過去を知る
何が原因でこうなったのか。長峰佑は思い出すことが出来なかった。何故自分は毛布を掛けられ、ベッドの上で横になっているのか。それに至る過去の軌跡を、彼は思い出すことが出来なかった。
もっとも、完全に忘却したわけではない。脳内の「軌跡」はあくまで粉々に砕けただけであり、その残滓――記憶の断片はなおも意識の中で息づき、眩く輝いていた。
「やめなさい」
思い出せないが、かき集めて見つめ直すことは出来る。佑はおぼろげな意識の中、その断片に「視線」を向け、己の身に起きたことを把握しようとした。
「無理はしない方がいい。傷は治ったが、まだ完全に治癒したわけではない」
隣から声がする。落ち着いた女性の声だ。しかし佑は止まらなかった。
知りたかった。何があったのか。何を忘れたのか。何故忘れたのか。何故中途半端に記憶が残っているのか。長峰佑は知りたかった。
そうして、彼の意識は過去に飛んだ。
過去への旅は数分で終わった。彼がここに至るまでの道程は、数分の振り返りで終わるほどに短く味気ないものであった。
「気が済んだかい?」
隣から声がする。落ち着いた女性の声。「視線」を現在に戻した佑が、首を動かして視線を女性に向ける。
白衣を着た女の人。見た目は幼い。子供だ。目の下にクマがあり、頭からねじれた角が二本生えている。
佑はこの子を知っている。ほんの少し前に自分が助けた子だ。
良かった。生きてる。佑の心に安堵が生まれる。目から涙が滲み出す。
「大丈夫だよ。みんな無事だ。君のおかげだよ」
ベッドの隣に立つ白衣の少女が、佑に優しく声をかける。腕を伸ばし、佑の額に手を添える。
「ありがとう。そして今は休みなさい。勇者殿」
少女が口を開く。佑が素直にそれに従う。頭を元の位置に戻し、目を閉じて体から力を抜く。
たちまち睡魔が襲ってくる。記憶と少女、二つの懸案が解決したことが、彼の神経を弛緩させた。
佑はそれに抗わなかった。角の生えた少女に言われるまま、彼はゆっくり休むことにした。
「……おやすみなさい」
佑が呟く。少女が答える。
「ああ。おやすみ」
二十時間前。長峰佑は他のクラスメイト二十九名と共に、観光バスに乗っていた。彼の通う中学校で行われた社会科見学に参加したためである。
そしてこの時、バスは帰路についていた。対象物の見学は全て終了し、後は学校に帰るだけであった。
直後、佑は眩い閃光に襲われた。光はバスの正面から発生し、佑とクラスメイト、同じく乗り込んでいた教員と運転手とバスガイド、バスそのものを丸ごと飲み込んだ。
声も出せなかった。本当に一瞬の出来事であった。
「……?」
光はすぐに晴れた。視界を覆う閃光が即座に消え失せ、目の機能を取り戻した彼らは一様に困惑した。
「なに?」
「なにがあったの?」
最初に自分を、次に周囲の他人を見やる。誰にも異常は見られない。バスも止まっている。
やがて意識が外に向く。
「わぁッ!」
外を見た一人が声を上げる。驚愕と恐怖の入り混じった声。
それが伝染する。同じように外を見ていた他の面々も、次々に口を開く。
「うそ!?」
「なんだよこれ!」
「なんで!?」
そこには見慣れぬ風景が広がっていた。バスの後方には荒野。左右にも荒野。足元も荒野。そして前方には、石で築かれたであろう古い城。
乗員たちはさらに困惑した。ここは明らかに、自分達が走っていた道ではない。アスファルトの道路も、雑多な建物の群れも、どこにも見当たらない。あるのはただ不毛の大地と、眼前にそびえる巨大な古城だけ。
意味が分からない。秒刻みで彼らの中で混乱が膨らんでいく。ざわめきが大きくなり、それを止められる者は誰もいない。
やがて恐怖が恐慌に変わる。その直前、彼らの眼前で変化が起きた。
「見ろ!」
それに気づいた誰かが、城の方を指差す。ギリギリのところで理性を保った彼らが、一斉にそちらを向く。
城の門が開いている。城の中から物々しい鎧に身を包んだ一団が、整然と列を作ってこちらに向かってくる。その集団の先頭に、ひときわ目立つ格好をした初老の男がいた。
「ようこそ! 諸君らは選ばれた!」
教会の法皇が着るような白い衣装を纏ったその男は、バスに向かって両手を上げて叫んだ。良く通る声だった。
十八時間前。バスから降りて城に通された面々は、一時間の小休止の後に説明を受けることとなった。
話し手は件の初老の男。内容は佑たちの身に起こったこと。
「あなたがたは選ばれたのです」
開口一番、男はそう言った。要領を得ないその言葉に困惑する一堂に、男が続けて言った。
「正確には、選ばれたのはそちらの子供達です。大人の皆さまには別室でお話を聞いていただくとしましょう。さあどうぞ」
男が生徒と生徒以外を引き離しにかかる。当然教員たちは反発したが、その直後、男と共に部屋に入っていた騎士達が一斉に剣を抜き放つ。
シャリン。金属の擦れる音が幾重にも重なり、室内に響き渡る。騎士達が一斉に「大人」の方を見やり、無言で剣の切っ先をそちらに向ける。
「さあこちらへ。どうぞどうぞ」
空気が張り詰める。老いた男がにこやかに言う。拒否権は無かった。
「さあ」
恐怖に支配された教員とバスの関係者が揃って立ち上がる。額から冷や汗を流し、言われるまま隣の部屋へ移動した。剣を抜いた騎士の数人が彼らの後に続き、最後の一人がドアを閉めた。
後には生徒と初老の男、剣を鞘に戻した騎士が残った。冷たい静寂が部屋を包む。一つ咳払いをして、初老の男が口を開く。
「さて、では改めて話をしましょうか」
十七時間前。話が終わる。
生徒達は話についていけなかった。
「――というわけなのです」
ここは今まで住んでいた場所とは別の世界。「こちら側の世界」には悪魔が蔓延り、人々の命が危険に晒されている。城側の男達はその悪魔と戦う正義の側の人間であり、佑たちを呼んだのはその「正義の戦い」のために彼らの力が必要であるからである。
「どうかそのために、皆様のお力を貸していただきたい」
いきなりそんなこと言われても困る。誰もがそう思った。佑も同じことを思った。馬鹿じゃねえの? 小声で悪態をつく者もいた。
佑も同じ気持ちだった。彼も悪口こそ言わなかったが、ため息はついた。それくらい呆れていた。周りの冷めた、もしくはうんざりした感情の流れに、彼も素直に同調した。
「お気持ちはわかります。いきなりそのようなことを言われても困りますよね。ですがあなた方は勇者。救世主なのです」
そこに追い打ちがかかる。初老の男が生徒達を見つめながら、そんなことを堂々と言ってのけた。目は期待に輝き、声色は確信に満ちていた。それを聞いた佑は軽く戦慄した。
こいつとは話が通じそうにない。そう思ったからだ。根拠は無かった。佑は直感でそう感じた。
直後、佑の懸念が現実のものとなる。
「それに何より、あなた方を元の世界に帰すことが出来るのは、我々だけなのです」
前と同じく自信たっぷりに、男が言い放つ。刹那、ざわめきが消え失せ、場の空気が一気に引き締まる。
生徒全員が男を見る。にこやかに男が言う。
「帰りたければ何をすべきか。わかりますよね?」
脅迫だ。佑だけでなく、他の生徒数人が同じことを思った。だがどうすることも出来なかった。
主導権は「向こう側」にあった。
それから六時間、佑たちはこちらの世界の常識をみっちり仕込まれた。
世界の歴史。世界の地理。悪魔の特徴。悪魔の能力。悪魔との戦い方。そして佑たちに秘められた神秘の力。そう言ったことを、子供たちは城の人間から一方的に教わった。最初に会った初老の男だけでなく、その他大勢の城の面々が、入れ替わり立ち替わり話をしていった。
特に悪魔の凶暴さや残虐さ、それと戦う自分達―主神教団の正義と正当性に関しては、城の者達は特に力を入れて話した。まるで悪魔に親を殺されたかの如く、憎悪と怒りを剥き出しにして悪魔を非難した。
ただしそこで城の連中が何を言ったのか、佑はさっぱり覚えていない。こっちの都合も知らないで、なに熱くなってんだ。目の前でヒートアップされればされるほど、佑の心は冷めていった。
周りの反応も概ね同じだった。城の連中の熱弁に同意する者は皆無だった。
そこから一時間の休憩を挟み、七時間を実技練習に費やした。教団の連中は生徒達に剣を持たせ、それの構え方や振り回し方を徹底的にレクチャーしていった。
拒否権は無かった。もちろん戦いたくないと拒絶する者もいた。だが彼らも「家への帰り方」を人質に出されると、従うしかなかった。
故に望む望まないにしろ、全員が剣を持って戦い方を教授するのに、さして時間はかからなかった。
なおこの部分の記憶も、佑の脳からはすっぽり抜け落ちていた。何を言われ、何を学んだのか。全く思い出せなかった。
「そんなこと、思い出す必要もないよ」
横から声が飛んで来る。あの角を生やした少女だ。意識を現在に急浮上させた佑は、驚きながらそちらを見た。
「心を読んだんじゃない。さっきからぽつぽつ呟いてたのが、耳に入っただけさ」
驚く佑に魔物が答える。佑は納得し、続けて「まだいてくれていたのか」と新たな質問を投げかける。
「患者を置いていくわけにはいかない。それに、君には助けられたしね」
冷静に、クールに、魔物が佑に言葉を返す。目の下にクマを刻んだ少女が、佑を見つめて小さく笑う。
笑いながら、鋭く暖かい声で佑に告げる。
「恩返しをさせてくれ。いいだろ?」
「うっ……」
佑が言葉を詰まらせる。少女の微笑みと台詞の格好良さに胸が高鳴り、思考が一瞬停止する。
顔が赤くなる。反射的に首を回し、顔ごと反対側を向く。
背後から愉快そうな笑い声が聞こえてくる。佑の顔はさらに赤くなった。
それを誤魔化すかのように、彼は意識を再び過去へ沈めていった。
潜航完了。中断していた軌跡の旅を再開する。
実技修練終了後、食事と休息と着替えに二時間を使った。然るべき制服に着替えることこそ、正しい教団員となるための最初の一歩なのだという。
勝手に同類にするのはやめろ。だが今は言う事を聞くほかない。生徒は全員、無言で着替えた。
解せない。意味が分からない。今も意味が分からない。なんて滅茶苦茶な連中なんだ。
一時間前。生徒全員と騎士数人を乗せた複数の馬車が城を出発する。目的地は、つい数日前に見つけた魔物の巣。そこを撃滅するのが今回の任務である。同乗した騎士がそれぞれの馬車の中で話して聞かせた。
「僕達に何ができるんですか?」
「何も心配はいらない。お前達でも十分対処できる。向こうに着いたら、あとは指示に従いさえすればいい」
いきなりの実戦。戸惑うのも当然。声に出して疑念をぶつける者もいたが、騎士の返答は素っ気なかった。そしてそれ以降、誰も口を開かなかった。
気まずい沈黙が場を支配する。馬の蹄の音と車輪の音だけが、馬車の中に響く。
それから生徒が解放されたのは、三十分後のことだった。
三十分前。ついた場所は小村だった。建物の数はまばらで、元いた世界のそれよりも簡素でちっぽけだった。どれも灯りをつけておらず、中は真っ暗だった。
外に人の気配はなく、不気味な静けさに包まれていた。
「さあ降りろ。急げ急げ」
先に降りた騎士が、生徒達に降車を迫る。生徒達は言われるまま、おっかなびっくり馬車を降りていく。
全員降りたところで、騎士の一人が歩き始める。それを先頭に生徒達がぞろぞろと続き、そして彼らを守るように――あるいは逃げ道を塞ぐように――残りの騎士が集団の左右と後方につく。
真の目的地は村の最奥にある、他の家々より一回り大きな建物だった。村の中で唯一灯りがつき、暖かな光が窓から漏れ出していた。
その建物の正面入口に向かって、先頭の騎士が大股で歩を進める。
騎士が扉の前に立つ。先方の応答も待たず、扉を蹴り飛ばす。
「そこまでだ!」
木製の扉が粉々に砕け、室内に向かって飛散する。扉の破片を踏みしめながら、蹴り破った騎士が堂々と進入する。突然の出来事に怖気づく生徒達を、左右と後ろに控える騎士が追い立てるように建物の中へ連れていく。
やがて全員が――望む望まないに関わらず――建物に入る。前の方にいた佑の目に、建物の中の構造が映し出される。
壁と床は木で拵えられている。清潔に整えられた白いベッドが規則的に並び、あちこちに机が置かれている。机の上にはトレイやらなにやら、病院で見たような器具が整理整頓された状態で置かれ、そしてその机の一つに据えられた椅子に、一人の女性が腰かけていた。
押しかけられたにも関わらず、その女性は余裕ある態度を崩さなかった。
「急患かい? それなら、そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
「女性」が口を開く。ここにいた「人間」は彼女だけだった。人間? 白衣を纏い、角を生やした少女。人間にしては余計なパーツがくっついている。
あれは本当に人間なのか?
「お前達、見るがいい。あれこそが我らの敵、悪魔だ」
周りを取り囲む騎士の一人が、屋内に唯一いた少女を指差して告げる。生徒全員の視線が一斉にそちらを見る。
少女が生徒達を見返す。余裕たっぷりの表情に揺らぎが生まれ、ほんの僅か眉間に皺を寄せる。
「噂には聞いていたが……本当にやったのか」
「他の連中はどこだ?」
「全員他の場所に移したよ。お前達に差し出すわけにはいかないからね」
一人呟きつつ、先頭の騎士の問いに少女が答える。何を話しているのか、生徒達はさっぱりわからなかった。
「奴は怪我人や病人をここに引き込み、治療と称して洗脳行為を施していたのだ。己の信者を増やすために、体や心の弱った者に取り入っていたのだ」
他の騎士が説明する。だからここにはたくさんベッドがあるのか。佑は納得した。
騎士が続ける。
「だから、一人残らず我らの手で粛清する必要があるのだ」
一瞬、場が静まり返る。それから遅れて、あちこちで疑問が噴出する。なんで? どうして?
「悪魔と少しでも関係を持った人間は、もはや清浄な人間ではない。教団に仇なす存在として、一人残らず誅殺する」
悪魔と呼ばれた少女が、その湧いて出る疑問に淡々と答える。
「それが言い分」
「その通りだ」
剣を抜きながら騎士が同意する。生徒達の周りにいた騎士も、一斉に剣を抜き放つ。
「お前達、これは試練だ」
騎士の一人が言う。少女は微動だにしない。騎士が続けて言い放つ。
「お前達には勇者の素質がある。魔を滅ぼし、この世に光をもたらす、救世主としての才能がある。だからここに呼ばれた。しかし力があっても、それだけでは意味がない。大切なのは覚悟だ」
「全ての悪を滅ぼすという覚悟。神に代わって、魔物の脅威から世界を守るという覚悟。その覚悟があるかどうか、お前達には今それを試されているのだ」
後を継いだ別の騎士が、声高に叫ぶ。それを聞いてうんうん頷きながら、椅子に腰かけた少女が言葉を投げる。
「だから私を殺して患者も殺す。さっきまでここにいた患者たちを。そういうわけだね?」
「その通りだ」
「悪魔の施しを受けた者に、この世に生きる資格は無いと?」
「その通りだ!」
物静かに問う少女に、騎士が堂々と言い返す。残りの騎士も胸を張り、それが正義だと便乗する。
場が騎士の熱気に包まれる。佑が背筋に寒気を覚える。少女がため息をつく。ちらと生徒達を見てから、再び視線を騎士に向けて問う。
「我々の患者の始末は子供達にさせる気か」
騎士達は答えなかった。だがその沈黙が、何よりの答えだった。
生徒達の中に不安と恐れが生まれる。今から自分達は何をするのか、最悪の想像が脳裏にこびりついて離れなくなる。
「安心するがいい。奴らもすぐ後を追うことになる」
先頭にいた騎士が、剣を構えながら少女に詰め寄る。騎士達が小さく、下卑た笑い声をあげる。
生徒達は石のように固まって動けない。ただ目の前の光景を、他人事のように凝視することしか出来ない。
佑も同じだった。彼も石のように固まっていた。だが心は違った。目の前で女の子が殺されようとしている。
このままぼうっと見ているだけでいいのか。
否。
「お前の後をな!」
「駄目だ!」
何かが弾けた。何かが佑の身体を突き動かした。
前のめりになりながら、佑が騎士の背中にぶつかった。
「うおっ!?」
不意打ちを食らい、騎士が大きく体勢を崩して倒れ込む。佑も足をもつれさせ、バランスを崩して転倒する。
「え」
二人の人間が床に倒れ、派手な音が上がる。直後、場が水を打ったように静かになり、遅れて喧騒がやって来る。
「貴様!」
「なんのつもりだ!」
「なにやってんだあいつ!」
「もうヤダぁ!」
張り詰めた緊張の糸が来れ、感情が爆発する。怒る者。戸惑う者。泣き叫ぶ者。それらが手を取り合い、渾然一体となって場の静寂を殺す。
「集中しろ! 一人も逃がすな! 当たりを確かめるまで欠員は許さん!」
「バフォメットは!?」
「おかあさああん!」
「今殺す!」
「おい! 早くそいつを起こせ!」
「先生! 助けて先生!」
声が飛び交う。一転して雑音の坩堝と化す。その只中にあって、角を生やした白衣の少女がため息交じりに言う。
「やれやれ」
やれやれ。
長峰佑の耳に、女性の声が届く。
誰かが漏らした、呆れた声。おそらくはあの、白衣の悪魔の声だろう。
だがこの時の佑に、それを確認することは出来なかった。彼もまた緊張の糸が切れ、この二十時間で溜め込まれてきた疲労が一気に押し寄せてきた。
疲労はすぐさま睡魔となって、彼を襲った。今の彼に、それに抗う力は無かった。
「……」
受け入れるしかない。だが佑の心は晴れやかだった。自分のやりたいと望んだことがやれたからだ。
「ほう」
女性の声。周りの騒ぎに混じって、それだけがやけに明瞭に聞こえる。
「――いい顔をしている」
それが佑の聞いた、最後の声だった。
その直後、彼は意識を手放した。
それから何があったのか。どういう経緯で、こうしてベッドの上に寝かされていたのか。
佑は思い出せなかった。
もっとも、完全に忘却したわけではない。脳内の「軌跡」はあくまで粉々に砕けただけであり、その残滓――記憶の断片はなおも意識の中で息づき、眩く輝いていた。
「やめなさい」
思い出せないが、かき集めて見つめ直すことは出来る。佑はおぼろげな意識の中、その断片に「視線」を向け、己の身に起きたことを把握しようとした。
「無理はしない方がいい。傷は治ったが、まだ完全に治癒したわけではない」
隣から声がする。落ち着いた女性の声だ。しかし佑は止まらなかった。
知りたかった。何があったのか。何を忘れたのか。何故忘れたのか。何故中途半端に記憶が残っているのか。長峰佑は知りたかった。
そうして、彼の意識は過去に飛んだ。
過去への旅は数分で終わった。彼がここに至るまでの道程は、数分の振り返りで終わるほどに短く味気ないものであった。
「気が済んだかい?」
隣から声がする。落ち着いた女性の声。「視線」を現在に戻した佑が、首を動かして視線を女性に向ける。
白衣を着た女の人。見た目は幼い。子供だ。目の下にクマがあり、頭からねじれた角が二本生えている。
佑はこの子を知っている。ほんの少し前に自分が助けた子だ。
良かった。生きてる。佑の心に安堵が生まれる。目から涙が滲み出す。
「大丈夫だよ。みんな無事だ。君のおかげだよ」
ベッドの隣に立つ白衣の少女が、佑に優しく声をかける。腕を伸ばし、佑の額に手を添える。
「ありがとう。そして今は休みなさい。勇者殿」
少女が口を開く。佑が素直にそれに従う。頭を元の位置に戻し、目を閉じて体から力を抜く。
たちまち睡魔が襲ってくる。記憶と少女、二つの懸案が解決したことが、彼の神経を弛緩させた。
佑はそれに抗わなかった。角の生えた少女に言われるまま、彼はゆっくり休むことにした。
「……おやすみなさい」
佑が呟く。少女が答える。
「ああ。おやすみ」
二十時間前。長峰佑は他のクラスメイト二十九名と共に、観光バスに乗っていた。彼の通う中学校で行われた社会科見学に参加したためである。
そしてこの時、バスは帰路についていた。対象物の見学は全て終了し、後は学校に帰るだけであった。
直後、佑は眩い閃光に襲われた。光はバスの正面から発生し、佑とクラスメイト、同じく乗り込んでいた教員と運転手とバスガイド、バスそのものを丸ごと飲み込んだ。
声も出せなかった。本当に一瞬の出来事であった。
「……?」
光はすぐに晴れた。視界を覆う閃光が即座に消え失せ、目の機能を取り戻した彼らは一様に困惑した。
「なに?」
「なにがあったの?」
最初に自分を、次に周囲の他人を見やる。誰にも異常は見られない。バスも止まっている。
やがて意識が外に向く。
「わぁッ!」
外を見た一人が声を上げる。驚愕と恐怖の入り混じった声。
それが伝染する。同じように外を見ていた他の面々も、次々に口を開く。
「うそ!?」
「なんだよこれ!」
「なんで!?」
そこには見慣れぬ風景が広がっていた。バスの後方には荒野。左右にも荒野。足元も荒野。そして前方には、石で築かれたであろう古い城。
乗員たちはさらに困惑した。ここは明らかに、自分達が走っていた道ではない。アスファルトの道路も、雑多な建物の群れも、どこにも見当たらない。あるのはただ不毛の大地と、眼前にそびえる巨大な古城だけ。
意味が分からない。秒刻みで彼らの中で混乱が膨らんでいく。ざわめきが大きくなり、それを止められる者は誰もいない。
やがて恐怖が恐慌に変わる。その直前、彼らの眼前で変化が起きた。
「見ろ!」
それに気づいた誰かが、城の方を指差す。ギリギリのところで理性を保った彼らが、一斉にそちらを向く。
城の門が開いている。城の中から物々しい鎧に身を包んだ一団が、整然と列を作ってこちらに向かってくる。その集団の先頭に、ひときわ目立つ格好をした初老の男がいた。
「ようこそ! 諸君らは選ばれた!」
教会の法皇が着るような白い衣装を纏ったその男は、バスに向かって両手を上げて叫んだ。良く通る声だった。
十八時間前。バスから降りて城に通された面々は、一時間の小休止の後に説明を受けることとなった。
話し手は件の初老の男。内容は佑たちの身に起こったこと。
「あなたがたは選ばれたのです」
開口一番、男はそう言った。要領を得ないその言葉に困惑する一堂に、男が続けて言った。
「正確には、選ばれたのはそちらの子供達です。大人の皆さまには別室でお話を聞いていただくとしましょう。さあどうぞ」
男が生徒と生徒以外を引き離しにかかる。当然教員たちは反発したが、その直後、男と共に部屋に入っていた騎士達が一斉に剣を抜き放つ。
シャリン。金属の擦れる音が幾重にも重なり、室内に響き渡る。騎士達が一斉に「大人」の方を見やり、無言で剣の切っ先をそちらに向ける。
「さあこちらへ。どうぞどうぞ」
空気が張り詰める。老いた男がにこやかに言う。拒否権は無かった。
「さあ」
恐怖に支配された教員とバスの関係者が揃って立ち上がる。額から冷や汗を流し、言われるまま隣の部屋へ移動した。剣を抜いた騎士の数人が彼らの後に続き、最後の一人がドアを閉めた。
後には生徒と初老の男、剣を鞘に戻した騎士が残った。冷たい静寂が部屋を包む。一つ咳払いをして、初老の男が口を開く。
「さて、では改めて話をしましょうか」
十七時間前。話が終わる。
生徒達は話についていけなかった。
「――というわけなのです」
ここは今まで住んでいた場所とは別の世界。「こちら側の世界」には悪魔が蔓延り、人々の命が危険に晒されている。城側の男達はその悪魔と戦う正義の側の人間であり、佑たちを呼んだのはその「正義の戦い」のために彼らの力が必要であるからである。
「どうかそのために、皆様のお力を貸していただきたい」
いきなりそんなこと言われても困る。誰もがそう思った。佑も同じことを思った。馬鹿じゃねえの? 小声で悪態をつく者もいた。
佑も同じ気持ちだった。彼も悪口こそ言わなかったが、ため息はついた。それくらい呆れていた。周りの冷めた、もしくはうんざりした感情の流れに、彼も素直に同調した。
「お気持ちはわかります。いきなりそのようなことを言われても困りますよね。ですがあなた方は勇者。救世主なのです」
そこに追い打ちがかかる。初老の男が生徒達を見つめながら、そんなことを堂々と言ってのけた。目は期待に輝き、声色は確信に満ちていた。それを聞いた佑は軽く戦慄した。
こいつとは話が通じそうにない。そう思ったからだ。根拠は無かった。佑は直感でそう感じた。
直後、佑の懸念が現実のものとなる。
「それに何より、あなた方を元の世界に帰すことが出来るのは、我々だけなのです」
前と同じく自信たっぷりに、男が言い放つ。刹那、ざわめきが消え失せ、場の空気が一気に引き締まる。
生徒全員が男を見る。にこやかに男が言う。
「帰りたければ何をすべきか。わかりますよね?」
脅迫だ。佑だけでなく、他の生徒数人が同じことを思った。だがどうすることも出来なかった。
主導権は「向こう側」にあった。
それから六時間、佑たちはこちらの世界の常識をみっちり仕込まれた。
世界の歴史。世界の地理。悪魔の特徴。悪魔の能力。悪魔との戦い方。そして佑たちに秘められた神秘の力。そう言ったことを、子供たちは城の人間から一方的に教わった。最初に会った初老の男だけでなく、その他大勢の城の面々が、入れ替わり立ち替わり話をしていった。
特に悪魔の凶暴さや残虐さ、それと戦う自分達―主神教団の正義と正当性に関しては、城の者達は特に力を入れて話した。まるで悪魔に親を殺されたかの如く、憎悪と怒りを剥き出しにして悪魔を非難した。
ただしそこで城の連中が何を言ったのか、佑はさっぱり覚えていない。こっちの都合も知らないで、なに熱くなってんだ。目の前でヒートアップされればされるほど、佑の心は冷めていった。
周りの反応も概ね同じだった。城の連中の熱弁に同意する者は皆無だった。
そこから一時間の休憩を挟み、七時間を実技練習に費やした。教団の連中は生徒達に剣を持たせ、それの構え方や振り回し方を徹底的にレクチャーしていった。
拒否権は無かった。もちろん戦いたくないと拒絶する者もいた。だが彼らも「家への帰り方」を人質に出されると、従うしかなかった。
故に望む望まないにしろ、全員が剣を持って戦い方を教授するのに、さして時間はかからなかった。
なおこの部分の記憶も、佑の脳からはすっぽり抜け落ちていた。何を言われ、何を学んだのか。全く思い出せなかった。
「そんなこと、思い出す必要もないよ」
横から声が飛んで来る。あの角を生やした少女だ。意識を現在に急浮上させた佑は、驚きながらそちらを見た。
「心を読んだんじゃない。さっきからぽつぽつ呟いてたのが、耳に入っただけさ」
驚く佑に魔物が答える。佑は納得し、続けて「まだいてくれていたのか」と新たな質問を投げかける。
「患者を置いていくわけにはいかない。それに、君には助けられたしね」
冷静に、クールに、魔物が佑に言葉を返す。目の下にクマを刻んだ少女が、佑を見つめて小さく笑う。
笑いながら、鋭く暖かい声で佑に告げる。
「恩返しをさせてくれ。いいだろ?」
「うっ……」
佑が言葉を詰まらせる。少女の微笑みと台詞の格好良さに胸が高鳴り、思考が一瞬停止する。
顔が赤くなる。反射的に首を回し、顔ごと反対側を向く。
背後から愉快そうな笑い声が聞こえてくる。佑の顔はさらに赤くなった。
それを誤魔化すかのように、彼は意識を再び過去へ沈めていった。
潜航完了。中断していた軌跡の旅を再開する。
実技修練終了後、食事と休息と着替えに二時間を使った。然るべき制服に着替えることこそ、正しい教団員となるための最初の一歩なのだという。
勝手に同類にするのはやめろ。だが今は言う事を聞くほかない。生徒は全員、無言で着替えた。
解せない。意味が分からない。今も意味が分からない。なんて滅茶苦茶な連中なんだ。
一時間前。生徒全員と騎士数人を乗せた複数の馬車が城を出発する。目的地は、つい数日前に見つけた魔物の巣。そこを撃滅するのが今回の任務である。同乗した騎士がそれぞれの馬車の中で話して聞かせた。
「僕達に何ができるんですか?」
「何も心配はいらない。お前達でも十分対処できる。向こうに着いたら、あとは指示に従いさえすればいい」
いきなりの実戦。戸惑うのも当然。声に出して疑念をぶつける者もいたが、騎士の返答は素っ気なかった。そしてそれ以降、誰も口を開かなかった。
気まずい沈黙が場を支配する。馬の蹄の音と車輪の音だけが、馬車の中に響く。
それから生徒が解放されたのは、三十分後のことだった。
三十分前。ついた場所は小村だった。建物の数はまばらで、元いた世界のそれよりも簡素でちっぽけだった。どれも灯りをつけておらず、中は真っ暗だった。
外に人の気配はなく、不気味な静けさに包まれていた。
「さあ降りろ。急げ急げ」
先に降りた騎士が、生徒達に降車を迫る。生徒達は言われるまま、おっかなびっくり馬車を降りていく。
全員降りたところで、騎士の一人が歩き始める。それを先頭に生徒達がぞろぞろと続き、そして彼らを守るように――あるいは逃げ道を塞ぐように――残りの騎士が集団の左右と後方につく。
真の目的地は村の最奥にある、他の家々より一回り大きな建物だった。村の中で唯一灯りがつき、暖かな光が窓から漏れ出していた。
その建物の正面入口に向かって、先頭の騎士が大股で歩を進める。
騎士が扉の前に立つ。先方の応答も待たず、扉を蹴り飛ばす。
「そこまでだ!」
木製の扉が粉々に砕け、室内に向かって飛散する。扉の破片を踏みしめながら、蹴り破った騎士が堂々と進入する。突然の出来事に怖気づく生徒達を、左右と後ろに控える騎士が追い立てるように建物の中へ連れていく。
やがて全員が――望む望まないに関わらず――建物に入る。前の方にいた佑の目に、建物の中の構造が映し出される。
壁と床は木で拵えられている。清潔に整えられた白いベッドが規則的に並び、あちこちに机が置かれている。机の上にはトレイやらなにやら、病院で見たような器具が整理整頓された状態で置かれ、そしてその机の一つに据えられた椅子に、一人の女性が腰かけていた。
押しかけられたにも関わらず、その女性は余裕ある態度を崩さなかった。
「急患かい? それなら、そんなに慌てなくても大丈夫だよ」
「女性」が口を開く。ここにいた「人間」は彼女だけだった。人間? 白衣を纏い、角を生やした少女。人間にしては余計なパーツがくっついている。
あれは本当に人間なのか?
「お前達、見るがいい。あれこそが我らの敵、悪魔だ」
周りを取り囲む騎士の一人が、屋内に唯一いた少女を指差して告げる。生徒全員の視線が一斉にそちらを見る。
少女が生徒達を見返す。余裕たっぷりの表情に揺らぎが生まれ、ほんの僅か眉間に皺を寄せる。
「噂には聞いていたが……本当にやったのか」
「他の連中はどこだ?」
「全員他の場所に移したよ。お前達に差し出すわけにはいかないからね」
一人呟きつつ、先頭の騎士の問いに少女が答える。何を話しているのか、生徒達はさっぱりわからなかった。
「奴は怪我人や病人をここに引き込み、治療と称して洗脳行為を施していたのだ。己の信者を増やすために、体や心の弱った者に取り入っていたのだ」
他の騎士が説明する。だからここにはたくさんベッドがあるのか。佑は納得した。
騎士が続ける。
「だから、一人残らず我らの手で粛清する必要があるのだ」
一瞬、場が静まり返る。それから遅れて、あちこちで疑問が噴出する。なんで? どうして?
「悪魔と少しでも関係を持った人間は、もはや清浄な人間ではない。教団に仇なす存在として、一人残らず誅殺する」
悪魔と呼ばれた少女が、その湧いて出る疑問に淡々と答える。
「それが言い分」
「その通りだ」
剣を抜きながら騎士が同意する。生徒達の周りにいた騎士も、一斉に剣を抜き放つ。
「お前達、これは試練だ」
騎士の一人が言う。少女は微動だにしない。騎士が続けて言い放つ。
「お前達には勇者の素質がある。魔を滅ぼし、この世に光をもたらす、救世主としての才能がある。だからここに呼ばれた。しかし力があっても、それだけでは意味がない。大切なのは覚悟だ」
「全ての悪を滅ぼすという覚悟。神に代わって、魔物の脅威から世界を守るという覚悟。その覚悟があるかどうか、お前達には今それを試されているのだ」
後を継いだ別の騎士が、声高に叫ぶ。それを聞いてうんうん頷きながら、椅子に腰かけた少女が言葉を投げる。
「だから私を殺して患者も殺す。さっきまでここにいた患者たちを。そういうわけだね?」
「その通りだ」
「悪魔の施しを受けた者に、この世に生きる資格は無いと?」
「その通りだ!」
物静かに問う少女に、騎士が堂々と言い返す。残りの騎士も胸を張り、それが正義だと便乗する。
場が騎士の熱気に包まれる。佑が背筋に寒気を覚える。少女がため息をつく。ちらと生徒達を見てから、再び視線を騎士に向けて問う。
「我々の患者の始末は子供達にさせる気か」
騎士達は答えなかった。だがその沈黙が、何よりの答えだった。
生徒達の中に不安と恐れが生まれる。今から自分達は何をするのか、最悪の想像が脳裏にこびりついて離れなくなる。
「安心するがいい。奴らもすぐ後を追うことになる」
先頭にいた騎士が、剣を構えながら少女に詰め寄る。騎士達が小さく、下卑た笑い声をあげる。
生徒達は石のように固まって動けない。ただ目の前の光景を、他人事のように凝視することしか出来ない。
佑も同じだった。彼も石のように固まっていた。だが心は違った。目の前で女の子が殺されようとしている。
このままぼうっと見ているだけでいいのか。
否。
「お前の後をな!」
「駄目だ!」
何かが弾けた。何かが佑の身体を突き動かした。
前のめりになりながら、佑が騎士の背中にぶつかった。
「うおっ!?」
不意打ちを食らい、騎士が大きく体勢を崩して倒れ込む。佑も足をもつれさせ、バランスを崩して転倒する。
「え」
二人の人間が床に倒れ、派手な音が上がる。直後、場が水を打ったように静かになり、遅れて喧騒がやって来る。
「貴様!」
「なんのつもりだ!」
「なにやってんだあいつ!」
「もうヤダぁ!」
張り詰めた緊張の糸が来れ、感情が爆発する。怒る者。戸惑う者。泣き叫ぶ者。それらが手を取り合い、渾然一体となって場の静寂を殺す。
「集中しろ! 一人も逃がすな! 当たりを確かめるまで欠員は許さん!」
「バフォメットは!?」
「おかあさああん!」
「今殺す!」
「おい! 早くそいつを起こせ!」
「先生! 助けて先生!」
声が飛び交う。一転して雑音の坩堝と化す。その只中にあって、角を生やした白衣の少女がため息交じりに言う。
「やれやれ」
やれやれ。
長峰佑の耳に、女性の声が届く。
誰かが漏らした、呆れた声。おそらくはあの、白衣の悪魔の声だろう。
だがこの時の佑に、それを確認することは出来なかった。彼もまた緊張の糸が切れ、この二十時間で溜め込まれてきた疲労が一気に押し寄せてきた。
疲労はすぐさま睡魔となって、彼を襲った。今の彼に、それに抗う力は無かった。
「……」
受け入れるしかない。だが佑の心は晴れやかだった。自分のやりたいと望んだことがやれたからだ。
「ほう」
女性の声。周りの騒ぎに混じって、それだけがやけに明瞭に聞こえる。
「――いい顔をしている」
それが佑の聞いた、最後の声だった。
その直後、彼は意識を手放した。
それから何があったのか。どういう経緯で、こうしてベッドの上に寝かされていたのか。
佑は思い出せなかった。
19/08/17 23:22更新 / 黒尻尾
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