娘ができました
ヘイゼル・ランドリオン。愛称ヘイズ。
六十七歳。独身。
かつてはとある町で武道場を開き、師として護身術を中心に教えていた。教え子たちは皆彼を敬愛し、町の人達も彼を尊敬していた。
しかし道場を開いてから三十余年後、彼は高齢を理由に師範の座から降りることを決めた。二年前のことである。弟子たちは彼の引退を惜しんだが、最後はそれを尊重した。
ヘイズは教え子の中から最も優れた者を後継者にし、彼に武道場を任せることにした。二代目師範は謹んでその名を拝命し、ヘイズに代わってここを守ることを誓った。
これで後顧の憂いは無くなった。自由の身となったヘイズは町から離れ、小さな山の中に小さな小屋を建てた。彼はそこで静かに暮らし、第二の人生を送ろうと決心したのである。齢十になる前から武の道にあったヘイズは、戦いに倦んでいた節があった。
それから二年経つ。ヘイズは今も変わらず、穏やかな世界に身を浸らせていた。
「ふう……」
昼食を摂り終えた午後のひととき。家の外に木拵えの椅子を置き、深く腰掛ける。爽やかな風が頬を撫で、草木の揺れる音が耳をくすぐる。ヘイズが目を閉じ、体で自然を感じる。
静かだ。心地良い。口の端が自然と緩む。思うままに食べ、思うままに憩う。至福だ。
肩の荷の降りた老人は、こうして緩やかな余生を。
「ヘイゼル・ランドリオン!」
味わえなかった。椅子に腰かけるヘイズに、鋭い声が突き刺さる。ヘイズは少し眉間に皺を寄せ、目を開けて声のする方を見る。
声の主は二、三メートル先にいた。一人の少女が腕を組み、キッとヘイズを睨みつけていた。
「勝負よ! 今から私と勝負なさい!」
少女が良く通る声で言い放つ。ヘイズが少女の全身を視界に収める。
腰から上は普通の人間。腰から下は真白の蛇。髪の毛も蛇になっており、それぞれが独立した自我を持つように好き勝手蠢いていた。どう見ても人間では無い。
ヘイズは驚かなかった。毎日のようにやって来る闖入者の存在に、ただため息をつくだけだった。
その顔は微笑みを湛えていた。
「さあ人間! 構えなさい! 今日こそ私が勝ってやるんだから!」
先方の反応を待たず、下半身が蛇になった少女が構えを取る。ヘイズも抵抗せず、無言で椅子から立ち上がって同じように構える。
穏やかな空気が一瞬で張り詰める。冷たい風が二人の髪を揺らし、敵意を感じ取った小鳥たちが一斉に空へ逃げ出す。
「子蛇よ。腕は磨いてきたろうな?」
不敵に笑ってヘイズが問う。子蛇扱いされた半人半蛇の少女が、見るからに不機嫌そうな顔をして言い返す。
「見てなさい。昨日までの私とは違うんだから!」
「よろしい」
自信満々な蛇少女の言葉に、ヘイズが実に楽しげな顔で頷く。なんだかんだで強者と手合わせが出来ることに、彼は心の高揚を自覚していた。
求道者はどこまでいっても求道者だった。
メドゥーサのリリオンがヘイズのことを知ったのは、今から一年ほど前のことだった。とある町にすごく強い人間がいる。洞窟で一人退屈に過ごしていたリリオンは、ある時小耳に挟んだその噂話に、ふと興味を持った。
武道に思い入れがあったわけでも、強い奴と戦いたいわけでもない。ただ暇潰しに、ちょっとその人間を見てみよう。リリオンを動かしたのは、本当に小さな好奇心だった。
町にはすんなり入れた。道場にもすんなり行けた。見学の許可も二つ返事で得られた。元々その町は親魔物派の場所だったので、邪険に扱われる道理は最初からなかった。
リリオンは大した障害もなく、簡単にヘイズと出会えた。
「喝ッ!」
リリオンが見学を始めた時、噂の強者は教え子の一人と組み手をしていた。そして彼は今まさに、教え子を正拳突きで吹き飛ばしたところだった。
教え子が壁に激突する。同時にインパクトの起点たる拳から衝撃が迸る。
道場に風が吹きすさぶ。凄まじい圧がリリオンを揺らす。
「……ッ」
その時胸に芽生えた感情を、リリオンは今も上手く表現できなかった。しかし気づいた時には、彼女はヘイズを熱のこもった視線で見つめていた。
一目惚れだった。歳も外見も関係ない。老境に入りつつあった男の力強さ、立ち姿、深奥から滾る魂の波動に、彼女は心を射抜かれていた。
「おお!」
「さすが師範!」
「なんという技の冴え!」
リリオンの周りで他の弟子たちがざわめく。その内の数人が吹き飛ばされた仲間の元に向かい、彼を助け起こす。その中で老いたヘイズがゆっくり構えを解く。周りの喧騒に流されない、確固たる力強さを持った動きだった。
まさに不動の立ち姿。リリオンはますます惹かれた。もっとあの人のことが知りたい。リリオンはヘイズに熱い眼差しを向けた。周りの騒がしさなどまったく耳に入らなかった。自分が秒単位で彼に惚れていっていることを、リリオンはしっかり自覚していた。
自覚した瞬間、彼女は即座に動いた。そそくさと見学を切り上げ、道場の近くで張り込みを開始した。教え子たちが全員帰宅し、道場にヘイズだけが残るのを待ったのだ。
蛇は執念深い生き物だ。
「あっ」
そうこうする内に陽が傾き、教え子たちがぞろぞろ帰っていく。時は来た。確信したリリオンは行動に移った。音もなく道場の中に侵入し、最後の後片付けを行っていたヘイズの前に現れる。
だが一つ誤算があった。
「あ、あんたっ……!」
リリオンが声を上げる。首を傾げるヘイズにリリオンが続ける。
「あんた! 私と勝負なさい! 別に嫌いだから勝負挑むわけじゃないんだからね!」
ツンデレだった。
それ以来、リリオンは毎日のようにヘイズに挑みかかった。素直になれないメドゥーサは、どこまでも不器用だった。
なおリリオンは一度も勝てなかった。魔物と人間の差が可愛く見えるほど、地力はヘイズの方が遥かに上だった。能力を使えば勝てたかもしれないが、そもそも彼女は最初から勝つ気で挑んだわけではなかった。
なので負け続けた。何度も挑んでは、その度に敗北した。だが屈辱は無かった。好いた相手と二人だけの時間を過ごせることが、リリオンにとっては純粋に嬉しかった。
「くっ……!」
だから戦い終わった後、常にリリオンは満たされた気分になっていた。自分につき合ってくれたヘイズに感謝すら覚えていた。だが彼女がそれを素直に相手に告げることは無かった。
「くっ、殺せ!」
ツンデレだった。ヘイズはどこまでも素直になれなかった。最初に会ってから今日まで――ヘイズが住まいを変えてからも――ヘイズはこの一連の行動パターンを全く変えなかった。
蛇は執念深い生き物だ。
「またそれか」
「またとは何よ! それよりどうするの? 言っておくけど、私はどんな拷問にも屈しないから!」
「しないよ」
「しないの!? 意気地なし!」
その後の流れも一緒である。マンネリと化していた。リリオンはそれを気にせず、ヘイズもそこを指摘しなかった。
流れるままに、メドゥーサとの会話を楽しむ。
「しないよ。そんな乱暴なこと」
「いや、でもそれじゃ、その、格好つかないし……やっぱり殺せ!」
「しないって」
「してくれないと困るのよ! プライドがかかってるんだから!」
「ええ……」
「で、でも、どうしてもって言うなら? 殺す以外の選択肢をあげてあげてもいいわよ? どうしてもって言うならね?」
リリオンが顔をほんのり赤らめてヘイズに言う。敗北者のくせに上から目線である。
ヘイズはそこを好いていた。ある意味一筋縄ではいかない、彼女とのやり取りは本当に面白い。
「それじゃあ、こっちの言う事を聞いてもらおうかな」
そしてヘイズが次のステップに移る。いつもの流れだ。そしていつも通り、「それ」を聞いたリリオンの顔が一気に華やぐ。
「本当に!? ……ああ、うん、いい心掛けね。それでこそ勝者ってものよ」
完全に上と下が逆転している。どこまでも自分のスタンスは崩さない。リリオンはブレなかった。
「さあ何でも言いなさい。他ならぬあなたの頼みですもの。聞いてやらないことも無いわよ?」
可愛い奴め。ヘイズは自然と笑みを浮かべていた。不敵に笑いながらヘイズが続ける。
「よし。では敗者への罰として、一つ頼みを聞いてもらおうか」
「いいわ。望むところよ。それで何をしてほしいの?」
「ああ。まずは……」
決着から数分後、リリオンはヘイズの家の中にある厨房で夕飯を作っていた。「ご飯を作ってくれ」というヘイズからの命令――請われてしょうがなく出した頼みとも言う――を、彼女は忠実に守っていた。
毎日同じことをしているが、指摘してはいけない。蔵には食料が多めに備蓄されている――明らかに一人で食べきれる量ではない――理由を詮索するのも野暮だ。リリオンは薄々勘付いていたが、素直になれないメドゥーサは結局彼の好意に甘えるだけだった。
「相変わらず沢山保存しているのね。一人でこんなに食べたら太るわよ?」
憎まれ口を叩くのも忘れない。端から見れば失礼この上ないが、ヘイズは怒らなかった。可愛かったからだ。あばたもえくぼである。
「そうだな。私だけじゃ無理だから、君にも手伝ってもらおうか」
「……それは命令かしら?」
「うん。まあ。命令で」
「そ、そういうことなら仕方ないわね。命令じゃ仕方ないわ。一緒に食べてあげる」
顔を赤くしてリリオンが言う。明らかにしどろもどろだ。頭の蛇も嬉しそうに小躍りする。ヘイズはリリオンに見えないように小さく笑い、リリオンの言葉に同意する。
そして調理が始まる。リリオンは一人でやるつもりだったが、ヘイズが一緒にやると「命令」ので、仕方なく二人で夕飯を作ることになった。
「勘違いしないでよね。あなたに言われたから、仕方なく一緒に作るだけなんだからね!」
顔を赤くし、ツンケンした態度でリリオンが言う。もはや何も言うまい。
三十分後。料理が完成する。テーブルに皿を並べ、二人並んで席に着く。
「いただきます」
二人一緒に言い、暫し無言で食事を行う。今は歓談ではなく食事の時だ。
「……」
皿とフォークとスプーンの擦れあう音が響く。人間と魔物娘がもくもくと口を動かす。場を包む空気は暖かく、穏やかだった。
命令も罰もない。無言の至福だけがあった。リリオンもヘイズも、ただこのひとときを楽しんだ。
「ごちそうさまでした」
ぴったり一時間後、二人仲良く食事を終わらせる。楽しい時間はあっという間に過ぎていくものだ。
その後リリオンが食器を洗い、ヘイズはその場に残って一人くつろぐ。皿洗いはいつだってリリオンの仕事だ。これは命じられたからではなく、リリオンが自分からやりたいと言い出したからである。
その習慣を、ヘイズもリリオンも律儀に守っていた。
「はい。終わったわよ」
やがて仕事を済ませたリリオンが戻ってくる。茶の入ったグラスが二つ置かれたトレーを両手で持ち、当たり前のようにヘイズの隣に座る。
一息つくリリオンに、ヘイズが茶を飲みながら声をかける。
「いつもすまないな」
「礼なんていらないわ。私がしたいからしてるだけなんだから」
「そうか」
素っ気なく返すリリオンに、ヘイズが笑って答える。リリオンも口を尖らせつつ、茶に口をつける。
再び静寂が場を包む。気まずさはない。居心地の良い空間の中で、二人が食後の余韻に浸る。長年付き添ってきたパートナー同士が生み出す、地に足ついた安心感がそこにあった。
「ごめんね」
不意にリリオンが呟く。ヘイズは何も言わず、次を待つ。
少し間を置いて、リリオンが続ける。
「いつもわがまま聞いてくれて」
「いいさ」
ヘイズが短く返す。
「俺も楽しんでるからな」
本心からの言葉だった。それを聞いたリリオンが小さく笑う。
「本当に?」
「ああ」
「嘘ついてるんでしょ」
「嘘じゃないよ」
疑り深いリリオンにヘイズが反論する。そのままヘイズがリリオンを見る。
リリオンがヘイズを見返す。二人が視線を合わせたまま、ヘイズが口を開く。
「本当に楽しいんだ。娘が出来たみたいで」
浮ついた話とは無縁のまま老境に差し掛かった男が、過去を反芻するように言う。そして自分から目を逸らす。
「静かなのもいいけど、騒がしいのも悪くないって思ってさ」
「何それ。私がうるさいって言うの?」
「その通りだろ」
「うっ」
反論するも正面から言い返され、リリオンが口を噤む。それを見たヘイズが笑って言う。
「本当に初めてなんだ。こういう騒がしさは。弟子に囲まれてるのとは違う煩さっていうのかな」
「ふうん……やっぱり違うの?」
「うん、違うな」
「具体的には?」
興味津々にリリオンが問う。少し考えてヘイズが答える。
「背伸びする必要がないっていうか、自然体でいられるっていうか。そんな感じだな」
「自然体ねえ」
「弟子たちには、あまり格好悪いところは見せたくないからな。つい肩に力が入るんだよ」
「でも私にはその必要がない」
「そういうこと」
気兼ねなく、素の自分を曝け出せる。その感覚が、ヘイズにとっては新鮮だった。
「だから感謝してる。この歳になって、こういうこともあるんだって気づかせてくれたんだからな」
「へ、へえそう。そう言うんなら、まあ一応受け取っておくわ」
ストレートに感謝を告げられ、リリオンがしどろもどろになる。そして動揺を隠すように、慌てて茶に口をつける。思ったより熱かったが、根性で我慢する。
この人間に弱みは見せられない。リリオンの精一杯の強がりだった。
「で、でも、勘違いしないでよね! 私が優しくしてあげるのは、あくまで命令されたからなんだからね!」
強がりを補強するように言い含める。少し前の台詞とはまるで違う言いようである。
その素直になりきれないところが可愛い。先の発言をばっちり覚えていたヘイズはそう思ったが、口には出さなかった。ただ穏やかに笑うヘイズを横目で見て、リリオンが小声で言う。
「ああもう、こんなはずじゃないのに……」
明らかに悔やんでいた。自覚はあったようだ。だがそこを指摘するとまた面倒なことになりそうだったので、ヘイズはそこを突っ込まなかった。
「来たかったら、いつでも来ていいんだからな」
代わりにそっと、助け舟を出す。言われたリリオンは一瞬ハッとして顔を上げ、言葉に詰まって目を泳がせ、やや間を置いて声を出す。
「そ、そう? そこまで言うなら、明日からも来てあげようかしら?」
嬉しさで上ずっていた。リリオン本人も気づいていなかった。ヘイズは真意を悟っていたが、言葉にはしなかった。
その代わり、ヘイズは感情を声でなく顔に出した。かわいいやつめ。彼はそう思ってニヤリと笑った。視線は前に向けたまま、相手に表情をそのまま見せることはしなかった。彼なりの配慮である。
「ほんと、物好きな人間もいたものよね。私みたいな偏屈と一緒にいて楽しいだなんて、信じられない」
幸運なことに、リリオンは彼の笑みの中身を悟らなかった。澄まし顔を作り、いつもの減らず口を放つ。ヘイズが不快を表すことはない。暖簾に腕押しだ。
「……」
そこで言葉が止まる。場が静まり返り、静寂に包まれる。ヘイズもリリオンも、相手の出方を伺うように何も言わなくなる。
気まずくはない。むしろ心地よい。言葉を交わさない分、相手をより近くに感じ取ることが出来て、「安心できる」。
「……」
どうしてそんな気持ちになるのだろう? 黙りながら、リリオンは一人思考した。
考えるまでもない。答えは既にわかっていた。この後何を言うべきかも、ちゃんとわかっていた。
毒舌でも減らず口でもない。本当に言うべきこと。
「……ありがと」
「それ」を出す。精一杯の努力で、消えそうな声でぽつりと呟く。
素直になれない少女の、最大限の感謝。
「――ッ」
すぐさま横を向く。背筋を曲げ、逃げるように目を逸らす。ヘイズの視線が後頭部に刺さる。リリオンは顔を真っ赤にしていた。相手の顔が直視できなかった。
心臓がバクバク跳ねる。汗が全身から噴き出す。こんなに緊張するのは初めてだ。
こんな姿、見られたくない。
「ちっちゃいな」
彼女を見たままヘイズが呟く。余計なお世話だ。リリオンが心の中で反論する。
そのリリオンの頭に向かって、ヘイズの手が伸びる。歳を食った男の掌が、メドゥーサの少女の頭に触れる。
頭に生え揃う小蛇たちが一斉に驚く。男の手が、その蛇たちを優しく撫でる。
「うん。可愛い」
蛇たちを撫でながら、ヘイズが言う。頭の蛇が男の愛撫を受け入れ、無防備な姿を曝け出す。
リリオンの顔が更に真っ赤になる。本体の恥辱に比例して、頭の蛇がさらにヘイズの手に纏わりついていく。甘えるように、男の指に絡みついていく。
蛇から本心が漏れる。メドゥーサも人間も、それをしっかり理解していた。
「ばか」
恥じらいを誤魔化すように、リリオンが吐く。苦し紛れの物言いにヘイズが苦笑しつつ、五指を動かし小蛇たちと戯れる。
「ほれほれ」
「うっさい」
再び部屋に静寂が訪れる。その静謐の中で、人間と蛇の風変わりな交流が続いた。
なんだかんだ言って、感謝はしている。
いきなり押しかけて無茶な要求をしてきた自分を、何も言わずに受け入れてくれたのだから。
おまけに自分は――このご時世にこんなことを言うのは今更かもしれないが――人間ですらない。蛇の怪物と言ってしまえばそれまでだ。
「鱗が綺麗に整ってる。普段から身だしなみに気を遣っているんだな」
でもあなたは、そこを問題にはしなかった。こういうことを言うのも今更かもしれないが、初対面であなたが見せたリアクションは、私の不安を綺麗に拭い去ってくれたのだ。私をちゃんと受け入れてくれる。世辞でなく、「本当の自分」を見てくれる。
あなたは気にしてないかもしれないけど、私にとってはとても大切なことなんだよ?
「あ、あら、わかる? ふーん、人間にしては見る目あるわね。褒めてあげる」
本当なら、この気持ちを正直に伝えたい。でもプライドが邪魔して、いつも言えないでいる。
最初に会って褒められた時も、つい口から強がりがでてしまった。あなたはそれを責めなかった。いつも笑って受け流してくれた。
だから私も、そこに甘えてしまった。今も甘えている。あなたの優しさに寄りかかって、生意気なことばかり言っている。
ちょっとくらいは素直になれる時もあるけど、結局は「いつもの私」に戻る。それが歯がゆくて、悔しい。
「いつまで触ってるのよ。髪の毛は女の子の命なんだからね?」
「今」だってそうだ。本当はずっと触っててほしいのに。つい反抗的になってしまう。でもあなたは怒ったりしない。不快さを顔に出したりしない。ただ申し訳なさそうに笑って、「ごめんな」と言って素直に引き下がる。
「あっ」
頭から手が離れる。小蛇から感じていた温もりが無くなって、ふいに口から声が漏れる。
酷い反応だ。自分から断っておいて。自己嫌悪で心がくしゃくしゃになる。
「……お前は本当に可愛いな」
そんな私を見て、あなたがまた笑う。馬鹿にした笑いではなく、本当に可愛いと思ったが故の笑み。暖かくて、優しい微笑み。
なんでそこで可愛いと思えるのか。私のどこが可愛いのか。よくわからない。聞いてみたい気もするけれど、いざ聞こうとすると例の癖が出てしまう。
上手く行かない。本当に悔しい。
「なにそれ。あなた本当馬鹿ね」
ほら。今回も上手く行かない。本心と行動が全く一致しない。どういうことなのだろう。
でもこのままではいけないということくらい、自分でもわかる。いい加減素直にならなければ。
もっとあなたに近づきたいから。
「馬鹿よ。本当……」
いつになるかはわからない。でもいつか、絶対そうなってみせる。
だからそれまで。
「本当に……」
私と一緒に、いてくれますか。
六十七歳。独身。
かつてはとある町で武道場を開き、師として護身術を中心に教えていた。教え子たちは皆彼を敬愛し、町の人達も彼を尊敬していた。
しかし道場を開いてから三十余年後、彼は高齢を理由に師範の座から降りることを決めた。二年前のことである。弟子たちは彼の引退を惜しんだが、最後はそれを尊重した。
ヘイズは教え子の中から最も優れた者を後継者にし、彼に武道場を任せることにした。二代目師範は謹んでその名を拝命し、ヘイズに代わってここを守ることを誓った。
これで後顧の憂いは無くなった。自由の身となったヘイズは町から離れ、小さな山の中に小さな小屋を建てた。彼はそこで静かに暮らし、第二の人生を送ろうと決心したのである。齢十になる前から武の道にあったヘイズは、戦いに倦んでいた節があった。
それから二年経つ。ヘイズは今も変わらず、穏やかな世界に身を浸らせていた。
「ふう……」
昼食を摂り終えた午後のひととき。家の外に木拵えの椅子を置き、深く腰掛ける。爽やかな風が頬を撫で、草木の揺れる音が耳をくすぐる。ヘイズが目を閉じ、体で自然を感じる。
静かだ。心地良い。口の端が自然と緩む。思うままに食べ、思うままに憩う。至福だ。
肩の荷の降りた老人は、こうして緩やかな余生を。
「ヘイゼル・ランドリオン!」
味わえなかった。椅子に腰かけるヘイズに、鋭い声が突き刺さる。ヘイズは少し眉間に皺を寄せ、目を開けて声のする方を見る。
声の主は二、三メートル先にいた。一人の少女が腕を組み、キッとヘイズを睨みつけていた。
「勝負よ! 今から私と勝負なさい!」
少女が良く通る声で言い放つ。ヘイズが少女の全身を視界に収める。
腰から上は普通の人間。腰から下は真白の蛇。髪の毛も蛇になっており、それぞれが独立した自我を持つように好き勝手蠢いていた。どう見ても人間では無い。
ヘイズは驚かなかった。毎日のようにやって来る闖入者の存在に、ただため息をつくだけだった。
その顔は微笑みを湛えていた。
「さあ人間! 構えなさい! 今日こそ私が勝ってやるんだから!」
先方の反応を待たず、下半身が蛇になった少女が構えを取る。ヘイズも抵抗せず、無言で椅子から立ち上がって同じように構える。
穏やかな空気が一瞬で張り詰める。冷たい風が二人の髪を揺らし、敵意を感じ取った小鳥たちが一斉に空へ逃げ出す。
「子蛇よ。腕は磨いてきたろうな?」
不敵に笑ってヘイズが問う。子蛇扱いされた半人半蛇の少女が、見るからに不機嫌そうな顔をして言い返す。
「見てなさい。昨日までの私とは違うんだから!」
「よろしい」
自信満々な蛇少女の言葉に、ヘイズが実に楽しげな顔で頷く。なんだかんだで強者と手合わせが出来ることに、彼は心の高揚を自覚していた。
求道者はどこまでいっても求道者だった。
メドゥーサのリリオンがヘイズのことを知ったのは、今から一年ほど前のことだった。とある町にすごく強い人間がいる。洞窟で一人退屈に過ごしていたリリオンは、ある時小耳に挟んだその噂話に、ふと興味を持った。
武道に思い入れがあったわけでも、強い奴と戦いたいわけでもない。ただ暇潰しに、ちょっとその人間を見てみよう。リリオンを動かしたのは、本当に小さな好奇心だった。
町にはすんなり入れた。道場にもすんなり行けた。見学の許可も二つ返事で得られた。元々その町は親魔物派の場所だったので、邪険に扱われる道理は最初からなかった。
リリオンは大した障害もなく、簡単にヘイズと出会えた。
「喝ッ!」
リリオンが見学を始めた時、噂の強者は教え子の一人と組み手をしていた。そして彼は今まさに、教え子を正拳突きで吹き飛ばしたところだった。
教え子が壁に激突する。同時にインパクトの起点たる拳から衝撃が迸る。
道場に風が吹きすさぶ。凄まじい圧がリリオンを揺らす。
「……ッ」
その時胸に芽生えた感情を、リリオンは今も上手く表現できなかった。しかし気づいた時には、彼女はヘイズを熱のこもった視線で見つめていた。
一目惚れだった。歳も外見も関係ない。老境に入りつつあった男の力強さ、立ち姿、深奥から滾る魂の波動に、彼女は心を射抜かれていた。
「おお!」
「さすが師範!」
「なんという技の冴え!」
リリオンの周りで他の弟子たちがざわめく。その内の数人が吹き飛ばされた仲間の元に向かい、彼を助け起こす。その中で老いたヘイズがゆっくり構えを解く。周りの喧騒に流されない、確固たる力強さを持った動きだった。
まさに不動の立ち姿。リリオンはますます惹かれた。もっとあの人のことが知りたい。リリオンはヘイズに熱い眼差しを向けた。周りの騒がしさなどまったく耳に入らなかった。自分が秒単位で彼に惚れていっていることを、リリオンはしっかり自覚していた。
自覚した瞬間、彼女は即座に動いた。そそくさと見学を切り上げ、道場の近くで張り込みを開始した。教え子たちが全員帰宅し、道場にヘイズだけが残るのを待ったのだ。
蛇は執念深い生き物だ。
「あっ」
そうこうする内に陽が傾き、教え子たちがぞろぞろ帰っていく。時は来た。確信したリリオンは行動に移った。音もなく道場の中に侵入し、最後の後片付けを行っていたヘイズの前に現れる。
だが一つ誤算があった。
「あ、あんたっ……!」
リリオンが声を上げる。首を傾げるヘイズにリリオンが続ける。
「あんた! 私と勝負なさい! 別に嫌いだから勝負挑むわけじゃないんだからね!」
ツンデレだった。
それ以来、リリオンは毎日のようにヘイズに挑みかかった。素直になれないメドゥーサは、どこまでも不器用だった。
なおリリオンは一度も勝てなかった。魔物と人間の差が可愛く見えるほど、地力はヘイズの方が遥かに上だった。能力を使えば勝てたかもしれないが、そもそも彼女は最初から勝つ気で挑んだわけではなかった。
なので負け続けた。何度も挑んでは、その度に敗北した。だが屈辱は無かった。好いた相手と二人だけの時間を過ごせることが、リリオンにとっては純粋に嬉しかった。
「くっ……!」
だから戦い終わった後、常にリリオンは満たされた気分になっていた。自分につき合ってくれたヘイズに感謝すら覚えていた。だが彼女がそれを素直に相手に告げることは無かった。
「くっ、殺せ!」
ツンデレだった。ヘイズはどこまでも素直になれなかった。最初に会ってから今日まで――ヘイズが住まいを変えてからも――ヘイズはこの一連の行動パターンを全く変えなかった。
蛇は執念深い生き物だ。
「またそれか」
「またとは何よ! それよりどうするの? 言っておくけど、私はどんな拷問にも屈しないから!」
「しないよ」
「しないの!? 意気地なし!」
その後の流れも一緒である。マンネリと化していた。リリオンはそれを気にせず、ヘイズもそこを指摘しなかった。
流れるままに、メドゥーサとの会話を楽しむ。
「しないよ。そんな乱暴なこと」
「いや、でもそれじゃ、その、格好つかないし……やっぱり殺せ!」
「しないって」
「してくれないと困るのよ! プライドがかかってるんだから!」
「ええ……」
「で、でも、どうしてもって言うなら? 殺す以外の選択肢をあげてあげてもいいわよ? どうしてもって言うならね?」
リリオンが顔をほんのり赤らめてヘイズに言う。敗北者のくせに上から目線である。
ヘイズはそこを好いていた。ある意味一筋縄ではいかない、彼女とのやり取りは本当に面白い。
「それじゃあ、こっちの言う事を聞いてもらおうかな」
そしてヘイズが次のステップに移る。いつもの流れだ。そしていつも通り、「それ」を聞いたリリオンの顔が一気に華やぐ。
「本当に!? ……ああ、うん、いい心掛けね。それでこそ勝者ってものよ」
完全に上と下が逆転している。どこまでも自分のスタンスは崩さない。リリオンはブレなかった。
「さあ何でも言いなさい。他ならぬあなたの頼みですもの。聞いてやらないことも無いわよ?」
可愛い奴め。ヘイズは自然と笑みを浮かべていた。不敵に笑いながらヘイズが続ける。
「よし。では敗者への罰として、一つ頼みを聞いてもらおうか」
「いいわ。望むところよ。それで何をしてほしいの?」
「ああ。まずは……」
決着から数分後、リリオンはヘイズの家の中にある厨房で夕飯を作っていた。「ご飯を作ってくれ」というヘイズからの命令――請われてしょうがなく出した頼みとも言う――を、彼女は忠実に守っていた。
毎日同じことをしているが、指摘してはいけない。蔵には食料が多めに備蓄されている――明らかに一人で食べきれる量ではない――理由を詮索するのも野暮だ。リリオンは薄々勘付いていたが、素直になれないメドゥーサは結局彼の好意に甘えるだけだった。
「相変わらず沢山保存しているのね。一人でこんなに食べたら太るわよ?」
憎まれ口を叩くのも忘れない。端から見れば失礼この上ないが、ヘイズは怒らなかった。可愛かったからだ。あばたもえくぼである。
「そうだな。私だけじゃ無理だから、君にも手伝ってもらおうか」
「……それは命令かしら?」
「うん。まあ。命令で」
「そ、そういうことなら仕方ないわね。命令じゃ仕方ないわ。一緒に食べてあげる」
顔を赤くしてリリオンが言う。明らかにしどろもどろだ。頭の蛇も嬉しそうに小躍りする。ヘイズはリリオンに見えないように小さく笑い、リリオンの言葉に同意する。
そして調理が始まる。リリオンは一人でやるつもりだったが、ヘイズが一緒にやると「命令」ので、仕方なく二人で夕飯を作ることになった。
「勘違いしないでよね。あなたに言われたから、仕方なく一緒に作るだけなんだからね!」
顔を赤くし、ツンケンした態度でリリオンが言う。もはや何も言うまい。
三十分後。料理が完成する。テーブルに皿を並べ、二人並んで席に着く。
「いただきます」
二人一緒に言い、暫し無言で食事を行う。今は歓談ではなく食事の時だ。
「……」
皿とフォークとスプーンの擦れあう音が響く。人間と魔物娘がもくもくと口を動かす。場を包む空気は暖かく、穏やかだった。
命令も罰もない。無言の至福だけがあった。リリオンもヘイズも、ただこのひとときを楽しんだ。
「ごちそうさまでした」
ぴったり一時間後、二人仲良く食事を終わらせる。楽しい時間はあっという間に過ぎていくものだ。
その後リリオンが食器を洗い、ヘイズはその場に残って一人くつろぐ。皿洗いはいつだってリリオンの仕事だ。これは命じられたからではなく、リリオンが自分からやりたいと言い出したからである。
その習慣を、ヘイズもリリオンも律儀に守っていた。
「はい。終わったわよ」
やがて仕事を済ませたリリオンが戻ってくる。茶の入ったグラスが二つ置かれたトレーを両手で持ち、当たり前のようにヘイズの隣に座る。
一息つくリリオンに、ヘイズが茶を飲みながら声をかける。
「いつもすまないな」
「礼なんていらないわ。私がしたいからしてるだけなんだから」
「そうか」
素っ気なく返すリリオンに、ヘイズが笑って答える。リリオンも口を尖らせつつ、茶に口をつける。
再び静寂が場を包む。気まずさはない。居心地の良い空間の中で、二人が食後の余韻に浸る。長年付き添ってきたパートナー同士が生み出す、地に足ついた安心感がそこにあった。
「ごめんね」
不意にリリオンが呟く。ヘイズは何も言わず、次を待つ。
少し間を置いて、リリオンが続ける。
「いつもわがまま聞いてくれて」
「いいさ」
ヘイズが短く返す。
「俺も楽しんでるからな」
本心からの言葉だった。それを聞いたリリオンが小さく笑う。
「本当に?」
「ああ」
「嘘ついてるんでしょ」
「嘘じゃないよ」
疑り深いリリオンにヘイズが反論する。そのままヘイズがリリオンを見る。
リリオンがヘイズを見返す。二人が視線を合わせたまま、ヘイズが口を開く。
「本当に楽しいんだ。娘が出来たみたいで」
浮ついた話とは無縁のまま老境に差し掛かった男が、過去を反芻するように言う。そして自分から目を逸らす。
「静かなのもいいけど、騒がしいのも悪くないって思ってさ」
「何それ。私がうるさいって言うの?」
「その通りだろ」
「うっ」
反論するも正面から言い返され、リリオンが口を噤む。それを見たヘイズが笑って言う。
「本当に初めてなんだ。こういう騒がしさは。弟子に囲まれてるのとは違う煩さっていうのかな」
「ふうん……やっぱり違うの?」
「うん、違うな」
「具体的には?」
興味津々にリリオンが問う。少し考えてヘイズが答える。
「背伸びする必要がないっていうか、自然体でいられるっていうか。そんな感じだな」
「自然体ねえ」
「弟子たちには、あまり格好悪いところは見せたくないからな。つい肩に力が入るんだよ」
「でも私にはその必要がない」
「そういうこと」
気兼ねなく、素の自分を曝け出せる。その感覚が、ヘイズにとっては新鮮だった。
「だから感謝してる。この歳になって、こういうこともあるんだって気づかせてくれたんだからな」
「へ、へえそう。そう言うんなら、まあ一応受け取っておくわ」
ストレートに感謝を告げられ、リリオンがしどろもどろになる。そして動揺を隠すように、慌てて茶に口をつける。思ったより熱かったが、根性で我慢する。
この人間に弱みは見せられない。リリオンの精一杯の強がりだった。
「で、でも、勘違いしないでよね! 私が優しくしてあげるのは、あくまで命令されたからなんだからね!」
強がりを補強するように言い含める。少し前の台詞とはまるで違う言いようである。
その素直になりきれないところが可愛い。先の発言をばっちり覚えていたヘイズはそう思ったが、口には出さなかった。ただ穏やかに笑うヘイズを横目で見て、リリオンが小声で言う。
「ああもう、こんなはずじゃないのに……」
明らかに悔やんでいた。自覚はあったようだ。だがそこを指摘するとまた面倒なことになりそうだったので、ヘイズはそこを突っ込まなかった。
「来たかったら、いつでも来ていいんだからな」
代わりにそっと、助け舟を出す。言われたリリオンは一瞬ハッとして顔を上げ、言葉に詰まって目を泳がせ、やや間を置いて声を出す。
「そ、そう? そこまで言うなら、明日からも来てあげようかしら?」
嬉しさで上ずっていた。リリオン本人も気づいていなかった。ヘイズは真意を悟っていたが、言葉にはしなかった。
その代わり、ヘイズは感情を声でなく顔に出した。かわいいやつめ。彼はそう思ってニヤリと笑った。視線は前に向けたまま、相手に表情をそのまま見せることはしなかった。彼なりの配慮である。
「ほんと、物好きな人間もいたものよね。私みたいな偏屈と一緒にいて楽しいだなんて、信じられない」
幸運なことに、リリオンは彼の笑みの中身を悟らなかった。澄まし顔を作り、いつもの減らず口を放つ。ヘイズが不快を表すことはない。暖簾に腕押しだ。
「……」
そこで言葉が止まる。場が静まり返り、静寂に包まれる。ヘイズもリリオンも、相手の出方を伺うように何も言わなくなる。
気まずくはない。むしろ心地よい。言葉を交わさない分、相手をより近くに感じ取ることが出来て、「安心できる」。
「……」
どうしてそんな気持ちになるのだろう? 黙りながら、リリオンは一人思考した。
考えるまでもない。答えは既にわかっていた。この後何を言うべきかも、ちゃんとわかっていた。
毒舌でも減らず口でもない。本当に言うべきこと。
「……ありがと」
「それ」を出す。精一杯の努力で、消えそうな声でぽつりと呟く。
素直になれない少女の、最大限の感謝。
「――ッ」
すぐさま横を向く。背筋を曲げ、逃げるように目を逸らす。ヘイズの視線が後頭部に刺さる。リリオンは顔を真っ赤にしていた。相手の顔が直視できなかった。
心臓がバクバク跳ねる。汗が全身から噴き出す。こんなに緊張するのは初めてだ。
こんな姿、見られたくない。
「ちっちゃいな」
彼女を見たままヘイズが呟く。余計なお世話だ。リリオンが心の中で反論する。
そのリリオンの頭に向かって、ヘイズの手が伸びる。歳を食った男の掌が、メドゥーサの少女の頭に触れる。
頭に生え揃う小蛇たちが一斉に驚く。男の手が、その蛇たちを優しく撫でる。
「うん。可愛い」
蛇たちを撫でながら、ヘイズが言う。頭の蛇が男の愛撫を受け入れ、無防備な姿を曝け出す。
リリオンの顔が更に真っ赤になる。本体の恥辱に比例して、頭の蛇がさらにヘイズの手に纏わりついていく。甘えるように、男の指に絡みついていく。
蛇から本心が漏れる。メドゥーサも人間も、それをしっかり理解していた。
「ばか」
恥じらいを誤魔化すように、リリオンが吐く。苦し紛れの物言いにヘイズが苦笑しつつ、五指を動かし小蛇たちと戯れる。
「ほれほれ」
「うっさい」
再び部屋に静寂が訪れる。その静謐の中で、人間と蛇の風変わりな交流が続いた。
なんだかんだ言って、感謝はしている。
いきなり押しかけて無茶な要求をしてきた自分を、何も言わずに受け入れてくれたのだから。
おまけに自分は――このご時世にこんなことを言うのは今更かもしれないが――人間ですらない。蛇の怪物と言ってしまえばそれまでだ。
「鱗が綺麗に整ってる。普段から身だしなみに気を遣っているんだな」
でもあなたは、そこを問題にはしなかった。こういうことを言うのも今更かもしれないが、初対面であなたが見せたリアクションは、私の不安を綺麗に拭い去ってくれたのだ。私をちゃんと受け入れてくれる。世辞でなく、「本当の自分」を見てくれる。
あなたは気にしてないかもしれないけど、私にとってはとても大切なことなんだよ?
「あ、あら、わかる? ふーん、人間にしては見る目あるわね。褒めてあげる」
本当なら、この気持ちを正直に伝えたい。でもプライドが邪魔して、いつも言えないでいる。
最初に会って褒められた時も、つい口から強がりがでてしまった。あなたはそれを責めなかった。いつも笑って受け流してくれた。
だから私も、そこに甘えてしまった。今も甘えている。あなたの優しさに寄りかかって、生意気なことばかり言っている。
ちょっとくらいは素直になれる時もあるけど、結局は「いつもの私」に戻る。それが歯がゆくて、悔しい。
「いつまで触ってるのよ。髪の毛は女の子の命なんだからね?」
「今」だってそうだ。本当はずっと触っててほしいのに。つい反抗的になってしまう。でもあなたは怒ったりしない。不快さを顔に出したりしない。ただ申し訳なさそうに笑って、「ごめんな」と言って素直に引き下がる。
「あっ」
頭から手が離れる。小蛇から感じていた温もりが無くなって、ふいに口から声が漏れる。
酷い反応だ。自分から断っておいて。自己嫌悪で心がくしゃくしゃになる。
「……お前は本当に可愛いな」
そんな私を見て、あなたがまた笑う。馬鹿にした笑いではなく、本当に可愛いと思ったが故の笑み。暖かくて、優しい微笑み。
なんでそこで可愛いと思えるのか。私のどこが可愛いのか。よくわからない。聞いてみたい気もするけれど、いざ聞こうとすると例の癖が出てしまう。
上手く行かない。本当に悔しい。
「なにそれ。あなた本当馬鹿ね」
ほら。今回も上手く行かない。本心と行動が全く一致しない。どういうことなのだろう。
でもこのままではいけないということくらい、自分でもわかる。いい加減素直にならなければ。
もっとあなたに近づきたいから。
「馬鹿よ。本当……」
いつになるかはわからない。でもいつか、絶対そうなってみせる。
だからそれまで。
「本当に……」
私と一緒に、いてくれますか。
19/05/26 18:02更新 / 黒尻尾