はじめてのおつかい
時は来た。
その唐傘おばけは覚悟を決めた。
「……よし」
今日は記念日。永らく自分を愛してくれた「ご主人様」に恩を返す最初の日。今まで物言わぬ番傘として過ごし続け、この日魔物娘となった唐傘おばけは、その芽生えたばかりの心に壮絶な覚悟を秘めていた。
当然の話だ。何故なら彼女が変じたのは、彼女の「ご主人様」が仕事――町の門番の仕事に向かった、まさにその時であったからだ。そして今日の天気は快晴であり、彼は長く愛用していたこの傘を家に置いて来ていたのである。
「帰ってくるまであと六時間。それまでになんとかしないと……」
故に「ご主人様」は、帰宅するなりまったく不意打ちを食らう格好で、この唐傘おばけと遭遇することになるのだ。下手をすれば、彼は自分の家に唐突に現れた不審者を見て仰天してしまうかもしれない。最悪、自分を厄介者と見なして追い出そうとしてしまうかもしれない。ご主人様とは長く接してきたが、彼が魔物娘に深い造詣を持っている気配は見られなかった。唐傘おばけの不安はそんな自分の過去の経験から来ていた。
それはいけない。絶対に阻止しなければならない。何が何でも自分のことを「ご主人様」に認めてもらわなければ、恩を返すどころの話ではない。繊細な彼女は、それが不安で不安で仕方なかった。
「それだけは避けないと……」
唐傘おばけの心中には恐れがあった。しかし焦りは無かった。彼女の頭には、既にこの状況を打開する必勝の策が描かれていた。伊達に「ご主人様」に買われてからの三年間、彼の傍に寄り添っていた訳ではないのだ。
「でも大丈夫。ご主人様のことならなんでも知ってるんだから」
自身を奮い立たせるために、唐傘おばけが思ったことを口に出す。彼の好きな物を贈り物としてプレゼントし、自分を大切に使ってくれたことへの感謝と恩返しの第一歩とする。それでもって同時に彼の警戒心を解き、自らを受け入れてもらおうという算段である。
無論「ご主人様」の全てを知り尽くしている訳ではない。彼女の発言は半分強がりからくるものであった。しかし彼がどこに何を隠しているのか、または何に興味を持っているのかに関しては把握済みであった。伊達にご主人様に買われてからの三年間――以下略。
ともかく、ご主人様の好みを知る手掛かりは掴んでいる。肝心なのは、彼が帰って来るまでの間にそれを揃え、歓迎の準備を済ませることだ。
「本番は一発勝負。失敗は許されない……ああ、胃が痛い……」
正直、プレッシャーは途轍もないものだった。しかしだからと言って、唐傘おばけに退く気は無かった。
なおこの時、魔力で無理矢理篭絡すればいいという選択肢は、彼女の中には無かった。そんな無粋なことをして、ご主人様が喜ぶとは思えなかったからだ。この唐傘お化けは純粋な奉仕をもって、心から彼に尽くそうと決めていたのである。
良くも悪くも正直な個体だった。
「でもこれだけは成功させないと。よし、頑張るぞ!」
全ては愛するご主人様に恩を返すため。ご主人様に自分を認めてもらうため。
考えすぎな唐傘おばけの戦いは、こうして幕を開けたのであった。
「ええと、まずは確か、この辺りに……」
唐傘おばけはさっそく行動に移った。まず彼女が向かったのは寝室だった。寝室の奥の方には大きな本棚があり、ご主人様はそこに自分が貰ったり買ったりした書物を片っ端からしまい込んでいたのである。小説から漫画本から雑誌まで、とにかく家の中にある本は全てそこに納められていた。
唐傘おばけの狙いは、その本棚の中にある雑誌だった。
「どれだったかなあ……これかな?」
目当ての雑誌を探して、唐傘おばけが本棚に手を付ける。列が乱れないよう、一冊ずつ丁寧に引き抜いては中を確認していく。そして捜索開始から僅か二分後、彼女はお目当ての代物に辿り着いた。
「これだ!」
それはつい昨日、ご主人様が買ってきた雑誌だった。その日は雨であり、いつものようにこの唐傘おばけ――その時はまだ物言わぬ番傘であった――を差しながら書店に向かい、彼女と共にそれを購入した。だから唐傘おばけは、迷うことなくそれを探り当てることが出来たのである。
「ご主人様がお買いになった、一番新しい本……ここになら、何か手掛かりがあるはず……!」
「月刊でびる」――それが雑誌のタイトルだった。表紙には「異国特集」、「海の向こうの文化を知ろう」と大きく書かれていた。隅っこに小さく「ワイルドな魔物娘になろう」とも書かれてあったが、それに関しては無視した。雑誌を開いてみると、中身は全面総天然色であり、特集ページではジパングではお目にかかれないような奇抜な品々が色鮮やかに記されていた。
そこにあるもの全てが唐傘お化けには新鮮であった。純和風な彼女は、何もかもが異質なそれらを前にして目眩を覚えた。
「なんていうか……凄いですね……」
それは無意識のうちに敬語を放つほどの、強烈な体験だった。おもむろに中身に目を通した彼女は今まで自分が置かれていた世界はなんて小さい場所だったんだろうと痛感し、同時にもっと違う世界を見てみたいとも思うようになった。
当然、ご主人様と一緒にである。愛するご主人様と腕を組み、海の向こうにあるであろう未知の町々を共に回るのだ。
二人で朝の風を楽しみ、昼の景色を楽しみ、そして夜の月を楽しみながら、二人でしっとり……。
「えへへ……」
不純な――魔物娘としては至極当然な流れの妄想に耽りながら、唐傘おばけが幸せそうな笑みを浮かべる。しかしすぐに気を取り直し、本来の目的に立ち返る。こんなところで油を売っている暇は無いのだ。
「駄目駄目、ちゃんと良さげなものを見つけないと。……でも……」
しかし素に戻ったところで、また別の問題にぶちあたる。結局のところ、ご主人様はどれが好きなのだろう? まったくわからない。品数だけは多いが、それが却って混乱を強めていく。
「これかな? こっちかな? これも格好良さそうだし、こっちもかわいいし……」
まるで決められない。候補が多すぎて、唐傘おばけの脳内が「?」で埋まっていく。埒が明かない。
しかし何度か首を傾げた後、彼女はすぐに打開策を見出した。自分で決められないのなら、その道の専門家に助言をもらえばいいのだ。
「あそこで聞いてみてもいいかもしれないわね」
そう考えた彼女の脳裡に、一軒の店の情景が浮かび上がる。そこはいつぞやの雨の日、自分を差したご主人様と一緒に訪れた店であった。外見は平凡な木造家屋で、店内には雑誌に載っているのと同じような品物が大量に置かれていた。
名前は確か、はいから屋だったか。そこまで思い出した唐傘おばけは、その店に一筋の光明を見出した。
「まずはあの店に行って、何かよさげなものを聞いてみましょう。いい品物が見つかるかもしれません」
そうと決まれば早速行動である。唐傘おばけは雑誌を持ったまま寝室を後にし、居間に置かれていた空の手提げ袋を拝借し、そこに件の雑誌をしまって玄関に向かった。ご主人様は自分用に鍵を用意してはいなかったが――当然である――合鍵の隠し場所も既に把握している。
唐傘おばけは心の中でご主人様に謝罪しながら、合鍵を隠し場所から取り出した。そして外に出てからそれを使い、戸の鍵をしっかりと閉める。外出時の戸締りは基本中の基本だ。
「行ってきます」
出ていく前に一言、声をかけるのも忘れない。ご主人様が自分を伴って外出する時、いつもやっていることだ。例え聞いている者がいなくとも、こうして声を出すだけでも何か気が引き締まるような気がするのだ。
「……よし!」
そうして挨拶を終えた後、唐傘おばけが閉められた戸に背を向ける。目的の店までの道程はもちろん把握している。自分と共にご主人様の辿ってきた道のりは全て覚えているのだ。
そんなわけで、唐傘おばけはさっそく例の店に向かって歩き出した。魔物娘が一人で通りを歩くのはこの町では当たり前のことであったので、誰もそれを気に掛けることはしなかった。
それから数分後、唐傘おばけは目的の店に辿り着いた。入口の上に「はいから屋」と刻まれた看板が据えられた、小ぶりな木造家屋。かつて二人でそこを訪れた時と全く同じ光景がそこに広がっていた。
「……よし」
一つ深呼吸した後、唐傘おばけが意を決して店の中に入る。魔物化してから、の初めてのおつかい。中々に勇気のいることである。しかしここで尻込みしている場合ではない。唐傘おばけは愛するご主人様の喜ぶ姿を思い出し、勇気を振り絞って店の中を進んでいった。
救いだったのは、店内が最初に「二人」で訪れた時と寸分違わぬレイアウトをしていたことであった。おかげで彼女は必要以上に迷うことなく、店員が番をしている会計前まで到達することが出来た。
「あーら、いらっしゃい。ここには一人で来たのかしら?」
店の主であるサキュバスが、カウンター越しに声をかけてくる。これもかつて二人で訪れた時と同じ光景だ。ここは彼女が夫と共に切り盛りしている店であり、そしてジパングの外で作られている――いわゆる「外国産」の商品を取り扱っている場所なのだ。
それはともかく。一方的ながらも見知った顔ではあるものの、緊張することに変わりは無かった。なぜならこれが「今」の彼女にとっての、本格的な他者とのファーストコンタクトだからだ。変じたばかりの唐傘おばけはガチガチに緊張しながら、意を決して口を開いた。
「あ、あのっ、ちょっと聞きたいことがありましてっ」
緊張のあまり、少し声が裏返ってしまう。失敗した。唐傘おばけは瞬時に強く後悔した。体が石のように硬くなっていく。
対するサキュバスは笑うこともせず、穏やかな声で彼女に問い返した。
「大丈夫よ、落ち着いて。変化したばかりなんだから、無理して強がらなくてもいいわ」
このサキュバスは見抜いていた。自分の出自を当てられ、唐傘おばけはさらに動揺した。驚きのあまり背筋を引き延ばす唐傘おばけを見て、店主のサキュバスはさらにクスクスと笑って言った。
「なんでわかったかって? ジパングで長い事商売してると、色々わかるようになるのよ。付喪神になったばっかりの子って、なんていうかオーラが違うのよね。雰囲気っていうか、浮いてるっていうか」
自慢するでもなく、淡々と説明していく。彼女の言葉は抽象的で、いまいち掴み所のないものだったが、唐傘おばけは彼女が何を言わんとしているのか何となく理解できた。
そして目の前の魔物娘が「いい人」であることも、彼女は同時に理解した。理解すると同時に、唐傘おばけは肩から力を抜いた。
「あの、実は私、ちょっと聞きたいことがあってここに来たんです」
そうして努めて緊張を解きながら、自分がここに来た理由を話し始める。サキュバスは彼女の話を黙って最後まで聞いた。
「つまりあなたは、今まで自分を大切にしてくれたご主人様に恩返しがしたいってことね?」
「は、はい」
「そのための第一歩として、何かプレゼントがしたいと」
「はい」
そして唐傘おばけから事情を聞き終えたサキュバスは、満面の笑みを浮かべて彼女の悩みに答えた。
「それなら、いいものがあるわよ」
それはまさに天啓だった。瞬時に顔色を明るくさせる唐傘おばけに対し、サキュバスは同性でも見惚れてしまうほど朗らかな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「そういう悩みなら、お姉さん全力でサポートしてあげる。ちょっと取って来るから、ここで待っててね」
サキュバスはそう言ってカウンターを離れ、自分の後ろにあった扉を開けてその部屋の中へ消えていく。それから開けっ放しになった扉の奥から何かを探すような物音が漏れ聞こえ、やがて件のサキュバスが一個の木箱を抱えながらカウンターへと戻っていく。
ついでに奥で別の作業をしていた夫も一緒に連れてきた。
「この子が?」
「ええ。恋する女の子よ」
「また君のお節介が発動したのか」
「あら、いいじゃない。同じ魔物娘として、こういうことは放っておけないのよ」
赤い髪と赤い瞳を備えた若々しい男と、荷を抱えた件のサキュバスが、唐傘おばけを前にして軽口を叩き合う。以前店に来たことはあったが、彼女の「夫」に会うのは初めてだった。
そして唐傘おばけは、初めて見る異国情緒溢れる男の姿に驚くと同時に、その二人の和気藹々とした光景に強い憧れを抱いた。自分もいつか、ご主人様とこんな関係になれるだろうか? 胸の鼓動が秒刻みで高鳴っていく。
「ああそうそう、それよりこれなんてどうかしら。一番のオススメよ」
やがてサキュバスが本題に気づき、唐傘おばけに視線と意識を向ける。同じタイミングで夫も唐傘おばけの方を見つめる。そして彼女はそう言いながら、抱えていた木箱をカウンターの上に置いた。それは縦に少し押し潰された形の木箱で、札や封の類は一つも見受けられなかった。
唐傘おばけはそんな自分と店主の間に置かれたそれを、興味深そうにまじまじと見つめた。その彼女の眼前で、サキュバスが木箱の蓋を開け、中身を慎重に取り出す。出てきたのは壺のような形をした、小さな陶器だった。
「これは?」
「香炉よ。海の向こうにある大陸で作られた一品物。職人の手による傑作よ」
「最高傑作だよ」
唐傘おばけの疑問にサキュバスが答える。赤髪の夫が横から茶々を入れ、サキュバスが彼の脇腹を無言で小突く。
それを聞いた唐傘おばけは「なるほど」とすぐに納得した。さすがの彼女でも、「香炉」という代物がどういうものなのかは理解していた――香炉と言う名前を聞いた直後に、ご主人様が昔このような物を欲しがっていたことを思い出したのだ。
確かにこれなら、ご主人様も喜んでくれそうだ。壺の正体を知った唐傘おばけは素直にそう思い、それから続けて別の疑問をぶつける。
「これをご主人様にプレゼントすればいいんですね?」
「違うわ。あなたはこれを使って、お香を焚くのよ。これをそのまま贈るんじゃなくてね」
「へっ」
予想外の答えだった。咄嗟に唐傘おばけが問い返す。
「何を焚くんです?」
「媚香よ」
「び……?」
「えっちな気分になるお香のこと」
唐傘おばけはこのサキュバスが何を言わんとしているのか、今一つ理解できずにいた。サキュバスの夫は口元を押さえて楽しそうに笑っていた。
そんな唐傘おばけに、サキュバスがニコニコ笑いながら言葉を紡ぐ。
「確かにこれをプレゼントしても、あなたのご主人様は喜んでくれるでしょう。でもそれよりもっと、あなたのご主人様を悦ばせられるものが存在するのよ」
「それはなんなんですか?」
「あなた自身よ。あなたが直接、ご主人様に恩返しするの」
それでこそ魔物娘である。サキュバスは静かに、しかし力強く説明した。唐傘おばけは最初彼女が何を言っているのかわからなかったが、先程の媚香発言を思い出し、サキュバスが何を言わんとしているのかを理解した。
「それって、つまり……」
「つまりそういうことよ。愛から来る真の奉仕は、百万の贈り物に匹敵するの。下手なものをプレゼントするより、あなた自身をプレゼントした方が、ずっと喜んでくれるはず。それは断言できるわ。そうでしょ?」
「もちろん。君より価値のあるものなんて、この世にないからね」
「格好つけないの」
サキュバスが横にいた夫に話しかける。夫も頷き、穏やかな声でサキュバスに答える――それに対する返しはあっさりとしたものだったが。
しかしそれを聞いた唐傘おばけは、表情を暗くした。
「でも、無理矢理そういうことをしようとしたら、ご主人様に嫌われそうな気もするんですけど……」
「大丈夫。そのためのこれよ」
不安がる唐傘おばけに向かって、サキュバスが目の前にある香炉を触りながら答える。
「これを使って、あなたのご主人様をその気にさせてしまうのよ。邪道かもしれないけど、不安は払拭できる。そうでしょ?」
「それは、その……」
唐傘おばけは消極的だった。香炉を使う事への後ろめたさもあったが、それ以上に自分が床の上でご主人様を満足させられるのだろうかという不安が大きかった。拙い技巧に辟易して、失望させてしまったらどうしよう。彼女は不安で仕方なかった。
「大丈夫」
そうして不安がる唐傘おばけに、優しくサキュバスが声をかける。声をかけられた唐傘おばけは咄嗟に顔を上げ、そして視界に穏やかな顔をしたサキュバスが映りこむ。
そのサキュバスが優しく言葉を投げかける。
「確かにテクニックも大事だけど、それ以上に大切なのは愛よ。あなたが真心を込めて奉仕すれば、きっとご主人様もあなたを受け入れてくれるはず。だからそんなに不安になる必要はないわ」
「本当でしょうか?」
「もちろん。約束する」
サキュバスが力強く頷く。夫も彼女に同意するように頷き、己の伴侶の肩にそっと手を置く。
「俺だって彼女に骨抜きにされたんだ。君も絶対成功できる。断言するよ」
「何言ってるの。あなたが私を虜にさせたんじゃない」
「そうだっけ?」
「そうよ。あなたに惹かれたから、私もあなたを誘惑したの。全部あなたのせいよ」
愛する男の手の感触と体温を感じ取り、サキュバスが僅かに頬を赤らめる。確かな絆で繋がれた夫婦の姿が、今そこにあった。
そんな空気を読まないイチャつきを見た唐傘おばけは、しかし心の奥から勇気が湧き上がってくるのを感じた。私も頑張らないと。そう思わずにはいられなかった。
「そうそう。その調子。自信を持って行きなさいな」
そこで相手の調子の変化を感じ取ったサキュバスが、焚きつけるように声をかける。それが唐傘おばけの心を更に奮い立たせる。
「わかりました! 不肖唐傘おばけ、当たって砕けろの精神でぶつかってみます!」
「砕けちゃ駄目よ。あなたはこれから、ずーっとご主人様のお世話をしなきゃいけないんだから」
「あっ、そ、そうでしたね……」
「そうよ。砕けていいのは腰だけなんだから」
してやったりな表情で、サキュバスがジョークを飛ばす。夫がため息が聞こえる。唐傘おばけがそのジョークの意味を知るのは、当分先の事であった。
閑話休題。とにかく唐傘おばけは、その香炉を買うことにした。それまできょとんとしていた顔に力を入れ直し、「それはそうと」と言って本筋に戻りながら、サキュバスに値段を尋ねる。
「お金はいらないわ。そのまま持って行って構わないわよ」
「えっ」
サキュバスを聞いた唐傘おばけは呆然とした。聞き間違いだろうかと思い、改めて問い直す。
「本当に? 本当にお金はいらないんですか?」
「ええ。今回は出血大サービス。恋する付喪神への特別プレゼントよ」
「でも、そんな……」
「第一、あなたお金持ってるの?」
「うっ」
持っていなかった。もっと言うと唐傘おばけは、ここに来るまでの間に自分が無一文なことに気づいていた。彼女は文無しであることを自覚しながら、ここまで来たのであった。
最初からタダでいただこうと思っての行動ではない。もちろん考えあってのことである。
「最初に品物だけいただいて、後でここで働いて、その給料で返そうと思ってました……」
「そういうことだったの」
なんと健気な! 唐傘おばけの話を聞いたサキュバスは胸がはちきれんばかりの感動を覚えた。こんな話を聞いてしまっては、なおさら金を取るわけにはいかない。
むしろ、自分の中の老婆心に火がつく有様であった。サキュバスは両の瞳を輝かせ、カウンターの上に身を乗り出しながら唐傘おばけに言い放った。
「何かあったらいつでも来なさい。相談に乗るからね? どんな小さなことでもいいから、ね? 絶対によ?」
「は、はい、わかりました」
「それともし出来たら、次に来た時はあなたの旦那様について色々話してほしいわ。どういう人なのかとか、どういう仕事してるのかとか。あ、あともちろん夜伽の話もね♪ 具体的にはどんな体位が好きかってことね♪」
「そ、それは、もちろん……はい……」
一番最後の話題を出した時が、サキュバスの目が一番輝いた時だった。そんな強烈な欲求をストレートに受けた唐傘おばけは、若干たじろぎながら頷くしかなかった。夫は唐傘おばけに目配せしつつ、なんかごめんなと小声で謝った。
その後もサキュバスの「お節介」は長いこと続いた。夫もそれを止めようとはせず、おかげで唐傘おばけは過剰なアドバイスの嵐に曝されることとなった。家事の仕方から殿方の悦ばせ方まで、それこそ息つく暇もない集中講義であった。
「一番のおすすめは対面座位ね。相手と向かい合って、悦びを分かち合える。これほど素晴らしい体位は無いわ。あなたもぜひ実践してみてね」
「は、はいっ。わかりました」
しかし不思議と、不快な気持ちにはならなかった。それどころか自分をここまで気にかけてくれることに、感謝の念すら覚え始めていた。
「まあつまり、私が言いたいのは、頑張りなさいってことよ。安心して、気を引き締めていくのよ」
十分後、サキュバスが強引に話を締めにかかる。唐傘おばけとしても話を終えることに異存はなかったので、その無理矢理な閉じ方に異議を挟むことはしなかった。
「ありがとうございました。とっても参考になりました」
「いいのよ。私がやりたくてやったことなんだから」
代わりに唐傘おばけは、サキュバスに対してそう感謝の言葉を伝えた。それは本心からの言葉であった。
対するサキュバスも謙遜でもってそれに応えた。その後唐傘おばけは香炉を木箱に戻し、両手で抱えるようにして持った。
二人に再度礼を述べ、唐傘おばけがカウンターに背を向ける。はいからな品が並ぶ店の中を慎重に進み、店の外に続く扉へ近づいていく。
「頑張りなさい」
扉を開けようとした瞬間、後ろから声がかかってくる。唐傘おばけは肩越しに店主を見やり、小さく首肯してから扉を開いた。
はじめてのおつかいは、こうして幕を閉じたのだった。
その後唐傘おばけは、何の妨害も無く家に帰りつくことが出来た。まだご主人様は帰ってきておらず、彼女にとっては全くの好都合であった。
とにかく扉を開け、家の中に入る。合鍵を元の場所にしまい直し、乱れ始めていた息を無理矢理整える。
「……それじゃ、準備しないと」
そうして気持ちを落ち着かせた唐傘おばけは、早速用意を始めた。居間に向かって木箱を開け、卓袱台の上に香炉を置く。それの隣に香を置き、さらにその横に箪笥の中から拝借したマッチを置く。ついでにいつ「始まって」もいいように、寝室に布団を敷いておくのも忘れない。
当然ながら、布団は一組しかなかった。当然一人用であり、二人で入るには少々狭苦しい。揃って安眠するにはぴったり密着するか、もしくは毛布を羽織る必要がないくらい体を温める必要があるだろう。
「私とご主人様が……ふふっ」
甘い妄想が止まらない。これから始まるであろう蜜月の日々を考えながら、唐傘おばけが無意識のうちに笑みを浮かべる。
しかしそれを実現するためにも、今晩のファーストコンタクトは絶対に成功させなければならない。想像に耽るのを止め、もう一度出迎えの用意が万全かを確認する。そこで自分の身だしなみが気になり、居間に置かれていた手鏡を取って自分の顔を見つめる。
前髪を整え、バランスを確かめる。口紅は塗った方がいいだろうか。睫毛はぱっちりさせた方がいいだろうか。自分の顔を見る程に改善案が沸いて出てくるが、どれも今の自分に出来ることではないのですっぱり諦める。
「他に出来ることもやっておこう」
まだ時間はある。今の内にお風呂も沸かしておこう。気持ちを切り替えた唐傘おばけはそんなことも考えた。そして思いつくと同時に、すぐに行動に移った。勝手はわかっているので、早速浴室に向かって湯船に水を張り、火を焚き始める。こうしている内に帰ってきてしまったらどうしようと一抹の不安も抱いたが、結果から言うとそれは杞憂に終わった。
風呂を沸かし終えた後も、ご主人様が帰ってくることは無かった。そのことに安堵しつつ、唐傘おばけは最後の確認に入った。布団よし。香炉よし。浴槽よし。後は座してご主人様を待つだけだ。唐傘おばけは玄関前で正座し、彼の帰りを待つことにした。
「……きた!」
正座を初めて数時間後、音を開けて戸がスライドする。背筋を伸ばし、表情を引き締め、ついに来たその時を迎え撃つ。
戸が開け放たれ、一人の男が屋内に進入する。自分の大好きなご主人様が、いつものように帰宅する。
さあ今だ。今こそ攻撃の時だ。唐傘おばけが全身に勇気を漲らせる。
「――おかえりなさいませ、ご主人様!」
満面の笑みで唐傘おばけが男を迎え入れる。
唐傘おばけの戦いは、こうして始まったのだった。
その唐傘おばけは覚悟を決めた。
「……よし」
今日は記念日。永らく自分を愛してくれた「ご主人様」に恩を返す最初の日。今まで物言わぬ番傘として過ごし続け、この日魔物娘となった唐傘おばけは、その芽生えたばかりの心に壮絶な覚悟を秘めていた。
当然の話だ。何故なら彼女が変じたのは、彼女の「ご主人様」が仕事――町の門番の仕事に向かった、まさにその時であったからだ。そして今日の天気は快晴であり、彼は長く愛用していたこの傘を家に置いて来ていたのである。
「帰ってくるまであと六時間。それまでになんとかしないと……」
故に「ご主人様」は、帰宅するなりまったく不意打ちを食らう格好で、この唐傘おばけと遭遇することになるのだ。下手をすれば、彼は自分の家に唐突に現れた不審者を見て仰天してしまうかもしれない。最悪、自分を厄介者と見なして追い出そうとしてしまうかもしれない。ご主人様とは長く接してきたが、彼が魔物娘に深い造詣を持っている気配は見られなかった。唐傘おばけの不安はそんな自分の過去の経験から来ていた。
それはいけない。絶対に阻止しなければならない。何が何でも自分のことを「ご主人様」に認めてもらわなければ、恩を返すどころの話ではない。繊細な彼女は、それが不安で不安で仕方なかった。
「それだけは避けないと……」
唐傘おばけの心中には恐れがあった。しかし焦りは無かった。彼女の頭には、既にこの状況を打開する必勝の策が描かれていた。伊達に「ご主人様」に買われてからの三年間、彼の傍に寄り添っていた訳ではないのだ。
「でも大丈夫。ご主人様のことならなんでも知ってるんだから」
自身を奮い立たせるために、唐傘おばけが思ったことを口に出す。彼の好きな物を贈り物としてプレゼントし、自分を大切に使ってくれたことへの感謝と恩返しの第一歩とする。それでもって同時に彼の警戒心を解き、自らを受け入れてもらおうという算段である。
無論「ご主人様」の全てを知り尽くしている訳ではない。彼女の発言は半分強がりからくるものであった。しかし彼がどこに何を隠しているのか、または何に興味を持っているのかに関しては把握済みであった。伊達にご主人様に買われてからの三年間――以下略。
ともかく、ご主人様の好みを知る手掛かりは掴んでいる。肝心なのは、彼が帰って来るまでの間にそれを揃え、歓迎の準備を済ませることだ。
「本番は一発勝負。失敗は許されない……ああ、胃が痛い……」
正直、プレッシャーは途轍もないものだった。しかしだからと言って、唐傘おばけに退く気は無かった。
なおこの時、魔力で無理矢理篭絡すればいいという選択肢は、彼女の中には無かった。そんな無粋なことをして、ご主人様が喜ぶとは思えなかったからだ。この唐傘お化けは純粋な奉仕をもって、心から彼に尽くそうと決めていたのである。
良くも悪くも正直な個体だった。
「でもこれだけは成功させないと。よし、頑張るぞ!」
全ては愛するご主人様に恩を返すため。ご主人様に自分を認めてもらうため。
考えすぎな唐傘おばけの戦いは、こうして幕を開けたのであった。
「ええと、まずは確か、この辺りに……」
唐傘おばけはさっそく行動に移った。まず彼女が向かったのは寝室だった。寝室の奥の方には大きな本棚があり、ご主人様はそこに自分が貰ったり買ったりした書物を片っ端からしまい込んでいたのである。小説から漫画本から雑誌まで、とにかく家の中にある本は全てそこに納められていた。
唐傘おばけの狙いは、その本棚の中にある雑誌だった。
「どれだったかなあ……これかな?」
目当ての雑誌を探して、唐傘おばけが本棚に手を付ける。列が乱れないよう、一冊ずつ丁寧に引き抜いては中を確認していく。そして捜索開始から僅か二分後、彼女はお目当ての代物に辿り着いた。
「これだ!」
それはつい昨日、ご主人様が買ってきた雑誌だった。その日は雨であり、いつものようにこの唐傘おばけ――その時はまだ物言わぬ番傘であった――を差しながら書店に向かい、彼女と共にそれを購入した。だから唐傘おばけは、迷うことなくそれを探り当てることが出来たのである。
「ご主人様がお買いになった、一番新しい本……ここになら、何か手掛かりがあるはず……!」
「月刊でびる」――それが雑誌のタイトルだった。表紙には「異国特集」、「海の向こうの文化を知ろう」と大きく書かれていた。隅っこに小さく「ワイルドな魔物娘になろう」とも書かれてあったが、それに関しては無視した。雑誌を開いてみると、中身は全面総天然色であり、特集ページではジパングではお目にかかれないような奇抜な品々が色鮮やかに記されていた。
そこにあるもの全てが唐傘お化けには新鮮であった。純和風な彼女は、何もかもが異質なそれらを前にして目眩を覚えた。
「なんていうか……凄いですね……」
それは無意識のうちに敬語を放つほどの、強烈な体験だった。おもむろに中身に目を通した彼女は今まで自分が置かれていた世界はなんて小さい場所だったんだろうと痛感し、同時にもっと違う世界を見てみたいとも思うようになった。
当然、ご主人様と一緒にである。愛するご主人様と腕を組み、海の向こうにあるであろう未知の町々を共に回るのだ。
二人で朝の風を楽しみ、昼の景色を楽しみ、そして夜の月を楽しみながら、二人でしっとり……。
「えへへ……」
不純な――魔物娘としては至極当然な流れの妄想に耽りながら、唐傘おばけが幸せそうな笑みを浮かべる。しかしすぐに気を取り直し、本来の目的に立ち返る。こんなところで油を売っている暇は無いのだ。
「駄目駄目、ちゃんと良さげなものを見つけないと。……でも……」
しかし素に戻ったところで、また別の問題にぶちあたる。結局のところ、ご主人様はどれが好きなのだろう? まったくわからない。品数だけは多いが、それが却って混乱を強めていく。
「これかな? こっちかな? これも格好良さそうだし、こっちもかわいいし……」
まるで決められない。候補が多すぎて、唐傘おばけの脳内が「?」で埋まっていく。埒が明かない。
しかし何度か首を傾げた後、彼女はすぐに打開策を見出した。自分で決められないのなら、その道の専門家に助言をもらえばいいのだ。
「あそこで聞いてみてもいいかもしれないわね」
そう考えた彼女の脳裡に、一軒の店の情景が浮かび上がる。そこはいつぞやの雨の日、自分を差したご主人様と一緒に訪れた店であった。外見は平凡な木造家屋で、店内には雑誌に載っているのと同じような品物が大量に置かれていた。
名前は確か、はいから屋だったか。そこまで思い出した唐傘おばけは、その店に一筋の光明を見出した。
「まずはあの店に行って、何かよさげなものを聞いてみましょう。いい品物が見つかるかもしれません」
そうと決まれば早速行動である。唐傘おばけは雑誌を持ったまま寝室を後にし、居間に置かれていた空の手提げ袋を拝借し、そこに件の雑誌をしまって玄関に向かった。ご主人様は自分用に鍵を用意してはいなかったが――当然である――合鍵の隠し場所も既に把握している。
唐傘おばけは心の中でご主人様に謝罪しながら、合鍵を隠し場所から取り出した。そして外に出てからそれを使い、戸の鍵をしっかりと閉める。外出時の戸締りは基本中の基本だ。
「行ってきます」
出ていく前に一言、声をかけるのも忘れない。ご主人様が自分を伴って外出する時、いつもやっていることだ。例え聞いている者がいなくとも、こうして声を出すだけでも何か気が引き締まるような気がするのだ。
「……よし!」
そうして挨拶を終えた後、唐傘おばけが閉められた戸に背を向ける。目的の店までの道程はもちろん把握している。自分と共にご主人様の辿ってきた道のりは全て覚えているのだ。
そんなわけで、唐傘おばけはさっそく例の店に向かって歩き出した。魔物娘が一人で通りを歩くのはこの町では当たり前のことであったので、誰もそれを気に掛けることはしなかった。
それから数分後、唐傘おばけは目的の店に辿り着いた。入口の上に「はいから屋」と刻まれた看板が据えられた、小ぶりな木造家屋。かつて二人でそこを訪れた時と全く同じ光景がそこに広がっていた。
「……よし」
一つ深呼吸した後、唐傘おばけが意を決して店の中に入る。魔物化してから、の初めてのおつかい。中々に勇気のいることである。しかしここで尻込みしている場合ではない。唐傘おばけは愛するご主人様の喜ぶ姿を思い出し、勇気を振り絞って店の中を進んでいった。
救いだったのは、店内が最初に「二人」で訪れた時と寸分違わぬレイアウトをしていたことであった。おかげで彼女は必要以上に迷うことなく、店員が番をしている会計前まで到達することが出来た。
「あーら、いらっしゃい。ここには一人で来たのかしら?」
店の主であるサキュバスが、カウンター越しに声をかけてくる。これもかつて二人で訪れた時と同じ光景だ。ここは彼女が夫と共に切り盛りしている店であり、そしてジパングの外で作られている――いわゆる「外国産」の商品を取り扱っている場所なのだ。
それはともかく。一方的ながらも見知った顔ではあるものの、緊張することに変わりは無かった。なぜならこれが「今」の彼女にとっての、本格的な他者とのファーストコンタクトだからだ。変じたばかりの唐傘おばけはガチガチに緊張しながら、意を決して口を開いた。
「あ、あのっ、ちょっと聞きたいことがありましてっ」
緊張のあまり、少し声が裏返ってしまう。失敗した。唐傘おばけは瞬時に強く後悔した。体が石のように硬くなっていく。
対するサキュバスは笑うこともせず、穏やかな声で彼女に問い返した。
「大丈夫よ、落ち着いて。変化したばかりなんだから、無理して強がらなくてもいいわ」
このサキュバスは見抜いていた。自分の出自を当てられ、唐傘おばけはさらに動揺した。驚きのあまり背筋を引き延ばす唐傘おばけを見て、店主のサキュバスはさらにクスクスと笑って言った。
「なんでわかったかって? ジパングで長い事商売してると、色々わかるようになるのよ。付喪神になったばっかりの子って、なんていうかオーラが違うのよね。雰囲気っていうか、浮いてるっていうか」
自慢するでもなく、淡々と説明していく。彼女の言葉は抽象的で、いまいち掴み所のないものだったが、唐傘おばけは彼女が何を言わんとしているのか何となく理解できた。
そして目の前の魔物娘が「いい人」であることも、彼女は同時に理解した。理解すると同時に、唐傘おばけは肩から力を抜いた。
「あの、実は私、ちょっと聞きたいことがあってここに来たんです」
そうして努めて緊張を解きながら、自分がここに来た理由を話し始める。サキュバスは彼女の話を黙って最後まで聞いた。
「つまりあなたは、今まで自分を大切にしてくれたご主人様に恩返しがしたいってことね?」
「は、はい」
「そのための第一歩として、何かプレゼントがしたいと」
「はい」
そして唐傘おばけから事情を聞き終えたサキュバスは、満面の笑みを浮かべて彼女の悩みに答えた。
「それなら、いいものがあるわよ」
それはまさに天啓だった。瞬時に顔色を明るくさせる唐傘おばけに対し、サキュバスは同性でも見惚れてしまうほど朗らかな笑みを浮かべて言葉を続けた。
「そういう悩みなら、お姉さん全力でサポートしてあげる。ちょっと取って来るから、ここで待っててね」
サキュバスはそう言ってカウンターを離れ、自分の後ろにあった扉を開けてその部屋の中へ消えていく。それから開けっ放しになった扉の奥から何かを探すような物音が漏れ聞こえ、やがて件のサキュバスが一個の木箱を抱えながらカウンターへと戻っていく。
ついでに奥で別の作業をしていた夫も一緒に連れてきた。
「この子が?」
「ええ。恋する女の子よ」
「また君のお節介が発動したのか」
「あら、いいじゃない。同じ魔物娘として、こういうことは放っておけないのよ」
赤い髪と赤い瞳を備えた若々しい男と、荷を抱えた件のサキュバスが、唐傘おばけを前にして軽口を叩き合う。以前店に来たことはあったが、彼女の「夫」に会うのは初めてだった。
そして唐傘おばけは、初めて見る異国情緒溢れる男の姿に驚くと同時に、その二人の和気藹々とした光景に強い憧れを抱いた。自分もいつか、ご主人様とこんな関係になれるだろうか? 胸の鼓動が秒刻みで高鳴っていく。
「ああそうそう、それよりこれなんてどうかしら。一番のオススメよ」
やがてサキュバスが本題に気づき、唐傘おばけに視線と意識を向ける。同じタイミングで夫も唐傘おばけの方を見つめる。そして彼女はそう言いながら、抱えていた木箱をカウンターの上に置いた。それは縦に少し押し潰された形の木箱で、札や封の類は一つも見受けられなかった。
唐傘おばけはそんな自分と店主の間に置かれたそれを、興味深そうにまじまじと見つめた。その彼女の眼前で、サキュバスが木箱の蓋を開け、中身を慎重に取り出す。出てきたのは壺のような形をした、小さな陶器だった。
「これは?」
「香炉よ。海の向こうにある大陸で作られた一品物。職人の手による傑作よ」
「最高傑作だよ」
唐傘おばけの疑問にサキュバスが答える。赤髪の夫が横から茶々を入れ、サキュバスが彼の脇腹を無言で小突く。
それを聞いた唐傘おばけは「なるほど」とすぐに納得した。さすがの彼女でも、「香炉」という代物がどういうものなのかは理解していた――香炉と言う名前を聞いた直後に、ご主人様が昔このような物を欲しがっていたことを思い出したのだ。
確かにこれなら、ご主人様も喜んでくれそうだ。壺の正体を知った唐傘おばけは素直にそう思い、それから続けて別の疑問をぶつける。
「これをご主人様にプレゼントすればいいんですね?」
「違うわ。あなたはこれを使って、お香を焚くのよ。これをそのまま贈るんじゃなくてね」
「へっ」
予想外の答えだった。咄嗟に唐傘おばけが問い返す。
「何を焚くんです?」
「媚香よ」
「び……?」
「えっちな気分になるお香のこと」
唐傘おばけはこのサキュバスが何を言わんとしているのか、今一つ理解できずにいた。サキュバスの夫は口元を押さえて楽しそうに笑っていた。
そんな唐傘おばけに、サキュバスがニコニコ笑いながら言葉を紡ぐ。
「確かにこれをプレゼントしても、あなたのご主人様は喜んでくれるでしょう。でもそれよりもっと、あなたのご主人様を悦ばせられるものが存在するのよ」
「それはなんなんですか?」
「あなた自身よ。あなたが直接、ご主人様に恩返しするの」
それでこそ魔物娘である。サキュバスは静かに、しかし力強く説明した。唐傘おばけは最初彼女が何を言っているのかわからなかったが、先程の媚香発言を思い出し、サキュバスが何を言わんとしているのかを理解した。
「それって、つまり……」
「つまりそういうことよ。愛から来る真の奉仕は、百万の贈り物に匹敵するの。下手なものをプレゼントするより、あなた自身をプレゼントした方が、ずっと喜んでくれるはず。それは断言できるわ。そうでしょ?」
「もちろん。君より価値のあるものなんて、この世にないからね」
「格好つけないの」
サキュバスが横にいた夫に話しかける。夫も頷き、穏やかな声でサキュバスに答える――それに対する返しはあっさりとしたものだったが。
しかしそれを聞いた唐傘おばけは、表情を暗くした。
「でも、無理矢理そういうことをしようとしたら、ご主人様に嫌われそうな気もするんですけど……」
「大丈夫。そのためのこれよ」
不安がる唐傘おばけに向かって、サキュバスが目の前にある香炉を触りながら答える。
「これを使って、あなたのご主人様をその気にさせてしまうのよ。邪道かもしれないけど、不安は払拭できる。そうでしょ?」
「それは、その……」
唐傘おばけは消極的だった。香炉を使う事への後ろめたさもあったが、それ以上に自分が床の上でご主人様を満足させられるのだろうかという不安が大きかった。拙い技巧に辟易して、失望させてしまったらどうしよう。彼女は不安で仕方なかった。
「大丈夫」
そうして不安がる唐傘おばけに、優しくサキュバスが声をかける。声をかけられた唐傘おばけは咄嗟に顔を上げ、そして視界に穏やかな顔をしたサキュバスが映りこむ。
そのサキュバスが優しく言葉を投げかける。
「確かにテクニックも大事だけど、それ以上に大切なのは愛よ。あなたが真心を込めて奉仕すれば、きっとご主人様もあなたを受け入れてくれるはず。だからそんなに不安になる必要はないわ」
「本当でしょうか?」
「もちろん。約束する」
サキュバスが力強く頷く。夫も彼女に同意するように頷き、己の伴侶の肩にそっと手を置く。
「俺だって彼女に骨抜きにされたんだ。君も絶対成功できる。断言するよ」
「何言ってるの。あなたが私を虜にさせたんじゃない」
「そうだっけ?」
「そうよ。あなたに惹かれたから、私もあなたを誘惑したの。全部あなたのせいよ」
愛する男の手の感触と体温を感じ取り、サキュバスが僅かに頬を赤らめる。確かな絆で繋がれた夫婦の姿が、今そこにあった。
そんな空気を読まないイチャつきを見た唐傘おばけは、しかし心の奥から勇気が湧き上がってくるのを感じた。私も頑張らないと。そう思わずにはいられなかった。
「そうそう。その調子。自信を持って行きなさいな」
そこで相手の調子の変化を感じ取ったサキュバスが、焚きつけるように声をかける。それが唐傘おばけの心を更に奮い立たせる。
「わかりました! 不肖唐傘おばけ、当たって砕けろの精神でぶつかってみます!」
「砕けちゃ駄目よ。あなたはこれから、ずーっとご主人様のお世話をしなきゃいけないんだから」
「あっ、そ、そうでしたね……」
「そうよ。砕けていいのは腰だけなんだから」
してやったりな表情で、サキュバスがジョークを飛ばす。夫がため息が聞こえる。唐傘おばけがそのジョークの意味を知るのは、当分先の事であった。
閑話休題。とにかく唐傘おばけは、その香炉を買うことにした。それまできょとんとしていた顔に力を入れ直し、「それはそうと」と言って本筋に戻りながら、サキュバスに値段を尋ねる。
「お金はいらないわ。そのまま持って行って構わないわよ」
「えっ」
サキュバスを聞いた唐傘おばけは呆然とした。聞き間違いだろうかと思い、改めて問い直す。
「本当に? 本当にお金はいらないんですか?」
「ええ。今回は出血大サービス。恋する付喪神への特別プレゼントよ」
「でも、そんな……」
「第一、あなたお金持ってるの?」
「うっ」
持っていなかった。もっと言うと唐傘おばけは、ここに来るまでの間に自分が無一文なことに気づいていた。彼女は文無しであることを自覚しながら、ここまで来たのであった。
最初からタダでいただこうと思っての行動ではない。もちろん考えあってのことである。
「最初に品物だけいただいて、後でここで働いて、その給料で返そうと思ってました……」
「そういうことだったの」
なんと健気な! 唐傘おばけの話を聞いたサキュバスは胸がはちきれんばかりの感動を覚えた。こんな話を聞いてしまっては、なおさら金を取るわけにはいかない。
むしろ、自分の中の老婆心に火がつく有様であった。サキュバスは両の瞳を輝かせ、カウンターの上に身を乗り出しながら唐傘おばけに言い放った。
「何かあったらいつでも来なさい。相談に乗るからね? どんな小さなことでもいいから、ね? 絶対によ?」
「は、はい、わかりました」
「それともし出来たら、次に来た時はあなたの旦那様について色々話してほしいわ。どういう人なのかとか、どういう仕事してるのかとか。あ、あともちろん夜伽の話もね♪ 具体的にはどんな体位が好きかってことね♪」
「そ、それは、もちろん……はい……」
一番最後の話題を出した時が、サキュバスの目が一番輝いた時だった。そんな強烈な欲求をストレートに受けた唐傘おばけは、若干たじろぎながら頷くしかなかった。夫は唐傘おばけに目配せしつつ、なんかごめんなと小声で謝った。
その後もサキュバスの「お節介」は長いこと続いた。夫もそれを止めようとはせず、おかげで唐傘おばけは過剰なアドバイスの嵐に曝されることとなった。家事の仕方から殿方の悦ばせ方まで、それこそ息つく暇もない集中講義であった。
「一番のおすすめは対面座位ね。相手と向かい合って、悦びを分かち合える。これほど素晴らしい体位は無いわ。あなたもぜひ実践してみてね」
「は、はいっ。わかりました」
しかし不思議と、不快な気持ちにはならなかった。それどころか自分をここまで気にかけてくれることに、感謝の念すら覚え始めていた。
「まあつまり、私が言いたいのは、頑張りなさいってことよ。安心して、気を引き締めていくのよ」
十分後、サキュバスが強引に話を締めにかかる。唐傘おばけとしても話を終えることに異存はなかったので、その無理矢理な閉じ方に異議を挟むことはしなかった。
「ありがとうございました。とっても参考になりました」
「いいのよ。私がやりたくてやったことなんだから」
代わりに唐傘おばけは、サキュバスに対してそう感謝の言葉を伝えた。それは本心からの言葉であった。
対するサキュバスも謙遜でもってそれに応えた。その後唐傘おばけは香炉を木箱に戻し、両手で抱えるようにして持った。
二人に再度礼を述べ、唐傘おばけがカウンターに背を向ける。はいからな品が並ぶ店の中を慎重に進み、店の外に続く扉へ近づいていく。
「頑張りなさい」
扉を開けようとした瞬間、後ろから声がかかってくる。唐傘おばけは肩越しに店主を見やり、小さく首肯してから扉を開いた。
はじめてのおつかいは、こうして幕を閉じたのだった。
その後唐傘おばけは、何の妨害も無く家に帰りつくことが出来た。まだご主人様は帰ってきておらず、彼女にとっては全くの好都合であった。
とにかく扉を開け、家の中に入る。合鍵を元の場所にしまい直し、乱れ始めていた息を無理矢理整える。
「……それじゃ、準備しないと」
そうして気持ちを落ち着かせた唐傘おばけは、早速用意を始めた。居間に向かって木箱を開け、卓袱台の上に香炉を置く。それの隣に香を置き、さらにその横に箪笥の中から拝借したマッチを置く。ついでにいつ「始まって」もいいように、寝室に布団を敷いておくのも忘れない。
当然ながら、布団は一組しかなかった。当然一人用であり、二人で入るには少々狭苦しい。揃って安眠するにはぴったり密着するか、もしくは毛布を羽織る必要がないくらい体を温める必要があるだろう。
「私とご主人様が……ふふっ」
甘い妄想が止まらない。これから始まるであろう蜜月の日々を考えながら、唐傘おばけが無意識のうちに笑みを浮かべる。
しかしそれを実現するためにも、今晩のファーストコンタクトは絶対に成功させなければならない。想像に耽るのを止め、もう一度出迎えの用意が万全かを確認する。そこで自分の身だしなみが気になり、居間に置かれていた手鏡を取って自分の顔を見つめる。
前髪を整え、バランスを確かめる。口紅は塗った方がいいだろうか。睫毛はぱっちりさせた方がいいだろうか。自分の顔を見る程に改善案が沸いて出てくるが、どれも今の自分に出来ることではないのですっぱり諦める。
「他に出来ることもやっておこう」
まだ時間はある。今の内にお風呂も沸かしておこう。気持ちを切り替えた唐傘おばけはそんなことも考えた。そして思いつくと同時に、すぐに行動に移った。勝手はわかっているので、早速浴室に向かって湯船に水を張り、火を焚き始める。こうしている内に帰ってきてしまったらどうしようと一抹の不安も抱いたが、結果から言うとそれは杞憂に終わった。
風呂を沸かし終えた後も、ご主人様が帰ってくることは無かった。そのことに安堵しつつ、唐傘おばけは最後の確認に入った。布団よし。香炉よし。浴槽よし。後は座してご主人様を待つだけだ。唐傘おばけは玄関前で正座し、彼の帰りを待つことにした。
「……きた!」
正座を初めて数時間後、音を開けて戸がスライドする。背筋を伸ばし、表情を引き締め、ついに来たその時を迎え撃つ。
戸が開け放たれ、一人の男が屋内に進入する。自分の大好きなご主人様が、いつものように帰宅する。
さあ今だ。今こそ攻撃の時だ。唐傘おばけが全身に勇気を漲らせる。
「――おかえりなさいませ、ご主人様!」
満面の笑みで唐傘おばけが男を迎え入れる。
唐傘おばけの戦いは、こうして始まったのだった。
17/05/05 17:11更新 / 黒尻尾