「へえ、そう来る」

　魔物達の根城である廃城、その玉座の間にて。
　人間側が寄越してきた遣いから伝書を受け取り、中身を確認したヴァイスは、読み終えると同時にそう呟いた。この時彼女は口元を僅かに緩め、新しく貰った玩具を観察するように楽しげな笑みを浮かべていた。
　
「男を寄越すからちょっかいをかけないでくれ、だなんて。それも実の息子を。ここまで冷淡だと怒る気にもなれないわね」

　伝書から目を離し、ヴァイスが玉座に深く腰掛ける。彼女の両脇に控えていた二人の魔物――兜で顔を隠し、全身を鎧で包み込んだ大柄な魔物と、頭から立派な角を生やし、露出の激しい衣装を身に纏った幼女姿の魔物は、そんなヴァイスの言葉を受けて僅かに身じろぎした。
　ヴァイスの両腕たる彼女達は、これまでずっと間近で彼女を支えてきたが故に、その感情の変化に対して敏感に反応出来るようになっていた。そして今、二人が仕えるサキュバスは、心の底から怒っていた。
　
「完全にキレていらっしゃる……」
「頼むから癇癪だけは起こしてくれるなよ。儂らの仕事を増やさんでくれえ……」
　
　それが怖くてたまらなかった。この人は普段温厚な分、一度火がついたら容易には止まらないタイプなのだ。エンジンのかかった彼女をなだめすかすことは面倒くさいことこの上ない。
　そんな配下の憂いが通じたのか――もしくは眼前に真人間がいたからなのか、ヴァイスは力のままに暴れることはしなかった。
　
「町と引き換えに息子を生贄に捧げるだなんて、子供を何だと思ってるのかしら。ああもうイライラする。よくもこんなふざけた要求を持ち込んできたわね」

　代わりに伝書を力任せに丸めながら、眉間に皺を寄せて吐き捨てた。ついでにグシャグシャに丸めた伝書も、勢いよく遠くへ投げ捨てた。
　それを見た遣いの者は、ここで初めて目の前のサキュバスが怒っていることに気が付いた。気が付くと同時に彼は背筋に寒気を覚え、顔面から血の気を引かせていった。
　
「ああ、ごめんなさい。別にあなたに対して怒っている訳じゃないの。取って食ったりはしないから安心して」

　直後、遣いの怯えを察したヴァイスが、慌てた口調で彼に声をかけた。同時に全身から放っていた怒気も雲散霧消させ、「いつもの」優しいサキュバスに戻りながら遣いに言葉をかけつづける。
　
「でもまあ、このくらいの要求なら受けてあげてもいいわよ。面白そうだし。それにこの要求をこっちで蹴ったら、その交換材料役の王子様、国でどういう目に遭うかわかったものじゃないしね」

　ひどくフランクな態度だった。遣いの者はまさに恐る恐ると言った感じで、ヴァイスに確認を取った。
　
「本当によろしいのですね？」
「ええ。我々はあなた方の要求を受け入れます。攻撃の手を止める代わりに、そちらの提供する人員をいただきましょう」
「……本当の本当に？　嘘ではないですよね？」
「当たり前でしょ。今の魔物は嘘をつかないし、道義にもとる行為も絶対に取らないわ」

　今の人間と違ってね。心の中で余計な一言を付け加える。彼女はまだこの件に関して、腹に据えかねている部分があった。
　次の瞬間、鎧で身を固めた魔物が咳払いをする。長年付き添ってきた経験から、ヴァイスの心中は彼女には筒抜けだった。
　
「はいはい。次からは気を付けるわよ。油断も隙もありゃしない」

　一方のヴァイスもあっさりと折れた。自分の腹心が正しい事を理解していたからだ。また反対側に立っていたロリ体型の魔物も、鎧の魔物が咳払いをしたタイミングで「相変わらずじゃのう」と呆れ気味に呟いた。
　遣いの者は、そんな彼女達のやり取りの一部始終を呆然と見つめていた。その呆けた態度に、鎧姿の魔物が真っ先に気づく。
　
「どうした。我らの会話がそんなに珍しいか」
「あっ、いや、その」

　いきなり心の奥を探られ、遣いの者が動転する。刹那、ヴァイスが彼に助け舟を出す。
　
「魔物とは意思疎通は出来ない。共存共栄も出来ない。ただ人間を取って食うだけの、凶悪で野蛮な連中。今までそう教わってきたんでしょう？」
「うっ」

　ヴァイスの発言はオブラートとは無縁の、生の感情剥き出しな言葉の羅列だった。しかし事実だった。一から十まで言い当てられた遣いの者は何も言えなかった。
　だがヴァイスと彼女の「両腕」は、それに対して怒ることはしなかった。もう慣れたから別にいい、とはヴァイスの言である。
　
「いちいちそれくらいで目くじら立てたりはしないわ。実際昔の私達はそうだったしね」

　確かそうだったわよね？　続けてヴァイスが言う。自分の黒歴史ですね。鎧姿の魔物がしみじみ告げる。あまり愉快な思い出ではないのう。幼女の魔物がため息と共に吐く。
　みんな気持ちは一緒ってことね。主と腹心二人がそれぞれの顔を見合い、そして笑いあう。
　悪意や殺意とは無縁の、仲の良い子供同士が上げるような無邪気な笑い声だった。
　
「……」
　
　それを聞いた遣いの者は、事ここに至って彼女達に興味を持った。「今」の魔物はどのような存在なのだろう？　それは小さな好奇の火だったが、それでも彼の魂が燃え上がる上で大きな一歩だった。
　
「まあ、それはそうとして」

　そしてこの直後、彼の心境を無視したヴァイスが、彼の心の火をより大きくする一語を放ったのであった。
　
「あなた、このまま帰ったら死ぬわよ」




　祖国の手によって魔物に売り飛ばされてから数時間が経過した。城主のサキュバスとの面会を終え、玉座の間から離れたクランとミラは、その後すぐ外で彼らを待ち構えていたアオによって城内の案内をされた。
　城の中は思っていたよりも――想像以上に施設が充実していた。住人用の個室。公衆浴場。大食堂。中庭兼運動場。図書室に談話室。最低限以上の生活が出来るレベルで設備が整えられており、そのどれもが清掃の行き届いた清潔感溢れる空間となっていた。
　
「思っていたより綺麗なんですね」

　涙も止まり、すっかり落ち着きを取り戻したクランが、談話室の紹介を終えた後でそう言った。城の中を一通り回った後、アオから感想を求められての発言である。
　偏見も甚だしい言葉だった。驚きのあまり配慮する余裕が無かったが故の失言だった。しかしアオは嫌な顔一つせずにそれに答えた。
　
「そうでございましょう。これが今の魔物の平均的なスタイルですので」

　自分達はこれまでとは違うのだ。そのようなことを暗に強調してくる言い方だった。向こうも向こうで気にしていたのか。クランの隣にぴったりくっついていたミラは、頭の中でふとそんなことを考えた。
　その後ミラは最後に、彼らを一つの部屋へ案内した。鍵を開けて中に入り、二人を呼んで室内に招き入れる。
　
「こちらが、今回お二人に用意されたお部屋でございます。今後はこちらで寝泊まりしていただきます」

　室内を見た二人は絶句した。驚愕のあまり、アオの言葉も耳に入ってこなかった。
　ロイヤルスイート。その部屋の広さと豪華さを一言で言い表すならば、まさにそれだった。広大な領域の中にぽつんと置かれたキングサイズのベッド。大きめのテーブルと五人分の椅子。小ぶりなキッチンに冷蔵庫。個別浴室。トイレ。柱時計。書棚。クローゼット。武器防具収納用の巨大ロッカー。
　
「なんだこれは……」
「うわあ……」

　来賓用に設えられたとしか思えないその部屋を前にして、クランとミラはただ呆然とするばかりだった。アオもまた彼らの初々しい反応を楽しみつつ、「素敵なお部屋でございましょう？」と笑顔で話しかける。
　
「本当に、ここでいいのか？」

　そんなアオに、ミラが控え目な口調で尋ねる。アオが笑顔で答える。
　
「もちろんです。ここがこれからの、お二人の寝所になります」
「でも、なんだってこんな、無駄に豪華な所に……」

　ミラは動揺していた。そしてアオはその動揺の理由を見抜いていた。
　
「余所者の自分達は、もっと牢獄めいた場所に押し込められるのだろう。そう思っていたのですね？」
「それは」

　ミラが言葉を詰まらせる。横でそれを聞いていたクランも、同じように気まずい表情を見せる。
　アオがクスクス笑って口を開く。
　
「他所からお越しいただいたお客人を邪険に扱うなど、決してあってはいけないことですからね。もてなしは当然のことです」
「我々は捕虜ですらないのに、それを対等に扱うと？」
「そちらの祖国が、お二方をどのような存在として見ているかまでは存じません。ですが私共は、お二方のことを大切な賓客と考えております」

　まあ、多少はチップを頂きたいとも思っておりますが。ちらりとクランを見下ろしながら、アオが不敵に笑って言った。ぞっとするほど美しく蠱惑的な笑みだった。
　それを見たクランは己の立場を再認識し、反射的にミラの後ろに隠れた。ミラも彼を守るように立ち位置を変え、不満そうにアオを睨みつけた。
　
「ご安心ください。今のあなた方を無理矢理押し倒すようなことは、誰もいたしませんから」

　仮面の女騎士に睨まれながら、それでもアオは平然としていた。そして平然とそう言い返した後、彼女は相手の反応を待たずに踵を返した。
　
「それでは、今日はこのまま、ここでお寛ぎくださいませ。夕食時になりましたら、その時はまた改めてお呼びに参ります。それからもしお暇を持て余すようでしたら、城内の設備をどうぞご利用ください。全施設立ち入り自由。あなた方を縛る規則も制限も、特に設けておりませんので」

　その後出入口前で立ち止まり、再度身を翻してクラン達の方を見つめながら、一方的にまくしたてる。相手の質問を許さない強引な喋りだった。
　
「ここでは、誰もが自由になれるのですよ」

　そしてそれだけ言って、バタンとドアを閉める。無駄に広い空間に残された二人の人間は、これからどうするべきか途方に暮れた。いきなりお前達は自由だと言われても、何をどうすればいいのかわからなかったのだ。
　
　
　
　
　夕食の準備が整ったことをアオが告げに来たのは、それからさらに数時間経過してのことだった。アオは外出自由と言っていたが、結局クランとミラは現状どう動くのがベターかわからず、困惑と緊張のまま部屋に閉じこもったきりであった。
　
「主がお待ちです。どうぞこちらへ」

　そんな彼らに向かって、アオは一礼しながら事務的に声をかけた。その礼儀正しい余所余所しさが、今のクラン達には却ってありがたかった。
　彼らが案内されたのは、自分達がいたスイートルームよりもずっと小さな部屋だった。テーブルクロスの敷かれたテーブルが部屋の真ん中に堂々と鎮座し、四つの椅子がそれを四方から取り囲んでいた。椅子四つ置くだけで余裕が無くなる程に、そのテーブルは小さかった。
　小さなテーブルの上には既に料理が並べられていた。量こそ少なかったが、そのどれもがたった今作られたばかりであるかのように湯気を放ち、かぐわしい匂いを放っていた。見ているだけで腹が減って来る。
　
「さ、座って。まずは腹ごしらえを済ませてから、色々話しましょう」

　そんなこぢんまりとした空間の中、奥の座席に座っていたヴァイスが、空席を適当に指し示しながら着席を促す。クランとミラは一瞬目を合わせたが、選択の余地は無かったので、大人しく座ることにした。
　
「ここはね、言うなれば私のプライベートルームなの。いつもは大食堂で皆と一緒に食べるんだけど、大事な用が出来たりした時には、こうしてここを使うことにしているのよ」

　自分で料理を切り分け、それらを盛り付けた皿をクランとミラにそれぞれ手渡しながら、ヴァイスが口を開く。見るからに楽しげであった。人間二人としては気まずい事この上なかった。
　そうこうしているうちに、全員に料理が行き渡る。そしていただきますの挨拶も程々に、ヴァイスが遠慮も無しにそれに手を付ける。フォークでサラダを突き刺し、口の中に運ぶ。
　
「大丈夫よ。毒なんて入ってないから。食材も全部人間産のものを使っているわ。ほら、二人とも遠慮しないで食べて食べて」

　野菜を咀嚼し、飲み込んだ後、ヴァイスが満面の笑みを二人に食べることを促す。騎士と王子が再度顔を見合わせる。
　
「食べよう、ミラ」

　直後、クランが声を上げる。ミラが僅かに驚き、ヴァイスがニコニコ笑ってスープを啜る。
　
「彼らは殺そうと思えば、いつでも殺すことが出来た。それなのにわざわざ料理に毒を盛るなんて遠回しな方法を使うとは思えない。それにそもそも、今の僕達に拒否権はない」

　クランが淡々と言葉を紡ぐ。そんなに警戒しなくてもいいのに。自分のグラスに自分でワインを注ぎながら、ヴァイスが不満そうに愚痴をこぼす。
　実際、この部屋には彼ら三人以外に人の気配はない。部屋の外に誰かがいるような感じもしない。クラン達と同じように、ヴァイスもまた無防備な姿を晒していた。
　クランが再び口を開く。
　
「それに今の僕達に拒否権はない。帰る場所も無い」

　震える手でフォークを掴む。
　
「ならせめて、ここの流儀に従って生きていくしかないじゃないか」

　それは無様な姿を晒せない王としての矜持が半分、捨て鉢な心情が半分こもった発言だった。そしてそう言ったクランは――こちらはほぼ完全にヤケクソから来る行為だった――手に持ったフォークで皿に盛られたチキンの切り身を突き刺し、勢いよく口の中に放り込む。
　よく噛み、飲み込む。ミラは椅子から尻を浮かして中腰の姿勢で固まり、いつ何が起きてもいいように万全の態勢で身構える。
　
「……おいしい」

　数秒後、クランが呟く。驚きに満ちたその顔には、若干の喜びも含まれていた。




　それがきっかけになった。クランは抵抗するのを止め、ヴァイスに促されるまま、目の前の料理を自ら口の中に運んでいった。彼の顔は幸福そのものだった。
　緊張の糸が切れ、体から力が抜けた反動で余計に空腹感を覚えたのも、彼の手を速める一因となった。とにかくクランは欲求のままに、魔物から差し出された料理を片っ端から頬張っていった。
　
「ほらミラも、ちゃんと食べないと駄目だよ？」

　そしてクランは自分の隣に座るミラに対して、そう笑顔で催促した。この時ミラは目を点にし、信じられないものを見るかのような目つきでクランを見つめていた。
　本当に人の理性を狂わせる毒でも混じっているんじゃないのか。躊躇なく魔物の料理を食べ進めるクランを見て、彼女はそう思わずにはいられなかった。実の所は、クランは全くの善意からミラに食事を勧めていただけなのだが。
　しかし物事にはいつか限界が来る。今回の場合はミラの飢えだった。クランに催促された次の瞬間、彼女の腹の虫もまたか細い悲鳴を上げた。
　
「いいのかしら？　ちゃんと体力つけておかないと、いざって時に王子様を守れなくなるわよ？」

　それを聞いたヴァイスが、意地悪そうに口を開く。その彼女の言葉は、ミラに天啓をもたらした。
　そうだ。今王子を守れるのは自分だけだ。その自分がスタミナ切れを起こして、いざという時に動けませんでしたでは話にならない。世の笑いものだ。
　いついかなる時も、王を守るため万全のコンディションを保たねばならない。それもまた、護衛騎士の務めなのだ。魔物への警戒を強めるばかりに、そのことを失念してしまっていた。
　
「……ッ」

　正直、魔物の食事を口にするという行為に対し、ミラは強い抵抗を抱いていた。しかしここで食べなければ、ここでしっかり栄養補給しておかなければ、最悪の事態が起きた時に何も出来なくなる。そちらの方が遥かに問題だ。
　食べるべきか、食べざるべきか。ジレンマは数秒続いた。しかし葛藤の末に、彼女はフォークを握った。懊悩の最中に鳴り出した二度目の腹の虫が、彼女の心を動かした。
　
「南無三……！」

　心の中で叫びながら、サラダを口に放る。咀嚼もそこそこに、一息に喉奥に流し込む。
　
「――あ」

　そしてそこで気づく。
　
「……ああ、おいしいな……」

　思わず心から呟きが漏れる。体から力が抜け、疲労と飢えが全身を駆け巡る。
　ミラも抵抗を止めた。空腹には勝てなかった。
　
　
　
　
　そうして食事を終えた後、ヴァイスは二人に「今日はもう戻って休みなさい」と告げた。特にやりたいことも無かったので、二人は主の言葉に従うことにした。宛がわれた部屋に戻って交代でシャワーを浴び、そのまま眠りにつくことにした。
　この時クランは素直にベッドで横になり、ミラはそのベッドの横までテーブルを動かした。次に彼女はその上に剣を置き、テーブルの隣に椅子を置いて、そこに腰かけたまま目を閉じた。寝間着に着替えてはいるが、仮面と手袋はつけたままだ。
　いつ何が起きても問題ないよう、万全の注意を払っての行為である。
　
「一緒に寝ないの？」
「これも王子を守るためです。ご容赦を」

　寂しげに尋ねるクランに向かって、申し訳なさそうにミラが返す。それが自分のためであると知ったクランは、素直に折れた。

「そうなんだ。わかった。じゃあおやすみ」
「おやすみなさいませ、クラン様」
「……ありがとね」
「身に余る光栄でございます」
　
　ミラが堅苦しい口調で、クランの謝辞を受け入れる。守護騎士たらんと己を律しようとは心掛けたが、その口元は緩んでいた。
　しかしそんな心配も虚しく、二人の夜は平穏無事に明けたのだった。どこかの魔物が夜這いをかけてくることも無ければ、二人のいずれかが術なり薬なりで色欲に狂うことも無かった。それどころか二人は敵地の只中において、ばっちり熟睡することが出来た。
　
「む……」
　
　何事も無いまま、まずミラが目を覚ます。
　覚醒と同時に時計に目をやる。午前七時。定刻通り。時刻を確認し、一瞬で体に活力を漲らせて立ち上がる。
　最初にベッドの横のカーテンを開ける。眩い日差しが室内に入り込み、その朝日を全身で浴びる。それからミラは十分で身支度を整え、その後クランを起こした。
　いつもと同じ動きだ。彼女がクランの護衛役になってから毎日行い、体に染み込ませてきた、いつも通りの行動ルーチンである。
　
「クラン様、お目覚めください。もう朝ですよ」
「う、ううん……わかった……」
　
　そしてクランもまた、ミラの呼びかけに素直に応じた。ふかふかのベッドの上で体を起こし、一度大きく背伸びをする。それからクランは毛布をどかしてミラに向き直り、いつものように寝ぼけ眼をこすりながら彼女に尋ねる。
　
「ミラ、今日はどんな感じ？」
「はい。本日の日程は――」

　いつものように、就寝前に頭に叩き込んでおいた今日のスケジュールを思い出そうとする。
　ようやくそこで気づく。
　
「あ」

　自分達の置かれた状況に。
　そしてその状況下にいながら、途中までいつもと同じ生活サイクルを送れてしまっていたということに。
　
「……」

　刹那、二人して無言になる。彼らの心中では共に同じ疑問が湧き上がっていた。
　
「……」
　
　快適すぎる。生活レベルが全く下がっていない。
　自分達はなんのためにここにいる？
　
「僕達」

　おずおずとクランが口を開く。ミラは何も言わず、目線で続きを促す。
　彼女の意を汲んで、クランが再び言葉を放つ。
　
「こんなに豪勢な暮らししてて、いいのかな」

　自分の立ち位置を忘れてしまうことへの恐れから来る言葉だった。
　
　
　
　
　朝食が運び込まれてきたのは、その一時間後だった。食事を運んできたアオは、クラン達が既に起床していることを知って唖然とした。
　
「時間になりましたら、私が起こしてさしあげようと思っていたのですが……もっとゆっくりなさっても構わないのですよ？」

　その態度は完全に賓客へのそれだった。捕虜に怠惰を勧めてくるとはどういうことなのか。
　このままでは本当に自分達がどういう存在なのか忘れてしまいそうになる。ミラはクランの言葉の意味をようやく理解した。
　そこに気を持ち直したアオがやってくる。テーブルの位置がずらされていることに少し疑問を持ちながら、それでも淡々と台車の上にある皿をテーブルの上に置いていく。
　
「しばらくの間は、お二人にはこちらのお部屋で食事をしていただきます」

　準備を進めながら、アオが静かに言い放つ。すぐにミラが反応する。
　
「何故？」
「他の魔物娘からの干渉を避けるためです。お二方は非常に魅力的ですので、本気で誘惑しようと考えている者も少なくないのですよ」
「どうしてそこまで気遣ってくれるんですか」

　クランからの質問である。昨日の夕食にしたところでそうだ。なぜそこまでこちらに気を遣うのか。そこがクランには引っかかっていた。
　それに対し、アオは即答しなかった。ある程度進めたところで作業の手を止め、一瞬「溜め」を作ってから、彼の方を見て口を開いた。
　
「愛のためです」

　意味がわからなかった。二人して目を点にする。
　そのリアクションは、アオにとっては愉快なものだった。メイドは上品に微笑みつつ、発言の意図を掴みかねていた二人を見つめながら、再度言葉を紡いだ。
　
「そのうちわかりますわ」
「わかるわけないだろう」
　
　ミラが憮然とした態度で返す。アオは微笑むだけで動じなかった。そのまま作業を再開し、全ての皿をテーブルの上に置き終える。
　
「一時間後に片づけに参りますので、それまでに食事を済ませておいてください。それから我々の方からお二方に、なにがしかの仕事を要求することもございませんので、どうぞお寛ぎくださいませ」

　そして仕事を終えたアオが口を開く。何もしなくていい、という言葉を聞いた時点でクランが渋面を見せたが、アオはそれに対して見て見ぬフリをした。
　
「何をしても構いません。ここでは自由なのですから」

　代わりにそれだけ言って、アオは台車を引きながら部屋を出ていった。全く要領を得ない台詞回しだった。
　
「結局何が言いたいのだ奴は」

　二人の抱く困惑をミラが代弁する。その傍らで、クランはテーブルの上に置かれた今日の朝食に目をやる。
　パン。サラダ。目玉焼き。薄切りのベーコン。ミルク。季節の果実。
　シンプルだが、けっしてぞんざいではない品揃えだ。捕虜同然の余所者に出すにしては、明らかに豪華すぎる。
　
「これって」

　しかしそれ故に、非常に食欲がそそられる。胃袋が空腹を訴え、喉奥から唾液が上ってくる。
　
「……食べても大丈夫なのかな？」

　クランがぽつりと呟く。彼は目の前の誘惑に膝を屈しようとしていた。
　
　
　
　
　その日の朝食も、やはり美味だった。