読切小説
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脳筋夫婦の熟年旅行記
「どっか旅行行こうぜ」

 そもそもの始まりは、夫であるストックが発したその言葉であった。彼曰く、「俺達が結婚してもう四十年になる。その記念として、どこか遠い所に旅行に行かないか」というものであった。
 既に二人の子供は自立し、親元を離れて思うように生活している。この機会に一度、夫婦水入らずで遠出しようと言うのである。
 
「近所にふらっと出かけるんじゃなくてさ、いっそのこと船とか乗って、別の国行ってみようぜ。絶対面白いって」

 御年六十歳――しかしインキュバス化に伴う肉体活性に伴い、肉体年齢は三十代後半で止まっていた――になるストックは、隣にいた妻のサラマンダーにそう言った。午前九時、自宅である洞窟の入口前で、夫婦仲良く日課の運動に汗を流していた時のことであった。
 健やかな運動に精を出していた時の、唐突な提案であった。しかしそれに対して、彼の妻であるアイリスは笑顔で答えた。
 
「遠くに旅行か。いいな、それ。たまにはそういうのもアリかもな」

 サラマンダーのアイリスはそう言って、それぞれの手に持っていたダンベルをゆっくりと足元に置いた。それから彼女は次に足元に置いたそれの横にあるもう一つのダンベルを手に取り、またそれを持ち上げて一定のテンポで動かし始めた。
 ゆっくりと、腕に負担をかけるようにダンベル運動を続けながら、アイリスがストックに声をかける。
 
「で、どこに行くんだ? 何かアテはあるのか?」
「そうだな。せっかくだから……」

 個人用携帯針のムシロの上で、針に指を置き、指一本で逆立ちをしながら、余裕綽々な顔でストックが言った。
 
「ジパングなんてどうだ? あそこは魔物と人間が仲良くしてるって聞くし、ここよりはずっと暮らしやすいんじゃないか?」
「ジパングかあ……あそこ、有名な温泉があるって話を聞いたことがあるな」

 近所に住む魔物娘から聞いたジパングの話を思い出しながら、アイリスが思いを巡らせる。そしてここには無い、全く違う温泉の姿を思い描き、アイリスは自然と頬をほころばせた。
 
「いいなあ……行ってみてえなあ……」

 アイリスは基本的に熱いものを好む性格であった。熱い環境。熱い料理。熱い闘い。熱い愛。そして熱い湯船。いつも自分が夫と一緒に使っている温泉とジパングのそれは、どっちが熱いのだろう。
 アイリスは俄然興味を持った。そして感情のままに、アイリスはストックに言った。
 
「よし! そこ行こうぜ! 絶対行こうぜ!」

 アイリスが興奮気味に答える。そのまま感情を抑えきれず、ダンベルの持ち手を握りつぶして粉砕する。
 ダンベルの「重り」の部分が猛烈な勢いで落下する。重りが地面に接触し、次の瞬間、鈍い音を立てて大地にめり込んだ。
 それに呼応するように、彼らの背後で火山が噴火する。溶岩が頂上から流れ出し、彼らのすぐ脇を流れ落ちていく。噴き出す溶岩が冷えて凝固して火山弾となり、彼らの目と鼻の先に着弾して破裂する。
 二人は動じなかった。どこに何が落ちてくるのか、気配で察することが出来たからだ。そうしてストックは周りの環境などお構いなしに針の筵から飛び降り、そして念を押すようにアイリスに言った。
 
「でもアイリス。俺達はこことは違う、遠いところに行くんだからな。いつもの調子でいたら駄目だぞ」
「いつもの調子? なんだよそれ」
「まずはちゃんと服を着ることだな。それと喧嘩も控えること。誰と会っても恥ずかしくないよう、お淑やかに行くんだ」
「服かぁ」

 アイリスはまずそこに気をやった。そしてそう言って、今の自分の姿に目をやった。傷だらけで赤褐色の、程よく筋肉のついた平坦な体。それを申し訳程度に覆うスポーツブラとホットパンツ。いつもの私服である。
 
「これじゃダメなのか?」
「もう少し露出の無いほうがいいな。ケンカしに行くんじゃないんだ。もうちょっと一般的な格好していこうぜ」
「お前だっていつも上半身裸じゃねえか。どうするんだよ?」

 彼はこの時ズボンだけを身に着けていた。靴も履いておらず、アイリスと結婚する前から裸足で暮らしていた。そうして長年の鍛錬と喧嘩によって作られた、しなやかで筋肉質の肉体を常に晒していた彼は、それに対して澄まし顔で応えた。
 
「俺はジャケット羽織っていくよ。お前も変に服変えないで、その上からコートなりチョッキなり着ていけばいいんじゃないか?」
「動きにくくなるから嫌なんだけどなあ……まあいいか」

 アイリスはどこか不満げながらも、その愛するストックの助言に従うことにした。そして服の問題を片づけた後、ストックは再度、念を押すように彼女に言った。
 
「それともう一回言うが、向こうでは静かに過ごすんだぞ。変にムラムラして、喧嘩するのはご法度だからな」
「わかってる、わかってる。お淑やかに、つつましく、だろ?」

 しつこいストックの物言いを話半分に流すように、アイリスが言い返す。ストックは苦笑をこぼしながらもそれ以上は追及せず、晩婚旅行の話はそこでひとまず保留となった。この後いつもやっている、溶岩地帯マラソンに出発するからである。
 
「とりあえず、ジパング行きの船とかは俺の方で準備するからさ。準備が出来たらもう一度お前に言うよ」
「悪いな。面倒なことは全部お前に任せちまって」
「気にするなって。こういう時、男ってのは女のために見栄を張りたくなるんだよ」

 二人して走り込みの準備を進めつつ、アイリスはストックに礼を述べた。ストックもそれを笑って返し、そのまま二人は和気藹々とした雰囲気で走り出した。
 二人とも、このジパング旅行を心から楽しみにしていた。そして今度くらいは、普通のカップルのように普通にラブラブしよう。旅行中くらいは「普通」の生活を送ろう。
 常日頃から喧嘩に明け暮れていた二人は、共に心の隅でそう思っていた。
 
 
 
 
 無理だった。
 
「オラァ!」

 アイリスの右ストレートがストックの顔面を捉える。負けじとストックの右ブローがアイリスの腹に突き刺さる。相打ちとなった二人はすぐに距離を離し、ストックは鼻血を、アイリスは口の端の血を拭い、互いを睨み合いながら再び構えを取る。彼らの周りにいた乗客たちはそれを止めようとせず、むしろ甲板上で突発的に発生したその喧嘩を楽しもうと、二人を遠巻きに囲んで声援を送っていた。
 
「いけー! やれー!」
「負けるな! そこだ! 頑張れぇ!」
 
 二人がジパング行きの船に乗り込んで二十分後、甲板上でムラムラし始めたアイリスがいきなりストックに殴りかかったのがそもそも発端であった。この船は魔物娘とその伴侶だけが乗れる専用便であり、周りにはストック達のような魔物娘のカップルや独り身の魔物娘が大勢いた。
 
「相変わらずいいパンチしてるじゃねえか、ストック。あァ!?」

 距離を離して不敵に笑い、喧嘩腰でアイリスが吠える。その眼はギラギラと輝いており、まさに獲物を見定めた捕食動物の目であった。
 一方のストックも、それに負けじとニヤリと笑った。そして片手の人差し指でこめかみを軽く叩き、嘲るような笑みを浮かべてアイリスに言い返す。
 
「そういうお前は、前よりも弱くなってねえか? パンチのパワーが落ちてるような感じがするぜ?」
「抜かせ!」

 愛する夫の挑発は、アイリスには効果覿面だった。彼女は甲板に穴が開くほどの勢いで走り出し、ストックに突っ込みながら猛然と拳を振り上げる。ストックは動かず、妻の放つ必殺パンチを片手で受け止める。
 火山が噴火したような鈍い音が響く。ストックの足元にヒビが入り、甲板が陥没しない程度に割れる。受け止めた拳からストックの後ろに向かって放射状に衝撃波が生まれ、彼の後ろにいたギャラリーが何人か吹っ飛ぶ。
 中には勢い余って柵を乗り越え、海に転落する者もいた。しかしそんな面々はすぐに海の魔物によって助けられ、船の上へと連れ戻されていった。
 
「え、なに? 喧嘩?」
「面白そう! ちょっと私にも見せてよ!」
 
 そしてそこで海上に顔を出した魔物娘たちは、甲板上で盛大に喧嘩をするカップルの存在に気が付いた。そして彼女達もまた、盛大に殴り合う二人の姿に興奮し、船と並走しながらギャラリーの一部に混じっていった。さらに観戦を始める海の魔物達に合わせて、操舵主が船のスピードをわざと下げる始末であった。
 そんな船の上で、二人の対戦者はさらにヒートアップしていった。
 
「止めただけでいい気になってんじゃねえぞコラァ!」

 完全にチンピラの口調になったアイリスが、力任せにストックを押し倒す。そして馬乗りの姿勢になったまま、アイリスはストックの顔面を両の拳で殴りつけた。左右交互に、何度も何度もぶん殴った。
 
「オラ! オラ! オラァ! ヒャハハハハハッ!」

 夫を殴打しながら、血に狂った笑い声をあげる。笑いが収まった後も、アイリスはラッシュを止めなかった。甲板に赤い血が飛び散り、アイリスの拳に血が付着していく。ストックの動きが鈍り、握りしめた手が解れていく。アイリスはパンチを止めず、ルーチンワークをこなす機械のようにストックの顔をぶち続ける。
 ギャラリーの中にも若干引き始める者も現れ始めた。しかしアイリスは動きを止めず、ストックも「参った」とは言わなかった。
 愛する者とのスキンシップを自分から止めるカップルがどこにいるだろうか。
 
「いい加減に……」

 代わりにストックが止めたのはアイリスの拳だった。サラマンダーの右拳を受け止め、憤怒の形相でアイリスを睨みつける。
 続けてアイリスの顔面を左手で鷲掴みにする。
 
「しろッ!」

 そして掴んだまま身を起こし、立ち上がる勢いのまま、アイリスの顔面を甲板に叩き付ける。アイリスは声も出せず、ストックはそれで止める気は無かった。

「死ねッ! 死ねッ! 死ねッ!」

 片膝立ちになり、必死の顔でアイリスの後頭部を甲板に叩き付ける。何度も何度もぶつけていく。今度はアイリスの拳が解れていき、それでもストックは攻撃を止めなかった。それどころか彼は動かなかくなったアイリスをその場に寝かせ、立ち上がってその腹を何度も蹴りつけた。蹴られる度にアイリスの体が軽く跳ね、ストックはそれでも攻撃を止めない。
 
「どうした! もうグロッキーか!」
「……誰がッ」
 
 ストックが蹴りながら吠える。アイリスは蹴られながら、不敵な笑みを浮かべて睨み返す。それを見たストックは腹を蹴るのを止め、代わりに大きく振りかぶり、アイリスの顔を蹴り飛ばした。
 
「がは……ッ」
 
 アイリスが明らかに苦悶の声を上げる。アイリスの体が甲板の上で軽くバウンドする。ストックは追撃せず、余裕の態度で構えを取る。その内アイリスも立ち上がり、額からうっすら血を流しながら構え直す。既に傷は塞がっており、その顔は笑っていた。
 そして二人は共に正面から突っ込んでいき、全く同じタイミングで殴りかかる。互いの拳が交差し、互いの顔面を直撃する。二人はすぐに拳を離し、共にその場に留まって殴り合いを始めた。四つの拳が相手の体に突き刺さり、汗と血が飛び散っていく。人間とサラマンダーのカップルは共に満面の笑みを浮かべ、全力でパンチを繰り出しあった。
 物騒な言葉が飛び交い、全力の殴り合いが続く。しかしギャラリーは引くどころか、さらに熱狂の度合いを高めていった。彼らがそれを止めなかったのは、二人が怒りや憎しみからでなく、純粋な闘争心から戦いを繰り広げているのがわかったからだ。
 武道に精通していたからそれを理解できたのではない。二人の間には「愛情」があり、愛のもとに戦いを続けている。愛に目敏い魔物娘達は、それを敏感に感じ取ることが出来たのだ。
 彼らは拳に愛を乗せて戦っていた。それ以外に愛情を伝える方法を知らないかのように。
 
「おもしれえなあ、ええ!?」
「最高だぜ、最高だよお前!」

 二人は幸せな表情を浮かべながら、手加減なしの殴り合いに興じたのだった。
 
 
 
 
 やり過ぎた。
 我に返った二人が自責の念に駆られたのは、彼らを載せた船がジパングに到着し、その異国の地に足をつけた後のことだった。港を後にし、木造建築の立ち並ぶ海沿いの商業都市に出てきた二人は、とても気まずい表情を浮かべながら通りを歩いていた。
 
「やっちまったな……」
「ああ……」

 片や世界を回って武者修行に明け暮れたサラマンダー。片や三度の飯より喧嘩好きが高じて国王親衛隊を追放された放浪兵。出会って一秒で殴り合いに発展し、三日三晩戦いに明け暮れ、その結果お互いの力強さに惚れ込み勢いで結婚してしまった二人は、その後も当たり前のように「夫婦喧嘩」に興じていた。
 食事、鍛錬、実戦、セックス。それが彼らの生活サイクルにおける主要素であり、そこに申し訳程度に入浴と就寝が入っていた。オシャレやインドア的趣味嗜好とかは眼中になかった。根っからの喧嘩屋気質の持ち主であった二人は、とにかく体を動かしたくてたまらなかったのだ。
 
「なあアイリス、この近くに新しく武道場が出来たみたいなんだ。ちょっと道場破りしに行かないか?」
「おいおい、未来のエース候補をへし折るのはさすがにやばいぜ。ここはまず通りすがりを装って、先輩武闘家として稽古をつけてやるんだ。こっちも色々勉強できるし、ついでにそいつらも味見できる。一石二鳥だ」
 
 もちろん遠出することもあるし、ご近所さんとも懇意にしている。最近だって、隣の洞窟に住んでいるヘルハウンドの娘に古武術を仕込んであげたばかりだった。ストックが四足歩行で行う近接格闘術をマスターしていたのが、功を奏した形となった。
 
「それにしてもお前、どこでそれ知ったんだ? 教わっておいてあれなんだが、人間が四足専用の武術知ってるなんてちょっとびっくりだぞ」
「親衛隊にスカウトされる前にちょっとな。スラムで生活していた時に、知り合いのワーキャットから教わったんだ。護身術だって言ってな」
「へー、お前面白いな! 面白いうえに強い! 俺様のムコになれ!」
「悪いけど、アイリスがいるから勘弁してくれ」
 
 一方で我が子にも愛情をもって接し、五歳の頃からあらゆる戦闘術を叩き込んだ――おかげで娘達は立派な武の求道者となり、修行の名のもとに各地の闘技場を荒らし――転戦していた。
 
「いやー、幸せだなあ。子供たちも活躍してるし、ここのみんな仲良くしてくれるし。麓の道場からも挑戦状がひっきりなしに来るし。アタシ、ストックと結婚して本当に幸せだぜ」
「俺も今の生活は凄い幸せだよ。でも一番の幸せは、お前と出会えたことだけどな」
「ばっ……そういうことシラフの時に言うんじゃねえよ! 恥ずかしいだろ! 首の骨折るぞ!」
「じゃあ俺は背骨を折ってやる」
 
 彼らの世界は決して二人だけで完結した閉鎖的なものではない。二人は外のつながりの大切さを理解し、それをも愛していた。彼らはただの暴力衝動の権化ではないのだ。
 
「上等だコラァ! 表出ろやニンゲンがァ! マジで骨へし折ってやるよオラァ!」
「雑魚がデカい口叩くんじゃねえよ。やれるもんならやってみやがれ!」
 
 ただ唯一残念なことに、彼らは何よりも「強者との戦闘」を楽しみにし、それを生き甲斐としていた。そして彼らは一番近くにいる強者、すなわち愛する伴侶とのどつき合いを求めていた。そして戦いたくなってムラムラして、我慢が限界を超えた時、彼らは広い場所に出て戦闘を開始するのであった。それはもはや本能であった。
 
「家にいるときの感覚で喧嘩始めたのは、さすがにまずかったかな」
「だな」

 しかし彼らは人並の理性と良識を備えてもいた。だから今回のように場違いな場所で暴れ過ぎた後は、しっかりと後悔することができた。なお船上での戦いはそれなりに受けが良く、好意的に見られたので、彼らが特に白眼視されたりお咎めを受けたりはしなかった。船の修繕にしても、船長から「いいもの見れたから」
 
「今更こんなこと言うのもあれだけど、今日くらいは大人しく生活してみようか。せっかく旅行に来てるんだしな」

 しかし、いつまでもウジウジしていても楽しくない。雰囲気を盛り上げるようにストックが明るい声で提案し、アイリスもそれに頷いて答える。
 
「そうだな。せっかくジパングまで来たんだ。楽しまなきゃ損だよな!」

 それまでの暗い空気を払拭せんとするかのように、アイリスが喜びに満ちた声を上げる。ストックも同意し、続けて「じゃあまずは宿を探そうか」と言った。
 
「寝泊まり出来る場所を確保しておくのは大切だからな。どうする? 高いところに行ってみるか?」
「別に安くてもいいぜ。二人でのんびり出来るならどこでもいいかな。あ、温泉には入りたいぜ」
「温泉つきの宿か。探してみるか」

 二人はそれから、連れだって通りを歩き始めた。通りは観光客や商売人が行き交い、人と魔物でごった返していた。しかし人は多かったが、それでも自分達が普段暮らしているところとは違って、どこか穏やかな空気に満ちていた。
 二人はしっかり手を繋ぎ、離れ離れにならないように寄り添いながら、適当な宿を探して道を進んだ。
 
「それなら、いい場所があるよ。ここから離れたところに山があって、そこに小さな宿があるんだよ。いわゆる隠れスポットってやつで、それに知ってたとしても、それなりに険しい山道を越えないと辿り着けないから、あんまりお客の入りは少ないんだよ。まあそれが逆に静かでいいってことで、一定の固定客もついてるんだけどね」

 候補地はすぐに見つかった。腹の虫がなったということで立ち寄った料理店で蕎麦を食べつつ、近くにいい宿が無いかと聞いたところ、そこにいた店員がそう言ってきたのだ。これまで特に情報の無かった二人はすぐにそれに食いつき、さっそくそこに向かおうと決めた。
 
「ちなみに、そこの名前はなんていうんだ?」
「白龍の湯って名前ですよ。でも気を付けてくださいね。あそこ、本当に険しい道の先にありますから」
「大丈夫ですよ。俺達鍛えてますから」

 親しげにアドバイスする店員に、ストックが笑って答える。最初に名前を尋ねたアイリスも、彼の横で得意げな表情で頷いた。
 
「やっとジパング旅行らしくなってきたな」

 そしてアイリスは店員が去っていった後、ストックを覗き込みながら満面の笑みで言った。ストックもそれに頷き、二人でのんびり温泉に入る姿を想像して頬を緩ませた。
 彼らは喧嘩好きではあるが、ここには別に喧嘩しに来たわけではないのだ。
 
 
 
 
 駄目だった。
 
「お前ら! 何しにここに来た!」

 彼らの向かった白龍の湯、険しい山道を口笛交じりに踏破して目的の宿に到着した二人を待っていたのは、その宿を占拠していた反魔物勢力の一団であった。彼らはロビーから客室に至るまで、その宿の全てを制圧下に置いており、入口には見張りを置いて余所者を近づけないようにしていた。ストック達を見つけたのも、その見張りのならず者どもであった。
 当然ながら、ストック達はそんな宿屋の内情を知らなかった。彼らにしてみれば、やっとこさ到着した宿の入口に物騒な格好をした連中がいるのに気づき、そしてその見張り番の一人にいきなり怒鳴られただけであった。
 ジパングにもこんな野蛮な連中がいるのか。あれがここの従業員の正装なのだろうか? 彼らは呑気に驚いた。
 
「悪いが今日は貸し切りだ! お前達に用意してやる部屋はない! さっさと帰れ!」

 革の鎧を身に着け、腰に日本刀をぶら下げた男が声を荒げる。とても宿の従業員には見えなかった。
 そしてストック達も同じことを思った。しかしここには喧嘩をしに来たのではない。出来る限り穏便に行こうと、ストックが彼らに声をかけた。
 
「ああ、すまない。俺達はここに泊まりにきたんだが。あんた達はここの従業員かな?」
「そんなわけねえだろ! とっとと帰れ!」

 二人の見張りは短気だった。近づいて話しかけてきたストックに対し、そう叫びながら日本刀を引き抜いた。そして切っ先をストックの喉元に突き付け、苛立たしげな顔で彼に言った。
 
「いいか? ここはもう一度だけ言うぞ。ここは俺達の縄張りだ。死にたくなかったらさっさと帰りな」
「いや、だから俺達はここに泊まりに……」
「うるせえ! 宿なら掃いて捨てるほどあるだろうが! ぶっ殺すぞ!」

 忍耐。ただ忍耐。穏やかな声でストックがもう一度言う。

「……頼むから。俺が大人しくしているうちに話を聞いてくれ。まずはその物騒なものをしまってくれるか?」
「黙れっつってんだろうが! 雑魚が俺達の邪魔するんじゃねえ!」

 見張りが叫ぶ。
 直後、見張りの顔面に拳がめり込む。
 
「ぎっ……!」

 ストックの渾身の右ストレート。見張りは抵抗も出来ず、出入口である引き戸をぶち破って宿の中まで吹き飛んだ。
 引き戸の先、一階受付には多くの団員が屯していた。彼らは入口から飛んできた同胞を見て驚き、そして引き戸を踏み越えて中に入って来た男を見て怒りを露わにした。
 
「てめえ! なんのつもりだ!」
「こんなことしてただで済むと思ってんのか!」

 完全に敵意を向けてくる山賊みたいな恰好をした連中を前にして、ストックが煩わしげに首を回す。そんな彼の隣にアイリスが並び、既に倒していたもう片方の見張りを投げ捨てながら肩を回す。
 二人とも我慢の限界だった。
 
「勘弁してくれねえか。アタシ達はただ普通に、ここに温泉入りに来ただけなんだよ」
「俺達は夫婦水入らずで楽しみたいだけなんだ。邪魔するんなら容赦しねえぞ」

 カップル二人が背中合わせに構えを取り、全身から殺気を放つ。山賊のような格好をした反魔物勢力の面々は、その溢れんばかりの殺気を肌で感じ、自分達が「敵に回してはいけないもの」敵にしてしまったことを察した。
 理解した時にはもう手遅れだった。
 
「従業員じゃないってんなら、お前らあれだろ。押し掛け強盗とかそんな感じの連中なんだろ」

 ロビーの面々を睨みつけながら、ストックが言い放つ。当たらずとも遠からずな回答に一団がどう答えるべきか歯噛みしていると、宿の奥から異変を察知した仲間たちが続々と集まってきた。増援を得た山賊紛いの連中は手の平を返すように意気を吹き返し、乱入者二人に負けじと肩をいからせ、臨戦態勢を整えた。
 それが火に油を注ぐことになった。ストックとアイリスは次々集まってくる「敵」を前にして舌なめずりし、完全に理性を脇に追いやった。そして戦闘狂としての本性を露わにし、この後行われるであろう熱い闘いに胸を高鳴らせた。
 
「いいぜ、どんどん来な」
「お前ら全員ミートボールにしてやるよ」

 人間とサラマンダーが揃ってうそぶく。そこに挑発を受けた山賊連中が一斉に攻めかかる。
 
「やっちまえ!」
「叩き潰せ!」

 手に手に武器を取り、意気揚々と迫る。数で圧倒していることもまた、彼らの闘争心に拍車をかけた。
 そんな彼らを待っていたのは、一方的な虐殺だった。
 
 
 
 
「この度は本当に、ありがとうございました!」
「一時はどうなることかと……感謝してもしきれません」

 ストック達が山賊連中を一網打尽にしたのと、先ほどまで彼らのいた港町から送られてきた鎮圧部隊が宿に到着したのは、ほぼ同時だった。そして部隊が宿に着いて勢いよくロビーに踏み込んだ時、そこではストックとアイリスが、自分達で解放した従業員一同からひっきりなしにお礼を言われていた。彼らの足元には打ちのめされた反魔物勢力の連中が死屍累々と言わんばかりに転がっていたが、幸いなことに死者は一人もいなかった。
 
「いや、別にアタシらは、なんも特別なことはしてないよ」
「それより、ここで何が起きてたんだ? 変な連中には絡まれるし、本物のスタッフは奥の部屋で縛られてたし。誰か詳しく教えてくれないか」
 
 当のストックとアイリスたちは、今一つ状況が飲み込めず困惑した顔を浮かべていた。慣れない感謝と好意の眼差しに気恥ずかしさを覚えてもいた。そして鎮圧部隊が全員ロビーの中に入って来た段階で、二人と従業員一同は彼らの存在に気がついた。
 旅行客二人にとっては、余計に悩みの種が増えた形となった。
 
「この件に関しましては、私の方からご説明しましょう」

 そんな二人に、一体の魔物娘が近づいて言った。和服を着こなしたその長身の女性は自ら「マシロ」と名乗り、この宿屋の主を務めていること、そして自分が龍であることを明かした。次にマシロは、今まで宿を占拠していた連中は、ジパングで暗躍していた反魔物勢力の一団であること――ここでストックとアイリスは初めて、自分達が戦っていた相手の正体を知った――、そして彼らはアジトを潰されたばかりであり、次の本拠地候補としてこの宿屋を占領したのだということを話して聞かせた。
 
「彼らは魔物娘の力を抑え込み、無力化する方法をいくつも用意していました。私達はそんな彼らの術中にまんまとはまってしまい、人質として囚われの身になってしまったのです。本当に情けないことこの上ない……」
「そうだったのか……」
「でもジパングって、人と魔物が仲良く暮らしてるところなんだろ? ここにも魔物嫌いの連中っているのかよ」
「数が少なくて目立たないだけで、そういう奴らも少なからずいるということなのですよ」

 不思議そうにこぼすアイリスに、鎮圧部隊の隊長格の男が答える。この部隊は全員が同じ格好をしており、紺の着流しを身に着け刀を腰に挿していた。人間の男が部隊の大半を占めていたが、中には猫やら狐やらといった魔物娘も混じっていた。
 こいつら強そうだな。ストックは彼らを見て咄嗟にそう思い、そしてすぐに自分の闘争心を抑え込んだ。ここは忍耐だ。
 
「で、マシロはなんでそんなこと知ってるんだ?」
「そんなこと、とは?」
「こいつらが反魔物側の連中で、こいつらのアジトが潰された理由だよ」
「彼らが自分から話していたのです。私達がいた部屋の外にいた見張り係の人達が、隠そうともせずによく通る声でそれを話し合っていたんです」

 マシロが説明する。ついでとばかりに鎮圧部隊の隊長が、その反魔物側の連中を見ながら「そいつらは前々からマークしてたんですよ」と言った。
 
「出来れば我々の手で捕まえたかったのですが、先手を取られてしまいましたね」
「いやはや、まったく、お見事と言うほかありません。本当に助かりましたわ」

 隊長とマシロが揃ってストック達を褒めたたえる。それに呼応するように、周りにいた従業員や鎮圧部隊員も、揃って二人の活躍に拍手と賛辞を贈る。
 
「……」

 しかしそんな称賛の渦の中で、当人たちはただ気まずそうな表情を浮かべるだけだった。
 
 
 
 
 その後、鎮圧部隊は倒された連中を縛り上げ、さっさと帰っていった。白龍の湯の面々はすぐに業務を再開し、ストックとアイリスをもてなした。今日は他に客が来ておらず、また彼らは命の恩人でもあったので、宿の主であるマシロが二人を直々にもてなした。
 
「三十分後にお食事を持ってきますので、それまでゆっくりとおくつろぎください」

 二人を客室に招いた後、マシロは正座の姿勢から畳に指をつけ、恭しく頭を下げた。歓待を受けた二人の顔はどこか沈んでおり、何かを悔やんでいるようであった。
 
「……何か、お困りのことでもあるのですか?」

 頭を上げたマシロは、そんな二人の態度に目敏く気づいた。そしてハッとする二人を見て、マシロの疑念は確信に変わった。
 
「もしよろしければ、私にお聞かせ願えないでしょうか? 何かのお力になれるかと思います」
「それは……」
「駄目、でしょうか?」

 マシロの眼差しはとても真剣なものだった。それが冷やかしの類でないことは一目瞭然だった。
 二人はそれに気づいていた。そして気まずそうに顔をしかめた後、ストックが観念したように口を開いた。
 
「……マシロさんは、普通の生活がどういうものか、わかりますか」

 えっ。予想外の問いかけにマシロが目を丸くする。そうして驚くマシロに、ストックが言葉を続ける。
 彼らはいつも、戦うことで感情を表現してきた。不器用な上に力への欲求と戦闘衝動が人一倍強かった彼らは、戦うことでしか自分の想いを伝えることが出来なかったのだ。
 何かあるとすぐに喧嘩した。しかしそれは悪感情から来るものではなく、むしろ自分の意見を相手に伝えるための、彼らなりの正当な手段であった。だがその一方で、彼らは自分達のやり方が普通とはかけ離れたものであることも知っていた。
 血の気の多い自分達の性分を恨んだこともあった。しかしそれはどうあがいても変えられない、治すことのできないサガであることも知っていた。だから彼らはそのサガを受け入れ、戦いながら今まで生きてきた。
 
「でも時々、本当に時々、羨ましくなるんです。喧嘩じゃなくて、普通に二人で寄り添って、普通に話し合う。そんな生活を羨ましいものだと思ったりするんです」

 ストックがしみじみと話す。隣に座っていたアイリスも、静かにストックの手を握る。二人は同じ気持ちだった。
 話を聞いたマシロは、ここで初めて彼らの悩みを知った。そしてすぐに表情を変え、微笑みながら彼らに言った。
 
「無理に変える必要は無いかと思いますよ」
「え?」
「ですから、このままの関係でも問題は無いと、私は思っております」

 マシロは柔和な笑みで言った。熟年カップルは驚いた顔で龍を見た。
 マシロは続けて言った。
 
「戦いを通してお互いの気持ちを知る。拳を通して心を通わせる。とても素晴らしいことだと思います。それに喧嘩はお二人にとっては、心を通わせる『普通の』手段なのでしょう? 普通の定義は、人によって異なります。そんなお二人にとっての『普通』を無理して変える必要が、果たしてあるのでしょうか?」
「……」

 なんだか煙に巻かれてる気がする。二人はそう思った。しかし一方で、マシロの言う事にも一理あると思い始めてもいた。
 そんな二人にマシロが声をかける。
 
「大切なのは、お二人が自覚することです。今の関係こそが自分達にとってもっとも自然で、もっとも普通なものであると。前も言いましたが、無理にご自分を変える必要はありません。お二人は今まで、喧嘩越しの関係で上手くやってこれたのでしょう? それでいいではありませんか」

 マシロがそう言って微笑む。ストックとアイリスは互いの顔を見やり、確認するように言い合った。
 
「今まで通りで、いいのかな」
「アタシは、まあ、お前との喧嘩は嫌いじゃないぜ?」
「そうか」
「お前はどうなんだよ。アタシと戦うのはつまんないか?」
「そんな訳ないだろ。お前とやり合ってるのは、その、楽しいよ」
「そ、そうか。そうなのか……」

 暫しの沈黙。その後静寂に耐えられなくなったように、二人は顔を見合わせて笑いあった。
 迷いの吹っ切れたような快活な笑いだった。そしてそれは、互いの呆れを隠すような照れ笑いでもあった。
 それに気づくのに四十年もかかった。
 ここまで旅行に来て良かった。
 彼らは様々な感情を吐き出すように、互いの肩を抱き合い、顔を寄せて笑いあった。
 
「どうやら、解決できたようですね」

 その光景を見ながら、マシロは自分の事のように嬉しい笑みを浮かべた。そして「これ以上水を差すのも無粋ですね」と察し、まだ彼らが笑いあっている内から静かに退出していった。
 二人はそれに気づかず、なおも自分達の世界に浸っていた。そしてしばらく笑いあった後、アイリスが笑みを消しながらストックに言った。
 
「なあストック。今更だけどさ」
「なんだ?」
「……これからも、よろしくな?」
「……ああ」

 そう答えて、ストックはアイリスの肩を一層強く抱き寄せた。アイリスもそれに身を任せ、ストックの体温を服越しに感じて心をほぐしていった。
 これからも、いつも通りで行こう。二人は言葉に出さず、心の内でそう誓い合った。
 
 
 
 
「行くぞオラァ!」

 翌朝、午前七時。二人はいつも通りにどつき合いを行っていた。室内でやると迷惑だったので、彼らは正面玄関のすぐ外で戦いを始めた。山の空気は澄んでおり、二人の肺を清浄に洗い流し、戦う活力をより大きく養っていった。
 
「ハハッ! やっぱお前とやるのは楽しいな! お前もそう思うだろ!」
「口より先に手を動かせ!」

 笑うアイリスにストックが飛び蹴りを放つ。アイリスはそれを片手で受け止め、反対側に投げ飛ばす。
 ストックは放り投げられた後、空中で姿勢を変え、片膝立ちで地面に着地する。そして降り立ったストックが顔を上げたその時、目の鼻の先でアイリスが右腕を振り上げていた。
 
「死ねェ!」

 アイリスの渾身の拳が振り下ろされる。ストックはそれを両手で防御し、横に払ってアイリスの姿勢を崩す。
 アイリスが前のめりに倒れる。しかしアイリスの目はまだ死んでいなかった。彼女は顔を前に突き出し、ストックと互いの額をぶつけ合った。
 
「石頭め」
「てめえに言われたくねえな」

 至近距離で睨み合い、売り言葉に買い言葉をぶつけ合う。二人はとても満足したようにニヤリと笑い、すぐに顔を離して立ち上がる。そして互いに飛び退いて距離を取り、敵の姿を視界に捉えながら構えを取る。
 手加減無用の真剣勝負。二人はそれを心から楽しんでいた。しかし外に出てそれを見ていた従業員の一部は、そんな彼らのやり取りを不安げに見つめていた。
 
「あ、あう、あの人たち、大丈夫なんでしょうか……」
「大丈夫ですよ。あれがあのお二人の日常なんです」

 困り果ててあたふたするその少女に対し、彼女の隣に立ったマシロが声をかける。一か月前にここにやって来たばかりの新人従業員である少女は、困ったような顔を浮かべてマシロを見た。
 
「本当に大丈夫なんですか?」
「ええ。大丈夫ですよ。心配する必要はありません」
「はあ……」

 なおも釈然としないように、少女が視線を元の位置に戻す。そこでは件の二人が、なおも全力で喧嘩を楽しんでいた。
 
「仲良きことは美しきかな、ですね」

 その光景を見たマシロが自分の事のように微笑む。まだ人間だった少女は「そういうこともあるのか」と不思議そうに首を傾げ、そして当人達はノリノリで喧嘩に興じていた。
 
「どうした! もう息切れか!?」
「減らず口は勝ってから叩くんだな!」

 完全に吹っ切れた二人は、なおも全力でぶつかっていく。
 二人流の筋肉式会話術は、この後二時間ほど続いた。
16/09/03 22:29更新 / 黒尻尾

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