序章
「うぅ、ぐすっ……」
寄せては返す波の音に紛れて、女の子の泣く声が聞こえた。
遠く小さいその声を頼りに俺は目を覚ました。
ザザァーっとさっきよりも大きく波打つ海。
起きてすぐにいろいろと違和感を感じた。
俺の頬に触れていたのは、いつもの柔らかい枕でも固い荷馬車の床でもなく、湿り気の多い塩の香で満ちたべったりした砂だったし、何故か胸まで海水に浸かっている。
どうしてだ……俺は荷馬車に乗って港町まで麦と銀を運んでいたはずじゃ……。
答えを導き出そうと頭を張り巡らせるが、二日酔いを思い出すような頭痛と吐き気に考えが上手くまとまらない。
いや、気が付いているのに、気が付けないふりをして、その理由を体調不良の所為にして誤魔化してるだけかもしれない……。
俺は、崖から落ちたんだ。
俺だけなのか、馬と荷物も一緒なのか分からないが、どちらにしろ荷物が安全という確証はほとんどゼロに近い。
何より、このまま潮が満ちてしまえば溺れ死ぬかもしれない。
早く起き上がらないと……あれ……。
体を動かそうと力を入れるが、全身が軋むように痛みだすだけで動かない。
ズキンと重く、それでいて裂けるような痛み。
脳がその痛みに怯えて、さらに体を硬直させた。
俺の体は動くことを忘れた操り人形のように、ただそこに存在している。
せめて、気分だけでも現実逃避させてやろうと、かろうじて動かせるのは眼で砂と海の境界線からいつもと変わらない空を映す。
空は俺なんかちっぽけな存在なのだといつものように平和を彩っていた。
そして、そんな俺を哀れむように、あの泣く声が聞こえた。
「ん、ぐすっ……ぐすっ」
さっきよりもはっきりと聞こえる。
固定された視界では見えないが、どうやら俺のすぐ傍で泣いているようだった。
なんで……。
それが聞きたくて、痛みで竦むんだ体を無理やり彼女の方へ向かせる。
軽い物が割れるような音を立てながら、見る世界が変わった。
「くっ……」
「だ、大丈夫ですか!?」
心配して覗きこんできたのはやはり女性で、青く長い髪と聖者の帽子が良く似合っていた。
それよりも印象的だったのは、彼女に付いていたヒレとマーメイドと同様に下半身が魚類のそれと同じだったということだ。
俺の隣りで泣いていたのはシー・ビショップという魔物だったのだ。
だからか、余計に気になった。
魔物の彼女が何故、見知らぬ俺のために泣いていたのか。
彼女の瞳から零れる涙を見て、俺はそれを問いかけた。
「なんであんたは、俺のために泣いていたんだ?」
「……すみません」
それだけ言うと、彼女は悲しげな顔をした後に俯いた。
まるで自分に非があるように……。
「えっと、別に責めてる訳じゃなくて――」
「すみません……私のせいで」
俺の言葉が遮られ、彼女は俯いたまま、また謝罪した。
それと同時に彼女の頬にできた涙の痕をなぞる様に新しい涙が伝う。
彼女は言葉の続きがあるのだと「私のせいで」ともう一度繰り返した後、次の言葉を口にする前に息を飲んでこっちに顔を向けた。
「あなたは今日までしか生きられなくなっちゃんたんです」
……え?
いや、よく分からない。
確かに体はボロボロだけど、死に至るほどってことはないだろうし。
今すぐ医者に診てもらえば助かるはずだ。
「え、いや。言ってる意味が分からないんだけど」
「えっと、その……」
彼女は涙を服で拭ってから、もう一度俺に向き直る。
「昨晩、あなたは死にました。そこで私は、その……あなたを蘇生したのですが……私がシー・ビショップとして未熟なせいで儀式が上手くいかなくて、それで……それで……」
どんどん声のトーンが下がっていく。
とうとう落ち込んで、また俯いてしまった。
「それで今日までしか生きられないってことか……」
「そうなんです。正確にはあと20時間もありません」
「その後にまた蘇生って訳には――」
「すみません、一度蘇生した人間をもう一度生き返すことは出来ないんです」
「そっか……いや、いいんだ」
どうせ、商売道具を失ったんだ。
一文無しになっちまったし、もう一度商売始めようにも多くの金がいる。
一度生き返ったにしろ人生的にも、相当終わっちまってたんだ。
今更、寿命なんて……。
諦めかけた俺の手を彼女は何も言わずぎゅっと握る。
「あの、こんな事じゃ許されないの分かってますけど、せめて最後までご奉仕させて下さい。私に出来ることがあったらなんでもしますから」
「あぁ、ありがとう」
もしかしたら、この言葉に俺は、自分が思っているよりも救われていたのかもしれない。
寄せては返す波の音に紛れて、女の子の泣く声が聞こえた。
遠く小さいその声を頼りに俺は目を覚ました。
ザザァーっとさっきよりも大きく波打つ海。
起きてすぐにいろいろと違和感を感じた。
俺の頬に触れていたのは、いつもの柔らかい枕でも固い荷馬車の床でもなく、湿り気の多い塩の香で満ちたべったりした砂だったし、何故か胸まで海水に浸かっている。
どうしてだ……俺は荷馬車に乗って港町まで麦と銀を運んでいたはずじゃ……。
答えを導き出そうと頭を張り巡らせるが、二日酔いを思い出すような頭痛と吐き気に考えが上手くまとまらない。
いや、気が付いているのに、気が付けないふりをして、その理由を体調不良の所為にして誤魔化してるだけかもしれない……。
俺は、崖から落ちたんだ。
俺だけなのか、馬と荷物も一緒なのか分からないが、どちらにしろ荷物が安全という確証はほとんどゼロに近い。
何より、このまま潮が満ちてしまえば溺れ死ぬかもしれない。
早く起き上がらないと……あれ……。
体を動かそうと力を入れるが、全身が軋むように痛みだすだけで動かない。
ズキンと重く、それでいて裂けるような痛み。
脳がその痛みに怯えて、さらに体を硬直させた。
俺の体は動くことを忘れた操り人形のように、ただそこに存在している。
せめて、気分だけでも現実逃避させてやろうと、かろうじて動かせるのは眼で砂と海の境界線からいつもと変わらない空を映す。
空は俺なんかちっぽけな存在なのだといつものように平和を彩っていた。
そして、そんな俺を哀れむように、あの泣く声が聞こえた。
「ん、ぐすっ……ぐすっ」
さっきよりもはっきりと聞こえる。
固定された視界では見えないが、どうやら俺のすぐ傍で泣いているようだった。
なんで……。
それが聞きたくて、痛みで竦むんだ体を無理やり彼女の方へ向かせる。
軽い物が割れるような音を立てながら、見る世界が変わった。
「くっ……」
「だ、大丈夫ですか!?」
心配して覗きこんできたのはやはり女性で、青く長い髪と聖者の帽子が良く似合っていた。
それよりも印象的だったのは、彼女に付いていたヒレとマーメイドと同様に下半身が魚類のそれと同じだったということだ。
俺の隣りで泣いていたのはシー・ビショップという魔物だったのだ。
だからか、余計に気になった。
魔物の彼女が何故、見知らぬ俺のために泣いていたのか。
彼女の瞳から零れる涙を見て、俺はそれを問いかけた。
「なんであんたは、俺のために泣いていたんだ?」
「……すみません」
それだけ言うと、彼女は悲しげな顔をした後に俯いた。
まるで自分に非があるように……。
「えっと、別に責めてる訳じゃなくて――」
「すみません……私のせいで」
俺の言葉が遮られ、彼女は俯いたまま、また謝罪した。
それと同時に彼女の頬にできた涙の痕をなぞる様に新しい涙が伝う。
彼女は言葉の続きがあるのだと「私のせいで」ともう一度繰り返した後、次の言葉を口にする前に息を飲んでこっちに顔を向けた。
「あなたは今日までしか生きられなくなっちゃんたんです」
……え?
いや、よく分からない。
確かに体はボロボロだけど、死に至るほどってことはないだろうし。
今すぐ医者に診てもらえば助かるはずだ。
「え、いや。言ってる意味が分からないんだけど」
「えっと、その……」
彼女は涙を服で拭ってから、もう一度俺に向き直る。
「昨晩、あなたは死にました。そこで私は、その……あなたを蘇生したのですが……私がシー・ビショップとして未熟なせいで儀式が上手くいかなくて、それで……それで……」
どんどん声のトーンが下がっていく。
とうとう落ち込んで、また俯いてしまった。
「それで今日までしか生きられないってことか……」
「そうなんです。正確にはあと20時間もありません」
「その後にまた蘇生って訳には――」
「すみません、一度蘇生した人間をもう一度生き返すことは出来ないんです」
「そっか……いや、いいんだ」
どうせ、商売道具を失ったんだ。
一文無しになっちまったし、もう一度商売始めようにも多くの金がいる。
一度生き返ったにしろ人生的にも、相当終わっちまってたんだ。
今更、寿命なんて……。
諦めかけた俺の手を彼女は何も言わずぎゅっと握る。
「あの、こんな事じゃ許されないの分かってますけど、せめて最後までご奉仕させて下さい。私に出来ることがあったらなんでもしますから」
「あぁ、ありがとう」
もしかしたら、この言葉に俺は、自分が思っているよりも救われていたのかもしれない。
10/08/03 08:10更新 / nagisa82_s
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