炬燵に魅せられたバフォメットが炬燵に入ったまま外出する方法を求めて悪戦苦闘する話
炬燵は日本人が生み出した最強最悪の兵器である。兵器の強弱に関しては往々にして百家争鳴のきらいがあるが、そんなうるさい識者達もこれに関しては満場一致で「凄まじく強力だ」と評価するだろう。それほどまでに、この「こたつ」なる代物は悪名高い存在であった。
その威力たるや絶大で、一度中に入ったら最後、理性ある生物はその全てがそれの虜となる。例外は存在しない。人間はおろか、本来人間を魅了する側にいるはずの魔物娘でさえ、その誘惑から逃れることは出来ない。本末転倒であるが、こたつにはそれが出来たのだ。
「ぐへへ、あったかいのう……」
それだけこの「こたつ」の持つ魔力は、まったく規格外の代物であったのだ。毛布と暖房の相乗効果がもたらすぬくもりと安心感は生きとし生ける者全てを等しく堕落させ、さらにそこに蜜柑を加えれば最後、それは外的要因の無い限り半永久的に生物を幽閉してしまえる最凶の檻と化すのだった。蜜柑の代わりにアイスを置いても同様の結果が生まれる。冬場に暖かくしながら冷たいものを食べるというのも、中々にオツなものである。
まさに悪魔の生み出した叡智。勤勉たる全ての生命への冒涜。怠惰と安楽をもたらす禁断の道具なのだ。
「ああ……ぬくぬくじゃ……出たくないのじゃ……」
そしてここにもまた、その炬燵の魔性に屈服した一人の魔物娘がいた。バフォメット――頭から立派な角を生やし、手足を毛でもふもふさせたこの幼女姿の悪魔は、今では腹から下を炬燵の中に押し込み、テーブル部分に両腕を投げ出しつつ顎を載せてだらしない表情を浮かべていた。サバトの主催者であり、人間の常識を超えた莫大な魔力を有するこの幼い怪物も、炬燵の前では全くの無力であった。
「天国じゃあ……至福の極楽なのじゃあ……♪」
「本当にな……」
そしてこの家の家主である安西耕太もまた、バフォメットと同じように炬燵の魔力に屈服していた。二人は向かい合って炬燵に入りこみ、それぞれが好きなようにぬくぬくを噛み締めていた。二人してどてらを着込み、テーブルの上に蜜柑を置くのも忘れない。完全武装の構えであり、共に外に出る気は皆無であった。
「何もしたくねえなあ……このまま一生いたいな……」
「外が寒いのがいけないのじゃ……わらわ達は全然悪くないのじゃ……」
二人揃って堕落の極みにあった。男と幼女姿の悪魔は、二人して冬場にのみ味わえる極上の時間を享受していたのであった。
しかし、いつまでも安楽に沈んでいるわけにもいかない。人間も魔物娘も等しく生物であり、そして生物である以上、その代謝機能は二十四時間体制で稼働している。生きている限り疲れれば眠たくなるし、エネルギーが足りなくなれば腹の虫が鳴る。どれも生命維持のために必須の行為である。
そして今、彼らの体を動かすためのエネルギーは枯渇寸前であった。
「腹減ったなー。そろそろ飯作らないとなー」
正午。自分の腹の虫がアラームの如く鳴り響くのを自覚しながら、耕太はだらけきった顔で呟いた。すると彼と向かい合って炬燵に入っていたバフォメットもそれに応えるように頷き、テーブル中央のバスケットから蜜柑を一つ取りつつだらだら言い返した。
「もうそんな時間かぁ。あにうえー、今日はどんなご飯にするのじゃー?」
「まだ考えてないんだよなー。ていうかもう、冷蔵庫の中からっぽなんだよなー」
「なんじゃとー?」
昨夜覗いた冷蔵庫の中の光景を思い出しながら、耕太が間延びした声で答える。バフォメットもまたそれに力ない調子で返し、手にした蜜柑を皮も剥かず両手で弄びながら続けて言った。
「つまり、今から買い出しに行かねばならぬと言うのかー?」
「そういうことになるなー」
「それはいやじゃなあ。寒いのはいやじゃあ。こたつからでたくないのじゃあ」
バフォメットが駄々をこねる。頬とぷにぷに肉球のついた両掌をテーブルに押しつけ、上半身でべったり貼り付いて「ここから離れるものか」と猛烈にアピールする。
それを見た耕太は思わず苦笑しながら、全身で拒絶の意志を見せるバフォメットに声をかけた。
「じゃあ俺だけで買い出し行ってくるよ。ベッキーはここで待ってろ。すぐ戻ってくるから」
耕太としても、正直なところ炬燵から出たくは無かった。しかし空腹から来る飢餓感は、彼の「ぬくぬくしたい」という怠惰な感情を凌駕した。
つまるところ、人間は三大欲求には勝てないのだ。
「ちゃんと留守番してるんだぞ? いいな?」
「いやじゃあ」
しかしそうして欲求のままに炬燵から出ようとした耕太を、バフォメットの「ベッキー」――本名ベックス・エル・フロイデン・スヴォルザード四世――は、子供が駄々をこねるような甘えた口調で引き留めた。いきなりのことに耕太は動きを止め、そして彼を留めたベッキーはテーブルに貼り付きながら続けて言った。
「わらわは兄上と一緒にいたいのじゃ。離れたくないのじゃ。一人だけでこたつに入っていても面白くないのじゃあ」
「そう言われてもな……」
ベッキーのわがままに耕太は困り顔を浮かべた。しかし頬を押し付けながらもう片方の頬を膨らませ、上目遣いでこちらを見つめてくるベッキーの姿は、庇護心をそそられるほどの可愛らしさを備えていた。どんなわがままでも許してしまえる、魔性のかわいさだった。
そんな愛嬌を見せるバフォメットを見て心をほっこりさせつつ、聡明な耕太はすぐに一つの提案をした。
「じゃあ一緒に行くか? さすがにこのまま飲まず食わずってのは、俺としては辛いものがあるんだが」
「それはもちろん行きたいのじゃ。二人で買い物をするのはとっても楽しいのじゃ」
見た目相応に顔を輝かせ、ベッキーが答える。しかしすぐに笑みを消し、いつも通りだらけきった顔に戻って言葉を続ける。
「でも炬燵からは出たくないのじゃ」
「は?」
「炬燵に入ったまま買い出しに行きたいのじゃ。ぬくぬくしながら外に出て、兄上と一緒にお買い物がしたいのじゃ」
「ええ……」
耕太は呆然とした。なんてワガママを言うんだこの幼女は。
そこまで炬燵が気に入ったのか。
「こたつに入ったままって、どうするんだよ。何か考えでもあるのか?」
「無論じゃ。わらわの頭脳にかかれば、この程度の問題など屁でもないわ」
困惑しながら問いかける耕太に、ベッキーはそう言い返した。彼女はこの時まだテーブルに貼り付いていたが、その顔には活力が満ち、大きな両目はギラギラ金色に燃えていた。
「実はこんなこともあろうかと、前々から暖めていた炬燵改造プランがあっての。せっかくだから今、それを試してみようと思うのじゃ」
あれは彼女が会心の策を思いついた時に見せる顔だ。ベッキーと結婚して五年目になる耕太は、その顔色を一瞬窺っただけで、この幼妻が自信満々でいる理由を見抜いてみせた。千日以上一緒にいれば、このくらい造作もないことである。
耕太はすぐにそれについて尋ねてみた。
「何かいいアイデアがあるのか?」
「無論じゃ。わらわの頭脳を甘く見るでないぞ」
「そこまで言うか。じゃあ買い出しは止めて、楽しみに待つとするかな」
「うむ。期待して待っておるのじゃぞ」
愛しい夫からの問いかけに対し、その指を鳴らすだけで家一軒を軽々吹き飛ばせる程の魔力を持った幼女は、自信満々な笑みを浮かべつつそう言ってのけた。そして彼女はテーブルに貼り付いたまま右手を持ち上げ、上目遣いで耕太を見つつ言った。
「では耕太よ、わらわはちょいと炬燵の調整に移るでな。いつもの所にいるから、わらわが呼んだらすぐに来るがよい」
それだけ言って、ベッキーが指を鳴らす。直後、家が吹き飛ぶ代わりにベッキーと炬燵が忽然と居間から姿を消した。音もたてず、そよ風も吹かさない。何の痕跡も残さない完璧な空間転移である。目の前でそれが消える瞬間を見ていなければ、それは最初からそこに無かったものだと勘違いしてしまっただろう。
仕事上、今までにも何度か魔物娘が転移魔法を行使するところを見たことはあるが、ベッキーほど飛び抜けた転移を行ってみせた者は一人もいなかった。
「やっぱりあいつ、すごい魔力持ってんだな」
そんな百点満点な転移の様相を見た耕太は、彼女が幼く子供っぽい外見とは裏腹に凄まじい力を秘めた魔物娘であることを再認識した。しかしそこまで考えた彼がまず最初に心に抱いたのはそんな魔物娘への恐れではなく、身を刺す寒さにどう対処しようかという俗な悩みであった。
あんなに可愛いつるぺた女の子をどうして恐れる必要があるというのか。ロリコン魔界学者の耕太はどこまでもブレなかった。
「やっぱり炬燵欲しいな……はやく返してくれないかな……」
しかし体と心は別物である。鋼の意志を持った幼女趣味の男は、一気に寒々しくなった体をどう暖めようかと一人思考を巡らせた。一応部屋には石油ストーブが置かれていたが、わざわざ動いて火をつけるのはとても億劫だった。寝室から毛布を持ってきたり、クローゼットを開いて厚着をするのも面倒くさかったので、思いついただけでやろうとはしなかった。もっと簡単に暖かくなれる方法は無いかと、自堕落な思考パターンから抜け出せずにいた。
安西耕太、五十二歳。自活と研究と妻への気遣い以外の事柄に対しては、まったく体を動かそうとしない男であった。
魔界と人間界を結ぶゲートが出現し、魔物娘の存在が一般に認知されてはや十年。向こうの世界について学ぶ、いわゆる「魔界学」と呼ばれる学問も、勤勉な人間とお節介焼きの魔物娘の働きによって、この十年の間に大きく発展を遂げた。
特に安西耕太とバフォメット「ベッキー」のコンビは、人間界における魔界学の発展に大いに寄与した偉人として、広くその名を知られていた。
「そなた、中々面白いことをしておるのう。どれ、わらわも一枚噛ませてもらおうかの」
「どうして俺を助けようとするんだ?」
「ただの暇潰しじゃ。ほれ、わかったらはやく進めるぞ。時間は有限なのじゃからな」
安西耕太はその後の魔界学に繋がる魔界や魔物娘に関する研究を、魔物娘と「こちら側」の人間が初めて接触した頃から行っていた。いうなれば「最古参」の研究者である。そしてベッキーは、そんな未知なる魔界についての見識を広めようと悪戦苦闘していた頃の耕太に接触し、興味本位から助手として彼を助けることにした、最古参の協力者であった。
二人して古強者であった。
「耕太よ、この指輪はなんじゃ? いきなり渡されてもわからんぞ」
「それか? それはエンゲージリングっていうんだ。本気で好きになった人に渡す、特別な指輪だよ。こっちの世界じゃ、結婚する相手にはそれを渡すことになってるんだ」
「つまり?」
「俺と結婚してほしい」
「……ばか」
そして研究上のパートナーが、公私に渡って互いを支え合う永遠のパートナーとなるのに、大して時間はかからなかった。ベッキーは耕太の飽くなき探求心と知識の深さ、そして常に自分を気遣い甘えさせてくれるその優しさに心打たれた。耕太はベッキーの幼児体型を見て一発でノックアウトした。そして一緒に働く中で彼女が思慮深く、一心に研究に打ち込む生粋の学者肌であることを知り、さらに虜になった。
また大昔から研究を続け、魔物娘の生態や思考を十分理解していた耕太は、そんな人外の存在に恋をすることに対して何の恐怖も嫌悪も抱かなかった。もちろん彼らの周りには、それに難色を示す――頭の固い時代遅れの――人間も大勢いた。しかし耕太は周りの反対を押し切り、最終的にベッキーと結婚することに成功した。
なお結婚した後、ベッキーがまず最初に行ったのは、耕太が何十年にも渡って集めてきたロリ本コレクションの焼却であった。
「そんな! 勘弁してくれ! それだけは!」
「やかましい! 兄上はわらわだけを見ておればよいのじゃ! 二次元にうつつを抜かすくらいなら、わらわのぷにとろつるぺたぼでーでいっぱい抜くがよいのじゃ!」
盛大に燃え上がる焚き火を前に泣き崩れる中年男と、それを大声で諭す幼女――御年三百七十七歳。機密事項である――の図は、中々にシュールであった。しかし家に帰ってすぐさまベッキーの躰の味を知った耕太は、それ以降自分のコレクションに思いを馳せることはしなくなった。
そして結婚した二人は、都心を離れて郊外に一軒家を建てた。ついでに家の隣に大きなガレージを据え、そこを二人の愛の巣、もとい共同研究所とした。結婚した後、耕太とベッキーは学会に顔を出す回数が激減したが、それでも研究自体はちゃんと行っていた。そもそも彼らが田舎の方に引っ越したのも、都心部では出来ないような大掛かりな研究や実験を気兼ねなく行えるからであった。
耕太はベッキーと結婚してなお、学者でありたいと願っていた。そしてベッキーはそんな夫の思いを受け入れ、ここに転居してきたのである。
「耕太よ! 準備が出来たぞ! はようガレージに来ぬか!」
そしてこの時ベッキーがガレージで行っていたのは、そんなまさに都市部では行えない大仰な実験であった。また常識外れのことをしでかすのも、いつもベッキーの役割だった。
そんな自分の予想を裏切ってくるベッキーが、たまらなく愛おしかった。ロリータへの愛は全てにおいて優先されるのだ。
頭の中に直接響いてきた声に従って、居間とガレージを繋ぐ連絡通路を通って研究所に入った耕太は、そこに広がる光景を見て唖然とした。
「やったぞ! ぶっつけ本番じゃが、なんとか上手く行ったぞ!」
ガレージの中は綺麗に片づけられ、普段使っている実験器具やテーブルはまとめて隅の方に追いやられていた。そうして生まれた広々とした空間のど真ん中で、嬉々とした表情を浮かべながら炬燵の中に居座るベッキーの姿があった。
その炬燵は宙に浮き、テーブルの足の部分から連結された四本の脚部によって支えられていた。脚は太く節くれだち、その全体が丸みを帯びた装甲で覆われ、全身赤銅色に染められていた。その装甲部分は天井の照明を受け、冷たく鈍い光沢を放っていた。
いかな耕太でも、目の前で起きていることを瞬時に理解することは不可能だった。
「……お前、何してるんだ?」
「何って、炬燵に入ったまま外出できるように炬燵を改造してみたのじゃ。名付けて、四足歩行炬燵じゃ!」
そのまんまなネーミングである。直球過ぎて逆に感心する耕太の前で、ベッキーは自信満々に説明を始めた。
「これは見ての通り、炬燵に機械仕掛けの脚を四本装着させたものじゃ。最高時速百二十キロ、跳躍力は垂直方向に三メートル跳べる。動力にはわらわの魔力を使用しておる。とてもクリーンな一品じゃ。脚はこの前魔界に寄った時、知り合いの魔物娘に頼んで作ってもらったものじゃ」
彼女の言葉通り、この時のベッキーは全身から黒い靄のようなものを溢れ出させていた。靄はそのまま下へと降りていき、炬燵を支える機械の足へと吸い込まれていっていた。ついでに目を凝らして機械の足を見てみると、それを覆う装甲の隙間から、足の中で黒い煙の塊が上から下へ流れているのが見て取れた。
「よくこんなことしようと思いつくなお前」
「怠惰を極めるためには、特別勤勉でなければならぬのじゃ。そなたも学者の端くれならば、わらわの言葉の意味がわかるであろう?」
「それならよくわかるよ。俺も楽したいから、実験の手順の効率化とか色々考えてみたりしたからな」
「そうであろう? 今回のこれも、それと一緒じゃ。楽をするための努力は惜しまぬが吉、ということじゃな」
しかし当のベッキーは、ピンピンしながら平然とそう答えてみせた。疲労の色を見せないどころか、汗一つ流していなかった。彼女にとってはこの程度、息をするのと同じくらいの負担でしか無かったのだ。
そうしてドス黒いオーラを纏ったまま澄まし顔を見せるベッキーは、興味津々といった体で耕太に質問を投げかけた。
「ところで兄上、これの素直な感想を聞かせてくれんかの?」
「……いや、すごいもの持って来たなとしか言えないよ」
本当にそうとしか言えなかった。まさかこんなことしてくるとは、彼女の夫である耕太も予想できなかった。確かにロボットじみた魔物娘もいるにはいるが、オカルト一直線のバフォメットがこんな手で来るとは想像だにしなかったのだ。
そうして困惑と感心を同時に味わう耕太に、ベッキーが目を輝かせて言った。
「ロボットは男のロマンと聞いたのじゃが、どうじゃ? 格好いいかの?」
「えっ? ああ、格好いいと思うよ。と言っても、見るべき部分が足しかないんだけど」
「では足だけ見てくれ。足は格好いいかの?」
「うん。いいね。この無骨な感じ、俺は好きだよ」
「そうであろう、そうであろう。もっと褒めてもよいのじゃぞ?」
素直に賛辞を贈る耕太に、ベッキーは鼻を高くしながらそう答えた。その姿は、まさに父親に褒められて嬉しがる娘のそれであった。
「しかし、こんな複雑な造りした機械を見るのは初めてだな。ちょっと触ってみてもいいか?」
一方の耕太はその炬燵マシンに近づき、それの感触を確かめるように機械仕掛けの脚の一つをそっと撫でた。
「ひゃん!」
直後、耕太の頭上で可愛い悲鳴が轟いた。驚いて耕太が頭を上げると、そこには顔を真っ赤にしながらこちらを見下ろしてくるベッキーの姿があった。そして何が起きたかわからないでいる耕太に、ベッキーは躊躇いがちに口を開いた。
「あの、その、兄上? あまり脚には触らんでほしいのじゃが……」
「ん? どうしてだ?」
耕太が追及する。ベッキーは恥ずかしそうにしながら、それでもおずおずと言葉を返した。
「その、駆動にわらわの魔力を使っているのでな。足の部分は全体余す所なくわらわの魔力で満たされているのじゃ。だからそこを触られると、その感覚が魔力を通してわらわにも伝わってしまうのじゃ。それも大量に魔力を流し込んでいるから、その分敏感になってしまうのじゃ」
「くすぐったいってことか?」
「いやその、むしろ愛撫を受けているようで気持ちよく……」
そこまで言って、ベッキーは恥じらいながら口を閉ざした。それを見た耕太は「もっと触ってかわいい声が聴きたい」と魔が差したが、すぐに理性でそれを抑えつけた。妻が嫌と言っていることを自分の都合で行うなど、言語道断である。
代わりに耕太は別のことを考えながら、余計な刺激を与えないように足から距離を取った。そしてある程度離れた後、彼はベッキーに視線を戻して先程考えていたことを彼女に告げた。
「じゃあこれ、外では使えないな」
「なっ、なんでじゃ? 何か理由があるのか?」
「だって、ちょっと触っただけで感じちゃうんだろ? 外に出て寒風にでも当たったらどうなるんだよ」
「……あっ」
ベッキーは耕太の言わんとしていることをすぐに理解した。外ではからっ風がひっきりなしに吹いている。勢いも時折ガレージの中に入って来る隙間風とは比較にならないほど強烈だ。しかも風だけでなく、すれ違う人や魔物娘と接触することだってあるかもしれない。
そんな中で、感度三千倍――盛り過ぎである。実際はもっと低い――になった状態で歩いたらどうなるか?
「……イキ狂うな」
「わらわもそんなことで死にたくないのじゃ」
耕太とベッキーはほぼ同時に言葉を放った。どちらも諦めの色の漂った、苦々しい響きがこもっていた。
「衆人環視で絶頂プレイとか、さすがにちょっとレベル高いし」
「そんなの、わらわだってお断りじゃ。そんな恥ずかしいこと出来るわけないじゃろうが」
それにアブノーマルなプレイを好むほど、二人は変態では無かった。ロリコンは性癖であって変態ではない。わかったか。
とにかく、今回の改造案は失敗に終わったわけである。
「それに俺も、本当言うとこれで外出したくないしな」
そんな折、唐突に耕太がそう言った。失敗を自覚しているとはいえ、愛する夫にいきなり自分の成果を全否定されたベッキーは、思わず身を乗り出して耕太に言い放った。
「なぜじゃ! あそこまで格好いいと言ってくれたではないか! どこが気に入らんと言うのじゃ!?」
「いや、デザインとか性能の問題じゃないんだよ。もっと違う問題でさ」
「……?」
耕太の発言の意図がわからず、バフォメットが首を傾げる。すると耕太は恥ずかしそうに彼女から視線を逸らし、おずおずと口を開く。
「俺以外の奴に、お前のイキ顔とか見せたくないから」
「あっ……」
「だから、その、これは使用禁止ってことで……」
「……ッ」
幼女と中年は揃って顔を赤くした。時折、互いにちらちらと相手を見やり、たまたま視線が重なると二人して大慌てで目を逸らした。
「それに、別に炬燵にこだわらなくても暖かくする方法はいくらでも……」
「いやじゃ! わらわは兄上と炬燵に入りたいのじゃ! これだけは絶対に譲れないのじゃ!」
「わがままだなあ」
「それがわらわの可愛いところなのじゃ」
「それ、自分で言うか……?」
「何か変かの? わらわは可愛くないと申すか?」
「馬鹿言うな! ベッキーは可愛い! 誰がなんと言おうと、宇宙で一番かわいいぞ!」
「そうじゃろう、そうじゃろう! 兄上の言う通り、わらわは宇宙一可愛いのじゃ!」
結局、炬燵四足歩行計画は没となった。
「そういうわけで、まだまだじゃ! まだ別のプランを用意してあるのじゃ!」
しかしそれで諦めるほど、ベックス(中略)スヴォルザード四世は繊細ではなかった。彼女は機械の脚に魔力を送るのを止め、炬燵の足からそれを取り外し――機械の脚と炬燵の足はベッキーの魔力を接着剤のように使って接続されていたので、取り外しは容易だった――、炬燵共々地上へ帰還を果たした。
そしていそいそと炬燵から離れ、距離を取った後、その元の姿に戻った炬燵に向かって両手を突き出した。
「しかと見るがよい。これが次なる炬燵改造プランじゃ!」
自信満々にそう言いながら、ベッキーは両手から黒い魔力を放った。そのドス黒い霧のような魔力は、ベッキーの命を受けて炬燵を取り囲み、それを瞬く間に覆い包んでいった。
炬燵はあっという間に霧の中に沈み、耕太の視界から完全に姿を消した。そして霧が炬燵を隠した後、それを見たベッキーは魔力の放出を止め、軽く指を鳴らした。
次の瞬間、霧が風で吹き飛ばされていくように雲散霧消する。音もしなければ痕跡も残さない、ほんの一瞬の出来事だった。そうして魔力のベールが消滅し、その場に残された物を見た耕太は、小難しい表情をして首を傾げた。
「それはなんだ?」
「マントじゃ」
ベッキーの言う通り、そこに置かれていたのは一枚の赤いマントだった。布地は厚手の毛布で作られており、見るからにふかふかであった。
「魔力を使って、炬燵をそれに変えたってことなのか」
「そういうことになるの。そなた、中々に聡明ではないか」
「腐っても魔界学者だからな。これくらいはわかって当然だろ」
感心するベッキーに、耕太がそう自信たっぷりに返す。ベッキーも彼が学者であることを改めて思い出し――二人は昨日まで子作りエッチに励んでいたので、研究らしい研究はまったくしていなかったのだ――、納得しながら件のマントの元へ近づいていった。
「しかし耕太よ、これはただのマントではないぞ? その名も炬燵マントじゃ!」
またしてもそのまんまな名前である。しかし耕太はそれを気にすることなく、学級の徒ならではの探求心からベッキーに問いかけた。
「それは具体的にはどんな機能を持っているんだ?」
「簡単に言うと、マントの形をした炬燵じゃな。マントそのものがぽかぽか暖かくなっているから、このマントを羽織ると、とてもぬくぬくになれるのじゃ」
自信たっぷりにベッキーが答える。耕太はそれを聞いて「なるほどねえ」と頷きつつ、改めてベッキーを見ながら口を開いた。
「これもいわゆる、マジックアイテムってやつなのか? お前が魔法で作ったんだろ?」
「そうじゃ。我が魔力を使って、炬燵をマントへ変異させたのじゃ。それにさっきの足みたいに、魔力を通してわらわとリンクしているわけでもないから、どれだけ乱暴に扱っても大丈夫じゃぞ」
「それだけ聞くと凄い便利そうだな。何かデメリットとかは無いのか?」
「まあ、それなりにあるな。このマントのぽかぽかさは、マントに充填された魔力を消費して生み出しているのじゃ。だから長く使っていると、いずれ魔力を使い果たしてただのマントに戻ってしまうのじゃよ。じゃから長くぽかぽかしたかったら、定期的にわらわが魔力を注ぎ込んでやる必要があるわけじゃな」
「それはそれで面倒だな」
「まあそこは改良点の一つではあるの。ま、今はそれは置いといて、まずは試着じゃ。そなたに効果を確認してもらいたいのじゃ」
試しにつけてみるがよい。そう言いながらベッキーは、その炬燵マントを耕太に差し出した。耕太は素直にそれを受け取り、さっそく身に着けてみることにした。
サイズは自分にあうようにピッタリ調整されていた。そしてマントを装着し、前にあったボタンを留めて全身を覆ってみる。
「おっ?」
するとなるほど確かに、暖かさがじわじわと全身を包み込んでいくのがわかった。まさに炬燵の中に入ったような、絶妙な暖かさだった。
「おお! これは中々あったかいな! すごいぞ!」
熱すぎず寒すぎず。着る者の体を芯から優しく暖めていく。心まで温かくなるような、そんな安心感すら芽生えてくるほどだった。
「うん。これは凄いぞベッキー。大発明だ! いやあ、もうこれ手放したくないな」
耕太はそんなベストバランスの暖かさを全身で体感し、心から嬉しげな声を放った。そしてそれを見たベッキーも、自分のことのように笑みを浮かべて嬉々とした調子で言葉を放った。
「そうか、そうか! そんなに嬉しいか! そこまで喜んでもらえると、わらわとしても拵えた甲斐があるというものじゃ!」
「いや、本当に凄いぞこれ。一人で使う分には最高の防寒グッズだ!」
「わははは! そこまで褒められると恥ずかしいのじゃ! くすぐったいから、それ以上褒めんでほしいのじゃ!」
夫からの心からの賛辞を受け、ベッキーは鼻高々な調子で言葉を返した。自分の実験の成果物で耕太が喜んでくれるのは、まさに嫁冥利に尽きるものだった。
「それになんだか、これ着けてるとお前に包まれてるような感じがするな。お前の魔力が使われてるからかな?」
さらに耕太が言葉を続ける。完全な惚気だった。そして一方のベッキーはそれを聞いて顔を赤くし、「そういうことは言わんでよい」とそっぽを向きながら言い返した。
そんな妻の恥じらう顔が可愛くて、それを見た耕太は思わず笑みをこぼした。
「こら! 笑うでない! わらわだって恥じらいくらい覚えるのじゃぞ!」
「ごめんごめん。恥ずかしがるお前が可愛くって、つい」
「か、かわ……っ!?」
「うん。赤くなってるベッキー、凄いかわいい」
「め、面と向かってかわいいなどと……この、ばかものめっ!」
懲りない耕太に対してベッキーが口を尖らせる。しかしベッキーが恥を隠すよう面罵した後、二人は向かい合ったままどちらからともなく表情を緩め、愉快そうに笑いあった。これくらいのスキンシップは、この心の通じ合った夫婦にとっては日常茶飯事であった。
「……あ」
しかし幸せは長くは続かなかった。それまで嬉しそうに笑みを浮かべていた耕太は、不意にその顔から笑みを消し、渋りきった表情を浮かべながらベッキーを見つめた。ベッキーもそんな夫の変化に目敏く気づき、喜ぶ妻から真摯な探求者へと表情と気持ちを切り替えて彼に尋ねた。
「どうかしたのか? 何か不都合でも見つけたのかの?」
「ああ、うん。まあそんな感じ」
「なら教えてくれ。何がいけないのじゃ?」
「わかった。まずこのマントさ……」
真剣な面持ちで尋ねてくるベッキーに対し、耕太は気まずそうな顔でそれに答えた。
「一人でしか使えないよな」
「あっ」
ベッキーが炬燵を改造しようと思いついたのは、そもそもは耕太と一緒にぬくぬくしながら買い物に行きたかったからである。
しかしこれでは、ぬくぬく出来るのは耕太だけである。
「普通に考えればこれ凄い発明品かもしれないけど、俺達的にはこれじゃ駄目なんじゃないか?」
そのことをしっかり覚えていた耕太は、故にその点に関してベッキーに尋ねてみた。一方のベッキーは、耕太にそれを指摘されるまで、その欠点に気づかずにいた。自由に着こなせる炬燵という着眼点に驚喜するするあまり、そこまで目が行き届かなかったのである。
「……言われてみれば、確かに……」
だからそれを指摘された時、彼女の頭の中は真っ白になった。そんなこと考えてもいなかったからだ。
そしてこれは致命的な欠点だった。一般的な利便性から見ればその欠点はとりたてて問題でも無かったが、彼ら夫婦の価値観からすれば、それはまさに死活問題であった。
「……」
気まずい空気が場を支配する。何とか状況を改善しようと、耕太が一つ提案する。
「じゃ、じゃあもう一個作って、二人で同じ物着けて外出るってのは?」
「それは無理じゃ。さすがのわらわでも、炬燵をもう一個調達しないと同じものは作れんのじゃ」
無慈悲な回答。またしても妙に重苦しい空気が場を包む。
安西家に炬燵は一つしか無かったのだ。
「……じゃあ、今から新しい炬燵買いに行くか?」
「いや、さすがにそこまでそなたにしてもらうのはしのびないのじゃ……」
結局、これも没になった。
気がつけば、時刻は既に午後一時を過ぎていた。ガレージにあった時計でそれを知った耕太とベッキーは、観念して炬燵を使わずに買い出しに出かけることにした。
「すまぬ耕太。わらわがもっとちゃんとした物を用意できていれば、こんなことにはならなかったのじゃが」
厚手のコートを羽織り、手袋と耳当てを装着して完全武装したベッキーが、自分と同じ装備をした耕太と共に歩きながら悔しげに言葉を漏らす。案の定外は非常に寒く、時折吹きつける北風が唯一むき出しの顔面を冷たく痛めつけていった。
しかしそんな風を正面から受けながら、それでも耕太はベッキーに笑って言った。
「全然平気だよ。これくらい屁でもない。お前の方こそ寒くないか?」
「わらわもこれくらい平気じゃ。じゃが本音を言うと、もっとぽかぽかになりたい気分ではあるがの。やっぱり炬燵が恋しいのじゃ」
「そうか。なら俺、ちょうどいい方法知ってるぞ」
唐突に耕太が言った。興味をひかれたベッキーは耕太の顔を見つめ、その視線を受けながら耕太が続けて言った。
「炬燵無しでも、もっと暖かくなれる方法だ。それも道具要らずで、今すぐやれる」
「なんじゃと? そんな便利なもの、本当にあるのか?」
「ああ。あるぞ」
自信たっぷりに耕太が答える。ベッキーは驚いたように「ほう」と漏らし、それから興味津々な面持ちで彼に尋ねた。
「そこまで言うなら教えてくれ。何をすれば暖かくなれるのじゃ?」
「こうするんだよ」
耕太はそう言って、おもむろにベッキーの手を掴んだ。
突然の出来事に、ベッキーは顔を真っ赤にして息をのんだ。
「な、なっ?」
手袋越しに耕太の手の感触が伝わってくる。心臓が飛び跳ね、全身を巡る血液がかっと熱くなっていく。
さらに耕太は戸惑うベッキーの手を引っ張り、自分の元へと抱き寄せた。そしてベッキーの肩が自分の腹に当たると同時に手を離し、後ろから手を回して反対側の肩を優しく掴み、一息にこちら側にへと引き寄せていく。
ベッキーはあっという間に、耕太の温もりに挟み込まれる格好となった。
「そ、そなた、これは……!?」
いきなりの出来事にベッキーは体を硬くした。すぐ近くで耕太の吐息と心臓の鼓動を感じ、それがより一層ベッキーの思考力を奪った。
耕太はそんな頭真っ白で戸惑いを見せるベッキーに対し、その顔を優しく見下ろしながら声をかけた。
「ほら、あったかくなっただろ?」
「――!」
それを聞いて始めて、ベッキーは自分の体が激しく火照っていることに気づいた。全身から汗が噴き出し、今すぐ上着を脱ぎたくなるほどに熱かった。
しかしベッキーは顔を茹蛸のように赤くしながらも、それでも威厳を保とうとするかのように強い口調で言い返した。
「こ、こんな不意打ちなどしおって、卑怯じゃぞ。バカ者め!」
眉間に皺を刻んで目を吊り上げ、ぷんすか怒りながらベッキーが耕太を見上げる。しかしベッキーはそうして一通り怒った後、押しつけるように自分から耕太に寄りかかっていった。
「……じゃがまあ、あったかくはなった。そこは感謝じゃ」
そして意地を張るようにそっぽを向きつつ、小さな声で感謝の気持ちを伝える。耕太も「どういたしまして」と返しつつ、ベッキーの肩に回した手に力を込め、より強くバフォメットの矮躯を抱き寄せた。ベッキーもまた自然と笑みを浮かべながらそれに身を任せ、さらには自分から耕太の腹に手を回して彼の体を抱き締め返した。
「ベッキー、何か食べたいものとかあるか?」
そうして二人仲良くくっつきながら、耕太がベッキーに問いかける。すっかり機嫌よくなったベッキーは、上を向いて考え込みながらその問いに答えた。
「そうじゃな……何かあったかいものがいいの。シチューとか食べたいのじゃ」
「シチューか。それは夕飯に取っておきたいな」
「そうか? ならばうどんじゃ。あったかいうどんが食べたいのじゃ」
「うどんか。じゃあそれ買って、帰って二人で食べるか」
「うむ! このままひっついて向かうとしようぞ!」
意見を統一した二人は、そのまままっすぐ最寄りのスーパーへと向かった。その足取りは軽く、二人の顔には幸せな笑みが浮かんでいた。
冬の風は寒く、空は乾いて青ざめていた。吐き出す息は白く、頬が冷たくひりついていく。
それでもなお、二人の心はぽかぽかだった。
その威力たるや絶大で、一度中に入ったら最後、理性ある生物はその全てがそれの虜となる。例外は存在しない。人間はおろか、本来人間を魅了する側にいるはずの魔物娘でさえ、その誘惑から逃れることは出来ない。本末転倒であるが、こたつにはそれが出来たのだ。
「ぐへへ、あったかいのう……」
それだけこの「こたつ」の持つ魔力は、まったく規格外の代物であったのだ。毛布と暖房の相乗効果がもたらすぬくもりと安心感は生きとし生ける者全てを等しく堕落させ、さらにそこに蜜柑を加えれば最後、それは外的要因の無い限り半永久的に生物を幽閉してしまえる最凶の檻と化すのだった。蜜柑の代わりにアイスを置いても同様の結果が生まれる。冬場に暖かくしながら冷たいものを食べるというのも、中々にオツなものである。
まさに悪魔の生み出した叡智。勤勉たる全ての生命への冒涜。怠惰と安楽をもたらす禁断の道具なのだ。
「ああ……ぬくぬくじゃ……出たくないのじゃ……」
そしてここにもまた、その炬燵の魔性に屈服した一人の魔物娘がいた。バフォメット――頭から立派な角を生やし、手足を毛でもふもふさせたこの幼女姿の悪魔は、今では腹から下を炬燵の中に押し込み、テーブル部分に両腕を投げ出しつつ顎を載せてだらしない表情を浮かべていた。サバトの主催者であり、人間の常識を超えた莫大な魔力を有するこの幼い怪物も、炬燵の前では全くの無力であった。
「天国じゃあ……至福の極楽なのじゃあ……♪」
「本当にな……」
そしてこの家の家主である安西耕太もまた、バフォメットと同じように炬燵の魔力に屈服していた。二人は向かい合って炬燵に入りこみ、それぞれが好きなようにぬくぬくを噛み締めていた。二人してどてらを着込み、テーブルの上に蜜柑を置くのも忘れない。完全武装の構えであり、共に外に出る気は皆無であった。
「何もしたくねえなあ……このまま一生いたいな……」
「外が寒いのがいけないのじゃ……わらわ達は全然悪くないのじゃ……」
二人揃って堕落の極みにあった。男と幼女姿の悪魔は、二人して冬場にのみ味わえる極上の時間を享受していたのであった。
しかし、いつまでも安楽に沈んでいるわけにもいかない。人間も魔物娘も等しく生物であり、そして生物である以上、その代謝機能は二十四時間体制で稼働している。生きている限り疲れれば眠たくなるし、エネルギーが足りなくなれば腹の虫が鳴る。どれも生命維持のために必須の行為である。
そして今、彼らの体を動かすためのエネルギーは枯渇寸前であった。
「腹減ったなー。そろそろ飯作らないとなー」
正午。自分の腹の虫がアラームの如く鳴り響くのを自覚しながら、耕太はだらけきった顔で呟いた。すると彼と向かい合って炬燵に入っていたバフォメットもそれに応えるように頷き、テーブル中央のバスケットから蜜柑を一つ取りつつだらだら言い返した。
「もうそんな時間かぁ。あにうえー、今日はどんなご飯にするのじゃー?」
「まだ考えてないんだよなー。ていうかもう、冷蔵庫の中からっぽなんだよなー」
「なんじゃとー?」
昨夜覗いた冷蔵庫の中の光景を思い出しながら、耕太が間延びした声で答える。バフォメットもまたそれに力ない調子で返し、手にした蜜柑を皮も剥かず両手で弄びながら続けて言った。
「つまり、今から買い出しに行かねばならぬと言うのかー?」
「そういうことになるなー」
「それはいやじゃなあ。寒いのはいやじゃあ。こたつからでたくないのじゃあ」
バフォメットが駄々をこねる。頬とぷにぷに肉球のついた両掌をテーブルに押しつけ、上半身でべったり貼り付いて「ここから離れるものか」と猛烈にアピールする。
それを見た耕太は思わず苦笑しながら、全身で拒絶の意志を見せるバフォメットに声をかけた。
「じゃあ俺だけで買い出し行ってくるよ。ベッキーはここで待ってろ。すぐ戻ってくるから」
耕太としても、正直なところ炬燵から出たくは無かった。しかし空腹から来る飢餓感は、彼の「ぬくぬくしたい」という怠惰な感情を凌駕した。
つまるところ、人間は三大欲求には勝てないのだ。
「ちゃんと留守番してるんだぞ? いいな?」
「いやじゃあ」
しかしそうして欲求のままに炬燵から出ようとした耕太を、バフォメットの「ベッキー」――本名ベックス・エル・フロイデン・スヴォルザード四世――は、子供が駄々をこねるような甘えた口調で引き留めた。いきなりのことに耕太は動きを止め、そして彼を留めたベッキーはテーブルに貼り付きながら続けて言った。
「わらわは兄上と一緒にいたいのじゃ。離れたくないのじゃ。一人だけでこたつに入っていても面白くないのじゃあ」
「そう言われてもな……」
ベッキーのわがままに耕太は困り顔を浮かべた。しかし頬を押し付けながらもう片方の頬を膨らませ、上目遣いでこちらを見つめてくるベッキーの姿は、庇護心をそそられるほどの可愛らしさを備えていた。どんなわがままでも許してしまえる、魔性のかわいさだった。
そんな愛嬌を見せるバフォメットを見て心をほっこりさせつつ、聡明な耕太はすぐに一つの提案をした。
「じゃあ一緒に行くか? さすがにこのまま飲まず食わずってのは、俺としては辛いものがあるんだが」
「それはもちろん行きたいのじゃ。二人で買い物をするのはとっても楽しいのじゃ」
見た目相応に顔を輝かせ、ベッキーが答える。しかしすぐに笑みを消し、いつも通りだらけきった顔に戻って言葉を続ける。
「でも炬燵からは出たくないのじゃ」
「は?」
「炬燵に入ったまま買い出しに行きたいのじゃ。ぬくぬくしながら外に出て、兄上と一緒にお買い物がしたいのじゃ」
「ええ……」
耕太は呆然とした。なんてワガママを言うんだこの幼女は。
そこまで炬燵が気に入ったのか。
「こたつに入ったままって、どうするんだよ。何か考えでもあるのか?」
「無論じゃ。わらわの頭脳にかかれば、この程度の問題など屁でもないわ」
困惑しながら問いかける耕太に、ベッキーはそう言い返した。彼女はこの時まだテーブルに貼り付いていたが、その顔には活力が満ち、大きな両目はギラギラ金色に燃えていた。
「実はこんなこともあろうかと、前々から暖めていた炬燵改造プランがあっての。せっかくだから今、それを試してみようと思うのじゃ」
あれは彼女が会心の策を思いついた時に見せる顔だ。ベッキーと結婚して五年目になる耕太は、その顔色を一瞬窺っただけで、この幼妻が自信満々でいる理由を見抜いてみせた。千日以上一緒にいれば、このくらい造作もないことである。
耕太はすぐにそれについて尋ねてみた。
「何かいいアイデアがあるのか?」
「無論じゃ。わらわの頭脳を甘く見るでないぞ」
「そこまで言うか。じゃあ買い出しは止めて、楽しみに待つとするかな」
「うむ。期待して待っておるのじゃぞ」
愛しい夫からの問いかけに対し、その指を鳴らすだけで家一軒を軽々吹き飛ばせる程の魔力を持った幼女は、自信満々な笑みを浮かべつつそう言ってのけた。そして彼女はテーブルに貼り付いたまま右手を持ち上げ、上目遣いで耕太を見つつ言った。
「では耕太よ、わらわはちょいと炬燵の調整に移るでな。いつもの所にいるから、わらわが呼んだらすぐに来るがよい」
それだけ言って、ベッキーが指を鳴らす。直後、家が吹き飛ぶ代わりにベッキーと炬燵が忽然と居間から姿を消した。音もたてず、そよ風も吹かさない。何の痕跡も残さない完璧な空間転移である。目の前でそれが消える瞬間を見ていなければ、それは最初からそこに無かったものだと勘違いしてしまっただろう。
仕事上、今までにも何度か魔物娘が転移魔法を行使するところを見たことはあるが、ベッキーほど飛び抜けた転移を行ってみせた者は一人もいなかった。
「やっぱりあいつ、すごい魔力持ってんだな」
そんな百点満点な転移の様相を見た耕太は、彼女が幼く子供っぽい外見とは裏腹に凄まじい力を秘めた魔物娘であることを再認識した。しかしそこまで考えた彼がまず最初に心に抱いたのはそんな魔物娘への恐れではなく、身を刺す寒さにどう対処しようかという俗な悩みであった。
あんなに可愛いつるぺた女の子をどうして恐れる必要があるというのか。ロリコン魔界学者の耕太はどこまでもブレなかった。
「やっぱり炬燵欲しいな……はやく返してくれないかな……」
しかし体と心は別物である。鋼の意志を持った幼女趣味の男は、一気に寒々しくなった体をどう暖めようかと一人思考を巡らせた。一応部屋には石油ストーブが置かれていたが、わざわざ動いて火をつけるのはとても億劫だった。寝室から毛布を持ってきたり、クローゼットを開いて厚着をするのも面倒くさかったので、思いついただけでやろうとはしなかった。もっと簡単に暖かくなれる方法は無いかと、自堕落な思考パターンから抜け出せずにいた。
安西耕太、五十二歳。自活と研究と妻への気遣い以外の事柄に対しては、まったく体を動かそうとしない男であった。
魔界と人間界を結ぶゲートが出現し、魔物娘の存在が一般に認知されてはや十年。向こうの世界について学ぶ、いわゆる「魔界学」と呼ばれる学問も、勤勉な人間とお節介焼きの魔物娘の働きによって、この十年の間に大きく発展を遂げた。
特に安西耕太とバフォメット「ベッキー」のコンビは、人間界における魔界学の発展に大いに寄与した偉人として、広くその名を知られていた。
「そなた、中々面白いことをしておるのう。どれ、わらわも一枚噛ませてもらおうかの」
「どうして俺を助けようとするんだ?」
「ただの暇潰しじゃ。ほれ、わかったらはやく進めるぞ。時間は有限なのじゃからな」
安西耕太はその後の魔界学に繋がる魔界や魔物娘に関する研究を、魔物娘と「こちら側」の人間が初めて接触した頃から行っていた。いうなれば「最古参」の研究者である。そしてベッキーは、そんな未知なる魔界についての見識を広めようと悪戦苦闘していた頃の耕太に接触し、興味本位から助手として彼を助けることにした、最古参の協力者であった。
二人して古強者であった。
「耕太よ、この指輪はなんじゃ? いきなり渡されてもわからんぞ」
「それか? それはエンゲージリングっていうんだ。本気で好きになった人に渡す、特別な指輪だよ。こっちの世界じゃ、結婚する相手にはそれを渡すことになってるんだ」
「つまり?」
「俺と結婚してほしい」
「……ばか」
そして研究上のパートナーが、公私に渡って互いを支え合う永遠のパートナーとなるのに、大して時間はかからなかった。ベッキーは耕太の飽くなき探求心と知識の深さ、そして常に自分を気遣い甘えさせてくれるその優しさに心打たれた。耕太はベッキーの幼児体型を見て一発でノックアウトした。そして一緒に働く中で彼女が思慮深く、一心に研究に打ち込む生粋の学者肌であることを知り、さらに虜になった。
また大昔から研究を続け、魔物娘の生態や思考を十分理解していた耕太は、そんな人外の存在に恋をすることに対して何の恐怖も嫌悪も抱かなかった。もちろん彼らの周りには、それに難色を示す――頭の固い時代遅れの――人間も大勢いた。しかし耕太は周りの反対を押し切り、最終的にベッキーと結婚することに成功した。
なお結婚した後、ベッキーがまず最初に行ったのは、耕太が何十年にも渡って集めてきたロリ本コレクションの焼却であった。
「そんな! 勘弁してくれ! それだけは!」
「やかましい! 兄上はわらわだけを見ておればよいのじゃ! 二次元にうつつを抜かすくらいなら、わらわのぷにとろつるぺたぼでーでいっぱい抜くがよいのじゃ!」
盛大に燃え上がる焚き火を前に泣き崩れる中年男と、それを大声で諭す幼女――御年三百七十七歳。機密事項である――の図は、中々にシュールであった。しかし家に帰ってすぐさまベッキーの躰の味を知った耕太は、それ以降自分のコレクションに思いを馳せることはしなくなった。
そして結婚した二人は、都心を離れて郊外に一軒家を建てた。ついでに家の隣に大きなガレージを据え、そこを二人の愛の巣、もとい共同研究所とした。結婚した後、耕太とベッキーは学会に顔を出す回数が激減したが、それでも研究自体はちゃんと行っていた。そもそも彼らが田舎の方に引っ越したのも、都心部では出来ないような大掛かりな研究や実験を気兼ねなく行えるからであった。
耕太はベッキーと結婚してなお、学者でありたいと願っていた。そしてベッキーはそんな夫の思いを受け入れ、ここに転居してきたのである。
「耕太よ! 準備が出来たぞ! はようガレージに来ぬか!」
そしてこの時ベッキーがガレージで行っていたのは、そんなまさに都市部では行えない大仰な実験であった。また常識外れのことをしでかすのも、いつもベッキーの役割だった。
そんな自分の予想を裏切ってくるベッキーが、たまらなく愛おしかった。ロリータへの愛は全てにおいて優先されるのだ。
頭の中に直接響いてきた声に従って、居間とガレージを繋ぐ連絡通路を通って研究所に入った耕太は、そこに広がる光景を見て唖然とした。
「やったぞ! ぶっつけ本番じゃが、なんとか上手く行ったぞ!」
ガレージの中は綺麗に片づけられ、普段使っている実験器具やテーブルはまとめて隅の方に追いやられていた。そうして生まれた広々とした空間のど真ん中で、嬉々とした表情を浮かべながら炬燵の中に居座るベッキーの姿があった。
その炬燵は宙に浮き、テーブルの足の部分から連結された四本の脚部によって支えられていた。脚は太く節くれだち、その全体が丸みを帯びた装甲で覆われ、全身赤銅色に染められていた。その装甲部分は天井の照明を受け、冷たく鈍い光沢を放っていた。
いかな耕太でも、目の前で起きていることを瞬時に理解することは不可能だった。
「……お前、何してるんだ?」
「何って、炬燵に入ったまま外出できるように炬燵を改造してみたのじゃ。名付けて、四足歩行炬燵じゃ!」
そのまんまなネーミングである。直球過ぎて逆に感心する耕太の前で、ベッキーは自信満々に説明を始めた。
「これは見ての通り、炬燵に機械仕掛けの脚を四本装着させたものじゃ。最高時速百二十キロ、跳躍力は垂直方向に三メートル跳べる。動力にはわらわの魔力を使用しておる。とてもクリーンな一品じゃ。脚はこの前魔界に寄った時、知り合いの魔物娘に頼んで作ってもらったものじゃ」
彼女の言葉通り、この時のベッキーは全身から黒い靄のようなものを溢れ出させていた。靄はそのまま下へと降りていき、炬燵を支える機械の足へと吸い込まれていっていた。ついでに目を凝らして機械の足を見てみると、それを覆う装甲の隙間から、足の中で黒い煙の塊が上から下へ流れているのが見て取れた。
「よくこんなことしようと思いつくなお前」
「怠惰を極めるためには、特別勤勉でなければならぬのじゃ。そなたも学者の端くれならば、わらわの言葉の意味がわかるであろう?」
「それならよくわかるよ。俺も楽したいから、実験の手順の効率化とか色々考えてみたりしたからな」
「そうであろう? 今回のこれも、それと一緒じゃ。楽をするための努力は惜しまぬが吉、ということじゃな」
しかし当のベッキーは、ピンピンしながら平然とそう答えてみせた。疲労の色を見せないどころか、汗一つ流していなかった。彼女にとってはこの程度、息をするのと同じくらいの負担でしか無かったのだ。
そうしてドス黒いオーラを纏ったまま澄まし顔を見せるベッキーは、興味津々といった体で耕太に質問を投げかけた。
「ところで兄上、これの素直な感想を聞かせてくれんかの?」
「……いや、すごいもの持って来たなとしか言えないよ」
本当にそうとしか言えなかった。まさかこんなことしてくるとは、彼女の夫である耕太も予想できなかった。確かにロボットじみた魔物娘もいるにはいるが、オカルト一直線のバフォメットがこんな手で来るとは想像だにしなかったのだ。
そうして困惑と感心を同時に味わう耕太に、ベッキーが目を輝かせて言った。
「ロボットは男のロマンと聞いたのじゃが、どうじゃ? 格好いいかの?」
「えっ? ああ、格好いいと思うよ。と言っても、見るべき部分が足しかないんだけど」
「では足だけ見てくれ。足は格好いいかの?」
「うん。いいね。この無骨な感じ、俺は好きだよ」
「そうであろう、そうであろう。もっと褒めてもよいのじゃぞ?」
素直に賛辞を贈る耕太に、ベッキーは鼻を高くしながらそう答えた。その姿は、まさに父親に褒められて嬉しがる娘のそれであった。
「しかし、こんな複雑な造りした機械を見るのは初めてだな。ちょっと触ってみてもいいか?」
一方の耕太はその炬燵マシンに近づき、それの感触を確かめるように機械仕掛けの脚の一つをそっと撫でた。
「ひゃん!」
直後、耕太の頭上で可愛い悲鳴が轟いた。驚いて耕太が頭を上げると、そこには顔を真っ赤にしながらこちらを見下ろしてくるベッキーの姿があった。そして何が起きたかわからないでいる耕太に、ベッキーは躊躇いがちに口を開いた。
「あの、その、兄上? あまり脚には触らんでほしいのじゃが……」
「ん? どうしてだ?」
耕太が追及する。ベッキーは恥ずかしそうにしながら、それでもおずおずと言葉を返した。
「その、駆動にわらわの魔力を使っているのでな。足の部分は全体余す所なくわらわの魔力で満たされているのじゃ。だからそこを触られると、その感覚が魔力を通してわらわにも伝わってしまうのじゃ。それも大量に魔力を流し込んでいるから、その分敏感になってしまうのじゃ」
「くすぐったいってことか?」
「いやその、むしろ愛撫を受けているようで気持ちよく……」
そこまで言って、ベッキーは恥じらいながら口を閉ざした。それを見た耕太は「もっと触ってかわいい声が聴きたい」と魔が差したが、すぐに理性でそれを抑えつけた。妻が嫌と言っていることを自分の都合で行うなど、言語道断である。
代わりに耕太は別のことを考えながら、余計な刺激を与えないように足から距離を取った。そしてある程度離れた後、彼はベッキーに視線を戻して先程考えていたことを彼女に告げた。
「じゃあこれ、外では使えないな」
「なっ、なんでじゃ? 何か理由があるのか?」
「だって、ちょっと触っただけで感じちゃうんだろ? 外に出て寒風にでも当たったらどうなるんだよ」
「……あっ」
ベッキーは耕太の言わんとしていることをすぐに理解した。外ではからっ風がひっきりなしに吹いている。勢いも時折ガレージの中に入って来る隙間風とは比較にならないほど強烈だ。しかも風だけでなく、すれ違う人や魔物娘と接触することだってあるかもしれない。
そんな中で、感度三千倍――盛り過ぎである。実際はもっと低い――になった状態で歩いたらどうなるか?
「……イキ狂うな」
「わらわもそんなことで死にたくないのじゃ」
耕太とベッキーはほぼ同時に言葉を放った。どちらも諦めの色の漂った、苦々しい響きがこもっていた。
「衆人環視で絶頂プレイとか、さすがにちょっとレベル高いし」
「そんなの、わらわだってお断りじゃ。そんな恥ずかしいこと出来るわけないじゃろうが」
それにアブノーマルなプレイを好むほど、二人は変態では無かった。ロリコンは性癖であって変態ではない。わかったか。
とにかく、今回の改造案は失敗に終わったわけである。
「それに俺も、本当言うとこれで外出したくないしな」
そんな折、唐突に耕太がそう言った。失敗を自覚しているとはいえ、愛する夫にいきなり自分の成果を全否定されたベッキーは、思わず身を乗り出して耕太に言い放った。
「なぜじゃ! あそこまで格好いいと言ってくれたではないか! どこが気に入らんと言うのじゃ!?」
「いや、デザインとか性能の問題じゃないんだよ。もっと違う問題でさ」
「……?」
耕太の発言の意図がわからず、バフォメットが首を傾げる。すると耕太は恥ずかしそうに彼女から視線を逸らし、おずおずと口を開く。
「俺以外の奴に、お前のイキ顔とか見せたくないから」
「あっ……」
「だから、その、これは使用禁止ってことで……」
「……ッ」
幼女と中年は揃って顔を赤くした。時折、互いにちらちらと相手を見やり、たまたま視線が重なると二人して大慌てで目を逸らした。
「それに、別に炬燵にこだわらなくても暖かくする方法はいくらでも……」
「いやじゃ! わらわは兄上と炬燵に入りたいのじゃ! これだけは絶対に譲れないのじゃ!」
「わがままだなあ」
「それがわらわの可愛いところなのじゃ」
「それ、自分で言うか……?」
「何か変かの? わらわは可愛くないと申すか?」
「馬鹿言うな! ベッキーは可愛い! 誰がなんと言おうと、宇宙で一番かわいいぞ!」
「そうじゃろう、そうじゃろう! 兄上の言う通り、わらわは宇宙一可愛いのじゃ!」
結局、炬燵四足歩行計画は没となった。
「そういうわけで、まだまだじゃ! まだ別のプランを用意してあるのじゃ!」
しかしそれで諦めるほど、ベックス(中略)スヴォルザード四世は繊細ではなかった。彼女は機械の脚に魔力を送るのを止め、炬燵の足からそれを取り外し――機械の脚と炬燵の足はベッキーの魔力を接着剤のように使って接続されていたので、取り外しは容易だった――、炬燵共々地上へ帰還を果たした。
そしていそいそと炬燵から離れ、距離を取った後、その元の姿に戻った炬燵に向かって両手を突き出した。
「しかと見るがよい。これが次なる炬燵改造プランじゃ!」
自信満々にそう言いながら、ベッキーは両手から黒い魔力を放った。そのドス黒い霧のような魔力は、ベッキーの命を受けて炬燵を取り囲み、それを瞬く間に覆い包んでいった。
炬燵はあっという間に霧の中に沈み、耕太の視界から完全に姿を消した。そして霧が炬燵を隠した後、それを見たベッキーは魔力の放出を止め、軽く指を鳴らした。
次の瞬間、霧が風で吹き飛ばされていくように雲散霧消する。音もしなければ痕跡も残さない、ほんの一瞬の出来事だった。そうして魔力のベールが消滅し、その場に残された物を見た耕太は、小難しい表情をして首を傾げた。
「それはなんだ?」
「マントじゃ」
ベッキーの言う通り、そこに置かれていたのは一枚の赤いマントだった。布地は厚手の毛布で作られており、見るからにふかふかであった。
「魔力を使って、炬燵をそれに変えたってことなのか」
「そういうことになるの。そなた、中々に聡明ではないか」
「腐っても魔界学者だからな。これくらいはわかって当然だろ」
感心するベッキーに、耕太がそう自信たっぷりに返す。ベッキーも彼が学者であることを改めて思い出し――二人は昨日まで子作りエッチに励んでいたので、研究らしい研究はまったくしていなかったのだ――、納得しながら件のマントの元へ近づいていった。
「しかし耕太よ、これはただのマントではないぞ? その名も炬燵マントじゃ!」
またしてもそのまんまな名前である。しかし耕太はそれを気にすることなく、学級の徒ならではの探求心からベッキーに問いかけた。
「それは具体的にはどんな機能を持っているんだ?」
「簡単に言うと、マントの形をした炬燵じゃな。マントそのものがぽかぽか暖かくなっているから、このマントを羽織ると、とてもぬくぬくになれるのじゃ」
自信たっぷりにベッキーが答える。耕太はそれを聞いて「なるほどねえ」と頷きつつ、改めてベッキーを見ながら口を開いた。
「これもいわゆる、マジックアイテムってやつなのか? お前が魔法で作ったんだろ?」
「そうじゃ。我が魔力を使って、炬燵をマントへ変異させたのじゃ。それにさっきの足みたいに、魔力を通してわらわとリンクしているわけでもないから、どれだけ乱暴に扱っても大丈夫じゃぞ」
「それだけ聞くと凄い便利そうだな。何かデメリットとかは無いのか?」
「まあ、それなりにあるな。このマントのぽかぽかさは、マントに充填された魔力を消費して生み出しているのじゃ。だから長く使っていると、いずれ魔力を使い果たしてただのマントに戻ってしまうのじゃよ。じゃから長くぽかぽかしたかったら、定期的にわらわが魔力を注ぎ込んでやる必要があるわけじゃな」
「それはそれで面倒だな」
「まあそこは改良点の一つではあるの。ま、今はそれは置いといて、まずは試着じゃ。そなたに効果を確認してもらいたいのじゃ」
試しにつけてみるがよい。そう言いながらベッキーは、その炬燵マントを耕太に差し出した。耕太は素直にそれを受け取り、さっそく身に着けてみることにした。
サイズは自分にあうようにピッタリ調整されていた。そしてマントを装着し、前にあったボタンを留めて全身を覆ってみる。
「おっ?」
するとなるほど確かに、暖かさがじわじわと全身を包み込んでいくのがわかった。まさに炬燵の中に入ったような、絶妙な暖かさだった。
「おお! これは中々あったかいな! すごいぞ!」
熱すぎず寒すぎず。着る者の体を芯から優しく暖めていく。心まで温かくなるような、そんな安心感すら芽生えてくるほどだった。
「うん。これは凄いぞベッキー。大発明だ! いやあ、もうこれ手放したくないな」
耕太はそんなベストバランスの暖かさを全身で体感し、心から嬉しげな声を放った。そしてそれを見たベッキーも、自分のことのように笑みを浮かべて嬉々とした調子で言葉を放った。
「そうか、そうか! そんなに嬉しいか! そこまで喜んでもらえると、わらわとしても拵えた甲斐があるというものじゃ!」
「いや、本当に凄いぞこれ。一人で使う分には最高の防寒グッズだ!」
「わははは! そこまで褒められると恥ずかしいのじゃ! くすぐったいから、それ以上褒めんでほしいのじゃ!」
夫からの心からの賛辞を受け、ベッキーは鼻高々な調子で言葉を返した。自分の実験の成果物で耕太が喜んでくれるのは、まさに嫁冥利に尽きるものだった。
「それになんだか、これ着けてるとお前に包まれてるような感じがするな。お前の魔力が使われてるからかな?」
さらに耕太が言葉を続ける。完全な惚気だった。そして一方のベッキーはそれを聞いて顔を赤くし、「そういうことは言わんでよい」とそっぽを向きながら言い返した。
そんな妻の恥じらう顔が可愛くて、それを見た耕太は思わず笑みをこぼした。
「こら! 笑うでない! わらわだって恥じらいくらい覚えるのじゃぞ!」
「ごめんごめん。恥ずかしがるお前が可愛くって、つい」
「か、かわ……っ!?」
「うん。赤くなってるベッキー、凄いかわいい」
「め、面と向かってかわいいなどと……この、ばかものめっ!」
懲りない耕太に対してベッキーが口を尖らせる。しかしベッキーが恥を隠すよう面罵した後、二人は向かい合ったままどちらからともなく表情を緩め、愉快そうに笑いあった。これくらいのスキンシップは、この心の通じ合った夫婦にとっては日常茶飯事であった。
「……あ」
しかし幸せは長くは続かなかった。それまで嬉しそうに笑みを浮かべていた耕太は、不意にその顔から笑みを消し、渋りきった表情を浮かべながらベッキーを見つめた。ベッキーもそんな夫の変化に目敏く気づき、喜ぶ妻から真摯な探求者へと表情と気持ちを切り替えて彼に尋ねた。
「どうかしたのか? 何か不都合でも見つけたのかの?」
「ああ、うん。まあそんな感じ」
「なら教えてくれ。何がいけないのじゃ?」
「わかった。まずこのマントさ……」
真剣な面持ちで尋ねてくるベッキーに対し、耕太は気まずそうな顔でそれに答えた。
「一人でしか使えないよな」
「あっ」
ベッキーが炬燵を改造しようと思いついたのは、そもそもは耕太と一緒にぬくぬくしながら買い物に行きたかったからである。
しかしこれでは、ぬくぬく出来るのは耕太だけである。
「普通に考えればこれ凄い発明品かもしれないけど、俺達的にはこれじゃ駄目なんじゃないか?」
そのことをしっかり覚えていた耕太は、故にその点に関してベッキーに尋ねてみた。一方のベッキーは、耕太にそれを指摘されるまで、その欠点に気づかずにいた。自由に着こなせる炬燵という着眼点に驚喜するするあまり、そこまで目が行き届かなかったのである。
「……言われてみれば、確かに……」
だからそれを指摘された時、彼女の頭の中は真っ白になった。そんなこと考えてもいなかったからだ。
そしてこれは致命的な欠点だった。一般的な利便性から見ればその欠点はとりたてて問題でも無かったが、彼ら夫婦の価値観からすれば、それはまさに死活問題であった。
「……」
気まずい空気が場を支配する。何とか状況を改善しようと、耕太が一つ提案する。
「じゃ、じゃあもう一個作って、二人で同じ物着けて外出るってのは?」
「それは無理じゃ。さすがのわらわでも、炬燵をもう一個調達しないと同じものは作れんのじゃ」
無慈悲な回答。またしても妙に重苦しい空気が場を包む。
安西家に炬燵は一つしか無かったのだ。
「……じゃあ、今から新しい炬燵買いに行くか?」
「いや、さすがにそこまでそなたにしてもらうのはしのびないのじゃ……」
結局、これも没になった。
気がつけば、時刻は既に午後一時を過ぎていた。ガレージにあった時計でそれを知った耕太とベッキーは、観念して炬燵を使わずに買い出しに出かけることにした。
「すまぬ耕太。わらわがもっとちゃんとした物を用意できていれば、こんなことにはならなかったのじゃが」
厚手のコートを羽織り、手袋と耳当てを装着して完全武装したベッキーが、自分と同じ装備をした耕太と共に歩きながら悔しげに言葉を漏らす。案の定外は非常に寒く、時折吹きつける北風が唯一むき出しの顔面を冷たく痛めつけていった。
しかしそんな風を正面から受けながら、それでも耕太はベッキーに笑って言った。
「全然平気だよ。これくらい屁でもない。お前の方こそ寒くないか?」
「わらわもこれくらい平気じゃ。じゃが本音を言うと、もっとぽかぽかになりたい気分ではあるがの。やっぱり炬燵が恋しいのじゃ」
「そうか。なら俺、ちょうどいい方法知ってるぞ」
唐突に耕太が言った。興味をひかれたベッキーは耕太の顔を見つめ、その視線を受けながら耕太が続けて言った。
「炬燵無しでも、もっと暖かくなれる方法だ。それも道具要らずで、今すぐやれる」
「なんじゃと? そんな便利なもの、本当にあるのか?」
「ああ。あるぞ」
自信たっぷりに耕太が答える。ベッキーは驚いたように「ほう」と漏らし、それから興味津々な面持ちで彼に尋ねた。
「そこまで言うなら教えてくれ。何をすれば暖かくなれるのじゃ?」
「こうするんだよ」
耕太はそう言って、おもむろにベッキーの手を掴んだ。
突然の出来事に、ベッキーは顔を真っ赤にして息をのんだ。
「な、なっ?」
手袋越しに耕太の手の感触が伝わってくる。心臓が飛び跳ね、全身を巡る血液がかっと熱くなっていく。
さらに耕太は戸惑うベッキーの手を引っ張り、自分の元へと抱き寄せた。そしてベッキーの肩が自分の腹に当たると同時に手を離し、後ろから手を回して反対側の肩を優しく掴み、一息にこちら側にへと引き寄せていく。
ベッキーはあっという間に、耕太の温もりに挟み込まれる格好となった。
「そ、そなた、これは……!?」
いきなりの出来事にベッキーは体を硬くした。すぐ近くで耕太の吐息と心臓の鼓動を感じ、それがより一層ベッキーの思考力を奪った。
耕太はそんな頭真っ白で戸惑いを見せるベッキーに対し、その顔を優しく見下ろしながら声をかけた。
「ほら、あったかくなっただろ?」
「――!」
それを聞いて始めて、ベッキーは自分の体が激しく火照っていることに気づいた。全身から汗が噴き出し、今すぐ上着を脱ぎたくなるほどに熱かった。
しかしベッキーは顔を茹蛸のように赤くしながらも、それでも威厳を保とうとするかのように強い口調で言い返した。
「こ、こんな不意打ちなどしおって、卑怯じゃぞ。バカ者め!」
眉間に皺を刻んで目を吊り上げ、ぷんすか怒りながらベッキーが耕太を見上げる。しかしベッキーはそうして一通り怒った後、押しつけるように自分から耕太に寄りかかっていった。
「……じゃがまあ、あったかくはなった。そこは感謝じゃ」
そして意地を張るようにそっぽを向きつつ、小さな声で感謝の気持ちを伝える。耕太も「どういたしまして」と返しつつ、ベッキーの肩に回した手に力を込め、より強くバフォメットの矮躯を抱き寄せた。ベッキーもまた自然と笑みを浮かべながらそれに身を任せ、さらには自分から耕太の腹に手を回して彼の体を抱き締め返した。
「ベッキー、何か食べたいものとかあるか?」
そうして二人仲良くくっつきながら、耕太がベッキーに問いかける。すっかり機嫌よくなったベッキーは、上を向いて考え込みながらその問いに答えた。
「そうじゃな……何かあったかいものがいいの。シチューとか食べたいのじゃ」
「シチューか。それは夕飯に取っておきたいな」
「そうか? ならばうどんじゃ。あったかいうどんが食べたいのじゃ」
「うどんか。じゃあそれ買って、帰って二人で食べるか」
「うむ! このままひっついて向かうとしようぞ!」
意見を統一した二人は、そのまままっすぐ最寄りのスーパーへと向かった。その足取りは軽く、二人の顔には幸せな笑みが浮かんでいた。
冬の風は寒く、空は乾いて青ざめていた。吐き出す息は白く、頬が冷たくひりついていく。
それでもなお、二人の心はぽかぽかだった。
16/11/29 11:07更新 / 黒尻尾