デーモンさん、看病する
風邪をひいた。
「三十七度三分か……」
動けない程キツいわけではないが、動き回れるほど健全でも無い。こういう「中途半端」が一番困る。
新川優は脇から離した体温計を見つめながら、しみじみとそう思った。次に彼は傍のテーブルに置いてあったスマートフォンを手に取り、カレンダーを確認する。
今日は土曜日。午前十一時。平日でないのが幸いか。起きたばかりの彼はそう思った。
貴重な休日が潰れるのは癪だが、一日寝て過ごすことにしよう。そうも思った。
「面倒くさいなあ……」
しかし、意識して寝ると言うのは、予想以上に体力を使うのだ。それを知っていた優はそう呟き、スマートフォン片手に寝室に戻っていった。そして襖を開け、寝室に戻り、倒れるようにベッドに寝転がった。
枕に顔を押しつけて目を閉じ、さあ眠ろうと無理矢理神経を落ち着かせようとする。しかし布団の柔らかさが逆に神経を逆撫でし、彼を眠らせまいと妨害する。一度起き上がって布団を被ろうか。気を紛らわせるためにそんなことも考えたが、面倒くさかったので結局やらなかった。
それから思考をシャットダウンして、改めて眠りにつく。しかし精神が逆立ち、思うように眠れないまま苛立ちが募る。そんなイライラに任せて、優が口を開く。
「なんで風邪ひいちゃうかなあ……早く治さないと」
「話は聞かせてもらったわ!」
その時、ベッドの近くにあった窓が勢いよく開かれ、快活な声が聞こえてきた。
優は一瞬びくりとし、そしてすぐに誰が来たのかを理解した。彼はうつ伏せの姿勢のまま首を動かし、窓の方に目をやった。
「ユウ君、風邪をひいたんですって? 安心なさい。この私が看病してあげるわ!」
開け放たれた窓の向こう、ベランダのど真ん中に、青い肌を持った女が腕を組んで仁王立ちしていた。女は何故かピンク色のナースのコスプレをしており、自信満々な表情でこちらを見つめていた。
相変わらずの地獄耳だ。優は仁王立ちする女を見つめてそう思った。そんな優に向けて、青肌の女が続けて言い放つ。
「ふふっ、ユウ君も幸せ者ね。このお節介焼きのデーモンが隣に住んでいて、本当にラッキーだったわね」
「ペイルさん……」
「でももう大丈夫。ユウ君の貞操と健康は、この私が守ってみせるわ。あっ、でも貞操の方は、私が後でいただいちゃうんだけどね♪」
ペイルと呼ばれた魔物娘はそこまで言って、窓を開けっ放しにしたまま愛嬌たっぷりにウインクをする。時期は十一月。寒風が寝室に入り込み、ペイルの声を乗せて優の体を撫でていく。
その風の感触を全身で受けつつ、優は呆れ顔で「お隣さん」を見ながら女に言った。
「あの、ちょっといいですか」
「あら、どうしたのユウ君? 」
ペイルが反応する。軽く咳をしてから優が続けて言う。
「寒いんで、窓閉めてくれませんか」
「あっ、ごめんなさい」
デーモンはすぐに大人しくなった。そしてペイルはいそいそと優の寝室に入り、静かに窓を閉めた。
相変わらず可愛いなあ。優はそんなペイルを見て、ただ困ったように苦笑するばかりだった。
ペイルは優がこのマンションに越してきた時には、既に隣に住んでいた。そして優は不運にも――もしくは幸運にも――この隣に住む独身デーモンに見初められ、それ以降何かにつけては彼女に世話を焼かれていた。
優はデーモンの生態を知っていた。ペイルもまた自身の生態を優に明かしたうえで、彼に契約を持ち掛けてきていた。しかし彼女はそこまでやっておきながら、魔力と魅力で優と肉体関係を結ぼうとはしなかった。彼女は直接コトに及んだりはせず、食事を振舞ったり家事を手伝ったりと言った、いわゆる「搦め手」のみを徹底して行ってきたのだ。
結果、優とペイルが同じマンションに住むようになって一週間経っても、二人の関係は「無駄に仲良しな隣人」の域を越えていなかった。
「なんでそんなことするんですか? 普通にセックスして契約結ばせた方が早くないですか?」
優もそのことを不思議に思っていた。そしてある日、彼はペイルの食事を食べながら彼女に直接問いかけた。
優の部屋で食事を振舞っていたペイルはそれを聞いて、微笑みながら彼に答えた。
「私ね、ポリシーを持ってるの」
「ポリシー?」
「ええ。ポリシーっていうか、自分ルールってやつかしら。自分が本当に好きになった人には魔力を使わないで、自分の魅力だけでオとす。って感じね」
「……変わってますね」
「ええ。他の仲間達からもよく言われるわ。あなた変わってるってね」
しかし、だからと言って、ペイルは同胞から排斥されたりはしなかった。そしてペイルも己のポリシーを曲げようとはせず、今まで生きてきたのであった。
「じゃあ、今僕にこうして接して来てるのも?」
「ええ。あなたを私の魅力でメロメロにしちゃおうって算段よ。男を落とすにはまず胃袋から、って言うじゃない」
ペイルが眩しい笑顔を見せる。それを見た優は心臓が跳ねるような感覚を味わった。堂々と篭絡宣言をしてきたデーモンに、優は簡単に「堕ちて」しまったのである。
しかし優は、その時は自分の感情をペイルに伝えなかった。ペイルも無理強いして聞き出そうとはせず、その後も甲斐甲斐しく彼の面倒を見た。そして時には優が「恩返し」として、ペイルの部屋にお邪魔して彼女を手伝ったりもした。
そして今回の「看病」も、そんなペイルの「搦め手」の一環であった。
「でもベランダから入って来るのはやめてくださいよ。合鍵渡したじゃないですか。ちゃんとドアから入ってきてくださいよ」
ペイルの手によって仰向けに寝直された優は、自分の顔の近くで腰を下ろしていたペイルに向かって口を尖らせた。このマンションのベランダは部屋ごとに独立しており、自分のベランダから他人のベランダに向かうには、壁を乗り越えた上で向こう側へジャンプする必要があったのだ。ペイルはベランダから入って来る際にはいつもそれを実行しており、優はそれが原因でペイルが怪我をするのが怖かったのだ。
しかし当事者のペイルはそれを聞いて、子供のように自信たっぷりに答えた。
「嫌よ。だってそんなんじゃサプライズにならないじゃない」
「ええ……」
堂々と言ってのけるペイルに、優はただ呆然とした。ペイルはそんな優を見てクスクス笑った後、すぐに表情を引き締めて優を見た。
「でもねユウ君。改めて言うけど、私ってデーモンなんだよ」
「……どういうこと?」
「好きな人を手に入れるためなら、手段を選ばないってこと。そして今私の前には、愛しいユウ君が弱弱しい姿で寝込んでいる。まさに絶好のチャンスなのよ」
そこまで言って、ペイルは壮絶な笑みを浮かべた。今まで見たことのない悪魔の笑顔。いつもは明るく優しいペイルの本性、デーモンの本当の姿を垣間見た優は、思わず目を見開いて息をのんだ。
しかし優が怯えた直後、ペイルはすぐにその笑みを和らげた。張り詰めた空気が緩み、優の肩から力が抜ける。そして赤くなった優の額に手を当て、聖母のように穏やかな笑みを浮かべて彼に言った。
「大丈夫よ。逆レイプとか緊縛SMプレイとかはしないから。そういうのは実際に籍を入れてからね」
「出来ればハードなことは控えてくれると嬉しいです」
「それは後で考えましょう。今はあなたの看病しないと」
ペイルはそう言って立ち上がり、一回転してから決めポーズを取った。月に代わってお仕置きをするヒロインの取るあれに近いものだった。
「安心して! このペイルにかかれば、風邪くらいイチコロよ! あなたの風邪を治して、ついでにあなたの心もいただくから。覚悟しなさい♪」
そんなポーズを取ったまま、ペイルが元気よく宣言してみせる。
やっぱり変わってるなこの人。優は寝込んだままペイルを見上げて、呑気にそんなことを考えた。
でもそこが可愛いんだ。
こうしてペイルの看病は始まった。優はいったい何をしてくるのかと、期待半分、不安半分で座り直したデーモンを見守った。
そんな優に向かって、ペイルがゆっくりと口を開く。
「じゃあ患者さん、まずは体温を測りましょうね」
ペイルはそう言って、まず自分の服を脱いだ。
「……は?」
意味が分からなかった。台詞と行動の接点がまるで掴めなかった。
「なんで脱いでるんです?」
恐る恐る尋ねる。ペイルは一瞬きょとんとし、動きを止め、それから開き直るように彼に答えた。
「何って、体温測定するからよ?」
「なんで測定するのに脱ぐ必要があるんですかね」
「測定するから脱ぐのよ」
常識でしょ。そう言いたいかのような視線を向けながら、ペイルは脱衣を続行した。彼女は上だけでなく下にも手をかけ、優の眼前であっという間に全裸になる。汚れ一つない、青ざめた肌。優はその肢体に釘付けになり、思わず生唾を飲み込んだ。ついでに下半身に熱が溜まっていき、病身だというのに股間がむくむくと元気になっていく。
「さ、次はユウ君の番よ。じっとしててね」
そして相手の反応も待たずに、今度は優の服を剥がしにかかる。優は元より病人だったので、抵抗も何も出来なかった。そんな優の服を、ペイルは優しい手つきでゆっくりと、薄皮を剥いでいくように脱がしていく。
やがて優のあられもない肉体が露わになる。やや細身の、痩せた体。デーモンにとってはご褒美も同然だった。
「ユウ君の裸、初めて見ちゃったかも……」
恍惚とした声でペイルが呟く。優は恥ずかしさで顔を真っ赤にし、羞恥のあまり視線を逸らした。
そんな優の下半身にペイルの手が伸びる。太ももにむず痒い感触を感じ、優は反射的に身を固くする。
ペイルの方が早かった。優が手を出すよりも前に、ペイルの両手が優のズボンを掴み、一息に脱がしていく。さらに下着にも手をかけ、容赦なくずり降ろしていく。
次の瞬間、優の肉棒が姿を現す。
「まあ……うん……」
一瞬期待に胸を膨らませ、すぐに現実を突きつけられたペイルが落胆の声を上げる。
優の肉棒は硬くなっていたとはいえ、やはり力なく萎んでいた。病人だから当たり前である。
しかし中途半端に伸びていたそれを見て、ペイルはより一層奮起した。
「やっぱり、仲良しは完治してからしっぽりやるべきよね」
「あの、だから何をなさるおつもりなのでしょうか?」
不安からか敬語になって話す優に、ペイルは微笑みながら「まあ見てて」と返す。それから彼女はおもむろに優の上で四つん這いになり、そのまま彼と向かい合うような形で優の体に覆い被さった。
「……!?」
突然の抱擁に悠が体を堅くする。童貞青年の体は正直だった。
ペイルがそんな優の耳元で「力を抜いて」と囁く。後頭部と枕の隙間に両手を差し込み、そっと頭を抱きよせる。ついでにペイルは股を開いて両足を広げ、優の股間に刺激が行かないよう最大限配慮した。
「な、な、なにを!?」
「体温測定よ。何度も言わせないで」
困惑する優にペイルが告げる。彼女はそれから上半身にのみ力を入れ、腰から上だけで優の体温を感じた。ペイルは肌に神経を集中させ、微動だにせず、優の股間に干渉もしない。本当に自分の体を使って、優の体温を推し測っているようであった。
一方の優は生きた心地がしなかった。胸を押し付けられ、耳元でペイルの吐息を感じ、天国と地獄を同時に味わった。方法はどうあれ、病人に対して親身になって接してくる女性を襲うのは絶対にNGだ。彼の紳士的な精神が目の前の極上の果実を手に取ることを許さず、彼は理性と肉欲の狭間で激しく苦悩した。
「……ッ」
そんな優の葛藤は、たっぷり三十秒続いた。三十秒後、それまで熱心に抱きしめていたペイルはあっさりと体を離した。
「はい。検温終了。やっぱりちょっと熱があるわね。一日安静にしておくべきかしら」
優の服を元通りにし、最後に自分のナース服に袖を通してから、ペイルが納得したように言い放つ。優は自分の心臓が早鐘のように激しく脈打つのをはっきり感じていた。そして彼は肩で息をしながら、呆然とペイルを見つめていた。
あなたのおかげで体温がとても上がってしまいましたよ。そんな気障ったらしい台詞は死んでも吐けなかった。代わりに彼は、それよりももっと純粋な疑問を彼女にぶつけた。
「あの、ペイルさん。なんでこんなことしたんですか?」
「なんでって? 検温に決まってるじゃない。肌と肌を重ねて、直接相手の体温を感じる。これこそが男女の正しい検温の仕方、ラブコメの王道であるって、お隣のインプちゃんが言ってたもの」
「ラブコメ? 王道?」
「ええ。風邪をひいた男の子の家に女の子がやって来る。そして風邪気味だと言う男の子を心配して、肌をくっつけて体温を測る。これぞ極上の萌えの姿である。インプちゃん、前にそう力説してたんだから」
「……ああ、そういうことか」
「えっ?」
事情を理解した優が小声で呟く。それを聞いたペイルは不思議に思い、興味深げにユウを見つめた。
「どういうこと?」
「ペイルさん、それ勘違いしてます。あのインプさんは全裸で抱き合えって意味で言ったんじゃないんですよ」
同じマンションに住むインプ――悪戯好きでサブカル好きな一児の母の姿を想像しながら、優がペイルに説明した。
「肌と肌って言っても、全身で抱き合う必要は無いんです。額をくっつけるだけでいいんです」
「は?」
「だから、全裸にならなくても良かったんですよ。服を着たまま、おでこをくっつける。これだけでいいんですよ」
「……」
ペイルは愕然とした。本当に意味を正しく理解していなかったのか。優は違う意味で唖然とした。
ああもう、どこまで可愛いんだこの人は。優は心の底からそう思った。
そんな優の目の前で、やがてペイルはそっぽを向き、誤魔化すように口笛を吹き始めた。
「ひゅ、ひゅーひゅー、ひゅー……」
ヘッタクソな口笛だった。音色すら出ていなかった。それがまた可愛かった。
優は笑いをこらえるのに必死だった。
やがて羞恥に耐えられなくなったのか、顔を真っ赤にしながらペイルが叫んだ。
「ま、まだよ! まだ私のターンは終わってないんだから!」
「いや、別に僕はペイルさんを貶してるわけじゃ」
「ユウ君にその気が無くても、私は恥ずかしいの! 待ってて、今から汚名挽回してみせるから!」
「汚名返上です」
咳交じりに優が突っ込む。だが彼の言葉は彼女の心に届かない。既にペイルの心には火がつき、次の作戦の算段を練っていたからだ。
そして彼女は相手の反応を待たないまま、台所へと直行していた。時刻は既に十二時を迎えようとしていた。
ああ、もうすぐお昼か。優はそう思いそしてペイルが何をしに向かったのかを察した。
「……でも、別に襲ってきてくれても良かったんだよ……」
しかし優は、そのペイルが去り際に放った呟きに気づかなかった。ペイルは寂しげであったが、それにも感づかなかった。
この男も大概鈍感であった。
ペイルの作る料理は美味い。三ツ星料理人の作るそれよりも、ずっと美味い。その美味さたるや筆舌に尽くしがたく、一口食べた途端目と口から光線を吐いてしまいそうになる程に美味いのだ。
彼女の手料理を時折ごちそうになっていた優は、それを誰よりも知っていた。だからいつものようにペイルが自分の部屋のキッチンに向かうのを見て、彼は病身でありながら期待に胸を膨らませた。
数分後、ペイルは大きめの茶碗とレンゲ、そして冷たい麦茶の入ったコップを載せたお盆を持ちながら優のところに戻ってきた。茶碗の中からは湯気が立ち上り、それを見た優は物欲しそうに生唾を飲み込んだ。彼は病人でありながら、彼女の料理が食べられるというだけで、一丁前に腹の虫を鳴らしていた。
「あっ、いや、これは」
「いいのよユウ君。もっと素直になりなさいな」
ペイルはそんな彼の強欲ぶりを微笑ましく感じていた。むしろそれくらい欲深でなければ男ではないとさえ思っていた。
「はいユウ君、お昼持って来たわよ」
そんな彼女はそう言って腰を下ろし、脇にお盆を置いてから茶碗とレンゲを手に持った。それからペイルは優に身を起こすよう促し、優は素直にそれに従った。
その優に、中腰の姿勢になったペイルが柔らかな声で告げた。
「今日のご飯はお粥にしてみたわ。薄味かもしれないけど、弱った体にはこれが一番なのよ」
彼女の言う通り、茶碗の中には水気の多い、ふやけた白米が盛りつけられていた。そしてその柔らかくほぐれた米の真ん中には小さな梅干しが乗せられており、白一色の中に彩りを添えていた。
見た目はいたって普通なお粥である。それでも、優にとってそれは涙が出るほどありがたいものであった。美人の女性が一人暮らしをしている男の部屋に上がり込み、甲斐甲斐しく食事を用意してくれる。これをありがたいと言わずしてなんと言うのか。
その女性が惚れている相手ならば、なおさらである。
「でもさすがに、このままじゃちょっと熱いわね。冷ましてあげるからちょっと待っててね」
そしてペイルは、そんな優の前でお粥をひと掬いし、それを自分の口元に運んで息を吹きかけた。ふう、ふうとやさしく吐息をかけるペイルを見て、優はこのデーモンが猫舌であることを思いだした。自分と一緒に食事をする時、彼女は決まって、ああして自分の食べる分を冷ましてから口に運ぶのだ。
「うん、これくらいでいいかしら」
そうして自分の塩梅でお粥を冷ましたペイルが、満足げに言葉を放つ。そして優の眼前で、いつものように、冷めたそれを自分の口の中に運んだ。
「えっ」
唖然とする優の前で、ペイルがそれを咀嚼する。二人で食卓を囲む時のように、ほどよく冷めたそれをよく噛み、飲み込み、その美味しさに陶然とする。
「うーん、美味しい。今日もよくできているわね。よかったよかった」
そうして味わいを堪能した後、猫舌のデーモンは安心した声を上げた。全然よくねえよ。それ俺のご飯じゃねえのかよ。
それから彼女は再度レンゲでお粥を掬い、それを冷まし、再び口の中に運ぼうとした。
「ま、待って、待って!」
しかしペイルが口を開けたところで、優が力の限り声を上げる。必死の制止を受けたペイルはそこで我に返り、それが自分のご飯でないことを思いだした。
「それ、僕のだよね?」
「……あ、あう、ごめんなさい……」
彼女としてはいつもの調子で粥を冷ました後、またいつもの調子でそれを食べてしまったのだろう。体に染みついた行動パターンが、無意識の内に彼女の体を動かしてしまったのだ。うっかりさんめ。
そしてそれを指摘されたペイルは、途端にしおらしくなった。それまでの幸せそうな雰囲気は雲散霧消し、ペイルは優に対してとても申し訳なさそうな表情を見せた。
「弁解のしようも無いわ……本当にごめんなさい……なんとお詫びしたらいいか……」
ペイルは打ちひしがれていた。心から後悔していた。全身から今にも自殺しそうなほどに暗鬱なオーラを放っていた。被害者側である優が狼狽えるほどに惨憺たる様子であった。
おかげで、優は大慌てでそれをフォローすることになった。しかし優はそれを苦とは思わず、目の前でペイルが自分の粥を食べた事にも怒りを抱いてはいなかった。むしろそのおっちょこちょいな姿を見て、より一層彼女への恋心を強めていった。
この快活でコミカルな言動と大人びた外見とのギャップがたまらないのだ。
「僕は全然気にしてないですよ。だからペイルさんも、そんなに落ち込まないでください」
「……本当に? 怒ってない?」
「はい。怒ってないですよ」
叱咤されることを恐れて委縮する子供のような弱弱しい姿を見せるペイルに、優が柔和な笑みを浮かべて答える。彼の顔は熱で赤くなり、脳味噌も鈍痛に苛まされていたが、それでも彼はペイルを不安にさせまいと笑顔を見せた。
「だからもう、そんなに悲しまないでください。ペイルさんの泣き顔なんて、僕見たくないです」
「ユウ君……」
本気で涙腺に涙を溜めこんでいたペイルは、その優の言葉を聞いてハッとした。そしてまっすぐ優を見つめ、熱のこもった声で言った。
「じゃ、じゃあ、最初からやり直しても、いいかしら?」
「もちろん。あーんさせてくれるんでしょ?」
自分が本当にしたかったことを優に見抜かれる。しかしペイルは悔しいとは思わなかった。むしろ優が手口を察し、自分から顔の位置を適当な所に動かしてくれたおかげで、ペイルがより簡単かつ自然にそれを行うことが出来るようになったのであった。
初めての共同作業である。
「じゃあペイルさん、お願いします」
「うん。じゃあ最初からやり直すね」
そんな優の厚意に感謝しつつ、ペイルが改めて粥を掬う。そしてそれを冷まし、こちらに向かって口を開ける優の口内にそれを運ぶ。優はそれを受け入れ、口を閉じ、舌を使ってレンゲの中の粥を口の中に取り込んだ。
「ど、どう? 美味しいかしら?」
ドキドキしながらペイルが問いかける。よく噛んで味わい、飲み込んでから、優がペイルに答える。
「最高」
優が満面の笑みで答える。正直言って、粥は冷え切っていた。しかしそんなものが気にならなくなるくらい、優の心が幸せで満たされ、優の体が恋の炎で暖かく包まれていく。恥ずかしさと嬉しさの入り混じった感情が心の中で荒れ狂い、しかしその感情の渦を言葉で表せないシャイな優は、代わりにただただ幸福な笑顔を見せるだけだった。
愛しいペイルにこんなことされて、喜ばないわけが無かった。
「ねえ、ペイルさん。もう一回してもらってもいいかな?」
そしておかわりをねだる。強欲さを見せる優に、ペイルは同じように笑って答えた。
「もちろん。いくらでもあげるわ♪」
二人の「好き」という感情に火がつき、共に一気に燃え上がる。こうなったらもう誰にも止められない。ペイルはノリノリで粥を掬い、「あーん」と言いながらそれを差し出す。優もまた恥も外聞も捨てて、「あーん」と言いながら口を開き、ペイルの差し出すそれを受け入れる。優はレンゲから粥を受け取り、よく噛んで味わい、そして飲み込んでから「美味しい」とストレートな感想を伝える。
ペイルはそれを聞いてますます喜びを爆発させ、満面の笑みを見せながら再度レンゲで粥を掬う。優も待ってましたと言わんばかりに口を開け、それを待ち構える。
「はい、ユウ君。あーん♪」
「あーん♪」
そうして二人はイチャイチャイチャイチャとハートマークを飛ばしあい、幸せな時間に没頭していった。粥はあっという間に無くなったが、その一杯だけで、優の腹と心は十分満たされたのだった。
昼食を終えた後、優は本格的に眠ることにした。それまでと違ってペイルが傍にいるという安心感から、彼は軽く目を閉じた後すぐに寝息を立て始めた。そしてペイルはそんな彼の傍につき、彼の寝顔を見守った。なおこの時、彼女は居間から椅子を持ち出し、それをそっと優のベッドの傍に置き、そこに腰かけていた。
また彼女は水で濡らしたタオルを彼の額に添え、それが乾いたらまた濡らして添え直すという地道な作業を、嫌味一つ言わず熱心に行った。
そして彼が目覚めるまでの間、ペイルはタオルの交換時以外は片時も彼の隣から離れようとはしなかった。彼女にとって優は仲の良いお隣さんであり、本命のオスであり、そして大好きな男の人であった。そんな彼が苦しんでいる姿を前にして、独りのうのうと過ごすことなど出来なかったのだ。
「ユウ君、頑張ってね。いつでも私がついてるからね」
穏やかな表情で安眠を続ける優に、ペイルがそっと囁く。彼の心がどこかに行ってしまわないよう、その手をしっかりと握りしめながら。
そして陽が落ち、空が暗くなるまで、ペイルはじっと大好きな優を見守り続けた。
「ん……」
次に優が目を覚ました時、時刻は午後七時を回っていた。彼は幾分か軽くなった体を起こし、まず先にペイルの姿を探した。
ベッドの傍にあった椅子は片づけられていた。寝室と居間の境目である襖は全開になっていた。そしていわゆる「ダイニングキッチン」となっていた居間の方から、香ばしい匂いが漂ってきた。
「ペイルさん? どこに行ったの……?」
「あっ、ユウ君。目が覚めたのね♪」
そんな優が辺りを見回していると、その内居間の方からペイルが飛んできた。朝と変わらぬナース服の上からエプロンを身に着けており、手にはおたまを持っていた。
ああ、今ご飯を作っているのか。優は即座に理解した。そしてそんな優に、ペイルが明るい声で言った。
「待っててねユウ君。今お夕飯作ってるところだから。出来たら呼ぶから、それまでもう少し待っててね」
「あ、うん。わかりました」
ペイルからの呼びかけに、優は素直に頷いた。それを見たペイルはにこやかに笑い、そして「じゃあちょっと待っててね」と言ってから踵を返して居間に戻っていった。
「あ、ペイルさんちょっといいかな」
そうして戻ろうとしたペイルを、優が呼び止める。ペイルは足を止めて優の方へ振り返り、そしてそんなペイルを見ながら優が口を開いた。
「今日の夕飯のメニューはなんですか? さっき美味しそうな匂いが届いてきたから、気になっちゃって」
「あら、気になる? じゃあ先に名前だけ教えておこうかしら」
興味津々な優に、ペイルが愉快そうに答える。それから彼女は胸を張り、「聞いて驚きなさい」と告げてからドヤ顔で答えた。
「今日の晩ご飯は北京ダックよ」
「……は?」
熱で耳がイカれたのだろうか。優は凡その一般家庭とは無縁な料理の名前を耳にして、ただ呆然とした。
そんな優に、ペイルが自信満々と言った体で追い打ちをかける。
「今日のご飯は北京ダックです。今アヒルを揚げてるところよ」
「……なんでいきなり北京ダック?」
「魔界にいる友達からね、こーんなおっきいアヒルをもらったのよ。もちろん食用のアヒルで、狩りの成果のおすそ分けってことらしいの。でもお肉って消費期限短いし、放置してると鮮度が落ちちゃうでしょ? だから新鮮なうちにこれを使って、北京ダック作ってみたの♪」
ペイルはとても嬉しそうであった。おたまを両手で持ち、子供のようにその場で跳ね跳んだ。
治りかけとはいえまだ風邪気味であった優は、それを見て困惑した笑いを浮かべるだけだった。しかしそれは愛想の尽きたものではなく、やんちゃな娘を見守る父親のそれであった。
まったく、しょうがない人だなあ。彼は心からそう思った。
「大丈夫。ちゃんと食べやすいように切り分けてあげるから安心して。精のつく肉料理、期待しててね!」
そしてペイルはそう言って、さっさとキッチンに戻っていく。優は一つため息をつき、それから彼女の言う通り体を横にして、食事時を待った。
彼の心は期待に震えていた。「病人に北京ダック食わせる馬鹿がどこにいるんだよ」とか「なんでその流れで北京ダックを作ろうという発想に思い至るんだよ」とかいう、彼女の話を聞いて最初に抱いた突っ込みは、既に心の中から消え去っていた。
「ペイルさんのご飯、楽しみだなあ……」
愛する人が愛する人のために、本気になって作った料理。それを邪険にすることなど誰が出来るだろうか。優は本気でそう考えていた。そして彼の想像通り、ペイルの作った北京ダックは非常に美味であった。
夕飯を終え、優は三度眠りにつくことになった。たっぷり休み、精のつく料理を食べたおかげで、気怠さや寒さはすっかり体から追い出されていた。体と頭は軽くなり、熱っぽさも無くなっていた。
しかし楽観視は禁物である。今日一日しっかり休んで、明日に備えよう。二人は同じ結論に至り、優は大人しくベッドに戻った。しかし直前に北京ダックとかいうクソ重い料理――やっぱり病人がこれを食べるのはおかしいと、優はペイルと食卓を囲む中で認識を改めた――を食べたために、彼の神経は完全に覚醒してしまっていた。
「じゃあ眠れるようになるまで、少しお話ししてましょうか」
ベッドの傍に椅子を持ち込み、そこに腰かけながら、ペイルが優に提案する。優も「いいですね」とそれに同意し、それから二人は優が眠るまでの間雑談に興じることとなった。
最初のネタ振りはペイルが行うことになった。
「もうこの際ぶっちゃけちゃうけど、ユウ君、私のこと好きでしょ?」
そしてそこで、ペイルは躊躇なく爆弾を放り投げた。優は息が詰まり、素早い動きで首を回してペイルを見た。
「なっ、なんっ、なんでそのこと……?」
「あなたの様子を見ていればわかるわ。デーモンの目敏さを甘く見ないでね」
明らかに狼狽する優に、ペイルが愉快そうに答える。優はその後も暫く困惑していたが、やがて諦めたように体から力を抜き、据わった眼差しで天井を見つめた。
「参ったなあ。バレてたのか」
諦めたような口調で優が漏らす。自分からそれを認めた優に対し、ペイルが不満そうな顔で彼に問いかける。
「好きになってたなら、もっと早く教えてくれても良かったのに。どうして言ってくれなかったのよ」
「それはその、告白したら、今の関係が崩れちゃうんじゃないかって不安になって……。それにペイルさんの方こそ、僕があなたのことを好きになってるってわかってるなら、どうして自分から攻めに行かなかったんですか?」
困惑しながらペイルの問いに答え、それから逆に問い返す。優のそれは非難がましいものではなく、純粋な疑念から来たものだった。
そんな問いに対し、ペイルは「決まってるでしょ」と前置きした上でそれに答えた。
「私のポリシーの問題よ。あなたを魅了して、あなたの方から告白させたかったの。それだけよ」
「なんか、面倒くさいですね」
「まあ自分でもやり過ぎかなとは思ってるわ。でもやっぱり、私はあなたの口から愛の言葉を聞きたいのよ」
そう言って、ペイルが優をじっと見つめる。ベッドの上で仰向けになった優は、ゆっくり首を回してペイルを見つめ返す。
沈黙が二人を包む。どこか心地のよい静寂。やがてその静けさを破るように、優が口を開く。
「ペイルさん」
「……なあに?」
「ペイルさん。僕はあなたが」
「ストップ」
しかしそこまで来て、ペイルは唐突に優の言葉を遮った。優はいきなり強い口調で言ってきたペイルに驚き、口を噤んだ。そしてペイルは黙りこくった優を見ながら、諭すように言った。
「熱に浮かされた言葉じゃダメ。ちゃんと本心から、あなたの言葉が聞きたい」
「ペイルさん……」
「わがままだってことは、私もわかってる。でも私は、健全なあなたから告白されたいの。しっかりと自分の意志を持ったあなたから告白されたいの」
ペイルの顔つきは今までにないくらい真剣だった。優はそんな彼女の梃子でも動かない頑固さを悟り、困ったように苦笑しながら言った。
「……わかった。ちゃんと回復してから、改めてペイルさんに告白するよ」
「ごめんね。なんだか今日、私のわがままに付き合わせてばかりね」
「気にしないでよ。僕だって好きな女の人と一緒にいられて、すっごく楽しかったんだから。それにおとぼけなペイルさんの姿も見れたことだし、ホクホクだよ」
「もう、ユウ君ってば。今日のことは忘れてよね? お願いだから」
怒るどころか茶化すように言ってのけた優に、ペイルが恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら言い返す。そんなペイルを見た優はおかしげに笑い声をあげ、ペイルもつられて笑い出す。
二人の笑い声が寝室に響き渡り、その空間を幸せで満たしていく。そうしてひとしきり笑いあった後、優は目元に涙を溜めながらペイルに言った。
「本当の告白は、明日だね」
「そうね。明日、元気になったユウ君から、告白してきてほしいな」
「うん。わかった」
「それから私も、明日ユウ君に告白する。自分の気持ちを、ちゃんとあなたに伝える」
頷く優にペイルが言い放つ。優はその瞬間を待ちわびるように期待に胸を膨らませ、溢れる幸福感を笑顔という形でこぼしながら再度頷く。
そんな優に向かって、ペイルが幸せいっぱいな笑みを見せながら言ってのけた。
「あなたと結婚したいって、ちゃんとあなたに告白する。私と一生を添い遂げてくださいって。だから期待して待っててね」
直後、優が顔から笑みを消す。一瞬で態度を変えた優にペイルが気づき、彼女もまた笑みを無くす。
そしてペイルは真顔になったまま、恐る恐る優に尋ねる。
「どうしたのユウ君? いきなり険しい顔になって?」
「……いや、そのさ」
問いかけるペイルに、言いにくそうにしながら優が答える。
「そういうの、今言っちゃいけないだろ」
「あっ……えへへ」
ペイルは一瞬呆気に取られ、そして物凄くバツの悪い表情を見せた。
優はそんなペイルが愛しくてたまらなかった。そんなちょっと間の抜けた、とてもデーモンに見えないデーモンが大好きだった。
明日、ちゃんと告白しよう。彼はその愛を抱いたまま、静かに決心を固めた。
翌日。優は自分の体が完全復活を遂げたことを自覚した。
「……うん、完璧」
気怠さや熱っぽさは欠片も無い。体はすこぶる軽い。脳味噌も重くない。健康体そのものだ。ベッドから飛び起きた彼は手足を動かしつつ、そうして健康であることのありがたみを噛み締めた。
それから一通り体を動かした後、彼はすぐに表情を引き締めた。昨晩交わした約束を、彼はしっかり覚えていたのだ。
「ちゃんと決めないとな……」
二、三度深呼吸をし、態勢を整える。襖は閉じ切られていたが、優はその奥にペイルが待ち構えていることを直感で察していた。
理屈ではない。わかるのだ。彼女がそこで待っている。そう確信した優は襖に手をかけ、意を決してそれを開け放つ。
「あのっ、ペイルさん――」
開けると同時に言葉を言い放つ。そしてそこまで言って即座に口を閉ざす。そこにいたそれがどういう意味で存在していたのか、彼は瞬時に理解できなかったのだ。
「ゆっ……」
白に染まったデーモン――純白のウェディングドレスを身に纏ったペイルが、ブーケを両手で持ちながら優を見つめ、緊張した声で言った。
「ユウ君! 結婚しましょう!」
「……」
「結婚しましょう!」
聞こえていないと思ったのか、念を押すようにペイルが言い直す。優の顔はなおも呆然としていたが、そのうち、彼の顔からは自然と笑みがこぼれていった。
もう無理。限界。優はペイルのやり方が可笑しくて、愛おしくて、とにかく笑うしかなかった。
「えっ、ちょっ、なによ! なんで笑ってるのよ!?」
予想外の反応にペイルがあからさまに混乱する。そしてそんな慌てふためくペイルを見ながら腹を抱えて笑いつつ、優が大きな声で言い放った。
「もう、可愛い! なんでそんなに可愛いんですか!?」
「えっ? えっ?」
「もう、好き! そんなペイルさん、大好き!」
優の心からの言葉を受け、ペイルが顔を茹蛸のように真っ赤にするのに、そう時間はかからなかった。
「三十七度三分か……」
動けない程キツいわけではないが、動き回れるほど健全でも無い。こういう「中途半端」が一番困る。
新川優は脇から離した体温計を見つめながら、しみじみとそう思った。次に彼は傍のテーブルに置いてあったスマートフォンを手に取り、カレンダーを確認する。
今日は土曜日。午前十一時。平日でないのが幸いか。起きたばかりの彼はそう思った。
貴重な休日が潰れるのは癪だが、一日寝て過ごすことにしよう。そうも思った。
「面倒くさいなあ……」
しかし、意識して寝ると言うのは、予想以上に体力を使うのだ。それを知っていた優はそう呟き、スマートフォン片手に寝室に戻っていった。そして襖を開け、寝室に戻り、倒れるようにベッドに寝転がった。
枕に顔を押しつけて目を閉じ、さあ眠ろうと無理矢理神経を落ち着かせようとする。しかし布団の柔らかさが逆に神経を逆撫でし、彼を眠らせまいと妨害する。一度起き上がって布団を被ろうか。気を紛らわせるためにそんなことも考えたが、面倒くさかったので結局やらなかった。
それから思考をシャットダウンして、改めて眠りにつく。しかし精神が逆立ち、思うように眠れないまま苛立ちが募る。そんなイライラに任せて、優が口を開く。
「なんで風邪ひいちゃうかなあ……早く治さないと」
「話は聞かせてもらったわ!」
その時、ベッドの近くにあった窓が勢いよく開かれ、快活な声が聞こえてきた。
優は一瞬びくりとし、そしてすぐに誰が来たのかを理解した。彼はうつ伏せの姿勢のまま首を動かし、窓の方に目をやった。
「ユウ君、風邪をひいたんですって? 安心なさい。この私が看病してあげるわ!」
開け放たれた窓の向こう、ベランダのど真ん中に、青い肌を持った女が腕を組んで仁王立ちしていた。女は何故かピンク色のナースのコスプレをしており、自信満々な表情でこちらを見つめていた。
相変わらずの地獄耳だ。優は仁王立ちする女を見つめてそう思った。そんな優に向けて、青肌の女が続けて言い放つ。
「ふふっ、ユウ君も幸せ者ね。このお節介焼きのデーモンが隣に住んでいて、本当にラッキーだったわね」
「ペイルさん……」
「でももう大丈夫。ユウ君の貞操と健康は、この私が守ってみせるわ。あっ、でも貞操の方は、私が後でいただいちゃうんだけどね♪」
ペイルと呼ばれた魔物娘はそこまで言って、窓を開けっ放しにしたまま愛嬌たっぷりにウインクをする。時期は十一月。寒風が寝室に入り込み、ペイルの声を乗せて優の体を撫でていく。
その風の感触を全身で受けつつ、優は呆れ顔で「お隣さん」を見ながら女に言った。
「あの、ちょっといいですか」
「あら、どうしたのユウ君? 」
ペイルが反応する。軽く咳をしてから優が続けて言う。
「寒いんで、窓閉めてくれませんか」
「あっ、ごめんなさい」
デーモンはすぐに大人しくなった。そしてペイルはいそいそと優の寝室に入り、静かに窓を閉めた。
相変わらず可愛いなあ。優はそんなペイルを見て、ただ困ったように苦笑するばかりだった。
ペイルは優がこのマンションに越してきた時には、既に隣に住んでいた。そして優は不運にも――もしくは幸運にも――この隣に住む独身デーモンに見初められ、それ以降何かにつけては彼女に世話を焼かれていた。
優はデーモンの生態を知っていた。ペイルもまた自身の生態を優に明かしたうえで、彼に契約を持ち掛けてきていた。しかし彼女はそこまでやっておきながら、魔力と魅力で優と肉体関係を結ぼうとはしなかった。彼女は直接コトに及んだりはせず、食事を振舞ったり家事を手伝ったりと言った、いわゆる「搦め手」のみを徹底して行ってきたのだ。
結果、優とペイルが同じマンションに住むようになって一週間経っても、二人の関係は「無駄に仲良しな隣人」の域を越えていなかった。
「なんでそんなことするんですか? 普通にセックスして契約結ばせた方が早くないですか?」
優もそのことを不思議に思っていた。そしてある日、彼はペイルの食事を食べながら彼女に直接問いかけた。
優の部屋で食事を振舞っていたペイルはそれを聞いて、微笑みながら彼に答えた。
「私ね、ポリシーを持ってるの」
「ポリシー?」
「ええ。ポリシーっていうか、自分ルールってやつかしら。自分が本当に好きになった人には魔力を使わないで、自分の魅力だけでオとす。って感じね」
「……変わってますね」
「ええ。他の仲間達からもよく言われるわ。あなた変わってるってね」
しかし、だからと言って、ペイルは同胞から排斥されたりはしなかった。そしてペイルも己のポリシーを曲げようとはせず、今まで生きてきたのであった。
「じゃあ、今僕にこうして接して来てるのも?」
「ええ。あなたを私の魅力でメロメロにしちゃおうって算段よ。男を落とすにはまず胃袋から、って言うじゃない」
ペイルが眩しい笑顔を見せる。それを見た優は心臓が跳ねるような感覚を味わった。堂々と篭絡宣言をしてきたデーモンに、優は簡単に「堕ちて」しまったのである。
しかし優は、その時は自分の感情をペイルに伝えなかった。ペイルも無理強いして聞き出そうとはせず、その後も甲斐甲斐しく彼の面倒を見た。そして時には優が「恩返し」として、ペイルの部屋にお邪魔して彼女を手伝ったりもした。
そして今回の「看病」も、そんなペイルの「搦め手」の一環であった。
「でもベランダから入って来るのはやめてくださいよ。合鍵渡したじゃないですか。ちゃんとドアから入ってきてくださいよ」
ペイルの手によって仰向けに寝直された優は、自分の顔の近くで腰を下ろしていたペイルに向かって口を尖らせた。このマンションのベランダは部屋ごとに独立しており、自分のベランダから他人のベランダに向かうには、壁を乗り越えた上で向こう側へジャンプする必要があったのだ。ペイルはベランダから入って来る際にはいつもそれを実行しており、優はそれが原因でペイルが怪我をするのが怖かったのだ。
しかし当事者のペイルはそれを聞いて、子供のように自信たっぷりに答えた。
「嫌よ。だってそんなんじゃサプライズにならないじゃない」
「ええ……」
堂々と言ってのけるペイルに、優はただ呆然とした。ペイルはそんな優を見てクスクス笑った後、すぐに表情を引き締めて優を見た。
「でもねユウ君。改めて言うけど、私ってデーモンなんだよ」
「……どういうこと?」
「好きな人を手に入れるためなら、手段を選ばないってこと。そして今私の前には、愛しいユウ君が弱弱しい姿で寝込んでいる。まさに絶好のチャンスなのよ」
そこまで言って、ペイルは壮絶な笑みを浮かべた。今まで見たことのない悪魔の笑顔。いつもは明るく優しいペイルの本性、デーモンの本当の姿を垣間見た優は、思わず目を見開いて息をのんだ。
しかし優が怯えた直後、ペイルはすぐにその笑みを和らげた。張り詰めた空気が緩み、優の肩から力が抜ける。そして赤くなった優の額に手を当て、聖母のように穏やかな笑みを浮かべて彼に言った。
「大丈夫よ。逆レイプとか緊縛SMプレイとかはしないから。そういうのは実際に籍を入れてからね」
「出来ればハードなことは控えてくれると嬉しいです」
「それは後で考えましょう。今はあなたの看病しないと」
ペイルはそう言って立ち上がり、一回転してから決めポーズを取った。月に代わってお仕置きをするヒロインの取るあれに近いものだった。
「安心して! このペイルにかかれば、風邪くらいイチコロよ! あなたの風邪を治して、ついでにあなたの心もいただくから。覚悟しなさい♪」
そんなポーズを取ったまま、ペイルが元気よく宣言してみせる。
やっぱり変わってるなこの人。優は寝込んだままペイルを見上げて、呑気にそんなことを考えた。
でもそこが可愛いんだ。
こうしてペイルの看病は始まった。優はいったい何をしてくるのかと、期待半分、不安半分で座り直したデーモンを見守った。
そんな優に向かって、ペイルがゆっくりと口を開く。
「じゃあ患者さん、まずは体温を測りましょうね」
ペイルはそう言って、まず自分の服を脱いだ。
「……は?」
意味が分からなかった。台詞と行動の接点がまるで掴めなかった。
「なんで脱いでるんです?」
恐る恐る尋ねる。ペイルは一瞬きょとんとし、動きを止め、それから開き直るように彼に答えた。
「何って、体温測定するからよ?」
「なんで測定するのに脱ぐ必要があるんですかね」
「測定するから脱ぐのよ」
常識でしょ。そう言いたいかのような視線を向けながら、ペイルは脱衣を続行した。彼女は上だけでなく下にも手をかけ、優の眼前であっという間に全裸になる。汚れ一つない、青ざめた肌。優はその肢体に釘付けになり、思わず生唾を飲み込んだ。ついでに下半身に熱が溜まっていき、病身だというのに股間がむくむくと元気になっていく。
「さ、次はユウ君の番よ。じっとしててね」
そして相手の反応も待たずに、今度は優の服を剥がしにかかる。優は元より病人だったので、抵抗も何も出来なかった。そんな優の服を、ペイルは優しい手つきでゆっくりと、薄皮を剥いでいくように脱がしていく。
やがて優のあられもない肉体が露わになる。やや細身の、痩せた体。デーモンにとってはご褒美も同然だった。
「ユウ君の裸、初めて見ちゃったかも……」
恍惚とした声でペイルが呟く。優は恥ずかしさで顔を真っ赤にし、羞恥のあまり視線を逸らした。
そんな優の下半身にペイルの手が伸びる。太ももにむず痒い感触を感じ、優は反射的に身を固くする。
ペイルの方が早かった。優が手を出すよりも前に、ペイルの両手が優のズボンを掴み、一息に脱がしていく。さらに下着にも手をかけ、容赦なくずり降ろしていく。
次の瞬間、優の肉棒が姿を現す。
「まあ……うん……」
一瞬期待に胸を膨らませ、すぐに現実を突きつけられたペイルが落胆の声を上げる。
優の肉棒は硬くなっていたとはいえ、やはり力なく萎んでいた。病人だから当たり前である。
しかし中途半端に伸びていたそれを見て、ペイルはより一層奮起した。
「やっぱり、仲良しは完治してからしっぽりやるべきよね」
「あの、だから何をなさるおつもりなのでしょうか?」
不安からか敬語になって話す優に、ペイルは微笑みながら「まあ見てて」と返す。それから彼女はおもむろに優の上で四つん這いになり、そのまま彼と向かい合うような形で優の体に覆い被さった。
「……!?」
突然の抱擁に悠が体を堅くする。童貞青年の体は正直だった。
ペイルがそんな優の耳元で「力を抜いて」と囁く。後頭部と枕の隙間に両手を差し込み、そっと頭を抱きよせる。ついでにペイルは股を開いて両足を広げ、優の股間に刺激が行かないよう最大限配慮した。
「な、な、なにを!?」
「体温測定よ。何度も言わせないで」
困惑する優にペイルが告げる。彼女はそれから上半身にのみ力を入れ、腰から上だけで優の体温を感じた。ペイルは肌に神経を集中させ、微動だにせず、優の股間に干渉もしない。本当に自分の体を使って、優の体温を推し測っているようであった。
一方の優は生きた心地がしなかった。胸を押し付けられ、耳元でペイルの吐息を感じ、天国と地獄を同時に味わった。方法はどうあれ、病人に対して親身になって接してくる女性を襲うのは絶対にNGだ。彼の紳士的な精神が目の前の極上の果実を手に取ることを許さず、彼は理性と肉欲の狭間で激しく苦悩した。
「……ッ」
そんな優の葛藤は、たっぷり三十秒続いた。三十秒後、それまで熱心に抱きしめていたペイルはあっさりと体を離した。
「はい。検温終了。やっぱりちょっと熱があるわね。一日安静にしておくべきかしら」
優の服を元通りにし、最後に自分のナース服に袖を通してから、ペイルが納得したように言い放つ。優は自分の心臓が早鐘のように激しく脈打つのをはっきり感じていた。そして彼は肩で息をしながら、呆然とペイルを見つめていた。
あなたのおかげで体温がとても上がってしまいましたよ。そんな気障ったらしい台詞は死んでも吐けなかった。代わりに彼は、それよりももっと純粋な疑問を彼女にぶつけた。
「あの、ペイルさん。なんでこんなことしたんですか?」
「なんでって? 検温に決まってるじゃない。肌と肌を重ねて、直接相手の体温を感じる。これこそが男女の正しい検温の仕方、ラブコメの王道であるって、お隣のインプちゃんが言ってたもの」
「ラブコメ? 王道?」
「ええ。風邪をひいた男の子の家に女の子がやって来る。そして風邪気味だと言う男の子を心配して、肌をくっつけて体温を測る。これぞ極上の萌えの姿である。インプちゃん、前にそう力説してたんだから」
「……ああ、そういうことか」
「えっ?」
事情を理解した優が小声で呟く。それを聞いたペイルは不思議に思い、興味深げにユウを見つめた。
「どういうこと?」
「ペイルさん、それ勘違いしてます。あのインプさんは全裸で抱き合えって意味で言ったんじゃないんですよ」
同じマンションに住むインプ――悪戯好きでサブカル好きな一児の母の姿を想像しながら、優がペイルに説明した。
「肌と肌って言っても、全身で抱き合う必要は無いんです。額をくっつけるだけでいいんです」
「は?」
「だから、全裸にならなくても良かったんですよ。服を着たまま、おでこをくっつける。これだけでいいんですよ」
「……」
ペイルは愕然とした。本当に意味を正しく理解していなかったのか。優は違う意味で唖然とした。
ああもう、どこまで可愛いんだこの人は。優は心の底からそう思った。
そんな優の目の前で、やがてペイルはそっぽを向き、誤魔化すように口笛を吹き始めた。
「ひゅ、ひゅーひゅー、ひゅー……」
ヘッタクソな口笛だった。音色すら出ていなかった。それがまた可愛かった。
優は笑いをこらえるのに必死だった。
やがて羞恥に耐えられなくなったのか、顔を真っ赤にしながらペイルが叫んだ。
「ま、まだよ! まだ私のターンは終わってないんだから!」
「いや、別に僕はペイルさんを貶してるわけじゃ」
「ユウ君にその気が無くても、私は恥ずかしいの! 待ってて、今から汚名挽回してみせるから!」
「汚名返上です」
咳交じりに優が突っ込む。だが彼の言葉は彼女の心に届かない。既にペイルの心には火がつき、次の作戦の算段を練っていたからだ。
そして彼女は相手の反応を待たないまま、台所へと直行していた。時刻は既に十二時を迎えようとしていた。
ああ、もうすぐお昼か。優はそう思いそしてペイルが何をしに向かったのかを察した。
「……でも、別に襲ってきてくれても良かったんだよ……」
しかし優は、そのペイルが去り際に放った呟きに気づかなかった。ペイルは寂しげであったが、それにも感づかなかった。
この男も大概鈍感であった。
ペイルの作る料理は美味い。三ツ星料理人の作るそれよりも、ずっと美味い。その美味さたるや筆舌に尽くしがたく、一口食べた途端目と口から光線を吐いてしまいそうになる程に美味いのだ。
彼女の手料理を時折ごちそうになっていた優は、それを誰よりも知っていた。だからいつものようにペイルが自分の部屋のキッチンに向かうのを見て、彼は病身でありながら期待に胸を膨らませた。
数分後、ペイルは大きめの茶碗とレンゲ、そして冷たい麦茶の入ったコップを載せたお盆を持ちながら優のところに戻ってきた。茶碗の中からは湯気が立ち上り、それを見た優は物欲しそうに生唾を飲み込んだ。彼は病人でありながら、彼女の料理が食べられるというだけで、一丁前に腹の虫を鳴らしていた。
「あっ、いや、これは」
「いいのよユウ君。もっと素直になりなさいな」
ペイルはそんな彼の強欲ぶりを微笑ましく感じていた。むしろそれくらい欲深でなければ男ではないとさえ思っていた。
「はいユウ君、お昼持って来たわよ」
そんな彼女はそう言って腰を下ろし、脇にお盆を置いてから茶碗とレンゲを手に持った。それからペイルは優に身を起こすよう促し、優は素直にそれに従った。
その優に、中腰の姿勢になったペイルが柔らかな声で告げた。
「今日のご飯はお粥にしてみたわ。薄味かもしれないけど、弱った体にはこれが一番なのよ」
彼女の言う通り、茶碗の中には水気の多い、ふやけた白米が盛りつけられていた。そしてその柔らかくほぐれた米の真ん中には小さな梅干しが乗せられており、白一色の中に彩りを添えていた。
見た目はいたって普通なお粥である。それでも、優にとってそれは涙が出るほどありがたいものであった。美人の女性が一人暮らしをしている男の部屋に上がり込み、甲斐甲斐しく食事を用意してくれる。これをありがたいと言わずしてなんと言うのか。
その女性が惚れている相手ならば、なおさらである。
「でもさすがに、このままじゃちょっと熱いわね。冷ましてあげるからちょっと待っててね」
そしてペイルは、そんな優の前でお粥をひと掬いし、それを自分の口元に運んで息を吹きかけた。ふう、ふうとやさしく吐息をかけるペイルを見て、優はこのデーモンが猫舌であることを思いだした。自分と一緒に食事をする時、彼女は決まって、ああして自分の食べる分を冷ましてから口に運ぶのだ。
「うん、これくらいでいいかしら」
そうして自分の塩梅でお粥を冷ましたペイルが、満足げに言葉を放つ。そして優の眼前で、いつものように、冷めたそれを自分の口の中に運んだ。
「えっ」
唖然とする優の前で、ペイルがそれを咀嚼する。二人で食卓を囲む時のように、ほどよく冷めたそれをよく噛み、飲み込み、その美味しさに陶然とする。
「うーん、美味しい。今日もよくできているわね。よかったよかった」
そうして味わいを堪能した後、猫舌のデーモンは安心した声を上げた。全然よくねえよ。それ俺のご飯じゃねえのかよ。
それから彼女は再度レンゲでお粥を掬い、それを冷まし、再び口の中に運ぼうとした。
「ま、待って、待って!」
しかしペイルが口を開けたところで、優が力の限り声を上げる。必死の制止を受けたペイルはそこで我に返り、それが自分のご飯でないことを思いだした。
「それ、僕のだよね?」
「……あ、あう、ごめんなさい……」
彼女としてはいつもの調子で粥を冷ました後、またいつもの調子でそれを食べてしまったのだろう。体に染みついた行動パターンが、無意識の内に彼女の体を動かしてしまったのだ。うっかりさんめ。
そしてそれを指摘されたペイルは、途端にしおらしくなった。それまでの幸せそうな雰囲気は雲散霧消し、ペイルは優に対してとても申し訳なさそうな表情を見せた。
「弁解のしようも無いわ……本当にごめんなさい……なんとお詫びしたらいいか……」
ペイルは打ちひしがれていた。心から後悔していた。全身から今にも自殺しそうなほどに暗鬱なオーラを放っていた。被害者側である優が狼狽えるほどに惨憺たる様子であった。
おかげで、優は大慌てでそれをフォローすることになった。しかし優はそれを苦とは思わず、目の前でペイルが自分の粥を食べた事にも怒りを抱いてはいなかった。むしろそのおっちょこちょいな姿を見て、より一層彼女への恋心を強めていった。
この快活でコミカルな言動と大人びた外見とのギャップがたまらないのだ。
「僕は全然気にしてないですよ。だからペイルさんも、そんなに落ち込まないでください」
「……本当に? 怒ってない?」
「はい。怒ってないですよ」
叱咤されることを恐れて委縮する子供のような弱弱しい姿を見せるペイルに、優が柔和な笑みを浮かべて答える。彼の顔は熱で赤くなり、脳味噌も鈍痛に苛まされていたが、それでも彼はペイルを不安にさせまいと笑顔を見せた。
「だからもう、そんなに悲しまないでください。ペイルさんの泣き顔なんて、僕見たくないです」
「ユウ君……」
本気で涙腺に涙を溜めこんでいたペイルは、その優の言葉を聞いてハッとした。そしてまっすぐ優を見つめ、熱のこもった声で言った。
「じゃ、じゃあ、最初からやり直しても、いいかしら?」
「もちろん。あーんさせてくれるんでしょ?」
自分が本当にしたかったことを優に見抜かれる。しかしペイルは悔しいとは思わなかった。むしろ優が手口を察し、自分から顔の位置を適当な所に動かしてくれたおかげで、ペイルがより簡単かつ自然にそれを行うことが出来るようになったのであった。
初めての共同作業である。
「じゃあペイルさん、お願いします」
「うん。じゃあ最初からやり直すね」
そんな優の厚意に感謝しつつ、ペイルが改めて粥を掬う。そしてそれを冷まし、こちらに向かって口を開ける優の口内にそれを運ぶ。優はそれを受け入れ、口を閉じ、舌を使ってレンゲの中の粥を口の中に取り込んだ。
「ど、どう? 美味しいかしら?」
ドキドキしながらペイルが問いかける。よく噛んで味わい、飲み込んでから、優がペイルに答える。
「最高」
優が満面の笑みで答える。正直言って、粥は冷え切っていた。しかしそんなものが気にならなくなるくらい、優の心が幸せで満たされ、優の体が恋の炎で暖かく包まれていく。恥ずかしさと嬉しさの入り混じった感情が心の中で荒れ狂い、しかしその感情の渦を言葉で表せないシャイな優は、代わりにただただ幸福な笑顔を見せるだけだった。
愛しいペイルにこんなことされて、喜ばないわけが無かった。
「ねえ、ペイルさん。もう一回してもらってもいいかな?」
そしておかわりをねだる。強欲さを見せる優に、ペイルは同じように笑って答えた。
「もちろん。いくらでもあげるわ♪」
二人の「好き」という感情に火がつき、共に一気に燃え上がる。こうなったらもう誰にも止められない。ペイルはノリノリで粥を掬い、「あーん」と言いながらそれを差し出す。優もまた恥も外聞も捨てて、「あーん」と言いながら口を開き、ペイルの差し出すそれを受け入れる。優はレンゲから粥を受け取り、よく噛んで味わい、そして飲み込んでから「美味しい」とストレートな感想を伝える。
ペイルはそれを聞いてますます喜びを爆発させ、満面の笑みを見せながら再度レンゲで粥を掬う。優も待ってましたと言わんばかりに口を開け、それを待ち構える。
「はい、ユウ君。あーん♪」
「あーん♪」
そうして二人はイチャイチャイチャイチャとハートマークを飛ばしあい、幸せな時間に没頭していった。粥はあっという間に無くなったが、その一杯だけで、優の腹と心は十分満たされたのだった。
昼食を終えた後、優は本格的に眠ることにした。それまでと違ってペイルが傍にいるという安心感から、彼は軽く目を閉じた後すぐに寝息を立て始めた。そしてペイルはそんな彼の傍につき、彼の寝顔を見守った。なおこの時、彼女は居間から椅子を持ち出し、それをそっと優のベッドの傍に置き、そこに腰かけていた。
また彼女は水で濡らしたタオルを彼の額に添え、それが乾いたらまた濡らして添え直すという地道な作業を、嫌味一つ言わず熱心に行った。
そして彼が目覚めるまでの間、ペイルはタオルの交換時以外は片時も彼の隣から離れようとはしなかった。彼女にとって優は仲の良いお隣さんであり、本命のオスであり、そして大好きな男の人であった。そんな彼が苦しんでいる姿を前にして、独りのうのうと過ごすことなど出来なかったのだ。
「ユウ君、頑張ってね。いつでも私がついてるからね」
穏やかな表情で安眠を続ける優に、ペイルがそっと囁く。彼の心がどこかに行ってしまわないよう、その手をしっかりと握りしめながら。
そして陽が落ち、空が暗くなるまで、ペイルはじっと大好きな優を見守り続けた。
「ん……」
次に優が目を覚ました時、時刻は午後七時を回っていた。彼は幾分か軽くなった体を起こし、まず先にペイルの姿を探した。
ベッドの傍にあった椅子は片づけられていた。寝室と居間の境目である襖は全開になっていた。そしていわゆる「ダイニングキッチン」となっていた居間の方から、香ばしい匂いが漂ってきた。
「ペイルさん? どこに行ったの……?」
「あっ、ユウ君。目が覚めたのね♪」
そんな優が辺りを見回していると、その内居間の方からペイルが飛んできた。朝と変わらぬナース服の上からエプロンを身に着けており、手にはおたまを持っていた。
ああ、今ご飯を作っているのか。優は即座に理解した。そしてそんな優に、ペイルが明るい声で言った。
「待っててねユウ君。今お夕飯作ってるところだから。出来たら呼ぶから、それまでもう少し待っててね」
「あ、うん。わかりました」
ペイルからの呼びかけに、優は素直に頷いた。それを見たペイルはにこやかに笑い、そして「じゃあちょっと待っててね」と言ってから踵を返して居間に戻っていった。
「あ、ペイルさんちょっといいかな」
そうして戻ろうとしたペイルを、優が呼び止める。ペイルは足を止めて優の方へ振り返り、そしてそんなペイルを見ながら優が口を開いた。
「今日の夕飯のメニューはなんですか? さっき美味しそうな匂いが届いてきたから、気になっちゃって」
「あら、気になる? じゃあ先に名前だけ教えておこうかしら」
興味津々な優に、ペイルが愉快そうに答える。それから彼女は胸を張り、「聞いて驚きなさい」と告げてからドヤ顔で答えた。
「今日の晩ご飯は北京ダックよ」
「……は?」
熱で耳がイカれたのだろうか。優は凡その一般家庭とは無縁な料理の名前を耳にして、ただ呆然とした。
そんな優に、ペイルが自信満々と言った体で追い打ちをかける。
「今日のご飯は北京ダックです。今アヒルを揚げてるところよ」
「……なんでいきなり北京ダック?」
「魔界にいる友達からね、こーんなおっきいアヒルをもらったのよ。もちろん食用のアヒルで、狩りの成果のおすそ分けってことらしいの。でもお肉って消費期限短いし、放置してると鮮度が落ちちゃうでしょ? だから新鮮なうちにこれを使って、北京ダック作ってみたの♪」
ペイルはとても嬉しそうであった。おたまを両手で持ち、子供のようにその場で跳ね跳んだ。
治りかけとはいえまだ風邪気味であった優は、それを見て困惑した笑いを浮かべるだけだった。しかしそれは愛想の尽きたものではなく、やんちゃな娘を見守る父親のそれであった。
まったく、しょうがない人だなあ。彼は心からそう思った。
「大丈夫。ちゃんと食べやすいように切り分けてあげるから安心して。精のつく肉料理、期待しててね!」
そしてペイルはそう言って、さっさとキッチンに戻っていく。優は一つため息をつき、それから彼女の言う通り体を横にして、食事時を待った。
彼の心は期待に震えていた。「病人に北京ダック食わせる馬鹿がどこにいるんだよ」とか「なんでその流れで北京ダックを作ろうという発想に思い至るんだよ」とかいう、彼女の話を聞いて最初に抱いた突っ込みは、既に心の中から消え去っていた。
「ペイルさんのご飯、楽しみだなあ……」
愛する人が愛する人のために、本気になって作った料理。それを邪険にすることなど誰が出来るだろうか。優は本気でそう考えていた。そして彼の想像通り、ペイルの作った北京ダックは非常に美味であった。
夕飯を終え、優は三度眠りにつくことになった。たっぷり休み、精のつく料理を食べたおかげで、気怠さや寒さはすっかり体から追い出されていた。体と頭は軽くなり、熱っぽさも無くなっていた。
しかし楽観視は禁物である。今日一日しっかり休んで、明日に備えよう。二人は同じ結論に至り、優は大人しくベッドに戻った。しかし直前に北京ダックとかいうクソ重い料理――やっぱり病人がこれを食べるのはおかしいと、優はペイルと食卓を囲む中で認識を改めた――を食べたために、彼の神経は完全に覚醒してしまっていた。
「じゃあ眠れるようになるまで、少しお話ししてましょうか」
ベッドの傍に椅子を持ち込み、そこに腰かけながら、ペイルが優に提案する。優も「いいですね」とそれに同意し、それから二人は優が眠るまでの間雑談に興じることとなった。
最初のネタ振りはペイルが行うことになった。
「もうこの際ぶっちゃけちゃうけど、ユウ君、私のこと好きでしょ?」
そしてそこで、ペイルは躊躇なく爆弾を放り投げた。優は息が詰まり、素早い動きで首を回してペイルを見た。
「なっ、なんっ、なんでそのこと……?」
「あなたの様子を見ていればわかるわ。デーモンの目敏さを甘く見ないでね」
明らかに狼狽する優に、ペイルが愉快そうに答える。優はその後も暫く困惑していたが、やがて諦めたように体から力を抜き、据わった眼差しで天井を見つめた。
「参ったなあ。バレてたのか」
諦めたような口調で優が漏らす。自分からそれを認めた優に対し、ペイルが不満そうな顔で彼に問いかける。
「好きになってたなら、もっと早く教えてくれても良かったのに。どうして言ってくれなかったのよ」
「それはその、告白したら、今の関係が崩れちゃうんじゃないかって不安になって……。それにペイルさんの方こそ、僕があなたのことを好きになってるってわかってるなら、どうして自分から攻めに行かなかったんですか?」
困惑しながらペイルの問いに答え、それから逆に問い返す。優のそれは非難がましいものではなく、純粋な疑念から来たものだった。
そんな問いに対し、ペイルは「決まってるでしょ」と前置きした上でそれに答えた。
「私のポリシーの問題よ。あなたを魅了して、あなたの方から告白させたかったの。それだけよ」
「なんか、面倒くさいですね」
「まあ自分でもやり過ぎかなとは思ってるわ。でもやっぱり、私はあなたの口から愛の言葉を聞きたいのよ」
そう言って、ペイルが優をじっと見つめる。ベッドの上で仰向けになった優は、ゆっくり首を回してペイルを見つめ返す。
沈黙が二人を包む。どこか心地のよい静寂。やがてその静けさを破るように、優が口を開く。
「ペイルさん」
「……なあに?」
「ペイルさん。僕はあなたが」
「ストップ」
しかしそこまで来て、ペイルは唐突に優の言葉を遮った。優はいきなり強い口調で言ってきたペイルに驚き、口を噤んだ。そしてペイルは黙りこくった優を見ながら、諭すように言った。
「熱に浮かされた言葉じゃダメ。ちゃんと本心から、あなたの言葉が聞きたい」
「ペイルさん……」
「わがままだってことは、私もわかってる。でも私は、健全なあなたから告白されたいの。しっかりと自分の意志を持ったあなたから告白されたいの」
ペイルの顔つきは今までにないくらい真剣だった。優はそんな彼女の梃子でも動かない頑固さを悟り、困ったように苦笑しながら言った。
「……わかった。ちゃんと回復してから、改めてペイルさんに告白するよ」
「ごめんね。なんだか今日、私のわがままに付き合わせてばかりね」
「気にしないでよ。僕だって好きな女の人と一緒にいられて、すっごく楽しかったんだから。それにおとぼけなペイルさんの姿も見れたことだし、ホクホクだよ」
「もう、ユウ君ってば。今日のことは忘れてよね? お願いだから」
怒るどころか茶化すように言ってのけた優に、ペイルが恥ずかしさで顔を真っ赤にしながら言い返す。そんなペイルを見た優はおかしげに笑い声をあげ、ペイルもつられて笑い出す。
二人の笑い声が寝室に響き渡り、その空間を幸せで満たしていく。そうしてひとしきり笑いあった後、優は目元に涙を溜めながらペイルに言った。
「本当の告白は、明日だね」
「そうね。明日、元気になったユウ君から、告白してきてほしいな」
「うん。わかった」
「それから私も、明日ユウ君に告白する。自分の気持ちを、ちゃんとあなたに伝える」
頷く優にペイルが言い放つ。優はその瞬間を待ちわびるように期待に胸を膨らませ、溢れる幸福感を笑顔という形でこぼしながら再度頷く。
そんな優に向かって、ペイルが幸せいっぱいな笑みを見せながら言ってのけた。
「あなたと結婚したいって、ちゃんとあなたに告白する。私と一生を添い遂げてくださいって。だから期待して待っててね」
直後、優が顔から笑みを消す。一瞬で態度を変えた優にペイルが気づき、彼女もまた笑みを無くす。
そしてペイルは真顔になったまま、恐る恐る優に尋ねる。
「どうしたのユウ君? いきなり険しい顔になって?」
「……いや、そのさ」
問いかけるペイルに、言いにくそうにしながら優が答える。
「そういうの、今言っちゃいけないだろ」
「あっ……えへへ」
ペイルは一瞬呆気に取られ、そして物凄くバツの悪い表情を見せた。
優はそんなペイルが愛しくてたまらなかった。そんなちょっと間の抜けた、とてもデーモンに見えないデーモンが大好きだった。
明日、ちゃんと告白しよう。彼はその愛を抱いたまま、静かに決心を固めた。
翌日。優は自分の体が完全復活を遂げたことを自覚した。
「……うん、完璧」
気怠さや熱っぽさは欠片も無い。体はすこぶる軽い。脳味噌も重くない。健康体そのものだ。ベッドから飛び起きた彼は手足を動かしつつ、そうして健康であることのありがたみを噛み締めた。
それから一通り体を動かした後、彼はすぐに表情を引き締めた。昨晩交わした約束を、彼はしっかり覚えていたのだ。
「ちゃんと決めないとな……」
二、三度深呼吸をし、態勢を整える。襖は閉じ切られていたが、優はその奥にペイルが待ち構えていることを直感で察していた。
理屈ではない。わかるのだ。彼女がそこで待っている。そう確信した優は襖に手をかけ、意を決してそれを開け放つ。
「あのっ、ペイルさん――」
開けると同時に言葉を言い放つ。そしてそこまで言って即座に口を閉ざす。そこにいたそれがどういう意味で存在していたのか、彼は瞬時に理解できなかったのだ。
「ゆっ……」
白に染まったデーモン――純白のウェディングドレスを身に纏ったペイルが、ブーケを両手で持ちながら優を見つめ、緊張した声で言った。
「ユウ君! 結婚しましょう!」
「……」
「結婚しましょう!」
聞こえていないと思ったのか、念を押すようにペイルが言い直す。優の顔はなおも呆然としていたが、そのうち、彼の顔からは自然と笑みがこぼれていった。
もう無理。限界。優はペイルのやり方が可笑しくて、愛おしくて、とにかく笑うしかなかった。
「えっ、ちょっ、なによ! なんで笑ってるのよ!?」
予想外の反応にペイルがあからさまに混乱する。そしてそんな慌てふためくペイルを見ながら腹を抱えて笑いつつ、優が大きな声で言い放った。
「もう、可愛い! なんでそんなに可愛いんですか!?」
「えっ? えっ?」
「もう、好き! そんなペイルさん、大好き!」
優の心からの言葉を受け、ペイルが顔を茹蛸のように真っ赤にするのに、そう時間はかからなかった。
16/09/05 21:48更新 / 黒尻尾