読切小説
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スモーキンシックスタイル
 城田光雄が葉巻を吸い始めたのは、彼の祖父が原因であった。光雄の祖父は彼が二十歳を迎えたその日に、成人祝いとして葉巻の入った木製のケースをプレゼントしたのである。
 
「いいか。紙たばこなんてしょっぱいもんは吸わんで、こいつを吸え。これをカッチリ吸いこなすのが大人の証ってもんだ」

 葉巻入りケースを手渡ししてきた時の祖父の言葉を、光雄は今でも覚えている。ちなみに祖父は紙たばこばかり吸っていたが、そこを指摘すると笑って言い返した。
 
「若い時に俺が出来なかった背伸びをお前にしてほしいんだよ」

 それを聞いた光雄は、ただ愛想笑いを浮かべ曖昧な返事をした。祖父の言い分がいまいち理解できなかったのだ。
 その場に両親がいたのも大きかった。親の前で堂々と喫煙宣言をする甲斐性は彼には無かった。そして案の定、光雄の両親は彼に釘を刺してきた。
 
「ほどほどにな。あんまり吸い過ぎるとガンになるぞ」

 煙草の危険性は、保健の授業で散々聞いてきた。だから光雄は、そんな父の言葉に素直に頷いた。しかし葉巻への好奇心も捨てきれずにいた。
 結局、彼は受け取った一週間後にそれの封を切った。インターネットで情報を集め、道具を揃え――ここで必需品の値段を知り、葉巻だけ渡してきた祖父に少なからず悪態をついた――家のベランダで恐る恐る吸ってみた。
 最初の一本は予習が生きた形となった。おっかなびっくりながらも無事吸いきった光雄は、どうにか上手に初めの一歩を踏み出せた。
 そこで味をしめた。以降彼は親の目から離れた場所で、こっそり葉巻を吸うようになった。渡された分を全て消費すると、自分で新しいそれを買ったりもした。一方で彼は両親の忠告も忘れず、それを吸うのは一週間に一本と決めていた。
 
「ふー……っ」

 そうして何本も吸っている内に、喫煙はすっかり光雄の習慣として定着した。日常生活を送る中で何が起きようとも、彼は一週間に一度葉巻を吸うことだけは止めなかった。
 就職先が決まった週も、大学を卒業した週も、上京し一人暮らしを始めた週も、祖父が亡くなった週も。光雄は葉巻だけは手放さなかった。
 
「……」

 そして就職して一年が経ち、社会人生活にようやく順応し始めて以降も、彼は葉巻を吸っていた。目まぐるしく変化する世界の中で、葉巻を吸う時間だけが唯一不変の存在であり続けた。
 何も考えず、ただ無心で吸う。いつまでも変わることのない安らぎの時間。それは光雄にとって何よりの救いであった。
 
 
 
 
 その日も光雄は、いつものように喫煙に向かった。土曜日の午後十一時。いつもの時間にいつも通り。ルーチンワークという名の精神安定行為である。
 都内のアパートで一人暮らしを始めてからの光雄は、自室のベランダでなく屋上で葉巻を吸うようになっていた。そのアパートは屋上を居住者のために開放しており、光雄もその恩恵に与っていたのである。
 葉巻は紙巻き煙草よりも匂いがきつい。故になるだけ開放的な場所で火を点けるのがベターだ。愛煙者の光雄もそれを知っていたので、屋上で吸うことを選んでいた。
 
「さて……」

 シガーボックス、ガスライター、シガーカッター、コーヒー入りの水筒に安物のパイプ椅子。椅子以外の必需品をバッグに詰め、椅子を肩に担いだ光雄が、屋上に続くドアを開ける。漆黒の夜空の下でいつもの場所に椅子を置いて腰掛け、葉巻とカッターとライターを取り出す。
 
「やりましょ」
 
 カッターを使い、慣れた手つきで円形の吸い口を作る。そうして出来た吸い口とは反対の側を、ガスライターで静かに炙る。
 少しして、着火側が全体的に黒く焦げていく。そこで葉巻を口に咥え、軽くふかしつつ再度着火する。
 紙巻き煙草よりも手間がかかるが、その手間が醍醐味でもある。やがて着火側に満遍なく火が点き、先端部分が程よく灰色に燃える。
 映画やドラマでよく見る、いい感じの火のつき方である。そこでライターの火を消し、葉巻を五指でしっかり掴み、本格的に喫煙を始める。
 
「ふう……」

 ゆっくりと煙を吸う。吸った煙は肺に送らず、口から鼻へ通すように送る。煙を吐き出し、風味と余韻を噛み締める。
 強い匂いと重く辛い味が、鼻腔と口元から全身へ駆け抜けていく。臓腑にずしりと沁みるヘビーな味わい。これがたまらない。
 葉巻を離した口が自然と笑みを浮かべる。そして再び葉巻を咥え、もう一度煙を吸う。
 
「はあぁ……」

 この一連のサイクルに、光雄は軽く一分以上費やした。おかしいことは何もしていない。
 葉巻を吸う上で肝心なのは、ゆっくり味わうこと。煙草と同じペースで早く吸うと、却って味が落ちてしまう。
 もどかしいくらいのスピードで、贅沢に時間を使って吸う。これが葉巻を楽しむ上で大事な要素である。
 
「あぁ……いい……」

 そうして存分に時間を浪費し、光雄が幸福の中に思うまま身を置く。実に素晴らしい。一生このままでいたいとすら思う。椅子により深く腰掛け、体の力を抜き、幸福感へさらに没入する。
 
「……」

 そんな光雄の元へ、背後から近づく影が一つ。笑みを浮かべ、両手に何らかの道具を持ち、音もなく距離を詰めていく。
 光雄は未だに自分の世界に没頭している。その光雄の真横に件の影が立ち並び、そのまま地べたに腰を下ろして彼に視線を向ける。
 
「隣、失礼するわね」

 影が声をかける。そこで光雄が意識を表に戻し、影の方へ目を向ける。
 彼の横に陣取ったそれは、人間では無かった。芋虫と妙齢の女性を合体させたかのような、奇っ怪な風貌をしていた。切れ長の瞳に片眼を隠したショートヘア。髪と肌は青く、はちきれんばかりの豊満な乳房を備えた人外の美女。
 どう見ても真人間ではない。しかし光雄は恐怖することなく、当たり前のようにその人外の存在を受け入れた。
 
「時間通りですね」
「あなたはいつものように早く来てるわね」
「すみません。待ちきれなくて」
「それは葉巻を吸うこと? それとも私に会うこと?」
「……ご想像にお任せします」

 光雄が言葉を濁す。はぐらかされた人外の女性は小さく笑い、両手に持っていた道具を足元に置く。そしてその道具と細いホースで繋がっていた金属製の棒を片手に持ち、それを愛おしげに揺らしながら再び光雄に声をかける。
 
「相変わらずいけずね。ストレートに言ってくれた方がお姉さん嬉しいわ」
「先輩をそんな目で見れませんよ」
「それはヒトの価値観でしょう? 私にならいくらでも劣情をぶつけて構わないのに」
「そんな簡単に切り替えられません」
「真面目ね」

 先輩と呼ばれた女性が愉快そうに笑う。光雄は気まずさを誤魔化すかのように、葉巻を咥えて煙を吸い込む。
 芋虫の女性は彼のその姿を、ただ柔和な笑みをたたえて見つめていた。
 
 
 
 
 芋虫型の魔物――ワンダーワームのニブルヘは、光雄の上司である。魔物娘と呼ばれる種族が現実社会で当たり前のものとなった昨今、このようなケースは頻繁に起きていた。故に光雄も、自分の就職先の会社に魔物娘がいることを知っても、さして驚きはしなかった。
 彼が驚いたのは、自分の住むアパートに自分の上司が同じく住んでいたことであった。出社初日に顔を合わせた魔物娘と、その次の日の夜にアパートの屋上で遭遇したのだ。例え相手が魔物娘でなくても普通は驚く。
 
「私だって驚いたわ。まさかあなたが新入社員だなんて」

 一方のニブルヘも同じ気持ちだった。彼女にとっても、光雄の件は寝耳に水。全く偶然の遭遇であった。
 しかし結果として、それは二人にプラスに働いた。モノは違えど、共に愛煙家だったのも大きかった。
 
「でも、これってチャンスじゃないかしら。お互いのことをもっとよく知り合えるんですもの」
 
 最初に交流を提案したのはニブルヘだった。同じ日に同じ場所に集まり、そこで煙を吸いながら雑談しようと言ったのだ。
 
「どう? 悪くないと思うんだけど」
「そう言われても……」
 
 それを最初に聞いた時、光雄は困惑した。会社の上司、それも魔物娘と、いきなりフランクな関係になって大丈夫なのか。心の中の慎重な自分が、静かに警鐘を鳴らした。
 だがその一方、せっかくだから冒険をしてみようと訴える自分も、確かに心の中にいた。好奇心と自制心がせめぎ合う。
 屋上での遭遇初日、光雄は葛藤の中にあった。
 
「それとも……私と一緒じゃ、楽しくないかしら?」

 渋る光雄を見たニブルヘが腕を組み、これみよがしに胸を持ち上げる。たわわな乳房が盛り上がり、はちきれんばかりの果実を光雄に見せつける。
 それが決め手になった。悲しいかな、彼も男だった。
 
「そ、そんなわけありません。お願いしますっ」

 喉から声が飛び出す。思考して吐いた言葉ではない。気づいた時には手遅れだった。
 
「はい決定。それじゃあよろしくね、新人クン」

 ニブルヘとの夜会は、こうして始まった。
 
 
 
 
「あれから何年経ったかしら」
「数えてないからわからないですね」
「もう、そこは分からなくても具体的な数字を出すものよ」

 だいたい一年だ。光雄はちゃっかり数えていた。しかし口に出すとまたからかわれるので、あえて言わないことにした。
 横のニブルヘは結局頬を膨らませていたが。
 
「後輩のくせに生意気なんだから」

 楽しげな口調で愚痴をこぼしつつ、脇に置いた道具に手をつける。慣れた手つきで器具をいじりまわし、あっという間に使えるようにする。
 独特な形状の器具だった。水煙草のそれに似ている。中に詰まっているのは人間界で使われている葉とはまるで違ったが。
 
「よし」

 満足げにニブルヘが漏らす。ホースに繋がった棒を片手に持ち、それの先端を口に咥える。
 ニブルヘがゆっくり息を吸う。器具の中身がホースを伝って棒へ行き、そこからニブルヘの体内へと進入する。
 煙を吸引し、味わいを堪能する。その後小さく口を開け、静かに煙を吐く。
 
「ふう……」

 毒々しい紫色の煙が口から吐き出される。 明らかに人の手によるモノではない。彼女が人外であることを、光雄はその煙を見る度に実感するのだった。
 
「味はどうですか?」
「もちろんおいしいわ。あなたの方は?」
「いい味ですよ。落ち着けます」
「それはよかった」

 煙を吐いてひと息ついたニブルヘに、光雄が尋ねる。ニブルヘも問い返し、光雄が答える。
 それは二人にとっての挨拶のようなものだった。屋上で会う二人は決まってこのやり取りを交わし、それから雑談を始めた。
 深い意味は無い。どちらも上手な話の切り出し方がわからなかったから、この定型に添うようになっただけである。
 陰キャ、もとい控え目な二人の妥協案である。
 
「仕事はどう? 順調?」
「おかげさまで。のびのびやれてます」
「それは良かった。何事も健康が一番だからね」

 ニブルヘは光雄の直接の上司だった。同じアパートに住んでいることがわかった次の日に、自分が彼の面倒を見るとニブルヘが挙手したのだ。
 彼女の提案は二つ返事で承諾された。その会社の社長が魔物娘だったのが一番の理由である。
 
「受かった会社が魔物の経営してる所って知った時は、ちょっと不安になりましたけどね」
「でも実際入ってみたら、そんな悪い所でもなかったでしょう?」
「そうですね。空気はいいし、周りの人も良い人ですし、入って良かったなって思います」
「そう言ってくれると、先輩として誇らしいわ」

 光雄が入社したのは結婚を斡旋する会社である。この場合の「斡旋」とはそれこそパートナー探しから式の調整、結婚後の新居の選定までを包括的に行うことを指している。結婚専門の何でも屋といってもいい。
 なお光雄がここを選んだのに深い理由はない。適当な就職先を探していたらたまたまここが目について、とりあえず応募してみたら合格したのだ。
 
「魔物娘は何よりヒトとの恋愛を好むからね。結婚関係の仕事は需要があるのよ」
「需要ですか。ちょっと前の日本じゃありえない話ですね」
「時代は変わるものよ」

 魔物娘の出現と認知、そして交流は、人間の世界に大きな影響をもたらした。日本も例外ではない。彼女達との交流が少子化社会に歯止めをかけるきっかけになるかもしれないと本気で考えている者も少なからず存在している。
 
「変わるものですかね」
「不変のものなんて無いわ。全ては移ろい流れるものよ」

 訳知り顔でニブルヘが言い放ち、自分の煙草に口をつける。光雄も続けて葉巻を咥える。
 揃って息を吐く。白と紫の煙が夜空に溶ける。共にそのまま、無言で余韻に浸る。
 
「いい味」

 ニブルヘがしみじみ呟く。光雄は何も言わず、顔を上げて夜空を見つめる。
 怖かった。特に深い意味は無い。ただなんとなく、彼女の言葉に反応すると「何か恐ろしい」ことが起こりそうな予感がした。
 
「ねえ」

 ニブルヘが声をかける。光雄が反射的にそちらに顔を向ける。
 ワンダーワームと視線が合う。艶やかな笑みをたたえた魔物娘の顔が視界に映る。
 
「私達も、変わってみない?」

 魔物が囁く。光雄は答えず、正面に向き直って葉巻を吸う。
 乱暴に煙を吐く。味がしない。心臓の鼓動が速まる。煙の吸い過ぎが原因ではない。
 
「無視するなんて、お姉さん悲しいなあ」

 ニブルヘも同じように正面に向き直り、水煙草――らしきものに口をつける。しかし光雄とは対照的に、ニブルヘは実にリラックスしていた。顔には余裕の笑みを浮かべ、吐く煙もゆったりとしていた。
 どちらが上に立っているか、言うまでもなかった。
 
「あの時の返事、まだ貰ってないんだけど……どうかな?」

 ニブルヘが追撃する。光雄は葉巻から口を離した。抵抗するのを止めた。代わりに脳内に過去の情景が浮かび上がっていく。
 
 
 
 
 今から二週間前、光雄はニブルヘから告白された。全く唐突な、しかも労働中でのことである。当然周りには社員がいたし、間の悪いことに社長も職場の見回りに来ていた。
 そこでそれである。光雄は最初死を覚悟した。しかし次の瞬間、周囲から歓声が上がった。
 
「へえ! ニブルヘもとうとうお相手を見つけたんか! この子のお眼鏡にかなうなんて、やるやないかキミぃ!」

 社長――狸のような姿をした魔物娘だ――さえもノリノリだった。とにかく周囲はお祭り騒ぎで、ニブルヘのしたことを非難する者は一人もいなかった。人間の社員でさえ、周りに混じって囃し立てる始末だった。
 そしてこの後に「これくらいは魔物娘なら普通の反応だ」と人間の先輩から聞かされ、光雄は改めて両者の価値観の違いを痛感した。
 
「うちで働くなら、こういうことには慣れておかないとな」

 その先輩社員はさらりとそんなことを言った。先輩は続けて、その内社会の仕組みそのものが変わってくる、とも言った。
 
「時が経てば、魔物娘の価値観がもっと当たり前のものになる。職場恋愛とかハーレムとか、もっと自然なものとして見られてくる。お前もせっかく告白されたんだから、そういうのに慣れておいてもいいかもな。いい機会だし、ニブルヘさん美人だし」

 怖い。それが先輩の話を聞いた直後の、光雄の正直な気持ちだった。
 今まで当たり前だと思っていたもの。自分の足元を支えていた土台が、音を立てて崩れていく。そんな感覚がして、とにかく恐ろしかった。
 だから光雄は、その先輩の言葉に頷けず、ニブルヘからの告白も保留にした。一歩先に進むことを躊躇したまま、時間だけをズルズル引き延ばしていった。
 そして今に至る。光雄は今日に至るまで、ニブルヘにも自分にも答えを出せずにいた。
 
 
 
 
「変わるのが怖い?」

 そして現在。渋る光雄にニブルヘが問う。彼女の言葉は、どこまでも正確に心を射抜いてくる。普段ののんびりした姿からは想像できない程の無慈悲な攻撃だ。
 
「それは……」
「お願い。教えて。あなたは今何を思っているの?」

 ニブルヘからの切実な問いかけ。まっすぐ光雄を見つめてくる。
 
「私のこと、嫌い?」
「うっ……」
 
 狡い。その言い方はずるい。
 しかしそんな風に言われて無視を決められるほど、光雄は無慈悲な人間では無い。
 
「……」

 気持ちを落ち着けるために、一旦葉巻を口に咥える。軽く吸い、少し待って煙を吐く。心音が元のペースを取り戻したのを確認し、ニブルヘに向き直る。
 
「俺は……まず……」
「うん」
「ニブルヘさんのことは、嫌いではないです……」

 ついに言った。それを言うだけでなんという労力か。光雄の心臓が再び激しく自己主張を始める。
 対するニブルヘの顔に彩が差す。青みがかった頬がほんのり朱に染まる。
 
「それはつまり? 好きということ?」
「うっ……」
「どうなの?」
「……好き、です」

 言ってしまった。光雄の顔が一気に熱を帯びて赤くなる。
 それを隣で聞いていたニブルヘの顔も、同じように真っ赤に染まっていく。
 
「そっか……私のこと、好きなんだ……」

 ニブルヘが顔を離す。顔を正面に戻し、煙草を吸う。
 紫色の煙が口から飛び出す。その煙を纏った顔が、みるみるうちに緩んでいく。
 
「……えへへっ」

 嬉しさを隠しきれなくなったニブルヘが、ついに声を上げて笑う。片手に金属の棒を持ったまま、自身の頬を両手で覆う。
 
「城田くんから好きって言われちゃった……うふっ、うふふっ」
 
 湧き上がる感情に流されるまま、喜びに身悶える。途轍もなく可愛い。
 しかしその幸せいっぱいな姿が、却って光雄の心を冷静にさせた。
 
「でも、怖くないんですか?」
「うん?」

 光雄からの問いかけにニブルヘが反応する。顔から笑みを消し、きょとんとした表情で光雄を見やる。
 横からの視線を感じつつ、葉巻を一度吸ってから、光雄が言葉を続ける。
 
「このまま行くと俺たち、今までの生活が大きく変わることになるんですよね。ニブルヘさんは、そういうのを不安に思ったりしないんですか?」
「しないよ」

 即答だった。間髪入れずに答えられた光雄は、驚きで声も出せなかった。
 ニブルヘが主導権を握る。
 
「私は怖いとは思わない。不安とも思わないわ」
「どうして?」
「あなたと一緒にいられるんですもの。何も怖くないわ」

 ニブルヘが堂々と言い放つ。まるで歌劇の主役のように。
 どうしてそんなに自信満々なんだ。光雄は驚きと呆れで唖然とした。
 
「誰かを好きになるって、そういうことなんじゃないかな」

 お構いなしにニブルヘが言う。完全に彼女のペースだ。
 そしてこの時点で、光雄は完全に抵抗する気力を無くしていた。虚勢を張ることも放棄した。肩の力を抜き、自然な動きで葉巻を吸う。
 久しぶりに煙の味がする。光雄は思わず笑ってしまった。
 
「敵わないな」

 煙と共に本音を吐き出す。ニブルヘが耳聡くそれを聞きつける。
 
「城田くんは怖いの?」
「……そりゃ、まあ、怖いですよ」
「そっか」

 光雄の返事を聞いたニブルヘがそこで黙る。暫くして、おもむろに自分が持っていた棒を光雄に差し出す。
 
「はい」
「えっ? いきなり何?」
「気持ちを落ち着かせることのできるお薬よ」

 驚く光雄に、ニブルヘが説明口調めいた台詞を返す。
 それはただの煙草だ。驚きながらも、光雄の口から反射的にそのような言葉が漏れる。
 
「ただの煙草じゃないわ。私の吸ってる煙草よ」
「どう違うんです」
「私の味がする」
「え」
「特別製よ」

 さ、ずずいっと。ニブルヘがぐいぐい押し付けてくる。
 これは断っても無理そうだ。光雄は諦めて、ニブルヘからそれを受け取った。そして葉巻を吸うのと同じ動作で、先端に口をつけ、ゆっくり吸い込む。
 先端から煙が口内に入り込む。どちらに送ろうか迷って、いつも通り鼻の方へ煙を送る。
 甘い匂いが鼻腔をくすぐる。嗅いだことのある匂いだ。光雄の五感が敏感に反応する。
 ああ、これは。
 
「ニブルヘさんの匂い」
「んふふ」

 クセになるでしょう? 自信たっぷりにニブルヘが言う。
 実際その通りだった。虜になる味と言うべきか。少なくとも光雄にとっては、それは実に魅力的な味わいだった。
 何故なのか。否、理由は最初からわかっている。

「ニブルヘさんに包まれてる感じがします」
「でしょう? まあ私の匂いというより、煙の匂いの方が体に染みついたというべきかしら。煙草臭い女の人は嫌い?」
「……」

 嫌いなわけが無い。この匂いを嗅ぐだけで心が安心を覚える。そこから更にもっと欲しい、もっと包まれたいとさえ思い始める。
 心と体がこの匂いを求めている。自身に纏わりつくそれが消え失せるだけで、飢餓に似た寂しさが全身を襲う。
 要するに、そういうことだ。本心からそれを求める一方で、片隅に潜む臆病さが変化を拒んでいた。それだけのことだ。
 光雄自身、その臆病さには気づいていた。今もそれが息づいていることも知っていた。
 ここまで来たのだ。今こそ、それと訣別するべき時なのかもしれない。
 
「ニブルヘさんの匂いは、好きです」
「そう」

 思いきって口を開く。ニブルヘは短く答え、光雄の次の言葉を待つ。
 
「……ニブルヘさんのことも、好きです」
「本当に?」
「はい、本当に」

 一線を越える。築いてきた習慣が音を立てて崩れ落ち、新たな秩序が廃墟の中で産声を上げる。
 ああ、恥ずかしい。破壊からの創造には一定の痛みを伴うものだ。彼にとっての痛みは、まさに羞恥だった。
 その恥じらいを誤魔化そうとするように、光雄がニブルヘに反撃を試みる。

「ニブルヘさんこそ、どうなんですか? 葉巻吸ってる男の人と付き合えるんですか?」
「葉巻を吸ってるかどうかは問題じゃないわ。私はあなただから付き合うのよ」

 ニブルヘが言いきってみせる。光雄は一瞬きょとんとし、そして困ったように笑みをこぼす。
 完全降伏の笑み。ああ、無理だ。本当に敵わない。ニブルヘの想いの強さを知り、光雄は今までの自分の抵抗がどれだけ無為であったかを思い知った。
 
「変わることは、怖いことではないわ」

 そこにニブルヘが追撃する。悪魔の誘惑の如き言葉が、ガードを下ろした光雄の心にするりと入り込む。
 
「私はあなたと一緒なら、どこまでも行けるし、なんだってやれる。怖いものなんて何もない」
「本当に?」
「本当よ。愛の力に不可能は無いわ」

 ニブルヘが言いきる。それが最後の一押しになる。
 それなら。
 
「それなら……信じてみても、いいですか?」
「もちろん」

 縋るような光雄の眼差しを、ニブルヘが優しく受け止める。
 
「恋は無敵なんだから」

 そしてそう言いながら、ニブルヘが光雄の持っていた葉巻に手を伸ばす。光雄は抵抗せず、むしろそれを彼女に差し出す。
 ワンダーワームが受け取った葉巻を口に咥える。ゆっくりと吸い込み、時間をかけて煙を吐く。
 
「どんな味がします?」

 お返し半分、興味半分で光雄が尋ねる。ニブルヘは幸せそうに微笑み、躊躇なく言葉をぶつける。
 
「素敵な人の味がするわ」




 心の天秤が完全に傾く。
 重い腰を上げ、不思議の国の扉を開ける。
 
「来週デートしましょう。ここじゃなくて、違う場所を見て回るの」
「この時間に?」
「ええ。夜の散歩っていうのも、刺激的で面白いわよ。もちろん喫煙も込みで」
「……昨日までだったら普通に断ってかも知れないですね」
「今は?」
 
 ニブルヘが問う。葉巻を受け取りながら光雄が答える。
 
「行ってもいいなって思います」

 一人の男がそれまでの日常を捨て、新しい世界へ旅立った瞬間だった。
20/11/25 23:03更新 / 黒尻尾

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