bohemian rhapsody
狭い部屋の中に、三人の人間がいた。
三人はそれぞれ「一人」と「二人」に分かれ、両者は堅牢な鉄格子で隔てられていた。天井から伸びた鉄格子の下には机が向かい合わせに組み合わせられており、三人のうちの二人がそこに座って互いの顔を見つめ合っていた。
そして残りの一人は自分の側の出入口であるドアの横に立ち、腕を組んでじっとその二人を見つめていた。かれは筋骨隆々な、やけにラフな格好をした大男だった。腰には反撃用の棍棒を提げ、その目は不逞を許さない鋭い光を放っていた。
「ママ、泣かないで」
そんな中で、鉄格子を挟んで向かい合う二人の「二人組」の側にいた人間が、おもむろに口を開いた。大男は違って痩せぎすで、ところどころ擦り切れた皮の衣服を身に着けた少年だった。まだ声変わり前だからか、少年の声は数オクターブ高いものとなっていた。
「僕は心が貧しかったんだ。だからこういう目に遭ったんだ。どうか同情なんかしないで」
背筋を伸ばし、気丈な態度で少年が答える。彼はそのまま両手を持ち上げ、机の下に隠していたそれを眼前の女性に向けて見せつける。
彼の両手は手錠で繋がれていた。その光沢のない、少年を縛るドス黒い枷を見た女性は、思わず口元に手を当てて眉間に皺を寄せた。言葉は発さず、ただ苦しげで険しげな視線を浮かべていた。立派な聖職者の衣服も、ここでは形無しであった。
鎖で縛られた息子を見て、冷静でいられる母親などいない。
「ママ」
そして女性の姿を見た少年もまた震えていた。心の底から恐怖がこみ上げてくる。それをかみ殺し、全身で平静を保とうと必死で戦っていた。
それでも恐れは震えとなって滲み出てくる。これより少年が味わうことになる恐怖は、到底彼に背負いきれるものではなかった。
「僕は今まで好きなように生きてきた。ママの手を離れて、好きに生きてきたんだ。いいこともあれば悪いこともあった。風はいつだって、自由気ままに吹くものなんだよ」
「時間だ」
恐怖が言語野を侵食する。故に日常では使わない詩的表現が、そのまま口から吐き出されていく。感情を脳内で咀嚼し、無難な形に再構築する暇もない。少年は追い詰められていた。
大男はそんな彼の心情を無視した。男は職務に忠実だった。
「もうすぐ裁判が始まる。準備をするんだ」
「だからママ。僕に何が起こっても気にしないで。僕のことは気にしないで、いつも通りに日々を送ってほしいんだ」
少年は男の催促に従った。従い、席を立ちながら、彼は母親に最後の言葉を投げかけた。
母は何も言わなかった。ただ立ち上がる少年を追うように視線を上げ、彼の姿を目に焼き付けた。
彼女の両目はまっすぐ、少年の胸元に向かっていた。
母の視線に気づいた少年が小さく頷く。男が少年の元まで歩み寄り、静かに彼の腕を取る。
「さ、行こう」
「絶対だよ、ママ」
母に背を向け、ドアを潜って外に出る。ドアが再び閉まるまで、彼は母親の身を案じ続けた。
そして母もまた、息子と男が消えてからゆっくりと立ち上がった。傍聴席で裁判の行方を見届けるためだ。
覚悟は出来ていた。
裁判の場は冷たい熱気に包まれていた。罪人を裁かんとする者。罪人を弁護する者。そのどちらもが、ポーカーフェイスの下に絶対の自信と覚悟を秘めていた。傍聴席にいた聴衆達もまた、この場に満ちる無言の圧迫感を受け一様に口を閉ざしていた。無駄口を叩けばその場で罪を問われるような、そんな空気さえ流れていた。
「被告人をここへ!」
その中で裁判長の声が高らかに響く。それは青ざめた肌を持ち、側頭部から角を生やした女性の声だった。そしてその声に応えるように、会場脇にあるドアが音もなく開かれていく。
やがて開け放たれた観音開きのドアの奥から、今回の「主役」が姿を現す。数分前まで面会室にいたあの少年であった。男に連れられたその少年は、そのまましっかりとした足取りで部屋の中央まで歩いていった。
手錠は既に外されていたが、彼は付き添いの大男に反抗することも、逃げ出す素振りも見せなかった。
「……」
部屋の中心部、そこに据えられた証言台に被告人が立つ。証言台の前と左右には柵が置かれ、そこに立つ者の三方は取り囲まれていた。
彼――少年から見て正面に裁判長と書記が控え、左側に彼を追求する者が、右側に彼を弁護する者がそれぞれ座っていた。どちらも一名ずつであり、そして左の席に座っていた者は裁判長と同じ身体的特徴を備えていた。
「ハァイ♪」
悪魔。魔物。なんでもいい。とにかくそういう輩だ。女の魔物、デーモンと呼ばれる魔物娘がこの場を取り仕切っていた。もちろん人間もいた。右側にいる弁護人は人間であったし、少年の背後にある傍聴席に座っていたのもその大半が人間だ。八割が人間で、二割が魔物といったところであった。そして裁判長と追及者が同じであるように、弁護士と傍聴席の人間もまた皆同じ格好をしていた。
主神教団の正装だ。少年の母親も同じ格好をしていた。唯一異なる格好をしていたのは、出入口脇に立っているあの大男だ。
「被告人、名を名乗りなさい」
唐突に裁判長が声を放つ。それが少年の意識を現実に引き戻す。少年が慌てた様子で裁判長に視線を向け、なおも震える唇を動かしてそれに答える。
「ジェイ・マッキンリーです」
「よろしい。ではジェイ、今日あなたがここに呼ばれた理由はおわかりですね?」
青い肌の魔物娘が少年の名を呼ぶ。ジェイも躊躇うことなく頷き返す。
裁判長がジェイの胸元に視線を寄越しながら再び口を開く。
「では被告人ジェイ、あなたが犯した罪をここで告白するのです」
その言に、ジェイが再度小さく頷く。背筋を伸ばし、まっすぐ前を見つめながらジェイが返答する。
「ぼ、僕は二日前に、この町に住んでいた女の人の……」
「女の人の?」
「じょ、女性の、お尻を、触ってしまいました」
「ほう」
時折言葉を詰まらせながらも、ジェイが己の罪を告白する。それを聞いた裁判長は思わず声を上げた。まるで今それを初めて聞いたかのような態度であった。
直後、傍聴席から声が上がる。魔物娘は感心したような、人間は呆れ憤るような声だった。
そんなギャラリーの声を無視して、裁判長デーモンが重ねて問いかける。
「それは相手の同意を得た上での行為ですか?」
「いいえ。相手の同意を得た上での行為ではありません。僕が個人的な理由から勝手に行ったことです」
「それは非常によろしくないことであると、あなたは自覚していますね?」
「はい。僕はとても罪深いことをしてしまいました。教団の者として、とても恥ずべき行いをしてしまいました」
ジェイの返答は淀みの無い、しっかりとしたものだった。しかしそれを聞いた傍聴席側の人間は一様に憤慨した。
教団の使徒がなんと情けない。この場にいた人間のほぼ全員が同じ感想を抱いていた。彼らの精神に深く刻み込まれていた信仰心が、彼の行いを――背後にどんな理由があろうとも――許そうとしなかったのである。
「静粛に!」
そうしてざわめきが大きくなりかけたところで、裁判長が手元の槌を叩く。傍聴席から雑音が消え、会場が再び張り詰めた静寂に包まれる。静かになった後、裁判長が改めてジェイを見る。
「あなたはそのことに関して、今も後悔していますか?」
裁判長の鋭い言葉が突き刺さる。ジェイは彼女をまっすぐ見ながら口を開く。
「はい。僕はとても愚かなことをしたと、深く後悔しています」
「犯した罪を悔い改めたいと、心から思っていますか?」
「はい。心から罪を償いたいと思っています」
「裁判長! 彼の言葉だけでは信用できません!」
ジェイの返答に反応するように、左側から力強い声が聞こえてくる。彼の罪を追求する役の魔物娘――裁判長と同じ種族の魔物娘が、勢いよく立ち上がりながらそう叫んだのだ。突然の大声にジェイは背筋を震わせ、さらに彼女の言葉に呼応して傍聴席にいた魔物娘たちが一斉に声を上げる。
「そうだ! そうだ!」
「口だけの反省じゃ駄目だ!」
「ちゃんと実刑を加えるべきだ!」
魔物達が口々に叫ぶ。すると傍聴席の人間達も負けじと口を開き始める。
「それだけで実刑判決を出せだと!?」
「情状酌量の余地は十分あるだろ!」
「静粛に! 静粛に!」
アジテーションの場と化した裁判場に、裁判長の声と槌の音が高らかに響く。聴衆が己の領分を越えてしゃしゃり出ている時点で普通の裁判では無くなっていたが、それはもはや問題ではない。
そもそも誰も、人間のルールに則った「まともな」裁判をする気は毛頭なかった。
「確かに、その程度で彼に実刑を下すのは、少々やりすぎな気もしますな」
一人例外がいた。少年ジェイの弁護人を自分から買って出たその壮年の男は、すっかり禿げ上がった自分の頭を撫でながら静かに反論した。雇われ弁護士の彼は、この場において最後まで己の職務を全うしようと考えていた。ここがどれだけ異常な場所であろうとも、己の責務は変わらない。どれだけ滅茶苦茶であろうとも、これは「裁判」なのだ。
直後、その場にいたジェイと大男以外の全員の視線が彼に集まる。こうして注目を浴びるのはもう慣れっこだ。禿頭の男が言葉を続ける。
「そもそも、彼は本当に自分の意志で破廉恥な行いをしたのでしょうか? 彼に触られた女性が、彼にそうさせるように仕向けたという可能性は考えられないでしょうか?」
男の発言は、この場に波紋を生んだ。ジェイの背後でざわめきが起こる。感情に因らない、数段は理知的な会話だった。
それを無視して裁判長デーモンが男に尋ねる。
「その根拠は?」
「彼が手を出した女性が、あなたと同じ魔物娘だからです。彼女達は魔力を操り、男を好きなように篭絡することが出来る。あなたならご存知のはずだ」
「なるほど。ではあなたは、被告人に破廉恥な行いをされたその魔物娘が、本当は自分から被告人にそうさせるよう仕組んだ。そう言いたいのですね?」
「そうです」
「異議あり! 異議ありです!」
直後、反射的にジェイの左側にいた魔物娘が立ち上がる。裁判長と同族である彼女の顔は真剣そのものだったが、よく見ると唇の端が僅かに吊り上がっていた。
この魔物娘は、今行われている「裁判ごっこ」を楽しんでいた。それが禿頭の男には面白くなかった。裁きの場をなんだと思っているんだ。彼は憮然とした表情を見せた。
お構いなしに魔物娘が話し始める。
「確かに今回の被害者は魔物娘です。そして魔物娘は、誰もが男を誑かす能力を持っている。これも事実です。ですが今回の場合は、被害者が実際に被告人を操ったという確かな証拠は存在しません。相手が魔物娘だからと言う理由だけで、責任の全てを被害者に押しつけるのは横暴であると言わざるを得ません」
「そうだ!」
「その通りだ!」
待ってましたとばかりに傍聴席の魔物娘達が囃し立てる。お祭りは彼らの大好物だ。
一方の弁護人は苦虫を噛み潰したような顔を見せた。これがあるから魔物娘とは戦い辛いのだ。魔力や瘴気と言ったものとはまるで縁のない彼にとって、この手の話はまさに鬼門であった。元も実体のない、自分には感知できもしないようなものを、どうやって証明しろというのだ?
弁護人が言葉に詰まる。それをいいことに、追及者のデーモンが言葉を放つ。
「情報によると、被告人は酷く貧しい家に生まれた一人息子であるとか。生活は困窮し、学び舎に行く余裕もない。家業である農耕を手伝い、少しでも身銭を稼ぐことしか出来なかった。世間とは隔絶され、同年代の友人も出来なかった。作る暇も無かった。仕事をしなければ死んでしまうからだ。当然のことながら、色恋に走ることも許されなかった。それでも体は成長するものだ」
淡々とデーモンがジェイの身の上を話し始める。ジェイは押し黙り、弁護人も渋い顔でそれを聞く。傍聴席にいた者達も固唾を飲んで成り行きを見守る。中でも人間達は一様に、渋りきった顔で後の展開を見つめていた。
デーモンが言葉を続ける。
「被告人は成長し、やがて性的なものに興味を抱いていく。それも自然な流れだ。ましてや彼はそれまで仕事漬けの毎日を送ってきた身の上。息を抜く暇も、性欲を満足に解消する暇も無かった。相当なフラストレーションが溜まっていた事だろう。その時、目の前に見目麗しい女性がふらりと現れた。それも自分の好みに合った、とびきりの美人が。であるならば、被告人の溜めこんでいた欲求が勢いよく噴き出し、本能が理性を凌駕することもおかしくは……」
「異議あり! 彼女の証言は憶測に基づいたものでしかない!」
弁護人が負けじと反論する。それまで押し黙っていた傍聴席の人間達も、それを受けて息を吹き返す。
「そ、そうだ!」
「言いがかりだ!」
しかしその声に威勢の良さは感じられない。「魔物娘が誑かしたことを示す物証」が無いからだ。彼らは教団の信徒ではあったが――もしくは信徒であるが故に――中身は等しく鈍感であった。
だから彼らは感情で叫ぶしかなかった。
「そもそも触ったくらいでなんでここまで大袈裟になるんだ!」
「後からやってきたくせに!」
「余所者がでかい顔するな!」
根拠のない言い分を振りかざす始末である。追及者のデーモンは額に手を当てて困り果てた表情を浮かべ、弁護人である男も居心地悪そうに咳払いをした。
そこに魔物娘達の反論が混ざる。同じ傍聴席にいた彼女達にもプライドはあった。
「黙って聞いてれば好き勝手言って! 何様のつもりだ!」
「教団に従うのは嫌だって言ってたくせに! 仲間になりたいって言ってきたのはそっちでしょ!?」
「都合のいい時だけ態度を変えるのはやめろ!」
意地と意地のぶつかり合いである。しかし口々に叫ぶ魔物娘達はどこか楽しげだった。中身が何であれ、バカ騒ぎをするのは楽しいものである。
人間の方は真剣に口論を行っていた。
「彼は貧乏だったんだ! 許してやるべきだ!」
「雷に打たせて反省させるべきだ!」
「神は如何なる罪もお許しになられる!」
「神に誓って! お前を許しはしないだろう!」
「悪魔ごときが人間を裁けると思うな!」
「ノー! ノー! ノー ノー! ノー! ノー! ノー!」
裁判長の槌の音が高らかに響く。
「静粛に!」
パブロフの犬のように、それを聞いた観衆がぴたりと黙る。
「……」
やがて完全に静寂が訪れる。その後裁判長役のデーモンが、追及者のデーモンとアイコンタクトを取る。
追及者が小さく頷く。それを見た弁護人の眉間に皺が増える。公平もくそもない。やはり魔物娘は、まともに裁判をする気は無かったと言うことか。
しかし不利は元より承知のこと。そもそも魔物に支配されたこの町で行われる裁判が、全てにおいて対等な訳がないのだ。
追及者が言葉を発したのは、彼がそう考えた直後のことだった。
「では、本人に聞いてみるとしましょう」
それは男の心を激しく揺さぶった。あの女は今なんと言った?
男の内心の呟きに応じるように、追及者役のデーモンが再度口を開く。
「今回被害にあった魔物娘をここに呼び、この場で直接問い質すのです。あなたは本当に、自分の能力で被告人を誑かしたのかと」
「そんなこと……!」
思わず弁護人が叫ぶ。叫ばずにはいられなかった。
真実がどうであれ、「私はやってない」と言えばそれでおしまいである。そもそもそんなもの、なんの証拠にもなりはしない。主観に基づいた事実確認など、何の価値も無い。
「異議ありです裁判長! いくらなんでもこれは無意味だ! 第一、被害を被った者を公衆の面前に引っ張り出すなど……!」
「ブレナイン」
裁判長が男の名を呼ぶ。本名を優しく呼ばれた禿頭の男は、反射的に黙ってしまった。
そこに裁判長が畳みかける。
「今この場を治めているのは私です。この後どうするかは私が決めます」
反論を許さない、きっぱりとした口調だった。口調そのものは穏やかであったが、そこにはブレナインを黙らせるだけの迫力がこもっていた。
なぜそれだけのプレッシャーを備えているのか。魔力に疎いブレナインは最後まで理解できなかった。そんな鈍いブレナインに向かって、裁判長が続けて言葉を放つ。
「それでは彼女の要求通りに、ここに被害者を呼ぶことにしましょう」
相も変わらず淡々とした口調。それにもブレナインは反論できなかった。
「被害者」はそれからすぐに姿を現した。あらかじめ部屋の外で待機させていたようである。被害者の女性――背中から昆虫めいた羽根を生やした少女は、そのまま淀みない足取りでジェイの前まで進み、彼の前で立ち止まり彼と相対した。
同じ背丈の少年と少女が向かい合う。二人の視線が重なり、雁字搦めに絡まり合う。逃げ出すことは出来ない。
「はあ……」
最初からこの流れに持っていくつもりだったのか。これから行われるであろう茶番を予期して、ブレナインは大きくため息をついた。
一方のジェイは生きた心地がしなかった。自分がここに立つ羽目になった元凶、自分が「うっかり」お尻を触ってしまった相手が、今目の前に立っていたからだ。これからいったいどのような罵詈雑言をぶつけられるのか、気が気でなかった。
「では、事実確認のために改めて質問させていただきます」
裁判長が入室してきた女性に声をかける。その女性、魔物娘のベルゼブブは、ジェイをまっすぐ見つめたまま首を縦に振った。
再び裁判長が口を開く。
「あなたの名前を教えていただけないでしょうか」
「ミルドと申しますわ」
視線を降ろしてジェイの胸元を見つめながら、ベルゼブブが己の名を告げる。穏やかで、上品な口調と物腰を備えた魔物娘であった。
彼女の名を聞いた裁判長が続けて質問する。
「ではミルド。あなたは自分の魔力を使って、こちらの被告人ジェイに対してちょっかいをかけたりはしましたか? 例えばそう、相手の劣情をかきたてさせて、わざと自分に破廉恥な行いをさせるよう仕向けたとか」
「はい。やりましたわ」
ミルドは即答した。傍聴席の人間と弁護士が同時に驚愕の声を上げる。
追及者のデーモンがニヤニヤ笑う。裁判長が再度尋ねる。
「なぜそのようなことを?」
「理由は二つありますわ。一つ目は彼が欲しかったからです。彼に私を意識させて、彼と結婚して、幸せな家庭を築きたかったんです」
「だ、だから自分の尻を触らせたのか? 魔力で人の心を操って?」
理解できないと言わんばかりの顔つきで、ブレナインがミルドに問いかける。ミルドは彼の方を向き、「あのまま押し倒してくださればよかったのですが」とにこやかに答えた。
「ジェイ様は中々に強い信念をお持ちのようで、そこまでは至りませんでしたが……粉をつけることは出来ましたので、まあこれはこれで成功と言えますわね」
「はあ……」
上品なミルドの発言を聞いたブレナインは、ただ重く相槌を打つしかなかった。お堅い彼にとって、この魔物娘の倫理観はどうしても慣れないものがあった。
容赦なく裁判長が先に進める。
「では、次に二つ目の理由について教えていただきましょうか」
「わかりました」
ミルドもお構いなしにそこに乗っかる。そして再度ジェイを見つめながら口を開く。
「二つ目は、彼を助けたかったからです」
「えっ?」
またしても人間達が驚愕する。今回は呆気に取られた感が強かった。追及者はまだニヤニヤ笑っている。
ベルゼブブが歩き出す。証言台の横を通り、ジェイの背後に立つ。彼の肩に手を置き、囁くように「こっちを向いて」と声をかける。ジェイが息をのみ、やがて言う通りにする。
人間とベルゼブブが再び向かい合う。ベルゼブブが少年の着ていたボロ服に手をかける。
ゆっくりと脱がす。
「もういいでしょう」
それと同じタイミングで裁判長が言い放つ。ブレナインが思わず彼女に注目し、彼の視線を浴びながら裁判長役のデーモンが立ち上がる。
そのデーモンが言う。
「最初に断っておくべきでしたが、私達はそもそも彼を裁くために呼んだのではないのです」
ミルドがジェイの服を完全に脱がす。ズボンを残し、上だけを外気に晒す。
貧相なジェイの裸身が露わになる。ミルドが横にどき、その体を傍聴席に見せつける。
「許すために来たのです」
裁判長が言い放つ。直後、傍聴席から悲鳴が上がる。主に魔物娘が叫ぶ。
「ば、爆弾だ!」
ジェイの胸元、服の下に隠れていた部分には小さな球体があった。
「あなたを救い、許すために」
それはテープで体に固定され、さらにその球体の回りには札が貼られていた。
「ヤラセって言ってしまえばそれまででしょうけど……でも、こうでもしないと収まりがつきそうになかったから」
札にはびっしりと呪文と魔法陣が刻まれており、それらは何かを待ち受けるかのように赤く明滅を繰り返していた。
「あ、ああ……!」
「うわーっ、爆弾だーっ!」
「なんてことだー!」
それを見た人間達は、一斉に顔を真っ青にした。
魔物娘達はわざとらしく騒ぎ立てた。悲鳴は上げども誰も立ち上がろうとはせず、逃げようともしなかった。
「魔物の魔力に反応して起動する爆弾ね」
「またつまらないものを」
そんな無駄に騒がしくなった議場の中、裁判長役と追及者役のデーモンが共にそう言いながら、ジェイの元へ歩いていく。ブレナインはそこから動かず、唇をわなわな震わせる。
「な、なんだこれは。知らんぞ。私はこんなこと、聞かされてないぞ」
「でしょうね」
「連中は最初から、あなたに本格的な弁護なんか期待してなかったのよ」
震えるブレナインに向かって、演技を止めた裁判長と追及者がそれぞれ答える。ブレナインが咄嗟に傍聴席に目を向け、自分を雇用した人間達に視線を送る。
特に彼は、ジェイの母親に注目した。彼女は最前列で事の成り行きを見守っていた。
「許して……どうか許して……」
息子よりもずっと立派な教団の衣装に袖を通していた彼女は、こちらに頭頂部を晒すように背筋を丸めて懺悔していた。時折すすり泣く声も聞こえて来ていた。
「クソが、バレたぞ!」
「駄目だ! 立てない!」
他の人間達は違った。一人残らず席を立ち、ここから逃げようとしていた。しかし尻と椅子がくっつき、誰も立ち上がれずにいた。ブレナインにとってその光景は悪夢そのものだった。
「あなたは道化。この子は生贄」
「簡単に言えば、そうなりますわね」
裁判長デーモンとベルゼブブの発言が、ブレナインの意識を彼女達の側に引き戻す。ブレナインの視線の先で、ミルドがジェイの体に貼りつけられていた爆弾を人差し指と親指でつまむ。
追及者役のデーモンが解説役を買って出る。
「教団の者達は、最初からこうする気でいたのよ。わざと恭順の意を示して私達に近づき、油断させたところで抹殺する」
「わ、私は、彼らは教団にはついていけないと言って、侵略してきたあなた方に町を明け渡したと聞いているが……」
「全部嘘よ」
「実際に魔物娘と婚約した信徒もいるんだろう? あれも狂言なのか?」
「それも生贄よ。彼らにとってはね。爆弾を作るためにも時間が必要だったの」
武力や魔力では到底魔物には勝てない。かと言って、馬鹿正直に罠に嵌めようとしても絶対バレる。
なら搦め手で行くしかない。それも非常に回りくどい、小細工ばかりの手を。
「だから彼らはこういう作戦を実行した。彼……ジェイ君が選ばれたのも、一番特攻役にしやすかったからじゃないかしら」
それを聞いたブレナインは、少し前の追及者の言葉を思い出した。
ジェイは貧困家庭に生まれた。それは彼も知っていた。今現在、母親は立派な身なりをしている。
ブレナインの額に青筋が浮き上がる。
「実の息子を……!」
ブレナインの顔がぶるぶる震え始める。彼は胸の内で蠢く怒りをコントロールしきれずにいた。
ミルドがジェイの爆弾を指で潰したのはその時だった。
「人間として最低の行為ですわ」
同意するように冷たい言葉で吐き捨てながら、すり潰した爆弾の欠片を地面に投げ捨てる。
渾身の作戦はこうして失敗に終わった。
「さあ、これであなたは自由。もう誰にも脅かされることはない。あなたは自由になったのですわ」
ミルドが優しくジェイに告げる。ジェイの後ろに立った二人のデーモンの内、裁判長役を務めていた方が、そんなジェイとミルドを暖かく見守る。そしてもう片方のデーモンが、未だに立ち上がれずに悪戦苦闘していた教団員達をじっと見つめていた。
「さあ、ごっこ遊びはこれでおしまいよ」
追及者のデーモンが声高に告げる。その後、一瞬ブレナインを見つめる。
彼女の眼前でブレナインが目を閉じ、肩の力を抜く。それを見た後、すぐに視線を外す。
「後は好きになさい!」
デーモンが叫ぶ。直後、傍聴席に座っていた魔物娘達が一斉に立ち上がる。
彼女達の目的は最初から一つだった。
「さあ、お仕置きの時間よ」
「うーんと楽しませてあげるから、覚悟なさい♪」
なおも立てない人間達に魔物娘が群がる。さらにそれまで待機していた大男が出入口が開け放ち、外からも大勢の魔物娘がなだれ込んでくる。後は野となれ山となれ、あらかじめそう計画されていたかのように魔物娘達がスムーズな動きで教団員達を「確保」し、相手の返事も待たずに次々外へ連れ出していく。
「待て! 俺達をどこへ連れていく気だ!」
「愛の裁判所でーす」
「全員有罪判決で懲役確定だから、覚悟なさい」
人間の悲鳴は誰にも届かなかった。数分もせずに傍聴席にいた人間達は一人を除いて根こそぎ連れ去られ、拉致を実行した魔物娘達もまた風のように去っていった。後に残されたのはジェイの母親ただ一人。
一瞬の出来事であった。突然のことにブレナインが呆然としていると、そのうちミルドの方で動きがあった。
「ぼ、僕は」
動いたのはジェイの方だった。彼はミルドをじっと見つめながら、ふさわしい言葉を探すかのように視線を泳がせた。
母親はその様子をじっと窺っていた。既に涙は枯れたのか、頬に泣き跡を残しながらもこちらを凝視していた。
だめ。だめ。声にはならなかったが、彼女は口だけ動かしてそう告げていた。ジェイはそれを無視した。
「僕は」
ジェイがミルドの手を取る。
それを自分の胸元に当てる。
「僕は」
「駄目!」
ついに母親が叫ぶ。
ジェイが最後の一歩を踏み出す。
「あなたと一緒に、いたいです」
母親が悲鳴を上げる。ジェイとミルドが抱きしめ合う。
どこにも逃げ場所はない。
「ごめんなさい。本当は、こんな風に追い詰めたくはなかったんだけど」
「いいんです。僕が自分で決めたことですから」
「後悔はしてない?」
「してません。もう僕には、どこにも居場所はないから……」
ベルゼブブが空いた方の手を動かし、ジェイの背中に手を回す。胸元に当てた方の手もまた動かし、指先でジェイの体を下になぞっていく。
胸板と腹を通ってズボンに行き当たる。裾を掴み、ゆっくりそれを降ろしていく。
「よろしいですわね?」
「はい」
二人が頷き合う。ボロボロのズボンが足元に落ちる。下着はつけていなかった。
肉棒は立派に屹立していた。
「やめて! もうやめて!」
信者が泣き叫ぶ。ベルゼブブが下半身を露わにする。割れ目は十分濡れていた。
準備万端。二人の影が一息に重なる。
「ひっ――!」
「ひ、ひぃ、あはぁ……♪」
母親が絶望の表情を浮かべ、ベルゼブブが恍惚とした顔を見せる。
ミルドの尻をジェイが鷲掴みにし、腰を動かし始める。
「ああ、いい、きもちいい……!」
ミルドが熱っぽい声を上げる。一突きされるごとに声量が上がっていく。
母親はもはや声すら出ない。ブレナインは彼女に同情の眼差しを向け始めていた。
「僕にっ……僕に石をぶつけてっ、唾を吐いたくせに!」
ジェイが吠える。母親が思わず顔を上げる。ブレナインとデーモンが同時に彼を見据える。
少年が再び叫ぶ。
「僕を見殺しにして、それでも愛してるって言うつもりなのか!」
「許して! もう許して!」
母の懺悔。誰にも届かない。
ジェイが怒りのままに腰を打つ。亀頭が子宮の入口を抉り、ミルドが悦びのままに絶叫する。
天に向かって吼えるベルゼブブの体をジェイが抱きしめる。
「こんなとこにいたくない! 逃がして! 僕を逃がして!」
「だい、じょうぶ……っ、私が、あん♪ 逃がして、あげますわっ……守ってあげますわぁ♪」
縋るように抱きつくジェイの懇願を、ミルドが抱き返しながら断言する。二人の心が解け合い、一つに重なっていく。
手に手を取り合い、共に絶頂の階段を駆け上がっていく。
「ああ、イク、イク、イクよ!」
「私も、私も! イク、イキますわっ!」
人間とベルゼブブが心を通わせる。
傍聴席の人間の心が壊れていく。
そしてその時が来る。
「あ――っ♪」
体内に愛が流れてくる。熱い奔流を子宮で味わい、ミルドが絶叫する。
母親の絶望の叫びがそれをかき消す。裁判所を震わせる、地獄の底から放たれる咆哮。
息子にそれは届かない。心はミルドと共に天にあった。
「はあっ、はあっ……良かった、よ……」
事後、ジェイが呟く。
ミルドは何も言わず、ただ彼の体を抱き締める。
「絶対に、幸せにしてさしあげますわ……」
「うん……よろしくね……」
ジェイもそれに応えるように、ミルドの体を改めて抱き返す。それを見たデーモン二人が暖かな拍手を贈る。
恋人の誕生を祝う、祝福の拍手。新たな愛の芽生えに、ブレナインもまた年甲斐もなく目頭を熱くさせていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
しかし共に天へ昇ろうとしていたブレナインの心が、唐突に現実に引き戻される。母の伸ばした地獄の腕は彼の意識を捕まえていた。
声に気づき、素に戻ったブレナインが母親を見る。彼女の顔からは感情が抜け落ちていた。
真っ白になったまま、母親が首を動かしブレナインを見る。ブレナインもまた彼女をじっと見つめ返す。
「これが裁きか」
ブレナインが静かに告げながら立ち上がる。彼は地獄に落ちるつもりはさらさらなかった。
そんな彼の元に、追及者のデーモンが近づいていく。燃えカスとなった母親の目が、ゆっくりそれを追って行く。
「少しやり過ぎじゃないのか」
デーモンが自分の真横にきた直後、ブレナインが冷静な声で問いかける。その彼の肩に手を置きながら、デーモンがブレナインに向かって穏やかに言い返す。
「いい薬よ。それにアフターケアは準備済み」
直後、出入口のドアが激しく叩かれる。大男が再び欠伸交じりにドアを開く彼の足元には一人のオークがすり寄っていた。
「中々の名演だったわよ、アナタ♪」
「心情まで完璧に演じるのは中々しんどかったよ」
「安心して。私が癒してあげるから」
「それは期待していいってことかい?」
「もちろん♪」
「やったね」
デーモンと弁護士がハイタッチを交わす。
母親は全てを理解した。しかしもうどうすることも出来なかった。
一人の少年が堕ち、一つの支部が堕ちた。
それでも風は吹いていく。ゆっくりと、気ままに吹くのであった。
三人はそれぞれ「一人」と「二人」に分かれ、両者は堅牢な鉄格子で隔てられていた。天井から伸びた鉄格子の下には机が向かい合わせに組み合わせられており、三人のうちの二人がそこに座って互いの顔を見つめ合っていた。
そして残りの一人は自分の側の出入口であるドアの横に立ち、腕を組んでじっとその二人を見つめていた。かれは筋骨隆々な、やけにラフな格好をした大男だった。腰には反撃用の棍棒を提げ、その目は不逞を許さない鋭い光を放っていた。
「ママ、泣かないで」
そんな中で、鉄格子を挟んで向かい合う二人の「二人組」の側にいた人間が、おもむろに口を開いた。大男は違って痩せぎすで、ところどころ擦り切れた皮の衣服を身に着けた少年だった。まだ声変わり前だからか、少年の声は数オクターブ高いものとなっていた。
「僕は心が貧しかったんだ。だからこういう目に遭ったんだ。どうか同情なんかしないで」
背筋を伸ばし、気丈な態度で少年が答える。彼はそのまま両手を持ち上げ、机の下に隠していたそれを眼前の女性に向けて見せつける。
彼の両手は手錠で繋がれていた。その光沢のない、少年を縛るドス黒い枷を見た女性は、思わず口元に手を当てて眉間に皺を寄せた。言葉は発さず、ただ苦しげで険しげな視線を浮かべていた。立派な聖職者の衣服も、ここでは形無しであった。
鎖で縛られた息子を見て、冷静でいられる母親などいない。
「ママ」
そして女性の姿を見た少年もまた震えていた。心の底から恐怖がこみ上げてくる。それをかみ殺し、全身で平静を保とうと必死で戦っていた。
それでも恐れは震えとなって滲み出てくる。これより少年が味わうことになる恐怖は、到底彼に背負いきれるものではなかった。
「僕は今まで好きなように生きてきた。ママの手を離れて、好きに生きてきたんだ。いいこともあれば悪いこともあった。風はいつだって、自由気ままに吹くものなんだよ」
「時間だ」
恐怖が言語野を侵食する。故に日常では使わない詩的表現が、そのまま口から吐き出されていく。感情を脳内で咀嚼し、無難な形に再構築する暇もない。少年は追い詰められていた。
大男はそんな彼の心情を無視した。男は職務に忠実だった。
「もうすぐ裁判が始まる。準備をするんだ」
「だからママ。僕に何が起こっても気にしないで。僕のことは気にしないで、いつも通りに日々を送ってほしいんだ」
少年は男の催促に従った。従い、席を立ちながら、彼は母親に最後の言葉を投げかけた。
母は何も言わなかった。ただ立ち上がる少年を追うように視線を上げ、彼の姿を目に焼き付けた。
彼女の両目はまっすぐ、少年の胸元に向かっていた。
母の視線に気づいた少年が小さく頷く。男が少年の元まで歩み寄り、静かに彼の腕を取る。
「さ、行こう」
「絶対だよ、ママ」
母に背を向け、ドアを潜って外に出る。ドアが再び閉まるまで、彼は母親の身を案じ続けた。
そして母もまた、息子と男が消えてからゆっくりと立ち上がった。傍聴席で裁判の行方を見届けるためだ。
覚悟は出来ていた。
裁判の場は冷たい熱気に包まれていた。罪人を裁かんとする者。罪人を弁護する者。そのどちらもが、ポーカーフェイスの下に絶対の自信と覚悟を秘めていた。傍聴席にいた聴衆達もまた、この場に満ちる無言の圧迫感を受け一様に口を閉ざしていた。無駄口を叩けばその場で罪を問われるような、そんな空気さえ流れていた。
「被告人をここへ!」
その中で裁判長の声が高らかに響く。それは青ざめた肌を持ち、側頭部から角を生やした女性の声だった。そしてその声に応えるように、会場脇にあるドアが音もなく開かれていく。
やがて開け放たれた観音開きのドアの奥から、今回の「主役」が姿を現す。数分前まで面会室にいたあの少年であった。男に連れられたその少年は、そのまましっかりとした足取りで部屋の中央まで歩いていった。
手錠は既に外されていたが、彼は付き添いの大男に反抗することも、逃げ出す素振りも見せなかった。
「……」
部屋の中心部、そこに据えられた証言台に被告人が立つ。証言台の前と左右には柵が置かれ、そこに立つ者の三方は取り囲まれていた。
彼――少年から見て正面に裁判長と書記が控え、左側に彼を追求する者が、右側に彼を弁護する者がそれぞれ座っていた。どちらも一名ずつであり、そして左の席に座っていた者は裁判長と同じ身体的特徴を備えていた。
「ハァイ♪」
悪魔。魔物。なんでもいい。とにかくそういう輩だ。女の魔物、デーモンと呼ばれる魔物娘がこの場を取り仕切っていた。もちろん人間もいた。右側にいる弁護人は人間であったし、少年の背後にある傍聴席に座っていたのもその大半が人間だ。八割が人間で、二割が魔物といったところであった。そして裁判長と追及者が同じであるように、弁護士と傍聴席の人間もまた皆同じ格好をしていた。
主神教団の正装だ。少年の母親も同じ格好をしていた。唯一異なる格好をしていたのは、出入口脇に立っているあの大男だ。
「被告人、名を名乗りなさい」
唐突に裁判長が声を放つ。それが少年の意識を現実に引き戻す。少年が慌てた様子で裁判長に視線を向け、なおも震える唇を動かしてそれに答える。
「ジェイ・マッキンリーです」
「よろしい。ではジェイ、今日あなたがここに呼ばれた理由はおわかりですね?」
青い肌の魔物娘が少年の名を呼ぶ。ジェイも躊躇うことなく頷き返す。
裁判長がジェイの胸元に視線を寄越しながら再び口を開く。
「では被告人ジェイ、あなたが犯した罪をここで告白するのです」
その言に、ジェイが再度小さく頷く。背筋を伸ばし、まっすぐ前を見つめながらジェイが返答する。
「ぼ、僕は二日前に、この町に住んでいた女の人の……」
「女の人の?」
「じょ、女性の、お尻を、触ってしまいました」
「ほう」
時折言葉を詰まらせながらも、ジェイが己の罪を告白する。それを聞いた裁判長は思わず声を上げた。まるで今それを初めて聞いたかのような態度であった。
直後、傍聴席から声が上がる。魔物娘は感心したような、人間は呆れ憤るような声だった。
そんなギャラリーの声を無視して、裁判長デーモンが重ねて問いかける。
「それは相手の同意を得た上での行為ですか?」
「いいえ。相手の同意を得た上での行為ではありません。僕が個人的な理由から勝手に行ったことです」
「それは非常によろしくないことであると、あなたは自覚していますね?」
「はい。僕はとても罪深いことをしてしまいました。教団の者として、とても恥ずべき行いをしてしまいました」
ジェイの返答は淀みの無い、しっかりとしたものだった。しかしそれを聞いた傍聴席側の人間は一様に憤慨した。
教団の使徒がなんと情けない。この場にいた人間のほぼ全員が同じ感想を抱いていた。彼らの精神に深く刻み込まれていた信仰心が、彼の行いを――背後にどんな理由があろうとも――許そうとしなかったのである。
「静粛に!」
そうしてざわめきが大きくなりかけたところで、裁判長が手元の槌を叩く。傍聴席から雑音が消え、会場が再び張り詰めた静寂に包まれる。静かになった後、裁判長が改めてジェイを見る。
「あなたはそのことに関して、今も後悔していますか?」
裁判長の鋭い言葉が突き刺さる。ジェイは彼女をまっすぐ見ながら口を開く。
「はい。僕はとても愚かなことをしたと、深く後悔しています」
「犯した罪を悔い改めたいと、心から思っていますか?」
「はい。心から罪を償いたいと思っています」
「裁判長! 彼の言葉だけでは信用できません!」
ジェイの返答に反応するように、左側から力強い声が聞こえてくる。彼の罪を追求する役の魔物娘――裁判長と同じ種族の魔物娘が、勢いよく立ち上がりながらそう叫んだのだ。突然の大声にジェイは背筋を震わせ、さらに彼女の言葉に呼応して傍聴席にいた魔物娘たちが一斉に声を上げる。
「そうだ! そうだ!」
「口だけの反省じゃ駄目だ!」
「ちゃんと実刑を加えるべきだ!」
魔物達が口々に叫ぶ。すると傍聴席の人間達も負けじと口を開き始める。
「それだけで実刑判決を出せだと!?」
「情状酌量の余地は十分あるだろ!」
「静粛に! 静粛に!」
アジテーションの場と化した裁判場に、裁判長の声と槌の音が高らかに響く。聴衆が己の領分を越えてしゃしゃり出ている時点で普通の裁判では無くなっていたが、それはもはや問題ではない。
そもそも誰も、人間のルールに則った「まともな」裁判をする気は毛頭なかった。
「確かに、その程度で彼に実刑を下すのは、少々やりすぎな気もしますな」
一人例外がいた。少年ジェイの弁護人を自分から買って出たその壮年の男は、すっかり禿げ上がった自分の頭を撫でながら静かに反論した。雇われ弁護士の彼は、この場において最後まで己の職務を全うしようと考えていた。ここがどれだけ異常な場所であろうとも、己の責務は変わらない。どれだけ滅茶苦茶であろうとも、これは「裁判」なのだ。
直後、その場にいたジェイと大男以外の全員の視線が彼に集まる。こうして注目を浴びるのはもう慣れっこだ。禿頭の男が言葉を続ける。
「そもそも、彼は本当に自分の意志で破廉恥な行いをしたのでしょうか? 彼に触られた女性が、彼にそうさせるように仕向けたという可能性は考えられないでしょうか?」
男の発言は、この場に波紋を生んだ。ジェイの背後でざわめきが起こる。感情に因らない、数段は理知的な会話だった。
それを無視して裁判長デーモンが男に尋ねる。
「その根拠は?」
「彼が手を出した女性が、あなたと同じ魔物娘だからです。彼女達は魔力を操り、男を好きなように篭絡することが出来る。あなたならご存知のはずだ」
「なるほど。ではあなたは、被告人に破廉恥な行いをされたその魔物娘が、本当は自分から被告人にそうさせるよう仕組んだ。そう言いたいのですね?」
「そうです」
「異議あり! 異議ありです!」
直後、反射的にジェイの左側にいた魔物娘が立ち上がる。裁判長と同族である彼女の顔は真剣そのものだったが、よく見ると唇の端が僅かに吊り上がっていた。
この魔物娘は、今行われている「裁判ごっこ」を楽しんでいた。それが禿頭の男には面白くなかった。裁きの場をなんだと思っているんだ。彼は憮然とした表情を見せた。
お構いなしに魔物娘が話し始める。
「確かに今回の被害者は魔物娘です。そして魔物娘は、誰もが男を誑かす能力を持っている。これも事実です。ですが今回の場合は、被害者が実際に被告人を操ったという確かな証拠は存在しません。相手が魔物娘だからと言う理由だけで、責任の全てを被害者に押しつけるのは横暴であると言わざるを得ません」
「そうだ!」
「その通りだ!」
待ってましたとばかりに傍聴席の魔物娘達が囃し立てる。お祭りは彼らの大好物だ。
一方の弁護人は苦虫を噛み潰したような顔を見せた。これがあるから魔物娘とは戦い辛いのだ。魔力や瘴気と言ったものとはまるで縁のない彼にとって、この手の話はまさに鬼門であった。元も実体のない、自分には感知できもしないようなものを、どうやって証明しろというのだ?
弁護人が言葉に詰まる。それをいいことに、追及者のデーモンが言葉を放つ。
「情報によると、被告人は酷く貧しい家に生まれた一人息子であるとか。生活は困窮し、学び舎に行く余裕もない。家業である農耕を手伝い、少しでも身銭を稼ぐことしか出来なかった。世間とは隔絶され、同年代の友人も出来なかった。作る暇も無かった。仕事をしなければ死んでしまうからだ。当然のことながら、色恋に走ることも許されなかった。それでも体は成長するものだ」
淡々とデーモンがジェイの身の上を話し始める。ジェイは押し黙り、弁護人も渋い顔でそれを聞く。傍聴席にいた者達も固唾を飲んで成り行きを見守る。中でも人間達は一様に、渋りきった顔で後の展開を見つめていた。
デーモンが言葉を続ける。
「被告人は成長し、やがて性的なものに興味を抱いていく。それも自然な流れだ。ましてや彼はそれまで仕事漬けの毎日を送ってきた身の上。息を抜く暇も、性欲を満足に解消する暇も無かった。相当なフラストレーションが溜まっていた事だろう。その時、目の前に見目麗しい女性がふらりと現れた。それも自分の好みに合った、とびきりの美人が。であるならば、被告人の溜めこんでいた欲求が勢いよく噴き出し、本能が理性を凌駕することもおかしくは……」
「異議あり! 彼女の証言は憶測に基づいたものでしかない!」
弁護人が負けじと反論する。それまで押し黙っていた傍聴席の人間達も、それを受けて息を吹き返す。
「そ、そうだ!」
「言いがかりだ!」
しかしその声に威勢の良さは感じられない。「魔物娘が誑かしたことを示す物証」が無いからだ。彼らは教団の信徒ではあったが――もしくは信徒であるが故に――中身は等しく鈍感であった。
だから彼らは感情で叫ぶしかなかった。
「そもそも触ったくらいでなんでここまで大袈裟になるんだ!」
「後からやってきたくせに!」
「余所者がでかい顔するな!」
根拠のない言い分を振りかざす始末である。追及者のデーモンは額に手を当てて困り果てた表情を浮かべ、弁護人である男も居心地悪そうに咳払いをした。
そこに魔物娘達の反論が混ざる。同じ傍聴席にいた彼女達にもプライドはあった。
「黙って聞いてれば好き勝手言って! 何様のつもりだ!」
「教団に従うのは嫌だって言ってたくせに! 仲間になりたいって言ってきたのはそっちでしょ!?」
「都合のいい時だけ態度を変えるのはやめろ!」
意地と意地のぶつかり合いである。しかし口々に叫ぶ魔物娘達はどこか楽しげだった。中身が何であれ、バカ騒ぎをするのは楽しいものである。
人間の方は真剣に口論を行っていた。
「彼は貧乏だったんだ! 許してやるべきだ!」
「雷に打たせて反省させるべきだ!」
「神は如何なる罪もお許しになられる!」
「神に誓って! お前を許しはしないだろう!」
「悪魔ごときが人間を裁けると思うな!」
「ノー! ノー! ノー ノー! ノー! ノー! ノー!」
裁判長の槌の音が高らかに響く。
「静粛に!」
パブロフの犬のように、それを聞いた観衆がぴたりと黙る。
「……」
やがて完全に静寂が訪れる。その後裁判長役のデーモンが、追及者のデーモンとアイコンタクトを取る。
追及者が小さく頷く。それを見た弁護人の眉間に皺が増える。公平もくそもない。やはり魔物娘は、まともに裁判をする気は無かったと言うことか。
しかし不利は元より承知のこと。そもそも魔物に支配されたこの町で行われる裁判が、全てにおいて対等な訳がないのだ。
追及者が言葉を発したのは、彼がそう考えた直後のことだった。
「では、本人に聞いてみるとしましょう」
それは男の心を激しく揺さぶった。あの女は今なんと言った?
男の内心の呟きに応じるように、追及者役のデーモンが再度口を開く。
「今回被害にあった魔物娘をここに呼び、この場で直接問い質すのです。あなたは本当に、自分の能力で被告人を誑かしたのかと」
「そんなこと……!」
思わず弁護人が叫ぶ。叫ばずにはいられなかった。
真実がどうであれ、「私はやってない」と言えばそれでおしまいである。そもそもそんなもの、なんの証拠にもなりはしない。主観に基づいた事実確認など、何の価値も無い。
「異議ありです裁判長! いくらなんでもこれは無意味だ! 第一、被害を被った者を公衆の面前に引っ張り出すなど……!」
「ブレナイン」
裁判長が男の名を呼ぶ。本名を優しく呼ばれた禿頭の男は、反射的に黙ってしまった。
そこに裁判長が畳みかける。
「今この場を治めているのは私です。この後どうするかは私が決めます」
反論を許さない、きっぱりとした口調だった。口調そのものは穏やかであったが、そこにはブレナインを黙らせるだけの迫力がこもっていた。
なぜそれだけのプレッシャーを備えているのか。魔力に疎いブレナインは最後まで理解できなかった。そんな鈍いブレナインに向かって、裁判長が続けて言葉を放つ。
「それでは彼女の要求通りに、ここに被害者を呼ぶことにしましょう」
相も変わらず淡々とした口調。それにもブレナインは反論できなかった。
「被害者」はそれからすぐに姿を現した。あらかじめ部屋の外で待機させていたようである。被害者の女性――背中から昆虫めいた羽根を生やした少女は、そのまま淀みない足取りでジェイの前まで進み、彼の前で立ち止まり彼と相対した。
同じ背丈の少年と少女が向かい合う。二人の視線が重なり、雁字搦めに絡まり合う。逃げ出すことは出来ない。
「はあ……」
最初からこの流れに持っていくつもりだったのか。これから行われるであろう茶番を予期して、ブレナインは大きくため息をついた。
一方のジェイは生きた心地がしなかった。自分がここに立つ羽目になった元凶、自分が「うっかり」お尻を触ってしまった相手が、今目の前に立っていたからだ。これからいったいどのような罵詈雑言をぶつけられるのか、気が気でなかった。
「では、事実確認のために改めて質問させていただきます」
裁判長が入室してきた女性に声をかける。その女性、魔物娘のベルゼブブは、ジェイをまっすぐ見つめたまま首を縦に振った。
再び裁判長が口を開く。
「あなたの名前を教えていただけないでしょうか」
「ミルドと申しますわ」
視線を降ろしてジェイの胸元を見つめながら、ベルゼブブが己の名を告げる。穏やかで、上品な口調と物腰を備えた魔物娘であった。
彼女の名を聞いた裁判長が続けて質問する。
「ではミルド。あなたは自分の魔力を使って、こちらの被告人ジェイに対してちょっかいをかけたりはしましたか? 例えばそう、相手の劣情をかきたてさせて、わざと自分に破廉恥な行いをさせるよう仕向けたとか」
「はい。やりましたわ」
ミルドは即答した。傍聴席の人間と弁護士が同時に驚愕の声を上げる。
追及者のデーモンがニヤニヤ笑う。裁判長が再度尋ねる。
「なぜそのようなことを?」
「理由は二つありますわ。一つ目は彼が欲しかったからです。彼に私を意識させて、彼と結婚して、幸せな家庭を築きたかったんです」
「だ、だから自分の尻を触らせたのか? 魔力で人の心を操って?」
理解できないと言わんばかりの顔つきで、ブレナインがミルドに問いかける。ミルドは彼の方を向き、「あのまま押し倒してくださればよかったのですが」とにこやかに答えた。
「ジェイ様は中々に強い信念をお持ちのようで、そこまでは至りませんでしたが……粉をつけることは出来ましたので、まあこれはこれで成功と言えますわね」
「はあ……」
上品なミルドの発言を聞いたブレナインは、ただ重く相槌を打つしかなかった。お堅い彼にとって、この魔物娘の倫理観はどうしても慣れないものがあった。
容赦なく裁判長が先に進める。
「では、次に二つ目の理由について教えていただきましょうか」
「わかりました」
ミルドもお構いなしにそこに乗っかる。そして再度ジェイを見つめながら口を開く。
「二つ目は、彼を助けたかったからです」
「えっ?」
またしても人間達が驚愕する。今回は呆気に取られた感が強かった。追及者はまだニヤニヤ笑っている。
ベルゼブブが歩き出す。証言台の横を通り、ジェイの背後に立つ。彼の肩に手を置き、囁くように「こっちを向いて」と声をかける。ジェイが息をのみ、やがて言う通りにする。
人間とベルゼブブが再び向かい合う。ベルゼブブが少年の着ていたボロ服に手をかける。
ゆっくりと脱がす。
「もういいでしょう」
それと同じタイミングで裁判長が言い放つ。ブレナインが思わず彼女に注目し、彼の視線を浴びながら裁判長役のデーモンが立ち上がる。
そのデーモンが言う。
「最初に断っておくべきでしたが、私達はそもそも彼を裁くために呼んだのではないのです」
ミルドがジェイの服を完全に脱がす。ズボンを残し、上だけを外気に晒す。
貧相なジェイの裸身が露わになる。ミルドが横にどき、その体を傍聴席に見せつける。
「許すために来たのです」
裁判長が言い放つ。直後、傍聴席から悲鳴が上がる。主に魔物娘が叫ぶ。
「ば、爆弾だ!」
ジェイの胸元、服の下に隠れていた部分には小さな球体があった。
「あなたを救い、許すために」
それはテープで体に固定され、さらにその球体の回りには札が貼られていた。
「ヤラセって言ってしまえばそれまででしょうけど……でも、こうでもしないと収まりがつきそうになかったから」
札にはびっしりと呪文と魔法陣が刻まれており、それらは何かを待ち受けるかのように赤く明滅を繰り返していた。
「あ、ああ……!」
「うわーっ、爆弾だーっ!」
「なんてことだー!」
それを見た人間達は、一斉に顔を真っ青にした。
魔物娘達はわざとらしく騒ぎ立てた。悲鳴は上げども誰も立ち上がろうとはせず、逃げようともしなかった。
「魔物の魔力に反応して起動する爆弾ね」
「またつまらないものを」
そんな無駄に騒がしくなった議場の中、裁判長役と追及者役のデーモンが共にそう言いながら、ジェイの元へ歩いていく。ブレナインはそこから動かず、唇をわなわな震わせる。
「な、なんだこれは。知らんぞ。私はこんなこと、聞かされてないぞ」
「でしょうね」
「連中は最初から、あなたに本格的な弁護なんか期待してなかったのよ」
震えるブレナインに向かって、演技を止めた裁判長と追及者がそれぞれ答える。ブレナインが咄嗟に傍聴席に目を向け、自分を雇用した人間達に視線を送る。
特に彼は、ジェイの母親に注目した。彼女は最前列で事の成り行きを見守っていた。
「許して……どうか許して……」
息子よりもずっと立派な教団の衣装に袖を通していた彼女は、こちらに頭頂部を晒すように背筋を丸めて懺悔していた。時折すすり泣く声も聞こえて来ていた。
「クソが、バレたぞ!」
「駄目だ! 立てない!」
他の人間達は違った。一人残らず席を立ち、ここから逃げようとしていた。しかし尻と椅子がくっつき、誰も立ち上がれずにいた。ブレナインにとってその光景は悪夢そのものだった。
「あなたは道化。この子は生贄」
「簡単に言えば、そうなりますわね」
裁判長デーモンとベルゼブブの発言が、ブレナインの意識を彼女達の側に引き戻す。ブレナインの視線の先で、ミルドがジェイの体に貼りつけられていた爆弾を人差し指と親指でつまむ。
追及者役のデーモンが解説役を買って出る。
「教団の者達は、最初からこうする気でいたのよ。わざと恭順の意を示して私達に近づき、油断させたところで抹殺する」
「わ、私は、彼らは教団にはついていけないと言って、侵略してきたあなた方に町を明け渡したと聞いているが……」
「全部嘘よ」
「実際に魔物娘と婚約した信徒もいるんだろう? あれも狂言なのか?」
「それも生贄よ。彼らにとってはね。爆弾を作るためにも時間が必要だったの」
武力や魔力では到底魔物には勝てない。かと言って、馬鹿正直に罠に嵌めようとしても絶対バレる。
なら搦め手で行くしかない。それも非常に回りくどい、小細工ばかりの手を。
「だから彼らはこういう作戦を実行した。彼……ジェイ君が選ばれたのも、一番特攻役にしやすかったからじゃないかしら」
それを聞いたブレナインは、少し前の追及者の言葉を思い出した。
ジェイは貧困家庭に生まれた。それは彼も知っていた。今現在、母親は立派な身なりをしている。
ブレナインの額に青筋が浮き上がる。
「実の息子を……!」
ブレナインの顔がぶるぶる震え始める。彼は胸の内で蠢く怒りをコントロールしきれずにいた。
ミルドがジェイの爆弾を指で潰したのはその時だった。
「人間として最低の行為ですわ」
同意するように冷たい言葉で吐き捨てながら、すり潰した爆弾の欠片を地面に投げ捨てる。
渾身の作戦はこうして失敗に終わった。
「さあ、これであなたは自由。もう誰にも脅かされることはない。あなたは自由になったのですわ」
ミルドが優しくジェイに告げる。ジェイの後ろに立った二人のデーモンの内、裁判長役を務めていた方が、そんなジェイとミルドを暖かく見守る。そしてもう片方のデーモンが、未だに立ち上がれずに悪戦苦闘していた教団員達をじっと見つめていた。
「さあ、ごっこ遊びはこれでおしまいよ」
追及者のデーモンが声高に告げる。その後、一瞬ブレナインを見つめる。
彼女の眼前でブレナインが目を閉じ、肩の力を抜く。それを見た後、すぐに視線を外す。
「後は好きになさい!」
デーモンが叫ぶ。直後、傍聴席に座っていた魔物娘達が一斉に立ち上がる。
彼女達の目的は最初から一つだった。
「さあ、お仕置きの時間よ」
「うーんと楽しませてあげるから、覚悟なさい♪」
なおも立てない人間達に魔物娘が群がる。さらにそれまで待機していた大男が出入口が開け放ち、外からも大勢の魔物娘がなだれ込んでくる。後は野となれ山となれ、あらかじめそう計画されていたかのように魔物娘達がスムーズな動きで教団員達を「確保」し、相手の返事も待たずに次々外へ連れ出していく。
「待て! 俺達をどこへ連れていく気だ!」
「愛の裁判所でーす」
「全員有罪判決で懲役確定だから、覚悟なさい」
人間の悲鳴は誰にも届かなかった。数分もせずに傍聴席にいた人間達は一人を除いて根こそぎ連れ去られ、拉致を実行した魔物娘達もまた風のように去っていった。後に残されたのはジェイの母親ただ一人。
一瞬の出来事であった。突然のことにブレナインが呆然としていると、そのうちミルドの方で動きがあった。
「ぼ、僕は」
動いたのはジェイの方だった。彼はミルドをじっと見つめながら、ふさわしい言葉を探すかのように視線を泳がせた。
母親はその様子をじっと窺っていた。既に涙は枯れたのか、頬に泣き跡を残しながらもこちらを凝視していた。
だめ。だめ。声にはならなかったが、彼女は口だけ動かしてそう告げていた。ジェイはそれを無視した。
「僕は」
ジェイがミルドの手を取る。
それを自分の胸元に当てる。
「僕は」
「駄目!」
ついに母親が叫ぶ。
ジェイが最後の一歩を踏み出す。
「あなたと一緒に、いたいです」
母親が悲鳴を上げる。ジェイとミルドが抱きしめ合う。
どこにも逃げ場所はない。
「ごめんなさい。本当は、こんな風に追い詰めたくはなかったんだけど」
「いいんです。僕が自分で決めたことですから」
「後悔はしてない?」
「してません。もう僕には、どこにも居場所はないから……」
ベルゼブブが空いた方の手を動かし、ジェイの背中に手を回す。胸元に当てた方の手もまた動かし、指先でジェイの体を下になぞっていく。
胸板と腹を通ってズボンに行き当たる。裾を掴み、ゆっくりそれを降ろしていく。
「よろしいですわね?」
「はい」
二人が頷き合う。ボロボロのズボンが足元に落ちる。下着はつけていなかった。
肉棒は立派に屹立していた。
「やめて! もうやめて!」
信者が泣き叫ぶ。ベルゼブブが下半身を露わにする。割れ目は十分濡れていた。
準備万端。二人の影が一息に重なる。
「ひっ――!」
「ひ、ひぃ、あはぁ……♪」
母親が絶望の表情を浮かべ、ベルゼブブが恍惚とした顔を見せる。
ミルドの尻をジェイが鷲掴みにし、腰を動かし始める。
「ああ、いい、きもちいい……!」
ミルドが熱っぽい声を上げる。一突きされるごとに声量が上がっていく。
母親はもはや声すら出ない。ブレナインは彼女に同情の眼差しを向け始めていた。
「僕にっ……僕に石をぶつけてっ、唾を吐いたくせに!」
ジェイが吠える。母親が思わず顔を上げる。ブレナインとデーモンが同時に彼を見据える。
少年が再び叫ぶ。
「僕を見殺しにして、それでも愛してるって言うつもりなのか!」
「許して! もう許して!」
母の懺悔。誰にも届かない。
ジェイが怒りのままに腰を打つ。亀頭が子宮の入口を抉り、ミルドが悦びのままに絶叫する。
天に向かって吼えるベルゼブブの体をジェイが抱きしめる。
「こんなとこにいたくない! 逃がして! 僕を逃がして!」
「だい、じょうぶ……っ、私が、あん♪ 逃がして、あげますわっ……守ってあげますわぁ♪」
縋るように抱きつくジェイの懇願を、ミルドが抱き返しながら断言する。二人の心が解け合い、一つに重なっていく。
手に手を取り合い、共に絶頂の階段を駆け上がっていく。
「ああ、イク、イク、イクよ!」
「私も、私も! イク、イキますわっ!」
人間とベルゼブブが心を通わせる。
傍聴席の人間の心が壊れていく。
そしてその時が来る。
「あ――っ♪」
体内に愛が流れてくる。熱い奔流を子宮で味わい、ミルドが絶叫する。
母親の絶望の叫びがそれをかき消す。裁判所を震わせる、地獄の底から放たれる咆哮。
息子にそれは届かない。心はミルドと共に天にあった。
「はあっ、はあっ……良かった、よ……」
事後、ジェイが呟く。
ミルドは何も言わず、ただ彼の体を抱き締める。
「絶対に、幸せにしてさしあげますわ……」
「うん……よろしくね……」
ジェイもそれに応えるように、ミルドの体を改めて抱き返す。それを見たデーモン二人が暖かな拍手を贈る。
恋人の誕生を祝う、祝福の拍手。新たな愛の芽生えに、ブレナインもまた年甲斐もなく目頭を熱くさせていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……ごめんなさい……」
しかし共に天へ昇ろうとしていたブレナインの心が、唐突に現実に引き戻される。母の伸ばした地獄の腕は彼の意識を捕まえていた。
声に気づき、素に戻ったブレナインが母親を見る。彼女の顔からは感情が抜け落ちていた。
真っ白になったまま、母親が首を動かしブレナインを見る。ブレナインもまた彼女をじっと見つめ返す。
「これが裁きか」
ブレナインが静かに告げながら立ち上がる。彼は地獄に落ちるつもりはさらさらなかった。
そんな彼の元に、追及者のデーモンが近づいていく。燃えカスとなった母親の目が、ゆっくりそれを追って行く。
「少しやり過ぎじゃないのか」
デーモンが自分の真横にきた直後、ブレナインが冷静な声で問いかける。その彼の肩に手を置きながら、デーモンがブレナインに向かって穏やかに言い返す。
「いい薬よ。それにアフターケアは準備済み」
直後、出入口のドアが激しく叩かれる。大男が再び欠伸交じりにドアを開く彼の足元には一人のオークがすり寄っていた。
「中々の名演だったわよ、アナタ♪」
「心情まで完璧に演じるのは中々しんどかったよ」
「安心して。私が癒してあげるから」
「それは期待していいってことかい?」
「もちろん♪」
「やったね」
デーモンと弁護士がハイタッチを交わす。
母親は全てを理解した。しかしもうどうすることも出来なかった。
一人の少年が堕ち、一つの支部が堕ちた。
それでも風は吹いていく。ゆっくりと、気ままに吹くのであった。
17/04/23 23:20更新 / 黒尻尾