何もしないということをする
クリスマス。特に何もしない。ケーキは食べた。
年末年始。特に何もしない。蕎麦は食べた。
三が日。特に何もしない。餅は食べた。
総評。食べる事しかしていない。
「本当に何もしないで終わったな……」
これまでを振り返り、三瓶敏郎が呆けた声で呟く。今は新年を祝う、一年に一度の大事な時期。その時に何もせず、ただご飯だけ食べて家でぐうたら過ごすのは、あまりのも勿体ない過ごし方ではないのか。敏郎の中に残る人間らしい理性が、か細い声でそう告げてくる。
外出。旅行。デート。今ならではの体験、今でしか味わえないこともあるはずだ。そう言って、敏郎の心が非生産的な生活に警鐘を鳴らす。
「そろそろ連休終わるし、やっぱり一回くらいはそういうことしてもいいんじゃないかって思うんだよ」
警告に従い、敏郎が隣に声をかける。ツインサイズのベッドの上、彼の横で同じように身を横たえる女性は、その敏郎の声に反応して口を開いた。
「んー、やだ」
断固たる拒否だった。口調こそ柔らかかったが、そこには明確な「ノー」が込められていた。
「今年はねー、なんかそういう気分じゃないの。どこにも行かないで、ずーっとトシローと一緒にいたいの」
続けて女性が言う。言いながら敏郎に身を寄せ、彼の身体を両手で抱きしめる。
黒い毛で覆われた両手。太く短い指の先からは、鋭い爪が伸びている。しかしそのどれも敏郎を傷つけることはなく、むしろ件の体毛と掌の肉球が敏郎の身体を包み込むことで、彼の心身に得も言われぬ暖かさと心地良さをもたらしていた。
「本当にそれでいいのか?」
恋人からの優しい抱擁にリラックスしつつ、敏郎が確認するように女性に問う。対する女性は腕と同じように黒い体毛に包まれた両足を敏郎の脚に絡ませ、より体を密着させつつ彼の顔の至近で答える。
「うん。ミィミィはそれでいい」
人間離れした特質を持った女性が、一人称に自分の名前を使いつつ答える。女性――魔物娘のミィミィは続けて、敏郎の胸板に顔を置き、彼の心音をパジャマ越しに聞きながら彼に言った。
「今年の新年ミィミィはー、充電モードなの」
「本当に何もしないで過ごすのか」
「うん。トシローとぬくぬく、仕事始めまでぬくぬく。素敵でしょ?」
「……まあ、それはそれで良さそうだけど」
「でしょー?」
「ちなみに、どうしてそういうことしたくなったのか、何か理由とかあるのか?」
「ないよー?」
ミィミィが即答する。後ろめたさの無い、快活な返答だった。
敏郎は小さく苦笑いするだけだった。彼女のその気まぐれさと明るさに彼は惚れたのだ。慣れるどころか、それを見るほどますます好きになっていく。
「可愛い奴だなお前は」
「えへへー」
褒められたミィミィが満面の笑みを浮かべる。ちょっと間の抜けた、おばかっぽい表情。
それがたまらない。可愛すぎる。敏郎はこのレンシュンマオのミィミィに出会えたことが、自分の人生の中で最も素晴らしい出来事であるとハッキリ実感していた。
「それよりトシロー。今何時ー?」
幸せをかみしめる敏郎にミィミィが尋ねる。敏郎は意識をすぐ表に引き戻し、枕元に置いてある時計を手に取って現在時刻を確認した。
「午前……八時だな」
ちょうどいい時間だ。普段なら、これ以上寝ぼけるのは怠惰であると判定される。
普段であれば。
「じゃあまだ寝れるねー」
ミィミィがそう言って、さらに敏郎に密着する。たわわに実った大振りの胸が、むにゅんと形を変えて敏郎の腕に吸い付く。その柔らかさとミィミィの体温、そして彼女の口から漏れる吐息が、敏郎の一般的感性への関心をゴリゴリ削っていく。
「トシロートシロー。今日は一緒にだらだらする日だよー?」
ほぼゼロ距離からミィミィが声をかける。大好きな女の人が、女の部分を押し当てつつ、耳元で甘い言葉を投げる。密着した身体から大好きな人の甘い匂いが放たれ、男の鼻腔をいいようにくすぐる。
耐えられるはずもない。
「……しょうがないな」
肩の力を抜きつつ敏郎が言う。言いながら自身も腕を動かし、横にいるミィミィの身体を抱き締め返す。
「そんな風に言われて、断れるわけないだろ」
欲望が論理に勝った瞬間だった。少なくともこの年末年始、敏郎の論理的思考は我欲に負けっ放しだった。
一方のミィミィは、そんな敏郎の「敗北宣言」を目の当たりにして、顔面に溢れんばかりの笑みを湛えた。
「やったー!」
そのまま感情を爆発させる。大声で喜び、子猫がじゃれつくように自身の顔を敏郎の胸にぐりぐりと押し当てる。
「それじゃあこのまま、二度寝タイムだね!」
甘える動きをしながら、甘える声でミィミィが言う。パンダというより完全に気を許した子猫だ。
彼女が子猫と違うのは、自分からよりアクティブに動くということだ。
「ちょっとまってね」
ミィミィがそう告げ、敏郎から離れて上体を起こし、脇に跳ね除けられていた毛布――ミィミィの寝相の悪さが原因だ――を手に取って広げ直す。大人二人なら余裕で包めるサイズの大きな毛布だ。
その広げた毛布で自分と敏郎を覆う。ふっくらした感触が全身を包み、ゆっくりと暖かさが全身に広がっていく。
「寒くないか?」
仲良く毛布の中に入りながら、敏郎がミィミィに尋ねる。ミィミィは問題ないと言うように頷き、そのまま敏郎に同じ質問を返す。
「トシローは? 寒くない?」
「ああ。寒くないよ」
敏郎も即答する。続けて敏郎が言う。
「お前がぴったりくっついてくれてるからな」
毛布を広げ、二人一緒に中に入った直後、ミィミィは即座に敏郎に引っ付き直していた。早業である。
敏郎はそれを可愛いと思った。邪険にはせず、彼女なりの愛情表現をしっかりと受け止めた。
「ミィミィはあったかくて柔らかいからな。もうぬくぬくだよ」
「ふふーん。もっと褒めてもいいんだよー?」
敏郎からの賛辞に、ミィミィが目に見えて嬉しそうにする。顔は喜色でくしゃくしゃになり、全身の体温がさらに上昇する。
「いや待って。褒めるよりしてほしいことある」
「何をすればいいんだ?」
「頭撫でてほしいな」
「わかった」
ミィミィからの注文にも、敏郎は嫌な顔一つせずに対応する。敏郎の手がミィミィの頭に触れ、優しくゆっくりと彼女の頭頂部を撫でていく。
穏やかで甘い空気が寝室に充満する。幸せを噛み締めながら、敏郎がミィミィに尋ねる。
「どうする? 寝るまで撫でた方がいいか?」
「そそうしてくれると助かるなー」
ミィミィが答える。
「トシローを感じてたいから」
「……わかった」
恥ずかしいことを無自覚にさらりと言ってしまうのが、ミィミィの恐ろしいところだ。しかしそんなことは口に出す事はせず、敏郎は注文通り、彼女が再び眠りにつくまで頭を撫で続けた。
暫くしてミィミィが寝息を立てる。それを見てから、敏郎も手を止めて目を瞑る。外は完全に朝日が昇っていたが、どちらもすぐには目覚めなかった。
次に目を覚ました時、手元の時計の針は午後一時を指していた。
さすがに寝すぎた。それを見た敏郎はちょっと罪悪感を覚えた。せめて昼には起きていたかったのだが、やはり二度寝は油断ならない。
「むにゃ……んう……」
そうしていると、遅れてミィミィも目を覚ます。そして彼女も敏郎と同様に彼の持っていた時計に注目し、現在時刻を確認して苦笑いする。
「ちょっと寝すぎちゃったねー」
「だな」
ミィミィの言葉に敏郎が同意する。冬休みだからと、つい惰眠を貪ってしまった。
「でも、気持ちいいからいいよね」
「それもそうだな」
その後続けて放たれるミィミィの台詞にも、敏郎は同意する。怠惰な暮らしとは気持ちがいいものだ。
まったく堕落しているな。今更なことを考え、敏郎が若干呆れ気味にため息をつく。
いい加減潮時だろう。彼は同時にそんなことも考えた。
「お昼どうする? 今から食べるか?」
気持ちを切り替えて上体を起こし、敏郎がミィミィに尋ねる。ミィミィも同じように身を起こし、甘えるように敏郎に寄りかかりながら彼に答える。
「そうしよっか。お腹すいちゃったからね」
「オッケー。じゃあ何食べる?」
「どうしよっかー。昨日は中華だったよね」
「ああ、昨日はそうだった。二日連続は飽きるよな」
「飽きるー」
敏郎の言葉に答えつつ、ミィミィが体勢を変えて敏郎の太腿の上に自分の頭を載せる。そのまま大好きな男の腿に顔を擦りつけ、ミィミィが幸せそうに喉を鳴らす。
「えへへー。幸せだにゃー」
「今のお前、猫みたいだぞ」
「ミィミィはパンダだもーん。ほら見て、手足もふもふ」
「猫も毛でもふもふしてるぞ」
「ミィミィの方がもふ力は上だもんねー。もふパワーを食らえーっ」
敏郎に反論したミィミィが、そう言って敏郎の顔を両手で挟み込む。分厚い毛と肉厚の肉球でもふもふしたレンシュンマオの手にサンドされ、敏郎の顔が自然と恍惚したものに変わっていく。
「ああ、ぬくい……いい……」
「えへへ、いいでしょ?」
「うん、最高。ずっとこうしてたい」
敏郎が断言する。そしてそう言いながら、敏郎が自分からミィミィの掌に頬を擦りつける。
ミィミィの肉球が敏郎の頬を捉える。お互いの肉の感触を通して相手の存在を意識し、揃って自然と頬を緩ませる。
「トシローのほっぺ、むにむにしてる」
「ミィミィの肉球も柔らかくて素敵だよ」
「いいでしょー。こういうことするの、トシローだけなんだからね?」
「わかってる。俺もこうやって甘えるの、お前にだけだからな」
ミィミィの台詞に敏郎が答える。敏郎の返答を聞いたミィミィが、やったと言わんばかりに満面の笑みを浮かべる。
甘い空気が場を包み、二人だけの世界を形成していく。
刹那、唐突に鳴った腹の虫が、二人の意識を現実に引き戻す。
「ありゃ。そういえば」
「昼ごはんの話してたっけ」
揃って本題に意識を向けた二人が、そのまま討議を再開する。
「で、何食べる?」
「何食べよっかなー……お肉とか?」
「肉か。昼からがっつり行くか?」
「トシローはさっぱり系がいい?」
「いや、肉でもいいぞ。ていうか話してると口が肉の気分になってきた」
「じゃ決定だね」
会議終了。数秒で話を終わらせたミィミィが、敏郎の顔から手を離し、再度上半身を起こして敏郎の隣につく。たわわに実った乳房をぷるぷる揺らしつつ、ミィミィが敏郎に言う。
「外出て食べにいこっか。それとも出前頼む?」
「出前でいいんじゃないか」
敏郎が答える。その心は? ミィミィが問う。
「だらだらしたいから」
敏郎が即答する。それを聞いたミィミィが悪戯っぽく笑う。
「いいねー」
「いいだろ?」
「うん。最高」
悪いことをするというのは、中々に気分がいい。敏郎とミィミィは顔を見合わせ、揃って意地の悪い笑みを見せる。
「さっそく電話だ」
「だらけるのサイコー」
素早くベッドから飛び降りた敏郎が自分のスマートフォンを手に取り、その横で同じくベッドから出たミィミィが己の感情を隠すことなく曝け出す。欲望を叶えようとする時に限って動きが速くなるのは、ある意味必然である。
そして当の二人は、そうすることに快感すら見出していた。
「お肉楽しみだねー」
「何もしないって最高だな」
自堕落の極みを追求する二人の下に昼食が届けられたのは、この十数分後のことである。
この日二人が頼んだのは、駅前の焼肉屋がテイクアウト専用で出している焼肉弁当である。直接店に出向いて取りに行くのでなく、第三者の出前サービスを使って取り寄せたのが、最高に怠惰で心地良い。
「美味かったな」
「ねー」
朝に何も食べてなかったこともあって、二人は届けられたそれをぺろりと平らげた。量も味も申し分なく、さすがに高いだけのことはある。
「贅沢しちゃったね」
「せっかくのお正月なんだから、これくらいはな」
ミィミィがそれの値段を聞いたのは、揃って弁当を空にした後のことだった。ランチにしては中々に値の張る逸品だったが、たまにはこういうのも悪くないと敏郎の言を聞いて気持ちを切り替えた。
敏郎としても、そちらの方がありがたかった。先の言葉の通り、正月なんだから贅沢をしてもバチは当たらないだろうと、彼は本気で考えていた。そこを気に病まれると逆に困ってしまう。
「それで、この後どうする?」
そして気持ちを切り替える意味も込めて、敏郎が午後の予定をミィミィに尋ねる。腹が膨れたこともあって、すっかり目は覚めている。三度寝をするのは流石に辛い。
「うーん、どうしようかな……」
そこはミィミィも同じだった。寝室の方に目をやるが、すぐに興味なさげに視線を戻す。
そうして暫く考えた後、ミィミィが口を開いて答えを出す。
「トシローとだらだらしたい」
数秒考えたパンダ娘の回答がそれだった。この時彼女の意識は、このリビングに置かれているソファに向けられていた。大の大人が二人並んで座るには十分なスペースを持った、ふかふかのソファである。
「何もしたくなーい。トシローと家でごろごろしたーい」
言いながらミィミィが敏郎にすり寄る。まさに悪魔の誘惑である。
そしてそんな恋人からの甘い囁きに、敏郎が抗えるはずも無かった。
「そうするか」
「いえーい」
快諾した敏郎を見てミィミィが両手を挙げて喜ぶ。次いでミィミィは真っ先にソファに飛び込み、ごろりと横になりながら敏郎を見た。
「トシロー。こっち来て」
恋人が誘う。夜闇の中で誘蛾灯に誘われる羽虫のように、敏郎がゆっくりとミィミィの下に向かう。
敏郎がミィミィの上に覆い被さる。年頃の男女の体が重なり合い、二人の視線が至近距離で交錯する。
「んふふ」
愛する彼氏の瞳をじっと見つめながら、ミィミィが不意に笑みをこぼす。そしてどうしたのかと尋ねる敏郎に、ミィミィがしみじみと答える。
「トシローの顔を近くで見るの、久しぶりだなって思って」
「ああ……」
言われてみれば確かに。敏郎も、こんなに近くでミィミィの顔を見るのはいつぶりだろうと、ふと疑問に思った。
実際は昨日寝る前にキスをしていた。その時じっと相手の顔を見つめてもいた。なので身も蓋もないことを言うと、彼らがその距離で見つめあうのは八時間ぶりのことであった。
「もうそんなに経ってたのか」
「時間が過ぎるのは速いね」
二人にとっては十分すぎる隙間だ。むしろ八時間もキス抜きで暮らせたことの方に賞賛の拍手を送るべきだ。敏郎もミィミィも本気でそう思っていた。
そしてそれは、大体の魔物娘も同様に考えることであった。好きな人と常にくっついていたいと思うのは、至極当然のことである。
「何もしないのもいいけど、これはしないとな」
「だね」
毒されていない人間は、それを指して堕落と言うだろう。
堕落で結構。敏郎もミィミィも、それを喜んで受け入れた。共に堕ち、愛の蜜を貪りあうことの、なんと幸せなことか。
「トシロー、キスしよ?」
「ああ」
ミィミィに請われるまま、敏郎がゆっくりと顔を下ろす。影が重なり、唇が触れ合う。
「ん……」
ミィミィの塞がれた口から甘い声が漏れる。敏郎は意に介さず、唇を重ねたまま動きを止める。
舌をねじ込み、口内を犯すことはしない。ミィミィが求めるならそうするが、自分からすることはしない。敏郎はそう考え、ただフレンチなキスを続けた。
一方のミィミィも、それを求めることはしなかった。欲望に忠実に。今現在ひたすらぐうたらしていたい彼女は、触れ合いもソフトなものを欲していた。
熱く燃えるのはまたの機会に。今はこの時間の浪費−−贅沢極まりないひとときを、心から楽しもう。
「……」
そんな二人の優しいキスは、それから一分ほど続いた。そうしてたっぷり一分かけた後、敏郎が体を持ち上げて唇を離す。
「ふう……」
口を開いたミィミィが息を吐く。熱い吐息が垂れ下がった敏郎の前髪を揺らし、鼻孔をくすぐる。
その息すらも甘美なものと感じつつ、敏郎がミィミィに尋ねる。
「満足した?」
「うん……」
幸せたっぷりに笑顔を見せながらミィミィが答える。
「満足♪」
「それは何より」
言いながら敏郎が、再びミィミィに覆い被さる。ミィミィも自然とそれを受け入れ、男女が再度一体と化す。
「ミィミィ、あったかいな」
「パンダだからね」
「そっか」
「トシローもあったかいよ」
ミィミィが言い返し、敏郎の背中に両手を回す。ミィミィから抱きしめられながら、敏郎が体の力を抜く。
「俺はパンダじゃないんだけどな」
「トシローはいつだってあったかいもん」
「そうなのか?」
「ミィミィにとってはそうなの」
敏郎の重みを全身で感じつつ、ミィミィもまた体の力を抜く。
壁に掛けられた時計から、時を刻む音が聞こえてくる。テンポの良い、乾いた音。
それが何よりの子守歌になる。
「すてきだよ、トシロー……」
敏郎を抱きしめたまま、ミィミィが意識を手放す。敏郎も同じタイミングで目を閉じ、意識を闇の中に沈める。
時計の針の音がリビングを満たす。その室内に、二人の男女の寝息の音が遅れて参戦した。
次に敏郎が目を覚ました時、外はすっかり暗くなっていた。
いつまで寝ていたのか。確認しようと体を起こし、壁時計に目を向ける。
短針がぴったり九の位置で止まっている。
完全に寝過ごした。敏郎は思わず苦笑した。罪悪感は無く、代わりに背徳感が背筋を震わせた。
「ううん……」
数秒後、遅れてミィミィが目を覚ます。敏郎がそちらに気づき、自身を脇に動かして彼女が起きれるようにする。
「おはようトシロー」
「うん、おはよう」
起き上がりながらミィミィが声をかける。敏郎が答え、それからミィミィが問う。
「いま何時?」
「夜の九時」
「うわー。また寝ちゃったねー」
敏郎の返答を聞いたミィミィが笑いながら言う。彼女も罪悪感とは無縁の表情を浮かべていた。
「でもこういうの、いいね」
「だな」
「お腹すいたね」
「前にもこんな流れあったな」
「いいじゃん、お腹すいたんだから」
突然の路線変更に敏郎が呟き、ミィミィが開き直る。敏郎もそれを聞き、それもそうかと思い直す。
ここまで来たのだ。もう常識どうこうで思い悩むことは無い。
「ねえねえ、トシロー」
そこまで考えた敏郎に、ミィミィがニヤニヤ笑って声をかける。
前に見た流れ。とてつもなく怠惰な流れ。
「トシロー、夕飯なに食べるー?」
しかしそれも、彼女と一緒ならば至福の一語に尽きる。
堕落とは、そういうものなのだろう。
年末年始。特に何もしない。蕎麦は食べた。
三が日。特に何もしない。餅は食べた。
総評。食べる事しかしていない。
「本当に何もしないで終わったな……」
これまでを振り返り、三瓶敏郎が呆けた声で呟く。今は新年を祝う、一年に一度の大事な時期。その時に何もせず、ただご飯だけ食べて家でぐうたら過ごすのは、あまりのも勿体ない過ごし方ではないのか。敏郎の中に残る人間らしい理性が、か細い声でそう告げてくる。
外出。旅行。デート。今ならではの体験、今でしか味わえないこともあるはずだ。そう言って、敏郎の心が非生産的な生活に警鐘を鳴らす。
「そろそろ連休終わるし、やっぱり一回くらいはそういうことしてもいいんじゃないかって思うんだよ」
警告に従い、敏郎が隣に声をかける。ツインサイズのベッドの上、彼の横で同じように身を横たえる女性は、その敏郎の声に反応して口を開いた。
「んー、やだ」
断固たる拒否だった。口調こそ柔らかかったが、そこには明確な「ノー」が込められていた。
「今年はねー、なんかそういう気分じゃないの。どこにも行かないで、ずーっとトシローと一緒にいたいの」
続けて女性が言う。言いながら敏郎に身を寄せ、彼の身体を両手で抱きしめる。
黒い毛で覆われた両手。太く短い指の先からは、鋭い爪が伸びている。しかしそのどれも敏郎を傷つけることはなく、むしろ件の体毛と掌の肉球が敏郎の身体を包み込むことで、彼の心身に得も言われぬ暖かさと心地良さをもたらしていた。
「本当にそれでいいのか?」
恋人からの優しい抱擁にリラックスしつつ、敏郎が確認するように女性に問う。対する女性は腕と同じように黒い体毛に包まれた両足を敏郎の脚に絡ませ、より体を密着させつつ彼の顔の至近で答える。
「うん。ミィミィはそれでいい」
人間離れした特質を持った女性が、一人称に自分の名前を使いつつ答える。女性――魔物娘のミィミィは続けて、敏郎の胸板に顔を置き、彼の心音をパジャマ越しに聞きながら彼に言った。
「今年の新年ミィミィはー、充電モードなの」
「本当に何もしないで過ごすのか」
「うん。トシローとぬくぬく、仕事始めまでぬくぬく。素敵でしょ?」
「……まあ、それはそれで良さそうだけど」
「でしょー?」
「ちなみに、どうしてそういうことしたくなったのか、何か理由とかあるのか?」
「ないよー?」
ミィミィが即答する。後ろめたさの無い、快活な返答だった。
敏郎は小さく苦笑いするだけだった。彼女のその気まぐれさと明るさに彼は惚れたのだ。慣れるどころか、それを見るほどますます好きになっていく。
「可愛い奴だなお前は」
「えへへー」
褒められたミィミィが満面の笑みを浮かべる。ちょっと間の抜けた、おばかっぽい表情。
それがたまらない。可愛すぎる。敏郎はこのレンシュンマオのミィミィに出会えたことが、自分の人生の中で最も素晴らしい出来事であるとハッキリ実感していた。
「それよりトシロー。今何時ー?」
幸せをかみしめる敏郎にミィミィが尋ねる。敏郎は意識をすぐ表に引き戻し、枕元に置いてある時計を手に取って現在時刻を確認した。
「午前……八時だな」
ちょうどいい時間だ。普段なら、これ以上寝ぼけるのは怠惰であると判定される。
普段であれば。
「じゃあまだ寝れるねー」
ミィミィがそう言って、さらに敏郎に密着する。たわわに実った大振りの胸が、むにゅんと形を変えて敏郎の腕に吸い付く。その柔らかさとミィミィの体温、そして彼女の口から漏れる吐息が、敏郎の一般的感性への関心をゴリゴリ削っていく。
「トシロートシロー。今日は一緒にだらだらする日だよー?」
ほぼゼロ距離からミィミィが声をかける。大好きな女の人が、女の部分を押し当てつつ、耳元で甘い言葉を投げる。密着した身体から大好きな人の甘い匂いが放たれ、男の鼻腔をいいようにくすぐる。
耐えられるはずもない。
「……しょうがないな」
肩の力を抜きつつ敏郎が言う。言いながら自身も腕を動かし、横にいるミィミィの身体を抱き締め返す。
「そんな風に言われて、断れるわけないだろ」
欲望が論理に勝った瞬間だった。少なくともこの年末年始、敏郎の論理的思考は我欲に負けっ放しだった。
一方のミィミィは、そんな敏郎の「敗北宣言」を目の当たりにして、顔面に溢れんばかりの笑みを湛えた。
「やったー!」
そのまま感情を爆発させる。大声で喜び、子猫がじゃれつくように自身の顔を敏郎の胸にぐりぐりと押し当てる。
「それじゃあこのまま、二度寝タイムだね!」
甘える動きをしながら、甘える声でミィミィが言う。パンダというより完全に気を許した子猫だ。
彼女が子猫と違うのは、自分からよりアクティブに動くということだ。
「ちょっとまってね」
ミィミィがそう告げ、敏郎から離れて上体を起こし、脇に跳ね除けられていた毛布――ミィミィの寝相の悪さが原因だ――を手に取って広げ直す。大人二人なら余裕で包めるサイズの大きな毛布だ。
その広げた毛布で自分と敏郎を覆う。ふっくらした感触が全身を包み、ゆっくりと暖かさが全身に広がっていく。
「寒くないか?」
仲良く毛布の中に入りながら、敏郎がミィミィに尋ねる。ミィミィは問題ないと言うように頷き、そのまま敏郎に同じ質問を返す。
「トシローは? 寒くない?」
「ああ。寒くないよ」
敏郎も即答する。続けて敏郎が言う。
「お前がぴったりくっついてくれてるからな」
毛布を広げ、二人一緒に中に入った直後、ミィミィは即座に敏郎に引っ付き直していた。早業である。
敏郎はそれを可愛いと思った。邪険にはせず、彼女なりの愛情表現をしっかりと受け止めた。
「ミィミィはあったかくて柔らかいからな。もうぬくぬくだよ」
「ふふーん。もっと褒めてもいいんだよー?」
敏郎からの賛辞に、ミィミィが目に見えて嬉しそうにする。顔は喜色でくしゃくしゃになり、全身の体温がさらに上昇する。
「いや待って。褒めるよりしてほしいことある」
「何をすればいいんだ?」
「頭撫でてほしいな」
「わかった」
ミィミィからの注文にも、敏郎は嫌な顔一つせずに対応する。敏郎の手がミィミィの頭に触れ、優しくゆっくりと彼女の頭頂部を撫でていく。
穏やかで甘い空気が寝室に充満する。幸せを噛み締めながら、敏郎がミィミィに尋ねる。
「どうする? 寝るまで撫でた方がいいか?」
「そそうしてくれると助かるなー」
ミィミィが答える。
「トシローを感じてたいから」
「……わかった」
恥ずかしいことを無自覚にさらりと言ってしまうのが、ミィミィの恐ろしいところだ。しかしそんなことは口に出す事はせず、敏郎は注文通り、彼女が再び眠りにつくまで頭を撫で続けた。
暫くしてミィミィが寝息を立てる。それを見てから、敏郎も手を止めて目を瞑る。外は完全に朝日が昇っていたが、どちらもすぐには目覚めなかった。
次に目を覚ました時、手元の時計の針は午後一時を指していた。
さすがに寝すぎた。それを見た敏郎はちょっと罪悪感を覚えた。せめて昼には起きていたかったのだが、やはり二度寝は油断ならない。
「むにゃ……んう……」
そうしていると、遅れてミィミィも目を覚ます。そして彼女も敏郎と同様に彼の持っていた時計に注目し、現在時刻を確認して苦笑いする。
「ちょっと寝すぎちゃったねー」
「だな」
ミィミィの言葉に敏郎が同意する。冬休みだからと、つい惰眠を貪ってしまった。
「でも、気持ちいいからいいよね」
「それもそうだな」
その後続けて放たれるミィミィの台詞にも、敏郎は同意する。怠惰な暮らしとは気持ちがいいものだ。
まったく堕落しているな。今更なことを考え、敏郎が若干呆れ気味にため息をつく。
いい加減潮時だろう。彼は同時にそんなことも考えた。
「お昼どうする? 今から食べるか?」
気持ちを切り替えて上体を起こし、敏郎がミィミィに尋ねる。ミィミィも同じように身を起こし、甘えるように敏郎に寄りかかりながら彼に答える。
「そうしよっか。お腹すいちゃったからね」
「オッケー。じゃあ何食べる?」
「どうしよっかー。昨日は中華だったよね」
「ああ、昨日はそうだった。二日連続は飽きるよな」
「飽きるー」
敏郎の言葉に答えつつ、ミィミィが体勢を変えて敏郎の太腿の上に自分の頭を載せる。そのまま大好きな男の腿に顔を擦りつけ、ミィミィが幸せそうに喉を鳴らす。
「えへへー。幸せだにゃー」
「今のお前、猫みたいだぞ」
「ミィミィはパンダだもーん。ほら見て、手足もふもふ」
「猫も毛でもふもふしてるぞ」
「ミィミィの方がもふ力は上だもんねー。もふパワーを食らえーっ」
敏郎に反論したミィミィが、そう言って敏郎の顔を両手で挟み込む。分厚い毛と肉厚の肉球でもふもふしたレンシュンマオの手にサンドされ、敏郎の顔が自然と恍惚したものに変わっていく。
「ああ、ぬくい……いい……」
「えへへ、いいでしょ?」
「うん、最高。ずっとこうしてたい」
敏郎が断言する。そしてそう言いながら、敏郎が自分からミィミィの掌に頬を擦りつける。
ミィミィの肉球が敏郎の頬を捉える。お互いの肉の感触を通して相手の存在を意識し、揃って自然と頬を緩ませる。
「トシローのほっぺ、むにむにしてる」
「ミィミィの肉球も柔らかくて素敵だよ」
「いいでしょー。こういうことするの、トシローだけなんだからね?」
「わかってる。俺もこうやって甘えるの、お前にだけだからな」
ミィミィの台詞に敏郎が答える。敏郎の返答を聞いたミィミィが、やったと言わんばかりに満面の笑みを浮かべる。
甘い空気が場を包み、二人だけの世界を形成していく。
刹那、唐突に鳴った腹の虫が、二人の意識を現実に引き戻す。
「ありゃ。そういえば」
「昼ごはんの話してたっけ」
揃って本題に意識を向けた二人が、そのまま討議を再開する。
「で、何食べる?」
「何食べよっかなー……お肉とか?」
「肉か。昼からがっつり行くか?」
「トシローはさっぱり系がいい?」
「いや、肉でもいいぞ。ていうか話してると口が肉の気分になってきた」
「じゃ決定だね」
会議終了。数秒で話を終わらせたミィミィが、敏郎の顔から手を離し、再度上半身を起こして敏郎の隣につく。たわわに実った乳房をぷるぷる揺らしつつ、ミィミィが敏郎に言う。
「外出て食べにいこっか。それとも出前頼む?」
「出前でいいんじゃないか」
敏郎が答える。その心は? ミィミィが問う。
「だらだらしたいから」
敏郎が即答する。それを聞いたミィミィが悪戯っぽく笑う。
「いいねー」
「いいだろ?」
「うん。最高」
悪いことをするというのは、中々に気分がいい。敏郎とミィミィは顔を見合わせ、揃って意地の悪い笑みを見せる。
「さっそく電話だ」
「だらけるのサイコー」
素早くベッドから飛び降りた敏郎が自分のスマートフォンを手に取り、その横で同じくベッドから出たミィミィが己の感情を隠すことなく曝け出す。欲望を叶えようとする時に限って動きが速くなるのは、ある意味必然である。
そして当の二人は、そうすることに快感すら見出していた。
「お肉楽しみだねー」
「何もしないって最高だな」
自堕落の極みを追求する二人の下に昼食が届けられたのは、この十数分後のことである。
この日二人が頼んだのは、駅前の焼肉屋がテイクアウト専用で出している焼肉弁当である。直接店に出向いて取りに行くのでなく、第三者の出前サービスを使って取り寄せたのが、最高に怠惰で心地良い。
「美味かったな」
「ねー」
朝に何も食べてなかったこともあって、二人は届けられたそれをぺろりと平らげた。量も味も申し分なく、さすがに高いだけのことはある。
「贅沢しちゃったね」
「せっかくのお正月なんだから、これくらいはな」
ミィミィがそれの値段を聞いたのは、揃って弁当を空にした後のことだった。ランチにしては中々に値の張る逸品だったが、たまにはこういうのも悪くないと敏郎の言を聞いて気持ちを切り替えた。
敏郎としても、そちらの方がありがたかった。先の言葉の通り、正月なんだから贅沢をしてもバチは当たらないだろうと、彼は本気で考えていた。そこを気に病まれると逆に困ってしまう。
「それで、この後どうする?」
そして気持ちを切り替える意味も込めて、敏郎が午後の予定をミィミィに尋ねる。腹が膨れたこともあって、すっかり目は覚めている。三度寝をするのは流石に辛い。
「うーん、どうしようかな……」
そこはミィミィも同じだった。寝室の方に目をやるが、すぐに興味なさげに視線を戻す。
そうして暫く考えた後、ミィミィが口を開いて答えを出す。
「トシローとだらだらしたい」
数秒考えたパンダ娘の回答がそれだった。この時彼女の意識は、このリビングに置かれているソファに向けられていた。大の大人が二人並んで座るには十分なスペースを持った、ふかふかのソファである。
「何もしたくなーい。トシローと家でごろごろしたーい」
言いながらミィミィが敏郎にすり寄る。まさに悪魔の誘惑である。
そしてそんな恋人からの甘い囁きに、敏郎が抗えるはずも無かった。
「そうするか」
「いえーい」
快諾した敏郎を見てミィミィが両手を挙げて喜ぶ。次いでミィミィは真っ先にソファに飛び込み、ごろりと横になりながら敏郎を見た。
「トシロー。こっち来て」
恋人が誘う。夜闇の中で誘蛾灯に誘われる羽虫のように、敏郎がゆっくりとミィミィの下に向かう。
敏郎がミィミィの上に覆い被さる。年頃の男女の体が重なり合い、二人の視線が至近距離で交錯する。
「んふふ」
愛する彼氏の瞳をじっと見つめながら、ミィミィが不意に笑みをこぼす。そしてどうしたのかと尋ねる敏郎に、ミィミィがしみじみと答える。
「トシローの顔を近くで見るの、久しぶりだなって思って」
「ああ……」
言われてみれば確かに。敏郎も、こんなに近くでミィミィの顔を見るのはいつぶりだろうと、ふと疑問に思った。
実際は昨日寝る前にキスをしていた。その時じっと相手の顔を見つめてもいた。なので身も蓋もないことを言うと、彼らがその距離で見つめあうのは八時間ぶりのことであった。
「もうそんなに経ってたのか」
「時間が過ぎるのは速いね」
二人にとっては十分すぎる隙間だ。むしろ八時間もキス抜きで暮らせたことの方に賞賛の拍手を送るべきだ。敏郎もミィミィも本気でそう思っていた。
そしてそれは、大体の魔物娘も同様に考えることであった。好きな人と常にくっついていたいと思うのは、至極当然のことである。
「何もしないのもいいけど、これはしないとな」
「だね」
毒されていない人間は、それを指して堕落と言うだろう。
堕落で結構。敏郎もミィミィも、それを喜んで受け入れた。共に堕ち、愛の蜜を貪りあうことの、なんと幸せなことか。
「トシロー、キスしよ?」
「ああ」
ミィミィに請われるまま、敏郎がゆっくりと顔を下ろす。影が重なり、唇が触れ合う。
「ん……」
ミィミィの塞がれた口から甘い声が漏れる。敏郎は意に介さず、唇を重ねたまま動きを止める。
舌をねじ込み、口内を犯すことはしない。ミィミィが求めるならそうするが、自分からすることはしない。敏郎はそう考え、ただフレンチなキスを続けた。
一方のミィミィも、それを求めることはしなかった。欲望に忠実に。今現在ひたすらぐうたらしていたい彼女は、触れ合いもソフトなものを欲していた。
熱く燃えるのはまたの機会に。今はこの時間の浪費−−贅沢極まりないひとときを、心から楽しもう。
「……」
そんな二人の優しいキスは、それから一分ほど続いた。そうしてたっぷり一分かけた後、敏郎が体を持ち上げて唇を離す。
「ふう……」
口を開いたミィミィが息を吐く。熱い吐息が垂れ下がった敏郎の前髪を揺らし、鼻孔をくすぐる。
その息すらも甘美なものと感じつつ、敏郎がミィミィに尋ねる。
「満足した?」
「うん……」
幸せたっぷりに笑顔を見せながらミィミィが答える。
「満足♪」
「それは何より」
言いながら敏郎が、再びミィミィに覆い被さる。ミィミィも自然とそれを受け入れ、男女が再度一体と化す。
「ミィミィ、あったかいな」
「パンダだからね」
「そっか」
「トシローもあったかいよ」
ミィミィが言い返し、敏郎の背中に両手を回す。ミィミィから抱きしめられながら、敏郎が体の力を抜く。
「俺はパンダじゃないんだけどな」
「トシローはいつだってあったかいもん」
「そうなのか?」
「ミィミィにとってはそうなの」
敏郎の重みを全身で感じつつ、ミィミィもまた体の力を抜く。
壁に掛けられた時計から、時を刻む音が聞こえてくる。テンポの良い、乾いた音。
それが何よりの子守歌になる。
「すてきだよ、トシロー……」
敏郎を抱きしめたまま、ミィミィが意識を手放す。敏郎も同じタイミングで目を閉じ、意識を闇の中に沈める。
時計の針の音がリビングを満たす。その室内に、二人の男女の寝息の音が遅れて参戦した。
次に敏郎が目を覚ました時、外はすっかり暗くなっていた。
いつまで寝ていたのか。確認しようと体を起こし、壁時計に目を向ける。
短針がぴったり九の位置で止まっている。
完全に寝過ごした。敏郎は思わず苦笑した。罪悪感は無く、代わりに背徳感が背筋を震わせた。
「ううん……」
数秒後、遅れてミィミィが目を覚ます。敏郎がそちらに気づき、自身を脇に動かして彼女が起きれるようにする。
「おはようトシロー」
「うん、おはよう」
起き上がりながらミィミィが声をかける。敏郎が答え、それからミィミィが問う。
「いま何時?」
「夜の九時」
「うわー。また寝ちゃったねー」
敏郎の返答を聞いたミィミィが笑いながら言う。彼女も罪悪感とは無縁の表情を浮かべていた。
「でもこういうの、いいね」
「だな」
「お腹すいたね」
「前にもこんな流れあったな」
「いいじゃん、お腹すいたんだから」
突然の路線変更に敏郎が呟き、ミィミィが開き直る。敏郎もそれを聞き、それもそうかと思い直す。
ここまで来たのだ。もう常識どうこうで思い悩むことは無い。
「ねえねえ、トシロー」
そこまで考えた敏郎に、ミィミィがニヤニヤ笑って声をかける。
前に見た流れ。とてつもなく怠惰な流れ。
「トシロー、夕飯なに食べるー?」
しかしそれも、彼女と一緒ならば至福の一語に尽きる。
堕落とは、そういうものなのだろう。
21/01/04 22:33更新 / 黒尻尾