読切小説
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万能の男
 勇者フレドリク・ウッドランドは、戦場の只中で孤立した。彼に従っていた雇われ戦士達が一斉に退散し、彼と一緒に出撃していた王国軍の兵士までもが、彼を残して撤退を始めたのだ。
 フレドリク以外の全員が、予め予定されていた通りの転身をする。まさに寝耳に水である。
 
「貴様は御子息を侮辱した! これは罰と思え!」

 そうして逃げる中で、彼の近くにいた戦士の一人が吐き捨てる。フレドリクはそれに対し何か言おうと口を開いたが、喉から言葉を発しようとした刹那、彼の足元に矢が飛んできた――魔界銀の矢なので刺さってもあんしん。
 フレドリクが視線を前に戻す。前方から魔物娘の軍勢が迫ってくる。さもありなん、彼の「味方」が逃げ出したのは、人と魔の勢力が正面から激突せんとする、まさにその瞬間であったのだ。
 
「進め! 人間達はすぐそこだ!」

 魔物娘の軍団の中から声が上がる。それが彼女達の士気を引き上げ、前進にさらに力を込める。
 対するフレドリクの士気は完全に落ちていた。こんな状況で戦うなど、出来るわけがない。
 
「進め進め……あっ!」

 その魔物娘軍団の最前列、「一番乗り」――文字通りの一番乗りを狙わんとする者達が、やがて異変を察知する。戦うべき敵がどこにもいない。つい先ほどまで横一列に陣を敷いていた人間の軍隊が、今は一人も見当たらない。
 
「え、ちょっ、止まれ!」
「停止! 進軍停止!」
「どうした? なんだこれは!」

 異常事態の報はすぐに最後列まで届いた。魔物娘の軍勢は一糸乱れぬ動きでぴたりと停止し、そして隊長格から兵卒まで、全ての構成員が一斉に目を皿のようにして周囲を見渡した。翼を広げ、空から戦場を俯瞰する者もいた。
 
「駄目です、見当たりません!」
「こっちもいなーい!」

 あちこちから報告が飛ぶ。魔物娘達はお構いなしに叫ぶので、その報せは嫌でもフレドリクの耳に届いた。
 それを聞くだけで、完全に周囲を囲まれているのがわかる。正直、生きた心地がしない。
 願わくは、自分は察知されないように。
 
「いた! 人間!」

 願いが虚しく消えていく。魔物娘達はお構いなしに叫ぶので、その報せは嫌でもフレドリクの耳に届いた。
 魔物娘のベクトルが一斉にフレドリクに向けられる。四方八方から、魔物娘がフレドリク目指して歩み寄る。
 
「一人だけか?」
「そうみたい」
「おかしい。どういうことだ」
「他の人間はどこに?」

 そうして近づいてきた魔物娘たちが、フレドリクを囲んで好き好きに意見を言い合う。逃げ場を完全に絶たれた格好であったが、対するフレドリクの心は至って落ち着いていた。
 どうせここには味方がいないのだ。後は野となれ山となれ。土壇場で切り捨てられたことが、彼の心を諦めから来る開き直りの境地へ導いていた。
 
「捕まえるなら早くしてくれ」

 捨て鉢な言葉が口から飛び出す。そんなフレドリクを、魔物娘達は会話を中断して驚きの顔で見つめた。
 
 
 
 
 この時フレドリク達が相対していたのは、魔物娘達の中でも「過激派」と呼ばれる、とりわけ危険な集団だった。自分から積極的に人間の国や街を襲撃し、それらを容赦なく堕落に導く。魔物娘を敵視する者達からすれば、まさに悪魔と呼ぶべき存在である。
 そんな危険集団の只中に、フレドリクは捕虜として一人で置かれる格好となった。しかし当の本人は、緊張も絶望も見せることなく、至極落ち着いた様子で捕虜状態を堪能していた。
 
「勇者フレドリク。つまり貴公は、いざ進軍という段階で、味方全てから見捨てられたということなのだな」
「そうだ。気づいたら一人になっていた」
「そういうことか」

 その落ち着き払った態度は、魔物娘による尋問の場でも変わらなかった。魔物娘が彼を丁重に取り扱ったのと、尋問の場でコーヒーが振舞われたことも一因であったが。とにかくフレドリクは、そこで無駄に警戒するようなことはしなかった。
 
「それについて、貴公は何か心当たりはあるか? なぜ自分がそのような仕打ちを受けてしまったのか、思い当たる節はないか?」
「うーん……」

 そして彼は口が軽かった。あそこで起きたこと、自分の受けた仕打ち、そうなったそもそもの原因。フレドリクはそれら全てをあっさりと話した。彼は故国や国教に対し、特別強い忠誠を持っているわけではなかった。
 おかげで魔物娘達は、大した労もなく多くの情報を手にすることが出来た。
 
「要するに、貴公がかの国の王子を殴ったから、こうなったと。自分ではそう推測するのか」
「多分それだと思う」
「殴ったのは、件の王子が女性に乱暴を働こうとしたから?」
「盗みをしたからといって殴っていいことにはならない」
「それだけであの仕打ちと」
「たぶん」

 そう答えて、フレドリクが自然な動きでコーヒーを飲む。程よく砂糖の混じった心地よい甘みが、身体を芯から暖めていく。
 
「うまい」
「それは何よりだ。淹れた者も喜ぶだろう」
「後でお礼言いたいな」

 カップから口を離し、フレドリクが言う。どこまでもリラックスしたその姿に、尋問を担当していた魔物娘は少し呆れたように笑みを浮かべた。
 
「貴公、少し緩みすぎではないか? とても捕虜とは思えん」
「そう言われても……。今までずっとこれで来たから」
「それが貴公の『素』ということか」
「うん」

 素直。フレドリクはどこまでも素直だ。担当の魔物娘、鎧を身に纏ったデュラハンは、納得したように呟いた。
 
「それも癇に障ったのではないか……?」

 フレドリクの耳にその言葉が届くことはなかった。
 
 
 
 
 勇者フレドリクはその後、規則通りに捕虜として扱われた。テントの一室が宛がわれ、そこで夜を過ごすよう件のデュラハンから言われた。
 
「捕虜にやるには広いテントだ」
「誰であろうと丁重に扱う。それが我々の矜持だ」

 デュラハンが自慢げに言う。彼女は続けて、今夜は一切の夜這いを禁じた、とも言った。

「貴公の体力と精神力を回復させるのが先決だ。とにかくしっかり休むがいい」
「それはありがたい。お言葉に甘えるとしよう」

 フレドリクは素直に喜んだ。その日のうちに襲われるのではと、心中で覚悟していたからだ。
 そしてデュラハンの言葉通り、その日は誰も夜這いに来なかった。これは本当に信用してもよさそうだ。フレドリクはこれで、彼女達にさらに心を許すことに決めた。
 甘い男だった。自覚はしていた。
 
 
 
 
 翌朝。何事もなく起床したフレドリクは、そのまま自然な流れで周りの手伝いを始めた。武具の手入れ、衣類の洗濯、朝食の準備——失礼と思いつつも、魔物娘は人並みの食事も摂るのかとフレドリクは驚いた——等々。
 ともかく、このようにかつて勇者と呼ばれた男は、嫌な顔一つせずに敵方の肩を持ったのだった。
 一宿一飯の恩義に報いるためである。
 
「これくらいでいいか?」
「はい! ありがとうございます!」

 そしてフレドリクは、そこで担当した雑務の全てをそつなくこなした。慣れた手つきで、周りを煩わせることなく、むしろ周りが感心するレベルで、頼まれたことをこなしていった。
 フレドリクの実力が雑用当番の魔物娘の信用を得るのに、さして時間はかからなかった。
 
「フレドリク様! こっちも手伝ってもらっていいですか?」
「待て待て、先に頼んだのはこっちだぞ!」
「フレドリクさまー。私のところもお願いしていいですかー?」

 昼前になると、勇者は引っ張りだことなった。魔物娘たちはこぞってフレドリクの手を借りようとした。有能な彼の力を欲したのは事実だし、同時にあわよくば彼を自分のものにしたいと、本能を滾らせての接近であるのも事実だった。
 
「これでいいかな?」
「はい! それでその、もしよければ、この後あたしと……」
「ごめん。次があるから、そっち行かないと」
「あ、はい、そうですか……」

 フレドリクは動じなかった。次の手伝いがあるからと、よこしまな誘いを全て断った。次があったのは実際その通りだったので、誘った側もそこから押し通すことは出来なかった。
 
「いやー、あの人すごいですね。私達ずっと助かりっぱなしですよ」
「もう本格的にうちの隊にスカウトしてもいいんじゃない?」
「そうなったら誰の婿になるかで揉めるでしょ。どうするの?」
「そこはあれよ。わたしら全員の婿ってことにすればいいのよ」
「なるほどー!」

 やがて魔物娘達の間で、そんな話が飛び出し始める。当然の帰結である。結婚とハーレムを前提に話を進めるのも、また当然の流れであった。
 魔物娘ならではの思考展開である。
 
「……」

 そうしてあちらこちらで桃色の話が展開されていく様を、件のデュラハンは何も言わずに遠くから見つめていた。腕を組み、神妙な面持ちで、万能に立ち回るフレドリクをじっと見つめていた。
 彼女の眼差しに敵意は無かった。代わりに、そこには憐れみと寂寥があった。
 
「貴公……」

 誰にも届かない声量で、デュラハンがぽつりと呟く。その心境、彼女の面持ちの意味を悟れる者は、そこには誰もいなかった。
 
 
 
 
 過激派の一派はその日を休息に充てた。おかげで一日平和な時間が流れ、彼女たちの敷いた陣は終始穏やかな空気で満たされた。そしてフレドリクもまた、その緩い雰囲気の中、久方ぶりに肩の力を抜くことが出来たのだった。
 
「ふう……」

 もっとも、彼がここで本格的に羽を伸ばせたのは、夕日が沈みかけた頃であった。何故なら彼の「手伝い」は、昼を過ぎて午後になった後も続いたからである。
 魔物娘の側があれこれ理由をつけて、彼と一緒に活動することを望んだからだ。一方のフレドリクもそれを邪険にせず、手伝えることは積極的に手伝った。おかげで彼自身の自由時間はとても短くなったが、それを恨んだりはしなかった。
 そもそも、自分は捕虜の身なのだ。自由に動き回れる時点で寛大というレベルではない。フレドリクはそう考えた。
 
「逃げてもよかったのだぞ」

 そこにデュラハンが声をかけてくる。初日に彼を尋問した魔物娘である。フレドリクがそれに気づき、彼女に声を返す。
 
「でもそこで逃げたら、すぐに追手をよこしたんだろ?」
「それはそうだ。許可なく脱走することは許されないからな」

 自然な口調でデュラハンが答える。フレドリクが重ねて言う。
 
「逃げたら追手に捕まって、その娘に襲われる」
「それもそうだ。逃げる方が悪いのだからな」

 さらりとデュラハンが答える。襲われるとは、つまりそういうことである。
 フレドリクはそこを理解していた。した上で驚くことはせず、落ち着いた物腰で目を閉じ口を開く。
 
「だから逃げなかった」
「賢明だな」

 デュラハンが感心する。フレドリクが質問する。

「あなたとしてはどうなんだ? 逃げた方がよかったか?」
「正直に言うなら、どちらでも良かった」

 デュラハンが即答する。素っ気ない回答である。
 しかしそこでフレドリクの目を見つめ、「だが」と言ってから言葉を続ける。
 
「貴公が逃げずに留まったことに関しては、嬉しく思う。潔く、分を弁えた、騎士たるに相応しい立ち振舞いである」
「……」

 率直な賞賛の言葉だった。それを聞いたフレドリクは俯いて押し黙った。
 純粋に気恥ずかしかった。デュラハンが思わず笑みをこぼす。
 
「貴公も恥じらいを持つのだな」
「持つよ。人間なんだから」

 少しむっとした調子でフレドリクが返す。すぐにデュラハンが笑みを消し、「すまなかった」と謝罪する。
 
「愉快でない話だったか」
「いや、そこまで気にしてないよ。大丈夫だから」
「そうか」

 フレドリクの言葉にデュラハンがほっと肩を降ろす。それを見たフレドリクが呟くように尋ねる。
 
「何か思うことがあるみたいだ」
「……ああ」

 少し溜めて、デュラハンが肯定する。次いでフレドリクの方を向き、静かな口調で彼に言う。
 
「貴公は優しく、器用な人間なのだと思ってな」
「言いたいのはそれだけじゃないだろう」
「そして勘が鋭く、曲がったことが許せない。何にでも首を突っ込み、解決してしまう」

 フレドリクの言い分を無視してデュラハンが続ける。そしてそこで一旦言葉を切り、間を置いてデュラハンが言う。
 
「だから放逐されたのだろう?」

 フレドリクは何も言わなかった。言葉が途切れ、静寂が訪れる。
 風が吹く。空が暗く染まっていく。
 時間だけが進む。沈黙の中、二人並んで立ち尽くす。
 
「そんな気はしてた」

 やがてフレドリクが口を開く。沈黙が破られ、再び言葉が溢れ出す。
 
「鬱陶しいって思われてるんだなとは想像出来てた。パーティーもそれで解散したんだと思う」
「万能だからか」
「うん」

 フレドリクが頷く。嫌味の一つも無く万事をこなしてみせるというのは、時として周りの妬みを買うものだ。当人が自分から首を突っ込むタイプならば尚更だ。
 そして運悪く、フレドリクの周りにはそれを妬む者しか集まらなかった。

「なんでも出来るというのは罪だな」

 デュラハンが同情するように言う。続けて励ますように言葉を放つ。
 
「それでも貴公は生き様を曲げなかったというわけだ」
「妥協するのは嫌だから」

 フレドリクがきっぱりと答える。それが余計に溝を深めたのだろう。
 だがデュラハンは、そこに好意を覚えた。
 
「貴公のその決意、私は好きだぞ」
「えっ」

 驚きの表情でフレドリクがデュラハンを見る。そのように言われたのは初めてなのだろう。顔色からありありと窺えた。
 ただしデュラハンはそれを見て、してやったりとは思わなかった。ただペースを崩さず、淡々と言葉を紡いでいく。
 
「こういう言い方は正直好ましくはないが……魔物娘は貴公の思っている以上に、寛容で懐深い者達だ。それこそ貴公が今まで遭ってきた人間達よりもな」

 フレドリクは何も言わない。デュラハンが続ける。
 
「だから貴公のその性格と器量も、分け隔てなく好かれるだろう。これは断言できる。現に私が、貴公のことを気に入ったのだからな」

 どちらが上か、という話ではない。魔物娘は人間と比べて、単にそういう風に出来ているというだけなのだ。
 
「ここが気に入ったのなら、好きなだけ居ればいい。無理に戦わせるつもりはないし、なんなら我が国へ移住する手筈も整えられる。何をしようと貴公は自由だ」
「そこまで?」
「するのが我々だ。幸せのためならばなんだってする」

 今行っている攻撃も、言うなればヒトに幸福をもたらすためのものだ。デュラハンは言い切った。
 
「やっぱり変だ」
「初めてこれを聞く人間は皆そう言う。だが問題ない。そのうち慣れる」

 さすがに困惑を隠せないフレドリクに、デュラハンが笑って言い返す。この時フレドリクの心の中では、戸惑いと期待が半分ずつ入り混じり、激しくせめぎ合いをしていた。
 周りに人間がいた時よりも、こちらの方が心地よかったのは事実だったからだ。万能ゆえに疎まれた勇者の意識は、少しずつ闇に染まりつつあった。
 
「今すぐ決めなくてもよい。貴公の心持ち次第だ」

 デュラハンがそう言って、全身でフレドリクの方を向く。そしておもむろに片手を差し出し、柔らかな声で言い放つ。
 
「私の名はヘキサ。この小隊を指揮しているデュラハンだ」

 よろしく。ヘキサが短い言葉で挨拶を締める。フレドリクも自然と彼女に向き直り、ヘキサの手を握り返す。
 
「勇者……元勇者の、フレドリクだ。今更だけど、よろしく」
「よろしく」

 本当に今更だ。どちらからともなくそんなことを思う。だが同時に、これでようやく対等になれたと、どちらからともなく思った。
 
「俺だけ名前を知られてるのはやっぱりフェアじゃない」
「自己紹介する暇が無かったものでな」

 言い合い、互いに笑い合う。
 ここに来てようやく、二人は同じ位置に立てたのであった。
 
 
 
 
「それより、やっぱり今日からあれなのか?」

 その後、思い出したようにフレドリクが問いかける。問われたヘキサは首を傾げ「なんのことだ?」と問い返す。
 
「夜這いだよ。されるのかな。ほら、魔物娘ってそういうのにも興味あるんだろ?」

 フレドリクが答える。魔物娘のことにはあまり詳しくなかったが、魔物娘が「そういうこと」にこだわりを持っていることは把握していた。
 
「どうなんだ?」
「それはもう、されるぞ」

 ヘキサは正直に答えた。即答だった。
 
「そもそも独り身の男が魔物娘の陣地のど真ん中にいるのだ。襲われないわけがないだろう」

 ヘキサが続ける。直後、フレドリクは周囲から視線を感じた。熱っぽく湿っぽい眼差しが、遠巻きに自分を突き刺してくる。誰が何を訴えているのか、フレドリクはすぐに理解した。
 同時に昨夜は本当に空気を読んでくれていたのかと、フレドリクは直感した。
 
「だが安心するがよい。私の隣にいれば何の問題もない」

 そこにヘキサの言葉が飛ぶ。フレドリクはそれを聞き、安心より先に不安を覚えた。
 
「あなたも魔物娘だろ。正直そんなこと言われても」
「安心せよと言っている。私は部下と違って、自分を厳しく律することが出来るのだ」
「ええ……」

 信用できない。フレドリクが眉を顰める。ヘキサは食い下がった。
 
「信用できんか。ならば直接証明してやってもよいぞ」
「どういう風に?」
「今夜は私と共に過ごすのだ。当然私からは手を出さぬ。どうだ?」

 ヘキサが提案する。何だかんだ言って、彼女もフレドリクと一緒にいたいのだ。聡い勇者はすぐにそれに気づいた。
 
「ううん……」
 
 その上で、彼はどうするべきか思案した。正直、魔物娘に襲われるのは怖い。見ず知らずの魔物ならばなおのことだ。
 だがその点、ヘキサならばある程度見知っている。それに魔物娘という時点で危険度は大して変わらない。
 ならば。
 
「……わかった。今日はあなたと一緒にいるよ」

 フレドリクが決断する。請われたヘキサが心の中でガッツポーズを決める。周りの落胆した気配に気を取られ、フレドリクはそれに気付かなかった。
 だが一方で、ヘキサはしっかり約束を守る気でいた。魔物娘としての本能も確かにあったが、それ以上に騎士としての矜持が勝った。自分を信じてくれたこの男に、情けないところは見せたくない。
 耐えるのだ、自分。
 
「では決まりだな。善は急げだ。早速我がテントに移動しよう」

 欲望と逸る気持ちを抑えんと、ヘキサが足早に移動を始める。足裏で地面を擦るように歩くヘキサを見て、すぐにフレドリクが注意する。
 
「おい、そんなに急ぐと転ぶぞ」
「甘く見るな貴公。私が貴公の前でそんな恥を晒すわけなかろう」

 ヘキサは意に介しない。むしろそれが引き金となり、より大股で歩き始める。
 心の高鳴りを抑えるので精一杯だ。足元への注意が疎かになる。
 踵が石を踏む。
 
「あっ」

 思わず声を出したフレドリクの眼前で、ヘキサが派手に転倒する。石を踏んだ右足が前に振り回され、背中から地面に落下する。
 激突。背中と地面がぶつかる。
 衝撃で頭が外れる。
 
「あ」

 フレドリクが再び声を出す。彼女はデュラハンだった。改めて認識する。同時にまったく無意識に、フレドリクが彼女の元へ駆け寄る。
 
「大丈夫か!?」
 
 ヘキサの首から何かが溢れ出す。外れた頭部がどんどん赤くなる。
 その頭部を両手で持ち上げる。吐息がかかるほどの至近距離で、フレドリクが必死な顔で言う。
 
「おい、平気か? 怪我してないか?」
 
 勇者はデュラハンの生態を知らなかった。
 
 
 
 
 万能の男の夜は、それは激しいものだったという。
21/07/06 21:21更新 / 黒尻尾

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