押し掛け家臣の落武者にベッドの下に隠してあったエロ本を掘り出された時の話
「殿、お部屋を掃除していたらこのようなものが」
分厚い雑誌を手に持ちながら、落武者が淡々と問いかけてくる。彼女の視線の先にいた落武者の「殿」、高校生の杉山直斗はその光景を前にして、己の体を石のように硬くした。
時刻は夕方。直斗は学校から家に帰ってきたばかりであった。そして直斗がドアを開けて自室に入るや否や、ベッドの前に立っていた落武者が待ってましたと言わんばかりに、件の話を持ち出してきたのだ。
「これはもしや、色本というものではないでしょうか?」
いつも通り生真面目な表情で、落武者が青年に疑問をぶつける。一方の直斗は何も言わず、ただ額から汗を流して引きつった笑みを見せるだけだった。
そこに落武者が追撃を仕掛ける。
「どうなのでしょう? このいかがわしい本は、本当に殿の持ち物なのでしょうか?」
察しの通り、それは直斗の「お宝本」だった。言い換えるならばそれは成人向け雑誌、エロ本だ。落武者の推測通りである。
そもそも表紙を見れば一発でわかる。汁まみれの全裸の美少女のイラストが表紙を飾っているものを全年齢向けと言うのは、いくらなんでも無理があった。
弁解不可能だ。
「殿?」
「……はい。そうです」
だから直斗は素直に頷いた。彼は実直な性格の持ち主だった。無条件で自分を慕ってくれるこの魔物娘に嘘をつくことは、どうしても出来なかった。
「それは俺の本です。確かに俺が買いました」
「やはりそうでしたか。それと私に敬語を使う必要はありません。あなたは私の仕える殿なのですから」
「いや、別に俺殿様じゃないし……」
「それはそうと殿。これ以外にも同じ性質のものと思しき本を多数見つけたのですが。これらも全て殿のものなのでしょうか?」
自分で脇道に逸らしておいて無理矢理話を引き戻した落武者が、目を輝かせたまま自分の背中に手を回す。そして背後に隠してあった本の山を引っ張り出し、自分の足元にするりと置いてみせた。
直斗は全身の血の気が引いていく音をハッキリと聞いた。親にも見つかっていない、秘匿されるべき宝の山。それらが全て、白日の下に晒されたのだ。
それも呆気なく。つい一か月前にやってきた居候の手によって。
「どうなのですか殿。これらも全て殿のものなのですか」
その居候が、真面目くさった顔で直斗に話しかける。そこに嘲笑や侮蔑は無い。落武者はただ単に、自分の与り知らぬ物品に関して確認を取りたいだけだった。
彼女もまた、一本芯の通った真面目な女性だった。
「殿。どうかお教えいただきたい。これらも全て殿の私物なのでしょうか?」
「うう……」
しかしその生真面目さは、時としてマイナスに働くことも事実だった。実際この時、直斗は非常に気まずい気分を味わっていた。自分を慕ってくれている魔物娘に、自分の一番恥ずかしい物を見られたのだ。その魔物娘が嘲りでなく純粋な好奇心から問いかけてきていたこともまた、地味に彼の心を揺さぶった。
まさに針の筵に座らされている気分だった。
「殿!」
「……そうです。全部俺のです」
縋るような声を放つ落武者に、直斗が折れる。彼は正直者だった。そして一所懸命な魔物娘を邪険に扱えるほど酷薄でもなかった。
彼が罪を認めるのは、まさに自明の理であった。
「なるほど。これらは全て殿の物でしたか。なるほど、なるほど」
そしてそれを聞いた落武者も、納得したようにそう声を上げるだけだった。その後彼女は意識を件のお宝に向け、興味津々と言った体でそれぞれの表紙を見比べていった。
「つまり殿は、こういった趣向のものを好まれるということですね」
そして自然な流れで雑誌の一つを開き、中身を吟味しながら、真面目な顔で落武者が告げる。実際図星だったので、直斗は顔を真っ赤にして何も言えずにいた。
「これは……確か『めいど』という者の格好でしたな。こちらはちゃいな服ですか。中々に多種多様ですな」
「は、はい……仰る通りでございます……」
「そしてこちらの雑誌には……男性が年上の女性に甘えておりますね。なんとも蠱惑的な様でございますな」
「はい、それは特にお気に入りの本でありまして……」
「おお! こちらでは一人の男が複数人の女子とくんずほぐれつしています! これが世に聞くはーれむですな?」
落武者がクソ真面目な表情でエロ雑誌を一つずつ読み込み、見たままを淡々と、事務的に説明していく。男子にとっては恥辱の極みとも呼べる行為である。
「なんと凄い! 幼女と幼女が触手に絡まれておりまするぞ! 破廉恥! 殿はあぶのーまるもいけるのですか!」
「それは違います。友人に押しつけられたんです。でも触手は男の浪漫だとは思います、はい」
しかし彼女に直斗を貶めようという意図は無かった。この落武者はただ、己の敬愛する「殿」の嗜好を知りたいだけなのだ。
「もう勘弁してください……」
しかし直斗にとっては生き地獄だった。まさに地獄で閻魔大王と対面し、彼に自分の犯した罪を読み上げられているような気分だった。そして直斗は少しでも己の罪を軽くしようと、自分から余計なコメントを付け加えていく始末であった。
落武者本人に悪気がないこと、そしてそれを自分も理解していることが、余計に直斗に据わりの悪さを味わわせていた。
「なるほど。つまり殿は一つのぷれいにこだわることはなく、あらゆるぷれいを満遍なく味わいたいということなのですな」
数分後、直斗の宝を全て読み終えた落武者が短評を口に出す。彼女の顔はどこか満足そうだった。直斗は青ざめた顔をただ俯かせるだけだった。
全て見られた。もうおしまいだ。
そこに落武者が声をかける。
「水臭いですぞ殿。このようなことに憧れを抱いていると言うのならば、遠慮せず私に命じてくだされば良かったのに」
「へっ?」
予想外の文言が飛び出してきた。且つその声は優しかった。それもまた想定外だった。
直斗が思わず鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてみせる。足元に雑誌を置き、そんな彼に意識を向け直しながら、落武者が続けて言葉を放った。
「殿に命を助けられた時から、我が身命は全て殿に捧げると誓っているのです。なさりたいことがあるのならば、どうぞ遠慮せず、わたくしめにご命令ください。それこそ夜伽でも、あぶのーまるなぷれいでも、喜んで行いましょう」
そしてそう言うなり、落武者は彼の眼前で傅いた。片膝を立て、立てた膝の反対側の握り拳を床に置き、深々と首を垂れる。
一分の迷いもない、確固たる意志から来る動きだった。この落武者は本気だった。
「わたくしの望みは殿の望み。殿の喜びこそわたくしの喜びなのです」
青白いうなじが丸見えになる。アンデッド特有の、血の気のない青ざめた首筋。
いつ見ても綺麗だ。直斗が思わず生唾を飲み込む。落武者は傅いたまま微動だにしない。
この女性を好きにしてもいい。自分には不釣り合いなほど美しい女性を。
直斗の心の中に黒い感情が芽生える。
「俺は……」
しかし直斗は、そうして滲み出る欲望を必死に抑え込んだ。一瞬でも邪な考えを抱いた自分自身を激しく嫌悪した。
「駄目です。やっぱり駄目」
彼はどこまでも生真面目な男だった。
そもそも彼がこの落武者を助けたのも、決して見返りや我欲を満たすためでは無かった。学校からの帰り道、右も左も分からないと言わんばかりに不安げに辺りを見回す落武者を見つけた彼は、本当に純粋な人助けの気持ちから彼女に駆け寄ったのだ。
「すいません。何か困りごとですか?」
「うむ?」
魔物娘と呼ばれる存在が現代社会に溶け込んで数十年が経つ。もはや彼女達は特別なものではなくなり、人間達は当たり前のように彼女達と接するようになっていた。ごく僅かながら彼女達を異物扱いする者もいるが、その数も昔に比べると大分減った。
直斗は当然、魔物娘を隣人と見る側の人間だった。
「いや実はな、少し道に迷ってしまったのだ。なにぶん人間界に来るのは初めてなもので……」
そして魔物娘もまた、人間達に非常に友好的だった。魔界――魔物娘の指すこれは並行世界と同義であると大真面目に提唱する学者もいる――からやってくる彼女達はその大多数が人間と仲良くしたいと考えていた。この落武者も同様だった。
「それだったら、俺が案内しますよ。どこに行きたいんですか?」
「いいのか? 私ごときにそんなことを――」
「いいんですよ。困った時はお互い様ですから」
これが直斗と、件の落武者の馴れ初めである。この後直斗は落武者の案内役を買って出て、彼女が目的地とする市役所へと導いてあげた。直斗からすれば、この行いは「やって当然」のものであり、特別何かを期待してのものでは無かった。
しかし落武者は違った。彼女はこの親切を深く心に刻み込んだ。そしてその優しさに感銘を受けた落武者は、彼こそ自分が仕えるべき主君であると結論づけたのだ。
「頼もう! 杉山直斗の家はここであっているだろうか! 我は名も無き落武者。直斗殿に用があって参った!」
彼女が直斗に生涯の忠誠を誓い、杉山家に居候することになったのは、その直後のことである。
しかし繰り返すが、直斗は決して見返りを求めてやったわけではない。居候を認めたことにしても、この落武者があまりにも必死だったからそれを認めたに過ぎなかった。直斗も――もっと言うと彼の両親も、別にやましい気持ちから魔物娘の同棲を許可したわけでは無かった。
「俺はそういう流れで、人をいいように使いたくないです」
だから直斗はそう言った。傅く落武者を見下ろしながら、きっぱり断言した。
「だから顔を上げてください」
迷いのない言葉。直斗の顔には決意が満ち満ちていた。
今度はそれを聞いた落武者が驚く番だった。
「今なんと申された?」
文字通り顔面に驚愕の感情を貼りつけながら、落武者がバネ仕掛けのように素早く顔を上げる。目を点にし、信じられないものを見るかのように直斗を凝視する。
「殿はわたくしを使ってくださらないというのですか?」
「え、いや、それは」
「わたくしは殿にとって不要な存在だというのですか?」
「いや、別にいらないってわけじゃないけど……」
縋るように落武者が迫る。そのあまりの迫力に、直斗は口ごもるしかなかった。
その煮え切らない態度が、落武者の心に止めを刺した。
「やはり! わたくしでは殿を満足させることは出来なかったということなのですね!」
「えっ」
それは飛躍しすぎだ。直斗がそう言おうと口を開く。
しかし落武者の方が速かった。直斗が声を発する前に、彼女はその場で素早く正座の姿勢を取った。
「命を助けられておきながら、そのご恩も返せぬとは! 我が一生の不覚!」
「さっきから何言ってるんですかあなたは」
「かくなる上は我が無能の罪、切腹をもって償いとうございます……!」
「は?」
正直、直斗は何故彼女がここまで感情を昂らせているのか理解できなかった。しかし彼女がおもむろに腰に提げた日本刀を抜いたところで、次に落武者が何をしようとしているのかは察しがついた。
「まさか」
「介錯は無用。自分の始末は自分でつけますゆえ」
刀を両手で持ち、その切っ先を剥き出しの腹に押し当てる。
青ざめ引き締まった腹部に、白銀の刃が触れる。
それを見た直斗が咄嗟に叫ぶ。
「やめろ、駄目だ――!」
落武者は話を聞かなかった。完全にその気でいた。両手を伸ばし、刀を離して狙いをつける。
「おさらば!」
「やめろ!」
直斗の体が反射的に動く。
両手を伸ばし、日本刀を握る落武者の手をがっしり掴む。
冷たく柔らかい感触が掌に伝わる。
「誰がそんなことしろって言った!」
「えっ」
己の行いをいきなり止められ、きょとんとする落武者に、直斗の怒りの叫びが響く。
それが余計に落武者の心をかき乱す。
「し、しかし殿は、わたくしのことはもう……」
「使えないって一言も言ってないだろ! 人の話は最後まで聞け!」
怒りのままに正論を吐く。色々な意味で、落武者はぐうの音も出せなかった。
直斗が追撃する。
「俺は別に怒ってないんだよ。ただその、あなたを、顎で使いたくないんだ」
「あなた」の部分だけ、努めて感情を押し殺しながら、直斗が自身の心情を吐露する。
落武者は改めて困惑した。困惑のまま落武者が問う。
「なぜなのです? わたくしは構わないと申しているのに、なぜあなたはそれを嫌がるのですか?」
直斗を見上げる落武者の目もまた、真剣そのものだった。彼女は本気で腹切りを敢行し、そしてそれを止めた直斗の行動に本気で戸惑っていた。
彼女の価値観の根底には武士道があった。直斗の行いは、その武士道に反しているものだったからだ。
「我らサムライは、殿の命には絶対服従。それが掟なのです。しかしあなたは、自らそれを放棄なさろうとしている。わたくしにはそこがわかりませぬ」
「それは」
「どうかお教えください。あなたは何故、わたくしを使ってくださらぬのか。そして何故こうも、わたくしに優しくしてくださるのか」
落武者の視線が胸に刺さる。彼女は本気で疑問に思っていた。
それが直斗に踏ん切りをつけさせる最後のひと押しになった。直斗は一度唾を飲み、そして改めて落武者と目を合わせた。
「それは」
「それは?」
「あなたのことが、好き、だからです」
二人の時間が止まる。呼吸が止まり、視線が絡まったまま動かなくなる。
「え」
永遠とも思える程時間が経った後、落武者がきょとんとした声を出す。
直斗は何も言わない。
「……」
一瞬直斗が視線を外す。そして落武者が発掘した雑誌の山をちらと見た後、すぐに落武者に視線を戻す。
「でもその、告白する勇気が無かったので、あれで発散してました」
「は」
「ごめんなさい。あなたを見るたびに、むらむらして止まらなかったんです。でもそれだけあなたが好きなんです」
いまいち良くわからない理由だった――意味がわかれば幻滅されてもおかしくない理由でもあった。直斗の脳味噌は回転しすぎて熱暴走を起こしていた。
もう止まることも出来ない。最後まで突き進むだけだ。
「俺、最初にあなたと道端で会ってから、あなたのことが気になってたんです。正直、あなたが居候に来た時は、やったって思っちゃいました」
補足しておくと、落武者の居候の話に当時一番賛同の意思を示していたのは直斗である。これもまた、落武者が彼を殿と慕う一因であった。
しかし彼女は、「殿」が性愛的な意味で自分を好いていることには最後まで気づかなかった。彼はあくまで、自分を「しもべ」として認めてくれている。それ以上のことは考えていなかった。
「だから俺は、そんなあなたをこき使うなんてしたくないんです」
「あ、は、あ?」
閑話休題。直斗がそう続け、その場で腰を下ろす。二人の視線が平行になる。
今度は落武者の思考が機能不全を起こす番だった。
「……それは、本当なのですか?」
だからそう言うだけで精一杯だった。直斗も頷くだけで精一杯だった。
「本当に、殿は私のことをあ、愛しておられるのですか?」
確認を取るように、落武者が慎重な語り口で問いかける。
真面目くさった顔で直斗が再度頷く。
「好きです」
全精力を傾けて、腹の底から四文字を捻り出す。
「つきあってください」
最後の一撃。
二人の時間が再び止まった。
そのまま時間だけが過ぎていった。雲が流れ、日が沈み、空が薄闇に染まっていく。
落武者と人間は動こうとしなかった。お互いに顔を見つめあったまま、ぴくりとも動かなかった。
目の前で起きたことが信じられなかった。展開に思考が追いつかず、ただ呆然とするだけだった。
「――あっ」
そんな二人を正気に戻したのは、外から鳴り響くチャイムの音だった。それは十八時を告げるチャイムであり、閉め切った窓越しからでも聞こえてくるほど大きな音色だった。
それが二人の脳を揺さぶった。
「も、もう六時のようですね」
不意打ちを受け、叩き起こされた落武者が、慌てた調子で声を上げる。直斗も同時に自意識を取り戻し、大急ぎで落武者から距離を取る。
そして落武者の言葉に何とか合わせようと視線を泳がせた後、どうにか思いついた言葉を吐き出す。
「そう……みたいですね。俺達、かなり長い間止まってたみたいですね」
「え、ええ。どうやらそのようで」
歯切れ悪く落武者が言い返す。直斗も彼女から視線を外し、茹蛸のように真っ赤になった顔を隠すように斜め下を向いて俯く。
そこで再び時間が止まる。しかし今回は、互いに意識はしっかり持っていた。この気まずい沈黙をなんとかしなければ。二人はそれだけを考えて、必死に脳味噌を働かせていた。
「あの」
最初に突破口を見出したのは落武者だった。直斗の方をじっと見つめ、意を決して口を開く。
直斗もそれに期待を寄せる。この微妙な空気を打ち破ってくれるのであれば、どんなものでも大歓迎だ。
「殿は、本当にわたくしのことを、愛しておられるのですね?」
苦悩の末に彼女が選択したのは玉砕戦法だった。ド直球な物言いを受け、直斗の頭は真っ白になった。
さすがにそれは歓迎できない。直斗の心が羞恥の悲鳴を上げる。しかし落武者は止まらない。
「あの時は気持ちの整理がつかず、いまいち現実味を感じることが出来ませんでした。ですのでもう一度、改めて教えていただきたいのです」
「え、あ、いや」
「殿は私を愛しているのですね?」
「そ、それは」
「そうなのですね!?」
落武者が顔を近づける。鼻先がぶつかるほどに急接近する。
直斗が息を詰まらせる。落武者の顔は真剣そのものだった。
「殿!」
何かを期待するように、落武者が催促する。しかしその必死の物言いが、却って直斗を冷静にさせた。
彼女の気持ちに応えなければならない。その思いが緊張を解きほぐし、過熱していた脳味噌を冷却させていく。
「俺は」
視界がクリアになる。落武者の顔がくっきりと映る。押し掛けるように自分のしもべとなり、喜んで自分に尽くしてきてくれた忠臣の顔。
そして自分が恋をした、この世で一番美しい女性の顔。
「俺は、あなたが大好きです」
愛する女の顔を見つめながら、直斗が再度宣言する。
「愛しています」
緊張も恐怖も無い。直斗は悟りの境地にいた。生まれて初めて、彼は自分の感情に素直になれた。
今なら全てを受け入れられる。
「も、もう一回お願いします」
落武者の催促。それすら心地よく感じる。
「落武者さん、愛しています」
そういえば、この人の名前を知らないな。直斗が頭の隅でそんなことを思い出す。落武者本人も蘇った際に記憶の一部を失ったと言っており、それによって名前を忘れたとも言っていた。
どうでもいい。今の二人に名前など関係ない。
「もう一回」
「愛しています」
「もう一度」
「この世の誰より愛してます」
「大きな声で!」
「あなたが好きです!」
「本当に好きなのですね!?」
「大好きです! 本当に好きなんです!」
押し問答はその後もしばらく続いた。そうして思うままに意思確認を済ませた後、二人はどちらからともなく笑い始めた。
「なんで俺達、こんなことしてるんでしょうかね」
「なぜでしょうな。わたくしにはさっぱりわかりませぬ」
我に返り、それまでやっていた不毛な行いを思い返す。そして馬鹿なことしたと認識を共有し、二人して愉快そうに笑いあう。
今更ながらどうしてそんなことをしたのか、さっぱりわからない。しかしそれは決して、不愉快なものではなかった。
「でも、わたくしはとても嬉しかったです。殿のお気持ちをたっぷり聞くことが出来ましたから」
「俺はちょっと恥ずかしいかな。女の人に告白したのはこれが初めてだし」
「お気持ちを見せるのは、お嫌ですか?」
「嫌なわけないだろ。むしろすっきりした気分だよ。自分の気持ちを明かすことが出来てさ」
「左様でございますか」
落武者が穏やかな顔で答える。それから落武者が、ゆっくりと自分の顔を離していく。
「駄目」
それを直斗が止める。落武者は命じられるがまま動きを止め、それでも突然の制止に戸惑いを見せる。
その動きの止まった落武者の体を、直斗が正面から抱きしめる。
「と、殿っ?」
「まだあなたの気持ちを聞いてない」
背中に両手を回し、縋りつくように直斗が落武者に抱きつく。何かを恐れるように――それでいてなお、それを離さんとする意思を見せつけるかのように。
「落武者さんは、俺のことをどう思っているんですか」
決して豊満とは言えない胸の谷間に顔を埋めながら、直斗が重ねて問いかける。殿のいきなりの乱心に落武者は当初大いに驚愕したが、その後すぐに彼女は直斗の心の機微を察した。
「ご安心を」
だからまず、落武者は言葉でなく態度で気持ちを示した。自分も直斗の背中に手を回し、彼の体を抱き返す。抱擁返しに直斗の背筋が引き延ばされる。
そのまま耳元で落武者が告げる。
「わたくしも、殿のことをお慕いしております」
それだけ言って、名残惜しそうに体を離す。きょとんとした顔で直斗が落武者を見ると、彼女の頬は僅かに朱が差していた。
照れ笑いの表情を浮かべながら、落武者が続けて言葉を放つ。
「殿。わたくしも殿のことを愛しております。もしこの分不相応な望みを受け入れてくださるのであれば、これ以上の喜びはありませぬ」
「落武者さん……」
「殿の喜ぶことでしたら、どのようなことでも喜んでいたしましょう」
いつものように真面目な、しかしどこか甘えるような口調で、落武者が直斗に向かって宣言する。それを聞いた直斗の心臓が僅かに跳ねる。
「それって……なんでも?」
そして一瞬、脇においやられていた「宝の山」に視線を向ける。直後、それに気づいた落武者が彼に声をかける。
「もちろん、あちらの色本の内容と同じことも出来ますよ」
「うっ」
腹の底を見透かされたような気がして、直斗が一瞬気まずい声を上げる。しかしすぐに意識を持ち直し、興味津々な体で落武者に話しかける。
「本当に?」
「本当です。武士に二言はございません」
落武者が断言する。直斗が生唾を飲み込む。
続けざまに落武者が尋ねる。
「殿は何か、お好みのぷれいというものはございますか? この落武者、微力ながら殿の欲に応えとうございます」
「お好みの? うーん……」
問われた直斗が大真面目に考え込む。数秒後、直斗が控え目な調子で落武者に答えをぶつける。
「じゃあ、その、メイドさん……とか、いいかな」
めいど? 横文字を聞いた落武者が怪訝な顔を見せる。しかしすぐに言葉の意味を理解し、途端ににやけ面を浮かべる。
「殿も好き者でございますな」
「うるさいよ」
意地悪そうに言い放つ落武者に、直斗がぶっきらぼうに答える。
その後しばらくして、二人揃って声を上げて笑いあう。もはや二人に壁は存在しなかった。
「では、そのめいどとやらになってみるとしましょう。衣装は何処にありますか?」
「コスプレショップに行かないと無いですね。せっかくだから、次の休みに二人で見に行きましょうよ」
「ふ、二人で、ですか? それはつまり、でえと、というものでございますか?」
「まあ、そうなりますね」
「……わかり申した。この落武者、身命を賭してそのでえと、完遂してみせましょう!」
「切腹はやめてくださいよ?」
こうして晴れて恋人同士となった二人は、次の休みの計画を立てつつ、来る初デートに心を弾ませていった。二人の顔には絶えず笑顔があり、幸せに満ち満ちていた。
そしてその中で、直斗は自分と落武者を結ぶきっかけとなったエロ本の束に想いを馳せた。彼はその宝の山に感謝の意を示し、記念の品として――それ以外にやましい理由はない。本当である――これからも大切に保管していこうと心に誓ったのであった。
「ですが私という者がおりながら二次元に現を抜かすのは正直我慢なりませぬので、これらの色本は全て処分いたします」
「えっ」
その宝の山を巡ってひと悶着あったのは、また別の話である。
分厚い雑誌を手に持ちながら、落武者が淡々と問いかけてくる。彼女の視線の先にいた落武者の「殿」、高校生の杉山直斗はその光景を前にして、己の体を石のように硬くした。
時刻は夕方。直斗は学校から家に帰ってきたばかりであった。そして直斗がドアを開けて自室に入るや否や、ベッドの前に立っていた落武者が待ってましたと言わんばかりに、件の話を持ち出してきたのだ。
「これはもしや、色本というものではないでしょうか?」
いつも通り生真面目な表情で、落武者が青年に疑問をぶつける。一方の直斗は何も言わず、ただ額から汗を流して引きつった笑みを見せるだけだった。
そこに落武者が追撃を仕掛ける。
「どうなのでしょう? このいかがわしい本は、本当に殿の持ち物なのでしょうか?」
察しの通り、それは直斗の「お宝本」だった。言い換えるならばそれは成人向け雑誌、エロ本だ。落武者の推測通りである。
そもそも表紙を見れば一発でわかる。汁まみれの全裸の美少女のイラストが表紙を飾っているものを全年齢向けと言うのは、いくらなんでも無理があった。
弁解不可能だ。
「殿?」
「……はい。そうです」
だから直斗は素直に頷いた。彼は実直な性格の持ち主だった。無条件で自分を慕ってくれるこの魔物娘に嘘をつくことは、どうしても出来なかった。
「それは俺の本です。確かに俺が買いました」
「やはりそうでしたか。それと私に敬語を使う必要はありません。あなたは私の仕える殿なのですから」
「いや、別に俺殿様じゃないし……」
「それはそうと殿。これ以外にも同じ性質のものと思しき本を多数見つけたのですが。これらも全て殿のものなのでしょうか?」
自分で脇道に逸らしておいて無理矢理話を引き戻した落武者が、目を輝かせたまま自分の背中に手を回す。そして背後に隠してあった本の山を引っ張り出し、自分の足元にするりと置いてみせた。
直斗は全身の血の気が引いていく音をハッキリと聞いた。親にも見つかっていない、秘匿されるべき宝の山。それらが全て、白日の下に晒されたのだ。
それも呆気なく。つい一か月前にやってきた居候の手によって。
「どうなのですか殿。これらも全て殿のものなのですか」
その居候が、真面目くさった顔で直斗に話しかける。そこに嘲笑や侮蔑は無い。落武者はただ単に、自分の与り知らぬ物品に関して確認を取りたいだけだった。
彼女もまた、一本芯の通った真面目な女性だった。
「殿。どうかお教えいただきたい。これらも全て殿の私物なのでしょうか?」
「うう……」
しかしその生真面目さは、時としてマイナスに働くことも事実だった。実際この時、直斗は非常に気まずい気分を味わっていた。自分を慕ってくれている魔物娘に、自分の一番恥ずかしい物を見られたのだ。その魔物娘が嘲りでなく純粋な好奇心から問いかけてきていたこともまた、地味に彼の心を揺さぶった。
まさに針の筵に座らされている気分だった。
「殿!」
「……そうです。全部俺のです」
縋るような声を放つ落武者に、直斗が折れる。彼は正直者だった。そして一所懸命な魔物娘を邪険に扱えるほど酷薄でもなかった。
彼が罪を認めるのは、まさに自明の理であった。
「なるほど。これらは全て殿の物でしたか。なるほど、なるほど」
そしてそれを聞いた落武者も、納得したようにそう声を上げるだけだった。その後彼女は意識を件のお宝に向け、興味津々と言った体でそれぞれの表紙を見比べていった。
「つまり殿は、こういった趣向のものを好まれるということですね」
そして自然な流れで雑誌の一つを開き、中身を吟味しながら、真面目な顔で落武者が告げる。実際図星だったので、直斗は顔を真っ赤にして何も言えずにいた。
「これは……確か『めいど』という者の格好でしたな。こちらはちゃいな服ですか。中々に多種多様ですな」
「は、はい……仰る通りでございます……」
「そしてこちらの雑誌には……男性が年上の女性に甘えておりますね。なんとも蠱惑的な様でございますな」
「はい、それは特にお気に入りの本でありまして……」
「おお! こちらでは一人の男が複数人の女子とくんずほぐれつしています! これが世に聞くはーれむですな?」
落武者がクソ真面目な表情でエロ雑誌を一つずつ読み込み、見たままを淡々と、事務的に説明していく。男子にとっては恥辱の極みとも呼べる行為である。
「なんと凄い! 幼女と幼女が触手に絡まれておりまするぞ! 破廉恥! 殿はあぶのーまるもいけるのですか!」
「それは違います。友人に押しつけられたんです。でも触手は男の浪漫だとは思います、はい」
しかし彼女に直斗を貶めようという意図は無かった。この落武者はただ、己の敬愛する「殿」の嗜好を知りたいだけなのだ。
「もう勘弁してください……」
しかし直斗にとっては生き地獄だった。まさに地獄で閻魔大王と対面し、彼に自分の犯した罪を読み上げられているような気分だった。そして直斗は少しでも己の罪を軽くしようと、自分から余計なコメントを付け加えていく始末であった。
落武者本人に悪気がないこと、そしてそれを自分も理解していることが、余計に直斗に据わりの悪さを味わわせていた。
「なるほど。つまり殿は一つのぷれいにこだわることはなく、あらゆるぷれいを満遍なく味わいたいということなのですな」
数分後、直斗の宝を全て読み終えた落武者が短評を口に出す。彼女の顔はどこか満足そうだった。直斗は青ざめた顔をただ俯かせるだけだった。
全て見られた。もうおしまいだ。
そこに落武者が声をかける。
「水臭いですぞ殿。このようなことに憧れを抱いていると言うのならば、遠慮せず私に命じてくだされば良かったのに」
「へっ?」
予想外の文言が飛び出してきた。且つその声は優しかった。それもまた想定外だった。
直斗が思わず鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしてみせる。足元に雑誌を置き、そんな彼に意識を向け直しながら、落武者が続けて言葉を放った。
「殿に命を助けられた時から、我が身命は全て殿に捧げると誓っているのです。なさりたいことがあるのならば、どうぞ遠慮せず、わたくしめにご命令ください。それこそ夜伽でも、あぶのーまるなぷれいでも、喜んで行いましょう」
そしてそう言うなり、落武者は彼の眼前で傅いた。片膝を立て、立てた膝の反対側の握り拳を床に置き、深々と首を垂れる。
一分の迷いもない、確固たる意志から来る動きだった。この落武者は本気だった。
「わたくしの望みは殿の望み。殿の喜びこそわたくしの喜びなのです」
青白いうなじが丸見えになる。アンデッド特有の、血の気のない青ざめた首筋。
いつ見ても綺麗だ。直斗が思わず生唾を飲み込む。落武者は傅いたまま微動だにしない。
この女性を好きにしてもいい。自分には不釣り合いなほど美しい女性を。
直斗の心の中に黒い感情が芽生える。
「俺は……」
しかし直斗は、そうして滲み出る欲望を必死に抑え込んだ。一瞬でも邪な考えを抱いた自分自身を激しく嫌悪した。
「駄目です。やっぱり駄目」
彼はどこまでも生真面目な男だった。
そもそも彼がこの落武者を助けたのも、決して見返りや我欲を満たすためでは無かった。学校からの帰り道、右も左も分からないと言わんばかりに不安げに辺りを見回す落武者を見つけた彼は、本当に純粋な人助けの気持ちから彼女に駆け寄ったのだ。
「すいません。何か困りごとですか?」
「うむ?」
魔物娘と呼ばれる存在が現代社会に溶け込んで数十年が経つ。もはや彼女達は特別なものではなくなり、人間達は当たり前のように彼女達と接するようになっていた。ごく僅かながら彼女達を異物扱いする者もいるが、その数も昔に比べると大分減った。
直斗は当然、魔物娘を隣人と見る側の人間だった。
「いや実はな、少し道に迷ってしまったのだ。なにぶん人間界に来るのは初めてなもので……」
そして魔物娘もまた、人間達に非常に友好的だった。魔界――魔物娘の指すこれは並行世界と同義であると大真面目に提唱する学者もいる――からやってくる彼女達はその大多数が人間と仲良くしたいと考えていた。この落武者も同様だった。
「それだったら、俺が案内しますよ。どこに行きたいんですか?」
「いいのか? 私ごときにそんなことを――」
「いいんですよ。困った時はお互い様ですから」
これが直斗と、件の落武者の馴れ初めである。この後直斗は落武者の案内役を買って出て、彼女が目的地とする市役所へと導いてあげた。直斗からすれば、この行いは「やって当然」のものであり、特別何かを期待してのものでは無かった。
しかし落武者は違った。彼女はこの親切を深く心に刻み込んだ。そしてその優しさに感銘を受けた落武者は、彼こそ自分が仕えるべき主君であると結論づけたのだ。
「頼もう! 杉山直斗の家はここであっているだろうか! 我は名も無き落武者。直斗殿に用があって参った!」
彼女が直斗に生涯の忠誠を誓い、杉山家に居候することになったのは、その直後のことである。
しかし繰り返すが、直斗は決して見返りを求めてやったわけではない。居候を認めたことにしても、この落武者があまりにも必死だったからそれを認めたに過ぎなかった。直斗も――もっと言うと彼の両親も、別にやましい気持ちから魔物娘の同棲を許可したわけでは無かった。
「俺はそういう流れで、人をいいように使いたくないです」
だから直斗はそう言った。傅く落武者を見下ろしながら、きっぱり断言した。
「だから顔を上げてください」
迷いのない言葉。直斗の顔には決意が満ち満ちていた。
今度はそれを聞いた落武者が驚く番だった。
「今なんと申された?」
文字通り顔面に驚愕の感情を貼りつけながら、落武者がバネ仕掛けのように素早く顔を上げる。目を点にし、信じられないものを見るかのように直斗を凝視する。
「殿はわたくしを使ってくださらないというのですか?」
「え、いや、それは」
「わたくしは殿にとって不要な存在だというのですか?」
「いや、別にいらないってわけじゃないけど……」
縋るように落武者が迫る。そのあまりの迫力に、直斗は口ごもるしかなかった。
その煮え切らない態度が、落武者の心に止めを刺した。
「やはり! わたくしでは殿を満足させることは出来なかったということなのですね!」
「えっ」
それは飛躍しすぎだ。直斗がそう言おうと口を開く。
しかし落武者の方が速かった。直斗が声を発する前に、彼女はその場で素早く正座の姿勢を取った。
「命を助けられておきながら、そのご恩も返せぬとは! 我が一生の不覚!」
「さっきから何言ってるんですかあなたは」
「かくなる上は我が無能の罪、切腹をもって償いとうございます……!」
「は?」
正直、直斗は何故彼女がここまで感情を昂らせているのか理解できなかった。しかし彼女がおもむろに腰に提げた日本刀を抜いたところで、次に落武者が何をしようとしているのかは察しがついた。
「まさか」
「介錯は無用。自分の始末は自分でつけますゆえ」
刀を両手で持ち、その切っ先を剥き出しの腹に押し当てる。
青ざめ引き締まった腹部に、白銀の刃が触れる。
それを見た直斗が咄嗟に叫ぶ。
「やめろ、駄目だ――!」
落武者は話を聞かなかった。完全にその気でいた。両手を伸ばし、刀を離して狙いをつける。
「おさらば!」
「やめろ!」
直斗の体が反射的に動く。
両手を伸ばし、日本刀を握る落武者の手をがっしり掴む。
冷たく柔らかい感触が掌に伝わる。
「誰がそんなことしろって言った!」
「えっ」
己の行いをいきなり止められ、きょとんとする落武者に、直斗の怒りの叫びが響く。
それが余計に落武者の心をかき乱す。
「し、しかし殿は、わたくしのことはもう……」
「使えないって一言も言ってないだろ! 人の話は最後まで聞け!」
怒りのままに正論を吐く。色々な意味で、落武者はぐうの音も出せなかった。
直斗が追撃する。
「俺は別に怒ってないんだよ。ただその、あなたを、顎で使いたくないんだ」
「あなた」の部分だけ、努めて感情を押し殺しながら、直斗が自身の心情を吐露する。
落武者は改めて困惑した。困惑のまま落武者が問う。
「なぜなのです? わたくしは構わないと申しているのに、なぜあなたはそれを嫌がるのですか?」
直斗を見上げる落武者の目もまた、真剣そのものだった。彼女は本気で腹切りを敢行し、そしてそれを止めた直斗の行動に本気で戸惑っていた。
彼女の価値観の根底には武士道があった。直斗の行いは、その武士道に反しているものだったからだ。
「我らサムライは、殿の命には絶対服従。それが掟なのです。しかしあなたは、自らそれを放棄なさろうとしている。わたくしにはそこがわかりませぬ」
「それは」
「どうかお教えください。あなたは何故、わたくしを使ってくださらぬのか。そして何故こうも、わたくしに優しくしてくださるのか」
落武者の視線が胸に刺さる。彼女は本気で疑問に思っていた。
それが直斗に踏ん切りをつけさせる最後のひと押しになった。直斗は一度唾を飲み、そして改めて落武者と目を合わせた。
「それは」
「それは?」
「あなたのことが、好き、だからです」
二人の時間が止まる。呼吸が止まり、視線が絡まったまま動かなくなる。
「え」
永遠とも思える程時間が経った後、落武者がきょとんとした声を出す。
直斗は何も言わない。
「……」
一瞬直斗が視線を外す。そして落武者が発掘した雑誌の山をちらと見た後、すぐに落武者に視線を戻す。
「でもその、告白する勇気が無かったので、あれで発散してました」
「は」
「ごめんなさい。あなたを見るたびに、むらむらして止まらなかったんです。でもそれだけあなたが好きなんです」
いまいち良くわからない理由だった――意味がわかれば幻滅されてもおかしくない理由でもあった。直斗の脳味噌は回転しすぎて熱暴走を起こしていた。
もう止まることも出来ない。最後まで突き進むだけだ。
「俺、最初にあなたと道端で会ってから、あなたのことが気になってたんです。正直、あなたが居候に来た時は、やったって思っちゃいました」
補足しておくと、落武者の居候の話に当時一番賛同の意思を示していたのは直斗である。これもまた、落武者が彼を殿と慕う一因であった。
しかし彼女は、「殿」が性愛的な意味で自分を好いていることには最後まで気づかなかった。彼はあくまで、自分を「しもべ」として認めてくれている。それ以上のことは考えていなかった。
「だから俺は、そんなあなたをこき使うなんてしたくないんです」
「あ、は、あ?」
閑話休題。直斗がそう続け、その場で腰を下ろす。二人の視線が平行になる。
今度は落武者の思考が機能不全を起こす番だった。
「……それは、本当なのですか?」
だからそう言うだけで精一杯だった。直斗も頷くだけで精一杯だった。
「本当に、殿は私のことをあ、愛しておられるのですか?」
確認を取るように、落武者が慎重な語り口で問いかける。
真面目くさった顔で直斗が再度頷く。
「好きです」
全精力を傾けて、腹の底から四文字を捻り出す。
「つきあってください」
最後の一撃。
二人の時間が再び止まった。
そのまま時間だけが過ぎていった。雲が流れ、日が沈み、空が薄闇に染まっていく。
落武者と人間は動こうとしなかった。お互いに顔を見つめあったまま、ぴくりとも動かなかった。
目の前で起きたことが信じられなかった。展開に思考が追いつかず、ただ呆然とするだけだった。
「――あっ」
そんな二人を正気に戻したのは、外から鳴り響くチャイムの音だった。それは十八時を告げるチャイムであり、閉め切った窓越しからでも聞こえてくるほど大きな音色だった。
それが二人の脳を揺さぶった。
「も、もう六時のようですね」
不意打ちを受け、叩き起こされた落武者が、慌てた調子で声を上げる。直斗も同時に自意識を取り戻し、大急ぎで落武者から距離を取る。
そして落武者の言葉に何とか合わせようと視線を泳がせた後、どうにか思いついた言葉を吐き出す。
「そう……みたいですね。俺達、かなり長い間止まってたみたいですね」
「え、ええ。どうやらそのようで」
歯切れ悪く落武者が言い返す。直斗も彼女から視線を外し、茹蛸のように真っ赤になった顔を隠すように斜め下を向いて俯く。
そこで再び時間が止まる。しかし今回は、互いに意識はしっかり持っていた。この気まずい沈黙をなんとかしなければ。二人はそれだけを考えて、必死に脳味噌を働かせていた。
「あの」
最初に突破口を見出したのは落武者だった。直斗の方をじっと見つめ、意を決して口を開く。
直斗もそれに期待を寄せる。この微妙な空気を打ち破ってくれるのであれば、どんなものでも大歓迎だ。
「殿は、本当にわたくしのことを、愛しておられるのですね?」
苦悩の末に彼女が選択したのは玉砕戦法だった。ド直球な物言いを受け、直斗の頭は真っ白になった。
さすがにそれは歓迎できない。直斗の心が羞恥の悲鳴を上げる。しかし落武者は止まらない。
「あの時は気持ちの整理がつかず、いまいち現実味を感じることが出来ませんでした。ですのでもう一度、改めて教えていただきたいのです」
「え、あ、いや」
「殿は私を愛しているのですね?」
「そ、それは」
「そうなのですね!?」
落武者が顔を近づける。鼻先がぶつかるほどに急接近する。
直斗が息を詰まらせる。落武者の顔は真剣そのものだった。
「殿!」
何かを期待するように、落武者が催促する。しかしその必死の物言いが、却って直斗を冷静にさせた。
彼女の気持ちに応えなければならない。その思いが緊張を解きほぐし、過熱していた脳味噌を冷却させていく。
「俺は」
視界がクリアになる。落武者の顔がくっきりと映る。押し掛けるように自分のしもべとなり、喜んで自分に尽くしてきてくれた忠臣の顔。
そして自分が恋をした、この世で一番美しい女性の顔。
「俺は、あなたが大好きです」
愛する女の顔を見つめながら、直斗が再度宣言する。
「愛しています」
緊張も恐怖も無い。直斗は悟りの境地にいた。生まれて初めて、彼は自分の感情に素直になれた。
今なら全てを受け入れられる。
「も、もう一回お願いします」
落武者の催促。それすら心地よく感じる。
「落武者さん、愛しています」
そういえば、この人の名前を知らないな。直斗が頭の隅でそんなことを思い出す。落武者本人も蘇った際に記憶の一部を失ったと言っており、それによって名前を忘れたとも言っていた。
どうでもいい。今の二人に名前など関係ない。
「もう一回」
「愛しています」
「もう一度」
「この世の誰より愛してます」
「大きな声で!」
「あなたが好きです!」
「本当に好きなのですね!?」
「大好きです! 本当に好きなんです!」
押し問答はその後もしばらく続いた。そうして思うままに意思確認を済ませた後、二人はどちらからともなく笑い始めた。
「なんで俺達、こんなことしてるんでしょうかね」
「なぜでしょうな。わたくしにはさっぱりわかりませぬ」
我に返り、それまでやっていた不毛な行いを思い返す。そして馬鹿なことしたと認識を共有し、二人して愉快そうに笑いあう。
今更ながらどうしてそんなことをしたのか、さっぱりわからない。しかしそれは決して、不愉快なものではなかった。
「でも、わたくしはとても嬉しかったです。殿のお気持ちをたっぷり聞くことが出来ましたから」
「俺はちょっと恥ずかしいかな。女の人に告白したのはこれが初めてだし」
「お気持ちを見せるのは、お嫌ですか?」
「嫌なわけないだろ。むしろすっきりした気分だよ。自分の気持ちを明かすことが出来てさ」
「左様でございますか」
落武者が穏やかな顔で答える。それから落武者が、ゆっくりと自分の顔を離していく。
「駄目」
それを直斗が止める。落武者は命じられるがまま動きを止め、それでも突然の制止に戸惑いを見せる。
その動きの止まった落武者の体を、直斗が正面から抱きしめる。
「と、殿っ?」
「まだあなたの気持ちを聞いてない」
背中に両手を回し、縋りつくように直斗が落武者に抱きつく。何かを恐れるように――それでいてなお、それを離さんとする意思を見せつけるかのように。
「落武者さんは、俺のことをどう思っているんですか」
決して豊満とは言えない胸の谷間に顔を埋めながら、直斗が重ねて問いかける。殿のいきなりの乱心に落武者は当初大いに驚愕したが、その後すぐに彼女は直斗の心の機微を察した。
「ご安心を」
だからまず、落武者は言葉でなく態度で気持ちを示した。自分も直斗の背中に手を回し、彼の体を抱き返す。抱擁返しに直斗の背筋が引き延ばされる。
そのまま耳元で落武者が告げる。
「わたくしも、殿のことをお慕いしております」
それだけ言って、名残惜しそうに体を離す。きょとんとした顔で直斗が落武者を見ると、彼女の頬は僅かに朱が差していた。
照れ笑いの表情を浮かべながら、落武者が続けて言葉を放つ。
「殿。わたくしも殿のことを愛しております。もしこの分不相応な望みを受け入れてくださるのであれば、これ以上の喜びはありませぬ」
「落武者さん……」
「殿の喜ぶことでしたら、どのようなことでも喜んでいたしましょう」
いつものように真面目な、しかしどこか甘えるような口調で、落武者が直斗に向かって宣言する。それを聞いた直斗の心臓が僅かに跳ねる。
「それって……なんでも?」
そして一瞬、脇においやられていた「宝の山」に視線を向ける。直後、それに気づいた落武者が彼に声をかける。
「もちろん、あちらの色本の内容と同じことも出来ますよ」
「うっ」
腹の底を見透かされたような気がして、直斗が一瞬気まずい声を上げる。しかしすぐに意識を持ち直し、興味津々な体で落武者に話しかける。
「本当に?」
「本当です。武士に二言はございません」
落武者が断言する。直斗が生唾を飲み込む。
続けざまに落武者が尋ねる。
「殿は何か、お好みのぷれいというものはございますか? この落武者、微力ながら殿の欲に応えとうございます」
「お好みの? うーん……」
問われた直斗が大真面目に考え込む。数秒後、直斗が控え目な調子で落武者に答えをぶつける。
「じゃあ、その、メイドさん……とか、いいかな」
めいど? 横文字を聞いた落武者が怪訝な顔を見せる。しかしすぐに言葉の意味を理解し、途端ににやけ面を浮かべる。
「殿も好き者でございますな」
「うるさいよ」
意地悪そうに言い放つ落武者に、直斗がぶっきらぼうに答える。
その後しばらくして、二人揃って声を上げて笑いあう。もはや二人に壁は存在しなかった。
「では、そのめいどとやらになってみるとしましょう。衣装は何処にありますか?」
「コスプレショップに行かないと無いですね。せっかくだから、次の休みに二人で見に行きましょうよ」
「ふ、二人で、ですか? それはつまり、でえと、というものでございますか?」
「まあ、そうなりますね」
「……わかり申した。この落武者、身命を賭してそのでえと、完遂してみせましょう!」
「切腹はやめてくださいよ?」
こうして晴れて恋人同士となった二人は、次の休みの計画を立てつつ、来る初デートに心を弾ませていった。二人の顔には絶えず笑顔があり、幸せに満ち満ちていた。
そしてその中で、直斗は自分と落武者を結ぶきっかけとなったエロ本の束に想いを馳せた。彼はその宝の山に感謝の意を示し、記念の品として――それ以外にやましい理由はない。本当である――これからも大切に保管していこうと心に誓ったのであった。
「ですが私という者がおりながら二次元に現を抜かすのは正直我慢なりませぬので、これらの色本は全て処分いたします」
「えっ」
その宝の山を巡ってひと悶着あったのは、また別の話である。
17/05/31 18:49更新 / 黒尻尾