気づけばそこは……何処だ、ここ。
何も変わらない日常だった。いつもと違うのは、休日であり居合の大会当日であるという程度。朝食を済ませて身支度を整えたら、今は亡き父と姉へ挨拶し、身体を伏せがちな母に一言声をかけて、雪駄を履き傘立てに差し込んで置いた長刀「凛」を手にする。普段と何ら変わりない毎朝の光景。
「行ってきます」
玄関の扉に手をかけて。
本当に、何もかもがいつも通りだった。
その玄関を出る前までは。
「え……?」
彼女が十数年慣れ親しんだ家は傾きかけた道場で、随分と年季の入った古い日本家屋だった。雨漏りなど日常茶飯事。あちらこちらからすきま風が吹き付けてくる。あばら家と言った方が分り易い。
戦前より数多の激戦天災に遭い、その度に抗ってきたあばら家。何度も改修を重ね歪になったそれには愛着もあったし、劇的リフォームできるだけの予算も振り分けられていない。
だが、その庭だけは別だった。幼かった凛がみすぼらしいながらも自慢の我が家を同級生達に笑われて以降、父がその不器用さも構わずにガーデニングを始め立派な庭園を作り上げたのだ。
父が死んでからは凛がその思いを受け継いで、確りと庭園を作り続けてきた。今の時期ならば、その庭には萩、コスモス、菊等の秋の花が咲き誇っているはずだった。
だが、そこにその花々は無かった。というより庭そのものが存在しなかった。
そこにあったのは平原。そして戦場。飛び交う怒号に悲鳴、そして飛矢。剣戟の音、馬の嘶き。
それを見下ろす崖に、周防凛は立っていた。
「…………」
夢かと思った。息を止めて咳き込んだ。、頬を抓りすぎて痕が残った。
古典的な方法で夢でないことを確認した後、今日は家でゆっくり休むことに決めた。無論大会不参加の旨も伝えなくてはならない。
幻覚を見るほど激しいストレスなど感じていなかった筈だが、こんなものを見ている時点で普通ではない。知らず知らずのうちに疲労してたんだなと小さく笑う。
そして、振り返ってその笑みが硬直した。
……周防と書かれた表札ごと玄関の扉が消え失せていた。それどころか家そのものが無くなっていた。
あるのは、鬱蒼と生い茂る木々。植物の緑は深く、人の手が入った気配など感じられない。確りと整備されたコンクリート製の道路は存在せず、獣道のようなものが見えるだけだ。
勢いよく振り返ってみてもそこにあるのは変わらぬ断崖絶壁と戦争の風景だった。
ぱっと見ドラマか何かのようだが、それらを肯定するもの……撮影機器などの「作り物」、「紛い物」が存在しない。戦う兵士もその兵器もどうしようもなく非現実的で現実的だった。
「……」
戦場か、森か。選ぶなら断然後者だった。
何が起きているのか。答えの出ない問答を続けながら、凛は森へと分け入っていく。
凛は逃げていた。
全速力で、必死に、結構いっぱいいっぱいな感じで。
何故逃げているのか?と問われれば、
それはもちろん追われているからと答える。
では何故追われているのか?と聞かれれば、それは全くもって見当がつかない。何に追われているのか?と聞かれても分らないとしか答えられない……。
「……」
凛はちらりと自分の後ろに目をやった。
追っ手の姿がばっちりと確認できる。
先程から、しつこく且つ非常識なまでに追いかけてくるモノ……。
何度も見間違いだと思うことにして、しかし失敗しているそれは、本来ならば走ったりはしないものだった。というか、動いたりしないものだった。
「(……石像……?)」
女性を象った二メートル近い、石像というよりは神像のようなそれがどんな原理かぴょんぴょんと跳び跳ねながら追いかけてくる。
1人で森に入って数時間。見たことも無い木々や美しい花々、その傍でひっそり佇む雑草を鑑賞しながらゆっくりと歩いていた。
と、ふと違和感を覚えたのは、その時だった。
何かが自分の背後を付いて来ている。
太刀を抜き放ちながら振り向いたその先にいたモノ。
それが、今も尚、自分を執拗に追いかけてくる、何の変哲もありまくる石像だった。
何故石像が、なんの恨みがあって自分を追いかけてくるのか皆目検討もつかないが、追いかけてくる以上は逃げるしかない。迎え撃つという選択肢は、はじめからナシだ。
素性目的原理素材、皆目不明の石像に追いかけられ森を延々走り続けていた凛が、気づけば入り込んでいた、広場のような場所で荒れた息を整えている時に、その声はかけられた。
「待ってたよ……」
気配にまるで気がつかなかった自分を叱責しながら、その声の方を振り仰ぐ。
その声の主は巨大な樹木の枝に腰かけていた。銀色の髪に、金の瞳を持った、物静かな雰囲気の少女。同じ"少女"であっても、凛とも、彼女が知る"女"という生き物とも全く違う、ガラスのように澄んだ表情。
凛は柄から手を離して、警戒を解いた。
「待ってた……?私を……?」
「……」
凛の質問を、少女は悲しそうに受け止めた。それでも崩れない、造りモノめいた雰囲気。美貌も相まってその雰囲気は強まっている。
トン、と高所から飛び降りたとは思えないほど軽やかに少女は凛と同じ地に足をつけた。
「何故……、私が来ると……?」
少女はいつから待っていたとは言わなかったが、こんな森の奥で長いこと来るかどうか分からない人物を待っている者などそういない。
『今日凛がここに来る』事を知らなければ、ここで待っていることなどしないはずだ。
「教えてくれたの……神様が……そして、ここまで誘導してくれた。」
神様、誘導。その単語で何んとなくを察した。恐らくはあの石像がその神様とやらが使った道具か何かなのだろう。無駄に神々しかったし。
「私は、貴女への伝令役……」
「多分、信じられないかもしれない。けど、聞いて。……」
少女はいったん声を止め、すぅ、と息を吸った。
「……ここは貴女のいた世界じゃない。異なる時空に存在する世界、異世界」
「行ってきます」
玄関の扉に手をかけて。
本当に、何もかもがいつも通りだった。
その玄関を出る前までは。
「え……?」
彼女が十数年慣れ親しんだ家は傾きかけた道場で、随分と年季の入った古い日本家屋だった。雨漏りなど日常茶飯事。あちらこちらからすきま風が吹き付けてくる。あばら家と言った方が分り易い。
戦前より数多の激戦天災に遭い、その度に抗ってきたあばら家。何度も改修を重ね歪になったそれには愛着もあったし、劇的リフォームできるだけの予算も振り分けられていない。
だが、その庭だけは別だった。幼かった凛がみすぼらしいながらも自慢の我が家を同級生達に笑われて以降、父がその不器用さも構わずにガーデニングを始め立派な庭園を作り上げたのだ。
父が死んでからは凛がその思いを受け継いで、確りと庭園を作り続けてきた。今の時期ならば、その庭には萩、コスモス、菊等の秋の花が咲き誇っているはずだった。
だが、そこにその花々は無かった。というより庭そのものが存在しなかった。
そこにあったのは平原。そして戦場。飛び交う怒号に悲鳴、そして飛矢。剣戟の音、馬の嘶き。
それを見下ろす崖に、周防凛は立っていた。
「…………」
夢かと思った。息を止めて咳き込んだ。、頬を抓りすぎて痕が残った。
古典的な方法で夢でないことを確認した後、今日は家でゆっくり休むことに決めた。無論大会不参加の旨も伝えなくてはならない。
幻覚を見るほど激しいストレスなど感じていなかった筈だが、こんなものを見ている時点で普通ではない。知らず知らずのうちに疲労してたんだなと小さく笑う。
そして、振り返ってその笑みが硬直した。
……周防と書かれた表札ごと玄関の扉が消え失せていた。それどころか家そのものが無くなっていた。
あるのは、鬱蒼と生い茂る木々。植物の緑は深く、人の手が入った気配など感じられない。確りと整備されたコンクリート製の道路は存在せず、獣道のようなものが見えるだけだ。
勢いよく振り返ってみてもそこにあるのは変わらぬ断崖絶壁と戦争の風景だった。
ぱっと見ドラマか何かのようだが、それらを肯定するもの……撮影機器などの「作り物」、「紛い物」が存在しない。戦う兵士もその兵器もどうしようもなく非現実的で現実的だった。
「……」
戦場か、森か。選ぶなら断然後者だった。
何が起きているのか。答えの出ない問答を続けながら、凛は森へと分け入っていく。
凛は逃げていた。
全速力で、必死に、結構いっぱいいっぱいな感じで。
何故逃げているのか?と問われれば、
それはもちろん追われているからと答える。
では何故追われているのか?と聞かれれば、それは全くもって見当がつかない。何に追われているのか?と聞かれても分らないとしか答えられない……。
「……」
凛はちらりと自分の後ろに目をやった。
追っ手の姿がばっちりと確認できる。
先程から、しつこく且つ非常識なまでに追いかけてくるモノ……。
何度も見間違いだと思うことにして、しかし失敗しているそれは、本来ならば走ったりはしないものだった。というか、動いたりしないものだった。
「(……石像……?)」
女性を象った二メートル近い、石像というよりは神像のようなそれがどんな原理かぴょんぴょんと跳び跳ねながら追いかけてくる。
1人で森に入って数時間。見たことも無い木々や美しい花々、その傍でひっそり佇む雑草を鑑賞しながらゆっくりと歩いていた。
と、ふと違和感を覚えたのは、その時だった。
何かが自分の背後を付いて来ている。
太刀を抜き放ちながら振り向いたその先にいたモノ。
それが、今も尚、自分を執拗に追いかけてくる、何の変哲もありまくる石像だった。
何故石像が、なんの恨みがあって自分を追いかけてくるのか皆目検討もつかないが、追いかけてくる以上は逃げるしかない。迎え撃つという選択肢は、はじめからナシだ。
素性目的原理素材、皆目不明の石像に追いかけられ森を延々走り続けていた凛が、気づけば入り込んでいた、広場のような場所で荒れた息を整えている時に、その声はかけられた。
「待ってたよ……」
気配にまるで気がつかなかった自分を叱責しながら、その声の方を振り仰ぐ。
その声の主は巨大な樹木の枝に腰かけていた。銀色の髪に、金の瞳を持った、物静かな雰囲気の少女。同じ"少女"であっても、凛とも、彼女が知る"女"という生き物とも全く違う、ガラスのように澄んだ表情。
凛は柄から手を離して、警戒を解いた。
「待ってた……?私を……?」
「……」
凛の質問を、少女は悲しそうに受け止めた。それでも崩れない、造りモノめいた雰囲気。美貌も相まってその雰囲気は強まっている。
トン、と高所から飛び降りたとは思えないほど軽やかに少女は凛と同じ地に足をつけた。
「何故……、私が来ると……?」
少女はいつから待っていたとは言わなかったが、こんな森の奥で長いこと来るかどうか分からない人物を待っている者などそういない。
『今日凛がここに来る』事を知らなければ、ここで待っていることなどしないはずだ。
「教えてくれたの……神様が……そして、ここまで誘導してくれた。」
神様、誘導。その単語で何んとなくを察した。恐らくはあの石像がその神様とやらが使った道具か何かなのだろう。無駄に神々しかったし。
「私は、貴女への伝令役……」
「多分、信じられないかもしれない。けど、聞いて。……」
少女はいったん声を止め、すぅ、と息を吸った。
「……ここは貴女のいた世界じゃない。異なる時空に存在する世界、異世界」
10/01/30 22:52更新 / ルシュエル
戻る
次へ