「少女」ウィルマリナ・ノースクリム
午前七時。まったく出し抜けに、そのサキュバスは目を覚ました。
ウィルマリナ・ノースクリム。かつてレスカティエが誇る勇者と讃えられ、そしてそのレスカティエ滅亡に加担した魔物娘は、茫洋とする意識を引きずりながら体を覆うシーツをどかし、上体を起こした。
「あふぅ……もう朝なのね……」
そう独りごち、眠たげに目をこする。彼女は全裸だった。そもそも魔族となって以降、彼女は寝るときに服を着なくなった。夫と愛を育むときに、衣服はもはや邪魔でしかないからだ。着衣セックスというものも偶にやったりはするが、それにしたって毎日するわけではない。だからウィルマリナは、夜に服を着ることを止めたのである。
そしてそれは、隣で寝ていた彼女の夫も同様だった。ついでに言うと、自分と同じように隣の青年と婚約した他の魔物娘達も、同じ理由から服を着ないで夜を過ごすことが多かった。まあ中には服の代わりに触手を身に纏っている者もいたが、それが服なのか否かについては考えないことにした。
「ううん……おはよう、あなた……」
白い素肌を窓越しの朝日に晒しながら、ウィルがそんな夫に向かってよろよろと手を伸ばす。この青年は、いつもならば他の妻たちと同じ部屋で夜を明かすのだが、今日は特別にウィルマリナが彼を独占しても良いことになっていたのである。
しかし彼女の隣で寝ているはずの、その手が掴むはずだった青年の姿は、そこには無かった。
「……え?」
青年の姿を捉えられず、手が空を虚しく掴んだ瞬間、ウィルの脳は一瞬で覚醒した。彼女は飛び起き、五感を総動員して青年の姿を探した。しかしその決して広くない――むしろクローゼットと化粧台とベッドしか置かれていない、生活感皆無の物置のような――ウィルマリナの部屋のどこを見渡しても、青年の姿はまったく見えなかった。
「どこ? えっ、どこにいるの?」
ウィルマリナは胸の奥で、自分の心臓が締め上げられるような強い痛みを感じた。心臓が早鐘のように激しく脈打ち、息が乱れ、額から脂汗が流れ落ちる。「夫の敵」に対しては顔色一つ変えずに剣を振り下ろし、容赦なく堕落の道に堕としていくサキュバスの勇者が、今はあからさまに動揺した姿を晒し、必死の形相で愛する夫を探し求めていた。
「なんで? なんでいなくなっちゃうの?」
ウィルマリナは目尻に涙さえ浮かべていた。彼女は両手で胸元を強く押さえ、怯えきった表情を見せながらしきりに首を振り回した。いるはずのない青年の姿を求めて、方々を見て回った。
自分の知らない間に青年と離れ離れになってしまった。何よりそれが、彼女の心を恐怖で覆いつくしていった。消したはずの古傷が疼きだし、彼女を責め苛んでいく。
もう嫌だ。もうあなたと離れたくない。孤独に怯えるウィルマリナの心が叫ぶ。
「やだよ……行かないでよ……お願いだから……!」
「ウィル?」
その時、入口のドアが開き、一人の男が中に入ってきた。それは今までウィルマリナが必死になって探していた青年であり、彼はズボンだけを履いた状態で、両手に湯気の昇るカップを持っていた。
そして青年は、今にも泣き出しそうなウィルマリナの姿を見て、彼女が何を恐れているのかをすぐに理解した。
「ごめん、ウィル大丈夫か?」
急いでカップを化粧台に置き、ウィルマリナのもとに向かう。そして躊躇うことなく彼女の体を抱きしめ、慰めるように頭を撫でる。
一騎当千の魔界勇者はその暖かな感触に安堵し、愛する青年の胸に顔を擦りつけながら涙を流した。
「よかった……いなくなったのかと思った……」
「俺の方こそ、ごめん。お前を置いてどっか行っちゃって」
「よかった……よかったよう……」
ウィルマリナが心の底から安心した声を漏らす。そうして自分の胸を涙で濡らす彼女を抱きながら、青年は己の迂闊さを恥じた。彼はウィルマリナが「ひとりぼっちになる」ことを何より恐れていることを、ちゃんと知っていたからだ。そして独りを恐れ、愛を求めるがゆえに、彼女がこの世で唯一愛する自分を強く求めていることも理解していた。
少し姿を消しただけで大きく取り乱す、面倒臭い女、などとは欠片も思わなかった。青年はウィルマリナがこうなった理由を知っていたし、それを乗り越えて強くなれと偉い口を利くつもりもなかった。
「ごめんな。勝手にいなくなって」
「ううん、いいの。私の方こそごめんなさい、取り乱しちゃって」
「気にするなよ。俺とお前の仲だろ?」
そう言って、青年はウィルの頭を優しく撫でた。幼馴染の手の暖かさに触れ、ウィルはそれまで激しくささくれだっていた自分の心が大人しくなっていくのを感じた。
そうして穏やかな心を取り戻していくウィルマリナに向かって、青年が優しく声をかける。
「それとウィル、十時くらいに出発するから、それまでに準備しといてくれよ」
「えっ? 準備って、何を?」
「昨日言ったろ、俺とデートするって」
「……えっ?」
ウィルの目が点になる。そして昨夜、自分がその約束にOKを出したことを思い出し、顔を茹蛸のように真っ赤に染める。
「俺とウィルで、今日一日デートするんだよ」
そんなウィルに、青年は追い打ちをかけるように言葉を投げた。
レスカティエ陥落から一週間後のことである。
午前十時。ウィルマリナと青年は王城を出て、レスカティエの通りを二人で歩いていた。
「まさか、あなたの方から誘ってきてくれるなんて思わなかったな」
「そ、そうか?」
「ええ。だってあなた、昔っから真面目で紳士的な人だったし。こんな軟派なこととは無縁そうだったし」
「もしかして、俺から誘われるのは嫌だったか?」
「そんな訳ないじゃない。私、今とっても楽しいよ」
サキュバスとしての「いつもの服装」に着替えたウィルマリナは、嬉しそうに青年の腕に抱きついていた。そして甘えるように彼の肩に頬をすり寄せ、幸せそうに密着していた。ラフな私服に着替えた青年は、そんなウィルを微笑ましく見つめながら、歩調を合わせてゆっくりと通りを歩いた。
二人がデートをするというのは、当然ながらウィルマリナと同じように青年と結婚した他の妻達も知っていた。青年が昨夜、自分から「明日は一日、俺とウィルでデートがしたい」と言い放ったからだ。
当然、妻達は驚いた。しかし誰もそれを止めようとはしなかった。サーシャと今宵は素直にそれを応援し、メルセは青年を冷やかしながらも「ウィルに恥かかすんじゃねえぞ」とエールを送った。プリメーラは頬を膨らませ、「ウィルだけずるい! 今度はアタシともデートしてよね!」と約束を取り付けた。ミミルはお土産をねだり、フランツィスカは二人のために発奮し、特製の触手服を作り始めた――これはメルセとサーシャに止められた。
「なっ、なぜ止めるのです? わたくしはただ、お二人のことを想って……!」
「始まる前から発情したら風情も何もねえだろ。こういうのは順序ってのが大事なんだよ」
「大丈夫ですよ。お二人ならばきっと良い雰囲気になって、最後は必ず愛を囁き合うことになるでしょうから。私達が手を出す必要はありません」
「そ、そういうものなのですか……?」
長く王宮に閉じ込められ、世情に疎かったクイーンローパーは、二人の言葉を聞いてきょとんとした。それから彼女は問うように青年に目を向け、青年はフランツィスカを見ながら「そうだよ」と頷いた。フランツィスカは彼の言葉を素直に受け止め、そして二人を陰から応援することに決めた。
しかしその一方で、ウィルマリナだけは一人、浮かない表情をしていた。
なぜそんな顔をしていたのか。それは彼女にしかわからないことだった。
そうして妻達から許可を得た二人は、何の気兼ねもせず、のんびりデートを楽しんでいた。二人の進んでいた通りには様々な店が軒を連ね、多くの魔物娘と人間の伴侶で賑わっていた。青年達とすれ違う魔物娘のカップルも多く、さらに路地裏に目をやれば、そこで我慢できずに愛を交わし合う夫婦や恋人の姿があった。彼らは自重という言葉を知らず、表通りに聞こえるほどの大きな嬌声を、むしろ見せびらかそうするかのように躊躇なく上げていた。おまけに足元に目をやれば、まだ昼前だと言うのにうっすらと瘴気が立ち込め始めてもいた。それは濃度こそ薄かったが、それでも耐性のない人間が長時間吸い込めば発情してしまう程度には密度の濃いものであった。
いつものレスカティエの光景である。青年とウィルマリナはそれを当然のものと捉え、全く問題にせずに道を進んだ。堕落的ではあるが、それでも堕ちる前のレスカティエよりはずっといい。二人はそう思っていた。
「なあウィル。何か行きたいところとかあるか?」
ある程度店を眺めながら歩いたところで、青年がウィルマリナに問いかける。それを聞いたウィルマリナは立ち止まって辺りを見回した後、控えめな口調で青年に言った。
「私は、特に無いかな……」
「そうか? 何かしたいこととか無いのか?」
「うん。無い。私はもう、あなたがいればそれでいいから」
ウィルマリナは戸惑う青年にそう答え、腕を抱く力を強める。端から見ればとても初々しい光景であったが、一方で縋りつくようなウィルマリナを見る青年の顔は、どこか曇っていた。
彼はその後、何かを探すように周囲を見渡した。そしてすぐに何かを見つけ、笑みを浮かべながらウィルマリナに提案する。
「じゃあウィル、俺あそこに行きたいんだけど」
「あそこ?」
ウィルマリナが青年の指さす先に目をやる。そこにあったのは、一軒の洋服店であった。その店を見たウィルマリナは不思議そうな表情で青年を見た。
「洋服が欲しいの?」
「ああ」
「あなたの?」
「いや、お前の」
「えっ」
最初、ウィルマリナは青年の言葉の意味が理解できなかった。そして彼が言った言葉の意味を理解した時には、彼女は青年に引きずられるような格好で服屋に連れられていかれた。
そのお店は――ここでは似つかわしくないほどに――いたって「普通」の店であった。やたらと露出の激しい煽情的な服や、明らかに特殊なプレイのために使用されるような服とかではなく、一般生活を送るのに支障のない「平凡」な服ばかりを取り扱っていた。
しかしその普通さが、ここレスカティエではかえって新鮮に映り、おかげでその店はそれなりに繁盛していた。
「結構、普通なところなのね」
昔、人間だったころにちらりと垣間見た――そして勇者故に入ることが出来なかったレスカティエの洋服店の姿を思い起こしつつ、ウィルマリナがぽつりと呟く。一方で青年は慣れた足取りで店の奥へ進み、ウィルマリナを引き連れながらそこにいた店員に声をかけた。
「こんにちは。今日約束してた者なんですが」
「いらっしゃいませ。歓迎しますわ」
応対したのは大人びた外見を持った、一匹のサキュバスだった。彼女はピンク色のエプロンを掛け、恭しく一礼してからにこやかに青年に答えた。ウィルマリナは同胞が商いをしていることに驚き、そして同胞が青年と親しくしているところを見て面白くなさそうな顔をした。
「今日コーディネートしてもらいたいのは、そちらの方ですね?」
「ああ。ウィルマリナっていうんだ。よろしく頼むよ」
「わかりました。ではウィルマリナ様、どうぞこちらへ」
そんなウィルマリナをよそに、青年とサキュバスの店員はとんとん拍子で話を進めていった。そしてウィルマリナが気づいた時には、サキュバスは彼女の手を取って店の奥へ連れて行こうとしていた。
「え、あの、ちょっと?」
「ほらほら、行きますよウィルマリナ様」
「あ、でもっ」
そのサキュバスは、ウィルマリナがこの都市でどのような立ち位置にいるのかを知っていた。その上で、サキュバスは彼女を力任せに連れて行こうとした。
サキュバスがウィルマリナを引っ張り、彼女の体が青年から引きはがされていく。青年もそれを止めようとしない。ウィルマリナは離れたくないと言わんばかりに、青年の着ている服の袖を掴む。サキュバスはそれに気づいたが、容赦はしなかった。
「だーめっ。恋人さんに負担ばかりかけちゃ駄目ですよ?」
本心を見せたサキュバスが力を込める。直後、袖から指が離れ、完全に二人が別たれる。
自分の魂の半分を失ったような感覚を味わい、ウィルマリナの両目から感情が消える。
青年はじっと何かをこらえるように、そこから動かない。店員のサキュバスは気にも留めない。
「はい、到着。じゃああなたに見合うのをいくつか持って来させますから、少し待ってましょうね」
ウィルマリナを更衣室に連れ込んだサキュバスは、自分のその中に入りながらそう言ってきた。それからサキュバスは近くにいたトロールを呼びつけ、ウィルマリナに似合いそうな服をいくつか持ってくるようにと指示を出した。
「……」
そしてその間、当のウィルマリナは虚ろな目を向けたまま、店の奥にいるであろう青年に視線を向けた。
しかし彼女の視界に、青年の姿は映らなかった。
「これでどうですか?」
「うん。いい感じ。ありがとね」
「はぁい。それでは私はこれで」
失礼します、と頭を下げてトロールが店の中に戻っていく。サキュバスはそんなトロールから渡された衣服を一つ一つ物色し、どれがウィルマリナに似合うか思案を始めた。ウィルマリナは壁に寄りかかり、打ち沈んだ表情を浮かべていた。とても買い物を楽しむ風には見えなかった。
「あなたの恋人さん、愛されてますね」
そんな時、唐突にサキュバスが話しかける。ウィルマリナはそれがどういう意味なのか理解しきれず、「えっ?」と呆然としながらサキュバスを見つめた。
サキュバスは服の一つを手に取って立ち上がり、ウィルマリナと相対した。そしてそれを彼女の体に当てて見た目を確認しながら、楽しそうに微笑んで言葉を続けた。
「だって、離れただけでここまで落ち込むんですもの。それだけウィルマリナ様が、あの方を愛しているということでしょう?」
「私が?」
「ええ。そこまで惚れ込める相手を見つけるとは、さすがはウィルマリナ様ですね」
自分の心情を見透かされていたことに気付いたウィルマリナは、恥ずかしさで顔を真っ赤にした。サキュバスは屈んで別の衣服を物色しつつ、そんなウィルマリナに続けて話しかけた。
「でもウィルマリナ様、ここで満足してはいけませんよ」
「それは、どういう?」
「現状に満足していては、真の愛には辿り着けない、ということです」
「真の愛……?」
聞きなれない言葉にウィルマリナが反応する。サキュバスは立ち上がり、強く頷きながら言った。
「そうです。愛と言うものは、育めば育むほどに、より大きな物へと形を変えるのです。そしてその愛をより大きく育むためには、自らをより美しく、淫らに磨く必要があるのです」
「な、なるほど、そういうものなのね」
サキュバスの持論に、ウィルマリナは気圧されるように返答した。サキュバスもまた「そうです!」と力強く首肯し、そのままのペースでウィルマリナに言った。
「もちろん大前提はセックスをすることです。愛する人と快楽を共有することは何より大切です。でもそこに一工夫加えれば、愛の営みはより刺激的に、愉しいものに変わるんですよ」
「違う服に着替えるのも、その一環であると?」
「その通りです。ですからウィルマリナ様も、この機会に一度イメージチェンジをしてみてはいかがでしょう?」
「そういう切り口もあるのね……」
まるで友人に話しかけるように、快活な口調でサキュバスがウィルマリナに告げる。
「でも」
やたらと親切にしてくるそのサキュバスを前にして、勇者はただ戸惑うばかりだった。
「どうして、そこまで気遣ってくれるの?」
そしてその疑念が、不意に口をついて出てくる。問われたサキュバスは少し考え込み、やがて三着目を物色しながらそれに答えた。
「同胞の恋路を応援するのは当然の事じゃないですか」
ウィルマリナが外に出てきたのは、それからたっぷり十分経過した後の事だった。再び姿を現した妻の姿を見て、青年は思わず息をのんだ。
「……」
「あ、あまり、じろじろ見ないで……」
そこにいたのは、水色のワンピースを身に着けたウィルマリナだった。飾り気も何もない、素朴な服に袖を通したウィルマリナは、顔を真っ赤にしてその場に佇んでいた。慣れない衣服を身に着けた事、そして何より、青年の食い入るような視線が、サキュバスである彼女に恥じらいの感情を沸き立たせていた。
そんなウィルマリナに、青年がゆっくりと近づいていく。そしてなおも恥ずかしがる妻の肩にそっと手を置き、静かな声で彼女に言った。
「大丈夫。とてもかわいいよ」
ウィルマリナの肩が小さく震える。顔を真っ赤にしながらウィルマリナが青年を見つめ、青年はそんなウィルマリナの体を静かに抱き寄せた。
「あっ」
「うん。可愛い」
「……もう、大胆なんだから」
ウィルマリナは少し戸惑ったが、それでも彼の抱擁を受け入れた。今の状況に順応した彼女は、躊躇うことなく腕を背中に回し、自らも青年の体をぎゅっと抱きしめる。
彼女にとって予想外だったのは、周りにいた魔物娘やそのパートナー達が、そんな二人に気付くと同時に羨望と憧憬の眼差しを向けてきていたことであった。
「いいなあ。私もあんな素敵な旦那様、ほしいなあ」
「焦らなくていいわ。あなたにもきっといい出会いがあるわよ」
そして自分のことをあれこれ気遣ってくれたサキュバスとトロールもまた、その二人を見て羨ましそうに声を上げる。そんな面々に見守られる中で、ウィルマリナは自分の心がどこか軽くなっていくのを感じた。
それから青年はウィルマリナにそのワンピースを買ってあげてから、店を後にした。ウィルマリナは当然それを着たまま、青年とのデートを楽しんだ。
「どうだいお二人さん。ちょっと見ていかないかい?」
「こっちの方が安いよ! 見てって損は無いよ!」
「ねえねえ、そこのおねえさん? 夜の営みに刺激がほしいとか思ったことは無い? 後悔はさせないよ?」
途中、通りの両脇で露店を開いていた者達から幾度となく催促を受けたりもした。中には真昼間からいかがわしい代物を売ろうとしてくる者もおり、そしてサキュバスとしての本能からか、ウィルマリナがそれに食いついたりもした。
「これ、使ったらどうなるのかな……」
「なんだウィル、それほしいのか?」
「ふぇっ!?」
立ち止まり、狸の魔物娘――わざわざジパングからやってきたのだという――の商人が出してくる怪しげな小瓶を見つめていたウィルマリナは、青年からいきなりそう言われて気が動転した。そして言葉にならない声を上げたウィルマリナは、自分を驚かした青年を責めるように詰め寄った。
「もう! いきなり声出さないでよ! びっくりするじゃない!」
「ご、ごめん。まさかそこまで驚くとは思わなくてさ」
「まったく、昔から女心ってものを知らないんだから……」
「だからごめんって」
「ふっ、ぷくくく……」
そんな親しげな二人を見た狸の魔物娘はケラケラ笑い声をあげた。二人はいきなり笑い出した商人を咄嗟に見やり、そして商人は笑い声を抑えてから彼らに言った。
「いやはや、仲良きことは美しきかな。と思いましてな。男と女が気兼ねなく心の内を吐き出せる。まったく素晴らしいことでありますな」
刑部狸の商人は、そう言ってから再び笑い声をあげた。ウィルマリナは顔を逸らして恥ずかしそうに苦笑し、青年も同じように頬を掻いた。そんな二人に商人が声をかける。
「時にお二人さんは、どこで知り合ったので? 長い付き合いなのですか?」
「俺とウィルは幼馴染なんだよ。魔物化する前からのつきあいなんだ」
「へえ、そりゃ凄い。では魔物になる前から、お二人とも好き合っていたということですかな?」
商人が問いかける。二人は途端に神妙な面持ちになって、ゆっくりと頷く。商人はその雰囲気の変化から何かを察し、静かな声で言った。
「まあ、昔何があったにせよ、大切なのは今をどうするかですよ」
「何があったのかは聞かないのか?」
「そんな野暮なことはしませんよ。一波乱あって今の状況に落ち着いたってことは、お二人さんのお顔を見ればわかりますからね」
刑部狸はそこまで言ってから、ウィルマリナに視線を向けた。いきなり見つめられて驚く彼女に向かって、狸の魔物娘は笑みを浮かべながら言い放った。
「だからあなた、今がチャンスですよ。私の仕入れたこれさえ使えば、想い人とより親密になれること間違いなし! 薬を使うのは邪道? とんでもない! むしろ正攻法にこだわって攻めあぐねるほうがずっと間違っている! そもそも愛に正道なんてものは無いんです!」
「……」
思い出したように小瓶を取り出し、営業トークを始めた刑部狸を見て、二人は呆気に取られた表情を浮かべた。商魂逞しい人だ。青年は素直にそう思った。
そんな青年の横で、ウィルマリナがじっと青年を見つめていた。無言であったが、彼女が何を求めているかはすぐに察しがついた。
「これ、欲しいのか?」
「!」
ウィルマリナは無言のまま驚愕した。そしておそるおそる青年の方を向き、「いいの?」と問いかけた。
青年は快く頷いた。さらに二人を見た刑部狸も興が乗ったのか、彼らに向かって景気の良い口調で言った。
「そうだ。せっかくだから、お二人さんの初々しさに免じて、これは半額にしてあげよう。どうだい? 買っていきますか?」
「いいのか?」
「もちろん、もちろん。お二人を見ていたら、なんだか応援したくなってきましてね。さあどうします? 私がこんな出血大サービスするなんて、今回だけですよ?」
刑部狸と呼ばれる種族が、非常に金にがめつい種族であることを青年たちが知るのは、当分先の事であった。
その後二人は、結局刑部狸から怪しい小瓶を買うことにした。ついでにミミルへのお土産として、これまた怪しい気配のする液体の入った瓶もいくつか購入した。こういったことに疎い青年はそれが何なのかいまいち理解できず、刑部狸は詳しく説明しなかった。ウィルマリナはそれの使い方を既に知っているようであったが、やはり教えてはくれなかった。
「これをあんな感じで使えば……いや、こうすべきかしら……ふふっ」
ただ、それを手に入れた彼女はとても嬉しそうだった。ウィルマリナが「嬉しがっている」。それを見れただけで、青年は満足だった。
それから二人は、いろんなところに顔を覗かせた。雑貨屋や装身具専門店、魔界産の野菜を売る生鮮店など、興味を持った所には片っ端から首を突っ込んだ。ホルスタウロスのミルクを試飲と言う形で飲んでみたり、買い食いもしたりした。
どれも人間だった頃には出来ないことだった。そうして巡っている内に、次第にウィルマリナの方から「次はあそこに行きたい」と言うようになり、青年もそれに従った。そうしてあちこち回るうちに、ウィルマリナの顔から翳りが消えていった。
通りを行く魔物と人間は、彼らを当たり前のように受け入れた。中にはウィルマリナの存在を知りながら、青年を誘惑する魔物もいた。それを見て嫉妬にかられた青髪の少女が青年の頬をつまむと、誘惑した魔物はクスクス笑って謝罪した。それでもウィルマリナは膨れっ面を浮かべたままで、青年はどうしていいか頭を掻いた。困り果てた彼がウィルマリナの頬に軽くキスをすると、青髪の勇者は顔を真っ赤にし、そして怒ったような、嬉しいような表情を浮かべて、青年に詰め寄った。
それはまさに子供のヤキモチだった。少年と少女に戻った二人はすぐに仲直りし、共にけらけら笑いながら、この堕ちた町を思うままに堪能した。
二人は手を繋ぎ合って、町を歩いた。町を歩き、他人と触れ合いながら、二人は心から笑うことが出来た。
心から今を楽しいと感じることが出来た。
そして気がつけば、夕日が沈み、月が夜空に輝いていた。そして昼から夜へ変わることで、町の姿もまた一変した。それまで賑わっていた大通りはすっかり姿を変え、魔物と人間が愛を求める色町へと変貌していた。町中至る所に瘴気が充満し、通る者すべてを発情させていた。それによって理性を剥がされた者達は、愛のままにそこかしこで交わり合い、互いの愛情と肉欲をぶつけ合うのだ。
規則も順法もない混沌の極み。しかしこれこそが魔物の本質であり、堕落に染まったレスカティエの本性であった。主神教団が不浄と唾棄するもの全てが、この夜のレスカティエに集結していたのである。
「今日はありがとう。とっても楽しかった」
そんな性に染まった町の片隅、人気の少ない場所に置かれた休憩用のベンチに腰掛けながら、ウィルマリナが青年に礼を述べた。青年は別に大したことはしてないよ、と返し、青髪の勇者の手に自分の手をそっと添えた。ウィルマリナは少しびっくりしたが、それでも青年のそれを受け入れた。
「でも、いきなりどうしてこんなことしたの? 私とデートだなんて」
そうして青年の手の温もりを感じながら、ウィルマリナが静かに問いかける。対して青年は彼女の方を見ながら、穏やかな顔で彼女に言った。
「もちろん、お前と一緒にいたい、ってのもあるけど……」
「けど?」
「一番は、お前に知ってほしかったから、かな」
「?」
言葉の意味を察しきれないウィルマリナが青年の顔を覗き込む。青年も彼女を見つめ、手をより強く握りしめながら彼女に言った。
「外の世界も、もう怖くないだろ?」
ウィルマリナは息をのんだ。目を見開き、無意識の内に視線を逸らす。青年はウィルマリナを逃がさないように手を握りしめ、真面目な口調で彼女に続けて言った。
「もうお前に勇者を押し付ける連中もいない。お前を邪険に扱う連中もいない。レスカティエは変わった。みんなが平等になった。俺達を束縛する奴らも、もういない」
「それは……」
「だからもう、怯えなくていいんだ」
ウィルマリナ・ノースクリムは、本心から望んで勇者となったわけではなかった。彼女は体面と出世ばかりを気にする大人達の都合によって青年と引き離され、教会の都合によって勇者になるよう仕向けられたのである。淡い恋心は教会によって握り潰され、本心を押し殺して理想の勇者を演じ続けた。彼女の心は悲鳴を上げ、それでも教会と神は彼女を救おうとはしなかった。
だから堕落した後、ウィルマリナは青年に執着した。自分の居場所はそこだけであると考え、彼だけをひたすらに求めた。何年もの間燻らせていた恋心を、愛欲を満たそうとするかのように、少女ウィルマリナはただ青年のみを愛した。
彼女の世界には彼だけがいた。彼だけがいれば、他がどうなろうがどうでも良かった。
「俺から離れろなんて言うつもりは無い。俺だって、お前を離すつもりは無い。俺は一生かけてウィルを幸せにする。約束だ」
でも。突然の告白に目を丸くするウィルマリナに青年が続ける。
「でもお前も、もっと他の人と接してほしい。この世界は、自分が思っているよりずっと優しいんだってことを知ってほしい。俺はウィルが、一人の世界で閉じこもったままでいるのが堪えられないんだ。俺はお前と一緒に、もっと色んな世界を見ていきたいんだ」
青年が熱のこもった口調で言い放つ。もちろんこれは彼の独りよがりな主張だった。それは彼も承知していた。そもそも、それまで自分のいた世界を全て投げ捨て、ただ愛する人と二人だけの世界に籠って一生の幸せを享受するサキュバスも少なくない。ウィルマリナの執着は、ある意味では非常に正しいものであるのだ。
それでも、彼はそう言わずにはいられなかった。そしてウィルマリナもまた、彼の言いたいことが痛いほどわかった。理解してなお、彼女は青年への執着を断ち切ることは出来なかった。
「……私、あなたから離れる気は無いよ?」
やがてウィルマリナが口を開く。青年は黙ってそれを聞いていた。
ウィルマリナが意を決して言葉を続ける。
「あなた以外に興味は無いし、あなたさえいれば他はどうなっても構わない。これが今の私の本心。人間だった頃の私の心は、もうとっくに消えて無くなったの。今の私はただのサキュバス。あなたに恋する、普通のサキュバス」
「ああ」
「でも、どうしてもあなたがそれを望むなら、私ももっと……」
ウィルマリナはそこで言葉を途切らせた。喋る代わりに青年の手を強く握った。
「強制はしないよ」
サキュバスの手を握り返しながら、青年が優しく語りかける。
「お前にそうしろって言うつもりはない。今すぐ意識を変えろなんて言うつもりもない。俺はただ、今の世界はお前が思うほど酷くはないってことを、教えたかったんだ」
「……」
「後は全部、お前に任せる。それにお前が何を選んだとしても、俺はお前を受け入れる。俺はお前の夫だからな」
青年はそこまで言って、満面の笑みを浮かべた。太陽のような輝かしい笑顔。ウィルマリナにとってその笑顔は、他の何よりも愛おしく大切なものであった。
敵わないな。ウィルマリナは肩から力を抜いた。そして青年の肩に頭を預け、寄りかかるように身を任せた。
「私、あなたに守られてばかりね」
「今更気にすんなよ」
「あなたに頼ってばかりで、甘えてばかりで」
「いいんだよ。俺だって嫌だと思ったことは一度もないしな。美少女に頼られるなんて、男として最高の幸せだぜ」
「ばか」
胸を張って言い切る青年に、ウィルマリナが苦笑交じりに悪態をつく。それから彼女は神妙な面持ちになり、消え入りそうなほどか細い声で青年に問いかける。
「……私、変われるかな? 変わろうと思って変われるのかな?」
「だから無理するなって。俺は今のお前も十分好きだぞ」
「どうしてそうやって甘やかすのかしら。そんなこと言われたら、もっとあなたに甘えたくなるじゃない」
「別にいいぞ。甘えたくなったら、いつでも来い。俺はお前が幸せになれるなら、それでいいんだからな」
「格好つけすぎ」
そう言い返すウィルマリナは、とても穏やかな表情を浮かべていた。
「でも、ありがとうね」
「ああ」
「……大好きだよ」
「俺も大好きだ」
そして愛する者に甘えられる幸せを噛み締めながら、ウィルマリナは素直に自分の心を吐露した。青年も柔らかい口調で応え、彼女の頭をそっと抱き寄せた。
二人の夜は、そうして更けていった。
その後、ウィルマリナは少しだけ社交的になった。自分から他人に関わろうと、まず王城で生活している面々に接し始めたのだ。彼女の変化を王城の住人は驚き、しかしそれを受け入れた。態度が多少変わったくらいで、彼女達はウィルマリナを軽蔑したりはしなかった。
それでもやっぱり、ウィルマリナは基本的に青年の傍にいた。彼女が他人と関わるのはほんの少しで、いつもは彼を守るかのように、その近くに立っていた。
誰もそれを咎めなかった。青年も彼女を邪険に扱わなかった。欲求のままに動く彼女を誰も否定しなかった。彼女達を堕落させた張本人であるリリムのデルエラも、そんな彼女に変わらぬ愛を注いだ。
「あなたがあの子を変えたのね。やるじゃない」
「まだ本当に変わったのかはわかりませんよ。これからウィルが決めることです」
そしてデルエラはウィルマリナの意識に変化をもたらした青年に、より一層の興味を持った。青年は自分の功績ではないと謙遜したが、彼がウィルマリナを変えたのは誰の目にも明らかだった。
そして当のウィルマリナは、少しずつではあるが、世界に愛着を持ち始めた。彼と一緒ならこの世界も悪くはないと、少しずつ思い始めた。
少女の光は、いつもそこにあった。
ウィルマリナ・ノースクリム。かつてレスカティエが誇る勇者と讃えられ、そしてそのレスカティエ滅亡に加担した魔物娘は、茫洋とする意識を引きずりながら体を覆うシーツをどかし、上体を起こした。
「あふぅ……もう朝なのね……」
そう独りごち、眠たげに目をこする。彼女は全裸だった。そもそも魔族となって以降、彼女は寝るときに服を着なくなった。夫と愛を育むときに、衣服はもはや邪魔でしかないからだ。着衣セックスというものも偶にやったりはするが、それにしたって毎日するわけではない。だからウィルマリナは、夜に服を着ることを止めたのである。
そしてそれは、隣で寝ていた彼女の夫も同様だった。ついでに言うと、自分と同じように隣の青年と婚約した他の魔物娘達も、同じ理由から服を着ないで夜を過ごすことが多かった。まあ中には服の代わりに触手を身に纏っている者もいたが、それが服なのか否かについては考えないことにした。
「ううん……おはよう、あなた……」
白い素肌を窓越しの朝日に晒しながら、ウィルがそんな夫に向かってよろよろと手を伸ばす。この青年は、いつもならば他の妻たちと同じ部屋で夜を明かすのだが、今日は特別にウィルマリナが彼を独占しても良いことになっていたのである。
しかし彼女の隣で寝ているはずの、その手が掴むはずだった青年の姿は、そこには無かった。
「……え?」
青年の姿を捉えられず、手が空を虚しく掴んだ瞬間、ウィルの脳は一瞬で覚醒した。彼女は飛び起き、五感を総動員して青年の姿を探した。しかしその決して広くない――むしろクローゼットと化粧台とベッドしか置かれていない、生活感皆無の物置のような――ウィルマリナの部屋のどこを見渡しても、青年の姿はまったく見えなかった。
「どこ? えっ、どこにいるの?」
ウィルマリナは胸の奥で、自分の心臓が締め上げられるような強い痛みを感じた。心臓が早鐘のように激しく脈打ち、息が乱れ、額から脂汗が流れ落ちる。「夫の敵」に対しては顔色一つ変えずに剣を振り下ろし、容赦なく堕落の道に堕としていくサキュバスの勇者が、今はあからさまに動揺した姿を晒し、必死の形相で愛する夫を探し求めていた。
「なんで? なんでいなくなっちゃうの?」
ウィルマリナは目尻に涙さえ浮かべていた。彼女は両手で胸元を強く押さえ、怯えきった表情を見せながらしきりに首を振り回した。いるはずのない青年の姿を求めて、方々を見て回った。
自分の知らない間に青年と離れ離れになってしまった。何よりそれが、彼女の心を恐怖で覆いつくしていった。消したはずの古傷が疼きだし、彼女を責め苛んでいく。
もう嫌だ。もうあなたと離れたくない。孤独に怯えるウィルマリナの心が叫ぶ。
「やだよ……行かないでよ……お願いだから……!」
「ウィル?」
その時、入口のドアが開き、一人の男が中に入ってきた。それは今までウィルマリナが必死になって探していた青年であり、彼はズボンだけを履いた状態で、両手に湯気の昇るカップを持っていた。
そして青年は、今にも泣き出しそうなウィルマリナの姿を見て、彼女が何を恐れているのかをすぐに理解した。
「ごめん、ウィル大丈夫か?」
急いでカップを化粧台に置き、ウィルマリナのもとに向かう。そして躊躇うことなく彼女の体を抱きしめ、慰めるように頭を撫でる。
一騎当千の魔界勇者はその暖かな感触に安堵し、愛する青年の胸に顔を擦りつけながら涙を流した。
「よかった……いなくなったのかと思った……」
「俺の方こそ、ごめん。お前を置いてどっか行っちゃって」
「よかった……よかったよう……」
ウィルマリナが心の底から安心した声を漏らす。そうして自分の胸を涙で濡らす彼女を抱きながら、青年は己の迂闊さを恥じた。彼はウィルマリナが「ひとりぼっちになる」ことを何より恐れていることを、ちゃんと知っていたからだ。そして独りを恐れ、愛を求めるがゆえに、彼女がこの世で唯一愛する自分を強く求めていることも理解していた。
少し姿を消しただけで大きく取り乱す、面倒臭い女、などとは欠片も思わなかった。青年はウィルマリナがこうなった理由を知っていたし、それを乗り越えて強くなれと偉い口を利くつもりもなかった。
「ごめんな。勝手にいなくなって」
「ううん、いいの。私の方こそごめんなさい、取り乱しちゃって」
「気にするなよ。俺とお前の仲だろ?」
そう言って、青年はウィルの頭を優しく撫でた。幼馴染の手の暖かさに触れ、ウィルはそれまで激しくささくれだっていた自分の心が大人しくなっていくのを感じた。
そうして穏やかな心を取り戻していくウィルマリナに向かって、青年が優しく声をかける。
「それとウィル、十時くらいに出発するから、それまでに準備しといてくれよ」
「えっ? 準備って、何を?」
「昨日言ったろ、俺とデートするって」
「……えっ?」
ウィルの目が点になる。そして昨夜、自分がその約束にOKを出したことを思い出し、顔を茹蛸のように真っ赤に染める。
「俺とウィルで、今日一日デートするんだよ」
そんなウィルに、青年は追い打ちをかけるように言葉を投げた。
レスカティエ陥落から一週間後のことである。
午前十時。ウィルマリナと青年は王城を出て、レスカティエの通りを二人で歩いていた。
「まさか、あなたの方から誘ってきてくれるなんて思わなかったな」
「そ、そうか?」
「ええ。だってあなた、昔っから真面目で紳士的な人だったし。こんな軟派なこととは無縁そうだったし」
「もしかして、俺から誘われるのは嫌だったか?」
「そんな訳ないじゃない。私、今とっても楽しいよ」
サキュバスとしての「いつもの服装」に着替えたウィルマリナは、嬉しそうに青年の腕に抱きついていた。そして甘えるように彼の肩に頬をすり寄せ、幸せそうに密着していた。ラフな私服に着替えた青年は、そんなウィルを微笑ましく見つめながら、歩調を合わせてゆっくりと通りを歩いた。
二人がデートをするというのは、当然ながらウィルマリナと同じように青年と結婚した他の妻達も知っていた。青年が昨夜、自分から「明日は一日、俺とウィルでデートがしたい」と言い放ったからだ。
当然、妻達は驚いた。しかし誰もそれを止めようとはしなかった。サーシャと今宵は素直にそれを応援し、メルセは青年を冷やかしながらも「ウィルに恥かかすんじゃねえぞ」とエールを送った。プリメーラは頬を膨らませ、「ウィルだけずるい! 今度はアタシともデートしてよね!」と約束を取り付けた。ミミルはお土産をねだり、フランツィスカは二人のために発奮し、特製の触手服を作り始めた――これはメルセとサーシャに止められた。
「なっ、なぜ止めるのです? わたくしはただ、お二人のことを想って……!」
「始まる前から発情したら風情も何もねえだろ。こういうのは順序ってのが大事なんだよ」
「大丈夫ですよ。お二人ならばきっと良い雰囲気になって、最後は必ず愛を囁き合うことになるでしょうから。私達が手を出す必要はありません」
「そ、そういうものなのですか……?」
長く王宮に閉じ込められ、世情に疎かったクイーンローパーは、二人の言葉を聞いてきょとんとした。それから彼女は問うように青年に目を向け、青年はフランツィスカを見ながら「そうだよ」と頷いた。フランツィスカは彼の言葉を素直に受け止め、そして二人を陰から応援することに決めた。
しかしその一方で、ウィルマリナだけは一人、浮かない表情をしていた。
なぜそんな顔をしていたのか。それは彼女にしかわからないことだった。
そうして妻達から許可を得た二人は、何の気兼ねもせず、のんびりデートを楽しんでいた。二人の進んでいた通りには様々な店が軒を連ね、多くの魔物娘と人間の伴侶で賑わっていた。青年達とすれ違う魔物娘のカップルも多く、さらに路地裏に目をやれば、そこで我慢できずに愛を交わし合う夫婦や恋人の姿があった。彼らは自重という言葉を知らず、表通りに聞こえるほどの大きな嬌声を、むしろ見せびらかそうするかのように躊躇なく上げていた。おまけに足元に目をやれば、まだ昼前だと言うのにうっすらと瘴気が立ち込め始めてもいた。それは濃度こそ薄かったが、それでも耐性のない人間が長時間吸い込めば発情してしまう程度には密度の濃いものであった。
いつものレスカティエの光景である。青年とウィルマリナはそれを当然のものと捉え、全く問題にせずに道を進んだ。堕落的ではあるが、それでも堕ちる前のレスカティエよりはずっといい。二人はそう思っていた。
「なあウィル。何か行きたいところとかあるか?」
ある程度店を眺めながら歩いたところで、青年がウィルマリナに問いかける。それを聞いたウィルマリナは立ち止まって辺りを見回した後、控えめな口調で青年に言った。
「私は、特に無いかな……」
「そうか? 何かしたいこととか無いのか?」
「うん。無い。私はもう、あなたがいればそれでいいから」
ウィルマリナは戸惑う青年にそう答え、腕を抱く力を強める。端から見ればとても初々しい光景であったが、一方で縋りつくようなウィルマリナを見る青年の顔は、どこか曇っていた。
彼はその後、何かを探すように周囲を見渡した。そしてすぐに何かを見つけ、笑みを浮かべながらウィルマリナに提案する。
「じゃあウィル、俺あそこに行きたいんだけど」
「あそこ?」
ウィルマリナが青年の指さす先に目をやる。そこにあったのは、一軒の洋服店であった。その店を見たウィルマリナは不思議そうな表情で青年を見た。
「洋服が欲しいの?」
「ああ」
「あなたの?」
「いや、お前の」
「えっ」
最初、ウィルマリナは青年の言葉の意味が理解できなかった。そして彼が言った言葉の意味を理解した時には、彼女は青年に引きずられるような格好で服屋に連れられていかれた。
そのお店は――ここでは似つかわしくないほどに――いたって「普通」の店であった。やたらと露出の激しい煽情的な服や、明らかに特殊なプレイのために使用されるような服とかではなく、一般生活を送るのに支障のない「平凡」な服ばかりを取り扱っていた。
しかしその普通さが、ここレスカティエではかえって新鮮に映り、おかげでその店はそれなりに繁盛していた。
「結構、普通なところなのね」
昔、人間だったころにちらりと垣間見た――そして勇者故に入ることが出来なかったレスカティエの洋服店の姿を思い起こしつつ、ウィルマリナがぽつりと呟く。一方で青年は慣れた足取りで店の奥へ進み、ウィルマリナを引き連れながらそこにいた店員に声をかけた。
「こんにちは。今日約束してた者なんですが」
「いらっしゃいませ。歓迎しますわ」
応対したのは大人びた外見を持った、一匹のサキュバスだった。彼女はピンク色のエプロンを掛け、恭しく一礼してからにこやかに青年に答えた。ウィルマリナは同胞が商いをしていることに驚き、そして同胞が青年と親しくしているところを見て面白くなさそうな顔をした。
「今日コーディネートしてもらいたいのは、そちらの方ですね?」
「ああ。ウィルマリナっていうんだ。よろしく頼むよ」
「わかりました。ではウィルマリナ様、どうぞこちらへ」
そんなウィルマリナをよそに、青年とサキュバスの店員はとんとん拍子で話を進めていった。そしてウィルマリナが気づいた時には、サキュバスは彼女の手を取って店の奥へ連れて行こうとしていた。
「え、あの、ちょっと?」
「ほらほら、行きますよウィルマリナ様」
「あ、でもっ」
そのサキュバスは、ウィルマリナがこの都市でどのような立ち位置にいるのかを知っていた。その上で、サキュバスは彼女を力任せに連れて行こうとした。
サキュバスがウィルマリナを引っ張り、彼女の体が青年から引きはがされていく。青年もそれを止めようとしない。ウィルマリナは離れたくないと言わんばかりに、青年の着ている服の袖を掴む。サキュバスはそれに気づいたが、容赦はしなかった。
「だーめっ。恋人さんに負担ばかりかけちゃ駄目ですよ?」
本心を見せたサキュバスが力を込める。直後、袖から指が離れ、完全に二人が別たれる。
自分の魂の半分を失ったような感覚を味わい、ウィルマリナの両目から感情が消える。
青年はじっと何かをこらえるように、そこから動かない。店員のサキュバスは気にも留めない。
「はい、到着。じゃああなたに見合うのをいくつか持って来させますから、少し待ってましょうね」
ウィルマリナを更衣室に連れ込んだサキュバスは、自分のその中に入りながらそう言ってきた。それからサキュバスは近くにいたトロールを呼びつけ、ウィルマリナに似合いそうな服をいくつか持ってくるようにと指示を出した。
「……」
そしてその間、当のウィルマリナは虚ろな目を向けたまま、店の奥にいるであろう青年に視線を向けた。
しかし彼女の視界に、青年の姿は映らなかった。
「これでどうですか?」
「うん。いい感じ。ありがとね」
「はぁい。それでは私はこれで」
失礼します、と頭を下げてトロールが店の中に戻っていく。サキュバスはそんなトロールから渡された衣服を一つ一つ物色し、どれがウィルマリナに似合うか思案を始めた。ウィルマリナは壁に寄りかかり、打ち沈んだ表情を浮かべていた。とても買い物を楽しむ風には見えなかった。
「あなたの恋人さん、愛されてますね」
そんな時、唐突にサキュバスが話しかける。ウィルマリナはそれがどういう意味なのか理解しきれず、「えっ?」と呆然としながらサキュバスを見つめた。
サキュバスは服の一つを手に取って立ち上がり、ウィルマリナと相対した。そしてそれを彼女の体に当てて見た目を確認しながら、楽しそうに微笑んで言葉を続けた。
「だって、離れただけでここまで落ち込むんですもの。それだけウィルマリナ様が、あの方を愛しているということでしょう?」
「私が?」
「ええ。そこまで惚れ込める相手を見つけるとは、さすがはウィルマリナ様ですね」
自分の心情を見透かされていたことに気付いたウィルマリナは、恥ずかしさで顔を真っ赤にした。サキュバスは屈んで別の衣服を物色しつつ、そんなウィルマリナに続けて話しかけた。
「でもウィルマリナ様、ここで満足してはいけませんよ」
「それは、どういう?」
「現状に満足していては、真の愛には辿り着けない、ということです」
「真の愛……?」
聞きなれない言葉にウィルマリナが反応する。サキュバスは立ち上がり、強く頷きながら言った。
「そうです。愛と言うものは、育めば育むほどに、より大きな物へと形を変えるのです。そしてその愛をより大きく育むためには、自らをより美しく、淫らに磨く必要があるのです」
「な、なるほど、そういうものなのね」
サキュバスの持論に、ウィルマリナは気圧されるように返答した。サキュバスもまた「そうです!」と力強く首肯し、そのままのペースでウィルマリナに言った。
「もちろん大前提はセックスをすることです。愛する人と快楽を共有することは何より大切です。でもそこに一工夫加えれば、愛の営みはより刺激的に、愉しいものに変わるんですよ」
「違う服に着替えるのも、その一環であると?」
「その通りです。ですからウィルマリナ様も、この機会に一度イメージチェンジをしてみてはいかがでしょう?」
「そういう切り口もあるのね……」
まるで友人に話しかけるように、快活な口調でサキュバスがウィルマリナに告げる。
「でも」
やたらと親切にしてくるそのサキュバスを前にして、勇者はただ戸惑うばかりだった。
「どうして、そこまで気遣ってくれるの?」
そしてその疑念が、不意に口をついて出てくる。問われたサキュバスは少し考え込み、やがて三着目を物色しながらそれに答えた。
「同胞の恋路を応援するのは当然の事じゃないですか」
ウィルマリナが外に出てきたのは、それからたっぷり十分経過した後の事だった。再び姿を現した妻の姿を見て、青年は思わず息をのんだ。
「……」
「あ、あまり、じろじろ見ないで……」
そこにいたのは、水色のワンピースを身に着けたウィルマリナだった。飾り気も何もない、素朴な服に袖を通したウィルマリナは、顔を真っ赤にしてその場に佇んでいた。慣れない衣服を身に着けた事、そして何より、青年の食い入るような視線が、サキュバスである彼女に恥じらいの感情を沸き立たせていた。
そんなウィルマリナに、青年がゆっくりと近づいていく。そしてなおも恥ずかしがる妻の肩にそっと手を置き、静かな声で彼女に言った。
「大丈夫。とてもかわいいよ」
ウィルマリナの肩が小さく震える。顔を真っ赤にしながらウィルマリナが青年を見つめ、青年はそんなウィルマリナの体を静かに抱き寄せた。
「あっ」
「うん。可愛い」
「……もう、大胆なんだから」
ウィルマリナは少し戸惑ったが、それでも彼の抱擁を受け入れた。今の状況に順応した彼女は、躊躇うことなく腕を背中に回し、自らも青年の体をぎゅっと抱きしめる。
彼女にとって予想外だったのは、周りにいた魔物娘やそのパートナー達が、そんな二人に気付くと同時に羨望と憧憬の眼差しを向けてきていたことであった。
「いいなあ。私もあんな素敵な旦那様、ほしいなあ」
「焦らなくていいわ。あなたにもきっといい出会いがあるわよ」
そして自分のことをあれこれ気遣ってくれたサキュバスとトロールもまた、その二人を見て羨ましそうに声を上げる。そんな面々に見守られる中で、ウィルマリナは自分の心がどこか軽くなっていくのを感じた。
それから青年はウィルマリナにそのワンピースを買ってあげてから、店を後にした。ウィルマリナは当然それを着たまま、青年とのデートを楽しんだ。
「どうだいお二人さん。ちょっと見ていかないかい?」
「こっちの方が安いよ! 見てって損は無いよ!」
「ねえねえ、そこのおねえさん? 夜の営みに刺激がほしいとか思ったことは無い? 後悔はさせないよ?」
途中、通りの両脇で露店を開いていた者達から幾度となく催促を受けたりもした。中には真昼間からいかがわしい代物を売ろうとしてくる者もおり、そしてサキュバスとしての本能からか、ウィルマリナがそれに食いついたりもした。
「これ、使ったらどうなるのかな……」
「なんだウィル、それほしいのか?」
「ふぇっ!?」
立ち止まり、狸の魔物娘――わざわざジパングからやってきたのだという――の商人が出してくる怪しげな小瓶を見つめていたウィルマリナは、青年からいきなりそう言われて気が動転した。そして言葉にならない声を上げたウィルマリナは、自分を驚かした青年を責めるように詰め寄った。
「もう! いきなり声出さないでよ! びっくりするじゃない!」
「ご、ごめん。まさかそこまで驚くとは思わなくてさ」
「まったく、昔から女心ってものを知らないんだから……」
「だからごめんって」
「ふっ、ぷくくく……」
そんな親しげな二人を見た狸の魔物娘はケラケラ笑い声をあげた。二人はいきなり笑い出した商人を咄嗟に見やり、そして商人は笑い声を抑えてから彼らに言った。
「いやはや、仲良きことは美しきかな。と思いましてな。男と女が気兼ねなく心の内を吐き出せる。まったく素晴らしいことでありますな」
刑部狸の商人は、そう言ってから再び笑い声をあげた。ウィルマリナは顔を逸らして恥ずかしそうに苦笑し、青年も同じように頬を掻いた。そんな二人に商人が声をかける。
「時にお二人さんは、どこで知り合ったので? 長い付き合いなのですか?」
「俺とウィルは幼馴染なんだよ。魔物化する前からのつきあいなんだ」
「へえ、そりゃ凄い。では魔物になる前から、お二人とも好き合っていたということですかな?」
商人が問いかける。二人は途端に神妙な面持ちになって、ゆっくりと頷く。商人はその雰囲気の変化から何かを察し、静かな声で言った。
「まあ、昔何があったにせよ、大切なのは今をどうするかですよ」
「何があったのかは聞かないのか?」
「そんな野暮なことはしませんよ。一波乱あって今の状況に落ち着いたってことは、お二人さんのお顔を見ればわかりますからね」
刑部狸はそこまで言ってから、ウィルマリナに視線を向けた。いきなり見つめられて驚く彼女に向かって、狸の魔物娘は笑みを浮かべながら言い放った。
「だからあなた、今がチャンスですよ。私の仕入れたこれさえ使えば、想い人とより親密になれること間違いなし! 薬を使うのは邪道? とんでもない! むしろ正攻法にこだわって攻めあぐねるほうがずっと間違っている! そもそも愛に正道なんてものは無いんです!」
「……」
思い出したように小瓶を取り出し、営業トークを始めた刑部狸を見て、二人は呆気に取られた表情を浮かべた。商魂逞しい人だ。青年は素直にそう思った。
そんな青年の横で、ウィルマリナがじっと青年を見つめていた。無言であったが、彼女が何を求めているかはすぐに察しがついた。
「これ、欲しいのか?」
「!」
ウィルマリナは無言のまま驚愕した。そしておそるおそる青年の方を向き、「いいの?」と問いかけた。
青年は快く頷いた。さらに二人を見た刑部狸も興が乗ったのか、彼らに向かって景気の良い口調で言った。
「そうだ。せっかくだから、お二人さんの初々しさに免じて、これは半額にしてあげよう。どうだい? 買っていきますか?」
「いいのか?」
「もちろん、もちろん。お二人を見ていたら、なんだか応援したくなってきましてね。さあどうします? 私がこんな出血大サービスするなんて、今回だけですよ?」
刑部狸と呼ばれる種族が、非常に金にがめつい種族であることを青年たちが知るのは、当分先の事であった。
その後二人は、結局刑部狸から怪しい小瓶を買うことにした。ついでにミミルへのお土産として、これまた怪しい気配のする液体の入った瓶もいくつか購入した。こういったことに疎い青年はそれが何なのかいまいち理解できず、刑部狸は詳しく説明しなかった。ウィルマリナはそれの使い方を既に知っているようであったが、やはり教えてはくれなかった。
「これをあんな感じで使えば……いや、こうすべきかしら……ふふっ」
ただ、それを手に入れた彼女はとても嬉しそうだった。ウィルマリナが「嬉しがっている」。それを見れただけで、青年は満足だった。
それから二人は、いろんなところに顔を覗かせた。雑貨屋や装身具専門店、魔界産の野菜を売る生鮮店など、興味を持った所には片っ端から首を突っ込んだ。ホルスタウロスのミルクを試飲と言う形で飲んでみたり、買い食いもしたりした。
どれも人間だった頃には出来ないことだった。そうして巡っている内に、次第にウィルマリナの方から「次はあそこに行きたい」と言うようになり、青年もそれに従った。そうしてあちこち回るうちに、ウィルマリナの顔から翳りが消えていった。
通りを行く魔物と人間は、彼らを当たり前のように受け入れた。中にはウィルマリナの存在を知りながら、青年を誘惑する魔物もいた。それを見て嫉妬にかられた青髪の少女が青年の頬をつまむと、誘惑した魔物はクスクス笑って謝罪した。それでもウィルマリナは膨れっ面を浮かべたままで、青年はどうしていいか頭を掻いた。困り果てた彼がウィルマリナの頬に軽くキスをすると、青髪の勇者は顔を真っ赤にし、そして怒ったような、嬉しいような表情を浮かべて、青年に詰め寄った。
それはまさに子供のヤキモチだった。少年と少女に戻った二人はすぐに仲直りし、共にけらけら笑いながら、この堕ちた町を思うままに堪能した。
二人は手を繋ぎ合って、町を歩いた。町を歩き、他人と触れ合いながら、二人は心から笑うことが出来た。
心から今を楽しいと感じることが出来た。
そして気がつけば、夕日が沈み、月が夜空に輝いていた。そして昼から夜へ変わることで、町の姿もまた一変した。それまで賑わっていた大通りはすっかり姿を変え、魔物と人間が愛を求める色町へと変貌していた。町中至る所に瘴気が充満し、通る者すべてを発情させていた。それによって理性を剥がされた者達は、愛のままにそこかしこで交わり合い、互いの愛情と肉欲をぶつけ合うのだ。
規則も順法もない混沌の極み。しかしこれこそが魔物の本質であり、堕落に染まったレスカティエの本性であった。主神教団が不浄と唾棄するもの全てが、この夜のレスカティエに集結していたのである。
「今日はありがとう。とっても楽しかった」
そんな性に染まった町の片隅、人気の少ない場所に置かれた休憩用のベンチに腰掛けながら、ウィルマリナが青年に礼を述べた。青年は別に大したことはしてないよ、と返し、青髪の勇者の手に自分の手をそっと添えた。ウィルマリナは少しびっくりしたが、それでも青年のそれを受け入れた。
「でも、いきなりどうしてこんなことしたの? 私とデートだなんて」
そうして青年の手の温もりを感じながら、ウィルマリナが静かに問いかける。対して青年は彼女の方を見ながら、穏やかな顔で彼女に言った。
「もちろん、お前と一緒にいたい、ってのもあるけど……」
「けど?」
「一番は、お前に知ってほしかったから、かな」
「?」
言葉の意味を察しきれないウィルマリナが青年の顔を覗き込む。青年も彼女を見つめ、手をより強く握りしめながら彼女に言った。
「外の世界も、もう怖くないだろ?」
ウィルマリナは息をのんだ。目を見開き、無意識の内に視線を逸らす。青年はウィルマリナを逃がさないように手を握りしめ、真面目な口調で彼女に続けて言った。
「もうお前に勇者を押し付ける連中もいない。お前を邪険に扱う連中もいない。レスカティエは変わった。みんなが平等になった。俺達を束縛する奴らも、もういない」
「それは……」
「だからもう、怯えなくていいんだ」
ウィルマリナ・ノースクリムは、本心から望んで勇者となったわけではなかった。彼女は体面と出世ばかりを気にする大人達の都合によって青年と引き離され、教会の都合によって勇者になるよう仕向けられたのである。淡い恋心は教会によって握り潰され、本心を押し殺して理想の勇者を演じ続けた。彼女の心は悲鳴を上げ、それでも教会と神は彼女を救おうとはしなかった。
だから堕落した後、ウィルマリナは青年に執着した。自分の居場所はそこだけであると考え、彼だけをひたすらに求めた。何年もの間燻らせていた恋心を、愛欲を満たそうとするかのように、少女ウィルマリナはただ青年のみを愛した。
彼女の世界には彼だけがいた。彼だけがいれば、他がどうなろうがどうでも良かった。
「俺から離れろなんて言うつもりは無い。俺だって、お前を離すつもりは無い。俺は一生かけてウィルを幸せにする。約束だ」
でも。突然の告白に目を丸くするウィルマリナに青年が続ける。
「でもお前も、もっと他の人と接してほしい。この世界は、自分が思っているよりずっと優しいんだってことを知ってほしい。俺はウィルが、一人の世界で閉じこもったままでいるのが堪えられないんだ。俺はお前と一緒に、もっと色んな世界を見ていきたいんだ」
青年が熱のこもった口調で言い放つ。もちろんこれは彼の独りよがりな主張だった。それは彼も承知していた。そもそも、それまで自分のいた世界を全て投げ捨て、ただ愛する人と二人だけの世界に籠って一生の幸せを享受するサキュバスも少なくない。ウィルマリナの執着は、ある意味では非常に正しいものであるのだ。
それでも、彼はそう言わずにはいられなかった。そしてウィルマリナもまた、彼の言いたいことが痛いほどわかった。理解してなお、彼女は青年への執着を断ち切ることは出来なかった。
「……私、あなたから離れる気は無いよ?」
やがてウィルマリナが口を開く。青年は黙ってそれを聞いていた。
ウィルマリナが意を決して言葉を続ける。
「あなた以外に興味は無いし、あなたさえいれば他はどうなっても構わない。これが今の私の本心。人間だった頃の私の心は、もうとっくに消えて無くなったの。今の私はただのサキュバス。あなたに恋する、普通のサキュバス」
「ああ」
「でも、どうしてもあなたがそれを望むなら、私ももっと……」
ウィルマリナはそこで言葉を途切らせた。喋る代わりに青年の手を強く握った。
「強制はしないよ」
サキュバスの手を握り返しながら、青年が優しく語りかける。
「お前にそうしろって言うつもりはない。今すぐ意識を変えろなんて言うつもりもない。俺はただ、今の世界はお前が思うほど酷くはないってことを、教えたかったんだ」
「……」
「後は全部、お前に任せる。それにお前が何を選んだとしても、俺はお前を受け入れる。俺はお前の夫だからな」
青年はそこまで言って、満面の笑みを浮かべた。太陽のような輝かしい笑顔。ウィルマリナにとってその笑顔は、他の何よりも愛おしく大切なものであった。
敵わないな。ウィルマリナは肩から力を抜いた。そして青年の肩に頭を預け、寄りかかるように身を任せた。
「私、あなたに守られてばかりね」
「今更気にすんなよ」
「あなたに頼ってばかりで、甘えてばかりで」
「いいんだよ。俺だって嫌だと思ったことは一度もないしな。美少女に頼られるなんて、男として最高の幸せだぜ」
「ばか」
胸を張って言い切る青年に、ウィルマリナが苦笑交じりに悪態をつく。それから彼女は神妙な面持ちになり、消え入りそうなほどか細い声で青年に問いかける。
「……私、変われるかな? 変わろうと思って変われるのかな?」
「だから無理するなって。俺は今のお前も十分好きだぞ」
「どうしてそうやって甘やかすのかしら。そんなこと言われたら、もっとあなたに甘えたくなるじゃない」
「別にいいぞ。甘えたくなったら、いつでも来い。俺はお前が幸せになれるなら、それでいいんだからな」
「格好つけすぎ」
そう言い返すウィルマリナは、とても穏やかな表情を浮かべていた。
「でも、ありがとうね」
「ああ」
「……大好きだよ」
「俺も大好きだ」
そして愛する者に甘えられる幸せを噛み締めながら、ウィルマリナは素直に自分の心を吐露した。青年も柔らかい口調で応え、彼女の頭をそっと抱き寄せた。
二人の夜は、そうして更けていった。
その後、ウィルマリナは少しだけ社交的になった。自分から他人に関わろうと、まず王城で生活している面々に接し始めたのだ。彼女の変化を王城の住人は驚き、しかしそれを受け入れた。態度が多少変わったくらいで、彼女達はウィルマリナを軽蔑したりはしなかった。
それでもやっぱり、ウィルマリナは基本的に青年の傍にいた。彼女が他人と関わるのはほんの少しで、いつもは彼を守るかのように、その近くに立っていた。
誰もそれを咎めなかった。青年も彼女を邪険に扱わなかった。欲求のままに動く彼女を誰も否定しなかった。彼女達を堕落させた張本人であるリリムのデルエラも、そんな彼女に変わらぬ愛を注いだ。
「あなたがあの子を変えたのね。やるじゃない」
「まだ本当に変わったのかはわかりませんよ。これからウィルが決めることです」
そしてデルエラはウィルマリナの意識に変化をもたらした青年に、より一層の興味を持った。青年は自分の功績ではないと謙遜したが、彼がウィルマリナを変えたのは誰の目にも明らかだった。
そして当のウィルマリナは、少しずつではあるが、世界に愛着を持ち始めた。彼と一緒ならこの世界も悪くはないと、少しずつ思い始めた。
少女の光は、いつもそこにあった。
16/08/24 20:47更新 / 黒尻尾