ、義人」
溢れ出す感情を抑え込むように、リップはそれだけ呟いた。
リップのお隣に橋本家が越してきたのは、今から半年前のことだった。父の五郎、母の美代子、そして息子の義人の三人家族だった。
橋本一家は魔物娘に偏見を持たないタイプの面々であり、お隣さんのリップとはすぐに仲良くなった。アルラウネのリップもまた、彼ら三人家族と仲良くなれることを喜ばしく思っていた。余程のことが無い限り、人間に悪感情を抱く魔物娘は存在しない。
一人息子の橋本義人とは、特に親密な関係になった。流石に出会ってすぐに恋人同士にはならなかったが、それでも二人が実の姉弟のような間柄になるのに、大して時間はかからなかった。
「姉さん、今日のお昼は?」
「聞いて驚きなさい? なんと貴方の大好きな焼うどんよ!」
「本当に? やった! 姉さんの焼うどん大好きなんだ!」
「もう、おだてても何も出ないわよ?」
休日になると、義人は当たり前のようにリップの家にお邪魔した。そこで二人仲良く昼食をとり、その後家で遊んだり、時には一緒に買い物にでかけたりして午後を過ごし、日が沈む頃に自分の家に帰る。知り合ってたった一週間で、義人の行動パターンは完全に固定された。
「姉さんおはよう! また来ちゃった!」
「うふふ、いらっしゃい義人君。今日もよろしくね?」
「うん!」
リップも義人も、それをすんなり受け入れた。顔を合わせることに飽きたり、嫌気が差したりすることもなかった。寧ろ二人とも、同じ時間を過ごせることを喜ばしく感じていた。そして義人の両親もまた、この息子の「お出かけ」を容認していた。
「お母様、今日はお世話になりますわ」
「いいのよ。いつも義人がお世話になってるんだから。今日はゆっくりしていってちょうだいね」
そして時には、リップが橋本家にお邪魔することもあった。そこでリップは一家から暖かい歓待を受け、四人揃って微笑ましく充実した時間を過ごした。リップが食材を買い込んで橋本家の冷蔵庫にしまい込み、後でそれを使ってリップが橋本一家に手料理を振舞うことも一度や二度ではなかった。
まさに家族ぐるみの付き合いだった。人間の家族と一人の魔物娘が手を取り合い、共に幸せの世界を築き上げていった。
「旅行?」
「うん。次の週末に、皆で旅行に行くことになったんだ」
だから義人は、自分達が家族旅行に出かけることも正直にリップに伝えた。学校の同級生や担任には伝えていない。リップだから話したのだ。そして義人はそこで、リップも一緒に来ないかと誘いもした。これも相手がリップだからこその行動だった。
しかしリップは、それを謹んで辞退した。家族のことを思っての決断だった。
「いつも一緒にいてばかりじゃ申し訳ないわ。たまには家族だけで楽しんでいらっしゃいな」
「えー? でも……」
「いいから。言う事聞きなさい。お姉さんの言う事聞けないの?」
「うう……」
義人は完全にリップの尻に敷かれていた。結局彼は、敬愛する姉の言葉に従った。リップが断って来たことを知った義人の両親も、素直にそれを残念がった。そもそもリップを一緒に連れて行こうと提案したのは、義人の両親の方だった。
しかし無理強いするわけにもいかない。家族は当初の計画を断念し、そのまま三人だけで旅行に行くことにした。そして出発当日、リップは一家を乗せた車を、手を振って見送った。
翌日、橋本家の車が事故に遭った。信号無視をした別の車に追突されて起きた事故だった。
五郎と美代子は即死。義人は意識不明の重体となった。
数日後、奇跡的に、義人は意識を取り戻した。しかし目覚めた代償として、彼は記憶を失った。
日常生活を送れるだけの最低限の知識は有していた。しかしそれ以外の事を、義人は全て忘れてしまった。
自分の名前。自分の年齢。両親の名前。通っていた学校。交友関係。家。
アルラウネ。
何もかも。
橋本義人は、闇の中で独りとなった。
この時、魔物娘が人間の後見人になることは法的に認められていなかった。まだそこまで理解は進んでいなかった。
だからリップは自主的に来た。そして立ち退くつもりもなかった。今の彼を守れるのは自分だけだと、彼女は強く思っていた。
「大丈夫だからね」
静かに寝息を立てる義人の頭を撫でながら、リップが小さく呟く。
「絶対、姉さんが守ってあげるからね」
決意を新たにするように、一語一語噛み締めるように言い放つ。
リップの眉間に皺が寄る。覚悟が彼女の体を強張らせる。
その時、ふと欲望が顔を覗かせる。力を込めた反動で、本心が理性の底から押し出されて表に出る。
「でも、もし、全部思い出したら……」
一緒に過ごす内に芽生えた感情。
魔物娘と人間。ある意味では当然の帰結。
姉弟ではなく、男女として――。
「……なんてね」
魔物娘としての本能を押し戻しながら、リップが呆れたように呟く。自分の中で肉欲よりも友愛の情が優先されたことに、我ながら驚きを覚える。
その時、寝ぼけた義人が手元に来たリップのツルを優しく掴む。一瞬リップはハッとなり、その後微笑みを浮かべていつもの調子を取り戻す。
――ああ、やっぱりこの子は大切な弟だ。
「おやすみなさい、義人」
慈愛を湛えた――そして一抹の寂しさを含んだ笑みを浮かべながら、リップはか細い声で告げるのだった。
18/03/07 21:25更新 / 黒尻尾