第一章 銀瑠璃の星空
ユンと出会って一週間が経った。
「共に来るか?」と酔狂な問いを投げかけたのは、間違いなく私であり、彼女、ユンではない。私が住んでいるこの家に彼女を連れ込んだのも、間違いなく私だ……しかし、彼女は一体何なのだろうか?
いや、この疑問は愚問であった。彼女は魔女なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。この国を害すると謳われている、力のある存在……の筈なのであるが……。
「えーっと、これはどうやって使うんだったけ?」
一糸纏わぬユンがシャワーの前で首を傾げている。その動きに合わせて、膝まである長い銀髪が揺れる。
暗闇の中で座り込んでいたためか、それとも私が暗対と言う見方しかしていなかった為かは分からないが、ユンの見た目はかなり幼かった。その長い銀髪とその存在そのもの以外は、何処にでもいる少女そのものだった。
「フェイー、これってどうやって使うんだっけ?」
とたとたと、私のところまで全裸で駈けてくるその姿は、とても危険性のあると言われる魔女には思えない。むしろ、年端も行かない少女……いや、それ以下だ。
「ここをこうやって捻るだけだ……」
私はユンにシャワーの使い方を教える。
私の鳩尾付近に取り付けられているバルブを開くと、町中の地下に張り巡らされた蒸気管で熱せられた地下水が流れ出ると言う仕組みだ。
しかし、彼女の背丈は私の胸までしかない。必然的にバルブが頭上を越えるのだ。そして、彼女はバルブを回すことすら出来ないほど非力だった。
「だって、固くて回らないんだもん」
頬を膨らませて、いじける彼女をゆっくりと見る。
彼女は一体今までどうやって生活してきたのだろうか。
ずっと定住も出来ず、追われ続ける生活をしてきたのだろうか。
魔女だって、両親はいる筈だ。その両親はどうしているのだろうか。
泡沫のようにポツリポツリと浮かぶ疑問は、尽きることがなかった。
「でも……ありがとう。フェイ」
思考の渦に耽っていた私の意識が、彼女の一言で表層へ上がる。
胸部よりも浮き出た肋骨。頭部以外全く発毛していない身体。薄く白すぎる肌。そんな彼女が無邪気に笑う。
つられて私も笑みが零れる。
こんな生活もアリだろう。彼女が魔女であろうと無かろうと関係ない。目の前の少女が無邪気に私に「ありがとう」と声を掛ける。そんな生活も悪くはないだろう。
しかし、そんな生活も長くは続かないのだろう。それは理解していた。私の心の中で確かにあった一抹の不安。
『彼女の存在は、この国では決して受け入れられない存在なのだ』と。
「ユン、おまえには家族はいないのか?」
シャワーを浴び終えたユンの頭を拭きながら私は、疑問の一つを尋ねることにした。
「んーん、いないよ。みんな死んじゃった」
仕方ないよ。と彼女は続ける。
こんな時代だ。魔女の親が生きているかも知れないと考える方が異常なのだ。名だけの宗教裁判に掛けられ、処刑される。尋ねた私が愚かだった。
私の表情を見て何か感じ取ったのか、ユンは慌てて「そうじゃないよ」と、私の思考を否定した。
「わたしの家族はみんな寿命で死んじゃったんだよ。だから、仕方ないよ。でも、きっとわたしの親はまだ幸せだったと思う。だって、ちゃんと寿命を迎えられたんだから」
屈託無く笑う彼女を、私は直視することが出来なかった。
「でもね、今の時代はきっと違う……わたしは今の王様は嫌い。ずっと前の王様のままだったらよかったのになぁ。アドルフ王はみんなに優しかったから」
前王政が倒れたのはおよそ50年前の話になる。この国を建国されたリーゼンベルト1世から、小国ながらも脈々と続いていた王政が、リーゼンベルト3世、つまり前王政最後の王、アドルフ王の代に終焉を迎えた。隣国から奇襲を受け、敗北したのだ。
それから、この地は隣国であるフェルラント領、リーシアとその名を変えたのだ。
「まだリーシア国だったときの方がよかった。みんな笑っていたしさ。でも、それはきっと贅沢なお願いなんだよね、多分」
ユンの瞳に影が差す。
私が生まれたときには、すでにこの国はフェルラント帝國、リーシアだった。
「ユン……おまえ一体幾つだ?」
「んーと、90歳? 91歳? 多分それくらいだよ?」
「……」
私は完全に言葉を失っていた。この目の前の少女が私よりも遙かに年上である事実もそうだが、明らかに年齢不相応な体躯と知識に愕然としていたのだ。
「あっ……驚いてる」
「当たり前だ! そのような言葉、信じられるか!」
シャワーの使い方すら知らない奴が何を言う。
「……わたしが魔女なのは残念だけど本当だよ。でも魔女にも何種類かあるんだよ。一番沢山いるのが魔女の血筋を引く魔女、でも彼女らには普通の人と変わらない寿命がある。魔術の扱える人みたいなものだよ。でも、わたしは微妙に違うの」
「なにが、だ?」
これより先は、私が知ってはいけないような気がする。触れたら引き返せない、そんな予感にがしたのだ。それでも、私は尋ねずにはいられなかった。私が、人が持っている探求心に抗えなかっただけなのだ。
「身の内に大きな魔力を無理矢理閉じ込めたの。魔女と交わって出来た子ども、と言うわけじゃないの。あなたが考えた、何処にでもいる少女そのものよ」
ユンは蠱惑的にも見える微笑を湛え、私を見上げる。そして言い放ったのだ。「私の両親は普通の人間よ」と。
「それに、みんな、わたし達が悪い子みたいに言うけれど、わたし達はあなた方のことを嫌ってなんかいないよ。人間が嫌いな魔女なんていないんだから。いや、むしろ愛してる。みんな無条件で愛してるんだよ」
「そんな……。貴女たちが、人間に害なす存在だと。誰もが疑わない。それが真実だと思い込んでいる」
まぁ、ユンをそんな風に見ることは出来ないが。
「それが困った勘違いでしかないんだよ。わたし達が具体的に何をしたって言うのさ? ただ、森の奥で静かに暮らしているだけなのよ? 困ったことや知りたいことがあるなら、昔は普通にみんな教えていたし……。あーあ、前の王国の時には魔女は『森の賢者』って言われて、みんなに慕われていたのになぁ。今じゃ悪者だもん」
頬を膨らませて、彼女が座る椅子から足をブラブラさせている。
僅か数十年前、僅か数世代前、その時代では彼女らを迫害するものなんていなかった。誰もが手を取り合い助け合っていた時代。そんな時代も確かにあったのだ。
僅か数十年の時でさえもが、それらの事実を風化させ、闇の奥へと放り込む。
「そ・れ・に……。魔女からは魔女しか生まれないの。だから、人間の男の人がいないととっても困るんだよね……。子どもが出来ないから」
上目遣いに、それでいて扇情的に瞳で私を見上げるユンは、とても蠱惑的だ。
「残念だったな。私が女で」
「そんなことはないよ」
と言うや否や、ユンは振り返り、私の唇を啄み始めた。
一瞬息が止まる。
丸くなる私の瞳。
一体何が起きたのだろうか。否、何が起こっているかは理解している。ただ、ユンの不意打ちに、思考が凍り付いたかのように停止した為、理解できていないだけなのだ。
時間さえもが止まってしまったかのような錯覚に襲われる。
ただ、温かく柔らかな唇の感触だけが、鮮明に私の脳髄を刺激した。
「なっ……」
数秒、いや、数十秒かも分からない硬直状態を解かれた私は、ユンを我が身から引きはがす。
「わたしはフェイが好き。五十年ぶりに出会った不思議な人。……わたしはフェイが好き。女の子かどうかなんて関係なくて」
ストレートな感情を口にするユン。彼女は私が同性であっても、それでも好きだと言うのだ。
私はどうなのだろうか。彼女の気持ちに応えてあげることが出来るのだろうか。この幼き少女を、そして、年上の魔女を愛することが出来るのだろうか。
まだ一週間。されど一週間という時間を、私は彼女と寝食を共にし、共有してきたのだ。愛情まで発展していなくても、強い親近感がわき始めていたこともまた、事実だった。
「フェイはわたしのこと、どう思うの?」
真っ直ぐな眼差し。
無垢なる眼差しを私に向けるユンのその姿は、とても魔女と呼べる様なものではなかった。少なくとも私の目からはそう見えなかった。
「……キライではない」
ぶっきらぼうに私は先の問いに答える。しかし、そこに偽りはない。私の本心。
「よかったぁ……」
「何故、そこで安心する?」
「だって、わたし、ここに来てからずっと迷惑ばっかりかけているもん。もしかしたらフェイがわたしのことキライになっちゃうかと思ったから……。あっ、初めから好きだったわけじゃないよね。えぇっと、えぇっと……」
小さな頭を抱えて本気で悩み出すユンの頭を静かに撫で付け、その唇を今度は私が奪う。
「んっ……」
甘い砂糖菓子のような匂いのする小さな唇。
彼女はまるで、強く掴むと壊れてしまう、繊細なお菓子のようだ。
私のような、剣を振るう粗野な女が扱うには繊細すぎるかもしれない。
頭を撫でていた指先が彼女の頬に触れる。肌理の細かな彼女の頬は滑らかで、まるで私の指が吸い付くかのようだった。その手をゆっくりと降ろし、顎先を持ち上げる。
「んんっ……」
ユンの息の漏れる小さな音が聞こえる。至近距離にある彼女の顔は、とても穏やかに瞼を降ろしている。
私はうっすらと開けた左目でそれを確認すると、ゆっくりと彼女の腔内に舌先を滑り込ませた。
「んんんっ!?」
ユンが驚いている。あからさまに。
このようなキスをしたことがないのだろうか。ユンが硬直した。
しかしそれも一瞬で、緊張させた口を弛緩させ、ユンは私の舌を受け入れた。二人の舌が絡み合う。
「ぷはっ……、今の人ってこんなコトするの?」
「ディープキスは初めてか?」
「うん……今までやったことない」
ユンは椅子に座ったまま俯き気味に小さく答えた。
下着から伸びる、ユンの滑らかな肌は、外見を裏切らない子どものそれに近かった。と、言うよりも、子どものそれそのものだった。
「これで齢九十とはな……」
「腰が抜けたから立てない」と言い張る、彼女の肩と膝の裏を抱えて持ち上げる。所謂「お姫様だっこ」と呼ばれる代物だ。
「残念ながらそうなのよ。ふぉっふぉっふぉ、……ごふぉ」
わざと嗄れた老婆のような声を彼女は紡ぐものの、見事に失敗に終わり、噎せ返っている。
「ちょっとは雰囲気を出した方がいいのかしら?」
「好きにしろ」
「んー、そうねぇ、ええっと……『わたしって重くないかしら?』なんてどうかしら?」
ユンが私の首元に腕を回す。その細い、細すぎる腕は握ると壊れてしまいそうなだった。
「重くはない。……というか、むしろ軽すぎる。おまえ、ちゃんと食ってるのか?」
「ちゃんと食べてるじゃない。一週間ずっと一緒にいるし、わたしが食事しているところだってちゃんと見てたじゃない」
どこからどう見ても子どもでしかない、この手中の少女が今、この国から弾圧を受ける対象とされていることに沸々とした怒りにも似た感情が湧き上がるのと同時に、そういう風に時代が変化してしまったのだと言う、諦観を抱いた自分がいることもまた事実だった。
寝台にゆっくりと降ろした彼女は細い息を繰り返している。
どこか眠たげな、そんなとろんとした目付きでユンは私を見上げている。薄い胸が上下に動いている。
月が優しく謳うそんな夜に、「何時まで彼女と共にいられるだろう」という、漠然とした未来への不安と、「彼女を何時までもこのまま匿うことは出来ない」という、事実の狭間で苛まれていた。
国に雇われている傭兵という身で在る以上、彼女の存在が発覚することは、もはや時間の問題でしかないのだ。
彼女を此処には置いてはいけない。しかし、彼女には此処にいてほしい。
二律背反。葛藤。矛盾。
「……それでも私と共にいてくれるか?」
「それでも? フェイが『いていいよ』って言ってくれる限りは、一緒にいるよ。いや、一緒にいたい。もうわたしには行く当てがないんだから」
「この国を出られれば、世界中どこかには生きて行ける場所くらいあるさ。縛られることはないさ」
安直な、愚直な考え。「状況」ではなく「場」そのものをすり替える、問題からの逃避。
「それはだめ」
緩やかに蕩けていたユンの焦点に光が戻る。
「それはだめ。フェイは此処にいなくちゃだめ。簡単に場所なんてものは変えられない。フェイが此処で生きてきたのだったらなおさら。……此処は、両親の建てられたお家なんでしょう? そんなに驚かないでよ。表札くらいわたしでも見るわ。ロバートとマセット」
表札は私一人きりになった時点で既に変えてある。今、記されている名は私一人きりだ。目を丸くする私を余所に、ユンは部屋の中を見渡し、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「あの柱の傷は、背比べの痕だね。『ルーイ』というのは弟さんかしら? 向こうに見える椅子はマセットさん、フェイのお母さんの定位置。ロバートさんは暖炉の前でパイプを吹かしていることが多かったのかな。此処には思い出が残ってる。たくさん、たくさん……」
薄く開かれたユンの瞳が、最後に私を捉える。次々とこの家の過去を、事実を言葉に乗せて私に運ぶ。やはり、彼女は魔女なのだ。しかし、彼女は魔女であるだけなのだ。ただ、それだけなのだ。
「それでもフェイは此処を捨てるの? それにね、第一にこの国の国境を越えることは少し難しいよ。地理は得意、フェイ?」
「共に来るか?」と酔狂な問いを投げかけたのは、間違いなく私であり、彼女、ユンではない。私が住んでいるこの家に彼女を連れ込んだのも、間違いなく私だ……しかし、彼女は一体何なのだろうか?
いや、この疑問は愚問であった。彼女は魔女なのだ。それ以上でも、それ以下でもない。この国を害すると謳われている、力のある存在……の筈なのであるが……。
「えーっと、これはどうやって使うんだったけ?」
一糸纏わぬユンがシャワーの前で首を傾げている。その動きに合わせて、膝まである長い銀髪が揺れる。
暗闇の中で座り込んでいたためか、それとも私が暗対と言う見方しかしていなかった為かは分からないが、ユンの見た目はかなり幼かった。その長い銀髪とその存在そのもの以外は、何処にでもいる少女そのものだった。
「フェイー、これってどうやって使うんだっけ?」
とたとたと、私のところまで全裸で駈けてくるその姿は、とても危険性のあると言われる魔女には思えない。むしろ、年端も行かない少女……いや、それ以下だ。
「ここをこうやって捻るだけだ……」
私はユンにシャワーの使い方を教える。
私の鳩尾付近に取り付けられているバルブを開くと、町中の地下に張り巡らされた蒸気管で熱せられた地下水が流れ出ると言う仕組みだ。
しかし、彼女の背丈は私の胸までしかない。必然的にバルブが頭上を越えるのだ。そして、彼女はバルブを回すことすら出来ないほど非力だった。
「だって、固くて回らないんだもん」
頬を膨らませて、いじける彼女をゆっくりと見る。
彼女は一体今までどうやって生活してきたのだろうか。
ずっと定住も出来ず、追われ続ける生活をしてきたのだろうか。
魔女だって、両親はいる筈だ。その両親はどうしているのだろうか。
泡沫のようにポツリポツリと浮かぶ疑問は、尽きることがなかった。
「でも……ありがとう。フェイ」
思考の渦に耽っていた私の意識が、彼女の一言で表層へ上がる。
胸部よりも浮き出た肋骨。頭部以外全く発毛していない身体。薄く白すぎる肌。そんな彼女が無邪気に笑う。
つられて私も笑みが零れる。
こんな生活もアリだろう。彼女が魔女であろうと無かろうと関係ない。目の前の少女が無邪気に私に「ありがとう」と声を掛ける。そんな生活も悪くはないだろう。
しかし、そんな生活も長くは続かないのだろう。それは理解していた。私の心の中で確かにあった一抹の不安。
『彼女の存在は、この国では決して受け入れられない存在なのだ』と。
「ユン、おまえには家族はいないのか?」
シャワーを浴び終えたユンの頭を拭きながら私は、疑問の一つを尋ねることにした。
「んーん、いないよ。みんな死んじゃった」
仕方ないよ。と彼女は続ける。
こんな時代だ。魔女の親が生きているかも知れないと考える方が異常なのだ。名だけの宗教裁判に掛けられ、処刑される。尋ねた私が愚かだった。
私の表情を見て何か感じ取ったのか、ユンは慌てて「そうじゃないよ」と、私の思考を否定した。
「わたしの家族はみんな寿命で死んじゃったんだよ。だから、仕方ないよ。でも、きっとわたしの親はまだ幸せだったと思う。だって、ちゃんと寿命を迎えられたんだから」
屈託無く笑う彼女を、私は直視することが出来なかった。
「でもね、今の時代はきっと違う……わたしは今の王様は嫌い。ずっと前の王様のままだったらよかったのになぁ。アドルフ王はみんなに優しかったから」
前王政が倒れたのはおよそ50年前の話になる。この国を建国されたリーゼンベルト1世から、小国ながらも脈々と続いていた王政が、リーゼンベルト3世、つまり前王政最後の王、アドルフ王の代に終焉を迎えた。隣国から奇襲を受け、敗北したのだ。
それから、この地は隣国であるフェルラント領、リーシアとその名を変えたのだ。
「まだリーシア国だったときの方がよかった。みんな笑っていたしさ。でも、それはきっと贅沢なお願いなんだよね、多分」
ユンの瞳に影が差す。
私が生まれたときには、すでにこの国はフェルラント帝國、リーシアだった。
「ユン……おまえ一体幾つだ?」
「んーと、90歳? 91歳? 多分それくらいだよ?」
「……」
私は完全に言葉を失っていた。この目の前の少女が私よりも遙かに年上である事実もそうだが、明らかに年齢不相応な体躯と知識に愕然としていたのだ。
「あっ……驚いてる」
「当たり前だ! そのような言葉、信じられるか!」
シャワーの使い方すら知らない奴が何を言う。
「……わたしが魔女なのは残念だけど本当だよ。でも魔女にも何種類かあるんだよ。一番沢山いるのが魔女の血筋を引く魔女、でも彼女らには普通の人と変わらない寿命がある。魔術の扱える人みたいなものだよ。でも、わたしは微妙に違うの」
「なにが、だ?」
これより先は、私が知ってはいけないような気がする。触れたら引き返せない、そんな予感にがしたのだ。それでも、私は尋ねずにはいられなかった。私が、人が持っている探求心に抗えなかっただけなのだ。
「身の内に大きな魔力を無理矢理閉じ込めたの。魔女と交わって出来た子ども、と言うわけじゃないの。あなたが考えた、何処にでもいる少女そのものよ」
ユンは蠱惑的にも見える微笑を湛え、私を見上げる。そして言い放ったのだ。「私の両親は普通の人間よ」と。
「それに、みんな、わたし達が悪い子みたいに言うけれど、わたし達はあなた方のことを嫌ってなんかいないよ。人間が嫌いな魔女なんていないんだから。いや、むしろ愛してる。みんな無条件で愛してるんだよ」
「そんな……。貴女たちが、人間に害なす存在だと。誰もが疑わない。それが真実だと思い込んでいる」
まぁ、ユンをそんな風に見ることは出来ないが。
「それが困った勘違いでしかないんだよ。わたし達が具体的に何をしたって言うのさ? ただ、森の奥で静かに暮らしているだけなのよ? 困ったことや知りたいことがあるなら、昔は普通にみんな教えていたし……。あーあ、前の王国の時には魔女は『森の賢者』って言われて、みんなに慕われていたのになぁ。今じゃ悪者だもん」
頬を膨らませて、彼女が座る椅子から足をブラブラさせている。
僅か数十年前、僅か数世代前、その時代では彼女らを迫害するものなんていなかった。誰もが手を取り合い助け合っていた時代。そんな時代も確かにあったのだ。
僅か数十年の時でさえもが、それらの事実を風化させ、闇の奥へと放り込む。
「そ・れ・に……。魔女からは魔女しか生まれないの。だから、人間の男の人がいないととっても困るんだよね……。子どもが出来ないから」
上目遣いに、それでいて扇情的に瞳で私を見上げるユンは、とても蠱惑的だ。
「残念だったな。私が女で」
「そんなことはないよ」
と言うや否や、ユンは振り返り、私の唇を啄み始めた。
一瞬息が止まる。
丸くなる私の瞳。
一体何が起きたのだろうか。否、何が起こっているかは理解している。ただ、ユンの不意打ちに、思考が凍り付いたかのように停止した為、理解できていないだけなのだ。
時間さえもが止まってしまったかのような錯覚に襲われる。
ただ、温かく柔らかな唇の感触だけが、鮮明に私の脳髄を刺激した。
「なっ……」
数秒、いや、数十秒かも分からない硬直状態を解かれた私は、ユンを我が身から引きはがす。
「わたしはフェイが好き。五十年ぶりに出会った不思議な人。……わたしはフェイが好き。女の子かどうかなんて関係なくて」
ストレートな感情を口にするユン。彼女は私が同性であっても、それでも好きだと言うのだ。
私はどうなのだろうか。彼女の気持ちに応えてあげることが出来るのだろうか。この幼き少女を、そして、年上の魔女を愛することが出来るのだろうか。
まだ一週間。されど一週間という時間を、私は彼女と寝食を共にし、共有してきたのだ。愛情まで発展していなくても、強い親近感がわき始めていたこともまた、事実だった。
「フェイはわたしのこと、どう思うの?」
真っ直ぐな眼差し。
無垢なる眼差しを私に向けるユンのその姿は、とても魔女と呼べる様なものではなかった。少なくとも私の目からはそう見えなかった。
「……キライではない」
ぶっきらぼうに私は先の問いに答える。しかし、そこに偽りはない。私の本心。
「よかったぁ……」
「何故、そこで安心する?」
「だって、わたし、ここに来てからずっと迷惑ばっかりかけているもん。もしかしたらフェイがわたしのことキライになっちゃうかと思ったから……。あっ、初めから好きだったわけじゃないよね。えぇっと、えぇっと……」
小さな頭を抱えて本気で悩み出すユンの頭を静かに撫で付け、その唇を今度は私が奪う。
「んっ……」
甘い砂糖菓子のような匂いのする小さな唇。
彼女はまるで、強く掴むと壊れてしまう、繊細なお菓子のようだ。
私のような、剣を振るう粗野な女が扱うには繊細すぎるかもしれない。
頭を撫でていた指先が彼女の頬に触れる。肌理の細かな彼女の頬は滑らかで、まるで私の指が吸い付くかのようだった。その手をゆっくりと降ろし、顎先を持ち上げる。
「んんっ……」
ユンの息の漏れる小さな音が聞こえる。至近距離にある彼女の顔は、とても穏やかに瞼を降ろしている。
私はうっすらと開けた左目でそれを確認すると、ゆっくりと彼女の腔内に舌先を滑り込ませた。
「んんんっ!?」
ユンが驚いている。あからさまに。
このようなキスをしたことがないのだろうか。ユンが硬直した。
しかしそれも一瞬で、緊張させた口を弛緩させ、ユンは私の舌を受け入れた。二人の舌が絡み合う。
「ぷはっ……、今の人ってこんなコトするの?」
「ディープキスは初めてか?」
「うん……今までやったことない」
ユンは椅子に座ったまま俯き気味に小さく答えた。
下着から伸びる、ユンの滑らかな肌は、外見を裏切らない子どものそれに近かった。と、言うよりも、子どものそれそのものだった。
「これで齢九十とはな……」
「腰が抜けたから立てない」と言い張る、彼女の肩と膝の裏を抱えて持ち上げる。所謂「お姫様だっこ」と呼ばれる代物だ。
「残念ながらそうなのよ。ふぉっふぉっふぉ、……ごふぉ」
わざと嗄れた老婆のような声を彼女は紡ぐものの、見事に失敗に終わり、噎せ返っている。
「ちょっとは雰囲気を出した方がいいのかしら?」
「好きにしろ」
「んー、そうねぇ、ええっと……『わたしって重くないかしら?』なんてどうかしら?」
ユンが私の首元に腕を回す。その細い、細すぎる腕は握ると壊れてしまいそうなだった。
「重くはない。……というか、むしろ軽すぎる。おまえ、ちゃんと食ってるのか?」
「ちゃんと食べてるじゃない。一週間ずっと一緒にいるし、わたしが食事しているところだってちゃんと見てたじゃない」
どこからどう見ても子どもでしかない、この手中の少女が今、この国から弾圧を受ける対象とされていることに沸々とした怒りにも似た感情が湧き上がるのと同時に、そういう風に時代が変化してしまったのだと言う、諦観を抱いた自分がいることもまた事実だった。
寝台にゆっくりと降ろした彼女は細い息を繰り返している。
どこか眠たげな、そんなとろんとした目付きでユンは私を見上げている。薄い胸が上下に動いている。
月が優しく謳うそんな夜に、「何時まで彼女と共にいられるだろう」という、漠然とした未来への不安と、「彼女を何時までもこのまま匿うことは出来ない」という、事実の狭間で苛まれていた。
国に雇われている傭兵という身で在る以上、彼女の存在が発覚することは、もはや時間の問題でしかないのだ。
彼女を此処には置いてはいけない。しかし、彼女には此処にいてほしい。
二律背反。葛藤。矛盾。
「……それでも私と共にいてくれるか?」
「それでも? フェイが『いていいよ』って言ってくれる限りは、一緒にいるよ。いや、一緒にいたい。もうわたしには行く当てがないんだから」
「この国を出られれば、世界中どこかには生きて行ける場所くらいあるさ。縛られることはないさ」
安直な、愚直な考え。「状況」ではなく「場」そのものをすり替える、問題からの逃避。
「それはだめ」
緩やかに蕩けていたユンの焦点に光が戻る。
「それはだめ。フェイは此処にいなくちゃだめ。簡単に場所なんてものは変えられない。フェイが此処で生きてきたのだったらなおさら。……此処は、両親の建てられたお家なんでしょう? そんなに驚かないでよ。表札くらいわたしでも見るわ。ロバートとマセット」
表札は私一人きりになった時点で既に変えてある。今、記されている名は私一人きりだ。目を丸くする私を余所に、ユンは部屋の中を見渡し、ゆっくりと言葉を紡いでゆく。
「あの柱の傷は、背比べの痕だね。『ルーイ』というのは弟さんかしら? 向こうに見える椅子はマセットさん、フェイのお母さんの定位置。ロバートさんは暖炉の前でパイプを吹かしていることが多かったのかな。此処には思い出が残ってる。たくさん、たくさん……」
薄く開かれたユンの瞳が、最後に私を捉える。次々とこの家の過去を、事実を言葉に乗せて私に運ぶ。やはり、彼女は魔女なのだ。しかし、彼女は魔女であるだけなのだ。ただ、それだけなのだ。
「それでもフェイは此処を捨てるの? それにね、第一にこの国の国境を越えることは少し難しいよ。地理は得意、フェイ?」
12/09/30 14:18更新 / ノユ
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