肉を知る
部屋の中に一組の男女。テーブルを挟み、向かい合うようにソファに座っている。
彼らの前には白磁のカップ。中には黄金色に輝く「普通」の紅茶。湯気は立ち消え、すっかり冷めている。
中身はちっとも減っていない。淹れられた時から今に至るまで、完全に放置されている。それでいて男女のどちらも、カップを手に取ろうとしない。
どちらも動かない。沈黙が部屋を支配する。空気は重く、二人は項垂れ、心臓の鼓動が秒刻みで速さを増す。
「……」
気まずい。長峰佑は、脂汗が頬を伝うのを感じた。とても気まずい。
目線を少し持ち上げる。テーブルの向こう側に女性が見える。白衣を着た幼女。バフォメットのグレイリア。
グレイリアが渋い表情でカップを凝視している。眉間には皺が刻まれ、口は真一文字に閉ざされている。
向こうから反応は無い。佑は言いようのない焦りを覚えた。この状況を早くなんとかしなければ。
原因は自分にあるのだ。自分が解決しないでどうする。
「あの」
「あっ」
だがそこで不運が顔を覗かせる。佑が口を開くと同時に、グレイリアもまた声をかけようとしたのだった。
結果、二人の声が被る。互いに不意を突かれ、出鼻をくじかれ、また黙る。
せっかくのチャンスを不意にしてしまった。これは痛い。
「……ああ、ごほん」
しかし神は――どちらの神かはわからないが――佑を見捨てなかった。意気消沈する佑の前で、グレイリアが大きく咳払いをする。そして自ら視線を上げ、佑をじっと見ながら口を開く。
悪魔の思い切りに救われた格好である。グレイリアが話し始める。
「あのことなんだが、本当なのか?」
第一声は疑問だった。彼女が何に対して回答を求めているのか、佑はよくわかっていた。
「どうなんだ?」
「……はい」
グレイリアからの質問に、佑が首を縦に振る。グレイリアはそれ以上追求せず、ただ「そうか」とのみ呟く。
「ためになったのか?」
グレイリアが質問を変える。これに対しても、佑は無駄なことは言わずに首を縦に振る。
今更であるが、ここで彼らが話題にしていたのは、前に佑が受けた「集中授業」のことである。佑はその件について黙っていたが、グレイリアはどうやってかその情報を掴み、今こうして彼を自室へ呼びつけていた。
尋問対象。それが今の佑の立場だった。
「具体的には? どのあたりが参考になったんだ?」
尋問官がしつこく食らいつく。佑は肩身の狭い思いを味わいながら、サバトの長達から受けたことを滔々と語った。
「実はこんなことが……」
「ほほう」
「あとこんなことも……」
「え、ああ、うん……?」
佑とのやり取りの中で、グレイリアがわかりやすく一喜一憂する。そして彼女と会話を交わす中で、佑は改めて己の想いを再確認した。
グレイリアの詰問が、却って彼の心を奮い立たせた。
「まったく……余計なことをする……」
意識を眼前に戻す。腕を組んだグレイリアが苦々しげに呟くのが見える。表情は堅かったが、視線は泳いでいた。頬も僅かに赤らんでいる。
可愛い。
「君、君もだな。あんまり真に受けるんじゃないぞ。あれはあくまで、その、お遊びのようなものだからな」
そこにグレイリアが釘を刺しに来る。自分に言い聞かせているかのような、どこかふわふわした言葉だった。
佑はそれに対して、うんともすんとも言わなかった。ただじっと、グレイリアの方を見つめていた。
「なんだ。どうした、そんなにじっと見つめて」
グレイリアが怪訝な顔をする。彼女の誤算は、佑の心境を見誤ったことだった。
「俺は遊びのつもりはないです」
「は」
佑の唐突な発言に、グレイリアが硬直する。
「俺は本気です」
「……ああ……」
言葉に詰まる。佑もグレイリアも、互いに相手を見たまま視線を逸らさない。
再び場が凍る。少し経って、恐る恐るグレイリアが尋ねる。
「それはその、つまり、そういうことなのか?」
言葉を濁して問い質す。佑も訂正は求めず、無言で頷く。
グレイリアが悟る。
「そ、そういうのは、他の魔女としてくれたまえ」
あからさまに動揺する。なぜ私なのだ、と愚痴さえこぼす。
だが佑は嘆かなかった。そう零すグレイリアの口元が緩んでいるのを、彼はしっかり認めていたからだ。
「まったく物好きめ。私のどこがそんなに」
「そういうところです」
「えっ」
佑の奇襲攻撃。直撃を食らったグレイリアが思わず硬直する。
すかさず佑が追撃する。
「驕らないところっていうか、真面目なところっていうか、とにかくそんなところが好きなんです」
「――」
「ああ言っちゃった。はい。好きです」
開き直ったように佑が言い放つ。グレイリアは口を半開きにしたまま動かない。
佑は止まらない。
「好きです。あなたのことが。好きになっていっちゃったんです」
言った。言ってやった。想いの丈を一気にぶちまける。佑は胸の内がすっと軽くなっていくのを実感した。背負っていた重荷を降ろしたような達成感と爽快感が、まとめて体を駆け抜ける。
「……」
そしてその重荷を、今度はグレイリアが背負う番だった。全く唐突に告白された彼女は、ただ思考停止するしかなかった。否、唐突ではない。告白自体はいきなりのことだったが、グレイリアはその「気配」自体には勘づいていた。彼の抱く自分への気持ちが日増しに大きくなっていっていることにも、当然気づいていた。気づいていながら、努めて平静を装っていた。恥ずかしい。イメージに合わない。堅物。あれこれ言い訳を考えてみるが、どれもしっくりこない。それに何より、嫌じゃない。
うん。彼のことは。佑のことは、嫌いではない。
寧ろ。
「そうか……」
腹を括るべき時が来たのかもしれない。
グレイリアの身体から憑き物が落ちる。
この間僅か数秒。下らない葛藤である。
「そうだな」
晴れ晴れとした顔で、グレイリアが佑に向き直る。佑も真剣な面持ちでグレイリアを見つめ返す。
二人の男女が惹かれ合う。テーブルが邪魔だ。
ともかく惹かれ合う。もう言葉はいらない。ただ見つめ合うだけで、相手の気持ちが手に取るようにわかる。
「君が私の兄か」
恍惚とした口ぶりで、グレイリアが佑に告げる。佑が無言で頷き、グレイリアが微笑する。
「うむ。悪くないな」
グレイリアが笑う。それを見ただけで、佑の心臓が大きく跳ねる。
息が苦しい。こんな感覚は初めてだ。何か言いたかったが、言葉が喉で詰まって何も出てこない。
「無理しなくていい」
グレイリアが助け舟を出す。言われるまま、佑が頷く。
「素直でよろしい」
頷く佑を見て、再びグレイリアが笑う。また心臓が跳ねる。
卑怯だ。
口には出さずに佑が見つめる。グレイリアも柔らかい眼差しを浮かべ、佑を見つめ返す。
二人の視線が交錯する。二人の心が絡まり一つに重なる。至福の時間。
「グレイリア様! 急患です!」
そこに横槍が入る。一人の魔女がドアを開け放ち、長たるグレイリアに情報を送らんと馳せ参じる。
直後、場の空気を読んで気まずさを味わったのは言うまでもない。
運ばれてきたのは、全員が教団の面々だった。一人が大人で残りが子供。大人の男は教団の鎧を身に着け、子供達の方は教団の制服の上からボロ衣を纏っていた。
「鎧の男は御者で、子供達が荷物。荷車に子供を載せ、馬車でこの町に向かっていたところ、運悪く竜巻に襲われたらしい」
「なぜ教団が子供を連れてここに? 口減らしか? 捨てようとしたとか?」
「偵察をさせようって肚だったんじゃないか。子供らの方は制服を隠すようにボロを着ていたって言うじゃないか」
「素性を隠して潜入捜査させようって感じで?」
「そんな感じ」
教団の一隊が負傷者としてグレイリア・サバトに運ばれていった件は、既に町中に知れ渡っていた。そしてその情報を受け取った住人達はあちらこちらでグループを作り、その中でそれぞれ思い思いに憶測や妄想をぶつけ合った。
「偵察って、なんでそんなこと」
「知らないよ。でもここには魔物娘も多く住んでるからな。理由は探せばいくらでもあるんじゃないか」
「どうして目の敵にするのかしらー? 私達は静かに暮らしてるだけなのにー?」
そういったことに目が無い一部の魔物娘も、人間達に混じって雑談に興じていた。心配の度合いは人によってまちまちだったが、教団を悪く言う者はいなかった。
「なんにしても、無事でいてくれればいいが」
人命優先。グレイリア・サバトの助力によって発展を遂げたこの町は、その過程においてサバトのモットーを色濃く受け継いでいった。そしてその意志は今なお町の人達の中に残り、時代を越えて健やかに息づいていた。
「本当にねえ。生きていればそれだけで御の字よ」
「死んじまったら元も子もないからなあ」
命を軽く扱う者は、この町には一人もいなかった。
そんな命を尊ぶ姿勢は、件のサバトにおいても変わらなかった。否、総本山たるサバト――の拠点の一つ――だからこそ、よりそれを重要視していた。
「術式! 魔力を同調させるのだ、急げ!」
「はい!」
「はーいっ!」
処置室に到着したグレイリアの号令のもと、治療を担当することになったサバトのメンバーが一斉に魔力を編み始める。それは自分の担当する患者がそれぞれ保有している魔力に限りなく似せて組まれた、特製の魔術式であった。
ほぼ同質の魔力を用いることによって抵抗を和らげ、負担を与えることなく患者の内へ浸透させ患部を癒していく。それが医療魔法の「キモ」である。
「――ッ」
それは裏を返せば、相手ごとに異なる性質の魔力を適宜編み込む必要があるとも言える。手間がかかるし、時間もかかるし、何より難易度が高い。相手を癒すのは、相手を壊すことよりずっと難しいことなのだ。
だがその場にいた誰も、そのことに愚痴をこぼすことは無かった。治療に従事した者全員が、ただ患者を治すことのみに意識を集中させ、難度の高い構築に率先して挑んでいった。
全ては生命のため。健やかなる心身を取り戻すため。グレイリア・サバトの高潔なる精神は、末端のメンバーにまで確かに行き届いていた。
「……よし、出来た」
「さぁ〜て、今から治療始めますからね〜」
なお、この時患者の治療を担当しているのは、全員未婚の魔物娘であった。特に意味はない。
異性の治療を行う者は特にウキウキしていたが、他意は無い。命を救いたいという尊い使命に違いは無いのだ。
「ああ、君、ちょっと目を逸らしたまえ」
そしてそれを遠目で見ていたグレイリアが、不意に声をかける。彼女の声は、彼女の後ろで雑務を片づけていた佑に向けられていた。彼は今、グレイリア専属の雑用係としてこの場にいた。
そのグレイリアの言葉に気づいた佑が、顔を上げ何故かと勘繰る。直後、治療担当の魔物娘達がおもむろに服を脱ぎ始めたのを見て、グレイリアの言いたいことをすぐに察する。
「あっ、ごめんなさいっ」
反射的に視線を下げる。佑の対応を気配で察したグレイリアが安堵のため息をつき、それを見た周りの面々が彼らに愛しげな視線を送る。
「あらあら、グレイリア様ったら」
「独占欲ってやつですねぇ」
「ようやくグレイリア様にも春が来たのですね……」
「嬉しいですわ〜」
「そこ、聞こえてるぞ」
方々から飛んで来る桃色の言葉に、思わずグレイリアが釘を刺す。佑は一気に気まずさを覚え、そんな彼にも生暖かい視線が向けられる。
「あの子がグレイリア様の?」
「お兄様みたいですね〜」
「いいなぁ。私もお兄ちゃんほしいなぁ」
「そこ、落ち着きたまえ」
周りが再び活気を取り戻す。すかさずグレイリアが釘を刺す。前の物より幾分か刺々しさが増していた。
治療ベッドの方から艶めかしい喘ぎ声と水音が聞こえてくる。自分の周りからその光景を羨む声が聞こえてくる。
本当に生命尊んでるよね? セックスがしたいだけじゃないよね?
「無論だ。皆心から快癒を望んでいる。性的な方に意識を向けてしまうのは、まあ、魔物娘の本能だ。見逃してくれ」
佑の心の呟きに、グレイリアがすぐさま答える。
凄い環境だ。彼女の説明を聞いた佑は、改めてそう思った。
なお、治療自体はつつがなく完了した模様。特に何の波乱も起こらなかったので、ここでは割愛する。
術式終了後。佑は一人残って部屋の掃除を行っていた。彼だけをここに残し、他の面々が全員帰っていったのは、全てグレイリアの指示によるものだった。
最初それを聞いた時、佑は一瞬どうしてかと驚いた。しかしその直後、グレイリアの様子に気づいた佑は、彼女の意図を察して顔を赤くした。
「なるほど、そういう……」
そこにいたサバトの面々も、同じくグレイリアの企みに気づいた。故に誰も佑の身を案じなかったし、佑も不平を口にすることはなかった。
代わりにどちらも、期待に胸躍らせていた。感情のベクトルは異なっていたが、大元は同じ気持ちだった。
「すまない。待たせたな」
話を戻す。そうやって一人残って掃除をしている佑の元に、グレイリアがやってくる。彼女は佑にこの場を任せる際、自分は一時離席して、少ししてから戻ってくることを予め伝えていた。なのでグレイリアが姿を見せたことに、佑は驚かなかった。
緊張と興奮で心臓が飛び跳ねたが、顔には出さなかった。
「さて、まずは片づけるか」
やって来たグレイリアが口を開く。本題は別にあったが、掃除も大事だ。後のことを気持ち良く進められるためにも、二人は協力して片づけを進めた。元々大して汚れていなかったことと、目立った汚れが床に散らばった液体――何の液体かについて、佑は考えないことにした――くらいしか無かったために、掃除自体は短時間で終わった。
「終わりましたね」
「ああ」
全て終わらせた後、佑がグレイリアに話しかける。グレイリアもそれに応え、佑の方へ視線を向ける。
佑もまた、グレイリアの方に視線を向ける。以前の私室の時と同じように、二人の視線が重なり合う。
今回は誰も邪魔してこない。これ以上ない最高のタイミングだ。横並びになった二人が同じことを考える。
「……」
無言のまま、まず佑が近づく。カニ歩きで、少しずつグレイリアとの距離を詰める。それに呼応するように、グレイリアもまた同じ歩き方で佑に近づく。
あっという間に二人が横並びのまま密着する。互いの腕が触れあい、しかしどちらも驚きはしない。
「む……」
今度はグレイリアからアプローチを取る。ゆっくり腕を動かし、甘えるように佑の手を握り締める。
これにはさすがに、佑もちょっとびっくりする。だがすぐ気を取り直し、グレイリアの手を握り返す。
手を通し、お互いの体温を分かち合う。
「これは」
いいな。グレイリアがぽつりと呟く。
「……うん。良い。これは癖になりそうだ」
うっとりした声がグレイリアの口から飛び出す。佑の手に力がこもり、彼女の手を一際強く握る。
「グレイリア様」
握りながら、佑が尋ねる。好いた男の腕に頭を預けつつ、グレイリアが問い返す。
「次はどうしたい?」
「……したいです」
「そうか」
喉から絞り出された佑の返事に、グレイリアが反応する。
刹那、グレイリアが動く。手を握ったまま身を翻し、軽やかな動きで佑の正面に立つ。
そこからもう片方の手を広げ、佑に真っ向抱きつく。
「あっ――」
「性的な方に意識を向けてしまうのは」
グレイリアの言葉が、驚く佑を遮る。
佑の腹に顔を埋めつつ、グレイリアが言葉を続ける。
「魔物娘の本能だ」
バフォメットが顔を上げる。佑が視線を降ろして彼女を見る。
頬を赤らめ、瞳を潤ませた幼女の顔が、佑の視界に映る。
一人の雌が、「兄」と見定めた雄に声をかける。
「見逃して、くれるか?」
理性の糸が切れる。
佑が腰を降ろし、本能のままに腕を広げ、グレイリアの細い体を抱き締める。
同じ顔の高さになった二人が、どちらからともなく唇を重ねる。
激しく下品な水音が響く。唇で繋がったまま、グレイリアが佑を押し倒す。
「犯してくれ」
顔を離し、しかし至近距離で見つめ合ったまま、グレイリアが懇願する。
「もう駄目だ。狂いそうなんだ。君で私を鎮めてくれ」
口の端から唾液が流れ落ちる。バフォメットの唾液が佑の頬を汚す。
それすら心地よい。
「私に」
バフォメットの吐息が当たる。甘い魔力が鼻腔を通り、脳を優しく蕩かす。
麻痺した思考に、バフォメットがトドメを刺す。
「『兄』を教えてくれ」
後はもう堕ちるだけだった。
彼らの前には白磁のカップ。中には黄金色に輝く「普通」の紅茶。湯気は立ち消え、すっかり冷めている。
中身はちっとも減っていない。淹れられた時から今に至るまで、完全に放置されている。それでいて男女のどちらも、カップを手に取ろうとしない。
どちらも動かない。沈黙が部屋を支配する。空気は重く、二人は項垂れ、心臓の鼓動が秒刻みで速さを増す。
「……」
気まずい。長峰佑は、脂汗が頬を伝うのを感じた。とても気まずい。
目線を少し持ち上げる。テーブルの向こう側に女性が見える。白衣を着た幼女。バフォメットのグレイリア。
グレイリアが渋い表情でカップを凝視している。眉間には皺が刻まれ、口は真一文字に閉ざされている。
向こうから反応は無い。佑は言いようのない焦りを覚えた。この状況を早くなんとかしなければ。
原因は自分にあるのだ。自分が解決しないでどうする。
「あの」
「あっ」
だがそこで不運が顔を覗かせる。佑が口を開くと同時に、グレイリアもまた声をかけようとしたのだった。
結果、二人の声が被る。互いに不意を突かれ、出鼻をくじかれ、また黙る。
せっかくのチャンスを不意にしてしまった。これは痛い。
「……ああ、ごほん」
しかし神は――どちらの神かはわからないが――佑を見捨てなかった。意気消沈する佑の前で、グレイリアが大きく咳払いをする。そして自ら視線を上げ、佑をじっと見ながら口を開く。
悪魔の思い切りに救われた格好である。グレイリアが話し始める。
「あのことなんだが、本当なのか?」
第一声は疑問だった。彼女が何に対して回答を求めているのか、佑はよくわかっていた。
「どうなんだ?」
「……はい」
グレイリアからの質問に、佑が首を縦に振る。グレイリアはそれ以上追求せず、ただ「そうか」とのみ呟く。
「ためになったのか?」
グレイリアが質問を変える。これに対しても、佑は無駄なことは言わずに首を縦に振る。
今更であるが、ここで彼らが話題にしていたのは、前に佑が受けた「集中授業」のことである。佑はその件について黙っていたが、グレイリアはどうやってかその情報を掴み、今こうして彼を自室へ呼びつけていた。
尋問対象。それが今の佑の立場だった。
「具体的には? どのあたりが参考になったんだ?」
尋問官がしつこく食らいつく。佑は肩身の狭い思いを味わいながら、サバトの長達から受けたことを滔々と語った。
「実はこんなことが……」
「ほほう」
「あとこんなことも……」
「え、ああ、うん……?」
佑とのやり取りの中で、グレイリアがわかりやすく一喜一憂する。そして彼女と会話を交わす中で、佑は改めて己の想いを再確認した。
グレイリアの詰問が、却って彼の心を奮い立たせた。
「まったく……余計なことをする……」
意識を眼前に戻す。腕を組んだグレイリアが苦々しげに呟くのが見える。表情は堅かったが、視線は泳いでいた。頬も僅かに赤らんでいる。
可愛い。
「君、君もだな。あんまり真に受けるんじゃないぞ。あれはあくまで、その、お遊びのようなものだからな」
そこにグレイリアが釘を刺しに来る。自分に言い聞かせているかのような、どこかふわふわした言葉だった。
佑はそれに対して、うんともすんとも言わなかった。ただじっと、グレイリアの方を見つめていた。
「なんだ。どうした、そんなにじっと見つめて」
グレイリアが怪訝な顔をする。彼女の誤算は、佑の心境を見誤ったことだった。
「俺は遊びのつもりはないです」
「は」
佑の唐突な発言に、グレイリアが硬直する。
「俺は本気です」
「……ああ……」
言葉に詰まる。佑もグレイリアも、互いに相手を見たまま視線を逸らさない。
再び場が凍る。少し経って、恐る恐るグレイリアが尋ねる。
「それはその、つまり、そういうことなのか?」
言葉を濁して問い質す。佑も訂正は求めず、無言で頷く。
グレイリアが悟る。
「そ、そういうのは、他の魔女としてくれたまえ」
あからさまに動揺する。なぜ私なのだ、と愚痴さえこぼす。
だが佑は嘆かなかった。そう零すグレイリアの口元が緩んでいるのを、彼はしっかり認めていたからだ。
「まったく物好きめ。私のどこがそんなに」
「そういうところです」
「えっ」
佑の奇襲攻撃。直撃を食らったグレイリアが思わず硬直する。
すかさず佑が追撃する。
「驕らないところっていうか、真面目なところっていうか、とにかくそんなところが好きなんです」
「――」
「ああ言っちゃった。はい。好きです」
開き直ったように佑が言い放つ。グレイリアは口を半開きにしたまま動かない。
佑は止まらない。
「好きです。あなたのことが。好きになっていっちゃったんです」
言った。言ってやった。想いの丈を一気にぶちまける。佑は胸の内がすっと軽くなっていくのを実感した。背負っていた重荷を降ろしたような達成感と爽快感が、まとめて体を駆け抜ける。
「……」
そしてその重荷を、今度はグレイリアが背負う番だった。全く唐突に告白された彼女は、ただ思考停止するしかなかった。否、唐突ではない。告白自体はいきなりのことだったが、グレイリアはその「気配」自体には勘づいていた。彼の抱く自分への気持ちが日増しに大きくなっていっていることにも、当然気づいていた。気づいていながら、努めて平静を装っていた。恥ずかしい。イメージに合わない。堅物。あれこれ言い訳を考えてみるが、どれもしっくりこない。それに何より、嫌じゃない。
うん。彼のことは。佑のことは、嫌いではない。
寧ろ。
「そうか……」
腹を括るべき時が来たのかもしれない。
グレイリアの身体から憑き物が落ちる。
この間僅か数秒。下らない葛藤である。
「そうだな」
晴れ晴れとした顔で、グレイリアが佑に向き直る。佑も真剣な面持ちでグレイリアを見つめ返す。
二人の男女が惹かれ合う。テーブルが邪魔だ。
ともかく惹かれ合う。もう言葉はいらない。ただ見つめ合うだけで、相手の気持ちが手に取るようにわかる。
「君が私の兄か」
恍惚とした口ぶりで、グレイリアが佑に告げる。佑が無言で頷き、グレイリアが微笑する。
「うむ。悪くないな」
グレイリアが笑う。それを見ただけで、佑の心臓が大きく跳ねる。
息が苦しい。こんな感覚は初めてだ。何か言いたかったが、言葉が喉で詰まって何も出てこない。
「無理しなくていい」
グレイリアが助け舟を出す。言われるまま、佑が頷く。
「素直でよろしい」
頷く佑を見て、再びグレイリアが笑う。また心臓が跳ねる。
卑怯だ。
口には出さずに佑が見つめる。グレイリアも柔らかい眼差しを浮かべ、佑を見つめ返す。
二人の視線が交錯する。二人の心が絡まり一つに重なる。至福の時間。
「グレイリア様! 急患です!」
そこに横槍が入る。一人の魔女がドアを開け放ち、長たるグレイリアに情報を送らんと馳せ参じる。
直後、場の空気を読んで気まずさを味わったのは言うまでもない。
運ばれてきたのは、全員が教団の面々だった。一人が大人で残りが子供。大人の男は教団の鎧を身に着け、子供達の方は教団の制服の上からボロ衣を纏っていた。
「鎧の男は御者で、子供達が荷物。荷車に子供を載せ、馬車でこの町に向かっていたところ、運悪く竜巻に襲われたらしい」
「なぜ教団が子供を連れてここに? 口減らしか? 捨てようとしたとか?」
「偵察をさせようって肚だったんじゃないか。子供らの方は制服を隠すようにボロを着ていたって言うじゃないか」
「素性を隠して潜入捜査させようって感じで?」
「そんな感じ」
教団の一隊が負傷者としてグレイリア・サバトに運ばれていった件は、既に町中に知れ渡っていた。そしてその情報を受け取った住人達はあちらこちらでグループを作り、その中でそれぞれ思い思いに憶測や妄想をぶつけ合った。
「偵察って、なんでそんなこと」
「知らないよ。でもここには魔物娘も多く住んでるからな。理由は探せばいくらでもあるんじゃないか」
「どうして目の敵にするのかしらー? 私達は静かに暮らしてるだけなのにー?」
そういったことに目が無い一部の魔物娘も、人間達に混じって雑談に興じていた。心配の度合いは人によってまちまちだったが、教団を悪く言う者はいなかった。
「なんにしても、無事でいてくれればいいが」
人命優先。グレイリア・サバトの助力によって発展を遂げたこの町は、その過程においてサバトのモットーを色濃く受け継いでいった。そしてその意志は今なお町の人達の中に残り、時代を越えて健やかに息づいていた。
「本当にねえ。生きていればそれだけで御の字よ」
「死んじまったら元も子もないからなあ」
命を軽く扱う者は、この町には一人もいなかった。
そんな命を尊ぶ姿勢は、件のサバトにおいても変わらなかった。否、総本山たるサバト――の拠点の一つ――だからこそ、よりそれを重要視していた。
「術式! 魔力を同調させるのだ、急げ!」
「はい!」
「はーいっ!」
処置室に到着したグレイリアの号令のもと、治療を担当することになったサバトのメンバーが一斉に魔力を編み始める。それは自分の担当する患者がそれぞれ保有している魔力に限りなく似せて組まれた、特製の魔術式であった。
ほぼ同質の魔力を用いることによって抵抗を和らげ、負担を与えることなく患者の内へ浸透させ患部を癒していく。それが医療魔法の「キモ」である。
「――ッ」
それは裏を返せば、相手ごとに異なる性質の魔力を適宜編み込む必要があるとも言える。手間がかかるし、時間もかかるし、何より難易度が高い。相手を癒すのは、相手を壊すことよりずっと難しいことなのだ。
だがその場にいた誰も、そのことに愚痴をこぼすことは無かった。治療に従事した者全員が、ただ患者を治すことのみに意識を集中させ、難度の高い構築に率先して挑んでいった。
全ては生命のため。健やかなる心身を取り戻すため。グレイリア・サバトの高潔なる精神は、末端のメンバーにまで確かに行き届いていた。
「……よし、出来た」
「さぁ〜て、今から治療始めますからね〜」
なお、この時患者の治療を担当しているのは、全員未婚の魔物娘であった。特に意味はない。
異性の治療を行う者は特にウキウキしていたが、他意は無い。命を救いたいという尊い使命に違いは無いのだ。
「ああ、君、ちょっと目を逸らしたまえ」
そしてそれを遠目で見ていたグレイリアが、不意に声をかける。彼女の声は、彼女の後ろで雑務を片づけていた佑に向けられていた。彼は今、グレイリア専属の雑用係としてこの場にいた。
そのグレイリアの言葉に気づいた佑が、顔を上げ何故かと勘繰る。直後、治療担当の魔物娘達がおもむろに服を脱ぎ始めたのを見て、グレイリアの言いたいことをすぐに察する。
「あっ、ごめんなさいっ」
反射的に視線を下げる。佑の対応を気配で察したグレイリアが安堵のため息をつき、それを見た周りの面々が彼らに愛しげな視線を送る。
「あらあら、グレイリア様ったら」
「独占欲ってやつですねぇ」
「ようやくグレイリア様にも春が来たのですね……」
「嬉しいですわ〜」
「そこ、聞こえてるぞ」
方々から飛んで来る桃色の言葉に、思わずグレイリアが釘を刺す。佑は一気に気まずさを覚え、そんな彼にも生暖かい視線が向けられる。
「あの子がグレイリア様の?」
「お兄様みたいですね〜」
「いいなぁ。私もお兄ちゃんほしいなぁ」
「そこ、落ち着きたまえ」
周りが再び活気を取り戻す。すかさずグレイリアが釘を刺す。前の物より幾分か刺々しさが増していた。
治療ベッドの方から艶めかしい喘ぎ声と水音が聞こえてくる。自分の周りからその光景を羨む声が聞こえてくる。
本当に生命尊んでるよね? セックスがしたいだけじゃないよね?
「無論だ。皆心から快癒を望んでいる。性的な方に意識を向けてしまうのは、まあ、魔物娘の本能だ。見逃してくれ」
佑の心の呟きに、グレイリアがすぐさま答える。
凄い環境だ。彼女の説明を聞いた佑は、改めてそう思った。
なお、治療自体はつつがなく完了した模様。特に何の波乱も起こらなかったので、ここでは割愛する。
術式終了後。佑は一人残って部屋の掃除を行っていた。彼だけをここに残し、他の面々が全員帰っていったのは、全てグレイリアの指示によるものだった。
最初それを聞いた時、佑は一瞬どうしてかと驚いた。しかしその直後、グレイリアの様子に気づいた佑は、彼女の意図を察して顔を赤くした。
「なるほど、そういう……」
そこにいたサバトの面々も、同じくグレイリアの企みに気づいた。故に誰も佑の身を案じなかったし、佑も不平を口にすることはなかった。
代わりにどちらも、期待に胸躍らせていた。感情のベクトルは異なっていたが、大元は同じ気持ちだった。
「すまない。待たせたな」
話を戻す。そうやって一人残って掃除をしている佑の元に、グレイリアがやってくる。彼女は佑にこの場を任せる際、自分は一時離席して、少ししてから戻ってくることを予め伝えていた。なのでグレイリアが姿を見せたことに、佑は驚かなかった。
緊張と興奮で心臓が飛び跳ねたが、顔には出さなかった。
「さて、まずは片づけるか」
やって来たグレイリアが口を開く。本題は別にあったが、掃除も大事だ。後のことを気持ち良く進められるためにも、二人は協力して片づけを進めた。元々大して汚れていなかったことと、目立った汚れが床に散らばった液体――何の液体かについて、佑は考えないことにした――くらいしか無かったために、掃除自体は短時間で終わった。
「終わりましたね」
「ああ」
全て終わらせた後、佑がグレイリアに話しかける。グレイリアもそれに応え、佑の方へ視線を向ける。
佑もまた、グレイリアの方に視線を向ける。以前の私室の時と同じように、二人の視線が重なり合う。
今回は誰も邪魔してこない。これ以上ない最高のタイミングだ。横並びになった二人が同じことを考える。
「……」
無言のまま、まず佑が近づく。カニ歩きで、少しずつグレイリアとの距離を詰める。それに呼応するように、グレイリアもまた同じ歩き方で佑に近づく。
あっという間に二人が横並びのまま密着する。互いの腕が触れあい、しかしどちらも驚きはしない。
「む……」
今度はグレイリアからアプローチを取る。ゆっくり腕を動かし、甘えるように佑の手を握り締める。
これにはさすがに、佑もちょっとびっくりする。だがすぐ気を取り直し、グレイリアの手を握り返す。
手を通し、お互いの体温を分かち合う。
「これは」
いいな。グレイリアがぽつりと呟く。
「……うん。良い。これは癖になりそうだ」
うっとりした声がグレイリアの口から飛び出す。佑の手に力がこもり、彼女の手を一際強く握る。
「グレイリア様」
握りながら、佑が尋ねる。好いた男の腕に頭を預けつつ、グレイリアが問い返す。
「次はどうしたい?」
「……したいです」
「そうか」
喉から絞り出された佑の返事に、グレイリアが反応する。
刹那、グレイリアが動く。手を握ったまま身を翻し、軽やかな動きで佑の正面に立つ。
そこからもう片方の手を広げ、佑に真っ向抱きつく。
「あっ――」
「性的な方に意識を向けてしまうのは」
グレイリアの言葉が、驚く佑を遮る。
佑の腹に顔を埋めつつ、グレイリアが言葉を続ける。
「魔物娘の本能だ」
バフォメットが顔を上げる。佑が視線を降ろして彼女を見る。
頬を赤らめ、瞳を潤ませた幼女の顔が、佑の視界に映る。
一人の雌が、「兄」と見定めた雄に声をかける。
「見逃して、くれるか?」
理性の糸が切れる。
佑が腰を降ろし、本能のままに腕を広げ、グレイリアの細い体を抱き締める。
同じ顔の高さになった二人が、どちらからともなく唇を重ねる。
激しく下品な水音が響く。唇で繋がったまま、グレイリアが佑を押し倒す。
「犯してくれ」
顔を離し、しかし至近距離で見つめ合ったまま、グレイリアが懇願する。
「もう駄目だ。狂いそうなんだ。君で私を鎮めてくれ」
口の端から唾液が流れ落ちる。バフォメットの唾液が佑の頬を汚す。
それすら心地よい。
「私に」
バフォメットの吐息が当たる。甘い魔力が鼻腔を通り、脳を優しく蕩かす。
麻痺した思考に、バフォメットがトドメを刺す。
「『兄』を教えてくれ」
後はもう堕ちるだけだった。
19/10/14 19:23更新 / 黒尻尾
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