お使いクエスト
探検家のゼネウスがその「賢者」と出会ったのは、彼がとある森の中に踏み入った時のことであった。オウルメイジ、もとい「賢者」は木立の上に立って彼を見降ろし、その眼差しには興味と呆れが半分ずつ混ざっていた。
「独り身の男が供も連れずにここに来るとは、自分から餌食になりに来たようなものだぞ?」
ゼネウスに対する「賢者」の第一声は、ため息交じりの忠告だった。そしてこの彼女の忠告は、まったくの正論だった。何故ならこの森は人の手が入っていない未開の地であり、野生の魔物娘がそこかしこに潜んでいたからだ。
そしてこの情報は、森の近くにある町でも常識として周知されていた。あの森には魔物娘がたくさんいるから気をつけよう。特に独身男性は不用意に近づいてはいけない。
そのように人間達が森を警戒していることを、「賢者」の側も知っていた。それでいて「賢者」は、そんな人間の用心深さに感心してもいた。
「危険な場所には踏み込まない。実に理性的で殊勝な心掛けだ。だというのに」
そこまで思いを巡らせた後、「賢者」は再びため息をついた。
「そなたは自分から危険を冒しに来るのか。馬鹿者と呼ばれても言い訳できんぞ」
「でしょうね」
呆れた調子の「賢者」の物言いに、ゼネウスが軽い口調で返す。眉を顰める「賢者」にゼネウスが言葉を続ける。
「でも俺は、ここに来ずにはいられなかったんです。あの町でこの森のことを聞いたら、居ても立っても居られなくなったんです」
「知ってから来たというのか」
「そうです」
驚く「賢者」にゼネウスが答える。「賢者」は呆然とし、続いて肩を落とした。
「そなた、その内身を滅ぼすぞ。好奇心で動くのも程々にせよ」
「よく言われますし、俺も自覚してます。でもこればかりはどうしようもなくって」
「なぜ改善しようとしない? なぜここに来た?」
「それは……ここに浪漫があるからです」
「賢者」からの問いにゼネウスが返す。答えになっているような、なっていないような、実にふわふわした回答だった。
「ああ、そういう……」
片翼の先で「賢者」が頬を掻く。彼女はゼネウスがどういう人種なのかをここで理解した。
情熱のためなら死ねる。一番厄介なタイプだ。
「まったく愚か者め」
しかしこの「賢者」は、そこで匙を投げるタイプでは無かった。
このまま彼を好きにさせれば、一日と経たずに魔物娘に「食べられて」しまうだろう。それは何というか、しのびない。
「仕方ない……。探検家よ、この森で少しでも理性的でいたければ、私の話をよく聞くがいい」
彼女はいい意味で言えば世話焼き、悪い意味で言えばお節介焼きだった。
「そうすれば、探検の途中で魔物娘に魅了される危険も減るだろう。可能性が無くなるわけではないがな」
どうするかはそなた次第だ。「賢者」が選択を迫る。そこまで聞いたゼネウスは、すぐに答えを出した。
「わかりました。お願いします」
迷いのない口振り。それが「賢者」の懸念をさらに強固にする。
「即決であるか」
「善は急げと言うでしょう?」
この男は、面白そうと思ったことには首を突っ込まずにはいられない、そういう性分なのだ。
「業の深い男よな」
ゼネウスの性質をそう見抜いた「賢者」は、そう言って三度ため息をついた。しかしそこに落胆や失望はなく、代わりに苦笑と安堵がこもっていた。
愚か者め。彼女は心の中で呟いた。
その後改めて、人間と魔物娘は互いの名前を教え合った。そしてそれまで互いの名を知らぬまま会話を成立させていたことに、どちらも軽く驚いた。
「やろうと思えば出来るものなんですね」
「少々寂しい気もするがな」
ともあれ、二人はそれぞれ名を知った。ゼネウスが眼前のオウルメイジを「シェフォンヌ」と認識し始めたのは、ここからであった。
「それで、最初に何をすればいいんでしょうか」
自己紹介を終えたところで、早速ゼネウスが本題に入る。シェフォンヌも頷き、話を始める。
「まずは喉が渇いた。ここから東に行った先に薬草があるから、それをいくつか採ってきてほしい。それを煎じて茶にするのでな」
「薬草? 茶?」
「うむ」
予想外の要求に、さしものゼネウスも若干たじろぐ。一方のシェフォンヌは当然と言わんばかりに、力強く首を縦に振る。
「それが危険回避と何か関係があるので?」
「無論だ」
「具体的には?」
「行けばわかる」
シェフォンヌは誤魔化した。ゼネウスは釈然としないと言わんばかりに不満げな顔を見せた。
そこにシェフォンヌが言葉を重ねる。
「乗り気でないなら、別にこの頼みを無視してもいいのだぞ?」
わかりやすい挑発。
その挑発が、ゼネウスの反骨精神に火を点けた。
結局ゼネウスはそれを受けた。だが勢いに任せて引き受けたその時点で、ゼネウスはそれがどういう類の仕事であるかを理解していた。
一言で言えば、お使いである。
「薬草を採って持って帰って来いって……」
目的地に向かう道すがら、ゼネウスはそう愚痴をこぼした。こぼしたくもなる。それくらいの事なら自分でやってもいいだろうに。
最初こそ、道中に何か危険な要素があるのではないかと予想してもいた。しかしその予想――期待とも言う――は、トラブルに巻き込まれることなく目的地に到達出来た時点で、淡い夢と化した。
帰り道も無事だったのは言うまでもない。
「おお、ちゃんと帰って来れたようだな。感心感心」
戻ってきたゼネウスにシェフォンヌが声をかける。彼にお使いをさせたオウルメイジは、初対面時と同じ体勢で彼を出迎えた。
「頼んだ薬草はちゃんと持って来たかの?」
「ええ。ありますよ」
シェフォンヌの問いにゼネウスがそう答え、一つの革袋を差し出す。それはゼネウスが持って来た代物であり、袋に封はされておらず、上から覗き込めば簡単に中身を確認することが出来た。
彼なりの優しさである。ゼネウスは心根の清らかな人間だった。
「では早速」
話を戻してシェフォンヌが確認に向かう。木から降り立ち、両手を器用に動かして革袋を受け取り、中を覗く。
「うむ。上出来」
革袋の中には、ちゃんと頼んだものと同じ薬草が入っていた。この森に群生する薬草は一種類ではないのだが、ゼネウスはそれらの中からシェフォンヌの要求した物をピンポイントで集めてきた。
予想通りの結果だ。
「私の頼んだ物だけをしっかり集めてきたようだな。感心感心」
「まあこれくらいなら、どうってことないですよ」
シェフォンヌからの称賛の言葉にゼネウスがヒネた回答をする。彼は褒められることに慣れていなかった。
やがて話のペースを自分の側に戻そうと、ゼネウスが話題を変える。
「それで、次はどうすればいいんですか?」
「うむ。次もお使いである」
「えっ」
とうとう向こうから明言した。唖然とするゼネウスにシェフォンヌが言葉を続ける。
「次は花だ。この森の中にある、とある花を摘んできてもらいたい……」
そのまま花の説明に入る。色、形、匂い、大きさ、あらゆる要素を事細かに説明していく。
「やけに詳しいですね」
「昔もらった思い出の花であるからな。詳しいのも当然よ」
「なるほど。それでその花を摘んでくるのが、危険を避ける方法とどういう関係があるのですか?」
過去を懐かしむシェフォンヌにゼネウスが問う。彼は本分を忘れていなかった。
現在に意識を引き戻されたシェフォンヌが口ごもる。彼女は回答を用意するのに少しばかり時間を要した。
「それは、ほら、あれだ。その花を持ってくるとだな」
「はい」
「その花……花は、魔除けになるのだ。魔物娘が苦手なパワーを秘めているのだ」
「なるほど」
「だから持ってまいれ。私の所に持って来れば、私自ら花を加工してお守りにしてしんぜよう」
シェフォンヌが答える。若干早口だった。
ゼネウスは追及しなかった。やや肩を落とし、小さく息を吐き、困ったように言った。
「わかりました。持ってきましょう」
「お、そうか。持ってくるか。よしよし。それでよい」
シェフォンヌが反応する。どこか安心したようだった。
ゼネウスは追及しなかった。そのまま踵を返し、言われた花を探しに向かった。
森の奥に消えるゼネウスを、シェフォンヌは無言で見送った。
数分後、ゼネウスが戻ってきた。彼は別の革袋に、言われた通りの花を綺麗に束ねて持って来た。
「持ってきましたよ」
「えっ、もう?」
帰ってきたゼネウスに、シェフォンヌが素っ頓狂な声を上げる。完全に予想外であった。
「速いよ」
「この森のことなら予習済みですからね」
「ほう?」
「あっ、あー、うん、まあ、うん」
得意げになったゼネウスがシェフォンヌの反応を受けてしどろもどろになる。シェフォンヌもそれ以上攻めはせず、微笑みを浮かべてゼネウスを見つめる。
再びペースがシェフォンヌの側に傾く。ここぞとばかりに攻勢に出る。
「ではそなたに、次の仕事をやろう。お使いをするのだ」
「またですか」
「こらえよ。何事にも順序があるのだ」
「逃げてるだけでは?」
「やかましい」
ゼネウスの物言いにシェフォンヌがぴしゃりと言い返す。切れ味鋭い言葉の刃が舞ったが、場の空気が冷たく切り裂かれることは無かった。
そこにあるのは懐古の情だった。
「では、次の仕事だ」
気を取り直してシェフォンヌが言う。ゼネウスは何も言わずに次を待つ。
シェフォンヌが言葉を続ける。
「覚悟せよ。お使いである」
三回目。焚き火に使える枝を集めてこい。
「持ってきました」
「よろしい」
四回目。川にいる魚を獲ってこい。
「獲ってきました」
「上等上等」
五回目。採った草花で花冠を作ってこい。
「作ってきました」
「ほほう。可愛いではないか」
六回目。
「それで、今度は何を要求されたんですか?」
六回目のお使いに出向いたゼネウスに、ウンディーネが声をかける。彼女はこの森に流れる川に棲む精霊であり、ゼネウスとは顔馴染みであった。
シェフォンヌからの六回目のお使い。それは水切りに使える石を持ってこいというものであった。
「水切りですか」
「ええ」
「あの時やったのと同じ?」
「そうですよ」
ウンディーネの問いにゼネウスが答える。この時ウンディーネは実に楽しそうに微笑み、ゼネウスは気恥ずかしそうにしかめっ面を浮かべていた。
「あの時はお二人で水切りしていましたよね」
「ええ。どっちがより遠くまで投げられるか競争してたんです」
「シェフォンヌの投げた石が私の目の前を掠めたんですよね?」
「まあ、そうです」
「その後どうしたんですっけ?」
「人のいるところで危ないことはするなと、二人纏めてあなたに怒られました」
追憶に胸をときめかせるように、過去のやらかしを引き合いにして相手をおちょくるように。ウンディーネが楽しそうにゼネウスに話を振る。水の精霊はこんなに意地悪だっただろうか。白状しながら、ゼネウスはそう思わずにはいられなかった。
「それは話し相手があなただからです」
ウンディーネがにこやかに言い放つ。弟が姉に主導権を握られるように、ゼネウスは何も言えずに顔をしかめる。
この人には昔から勝てない。何年経っても、ゼネウスはこのウンディーネに白旗を振るしかなかった。
「それで、彼女と進展はしたのですか?」
「うっ」
ウンディーネが話題を変える。今回も白旗を揚げざるを得ない。
「今日はそのために来たのでしょう?」
「それはまあ、そうなんですけど……」
ゼネウスが言葉を濁す。その姿を見て、ウンディーネは困ったように笑みを浮かべる。
「一歩が踏み出せないのですね」
「……」
「まったく……」
やれやれと言いたいかのようにウンディーネが首を横に振る。それから優柔不断な弟を嗜めるように、困った笑みを浮かべてゼネウスに告げる。
「もっと積極的にならないと。いつまでもそんなことでは駄目駄目ですよ?」
「駄目だなーお前」
同時刻。シェフォンヌは同じ森の住人であるハーピーから駄目出しを食らっていた。理由はもちろんゼネウスに関してである。
「お前の方がずっと年上なんだから、こっちからフォローしてやんないと駄目だろー? それなのにお使いとかさせちゃってさー」
「うっ、それは……」
「後ろ向きになっちゃって。森の賢者が泣いてるぞー」
シェフォンヌとハーピーは顔馴染みだった。もっと言うと、シェフォンヌはこの森に棲んでいる魔物娘全員と顔馴染みであった。古くから森にいる「賢者」として、シェフォンヌはよく他の魔物娘の相談に乗っていたのである。
しかし今回は立場が逆になっていた。
「とにかく、真面目になんとかしないと駄目だぞ。あいつはまだ若いけど、もう立派な探検家なんだ。いつ次の冒険に出発してもおかしくないんだから」
「あっ、そうか。それは考えてなかった」
「考えてなかったって……」
「いやだって、彼はずっと私の所にいてくれると思ってたから……」
そこまで言って、シェフォンヌは沈黙する。自分の迂闊さに気づいてしまったからだ。ハーピーの言う通り、ゼネウスがいつまでもここにいてくれる保証はないのだ。
だと言うのに、自分は「いてくれる」と思い込んでしまっていた。ゼネウス当人の気持ちを考えず、自分の勝手な妄想を押し付けていた。
「好きなら好きって気持ちを伝えないと。いつまでも受け身のままじゃ、何も解決しないぞ」
「……」
その通りだ。ハーピーの言葉に、シェフォンヌが内心で同意する。ゼネウスのことは子供の頃から知っている。だがそのアドバンテージに胡坐をかいていては、いつか足元を掬われることになるだろう。
「善は急げって言うしな。次のお使いから帰ってくる頃にアタックかけるべきじゃない?」
ハーピーが発破をかける。それがシェフォンヌの心に踏ん切りをつけさせる。
あの時と同じようにはならない。今回は必ず仕留めてみせる。
「おっ、目の色が変わったな?」
決意を新たにしたシェフォンヌを見て、ハーピーがその小さな変化を機敏に察知する。シェフォンヌもまた、年上の矜持を見せつけんと胸の奥で奮起する。
「やるぞ。私はやる。今回こそはあの坊やに自分の気持ちを伝える」
「そうそう。そうこなくっちゃ! それでこそ森の賢者!」
静かに燃えるシェフォンヌをハーピーがおだてる。言葉の意味はよくわからないが、ともかくシェフォンヌを持ち上げることは出来た。
若造め。覚悟しろ。避けられないイベントを前に、シェフォンヌは一人覚悟を決めていた。
ゼネウスとシェフォンヌが出会ったのは、今から四年前だった。その時ゼネウスはまだ探検家ではなく、森に入ったのは単なる好奇心からだった。
「坊や、一人で来たのか? ここは危ないから早く帰りなさい」
そうして勇敢にも単騎突撃を行ったゼネウスを最初に見つけたのが、他ならぬシェフォンヌだった。彼女は「最初に見つけたのが自分で良かった」と思いつつ、努めて理知的にゼネウスとコンタクトを取った。
「いいかい坊や。ここには野生の魔物娘がいっぱいいるんだ。本能のままに生きる、危険な魔物娘たちだ。もしそんな者達に見つかってしまえば、坊やなどあっという間に食べられてしまうんだぞ」
「ごめんなさい。でも、どうしてもこの森が気になって。いてもたってもいられなかったんです」
ゼネウスは森の近くにある町に住んでいた。当然、この森の危険性も理解していた。
それが彼の探求心に火を点けた。大人が揃って危ないと言うこの森は、いったいどういう感じで危ないのだろうか。
「僕、それが気になったんです」
「だから一人で来たのか」
なんて行動力だ。シェフォンヌは舌を巻いた。同時に心配にもなった。
今の彼は、その心意気に技術が追いついていない。このままではまさに「好奇心猫を殺す」事態になりかねない。
それはよろしくない。今の内に少しでも生存率を上げておかなければ。
オウルメイジはお節介焼きだった。
「すまんが坊や、今の君はとても危険だ。探求心のままに生きるなら、それ相応の生存術を身に着けた方がいい」
「そうなんですか?」
「そうだ。そして私なら、それを坊やに教えることが出来る」
そこまで言って、一度言葉を区切る。そのままゼネウスを見つめ、相手の出方を窺う。
「どうするかは坊や次第だ。君はどう動く?」
一方、ゼネウスの心は決まっていた。
「はい! ぜひお願いします!」
「えっ」
「僕に長生きする方法を教えてください!」
ゼネウスはシェフォンヌの提案を受け入れた。迷いのない、快活な反応だった。
その即決ぶりにシェフォンヌは軽く驚いた。しかし提案したのは自分なので、すぐに気を取り直して彼にレクチャーを行うことにした。
「よ、よろしい。では早速だが、授業を始めるとしよう。ちゃんとついてくるのだぞ?」
「はいっ!」
ゼネウス・フォン・シュタインリヒ三世が九歳の時の話である。
その日の「講義」は至極簡単なものだった。シェフォンヌは基礎中の基礎――山の歩き方、野草の見分け方、火の起こし方のみを教え、それらは全て一日で完結した。
与えた知識自体は至って普遍的なものだった。だがそれが、ゼネウス少年の中に眠る才覚を爆発させた。彼はその後家に帰ると、両親が収めていた書物――特に魔物娘の生態や自然に関する本を片っ端から読み漁った。彼の家は名家だったので、蔵書の質と量は一級品だった。
そしてゼネウスは一読しただけで、そこにある知識をどんどん吸収していった。彼は天才だった。その天性の才覚が、シェフォンヌとの接触によって明確なベクトルを見出したのである。
その内彼は本だけでは満足出来なくなり、フィールドワークを熱望するようになった。外出希望するのに半年かからなかった。
「お前がここまでアクティブだとは思わなかったぞ」
彼の望みを聞いた両親は、最初大いに驚いた。だが彼の心意気を否定したりはせず、むしろ快く送り出した。しかし町の近くの森は危険なので、もっと安全で人の手の入ったところから始めなさいと忠告もした。
ゼネウスは両親のアドバイスを良く聞いた。そしてその通りに、彼は町を出て、遠方にあるより安全な森林や山岳を渡り歩いた。
結果、ド嵌りした。ゼネウスはますます探検に夢中になった。彼は若さと勢いを武器に方々を飛び回り、物凄いペースで経験を積んでいった。彼が一角の探検家として一部の人間に知られるようになるのも時間の問題だった。
「持ってきましたよ」
そして現在。麒麟児ゼネウス少年はこの森に帰って来た。自分のルーツ。全ての始まりであるこの森に。
懐古のために来たのではない。ゼネウスは明確な目的を持って、わざわざここまで出向いたのである。
「おお、来たか。それで頼んだ物は持って来たのか?」
「もちろんですとも。ちゃんと持ってきましたよ」
ゼネウスは負い目を感じていた。当時の彼は探検に夢中になるあまり、この森の事をすっかり忘れてしまっていた。そもそもの始まりであるシェフォンヌとの邂逅に関しても、記憶の彼方に追いやっていた。彼は過去の郷愁に浸るより、新たな知識を得ることを優先したのである。
そんな中、ある日不意に彼はシェフォンヌとこの森の事を思い出した。そして思い出すと同時に、猛烈に自分が恥ずかしくなった。自分に生きる道を示してくれた人の事を、今まですっかり忘れていたなんて。ゼネウスは猛烈に申し訳なさを感じ、いてもたってもいられなくなった。
「これでどうでしょう?」
「どれどれ……うむ、良い形だ。これなら遠くまで飛ばせるだろう」
故にここに来た。自分の都合を優先して彼女を放置したことを詫びに来た。ゼネウスは律儀な男だった。
「よろしい。合格だ」
「本当ですか? やった!」
「うむ。まっことあっぱれである」
喜ぶゼネウスを見て、シェフォンヌも自分の事のように嬉しそうに笑みを浮かべる。その後頃合いを見計らって、シェフォンヌがゼネウスに声をかける。
「気に病む必要はないぞ、ゼネウス」
「え?」
不意打ちだった。ゼネウスの顔から笑顔が消え、そうして真顔になったゼネウスをシェフォンヌが見つめる。
「今になってそなたがここに来た理由、私が気づかないとでも?」
シェフォンヌはゼネウスがこの森に来た理由について、既に察知していた。それを知ったゼネウスは途端に申し訳なくなり、雨に濡れた子犬のようにしゅんと静まり返った。
「すまん。責めるつもりで言ったんじゃないんだ。そんな顔しないでおくれ」
予想以上にへこんでしまったゼネウスを見て、シェフォンヌが慌ててフォローする。それが本当なのか窺うように、ゼネウスが上目遣いでシェフォンヌを見る。
「もちろんだ。本当だとも。私がそれくらいで怒る訳なかろう」
若干早口になってシェフォンヌが言う。それを聞いたゼネウスは顔を上げ、おずおずと尋ねた。
「本当に怒ってないんですか?」
「当然だ。むしろなぜそう思ったのだ」
「だって、さっきからお使いばかり頼むじゃないですか」
「あ――」
そういうことか。シェフォンヌは得心した。本日二度目の予想外しである。
そして罪悪感が芽生えた。自分の優柔不断がゼネウスを苦しめてしまったのかと、シェフォンヌは居たたまれない気持ちになった。
「違う。それは絶対に違う。私がそなたにお使いを頼んだのは、決してそなたを嫌っていたからではない」
「本当ですか?」
「本当だ! そなたは自分がここに顔を出さなくなったことを気に病んでいるのだろうが、その程度で私が怒るものか!」
早口でシェフォンヌがまくしたてる。ゼネウスは心が僅かに軽くなったのを自覚したが、同時に別の疑問が湧き上がる。
「じゃあ、どうしてお使いばかりさせたんですか?」
「それは……」
途端に言い淀む。ゼネウスがじっと見つめる。逃げてばかりではいけない。
たっぷり一分後、意を決してシェフォンヌが口を開く。
「その、恥ずかしかったから……」
「?」
「決心と言うか、踏ん切りがつかなかったから……」
「うーん?」
いまいち要領を得ない。何が言いたいのだろう。ゼネウスが訝しむ。
どこまで鈍いのだろう。全く気付く気配のないゼネウスに、とうとうシェフォンヌが腹を括る。
「そ、そなたが! 好きなのだ!」
長い沈黙があった。
ゼネウスは目の前の状況をまだ理解できずにいた。
シェフォンヌが。自分を。
「……いつからなんですか?」
「いつも何も、最初そなたに会った時だ」
「あの時点で?」
「うむ。一目惚れだ」
「そんな馬鹿な」
「仕方なかろう。幼いそなたを一目見た瞬間、私の心は決まってしまったのだ」
「は」
思考が止まる。
そんな、そんなことがあるのか。
「そんな簡単に……」
「仕方なかろう! 好きになっちゃったのは好きになっちゃったんだから!」
「――」
「それにちゃんと私の話は聞いてくれるし、教えたことはすぐ覚えてくれるし、礼儀正しいし、人当たりはいいし、とにかく――」
ゼネウスの頭には、それ以上シェフォンヌの言葉が入ってくることは無かった。シェフォンヌはこの後もゼネウスのどこが好きなのかを滔々と語ってみせたが、ゼネウスの頭は完全に真っ白になっていた。
ゼネウス・フォン・シュタインリヒ三世。御年十三歳。
この日彼は初めて、色恋を知った。
天才に弱点が生まれた瞬間だった。
「独り身の男が供も連れずにここに来るとは、自分から餌食になりに来たようなものだぞ?」
ゼネウスに対する「賢者」の第一声は、ため息交じりの忠告だった。そしてこの彼女の忠告は、まったくの正論だった。何故ならこの森は人の手が入っていない未開の地であり、野生の魔物娘がそこかしこに潜んでいたからだ。
そしてこの情報は、森の近くにある町でも常識として周知されていた。あの森には魔物娘がたくさんいるから気をつけよう。特に独身男性は不用意に近づいてはいけない。
そのように人間達が森を警戒していることを、「賢者」の側も知っていた。それでいて「賢者」は、そんな人間の用心深さに感心してもいた。
「危険な場所には踏み込まない。実に理性的で殊勝な心掛けだ。だというのに」
そこまで思いを巡らせた後、「賢者」は再びため息をついた。
「そなたは自分から危険を冒しに来るのか。馬鹿者と呼ばれても言い訳できんぞ」
「でしょうね」
呆れた調子の「賢者」の物言いに、ゼネウスが軽い口調で返す。眉を顰める「賢者」にゼネウスが言葉を続ける。
「でも俺は、ここに来ずにはいられなかったんです。あの町でこの森のことを聞いたら、居ても立っても居られなくなったんです」
「知ってから来たというのか」
「そうです」
驚く「賢者」にゼネウスが答える。「賢者」は呆然とし、続いて肩を落とした。
「そなた、その内身を滅ぼすぞ。好奇心で動くのも程々にせよ」
「よく言われますし、俺も自覚してます。でもこればかりはどうしようもなくって」
「なぜ改善しようとしない? なぜここに来た?」
「それは……ここに浪漫があるからです」
「賢者」からの問いにゼネウスが返す。答えになっているような、なっていないような、実にふわふわした回答だった。
「ああ、そういう……」
片翼の先で「賢者」が頬を掻く。彼女はゼネウスがどういう人種なのかをここで理解した。
情熱のためなら死ねる。一番厄介なタイプだ。
「まったく愚か者め」
しかしこの「賢者」は、そこで匙を投げるタイプでは無かった。
このまま彼を好きにさせれば、一日と経たずに魔物娘に「食べられて」しまうだろう。それは何というか、しのびない。
「仕方ない……。探検家よ、この森で少しでも理性的でいたければ、私の話をよく聞くがいい」
彼女はいい意味で言えば世話焼き、悪い意味で言えばお節介焼きだった。
「そうすれば、探検の途中で魔物娘に魅了される危険も減るだろう。可能性が無くなるわけではないがな」
どうするかはそなた次第だ。「賢者」が選択を迫る。そこまで聞いたゼネウスは、すぐに答えを出した。
「わかりました。お願いします」
迷いのない口振り。それが「賢者」の懸念をさらに強固にする。
「即決であるか」
「善は急げと言うでしょう?」
この男は、面白そうと思ったことには首を突っ込まずにはいられない、そういう性分なのだ。
「業の深い男よな」
ゼネウスの性質をそう見抜いた「賢者」は、そう言って三度ため息をついた。しかしそこに落胆や失望はなく、代わりに苦笑と安堵がこもっていた。
愚か者め。彼女は心の中で呟いた。
その後改めて、人間と魔物娘は互いの名前を教え合った。そしてそれまで互いの名を知らぬまま会話を成立させていたことに、どちらも軽く驚いた。
「やろうと思えば出来るものなんですね」
「少々寂しい気もするがな」
ともあれ、二人はそれぞれ名を知った。ゼネウスが眼前のオウルメイジを「シェフォンヌ」と認識し始めたのは、ここからであった。
「それで、最初に何をすればいいんでしょうか」
自己紹介を終えたところで、早速ゼネウスが本題に入る。シェフォンヌも頷き、話を始める。
「まずは喉が渇いた。ここから東に行った先に薬草があるから、それをいくつか採ってきてほしい。それを煎じて茶にするのでな」
「薬草? 茶?」
「うむ」
予想外の要求に、さしものゼネウスも若干たじろぐ。一方のシェフォンヌは当然と言わんばかりに、力強く首を縦に振る。
「それが危険回避と何か関係があるので?」
「無論だ」
「具体的には?」
「行けばわかる」
シェフォンヌは誤魔化した。ゼネウスは釈然としないと言わんばかりに不満げな顔を見せた。
そこにシェフォンヌが言葉を重ねる。
「乗り気でないなら、別にこの頼みを無視してもいいのだぞ?」
わかりやすい挑発。
その挑発が、ゼネウスの反骨精神に火を点けた。
結局ゼネウスはそれを受けた。だが勢いに任せて引き受けたその時点で、ゼネウスはそれがどういう類の仕事であるかを理解していた。
一言で言えば、お使いである。
「薬草を採って持って帰って来いって……」
目的地に向かう道すがら、ゼネウスはそう愚痴をこぼした。こぼしたくもなる。それくらいの事なら自分でやってもいいだろうに。
最初こそ、道中に何か危険な要素があるのではないかと予想してもいた。しかしその予想――期待とも言う――は、トラブルに巻き込まれることなく目的地に到達出来た時点で、淡い夢と化した。
帰り道も無事だったのは言うまでもない。
「おお、ちゃんと帰って来れたようだな。感心感心」
戻ってきたゼネウスにシェフォンヌが声をかける。彼にお使いをさせたオウルメイジは、初対面時と同じ体勢で彼を出迎えた。
「頼んだ薬草はちゃんと持って来たかの?」
「ええ。ありますよ」
シェフォンヌの問いにゼネウスがそう答え、一つの革袋を差し出す。それはゼネウスが持って来た代物であり、袋に封はされておらず、上から覗き込めば簡単に中身を確認することが出来た。
彼なりの優しさである。ゼネウスは心根の清らかな人間だった。
「では早速」
話を戻してシェフォンヌが確認に向かう。木から降り立ち、両手を器用に動かして革袋を受け取り、中を覗く。
「うむ。上出来」
革袋の中には、ちゃんと頼んだものと同じ薬草が入っていた。この森に群生する薬草は一種類ではないのだが、ゼネウスはそれらの中からシェフォンヌの要求した物をピンポイントで集めてきた。
予想通りの結果だ。
「私の頼んだ物だけをしっかり集めてきたようだな。感心感心」
「まあこれくらいなら、どうってことないですよ」
シェフォンヌからの称賛の言葉にゼネウスがヒネた回答をする。彼は褒められることに慣れていなかった。
やがて話のペースを自分の側に戻そうと、ゼネウスが話題を変える。
「それで、次はどうすればいいんですか?」
「うむ。次もお使いである」
「えっ」
とうとう向こうから明言した。唖然とするゼネウスにシェフォンヌが言葉を続ける。
「次は花だ。この森の中にある、とある花を摘んできてもらいたい……」
そのまま花の説明に入る。色、形、匂い、大きさ、あらゆる要素を事細かに説明していく。
「やけに詳しいですね」
「昔もらった思い出の花であるからな。詳しいのも当然よ」
「なるほど。それでその花を摘んでくるのが、危険を避ける方法とどういう関係があるのですか?」
過去を懐かしむシェフォンヌにゼネウスが問う。彼は本分を忘れていなかった。
現在に意識を引き戻されたシェフォンヌが口ごもる。彼女は回答を用意するのに少しばかり時間を要した。
「それは、ほら、あれだ。その花を持ってくるとだな」
「はい」
「その花……花は、魔除けになるのだ。魔物娘が苦手なパワーを秘めているのだ」
「なるほど」
「だから持ってまいれ。私の所に持って来れば、私自ら花を加工してお守りにしてしんぜよう」
シェフォンヌが答える。若干早口だった。
ゼネウスは追及しなかった。やや肩を落とし、小さく息を吐き、困ったように言った。
「わかりました。持ってきましょう」
「お、そうか。持ってくるか。よしよし。それでよい」
シェフォンヌが反応する。どこか安心したようだった。
ゼネウスは追及しなかった。そのまま踵を返し、言われた花を探しに向かった。
森の奥に消えるゼネウスを、シェフォンヌは無言で見送った。
数分後、ゼネウスが戻ってきた。彼は別の革袋に、言われた通りの花を綺麗に束ねて持って来た。
「持ってきましたよ」
「えっ、もう?」
帰ってきたゼネウスに、シェフォンヌが素っ頓狂な声を上げる。完全に予想外であった。
「速いよ」
「この森のことなら予習済みですからね」
「ほう?」
「あっ、あー、うん、まあ、うん」
得意げになったゼネウスがシェフォンヌの反応を受けてしどろもどろになる。シェフォンヌもそれ以上攻めはせず、微笑みを浮かべてゼネウスを見つめる。
再びペースがシェフォンヌの側に傾く。ここぞとばかりに攻勢に出る。
「ではそなたに、次の仕事をやろう。お使いをするのだ」
「またですか」
「こらえよ。何事にも順序があるのだ」
「逃げてるだけでは?」
「やかましい」
ゼネウスの物言いにシェフォンヌがぴしゃりと言い返す。切れ味鋭い言葉の刃が舞ったが、場の空気が冷たく切り裂かれることは無かった。
そこにあるのは懐古の情だった。
「では、次の仕事だ」
気を取り直してシェフォンヌが言う。ゼネウスは何も言わずに次を待つ。
シェフォンヌが言葉を続ける。
「覚悟せよ。お使いである」
三回目。焚き火に使える枝を集めてこい。
「持ってきました」
「よろしい」
四回目。川にいる魚を獲ってこい。
「獲ってきました」
「上等上等」
五回目。採った草花で花冠を作ってこい。
「作ってきました」
「ほほう。可愛いではないか」
六回目。
「それで、今度は何を要求されたんですか?」
六回目のお使いに出向いたゼネウスに、ウンディーネが声をかける。彼女はこの森に流れる川に棲む精霊であり、ゼネウスとは顔馴染みであった。
シェフォンヌからの六回目のお使い。それは水切りに使える石を持ってこいというものであった。
「水切りですか」
「ええ」
「あの時やったのと同じ?」
「そうですよ」
ウンディーネの問いにゼネウスが答える。この時ウンディーネは実に楽しそうに微笑み、ゼネウスは気恥ずかしそうにしかめっ面を浮かべていた。
「あの時はお二人で水切りしていましたよね」
「ええ。どっちがより遠くまで投げられるか競争してたんです」
「シェフォンヌの投げた石が私の目の前を掠めたんですよね?」
「まあ、そうです」
「その後どうしたんですっけ?」
「人のいるところで危ないことはするなと、二人纏めてあなたに怒られました」
追憶に胸をときめかせるように、過去のやらかしを引き合いにして相手をおちょくるように。ウンディーネが楽しそうにゼネウスに話を振る。水の精霊はこんなに意地悪だっただろうか。白状しながら、ゼネウスはそう思わずにはいられなかった。
「それは話し相手があなただからです」
ウンディーネがにこやかに言い放つ。弟が姉に主導権を握られるように、ゼネウスは何も言えずに顔をしかめる。
この人には昔から勝てない。何年経っても、ゼネウスはこのウンディーネに白旗を振るしかなかった。
「それで、彼女と進展はしたのですか?」
「うっ」
ウンディーネが話題を変える。今回も白旗を揚げざるを得ない。
「今日はそのために来たのでしょう?」
「それはまあ、そうなんですけど……」
ゼネウスが言葉を濁す。その姿を見て、ウンディーネは困ったように笑みを浮かべる。
「一歩が踏み出せないのですね」
「……」
「まったく……」
やれやれと言いたいかのようにウンディーネが首を横に振る。それから優柔不断な弟を嗜めるように、困った笑みを浮かべてゼネウスに告げる。
「もっと積極的にならないと。いつまでもそんなことでは駄目駄目ですよ?」
「駄目だなーお前」
同時刻。シェフォンヌは同じ森の住人であるハーピーから駄目出しを食らっていた。理由はもちろんゼネウスに関してである。
「お前の方がずっと年上なんだから、こっちからフォローしてやんないと駄目だろー? それなのにお使いとかさせちゃってさー」
「うっ、それは……」
「後ろ向きになっちゃって。森の賢者が泣いてるぞー」
シェフォンヌとハーピーは顔馴染みだった。もっと言うと、シェフォンヌはこの森に棲んでいる魔物娘全員と顔馴染みであった。古くから森にいる「賢者」として、シェフォンヌはよく他の魔物娘の相談に乗っていたのである。
しかし今回は立場が逆になっていた。
「とにかく、真面目になんとかしないと駄目だぞ。あいつはまだ若いけど、もう立派な探検家なんだ。いつ次の冒険に出発してもおかしくないんだから」
「あっ、そうか。それは考えてなかった」
「考えてなかったって……」
「いやだって、彼はずっと私の所にいてくれると思ってたから……」
そこまで言って、シェフォンヌは沈黙する。自分の迂闊さに気づいてしまったからだ。ハーピーの言う通り、ゼネウスがいつまでもここにいてくれる保証はないのだ。
だと言うのに、自分は「いてくれる」と思い込んでしまっていた。ゼネウス当人の気持ちを考えず、自分の勝手な妄想を押し付けていた。
「好きなら好きって気持ちを伝えないと。いつまでも受け身のままじゃ、何も解決しないぞ」
「……」
その通りだ。ハーピーの言葉に、シェフォンヌが内心で同意する。ゼネウスのことは子供の頃から知っている。だがそのアドバンテージに胡坐をかいていては、いつか足元を掬われることになるだろう。
「善は急げって言うしな。次のお使いから帰ってくる頃にアタックかけるべきじゃない?」
ハーピーが発破をかける。それがシェフォンヌの心に踏ん切りをつけさせる。
あの時と同じようにはならない。今回は必ず仕留めてみせる。
「おっ、目の色が変わったな?」
決意を新たにしたシェフォンヌを見て、ハーピーがその小さな変化を機敏に察知する。シェフォンヌもまた、年上の矜持を見せつけんと胸の奥で奮起する。
「やるぞ。私はやる。今回こそはあの坊やに自分の気持ちを伝える」
「そうそう。そうこなくっちゃ! それでこそ森の賢者!」
静かに燃えるシェフォンヌをハーピーがおだてる。言葉の意味はよくわからないが、ともかくシェフォンヌを持ち上げることは出来た。
若造め。覚悟しろ。避けられないイベントを前に、シェフォンヌは一人覚悟を決めていた。
ゼネウスとシェフォンヌが出会ったのは、今から四年前だった。その時ゼネウスはまだ探検家ではなく、森に入ったのは単なる好奇心からだった。
「坊や、一人で来たのか? ここは危ないから早く帰りなさい」
そうして勇敢にも単騎突撃を行ったゼネウスを最初に見つけたのが、他ならぬシェフォンヌだった。彼女は「最初に見つけたのが自分で良かった」と思いつつ、努めて理知的にゼネウスとコンタクトを取った。
「いいかい坊や。ここには野生の魔物娘がいっぱいいるんだ。本能のままに生きる、危険な魔物娘たちだ。もしそんな者達に見つかってしまえば、坊やなどあっという間に食べられてしまうんだぞ」
「ごめんなさい。でも、どうしてもこの森が気になって。いてもたってもいられなかったんです」
ゼネウスは森の近くにある町に住んでいた。当然、この森の危険性も理解していた。
それが彼の探求心に火を点けた。大人が揃って危ないと言うこの森は、いったいどういう感じで危ないのだろうか。
「僕、それが気になったんです」
「だから一人で来たのか」
なんて行動力だ。シェフォンヌは舌を巻いた。同時に心配にもなった。
今の彼は、その心意気に技術が追いついていない。このままではまさに「好奇心猫を殺す」事態になりかねない。
それはよろしくない。今の内に少しでも生存率を上げておかなければ。
オウルメイジはお節介焼きだった。
「すまんが坊や、今の君はとても危険だ。探求心のままに生きるなら、それ相応の生存術を身に着けた方がいい」
「そうなんですか?」
「そうだ。そして私なら、それを坊やに教えることが出来る」
そこまで言って、一度言葉を区切る。そのままゼネウスを見つめ、相手の出方を窺う。
「どうするかは坊や次第だ。君はどう動く?」
一方、ゼネウスの心は決まっていた。
「はい! ぜひお願いします!」
「えっ」
「僕に長生きする方法を教えてください!」
ゼネウスはシェフォンヌの提案を受け入れた。迷いのない、快活な反応だった。
その即決ぶりにシェフォンヌは軽く驚いた。しかし提案したのは自分なので、すぐに気を取り直して彼にレクチャーを行うことにした。
「よ、よろしい。では早速だが、授業を始めるとしよう。ちゃんとついてくるのだぞ?」
「はいっ!」
ゼネウス・フォン・シュタインリヒ三世が九歳の時の話である。
その日の「講義」は至極簡単なものだった。シェフォンヌは基礎中の基礎――山の歩き方、野草の見分け方、火の起こし方のみを教え、それらは全て一日で完結した。
与えた知識自体は至って普遍的なものだった。だがそれが、ゼネウス少年の中に眠る才覚を爆発させた。彼はその後家に帰ると、両親が収めていた書物――特に魔物娘の生態や自然に関する本を片っ端から読み漁った。彼の家は名家だったので、蔵書の質と量は一級品だった。
そしてゼネウスは一読しただけで、そこにある知識をどんどん吸収していった。彼は天才だった。その天性の才覚が、シェフォンヌとの接触によって明確なベクトルを見出したのである。
その内彼は本だけでは満足出来なくなり、フィールドワークを熱望するようになった。外出希望するのに半年かからなかった。
「お前がここまでアクティブだとは思わなかったぞ」
彼の望みを聞いた両親は、最初大いに驚いた。だが彼の心意気を否定したりはせず、むしろ快く送り出した。しかし町の近くの森は危険なので、もっと安全で人の手の入ったところから始めなさいと忠告もした。
ゼネウスは両親のアドバイスを良く聞いた。そしてその通りに、彼は町を出て、遠方にあるより安全な森林や山岳を渡り歩いた。
結果、ド嵌りした。ゼネウスはますます探検に夢中になった。彼は若さと勢いを武器に方々を飛び回り、物凄いペースで経験を積んでいった。彼が一角の探検家として一部の人間に知られるようになるのも時間の問題だった。
「持ってきましたよ」
そして現在。麒麟児ゼネウス少年はこの森に帰って来た。自分のルーツ。全ての始まりであるこの森に。
懐古のために来たのではない。ゼネウスは明確な目的を持って、わざわざここまで出向いたのである。
「おお、来たか。それで頼んだ物は持って来たのか?」
「もちろんですとも。ちゃんと持ってきましたよ」
ゼネウスは負い目を感じていた。当時の彼は探検に夢中になるあまり、この森の事をすっかり忘れてしまっていた。そもそもの始まりであるシェフォンヌとの邂逅に関しても、記憶の彼方に追いやっていた。彼は過去の郷愁に浸るより、新たな知識を得ることを優先したのである。
そんな中、ある日不意に彼はシェフォンヌとこの森の事を思い出した。そして思い出すと同時に、猛烈に自分が恥ずかしくなった。自分に生きる道を示してくれた人の事を、今まですっかり忘れていたなんて。ゼネウスは猛烈に申し訳なさを感じ、いてもたってもいられなくなった。
「これでどうでしょう?」
「どれどれ……うむ、良い形だ。これなら遠くまで飛ばせるだろう」
故にここに来た。自分の都合を優先して彼女を放置したことを詫びに来た。ゼネウスは律儀な男だった。
「よろしい。合格だ」
「本当ですか? やった!」
「うむ。まっことあっぱれである」
喜ぶゼネウスを見て、シェフォンヌも自分の事のように嬉しそうに笑みを浮かべる。その後頃合いを見計らって、シェフォンヌがゼネウスに声をかける。
「気に病む必要はないぞ、ゼネウス」
「え?」
不意打ちだった。ゼネウスの顔から笑顔が消え、そうして真顔になったゼネウスをシェフォンヌが見つめる。
「今になってそなたがここに来た理由、私が気づかないとでも?」
シェフォンヌはゼネウスがこの森に来た理由について、既に察知していた。それを知ったゼネウスは途端に申し訳なくなり、雨に濡れた子犬のようにしゅんと静まり返った。
「すまん。責めるつもりで言ったんじゃないんだ。そんな顔しないでおくれ」
予想以上にへこんでしまったゼネウスを見て、シェフォンヌが慌ててフォローする。それが本当なのか窺うように、ゼネウスが上目遣いでシェフォンヌを見る。
「もちろんだ。本当だとも。私がそれくらいで怒る訳なかろう」
若干早口になってシェフォンヌが言う。それを聞いたゼネウスは顔を上げ、おずおずと尋ねた。
「本当に怒ってないんですか?」
「当然だ。むしろなぜそう思ったのだ」
「だって、さっきからお使いばかり頼むじゃないですか」
「あ――」
そういうことか。シェフォンヌは得心した。本日二度目の予想外しである。
そして罪悪感が芽生えた。自分の優柔不断がゼネウスを苦しめてしまったのかと、シェフォンヌは居たたまれない気持ちになった。
「違う。それは絶対に違う。私がそなたにお使いを頼んだのは、決してそなたを嫌っていたからではない」
「本当ですか?」
「本当だ! そなたは自分がここに顔を出さなくなったことを気に病んでいるのだろうが、その程度で私が怒るものか!」
早口でシェフォンヌがまくしたてる。ゼネウスは心が僅かに軽くなったのを自覚したが、同時に別の疑問が湧き上がる。
「じゃあ、どうしてお使いばかりさせたんですか?」
「それは……」
途端に言い淀む。ゼネウスがじっと見つめる。逃げてばかりではいけない。
たっぷり一分後、意を決してシェフォンヌが口を開く。
「その、恥ずかしかったから……」
「?」
「決心と言うか、踏ん切りがつかなかったから……」
「うーん?」
いまいち要領を得ない。何が言いたいのだろう。ゼネウスが訝しむ。
どこまで鈍いのだろう。全く気付く気配のないゼネウスに、とうとうシェフォンヌが腹を括る。
「そ、そなたが! 好きなのだ!」
長い沈黙があった。
ゼネウスは目の前の状況をまだ理解できずにいた。
シェフォンヌが。自分を。
「……いつからなんですか?」
「いつも何も、最初そなたに会った時だ」
「あの時点で?」
「うむ。一目惚れだ」
「そんな馬鹿な」
「仕方なかろう。幼いそなたを一目見た瞬間、私の心は決まってしまったのだ」
「は」
思考が止まる。
そんな、そんなことがあるのか。
「そんな簡単に……」
「仕方なかろう! 好きになっちゃったのは好きになっちゃったんだから!」
「――」
「それにちゃんと私の話は聞いてくれるし、教えたことはすぐ覚えてくれるし、礼儀正しいし、人当たりはいいし、とにかく――」
ゼネウスの頭には、それ以上シェフォンヌの言葉が入ってくることは無かった。シェフォンヌはこの後もゼネウスのどこが好きなのかを滔々と語ってみせたが、ゼネウスの頭は完全に真っ白になっていた。
ゼネウス・フォン・シュタインリヒ三世。御年十三歳。
この日彼は初めて、色恋を知った。
天才に弱点が生まれた瞬間だった。
20/02/09 19:53更新 / 黒尻尾