第七話
「もう心配しなくていいの」
二人の過去が語られた後、間髪入れずにヴァイスの甘い声が響く。この時シルバとレモンは――空気を読んで――既におらず、ヴァイスとミラとクランだけが、その甘ったるい空気に包まれた部屋の中に佇んでいた。
そして背後からミラを抱き締めつつ、ヴァイスが優しい声で諭す。
「ここでなら全てが許される。王と従僕も、母と息子も、全て平等に愛し合うことが出来る。何も恐れなくていいの」
「……」
ミラの体が一瞬強張る。クランは何も言い返さず、ただ椅子に座って俯いたままだった。
そんな二人を交互に見ながら、ヴァイスが続けて口を開く。
「だからもう抵抗しないで。全てを受け入れて、快楽に身を委ねるの。魔力の奔流をその身に浴びて、私と同じ存在になるのよ」
「それは……」
過去語りの間に体力を回復したミラが、渋る声を発する。それから彼女は恐る恐ると言った感じで顔を上げ、目の前にいるクランをそっと見つめる。
配下の視線に気づいたクランが顔を上げる。二人の視線が重なり、揃って顔を真っ赤にする。
二人の初心な反応を見たヴァイスが、クスクス笑ってクランに話しかける。
「王子様はどうなの? この騎士様と恋仲に戻りたい? それとも、いつも通りの関係でい続けたい?」
「えっ」
いきなり問われたクランは狼狽した。しかし少しの逡巡の後、視線をヴァイスに移し替えてクランが答える。
「……戻りたいです」
短いが、確かな意志の秘められた回答だった。ヴァイスは満足そうに頷き、ミラを抱き締める力を強める。
ミラの体が不安と恐怖で再び強張る。そのミラの耳元で、ヴァイスが囁く。
「あなたはどう? 愛する王子様と、もっと気持ちよくなりたい?」
「私は……」
卑怯だ。
そう言われて、拒絶できるわけがない。
「私のことは好きなだけ軽蔑してくれて構わないわ。私はただ、あなた達を元の鞘に収めてあげたいだけなの。そのためならなんだってするわ」
ミラの心の声を見透かしたかのように、ヴァイスがミラに言った。
ごくり。騎士が生唾を飲み込む。クランの視線がミラに刺さり、二人の眼差しが再び重なる。
「僕はしたい」
なおも戸惑う騎士に、王子が率直な言葉をぶつける。
ヴァイスに操られての発言ではない。自分の、心からの言葉である――ミラの痴態とヴァイスの魔力に中てられた結果であることは否定しない。
そしてミラもまた、その心が激しく揺らぎ始めていた。
「許されるなら、僕はもう一度、ミラと一つになりたい」
「王子……」
ああ、やめてください。
そんな目で私を見ないでください。
燃え尽きたはずの心が再び燻り始める。封じ込めたはずの欲望がぬたりと起き上がる。
「僕は、あなたが好きです」
椅子から立ち上がり、クランがミラの下へ歩み寄る。ベッドの縁に片膝をかけ、己の顔をミラの顔に近づける。
「あなたをもう一度、僕のものにしたいです」
愛する王子の気配を間近で感じる。クランの体温とクランの吐息を、その裸身で受け止める。
再び自分を求めてくれている。そのことへの悦びが体中を満たしていく。それだけで絶頂してしまいそうになる。
「クラン様……っ」
心の壁が音を立てて崩れ去る。なけなしの理性が崩壊し、純粋な想いだけが後に残る。
「私も……ほしいです」
その想いを言葉に乗せる。部下の返事を聞いたクランが顔を輝かせ、ミラの背後にいたヴァイスが愉しげに笑う。
「お互い、心は決まったみたいね」
そして楽しげに問いかける。クランはヴァイスを見たまま、ミラは前を向いたまま、揃って首を縦に振った。ミラのそれはクランに比べて若干小さく、まだ躊躇いのある動きだった。
それでいい。むしろそれでこそやりがいがあるというもの。ヴァイスは心の中でうそぶいた。そして彼女はミラを抱き締めつつ、その耳元で一つの宣言をした。
「それじゃあ、始めましょうか」
何を始めるのか、ヴァイスはわざわざ口に出すことはしなかった。ミラとクランも、あえてそれを尋ねたりはしなかった。
その代わり、クランが不安そうな表情でヴァイスとミラを交互に見た。ヴァイスは穏やかな顔で「何も心配しなくていいわ」と告げ、それに同調するようにミラも頷いた。
「ただその、優しく頼む」
しかしてその直後、ミラが前を見ながらヴァイスに注文をつける。いきなりそう言われたヴァイスは一瞬目を点にした後、すぐに表情を崩して「大丈夫よ。痛くなんてないわ」と声をかけた。
「絶対気持ちよくしてあげるから。約束よ」
そしてそう続けた後、ミラの裸身に手を這わせる。くびれた腰や筋肉で強張った腕を、サキュバスの白く細い指が滑るように這い回っていく。
思わずミラが短く嬌声を上げる。それを聞いたヴァイスがクスクス笑う。
「あなたって、結構感度いいのね♥」
「うるさい」
ミラがふてくされた声を出す。それさえもヴァイスは笑ってやり過ごす。つられてクランも小さく笑みをこぼしたが、ミラの視線に気づいてすぐに笑みを引っ込めた。
「じゃ、いくわよ」
当のサキュバスは、そんな彼女の心情などお構いなしだった。ヴァイスは前置き一つ置いた後すぐに全身から魔力を放ち、それをゆっくりとミラに注ぎ始めた。
「あっ……あ――?」
すぐにミラが異変に気づく。体が熱くなるのを感じ、そして即座にヴァイスが計画を実行に移したことを理解する。
「お、お前、やるならちゃんとやると事前に……」
「無駄は省略♥」
笑顔で言い切ったヴァイスが、漆黒のオーラを纏った両手で乳房を鷲掴みにする。
「ひん――」
豊かに実った二つの乳が揉みしだかれ、王子の前でぐにぐにと形を変える。
直後、ミラが絶叫する。
「あああああああああああああん♥」
歓喜の雄叫びだった。快楽が全身を駆け巡り、理性を殺して獣性を剥き出しにする。
もっと欲しい。もっと気持ちよくなりたい。
もっと貪りたい。
「いい、いいよぉ、いいよぉ♥ もっとちょうだあぁぁい♥」
大口を開け、狂ったように快感を要求する。そこに騎士の面影は無かった。
そこにいたのは、肉欲によがり狂う下卑た獣だった。
「おっぱい♥ おっぱい♥ もっと揉んでっ♥ つねって♥ めちゃくちゃにしてえぇぇぇっ♥」
抑圧してきた分、反動も大きかった。そもそも、自ら幸せを求めて始めたことだ。隠す必要も無い。唯一の誤算は、本気になったサキュバスの送り付ける快楽の総量が桁外れに凄まじかったことだった。
どうでもいい。それで困ることもない。むしろ喜ぶべきだ。これで変われるのだ。
「おねがい♥ おねがい♥ おねがいしましゅううぅぅぅ♥」
故にミラは恥も外聞も投げ捨て、欲望のままに吼え猛った。そうして己の感情を解き放つミラの姿を、クランは美しいと感じた。
「おっぱいだけでいいのかしら?」
「たりないっ♥ もっといっぱい、いっぱいさわってくださいぃぃっ♥」
「了解♪」
叫ぶミラに従い、ヴァイスが責め口を変える。太ももを撫でる。腹筋の割れ目を指先でなぞる。二の腕を舌で舐める。顎のラインを人差し指でさすり、唇を擦る。
全てがミラの喜びに変わる。
「くりゅうっ♥ ぜんぶきもちいいっ♥ くりゅっちゃうぅぅぅ♥」
歓喜の涙を流してミラが絶叫する。全身を愛撫され、ミラの喉から地獄の咆哮にも似た叫びが放たれる。
ぷるん、と、指の離れた唇が震える。それさえも天国の喜びと化す。
「しゃいこぉ……♥ しゅてきでしゅう……♥」
息も絶え絶えにミラが言う。呂律は回っておらず、小刻みに痙攣を続けるばかりだった。ヴァイスの愛撫はまだ止まっていなかったが、この時のミラは最早、それら全てに反応するだけの余力を残していなかった。
ただ狂い果ててなお襲ってくる快楽の波を受けて、小刻みに震えるのみだった。その顔には笑みが貼りつけられ、涎と涙でぐちゃぐちゃに汚れていた。
「ああ……いやあ……♥ おうじしゃま……みにゃいでぇ……♥」
そこでようやくクランの存在を思い出す。まともに働かない思考を総動員し、それだけを王子に対して懇願する。
しかしミラの体は残酷な程正直だった。サキュバスから与えられる快楽を貪欲に受け入れ、その全てに対して新鮮な反応を返す。仮面の騎士はもはや自分を取り繕うことすら放棄していた。
「……ッ」
そんなミラが、クランにとってはたまらなく美しく見えた。エロスの権化。自分だけの淫猥な女神様。性欲に溺れる堕落の女。危険で背徳的な香りがクランの心をくすぐっていく。
股間に血が集まる。己の半身が硬度を増していき、ズボンの上から存在を主張する。全身が熱く燃え上がり、心臓が早鐘を打つように鼓動を速めていく。
しかしその一方で、クランの心の中に黒いモヤモヤが生まれていく。
「ミラ……」
ミラが自分以外の誰かの手で喜ばされている。自分じゃない誰かが、勝手にミラを汚している。
ムカムカしてくる。胃の辺りがキリキリと痛んでいく。許せない。心の中の何かが叫ぶ。
その感情がいったい何なのか。それを探る前に、クランは行動に出た。
「ミラ!」
唐突に彼女の名を呼ぶ。いきなり名を呼ばれた騎士が、驚きながらもこちらを見る。
そんなミラに、クランが自分の顔を近づける。
そしてクランはそのまま、力任せにミラの唇を奪った。
「んっ!?」
「ンむ……」
驚くミラを無視して、クランが無理矢理彼女の口内に舌をねじ込んでいく。己の舌で騎士の歯茎を舐め、歯列をなぞり、舌同士を絡めて唾液を交換する。
「ちゅ、くちゅ、ちゅうっ……」
「あん、むう、じゅるるっ……」
密着した口の端から涎が漏れる。クランはそれでも止めず、ミラの頭部を両手で挟み込むようにがっしり鷲掴み、強引なディープキスを続けていく。
途中、クランとヴァイスの視線が交錯する。その信念に満ちた王子の眼差しを見たサキュバスは、即座に彼の心を知った。
「ミラは僕のものだ」
クランは目線でそれだけ言って、再びミラとの行為に没頭する。おまけに感覚を上書きしていくかのように、それまでヴァイスが触ってきた所をもう一度、重点的に触れていく。
「じゅる、ぷは……ミラ、ミラぁ……あむっ……!」
一旦口を離し、愛する者の名を呼び、再度口を塞ぐ。王子の求愛行動は苛烈だった。そしてミラもまた、そんな王子の縋りつくような愛撫を次第に受け入れ、自分から舌を伸ばしていった。
「おうじ、おうじぃ……♥」
「ミラ、君は僕のものだよ……浮気なんて、くちゅ、許さないからね……」
「はいっ、はいぃ……! わたしは、ぜぇんぶ、おうじのものでぇしゅ……♥」
かつての逢瀬を思い出したかのように、騎士と王子が熱いベーゼを繰り返す。この時二人の目に、もはやサキュバスは映っていなかった。
「はいそこ、二人だけで盛り上がらないの」
しかしそこでへこたれるヴァイスではなかった。止めていた手を再度動かし、ミラの裸体をまさぐっていく。前からクラン、後ろからヴァイスに責め立てられ、ミラはそれまで以上に強烈な快感に苛まれた。
「ひっ、ひっ、ひぃん、ひんっ♥ ひやあああっ♥」
もはや言葉も出せなかった。悦びと苦しみの混ざり合った音を、ただ口から吐き出すしかなかった。
王子とサキュバスは止まらない。
「もうやめてほしい?」
ヴァイスが囁く。ミラが首を激しく横に振る。
もっと欲しい。欲望の炎はもう消せない。
「これ以上続けたら、本当に堕ちるわよ」
攻め手を緩めぬまま、再度語りかける。
「それでもいいの?」
わかりきったことを聞く。それでも聞かずにはいられない。
ミラの動きが止まる。
「おねがいします……♥」
自分の意志で屈服させる。
大事なのは、自分自身で決めさせることだ。
「わたしを、おんなに……させてください……♥」
そして今、ミラは心から堕ちた。
「……よく言えました」
ヴァイスの望んだ瞬間だった。
「その願い、かなえてあげる♥」
ヴァイスがニヤリと笑い、両手に込めた魔力をさらに強める。そして右手を股間に、左手を額に押し当て、上と下から魔力を押し流す。
熱い奔流が全身を駆け巡り、マグマの如き粘り気を持った熱が心を壊す。
「ひっ――♥」
刹那、ミラが絶叫する。それまでで一番大きな、魂の咆哮だった。
絶叫と共に体が生まれ変わっていく。体内を這う魔力の後を追うように体色が青白く変色し、やがて皮膚を突き破って角が現出する。
「あっ♥ ひい♥ ひィん♥」
小さく生えた一対の角。その解放感が新たな絶頂を呼ぶ。外に出たばかりの敏感な角が、外気の刺激を受け更なる絶頂を呼び覚ます。
イキっぱなしである。絶頂の連続がミラの体を激しく揺さぶり、魔物と人間に挟まれたままガクガクと体を震動させる。
「ミラっ!」
見かねたクランが思わずミラを抱き締める。それさえも刺激となり、ミラの陰唇から愛液が滝のように溢れ出す。
直後、ミラはクランを抱き返した。愛の記憶が彼女を突き動かし、自分を案じてくれるたった一人の恋人を抱擁した。脳味噌がドロドロに溶けてもなお、彼女はクランのことを忘れてはいなかった。
彼と交わした温もり。その記憶は、堕落と快楽では決して拭い去ることの出来ない強固なものだった。
「クラン、しゃまっ♥ わたし、わらひっ♥」
「いいよミラ! 可愛いよミラ!」
全身でミラを受け入れる。王子の許しを得たのを皮切りに、今度は背中から白い翼が飛び出してくる。
まだ完全に成長しきっていない、小さな翼。それでも感度は抜群だった。新しく生まれた器官のもたらす刺激に、ミラが悦びの悲鳴を上げる。彼女を安心させようとクランが抱く力を強め、彼女の胸の谷間に顔を埋める。
「堕ちてっ! もっと堕ちて! ぼくと一緒に、幸せになってっ!」
クランが懇願する。彼女に恋に落ちて以来、唯一願ってきた想いを、力の限り言葉にする。
「はい! はいっ! おちます♥ 堕ちましゅっ♥ あなたを一生、しあわせにしましゅうぅぅぅっ♥」
涎を振りまきながらミラが叫ぶ。彼女もそれを望んでいた。
今まで叶うことの無かった夢。それだけが望みだったのに。
「ふたりで、しあわせ、にっ、なりゅのぉぉぉっ♥」
鋼の意志でミラが吠える。それに応えるように、ずるりと尻尾が生える。
突然の刺激に体が飛び跳ね、尻が浮き上がる。
「はい、トドメ」
駄目押しとばかりに、ヴァイスがその尻尾を掴む。
文字通り、それが止めの一撃となった。
「ひん――♪」
ミラの放った嬌声が、途中で途切れる。半ばまで発音したところで意識が途切れ、そのまま仮面の奥で目を閉じ、その場に倒れ込む。
「え、ミラ? ミラ!?」
突然のことにクランが動揺する。倒れ込んだミラの上体を起こし、自らに寄りかからせながら体を揺する。
「ねえ、起きてよミラ! 死んじゃやだよう!」
両目を涙で溢れさせながら、クランが必死に愛する人の名を呼ぶ。クランはそれまでの乱れようが嘘のように静かになったまま、起きる気配を見せない。
「ミラ! ミラぁ!」
「……ちょっとやりすぎちゃったかしら……」
そして一向に目を覚まさないミラと、そんなミラをこの世の終わりを迎えたような表情で必死に揺さぶるクランを交互に見ながら、ヴァイスは気まずそうに呟いた。
ミラが目を覚ましたのは、それから一分後のことだった。彼女が倒れたのはヴァイス曰く「幸せ過ぎて頭がパンクした」かららしい。
「お目覚めね」
意識を覚醒させたミラに、ヴァイスが声をかける。この時ミラはクランに膝枕されており、ヴァイスはそんな二人の姿をベッドの横に立って眺めていた。
そしてヴァイスは起き上がろうとするミラを手で制し、そのままでいるよう告げてから言葉を続ける。
「ごめんなさい。ちょっとやりすぎちゃったわ。もう体に問題は無いでしょうけど、何かあったらすぐに私のところに来てちょうだいね」
ヴァイスはそれだけ言って、ドアの方まで歩き始めた。思わずクランが「待ってください」とそれを止めるが、ヴァイスは歩みを止めず、手を振りながら二人に言った。
「私の事はいいから、ちゃんと二人で幸せになりなさい」
ドアが勝手に開き、ヴァイスが外に出ると同時に、また音を立てて閉じていく。ミラとクランは、ただそれを黙って見つめるしかなかった。
まさに一瞬の出来事だった。主犯のサキュバスが消えた後も、王子と騎士は暫くの間呆然とするばかりだった。
「んっ……」
ミラが己の体の違和感に気づいたのは、それから少し経ってのことだった。まず背中にむず痒い感覚を覚え、痒みの根元に向けて手を回し、そこで初めて体から翼が生えていることを知る。
次にミラはクランの膝から離れ、上体を起こしながら同じむず痒さを感じる頭と腰に手をやった。案の定、そこには小さいながらも角と尻尾があった。人間には決して生えていないであろう、悪魔特有の器官である。
「ああ……」
自分は変わってしまった。堕落してしまったのだ。そんな想いが胸の内を去来する。しかしその次に湧き上がってきたのは、悦びであった。罪悪感ではない。
堕落し、生まれ変わったことへの喜びだけが、全身を駆け巡っていった。闇に染まれたことが嬉しくて、自由になれたことが嬉しくて、自然と笑みがこぼれていく。
「うふふ、あははっ」
両手を広げ、顔を天に向け、感情の赴くままに笑い声をあげる。隣に王子がいることもお構いなしに――むしろ見せつけるかのように、自分の喜ぶ姿を堂々と晒し上げる。
「ははははっ! あはははっ!」
延々と笑い続ける。壊れた人形のように、ひたすらに笑い続ける。
否、ミラは壊れていない。壊れていたのはミラのいた世界だ。ミラとクランを取り巻いていた世界の全てだ。
ミラはその世界から解放された。王子と共に真の自由を得た。それが嬉しくてたまらなかった。
「はー、はーっ……」
そうしてひとしきり笑った後、ミラは手を降ろしてクランの方を向いた。全身で向き直り、なおもベッドに座るクランを両目で見据える。
クランは穏やかな表情を見せていた。恐れることも蔑むこともなく、いきなり目の前で笑い出した女をただ慈愛に満ちた顔を見守っていた。
「ミラ」
それどころか、クランは両手を広げ、自分からミラを受け入れようとした。
「おいで」
「――♥」
ミラもまた何も言わず、倒れ込むようにクランの胸元に飛び込んだ。小さく暖かい少年の矮躯に全身を預け、ミラはリラックスした子猫のような声を上げる。
「えへへ、クラン様、クランさま♥」
「もう、甘えん坊なんだから」
自分の胸元に頭を置き、気持ちよさそうに甘え声を上げる仮面の騎士を見下ろしながら、クランが穏やかに言い放つ。袂を分かつ前に幾度となく行ってきたじゃれ合い。それを今、往時を懐かしむように再開する。
それを咎める者は誰もいない。堕落を責める者も誰もいない。
堕ちて初めて、二人は自由になれたのだ。
「ずっと一緒だよ、ミラ」
「はい♥ どこまでも一緒です、クラン様♥」
王子と騎士が顔を向けあい、どちらからともなく笑いあう。
二人は今、とても幸せだった。
二人の過去が語られた後、間髪入れずにヴァイスの甘い声が響く。この時シルバとレモンは――空気を読んで――既におらず、ヴァイスとミラとクランだけが、その甘ったるい空気に包まれた部屋の中に佇んでいた。
そして背後からミラを抱き締めつつ、ヴァイスが優しい声で諭す。
「ここでなら全てが許される。王と従僕も、母と息子も、全て平等に愛し合うことが出来る。何も恐れなくていいの」
「……」
ミラの体が一瞬強張る。クランは何も言い返さず、ただ椅子に座って俯いたままだった。
そんな二人を交互に見ながら、ヴァイスが続けて口を開く。
「だからもう抵抗しないで。全てを受け入れて、快楽に身を委ねるの。魔力の奔流をその身に浴びて、私と同じ存在になるのよ」
「それは……」
過去語りの間に体力を回復したミラが、渋る声を発する。それから彼女は恐る恐ると言った感じで顔を上げ、目の前にいるクランをそっと見つめる。
配下の視線に気づいたクランが顔を上げる。二人の視線が重なり、揃って顔を真っ赤にする。
二人の初心な反応を見たヴァイスが、クスクス笑ってクランに話しかける。
「王子様はどうなの? この騎士様と恋仲に戻りたい? それとも、いつも通りの関係でい続けたい?」
「えっ」
いきなり問われたクランは狼狽した。しかし少しの逡巡の後、視線をヴァイスに移し替えてクランが答える。
「……戻りたいです」
短いが、確かな意志の秘められた回答だった。ヴァイスは満足そうに頷き、ミラを抱き締める力を強める。
ミラの体が不安と恐怖で再び強張る。そのミラの耳元で、ヴァイスが囁く。
「あなたはどう? 愛する王子様と、もっと気持ちよくなりたい?」
「私は……」
卑怯だ。
そう言われて、拒絶できるわけがない。
「私のことは好きなだけ軽蔑してくれて構わないわ。私はただ、あなた達を元の鞘に収めてあげたいだけなの。そのためならなんだってするわ」
ミラの心の声を見透かしたかのように、ヴァイスがミラに言った。
ごくり。騎士が生唾を飲み込む。クランの視線がミラに刺さり、二人の眼差しが再び重なる。
「僕はしたい」
なおも戸惑う騎士に、王子が率直な言葉をぶつける。
ヴァイスに操られての発言ではない。自分の、心からの言葉である――ミラの痴態とヴァイスの魔力に中てられた結果であることは否定しない。
そしてミラもまた、その心が激しく揺らぎ始めていた。
「許されるなら、僕はもう一度、ミラと一つになりたい」
「王子……」
ああ、やめてください。
そんな目で私を見ないでください。
燃え尽きたはずの心が再び燻り始める。封じ込めたはずの欲望がぬたりと起き上がる。
「僕は、あなたが好きです」
椅子から立ち上がり、クランがミラの下へ歩み寄る。ベッドの縁に片膝をかけ、己の顔をミラの顔に近づける。
「あなたをもう一度、僕のものにしたいです」
愛する王子の気配を間近で感じる。クランの体温とクランの吐息を、その裸身で受け止める。
再び自分を求めてくれている。そのことへの悦びが体中を満たしていく。それだけで絶頂してしまいそうになる。
「クラン様……っ」
心の壁が音を立てて崩れ去る。なけなしの理性が崩壊し、純粋な想いだけが後に残る。
「私も……ほしいです」
その想いを言葉に乗せる。部下の返事を聞いたクランが顔を輝かせ、ミラの背後にいたヴァイスが愉しげに笑う。
「お互い、心は決まったみたいね」
そして楽しげに問いかける。クランはヴァイスを見たまま、ミラは前を向いたまま、揃って首を縦に振った。ミラのそれはクランに比べて若干小さく、まだ躊躇いのある動きだった。
それでいい。むしろそれでこそやりがいがあるというもの。ヴァイスは心の中でうそぶいた。そして彼女はミラを抱き締めつつ、その耳元で一つの宣言をした。
「それじゃあ、始めましょうか」
何を始めるのか、ヴァイスはわざわざ口に出すことはしなかった。ミラとクランも、あえてそれを尋ねたりはしなかった。
その代わり、クランが不安そうな表情でヴァイスとミラを交互に見た。ヴァイスは穏やかな顔で「何も心配しなくていいわ」と告げ、それに同調するようにミラも頷いた。
「ただその、優しく頼む」
しかしてその直後、ミラが前を見ながらヴァイスに注文をつける。いきなりそう言われたヴァイスは一瞬目を点にした後、すぐに表情を崩して「大丈夫よ。痛くなんてないわ」と声をかけた。
「絶対気持ちよくしてあげるから。約束よ」
そしてそう続けた後、ミラの裸身に手を這わせる。くびれた腰や筋肉で強張った腕を、サキュバスの白く細い指が滑るように這い回っていく。
思わずミラが短く嬌声を上げる。それを聞いたヴァイスがクスクス笑う。
「あなたって、結構感度いいのね♥」
「うるさい」
ミラがふてくされた声を出す。それさえもヴァイスは笑ってやり過ごす。つられてクランも小さく笑みをこぼしたが、ミラの視線に気づいてすぐに笑みを引っ込めた。
「じゃ、いくわよ」
当のサキュバスは、そんな彼女の心情などお構いなしだった。ヴァイスは前置き一つ置いた後すぐに全身から魔力を放ち、それをゆっくりとミラに注ぎ始めた。
「あっ……あ――?」
すぐにミラが異変に気づく。体が熱くなるのを感じ、そして即座にヴァイスが計画を実行に移したことを理解する。
「お、お前、やるならちゃんとやると事前に……」
「無駄は省略♥」
笑顔で言い切ったヴァイスが、漆黒のオーラを纏った両手で乳房を鷲掴みにする。
「ひん――」
豊かに実った二つの乳が揉みしだかれ、王子の前でぐにぐにと形を変える。
直後、ミラが絶叫する。
「あああああああああああああん♥」
歓喜の雄叫びだった。快楽が全身を駆け巡り、理性を殺して獣性を剥き出しにする。
もっと欲しい。もっと気持ちよくなりたい。
もっと貪りたい。
「いい、いいよぉ、いいよぉ♥ もっとちょうだあぁぁい♥」
大口を開け、狂ったように快感を要求する。そこに騎士の面影は無かった。
そこにいたのは、肉欲によがり狂う下卑た獣だった。
「おっぱい♥ おっぱい♥ もっと揉んでっ♥ つねって♥ めちゃくちゃにしてえぇぇぇっ♥」
抑圧してきた分、反動も大きかった。そもそも、自ら幸せを求めて始めたことだ。隠す必要も無い。唯一の誤算は、本気になったサキュバスの送り付ける快楽の総量が桁外れに凄まじかったことだった。
どうでもいい。それで困ることもない。むしろ喜ぶべきだ。これで変われるのだ。
「おねがい♥ おねがい♥ おねがいしましゅううぅぅぅ♥」
故にミラは恥も外聞も投げ捨て、欲望のままに吼え猛った。そうして己の感情を解き放つミラの姿を、クランは美しいと感じた。
「おっぱいだけでいいのかしら?」
「たりないっ♥ もっといっぱい、いっぱいさわってくださいぃぃっ♥」
「了解♪」
叫ぶミラに従い、ヴァイスが責め口を変える。太ももを撫でる。腹筋の割れ目を指先でなぞる。二の腕を舌で舐める。顎のラインを人差し指でさすり、唇を擦る。
全てがミラの喜びに変わる。
「くりゅうっ♥ ぜんぶきもちいいっ♥ くりゅっちゃうぅぅぅ♥」
歓喜の涙を流してミラが絶叫する。全身を愛撫され、ミラの喉から地獄の咆哮にも似た叫びが放たれる。
ぷるん、と、指の離れた唇が震える。それさえも天国の喜びと化す。
「しゃいこぉ……♥ しゅてきでしゅう……♥」
息も絶え絶えにミラが言う。呂律は回っておらず、小刻みに痙攣を続けるばかりだった。ヴァイスの愛撫はまだ止まっていなかったが、この時のミラは最早、それら全てに反応するだけの余力を残していなかった。
ただ狂い果ててなお襲ってくる快楽の波を受けて、小刻みに震えるのみだった。その顔には笑みが貼りつけられ、涎と涙でぐちゃぐちゃに汚れていた。
「ああ……いやあ……♥ おうじしゃま……みにゃいでぇ……♥」
そこでようやくクランの存在を思い出す。まともに働かない思考を総動員し、それだけを王子に対して懇願する。
しかしミラの体は残酷な程正直だった。サキュバスから与えられる快楽を貪欲に受け入れ、その全てに対して新鮮な反応を返す。仮面の騎士はもはや自分を取り繕うことすら放棄していた。
「……ッ」
そんなミラが、クランにとってはたまらなく美しく見えた。エロスの権化。自分だけの淫猥な女神様。性欲に溺れる堕落の女。危険で背徳的な香りがクランの心をくすぐっていく。
股間に血が集まる。己の半身が硬度を増していき、ズボンの上から存在を主張する。全身が熱く燃え上がり、心臓が早鐘を打つように鼓動を速めていく。
しかしその一方で、クランの心の中に黒いモヤモヤが生まれていく。
「ミラ……」
ミラが自分以外の誰かの手で喜ばされている。自分じゃない誰かが、勝手にミラを汚している。
ムカムカしてくる。胃の辺りがキリキリと痛んでいく。許せない。心の中の何かが叫ぶ。
その感情がいったい何なのか。それを探る前に、クランは行動に出た。
「ミラ!」
唐突に彼女の名を呼ぶ。いきなり名を呼ばれた騎士が、驚きながらもこちらを見る。
そんなミラに、クランが自分の顔を近づける。
そしてクランはそのまま、力任せにミラの唇を奪った。
「んっ!?」
「ンむ……」
驚くミラを無視して、クランが無理矢理彼女の口内に舌をねじ込んでいく。己の舌で騎士の歯茎を舐め、歯列をなぞり、舌同士を絡めて唾液を交換する。
「ちゅ、くちゅ、ちゅうっ……」
「あん、むう、じゅるるっ……」
密着した口の端から涎が漏れる。クランはそれでも止めず、ミラの頭部を両手で挟み込むようにがっしり鷲掴み、強引なディープキスを続けていく。
途中、クランとヴァイスの視線が交錯する。その信念に満ちた王子の眼差しを見たサキュバスは、即座に彼の心を知った。
「ミラは僕のものだ」
クランは目線でそれだけ言って、再びミラとの行為に没頭する。おまけに感覚を上書きしていくかのように、それまでヴァイスが触ってきた所をもう一度、重点的に触れていく。
「じゅる、ぷは……ミラ、ミラぁ……あむっ……!」
一旦口を離し、愛する者の名を呼び、再度口を塞ぐ。王子の求愛行動は苛烈だった。そしてミラもまた、そんな王子の縋りつくような愛撫を次第に受け入れ、自分から舌を伸ばしていった。
「おうじ、おうじぃ……♥」
「ミラ、君は僕のものだよ……浮気なんて、くちゅ、許さないからね……」
「はいっ、はいぃ……! わたしは、ぜぇんぶ、おうじのものでぇしゅ……♥」
かつての逢瀬を思い出したかのように、騎士と王子が熱いベーゼを繰り返す。この時二人の目に、もはやサキュバスは映っていなかった。
「はいそこ、二人だけで盛り上がらないの」
しかしそこでへこたれるヴァイスではなかった。止めていた手を再度動かし、ミラの裸体をまさぐっていく。前からクラン、後ろからヴァイスに責め立てられ、ミラはそれまで以上に強烈な快感に苛まれた。
「ひっ、ひっ、ひぃん、ひんっ♥ ひやあああっ♥」
もはや言葉も出せなかった。悦びと苦しみの混ざり合った音を、ただ口から吐き出すしかなかった。
王子とサキュバスは止まらない。
「もうやめてほしい?」
ヴァイスが囁く。ミラが首を激しく横に振る。
もっと欲しい。欲望の炎はもう消せない。
「これ以上続けたら、本当に堕ちるわよ」
攻め手を緩めぬまま、再度語りかける。
「それでもいいの?」
わかりきったことを聞く。それでも聞かずにはいられない。
ミラの動きが止まる。
「おねがいします……♥」
自分の意志で屈服させる。
大事なのは、自分自身で決めさせることだ。
「わたしを、おんなに……させてください……♥」
そして今、ミラは心から堕ちた。
「……よく言えました」
ヴァイスの望んだ瞬間だった。
「その願い、かなえてあげる♥」
ヴァイスがニヤリと笑い、両手に込めた魔力をさらに強める。そして右手を股間に、左手を額に押し当て、上と下から魔力を押し流す。
熱い奔流が全身を駆け巡り、マグマの如き粘り気を持った熱が心を壊す。
「ひっ――♥」
刹那、ミラが絶叫する。それまでで一番大きな、魂の咆哮だった。
絶叫と共に体が生まれ変わっていく。体内を這う魔力の後を追うように体色が青白く変色し、やがて皮膚を突き破って角が現出する。
「あっ♥ ひい♥ ひィん♥」
小さく生えた一対の角。その解放感が新たな絶頂を呼ぶ。外に出たばかりの敏感な角が、外気の刺激を受け更なる絶頂を呼び覚ます。
イキっぱなしである。絶頂の連続がミラの体を激しく揺さぶり、魔物と人間に挟まれたままガクガクと体を震動させる。
「ミラっ!」
見かねたクランが思わずミラを抱き締める。それさえも刺激となり、ミラの陰唇から愛液が滝のように溢れ出す。
直後、ミラはクランを抱き返した。愛の記憶が彼女を突き動かし、自分を案じてくれるたった一人の恋人を抱擁した。脳味噌がドロドロに溶けてもなお、彼女はクランのことを忘れてはいなかった。
彼と交わした温もり。その記憶は、堕落と快楽では決して拭い去ることの出来ない強固なものだった。
「クラン、しゃまっ♥ わたし、わらひっ♥」
「いいよミラ! 可愛いよミラ!」
全身でミラを受け入れる。王子の許しを得たのを皮切りに、今度は背中から白い翼が飛び出してくる。
まだ完全に成長しきっていない、小さな翼。それでも感度は抜群だった。新しく生まれた器官のもたらす刺激に、ミラが悦びの悲鳴を上げる。彼女を安心させようとクランが抱く力を強め、彼女の胸の谷間に顔を埋める。
「堕ちてっ! もっと堕ちて! ぼくと一緒に、幸せになってっ!」
クランが懇願する。彼女に恋に落ちて以来、唯一願ってきた想いを、力の限り言葉にする。
「はい! はいっ! おちます♥ 堕ちましゅっ♥ あなたを一生、しあわせにしましゅうぅぅぅっ♥」
涎を振りまきながらミラが叫ぶ。彼女もそれを望んでいた。
今まで叶うことの無かった夢。それだけが望みだったのに。
「ふたりで、しあわせ、にっ、なりゅのぉぉぉっ♥」
鋼の意志でミラが吠える。それに応えるように、ずるりと尻尾が生える。
突然の刺激に体が飛び跳ね、尻が浮き上がる。
「はい、トドメ」
駄目押しとばかりに、ヴァイスがその尻尾を掴む。
文字通り、それが止めの一撃となった。
「ひん――♪」
ミラの放った嬌声が、途中で途切れる。半ばまで発音したところで意識が途切れ、そのまま仮面の奥で目を閉じ、その場に倒れ込む。
「え、ミラ? ミラ!?」
突然のことにクランが動揺する。倒れ込んだミラの上体を起こし、自らに寄りかからせながら体を揺する。
「ねえ、起きてよミラ! 死んじゃやだよう!」
両目を涙で溢れさせながら、クランが必死に愛する人の名を呼ぶ。クランはそれまでの乱れようが嘘のように静かになったまま、起きる気配を見せない。
「ミラ! ミラぁ!」
「……ちょっとやりすぎちゃったかしら……」
そして一向に目を覚まさないミラと、そんなミラをこの世の終わりを迎えたような表情で必死に揺さぶるクランを交互に見ながら、ヴァイスは気まずそうに呟いた。
ミラが目を覚ましたのは、それから一分後のことだった。彼女が倒れたのはヴァイス曰く「幸せ過ぎて頭がパンクした」かららしい。
「お目覚めね」
意識を覚醒させたミラに、ヴァイスが声をかける。この時ミラはクランに膝枕されており、ヴァイスはそんな二人の姿をベッドの横に立って眺めていた。
そしてヴァイスは起き上がろうとするミラを手で制し、そのままでいるよう告げてから言葉を続ける。
「ごめんなさい。ちょっとやりすぎちゃったわ。もう体に問題は無いでしょうけど、何かあったらすぐに私のところに来てちょうだいね」
ヴァイスはそれだけ言って、ドアの方まで歩き始めた。思わずクランが「待ってください」とそれを止めるが、ヴァイスは歩みを止めず、手を振りながら二人に言った。
「私の事はいいから、ちゃんと二人で幸せになりなさい」
ドアが勝手に開き、ヴァイスが外に出ると同時に、また音を立てて閉じていく。ミラとクランは、ただそれを黙って見つめるしかなかった。
まさに一瞬の出来事だった。主犯のサキュバスが消えた後も、王子と騎士は暫くの間呆然とするばかりだった。
「んっ……」
ミラが己の体の違和感に気づいたのは、それから少し経ってのことだった。まず背中にむず痒い感覚を覚え、痒みの根元に向けて手を回し、そこで初めて体から翼が生えていることを知る。
次にミラはクランの膝から離れ、上体を起こしながら同じむず痒さを感じる頭と腰に手をやった。案の定、そこには小さいながらも角と尻尾があった。人間には決して生えていないであろう、悪魔特有の器官である。
「ああ……」
自分は変わってしまった。堕落してしまったのだ。そんな想いが胸の内を去来する。しかしその次に湧き上がってきたのは、悦びであった。罪悪感ではない。
堕落し、生まれ変わったことへの喜びだけが、全身を駆け巡っていった。闇に染まれたことが嬉しくて、自由になれたことが嬉しくて、自然と笑みがこぼれていく。
「うふふ、あははっ」
両手を広げ、顔を天に向け、感情の赴くままに笑い声をあげる。隣に王子がいることもお構いなしに――むしろ見せつけるかのように、自分の喜ぶ姿を堂々と晒し上げる。
「ははははっ! あはははっ!」
延々と笑い続ける。壊れた人形のように、ひたすらに笑い続ける。
否、ミラは壊れていない。壊れていたのはミラのいた世界だ。ミラとクランを取り巻いていた世界の全てだ。
ミラはその世界から解放された。王子と共に真の自由を得た。それが嬉しくてたまらなかった。
「はー、はーっ……」
そうしてひとしきり笑った後、ミラは手を降ろしてクランの方を向いた。全身で向き直り、なおもベッドに座るクランを両目で見据える。
クランは穏やかな表情を見せていた。恐れることも蔑むこともなく、いきなり目の前で笑い出した女をただ慈愛に満ちた顔を見守っていた。
「ミラ」
それどころか、クランは両手を広げ、自分からミラを受け入れようとした。
「おいで」
「――♥」
ミラもまた何も言わず、倒れ込むようにクランの胸元に飛び込んだ。小さく暖かい少年の矮躯に全身を預け、ミラはリラックスした子猫のような声を上げる。
「えへへ、クラン様、クランさま♥」
「もう、甘えん坊なんだから」
自分の胸元に頭を置き、気持ちよさそうに甘え声を上げる仮面の騎士を見下ろしながら、クランが穏やかに言い放つ。袂を分かつ前に幾度となく行ってきたじゃれ合い。それを今、往時を懐かしむように再開する。
それを咎める者は誰もいない。堕落を責める者も誰もいない。
堕ちて初めて、二人は自由になれたのだ。
「ずっと一緒だよ、ミラ」
「はい♥ どこまでも一緒です、クラン様♥」
王子と騎士が顔を向けあい、どちらからともなく笑いあう。
二人は今、とても幸せだった。
17/08/09 19:26更新 / 黒尻尾
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