僕のお姉ちゃん
そもそもの発端は、ディン・ボートマンの些細な失言だった。
「お姉ちゃん、その薬草取って」
「はい、ただちに――」
少年魔術師の言葉が、その場の空気を凍りつかせる。彼の台詞を受けたウンディーネのスイは、目を丸くして己のマスターを見つめた。
その眼差しが、ディンを正気に引き戻す。
「えっ、あ……」
相手は姉ではない。自分が契約した精霊だ。齢十を迎えたばかりの年若い魔術師は、己の失態を大いに恥じた。
「ごっ、ごめん! うっかりしてた! 変な意味は無いんだ、本当にごめん!」
ディンが大慌てで弁解する。スイは薬草を手に取ったまま、尚も驚きの表情を見せていたが、やがて表情を緩めてにこやかに微笑んだ。
「――いえ、問題ありません。お気になさらず」
そう言いながら、スイがディンの元へ向かう。そして彼に指示された薬草を手渡し、ディンがそれを受けとる。
彼の手はまだ震えていた。視線は泳ぎ、額には脂汗がうっすら滲み出ていた。
スイが彼の異変に気付く。マスターの身を案じた精霊が優しく声をかける。
「大丈夫ですか?」
「へあっ!?」
いきなり問われた魔術師が大声で叫ぶ。その後すぐに我に返り、スイを見ながら言葉を返す。
「いや!? 平気! 全然平気だよ!?」
明らかに動揺している。全く平気には見えない。そこまで驚かなくてもいいのに。ディンの初心な反応を見たスイは当惑気味にそう思いながら、そっと彼の手を握った。
「落ち着いてください、マスター。私は気分を害したりはしていませんから」
「ほ、本当?」
少年が覗き込むようにスイを見る。スイは「はい」と頷き、続けて彼に言った。
「むしろ嬉しかったです。私のことをそう呼んでくださって」
「どうして?」
「マスターが私を姉と呼んでしまったのは、それだけ私のことを近くに感じていたからなのですよね?」
「あ」
ディンがハッとする。彼を見ながらスイがにっこり笑う。
「マスターから大切に思われていることを実感できて、スイは幸せでございます」
それはウンディーネの、心からの言葉だった。落ち着きを取り戻したディンは、今度は気恥ずかしさで顔を真っ赤にした。
「それは、その……」
事実だ。しかし実際に言葉にされると、やはり恥ずかしい。ディンは魔術師ではあったが、同時にまだ子供であった。
そんな子供に、スイが追い打ちをかける。
「それに私は、本当にあなたの姉になってもいいくらいですよ?」
「えっ」
ディンが鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。彼の手を取ったまま、スイがにこやかに提案する。
「せっかくですしどうでしょう? お姉ちゃん、体験してみますか?」
「……」
スイの顔をじっと見つめながら、ディンが生唾を飲み込む。
ウンディーネはそれ以上何も言わず、ただ微笑むばかりだった。
翌日。午後七時。
「マスター。もう朝ですよ。起きてください」
いつものように先に起床したスイが、いつものように隣で寝るディンを起こしにかかる。それはディンが師匠から譲り受けたこの家で暮らす二人の、いつもの朝の光景である。
しかし今日は少し違った。
「お姉ちゃんが起こしてますよー? 起きてくださーい?」
甘えるような声で、スイがディンに声をかける。同時に彼の肩に手を添え、そっと揺する。
有言実行。昨日の提案を、スイは実行しているのである。なおそれはディンも把握済みのことだった。
「お姉ちゃんのお願い、聞いてくださーい? マスター? 起きてくださーい?」
いつもはもっと毅然な――「しもべ」らしい口調で起こしていた。だが今日のスイは、明らかにその声に感情を含めていた。
弟大好きゆるふわおっとり系。それがスイの設定したお姉ちゃんムーブである。何をもってゆるふわとすべきかはスイ自身まだ掴みかねていたが、とにかく本人は「そういう姉」で行こうと決めていた。
「マスター? マースーター?」
だがディンのことは、頑なにマスターと呼んだ。姉だからと言って、決して呼び捨てにはしなかった。彼女の真面目さが発露した結果である。
そんなこんなで、スイは「姉らしく」ディンを起こそうとした。そしてそんな彼女に応えるように、ディンもまたその眼をゆっくり開けた。
「ううん……」
完全に開き、数度瞬きしてから、両手で目を擦る。その後むくりと上体を起こし、気怠げな声でスイに挨拶する。
「おはよう、お姉ちゃん……」
昨日交わした約束通りに動く。ディンも律儀だった。否、マスターとしては当然の責務である。
それから数秒かけて、ディンも完全に覚醒する。そして覚醒後、ディンが改めてスイの方を向く。
「どうしました?」
視線に気づいたスイが問う。ディンは無言でスイを見つめる。彼は今、驚きを覚えていた。
目の前にはいつものウンディーネがいる。だが今日のスイは、いつものスイと少し違う。上手く言葉に出来ないが、なんと言うか、雰囲気が違う。
立場が変わるだけで空気も変わるのか。新たな発見をしたディンは、心の中で独り驚いていた。
「大丈夫ですか? どこか具合が悪いのですか?」
しかしそんなディンの沈黙を、スイは悪い方へと受け取った。体調が悪いのではないかと考え、表情を曇らせ、直ちに行動に出た。
一言で表すと、抱きついた。
「マスター!」
彼の身を案じ、すぐさま体を被せに行った。二人の体が密着し、ウンディーネの魔力と気配をダイレクトに感じ取る。
突然のことにディンが戸惑う。背中に手を回し、彼の細身を抱き締めながら、熱のこもった声でスイが彼に言う。
「マスター。もし体の具合がよろしくないのなら、ちゃんと私に言ってくださいね。お姉ちゃんはいつでも、あなたの味方ですからね?」
「……ああ」
そこでようやくディンも得心する。スイは自分の身を案じて、このような行動に出たのだ。普段のスイ――物静かなスイしか知らなかった彼は、彼女の積極的な一面を知れて再度驚いた。
驚くと同時に、ディンも即座に腹を決めた。ここまでされたら、やることは一つだ。
「ごめんね、お姉ちゃん」
スイの体を、自分から抱き締め返す。抱き返されたスイの体が一瞬震えるが、すぐに静まりそれを受け入れる。
ベッドの上で抱き合いながら、ディンがスイに言う。
「僕、全然平気だから。どこも悪くないから。心配させちゃってごめんね?」
心から姉を信頼し、姉に甘える弟。それが今のディンだ。彼はそれ以上何も考えず、ひたすら姉に甘えることにした。
実際、彼もスイに甘えたかった。昨日のスイの提案は、彼とっても魅力的であった。
「ごめんねお姉ちゃん。駄目な時はちゃんと駄目って言うから。ね?」
「マスター……」
ディンの言葉を聞いたスイが、彼を抱く腕に更に力を込める。姉と弟がひしと抱き合い、互いの熱と存在を感じ合う。
そんな姉弟の抱擁はおおよそ二分後、ディンの腹の虫が鳴くまで続いた。
その後二人はベッドから降り、キッチンで仲良く朝食を作った。朝の共同作業はいつもやっていることだったので、そこに姉や弟といった要素は介在しなかった。
「お姉ちゃん、僕がお皿運ぶね」
「ええ、お願い。私は料理持っていくから」
相手の呼び方と口調が変わったくらいである。この程度は誤差の範囲だ。
そして案の定、朝食もつつがなく進行した。食べさせあいっこも日常的に行っていたので、特筆するべきことではない。
ともかく、食事は終了した。ディンがテーブルを拭き、スイが食器を洗う。いつもの分担作業だ。
「それじゃあス……お姉ちゃん、そろそろ始めようか」
「はい。じゃなくて、ええ。今日も頑張りましょうね」
食事を済ませた後、二人は昼まで勉強に励んだ。書物を読んだり、以前採取しておいた薬草や鉱石を調べたり。それらを通じてディンは新たな魔術を習得しようと励み、スイがそれをサポートする。
精霊と契約したと言っても、ディンはまだまだ駆け出しの魔法使い。師匠のような一人前になるために、日々是勉強である。
「ではマスター、詠唱を始めてください」
「うん。いくよ――」
そしてスイは努力家なディンを、心の底から好いていた。彼の真面目さと勤勉さを尊び、彼の成長に少しでも貢献しようと思っていた。ディンもそんなスイの献身を理解しており、彼女の応援に応えようとより一層勉学に精を出した。
理想的な二人三脚。幼い魔法使いと水の精霊は、そうして共に魔の道を進んでいくのであった。
「あっ」
「もうお昼の時間ですね」
熱心に打ち込めば打ち込むほど、時間の経過も速く感じる。気づいた時には外で正午を告げる鐘が鳴り、それが勉強熱心な二人の意識を現実に引き戻す。
同時に二人の体を倦怠感が襲う。今まで保ってきた強い集中力が、疲労を覆い隠していたのである。故にその疲れは、彼らが真面目に修行に励んだ何よりの証であった。
「ここで一度手を止めて、お昼にしましょう。無理をしてもいいことはありません」
そうして気を抜くと共に噴き出した疲れを感じつつ、スイが提案する。ディンもそれを二つ返事で了承した。正直言うと、彼も彼で一息つきたいところだった。
「お昼はどうする?」
「昨日のソテーが余っていますので、それを食べてしまいましょう」
「わかった。じゃあ僕はサラダ作るね」
「はい。よろしくお願いします」
ディンの言葉にスイが従う。主を立てるのも、しもべの務めだ。
それから二人はキッチンへ向かい、そこでそれぞれ別々に作業を始める。朝だけでなく昼も二人で作る。しもべだからと言って、精霊に丸投げはしない。真面目なディンと誠実なスイによる、いつもの光景である。
「出来た!」
「こちらも出来ました」
数分後、二人同時に声を上げる。どちらも大して手間のかからない作業だったので、早々に出来るのも当然である。
ディンがサラダの入ったボウルを、スイがソテーを盛り付けた皿を持ってテーブルに向かう。朝食時に使ったのと同じテーブルだ。そこにそれぞれ持ってきた物を置き、ついでに残っていたパンも持ち寄り、仲良く席につく。
いつも通りだ。
「いただきます」
二人揃って声を出し、食事を始める。いつもの光景。
三十分後。食事終了。いつもの光景。
ディンが皿を洗う。スイがテーブルを拭く。いつもの光景。
「マスター、この後はどうしますか?」
「今日はフィールドワークに行こうかなって思ってる。一緒に来る?」
「はい。お供いたします」
スイの問いかけにディンが答え、ディンの誘いにスイが頷く。そもそもどちらか片方が外出する時は、必ずもう一方もそれについて行っていた。当たり前のやり取りに、当たり前の光景である。
片づけを終えた後、ディンとスイで外出の準備を始める。必要な物をバッグに入れ、服装も外を出歩いて恥ずかしくないものに替える。
二、三分もしない内に準備が完了する。慣れたものである。
「準備完了ですか?」
「うん」
「では参りましょうか」
ディンの言葉を聞いたスイが、笑顔で彼に言う。ディンも首を縦に振り、バッグを提げ、先頭に立って玄関ドアの取っ手を掴む。
「……」
そこで気づく。とても大事なことに、ディンが気づく。
「これいつもと変わんないじゃん!」
「はい。というわけで会議を始めます」
「わー」
結局、その日のフィールドワークはキャンセルとなった。代わりに二人は家の中に留まり、朝と昼に使ったテーブルを囲んで会議を行った。
その名も「姉弟っぽいことをしよう」会議。出席者は二名。やることはタイトル通りである。
「なんか途中からいつもと同じ空気になっちゃったから、ここで話し合いを設けようと思いました」
「それがこの会議の理由ですか?」
「うん」
「はあ」
ディンの返答にスイが相槌を打つ。そして早速ディンが本題に入る。
「それで、スイは何かアイデアある?」
「うーん……」
マスターからの問いを受け、スイが顎に手を当てて考え込む。無言で思索するスイを、ディンが期待の眼差しでじっと見つめる。
暫し後、スイが顔を上げて口を開く。
「膝枕などいかがでしょう?」
「膝枕?」
「はい。私が座って、その膝の上にマスターの頭を載せるのです。お姉ちゃんっぽいと思うのですが、いかがでしょう?」
「ううん……」
悩むようにディンが唸る。しかし途中で思考を止める。
こういう場合は悩む前に実践だ。精霊と親交を深めよという理由で自分とスイで共同生活を始めさせた師匠――説明過多なのは許してほしい――の言葉を思い出し、ディンはそれを実行に移すことにした。
「じゃあやってみようか」
「承知しました」
ディンの言葉にスイが答える。マスターの提案を頭ごなしに拒否するほど、スイは捻くれてはいない。
「では早速」
そうしてマスターの案を受けたスイが席を立ち、ディンもやや遅れて立ち上がる。二人はテーブルを離れて寝室に向かい、そこにあるダブルサイズベッド――この家に唯一ある寝具――の上にスイが正座する。
なお二人がここに来た理由は、椅子以外にまともに座れるものがベッド以外に無かったからだ。研究や勉強にソファは必要ない。専用のワークベンチがあれば十分だ。
「それではマスター、どうぞ」
閑話休題。正座したスイが自分の太腿を叩きつつ、ディンに催促する。請われたディンも緊張から生唾を飲み込みつつ、意を決してスイの隣に腰を降ろす。
そのままスイの方へ身を傾ける。何度か座る位置をずらし、細かく調整を加えつつ、やがてディンのこめかみがスイの太腿の上に乗る。
「うんっ……」
頭が載った瞬間、スイが小さく艶っぽい声を漏らす。ディンの体温と匂いを間近で感じ、反射的に体が反応してしまったのだ。
しかしそのまま性欲に身を任せるようなことはしない。スイは己を律し、甘えてくるディンをありのまま受け入れた。
「ああ……」
その一方、腿に頭を載せたディンも声を漏らす。こちらは色欲よりも安堵の色合いが強い、ため息にも似た声だった。実際彼はスイの膝枕に安らぎを感じていた。
スイの温もり。スイの魔力。それらが優しく自分を包む。心を揉みほぐし、体を軽くさせてくれる。
いつも感じている暖かさを、ディンは今日も堪能した。
「……」
と、ディンが何かを思い出したように、唐突に表情を硬くする。スイが彼の変化に気づき、見下ろしながら声をかける。
「どうかされましたか?」
「うん……今気づいたんだけどさ」
「はい」
スイが相槌を打つ。やや間を置いてディンが言う。
「これ、いつもやってくれてるよね」
「あっ」
そこでスイも気づく。彼女はほぼ毎日、ディンにこうして膝枕をしてあげていたのだ。する時間は日によって変わったが、膝枕自体は習慣と化していた。
時にはそのまま、耳掃除に移行することもある。逆にディンがスイに膝枕をしてあげることもある。
要するに、それは彼らにとって特別なことでは無かったのだ。
「も、申し訳ございません。すっかり失念しておりました」
大慌てでスイが謝罪する。彼女は「姉らしいこと」を追求するあまり、日常の動作に目が行かなくなっていた。逆に言えば、それだけ大真面目に考えていたのである。灯台下暗しだ。
「本当にごめんなさい。すぐに止めますから」
「ああ、待って」
しかし大急ぎで膝枕を中断しようとしたスイを、即座にディンが止める。主命を受け反射的に動きを止めたスイに、彼女の腿に頭を載せたままディンが言った。
「その、膝枕自体が嫌ってわけじゃないから」
「あ――」
刹那、スイの心が軽くなる。顔を赤くしてディンが続ける。
「せっかくだし、もうちょっとこのままでもいいかな」
「……かしこまりました」
ディンの要求を受け入れたスイが姿勢を正す。ディンが顔の位置を動かし、より気持ちの良い場所に固定する。
眼前でディンの髪が揺れる。年若い主の気持ちよさそうな横顔を見て、スイが頬を緩ませる。
「お加減はどうですか、マスター?」
「うん。最高」
「それは何よりでございます」
それきり、会話が途絶える。穏やかな空気が二人を包み、その静かな世界に身を浸す。
二人だけの空間、二人だけの時間を、愛する者と一緒に堪能する。なんという贅沢。
「気持ちいいね、スイ」
「はい。とても和やかで、いい気持ちです」
リラックスした声でディンが問いかけ、同じく落ち着いた声でスイが答える。それから二人は再び沈黙し、パートナーと共にいられる喜びを全身で噛みしめた。
そんな緩く優しい耽溺は、それから一時間も続いた。
一時間後。存分に膝枕を堪能したディンがおもむろに起き上がる。
「じゃあ次の案を考えよう」
会議はまだ終わっていなかった。少なくともディンはまだやる気だった。
そしてスイも、ディンの熱意を尊重した。主がやる気を出している所に水を差すような真似は、彼女は出来なかった。
「他に何かありますでしょうか?」
「ううん……一緒に買い物をするとか」
今度はスイが尋ね、ディンが案を出す。すぐにスイが問う。
「その、お姉ちゃん呼びで?」
「うん」
「あ、うう……」
ディンがあっさり頷く。直後、スイが頬を赤らめて視線を逸らす。
「どうかしたの?」
鈍いマスターが不思議そうに尋ねる。そんなにぶちんに、スイが恐る恐る言う。
「その、買い物というのは、近くの町でするのですよね?」
「うん。それがどうかした?」
「その……」
少し躊躇ってから、スイが口を開く。
「あそこには色々とお知り合いの方もおりますし、そういった方々の前でお姉ちゃんと呼ばれるのは……」
「――あ」
そこでようやく理解する。同時に自分がしようとしていたことを脳内でシミュレートし、その結果に戦慄する。
馴染みの薬剤師。品揃えの良い八百屋。師匠の友人である占い師。スイに内緒で指輪を買った際に利用したインテリアショップ。etc.etc.
そもそもスイの指した「町」の人は、その大半がディンの素性とスイとの関係を知っていた。そんな所で、姉弟ごっこをするのだ。
「ねえねえお姉ちゃん、次はあそこに行きたい!」
「ええ、構いませんよ。じゃあはぐれないように、お姉ちゃんと手を繋ぎましょう」
「うん!」
痛い。痛々しい。
周りから白い目で見られ、よからぬ噂が立つのが容易に想像できる。
恥ずかしい事この上ない。
「やめよう」
「はい」
故に即答する。ディンの行動は迅速だった。
スイもそれに同意する。まるでその反応を予め見越していたかのような、素早い応答だった。
「こういうのってやっぱり、見えない所でやった方がいいよね」
「まったくその通りです。見せびらかすようなものではありませんからね」
自分達の世界を周りに見せつけられるほど、彼らはこなれてはいなかった。
会議はその後も続いた。しかしこれと言って、明確なアイデアは出てこなかった。
「じゃあこういうのはどうかな」
「それは既に……」
肩を揉んであげる。毎日やってる。
一緒に食事を作る。毎日やってる。
一緒にお風呂に入って背中を流す。毎日やってる。
ディンが寝る時に子守歌を歌う。毎日やってる。
添い寝してあげる。愚問。
「ないなあ……」
「ありませんねえ……」
思いつく案のどれもこれもが、既にやったか、日常的にやっていることのどちらかであった。せっかくだから「姉弟らしい」ことがしたいと思ってみても、そうして思いつくことは全て彼らにとって「当たり前のこと」と化していた。
「他に、他に何かあるはずなんだけど……」
己のボキャブラリーの無さが恨めしい。眉間に皺を寄せてディンが唸る。スイも物憂げな表情を見せ、同じように悩む。
しかしどれだけ悩んでも、一向に打開策が出てこない。時間だけが過ぎていく。
会議は踊る。されど進まず。コロンブスの卵は一向に手に入らない。
「申し訳ございません。全く思いつきません」
「僕もだよ。全然だめだ」
ついに匙を投げる。ディンもスイも、考えすぎて疲れたのか大きく肩を落として息を吐く。
成果ゼロである。まさか二人がかりで挑んで何も出てこないとは。
「虚しいね」
「そうでございますね……」
失敗は成功の母と言うが、何の実りもない失敗ほど空虚なものも無い。二人はただ費やした時間に思いを馳せ、互いの顔を見やり、誤魔化すように苦笑いを見せあうだけだった。
「あっ」
そこに追い打ちがかかる。ディンの腹の虫が鳴ったのだ。思い出したように窓を見れば、既に外は陽が沈み薄闇に包まれようとしていた。
こんな時間までやっていたのか。ますます虚しさが募る。しかし嘆いてばかりもいられない。実際に腹は減ってきたからだ。
「ご飯作ろうか」
「そうしましょう」
ディンの提案をスイが肯定する。同時にベッドから立ち上がり、仲良く並んでキッチンに移動する。
そしてそのまま、いつものように二人で調理を始める。食材を取り出しながら、スイがディンに言う。
「今日はシチューを作ろうと思っているのですが、よろしいですか?」
「いいよ。今日はシチューを食べよう」
「――はい。かしこまりました」
それまで失敗を引きずっていたスイの顔が、一転してぱあっと華やぐ。今度こそは主の期待に応えられると思い、心が一気に軽くなる。
ディンもまた、スイの笑顔を見て自然と頬がほころぶ。やっぱりスイは笑っている時が一番可愛い。
「美味しいシチュー作ろうね、スイ」
「はい! がんばりましょう!」
ディンの発破にスイが元気よく反応する。その数十分後、クリームシチューが完成する。
いつも通りの共同作業の結晶は、いつもの通りとても美味かった。
その後もやはり、いつもの通りだった。二人で食事を済ませ、二人で片づけをし、二人で暫しくつろぐ。その後入浴して互いの体を洗い、一緒に風呂場を出て、歯を磨いてベッドに入る。夜更かしは健康の敵だ。
「じゃあもう寝ようか」
「そうですね。ちょうどいい時間ですし」
あっという間に就寝時間である。この人と一緒にいると、あっという間に時間が過ぎてしまう。ディンもスイも、全く同じことを考えていた。
ついでに言うと、夕食を終えた辺りから、ディンは常に微笑みを湛えていた。
「……ふふっ」
スイも当然それに気づいていた。そしてベッドに入らんとする段階になって、スイは思いきってディンにそれを尋ねた。
「マスター、何故そんなに嬉しそうなのですか?」
「えっ?」
いきなり問われたディンが一瞬きょとんとする。しかしすぐに我に返り、そして再びにやけ面になってスイに答える。
「いやその、気づいちゃったから」
「気づいた? 何をですか?」
「僕さ、今日はずっとスイと一緒にいたよね」
「はい……?」
問い返すディンに、スイが戸惑いながら頷く。
笑みを薄め、穏やかな顔で水の精霊をじっと見つめながら、ディンが続ける。
「今日もいつもみたいに、いっぱいスイに助けられたよ。色んなことをスイと一緒にして、スイに支えてもらった」
「それは……確かにそうでございますね。今日もいつものように、マスターをお助けしてきました」
昔日を思い出し、暖かい過去の記憶に浸りながら、スイが優しい声で答える。
「優しく、真面目で、正直で、暖かい。あなたのような素晴らしいマスターにお仕えできて、私は幸せでございます」
素敵な主をサポートする。主がそのサポートに満足してくれる。それが喜びでなくてなんと言うのか。ウンディーネは淀みなく、素直にそう思った
それからすぐに意識を現在に戻し、ディンがスイに尋ねる。
「それがどうかしたのですか?」
「うん。それ、姉だったなって」
「……はい?」
最初、スイはディンの言葉の意味がわからなかった。そんな怪訝そうなスイを見て、慌てたようにディンが注釈を入れる。
「ああいや、これはね。言葉通りっていうか……ほら、前からずっと、スイには色々助けてもらったじゃん」
「はい」
「それがもうお姉ちゃんだなって思ってさ……僕が今日スイをお姉ちゃんって呼ぶずっと前から、僕にとってスイは『お姉ちゃん』だったんだ」
ディンの記憶が過去に飛ぶ。
一人で荒れた道を歩く。
誰もいない夜の道を、あてもなく歩き続ける。
頼れる者は誰もいない。歩くことしか出来ない。
ただ歩く。
その時、不意に目の前に何かが現れる。
何かが自分に語りかける。
「おや坊や、こんな夜中にどうしたんだい?」
「師匠に拾ってもらって。師匠の所で魔法の勉強をして。精霊と契約して。それでスイと出会った。それからスイはずっと、僕を助けてくれた」
視界の果てに遠い過去を見つめながら、ディンがしみじみと言う。スイは無言でそれを聞き、ディンの次の言葉を待つ。
「あの時からずっと、スイは僕のお姉ちゃんだった。呼び方は関係ない。スイが僕のお姉ちゃんなんだ」
「……ああ」
ようやくスイも理解する。
この日、スイは一番にマスターの「お姉ちゃん」であろうとした。ディンの願いに応えようと、それと相応しい「お姉ちゃん」になろうとした。
だが違った。
自分は既にもう、マスターの「お姉ちゃん」であったのだ。
「マスターは、ずっと前から……」
気づいた瞬間、心が謙遜と、それ以上の喜びで溢れかえる。自分は精霊使いと契約した精霊。でもこの人は、そんな自分を姉と思ってくれていた。
単なるしもべと主ではない。もっと深く強い繋がり。ディンの想いを知ったスイの胸が、はちきれんばかりに幸せで満たされる。
「ああ、ああ……! マスター、私は……!」
胸の前で両手を組み、感激で瞳を濡らし、スイが感極まった声を放つ。その姿をディンも微笑んで見守り、そんな彼の手をスイが掴む。
「私、これからも頑張ります! マスターに相応しいお姉ちゃんになれるように、精一杯お支えいたします!」
感情をそのまま言葉に表す。ウンディーネの心からの言葉。
それが若いマスターの心を揺り動かす。スイの手を握り返し、静かに、しかし決意に満ちた強い口調で、ディンがスイに言い返す。
「僕も頑張る。スイみたいな立派なお姉ちゃんと並んでも恥ずかしくないような、立派な精霊使いになる。だから」
これからも、ずっと僕の傍にいてほしい。
「――もちろんです! 私はいつまでも、マスターの隣におります!」
ディンの告白に、スイが全力で答える。ディンも頷き、力強くスイに言う。
「これからもよろしくね、スイ」
「はい!」
血の繋がらない、しかし血よりも強い絆で繋がった姉弟は、こうしてさらに互いの存在を確かめあったのだった。
「ところでマスター、ひとつお願いが」
「なに?」
「お姉ちゃんも良いのですが、ゆくゆくはマスターのお嫁さんに……なりたいなと……」
「えっ……」
「な、なんでもございません! お忘れください!」
「……」
指輪を思い出し、ディンは酷く赤面した。
「お姉ちゃん、その薬草取って」
「はい、ただちに――」
少年魔術師の言葉が、その場の空気を凍りつかせる。彼の台詞を受けたウンディーネのスイは、目を丸くして己のマスターを見つめた。
その眼差しが、ディンを正気に引き戻す。
「えっ、あ……」
相手は姉ではない。自分が契約した精霊だ。齢十を迎えたばかりの年若い魔術師は、己の失態を大いに恥じた。
「ごっ、ごめん! うっかりしてた! 変な意味は無いんだ、本当にごめん!」
ディンが大慌てで弁解する。スイは薬草を手に取ったまま、尚も驚きの表情を見せていたが、やがて表情を緩めてにこやかに微笑んだ。
「――いえ、問題ありません。お気になさらず」
そう言いながら、スイがディンの元へ向かう。そして彼に指示された薬草を手渡し、ディンがそれを受けとる。
彼の手はまだ震えていた。視線は泳ぎ、額には脂汗がうっすら滲み出ていた。
スイが彼の異変に気付く。マスターの身を案じた精霊が優しく声をかける。
「大丈夫ですか?」
「へあっ!?」
いきなり問われた魔術師が大声で叫ぶ。その後すぐに我に返り、スイを見ながら言葉を返す。
「いや!? 平気! 全然平気だよ!?」
明らかに動揺している。全く平気には見えない。そこまで驚かなくてもいいのに。ディンの初心な反応を見たスイは当惑気味にそう思いながら、そっと彼の手を握った。
「落ち着いてください、マスター。私は気分を害したりはしていませんから」
「ほ、本当?」
少年が覗き込むようにスイを見る。スイは「はい」と頷き、続けて彼に言った。
「むしろ嬉しかったです。私のことをそう呼んでくださって」
「どうして?」
「マスターが私を姉と呼んでしまったのは、それだけ私のことを近くに感じていたからなのですよね?」
「あ」
ディンがハッとする。彼を見ながらスイがにっこり笑う。
「マスターから大切に思われていることを実感できて、スイは幸せでございます」
それはウンディーネの、心からの言葉だった。落ち着きを取り戻したディンは、今度は気恥ずかしさで顔を真っ赤にした。
「それは、その……」
事実だ。しかし実際に言葉にされると、やはり恥ずかしい。ディンは魔術師ではあったが、同時にまだ子供であった。
そんな子供に、スイが追い打ちをかける。
「それに私は、本当にあなたの姉になってもいいくらいですよ?」
「えっ」
ディンが鳩が豆鉄砲を食ったような顔をする。彼の手を取ったまま、スイがにこやかに提案する。
「せっかくですしどうでしょう? お姉ちゃん、体験してみますか?」
「……」
スイの顔をじっと見つめながら、ディンが生唾を飲み込む。
ウンディーネはそれ以上何も言わず、ただ微笑むばかりだった。
翌日。午後七時。
「マスター。もう朝ですよ。起きてください」
いつものように先に起床したスイが、いつものように隣で寝るディンを起こしにかかる。それはディンが師匠から譲り受けたこの家で暮らす二人の、いつもの朝の光景である。
しかし今日は少し違った。
「お姉ちゃんが起こしてますよー? 起きてくださーい?」
甘えるような声で、スイがディンに声をかける。同時に彼の肩に手を添え、そっと揺する。
有言実行。昨日の提案を、スイは実行しているのである。なおそれはディンも把握済みのことだった。
「お姉ちゃんのお願い、聞いてくださーい? マスター? 起きてくださーい?」
いつもはもっと毅然な――「しもべ」らしい口調で起こしていた。だが今日のスイは、明らかにその声に感情を含めていた。
弟大好きゆるふわおっとり系。それがスイの設定したお姉ちゃんムーブである。何をもってゆるふわとすべきかはスイ自身まだ掴みかねていたが、とにかく本人は「そういう姉」で行こうと決めていた。
「マスター? マースーター?」
だがディンのことは、頑なにマスターと呼んだ。姉だからと言って、決して呼び捨てにはしなかった。彼女の真面目さが発露した結果である。
そんなこんなで、スイは「姉らしく」ディンを起こそうとした。そしてそんな彼女に応えるように、ディンもまたその眼をゆっくり開けた。
「ううん……」
完全に開き、数度瞬きしてから、両手で目を擦る。その後むくりと上体を起こし、気怠げな声でスイに挨拶する。
「おはよう、お姉ちゃん……」
昨日交わした約束通りに動く。ディンも律儀だった。否、マスターとしては当然の責務である。
それから数秒かけて、ディンも完全に覚醒する。そして覚醒後、ディンが改めてスイの方を向く。
「どうしました?」
視線に気づいたスイが問う。ディンは無言でスイを見つめる。彼は今、驚きを覚えていた。
目の前にはいつものウンディーネがいる。だが今日のスイは、いつものスイと少し違う。上手く言葉に出来ないが、なんと言うか、雰囲気が違う。
立場が変わるだけで空気も変わるのか。新たな発見をしたディンは、心の中で独り驚いていた。
「大丈夫ですか? どこか具合が悪いのですか?」
しかしそんなディンの沈黙を、スイは悪い方へと受け取った。体調が悪いのではないかと考え、表情を曇らせ、直ちに行動に出た。
一言で表すと、抱きついた。
「マスター!」
彼の身を案じ、すぐさま体を被せに行った。二人の体が密着し、ウンディーネの魔力と気配をダイレクトに感じ取る。
突然のことにディンが戸惑う。背中に手を回し、彼の細身を抱き締めながら、熱のこもった声でスイが彼に言う。
「マスター。もし体の具合がよろしくないのなら、ちゃんと私に言ってくださいね。お姉ちゃんはいつでも、あなたの味方ですからね?」
「……ああ」
そこでようやくディンも得心する。スイは自分の身を案じて、このような行動に出たのだ。普段のスイ――物静かなスイしか知らなかった彼は、彼女の積極的な一面を知れて再度驚いた。
驚くと同時に、ディンも即座に腹を決めた。ここまでされたら、やることは一つだ。
「ごめんね、お姉ちゃん」
スイの体を、自分から抱き締め返す。抱き返されたスイの体が一瞬震えるが、すぐに静まりそれを受け入れる。
ベッドの上で抱き合いながら、ディンがスイに言う。
「僕、全然平気だから。どこも悪くないから。心配させちゃってごめんね?」
心から姉を信頼し、姉に甘える弟。それが今のディンだ。彼はそれ以上何も考えず、ひたすら姉に甘えることにした。
実際、彼もスイに甘えたかった。昨日のスイの提案は、彼とっても魅力的であった。
「ごめんねお姉ちゃん。駄目な時はちゃんと駄目って言うから。ね?」
「マスター……」
ディンの言葉を聞いたスイが、彼を抱く腕に更に力を込める。姉と弟がひしと抱き合い、互いの熱と存在を感じ合う。
そんな姉弟の抱擁はおおよそ二分後、ディンの腹の虫が鳴くまで続いた。
その後二人はベッドから降り、キッチンで仲良く朝食を作った。朝の共同作業はいつもやっていることだったので、そこに姉や弟といった要素は介在しなかった。
「お姉ちゃん、僕がお皿運ぶね」
「ええ、お願い。私は料理持っていくから」
相手の呼び方と口調が変わったくらいである。この程度は誤差の範囲だ。
そして案の定、朝食もつつがなく進行した。食べさせあいっこも日常的に行っていたので、特筆するべきことではない。
ともかく、食事は終了した。ディンがテーブルを拭き、スイが食器を洗う。いつもの分担作業だ。
「それじゃあス……お姉ちゃん、そろそろ始めようか」
「はい。じゃなくて、ええ。今日も頑張りましょうね」
食事を済ませた後、二人は昼まで勉強に励んだ。書物を読んだり、以前採取しておいた薬草や鉱石を調べたり。それらを通じてディンは新たな魔術を習得しようと励み、スイがそれをサポートする。
精霊と契約したと言っても、ディンはまだまだ駆け出しの魔法使い。師匠のような一人前になるために、日々是勉強である。
「ではマスター、詠唱を始めてください」
「うん。いくよ――」
そしてスイは努力家なディンを、心の底から好いていた。彼の真面目さと勤勉さを尊び、彼の成長に少しでも貢献しようと思っていた。ディンもそんなスイの献身を理解しており、彼女の応援に応えようとより一層勉学に精を出した。
理想的な二人三脚。幼い魔法使いと水の精霊は、そうして共に魔の道を進んでいくのであった。
「あっ」
「もうお昼の時間ですね」
熱心に打ち込めば打ち込むほど、時間の経過も速く感じる。気づいた時には外で正午を告げる鐘が鳴り、それが勉強熱心な二人の意識を現実に引き戻す。
同時に二人の体を倦怠感が襲う。今まで保ってきた強い集中力が、疲労を覆い隠していたのである。故にその疲れは、彼らが真面目に修行に励んだ何よりの証であった。
「ここで一度手を止めて、お昼にしましょう。無理をしてもいいことはありません」
そうして気を抜くと共に噴き出した疲れを感じつつ、スイが提案する。ディンもそれを二つ返事で了承した。正直言うと、彼も彼で一息つきたいところだった。
「お昼はどうする?」
「昨日のソテーが余っていますので、それを食べてしまいましょう」
「わかった。じゃあ僕はサラダ作るね」
「はい。よろしくお願いします」
ディンの言葉にスイが従う。主を立てるのも、しもべの務めだ。
それから二人はキッチンへ向かい、そこでそれぞれ別々に作業を始める。朝だけでなく昼も二人で作る。しもべだからと言って、精霊に丸投げはしない。真面目なディンと誠実なスイによる、いつもの光景である。
「出来た!」
「こちらも出来ました」
数分後、二人同時に声を上げる。どちらも大して手間のかからない作業だったので、早々に出来るのも当然である。
ディンがサラダの入ったボウルを、スイがソテーを盛り付けた皿を持ってテーブルに向かう。朝食時に使ったのと同じテーブルだ。そこにそれぞれ持ってきた物を置き、ついでに残っていたパンも持ち寄り、仲良く席につく。
いつも通りだ。
「いただきます」
二人揃って声を出し、食事を始める。いつもの光景。
三十分後。食事終了。いつもの光景。
ディンが皿を洗う。スイがテーブルを拭く。いつもの光景。
「マスター、この後はどうしますか?」
「今日はフィールドワークに行こうかなって思ってる。一緒に来る?」
「はい。お供いたします」
スイの問いかけにディンが答え、ディンの誘いにスイが頷く。そもそもどちらか片方が外出する時は、必ずもう一方もそれについて行っていた。当たり前のやり取りに、当たり前の光景である。
片づけを終えた後、ディンとスイで外出の準備を始める。必要な物をバッグに入れ、服装も外を出歩いて恥ずかしくないものに替える。
二、三分もしない内に準備が完了する。慣れたものである。
「準備完了ですか?」
「うん」
「では参りましょうか」
ディンの言葉を聞いたスイが、笑顔で彼に言う。ディンも首を縦に振り、バッグを提げ、先頭に立って玄関ドアの取っ手を掴む。
「……」
そこで気づく。とても大事なことに、ディンが気づく。
「これいつもと変わんないじゃん!」
「はい。というわけで会議を始めます」
「わー」
結局、その日のフィールドワークはキャンセルとなった。代わりに二人は家の中に留まり、朝と昼に使ったテーブルを囲んで会議を行った。
その名も「姉弟っぽいことをしよう」会議。出席者は二名。やることはタイトル通りである。
「なんか途中からいつもと同じ空気になっちゃったから、ここで話し合いを設けようと思いました」
「それがこの会議の理由ですか?」
「うん」
「はあ」
ディンの返答にスイが相槌を打つ。そして早速ディンが本題に入る。
「それで、スイは何かアイデアある?」
「うーん……」
マスターからの問いを受け、スイが顎に手を当てて考え込む。無言で思索するスイを、ディンが期待の眼差しでじっと見つめる。
暫し後、スイが顔を上げて口を開く。
「膝枕などいかがでしょう?」
「膝枕?」
「はい。私が座って、その膝の上にマスターの頭を載せるのです。お姉ちゃんっぽいと思うのですが、いかがでしょう?」
「ううん……」
悩むようにディンが唸る。しかし途中で思考を止める。
こういう場合は悩む前に実践だ。精霊と親交を深めよという理由で自分とスイで共同生活を始めさせた師匠――説明過多なのは許してほしい――の言葉を思い出し、ディンはそれを実行に移すことにした。
「じゃあやってみようか」
「承知しました」
ディンの言葉にスイが答える。マスターの提案を頭ごなしに拒否するほど、スイは捻くれてはいない。
「では早速」
そうしてマスターの案を受けたスイが席を立ち、ディンもやや遅れて立ち上がる。二人はテーブルを離れて寝室に向かい、そこにあるダブルサイズベッド――この家に唯一ある寝具――の上にスイが正座する。
なお二人がここに来た理由は、椅子以外にまともに座れるものがベッド以外に無かったからだ。研究や勉強にソファは必要ない。専用のワークベンチがあれば十分だ。
「それではマスター、どうぞ」
閑話休題。正座したスイが自分の太腿を叩きつつ、ディンに催促する。請われたディンも緊張から生唾を飲み込みつつ、意を決してスイの隣に腰を降ろす。
そのままスイの方へ身を傾ける。何度か座る位置をずらし、細かく調整を加えつつ、やがてディンのこめかみがスイの太腿の上に乗る。
「うんっ……」
頭が載った瞬間、スイが小さく艶っぽい声を漏らす。ディンの体温と匂いを間近で感じ、反射的に体が反応してしまったのだ。
しかしそのまま性欲に身を任せるようなことはしない。スイは己を律し、甘えてくるディンをありのまま受け入れた。
「ああ……」
その一方、腿に頭を載せたディンも声を漏らす。こちらは色欲よりも安堵の色合いが強い、ため息にも似た声だった。実際彼はスイの膝枕に安らぎを感じていた。
スイの温もり。スイの魔力。それらが優しく自分を包む。心を揉みほぐし、体を軽くさせてくれる。
いつも感じている暖かさを、ディンは今日も堪能した。
「……」
と、ディンが何かを思い出したように、唐突に表情を硬くする。スイが彼の変化に気づき、見下ろしながら声をかける。
「どうかされましたか?」
「うん……今気づいたんだけどさ」
「はい」
スイが相槌を打つ。やや間を置いてディンが言う。
「これ、いつもやってくれてるよね」
「あっ」
そこでスイも気づく。彼女はほぼ毎日、ディンにこうして膝枕をしてあげていたのだ。する時間は日によって変わったが、膝枕自体は習慣と化していた。
時にはそのまま、耳掃除に移行することもある。逆にディンがスイに膝枕をしてあげることもある。
要するに、それは彼らにとって特別なことでは無かったのだ。
「も、申し訳ございません。すっかり失念しておりました」
大慌てでスイが謝罪する。彼女は「姉らしいこと」を追求するあまり、日常の動作に目が行かなくなっていた。逆に言えば、それだけ大真面目に考えていたのである。灯台下暗しだ。
「本当にごめんなさい。すぐに止めますから」
「ああ、待って」
しかし大急ぎで膝枕を中断しようとしたスイを、即座にディンが止める。主命を受け反射的に動きを止めたスイに、彼女の腿に頭を載せたままディンが言った。
「その、膝枕自体が嫌ってわけじゃないから」
「あ――」
刹那、スイの心が軽くなる。顔を赤くしてディンが続ける。
「せっかくだし、もうちょっとこのままでもいいかな」
「……かしこまりました」
ディンの要求を受け入れたスイが姿勢を正す。ディンが顔の位置を動かし、より気持ちの良い場所に固定する。
眼前でディンの髪が揺れる。年若い主の気持ちよさそうな横顔を見て、スイが頬を緩ませる。
「お加減はどうですか、マスター?」
「うん。最高」
「それは何よりでございます」
それきり、会話が途絶える。穏やかな空気が二人を包み、その静かな世界に身を浸す。
二人だけの空間、二人だけの時間を、愛する者と一緒に堪能する。なんという贅沢。
「気持ちいいね、スイ」
「はい。とても和やかで、いい気持ちです」
リラックスした声でディンが問いかけ、同じく落ち着いた声でスイが答える。それから二人は再び沈黙し、パートナーと共にいられる喜びを全身で噛みしめた。
そんな緩く優しい耽溺は、それから一時間も続いた。
一時間後。存分に膝枕を堪能したディンがおもむろに起き上がる。
「じゃあ次の案を考えよう」
会議はまだ終わっていなかった。少なくともディンはまだやる気だった。
そしてスイも、ディンの熱意を尊重した。主がやる気を出している所に水を差すような真似は、彼女は出来なかった。
「他に何かありますでしょうか?」
「ううん……一緒に買い物をするとか」
今度はスイが尋ね、ディンが案を出す。すぐにスイが問う。
「その、お姉ちゃん呼びで?」
「うん」
「あ、うう……」
ディンがあっさり頷く。直後、スイが頬を赤らめて視線を逸らす。
「どうかしたの?」
鈍いマスターが不思議そうに尋ねる。そんなにぶちんに、スイが恐る恐る言う。
「その、買い物というのは、近くの町でするのですよね?」
「うん。それがどうかした?」
「その……」
少し躊躇ってから、スイが口を開く。
「あそこには色々とお知り合いの方もおりますし、そういった方々の前でお姉ちゃんと呼ばれるのは……」
「――あ」
そこでようやく理解する。同時に自分がしようとしていたことを脳内でシミュレートし、その結果に戦慄する。
馴染みの薬剤師。品揃えの良い八百屋。師匠の友人である占い師。スイに内緒で指輪を買った際に利用したインテリアショップ。etc.etc.
そもそもスイの指した「町」の人は、その大半がディンの素性とスイとの関係を知っていた。そんな所で、姉弟ごっこをするのだ。
「ねえねえお姉ちゃん、次はあそこに行きたい!」
「ええ、構いませんよ。じゃあはぐれないように、お姉ちゃんと手を繋ぎましょう」
「うん!」
痛い。痛々しい。
周りから白い目で見られ、よからぬ噂が立つのが容易に想像できる。
恥ずかしい事この上ない。
「やめよう」
「はい」
故に即答する。ディンの行動は迅速だった。
スイもそれに同意する。まるでその反応を予め見越していたかのような、素早い応答だった。
「こういうのってやっぱり、見えない所でやった方がいいよね」
「まったくその通りです。見せびらかすようなものではありませんからね」
自分達の世界を周りに見せつけられるほど、彼らはこなれてはいなかった。
会議はその後も続いた。しかしこれと言って、明確なアイデアは出てこなかった。
「じゃあこういうのはどうかな」
「それは既に……」
肩を揉んであげる。毎日やってる。
一緒に食事を作る。毎日やってる。
一緒にお風呂に入って背中を流す。毎日やってる。
ディンが寝る時に子守歌を歌う。毎日やってる。
添い寝してあげる。愚問。
「ないなあ……」
「ありませんねえ……」
思いつく案のどれもこれもが、既にやったか、日常的にやっていることのどちらかであった。せっかくだから「姉弟らしい」ことがしたいと思ってみても、そうして思いつくことは全て彼らにとって「当たり前のこと」と化していた。
「他に、他に何かあるはずなんだけど……」
己のボキャブラリーの無さが恨めしい。眉間に皺を寄せてディンが唸る。スイも物憂げな表情を見せ、同じように悩む。
しかしどれだけ悩んでも、一向に打開策が出てこない。時間だけが過ぎていく。
会議は踊る。されど進まず。コロンブスの卵は一向に手に入らない。
「申し訳ございません。全く思いつきません」
「僕もだよ。全然だめだ」
ついに匙を投げる。ディンもスイも、考えすぎて疲れたのか大きく肩を落として息を吐く。
成果ゼロである。まさか二人がかりで挑んで何も出てこないとは。
「虚しいね」
「そうでございますね……」
失敗は成功の母と言うが、何の実りもない失敗ほど空虚なものも無い。二人はただ費やした時間に思いを馳せ、互いの顔を見やり、誤魔化すように苦笑いを見せあうだけだった。
「あっ」
そこに追い打ちがかかる。ディンの腹の虫が鳴ったのだ。思い出したように窓を見れば、既に外は陽が沈み薄闇に包まれようとしていた。
こんな時間までやっていたのか。ますます虚しさが募る。しかし嘆いてばかりもいられない。実際に腹は減ってきたからだ。
「ご飯作ろうか」
「そうしましょう」
ディンの提案をスイが肯定する。同時にベッドから立ち上がり、仲良く並んでキッチンに移動する。
そしてそのまま、いつものように二人で調理を始める。食材を取り出しながら、スイがディンに言う。
「今日はシチューを作ろうと思っているのですが、よろしいですか?」
「いいよ。今日はシチューを食べよう」
「――はい。かしこまりました」
それまで失敗を引きずっていたスイの顔が、一転してぱあっと華やぐ。今度こそは主の期待に応えられると思い、心が一気に軽くなる。
ディンもまた、スイの笑顔を見て自然と頬がほころぶ。やっぱりスイは笑っている時が一番可愛い。
「美味しいシチュー作ろうね、スイ」
「はい! がんばりましょう!」
ディンの発破にスイが元気よく反応する。その数十分後、クリームシチューが完成する。
いつも通りの共同作業の結晶は、いつもの通りとても美味かった。
その後もやはり、いつもの通りだった。二人で食事を済ませ、二人で片づけをし、二人で暫しくつろぐ。その後入浴して互いの体を洗い、一緒に風呂場を出て、歯を磨いてベッドに入る。夜更かしは健康の敵だ。
「じゃあもう寝ようか」
「そうですね。ちょうどいい時間ですし」
あっという間に就寝時間である。この人と一緒にいると、あっという間に時間が過ぎてしまう。ディンもスイも、全く同じことを考えていた。
ついでに言うと、夕食を終えた辺りから、ディンは常に微笑みを湛えていた。
「……ふふっ」
スイも当然それに気づいていた。そしてベッドに入らんとする段階になって、スイは思いきってディンにそれを尋ねた。
「マスター、何故そんなに嬉しそうなのですか?」
「えっ?」
いきなり問われたディンが一瞬きょとんとする。しかしすぐに我に返り、そして再びにやけ面になってスイに答える。
「いやその、気づいちゃったから」
「気づいた? 何をですか?」
「僕さ、今日はずっとスイと一緒にいたよね」
「はい……?」
問い返すディンに、スイが戸惑いながら頷く。
笑みを薄め、穏やかな顔で水の精霊をじっと見つめながら、ディンが続ける。
「今日もいつもみたいに、いっぱいスイに助けられたよ。色んなことをスイと一緒にして、スイに支えてもらった」
「それは……確かにそうでございますね。今日もいつものように、マスターをお助けしてきました」
昔日を思い出し、暖かい過去の記憶に浸りながら、スイが優しい声で答える。
「優しく、真面目で、正直で、暖かい。あなたのような素晴らしいマスターにお仕えできて、私は幸せでございます」
素敵な主をサポートする。主がそのサポートに満足してくれる。それが喜びでなくてなんと言うのか。ウンディーネは淀みなく、素直にそう思った
それからすぐに意識を現在に戻し、ディンがスイに尋ねる。
「それがどうかしたのですか?」
「うん。それ、姉だったなって」
「……はい?」
最初、スイはディンの言葉の意味がわからなかった。そんな怪訝そうなスイを見て、慌てたようにディンが注釈を入れる。
「ああいや、これはね。言葉通りっていうか……ほら、前からずっと、スイには色々助けてもらったじゃん」
「はい」
「それがもうお姉ちゃんだなって思ってさ……僕が今日スイをお姉ちゃんって呼ぶずっと前から、僕にとってスイは『お姉ちゃん』だったんだ」
ディンの記憶が過去に飛ぶ。
一人で荒れた道を歩く。
誰もいない夜の道を、あてもなく歩き続ける。
頼れる者は誰もいない。歩くことしか出来ない。
ただ歩く。
その時、不意に目の前に何かが現れる。
何かが自分に語りかける。
「おや坊や、こんな夜中にどうしたんだい?」
「師匠に拾ってもらって。師匠の所で魔法の勉強をして。精霊と契約して。それでスイと出会った。それからスイはずっと、僕を助けてくれた」
視界の果てに遠い過去を見つめながら、ディンがしみじみと言う。スイは無言でそれを聞き、ディンの次の言葉を待つ。
「あの時からずっと、スイは僕のお姉ちゃんだった。呼び方は関係ない。スイが僕のお姉ちゃんなんだ」
「……ああ」
ようやくスイも理解する。
この日、スイは一番にマスターの「お姉ちゃん」であろうとした。ディンの願いに応えようと、それと相応しい「お姉ちゃん」になろうとした。
だが違った。
自分は既にもう、マスターの「お姉ちゃん」であったのだ。
「マスターは、ずっと前から……」
気づいた瞬間、心が謙遜と、それ以上の喜びで溢れかえる。自分は精霊使いと契約した精霊。でもこの人は、そんな自分を姉と思ってくれていた。
単なるしもべと主ではない。もっと深く強い繋がり。ディンの想いを知ったスイの胸が、はちきれんばかりに幸せで満たされる。
「ああ、ああ……! マスター、私は……!」
胸の前で両手を組み、感激で瞳を濡らし、スイが感極まった声を放つ。その姿をディンも微笑んで見守り、そんな彼の手をスイが掴む。
「私、これからも頑張ります! マスターに相応しいお姉ちゃんになれるように、精一杯お支えいたします!」
感情をそのまま言葉に表す。ウンディーネの心からの言葉。
それが若いマスターの心を揺り動かす。スイの手を握り返し、静かに、しかし決意に満ちた強い口調で、ディンがスイに言い返す。
「僕も頑張る。スイみたいな立派なお姉ちゃんと並んでも恥ずかしくないような、立派な精霊使いになる。だから」
これからも、ずっと僕の傍にいてほしい。
「――もちろんです! 私はいつまでも、マスターの隣におります!」
ディンの告白に、スイが全力で答える。ディンも頷き、力強くスイに言う。
「これからもよろしくね、スイ」
「はい!」
血の繋がらない、しかし血よりも強い絆で繋がった姉弟は、こうしてさらに互いの存在を確かめあったのだった。
「ところでマスター、ひとつお願いが」
「なに?」
「お姉ちゃんも良いのですが、ゆくゆくはマスターのお嫁さんに……なりたいなと……」
「えっ……」
「な、なんでもございません! お忘れください!」
「……」
指輪を思い出し、ディンは酷く赤面した。
18/11/30 19:23更新 / 黒尻尾