極東より愛を込めて
[ジパング地方派遣調査士 帝国陸軍情報部所属 ダルク陸軍少尉 定期報告書]
機密レベルC 軍属以外の閲覧を禁ず……
私の名前はダルク。家名はない。帝国から遥かに東、この極東の国ジパングに派遣され定点観測所に勤め出してから、今日でちょうど六ヶ月になる。ジパングの魔物は謎が多い、今までずっと神秘のベールに包まれてきたそれらを解き明かす為、帝国の陸軍情報部から派遣された私はこの「ジパング」という、今まで話に聞いた事しかなかった国で職務に励んでいる。
この国の特殊な政治体系と閉鎖性を鑑み、今のところ派遣されているのは自分一人だ。ゆくゆくは増員すると上司は言っていたが……さて、いつになる事やら。自分が受け入れられたのは、たった一人という条件と、そして私自身の特徴に由来しているのだろう。私は盲目だ、つまりジパングの役人達は「盲いが調査など……建前で来たに違いない」と判断したのである。
無論、実際は違う。私は確かに生まれてこの方、一切光を感じられない身体だが、その代わりに魔力を感じ取る力を授かっている。この世界の全てには魔力(マナ)が宿っているのだ、それを感じ取れるという事は、世界を感じ取れるという事に等しい。
そして今日も見張り台に一人立ち、この山ばかりの国の中でも一際険しい「クラマヤマ」と呼ばれる場所を全身で感じ取る。大陸とは全く違う魔物たちが息づくこの島国は、赴任してから驚きの連続だった。そうして今日も、新しく感じ取った魔物の詳細をレポートに書き綴っていく……。
「ちッ……またか」
思わず小さく舌打ちをする。
一ヶ月くらい前から、こうして定点観察に出るたびに誰かの――いや、何かの視線を感じるのだ。最初は警戒を帯びた視線だったので恐らく知能のある魔物がこちらを見ているのだろうと気にも留めなかった。やがてそれは興味深げな視線に代わり、今ではあからさまにこちらを窺う気配を匂わせている。しかも不可解な事に、その視線の主は私の魔力感知で全く捉える事が出来ないのだ! 今までこんな事は一度としてなかった、どんなに完璧に隠行した魔物や魔術師でも見つける事が出来たというのに、その視線の主はどれだけ探してみても見つける事はかなわなかった。
いつだったか向こうに気付いている事を感付かれるのを覚悟して、本格的に探査魔法を使って探してみたのだが、するりと両手からすり抜ける様に逃げられてしまった。完全に気付かれたので、今後はもう来ないかと思えば、何故か前以上の熱心さで観察されるようになって辟易している。全く……一体何なんだ?
■■■
「ああ、そりゃあ鴉天狗に違えねえだ」
「カラステング?」
「ああ、異人さん聞いたことねえだか?」
「初めて聞く魔物だ……」
食料を買いに下山し、麓の街でその話をした途端、まるで当たり前のように答えが返って来た。彼が言うにはどうやらそのカラステングという魔物は我々で言うところのハーピィ種に近いらしい。だが、目にも止まらぬ速さで空を飛び、ジンツウリキとか呼ばれるこの国の魔法を使いこなすと聞いては、どうも同一視するには危険そうだ。
「異人さん、鴉天狗に見られてるって気付いたんだか? すげえなあ、普通わかんねえべよ」
「…………この通り盲いでね、他の感覚が鋭いんだ」
「ほー」
少し話し過ぎたか、現地の人間には魔力視は隠さねばならない。私は魔力視のおかげで本来必要のない杖を突きながら、やや足早に帰路を急いだ。
「――っ」
来た、この感覚、あの何かが――いや、カラステングとか呼ばれる魔物がこちらを見ている。だがここは街の中だ、この距離だと明らかに街の中に佇んでいるはず、何故騒がれない? いや、恐らく話に聞いたジンツウリキとかいう魔法だろう、それで姿を隠しているに違いない。もしそうならば自分が見つけられなかったのも頷ける、全く未知の魔法体系なのだ。
(そろそろ癪に障ってきたな……)
実害は無いが、じっと見られるというのは意外にストレスが溜まる。この際痛い目を見てもらって退散願おう。
「小さき精霊 スプライト 汝の力もて 我が身を虚空へ隠したまい……《不可視》」
小声で素早く魔法を唱える。インビジビリティで姿を消し、すっと路地裏に入って気配を消す。視線の相手が慌てる様子が感じ取れる、今までずっとこちらから探るだけで隠れる事はしなかったのだ。恐らく隠行は出来ないと高を括っていたのだろうが……この程度が出来なければ魔物の調査など出来ない。気配遮断と隠行魔術(マジック・コンシールメント)は私の十八番だ、しかもこれほど人の気配(マナ)が飛び交っている場所だ、それらの一つに自らを紛れさすなど造作もない。
明らかに相手は隠行の魔法が乱れて、パタパタと走る音がこちらに近づいてくる。よし……これなら分かるぞ。相手が路地裏に入って来た瞬間、胸倉を引っ掴んで壁に押し付け、杖から引き抜いた仕込み刀を首筋に這わせた。
「動くなッ!!」
「ひっ!?」
「んなぁ!?」
驚きのあまり刀を引くが、胸倉は掴んだままにしておく。
「な、なにぃ?」
「ひ……」
私が壁に押し付けている相手は……人間の少女に視えた、何処からどう視ても人間だ、魔力視を更に念入りにしてみたが、やっぱり人間だった。少なくともハーピィには見えない。東方特有の漆黒の髪は後ろの方だけ短く二本に束ねられ、ピンと左右に撥ね出している、その髪は路地裏に差し込む淡い光に反射して濡れた様に光り、この辺りでは珍しい夕日のように紅い瞳は恐怖と驚愕に震えていた。
罪悪感を感じながらも、この少女が自分の後を追ってこの路地裏に入り込んで来たのは確かなのだ、ぎろりと睨みつけて――目を閉じたままなので迫力はあまり無いかも知れないが、ないよりましだろう――詰問する。
「おい貴様、何故私をつけ回していた? 答えろ」
「し、知らない、人違いじゃないの?」
「…………チッ!」
やられた!! 恐らくジンツウリキで感覚を狂わされたのだろう、恐ろしい使い手だ。やはり本格的に対策を練る必要がある。今はただ見ているだけで、やっている事も悪戯程度だが、このままエスカレートした場合どうなるか分からない。
「すまない、君をカラステングと間違えたようだ」
そう謝って仕込み刀を杖の中に戻す。
私のその言葉を聞き、少女は驚きに目を丸くして話しかけて来た。
「!? へ、へぇ……私、鴉天狗に見えるかな?」
「いや、どう考えても人間だ。私のミスだ、謝罪する」
そう言って彼女に頭を下げ、杖を突きながら帰路を急ぐ。
これは少し大仕事になりそうだ、帰って早急に準備を始めよう……。
■■■
初めはただの興味本位だった。鞍馬山系は幾つもの国を跨る大連山で、そのうちのひとつである碧ヶ淵地方を治めるように大天狗様から仰せつかった私は、ある日その異人に出会ったのだ。いや、出会ったと言うより一方的に見知っただけである。赤銅色に輝く髪と、混じりっけない真っ白の肌、そして六尺(180センチ)はゆうにあるその身長は、まさに異相と言って差し支えない。特にその身長はどの町にの人込みに紛れようと、たった一人だけ飛び出してしまって非常に目立つだろうと思わせた。
彼は碧ヶ淵周辺の妖怪や妖獣を調べては手元の紙に何かを書き込み、時には山の中腹に建てた塔の屋上から周囲を見回しては一日を過ごしていた。どうやらそれが仕事らしい。堀の深い顔立ちを気難しげに顰め、一日中そうやってすごす姿はなにやら修行中の苦行者か、宇宙の真理を解き明かそうと日夜頭を捻る僧侶に見える。
そして、ある日私は気が付いた、彼が山中を歩く時も書き物をする時も、塔の屋上に出ている時でさえ、全くその両目が開いていない事に。見鬼……それも通常の生活にすらその力を用いる、正真正銘これ以上無いほどの特級の見鬼だ。幽世(かくりよ)と顕界(うつしよ)の間を結ぶ稀有な能力、彼岸(あちら)を覗き込みながら此岸(こちら)に身を置く矛盾の存在……。数々の神通力に精通する天狗達でさえ到達出来ない領域に、軽く一足飛びで踏み入るその能力はまさしく僥倖。興奮を抑えきれない私はその日から彼の観察を始めたのだ。
私たち天狗には色々な掟があり、その一つに「他種族と交わってはならない」というものがある。天狗種以外と交わった血はその力を薄め、やがてそれは種族全体の衰退に繋がると言うのだ。だが、この掟には例外がある、それは「ただし、対象者が極めて特異な才能の持ち主か、或いは血に関係した特異能力を持っており、なおかつ一族に迎え入れても問題ない人格の持ち主であれば、その限りではない」というものである。
当然ながらこれらの事を調べるにはかなりの時間がかかる。その為にこの掟を何とか無効にしたい天狗達は、気に入った異性が万が一異種族だった場合には必死になってコソコソと相手の周りを嗅ぎ回って調査をする。そして年に四回開かれる本山での定期報告の折にその調査書を提出し、それが大天狗様に認められてからやっと相手をモノに出来るのだ。
当初、私は別に彼をつがいにしたいと思って観察をし始めたわけではなかった、ただ単にその特異な才能を調べてみたいという好奇心から彼を観察し始めたのだ。だが、それはとある日の出来事で一変する事となる。
順調に観察が始まって少したったある日、全くいつものように観察を続けていた矢先の出来事であった、塔の屋上で佇んでいる彼を十丈(約30メートル)離れた杉の木の上から見ながら、その手元にある閻魔帳にすらすらと書き込んでいた瞬間。
「ッ!?」
ぞくりと背筋に走る悪寒に、慌てて隠れ蓑の呪法を唱えて身体を隠したその次の瞬間だった。凄まじい精度と速度で探査呪法が周辺一帯を走り抜け、まるで地に落ちた砂粒の一つまでも見逃さぬと言わんばかりの執念深さで私の周囲が重点的に探られる。慌てて更に数個の呪法を追加して咒的強度を上げ、次々と矢継ぎ早に投げかけられた探査呪法と捕縛結界の隙間を縫うようにしてその場から離脱した。
途中で見失ったのか、その場から更に百丈(約300メートル)ほど離れて漸く追跡の手が緩んだ時には、どっと全身から冷や汗が出た。まさしく肝が冷えるとはこの事かと冷や汗を拭いながら、私の心は先程までとは大きく様変わりしていた。
即ち、この観察を本来の目的として続行する事を心に決めたのだ……。
「凄い……あの程度の乱れで、私の隠行に気が付くなんて……」
彼が去って行ってからも心臓がドキドキと高鳴っている。突然の事による緊張と、至近距離に迫った彼の顔のせいだった。彼が路地裏に消えてから突如としてその気配が消えた瞬間、確かに私は慌てた。急ぎ過ぎた為に呪法が疎かになってしまったという自覚もあった、だが、まさかあんな程度の綻びから正体を看破されかかるとは正直思ってもみなかった。
結局のところ正体はばれなかったが、かなり危ないところだった。彼が至近距離からじろじろと見鬼の力で見回してきた時などは「ああ……終わった」と半ば諦めかけたほどである。どうやら彼は龍脈筋や地脈・気脈を視る事には優れているが、その反面一つ一つのモノを詳しく視る事は不得手らしい。そうでなければさっき胸倉を掴まれた瞬間に仕込み杖でずんばらりとひらきにされていただろう。念の為に変化呪法の強度を偏執的にまで高めておいて助かった、備え有れば憂い無しとは正にその通りだ。
「ふぅ……」
彼の気配が街から出て行ったことを感じ取ってから、漸く襲ってきた脱力感に苛まれる。がくがくと震える膝は身体を支える事が出来ず、ぺたりとその場に座り込んでしまう。そうしてぼんやりと路地裏から見える狭い空を眺めているなか、ふと気が付く。
「私、修験服のままじゃないか……」
彼が異人で助かった。さもなければこんな年端も行かぬ少女が修験服を着て街中にいるという特大の違和感に気が付いて、その場で更に激しく詰問されていただろう。森林内での迷彩効果も考えて萌黄色に染め上げられた修験服と羽織を指先でつまみながら、思わず気の抜けた笑いが漏れる。何が「備え有れば憂い無し」だ、変化・変装で最も重要な服装の選定に失敗しているではないか。
「ははは……あはは、あははは!」
気の抜けた瞬間、どうしても我慢出来ずに笑い転げてしまう。路地裏で萌黄色の修験服を着た少女が笑い転げている姿はこれ以上無いほど奇異な光景だろうが、施してある呪法のおかげで気付かれる心配はない。
げらげらと笑い転げながら、私は新たな誓いを胸にする。即ち、何としてでも彼とつがいになる、と……。
■■■
あの街中で一敗食わされてからというもの、私と忌々しいカラステングとの本格的な戦いが始まった。戦いと言っても血生臭いものではなく、ようは私が一方的に相手を見つけようと我武者羅になっていたのだが……。罠を仕掛けてみたり、感知魔方陣を仕掛けてみたり、使い魔を放ったりしてみたものの、分かった事と言えばカラステングの「カラス」とはどうやら我々の言う「クロウ」もしくは「レイブン」に相当する言葉のようだ、ちらりと見えた真っ黒の羽で分かった。ハーピィ種にしては随分と地味な色彩だ、やはりこのジパング特有の種族だろう。
戦いはまるで図ったかのように0600時に始まり、約4時間の死闘を経て1000時には悠々と相手が去って行って終わる。戦いが始まってからいつの間にか決まったその「交戦期間」は、別に協定を結んだわけでもないのに敵のカラステングは毎度毎度律儀に守っている。その態度や、積極的に攻勢に出て来ない行動からして恐らく愉快犯的な性格の相手なのだろう。これはある意味幸運と言え、また有る意味では不幸でもあった。
一応この国の政府との約定には「手に負えぬ魔獣が出たり、心身に重篤な障害が出て任務が続行不可能な状態に置かれたもしくは置かれそうな場合には、然るべき手段で救援を現地政府に要請する事が出来る」となっている。もしあのカラステングが本気で襲ってきた場合、自分はなす術もなく殺されてしまうだろう事はこれまでの攻防で重々承知出来た。その点では幸運であるが、相手があくまでこちらをからかってただ観察する事だけを目的にしている限り、自分は救援を要請する事が出来ない。
そうして今日も、私とカラステングの忌々しい鬼ごっこが始まる。
「そこ!」
絶妙のタイミングで放ったスローイングダガーは敵追尾(ホーミング)のエンチャントが施してある。自分の筋力と魔法の効果で目にも止まらぬ速度を持って敵に迫ったその武器は、黒い翼の影に触れる寸前であらぬ方向に進路を変え、何もない方向へと飛び去って行った。
「くそ、またか!」
飛び道具はこうやって殆ど無効化されてしまう、かと言ってあの速度で森の中を飛び回るような相手に接近戦など出来る筈もなく、こうして毎度毎度新たな魔法を弓矢や手裏剣に施して試行錯誤を繰り返しているのだ。
「チッ……時間切れか」
一週間も繰り返せば大体の感覚が掴めて来る、案の定カラステングは悠々と半径50メートルの感知結界から去って行ってしまった。この攻防が始まった最初期に設置したその結界のおかげで何とか何処にいるかは分かるのだが、当然ながらそこから出て行かれては皆目見当が付かない。今日の攻防はここで終了だ。
「畜生め!!」
帝国語で罵倒を浴びせて中指をおっ立てる。恐らく意味など分からないだろうに、黒い翼のハーピィはその言葉に答えるかのようにくるりくるりと空中で舞ってから空の彼方に飛び去っていった。
全身を覆う徒労感と空しさに大きく溜息をつき、使用した手裏剣や弓矢を一人寂しく片付ける。明日こそは、そう毎度毎度の誓いを胸に帰路についたのだった……。
■■■
「あはははは! それで? 今日も一敗地に塗れたってわけ?」
「次は勝つ」
「この前も言ってなかったっけ?」
「……次は本気だ」
「へぇ、じゃあ次の報告も楽しみにしてる。まあ、一ヶ月以上もたって殆どその内容が変わらないんじゃあ、望み薄だけど!」
あの日からガラリと変わった生活は大きく三点。一つは毎日のようにカラステングと繰り返される攻防、二つ目はあれ以来感じなくなったカラステングの視線、そして三つ目はあの人違いで脅してしまった少女――モミジとの交友だった。
麓の町にある一軒の茶屋で、今も隣に座ってケラケラと楽しげに笑っている。あの忌々しい攻防が始まってからというもの、こうして午後に町に下りて来ては彼女と語らうのが日課になっていた。半年以上もたった一人での任務ということで人恋しさも有ったが、それと同時に彼女が持つ情報が私を惹きつけた。
ジパングの土地風俗に関する逸話や風聞などを筆頭に、この地特有の魔物――ヨウカイと此方では呼ぶらしい――の外見とその能力、伝わる神話や歴史、彼等が奉じる主な神々の名前とその力、果てにはこの地方で作られる伝統料理の作り方など、その話の種は尽きるという言葉を知らぬように次から次へと溢れ出た。
その尽きぬ知識と教養に不信感を抱かぬわけではなかったが、彼女とこうして語らっている時間は今の私にとって唯一と言っていいくらいの心安らぐ瞬間だ。何度か何者なのか訊いてみた事もあったが、ニヤリと笑って「ヒ・ミ・ツ」と返されてからは余計な事は聞かぬようにしている。ここまで高い見識と教養を積んでいる所を見るに、恐らく貴族か豪商の娘といった所だろう。毎日決まった時間にしかこの町で会えない所を考えれば、もしかしたらこの時間帯だけ自由に外に出れるのかもしれない。
そんな事を考えていると、隣に座っていた彼女は手元の皿から串団子を取って最後の一つを口に入れた。餡子のたっぷり乗ったそれはこの店自慢の一品で、気軽に食べるには少々値段の張る物だが、定期的に本国から送られてくる資金があり余っているのでこの程度の散財は痛くない。彼女がニコニコ笑いながらそれを咀嚼するのを視てから、背後を向いて声をかける。
「店主、茶と団子のお代わりをくれ」
「へい、毎度!」
威勢の良い返事が返ってくると、すぐさま店主が急須と団子の乗った皿を持って現れる。私は草団子を一皿と茶を一杯、彼女はみたらし団子を一皿と餡子の串団子を二皿、最初にこの茶屋に彼女に誘われてやって来てからずっとその注文だ、店主も慣れたもので既に用意しているのだろう。
「わぁ、相変わらずおいしそう!」
「お嬢ちゃん、「おいしそう」じゃなくて「おいしい」んだぜ。間違えちゃあ困る」
「へへへ、いつもおいしいよ、おじさん」
「毎度!」
そう言って店主は笑いながら奥に引っ込んでいった。
そうして新たな団子に取り掛かろうとして、彼女は不思議そうに首をかしげてこちらを見た。
「そう言えば、よく私が食べ切ったって分かるよね? ホントに見えないの?」
「目が見えずとも大体分かる。特にモミジは行動が単純だからな、予想もつけやすい」
「あー! ひどーい!」
「ははははは」
「これを食べたら、今日も新しい所を案内してあげる!」
「ああ、有難う。助かるよ」
「えへへへへへ」
朗らかに笑ってじゃれ合いながらも、私の内心は罪悪感と無念で満ちていた。魔力視を隠さねばならないこの身の上では、彼女の容姿や服の柄色を褒める事も出来ぬし、風景を眺めて彼女と感動を共有する事も出来ない。今日も鮮やかな色の着物だな、似合っている、そんな簡単な褒め言葉すら今の自分には口が裂けても言う事が出来ないし、移り行くこの国の豊かな四季を話題に出し、その情緒を共に楽しむ事も出来ない。
そして何より、こうして友達になった少女に大きな隠し事をしているという事実が、私にとって一番堪えた。私が盲いであるという事実を知った彼女は、あの仕込み杖の代わりにと、私と腕を組んで街の中を共に歩いてくれる。必要ないと言っても、盲いの人間が杖だけで往来をすいすい歩くのはどうにも説得力に欠けるため、その申し出を断る明確な理由を提示出来なかったのだ。……そして、度し難いことに私自身、彼女の柔らかな身体が密着して共に歩くその瞬間を心待ちにしていたのである。
「ご馳走様!」
「店主、金はここに」
「へい、毎度ありがとう御座い!!」
「いこっ!」
「ああ」
盲いであると嘘をつき、その華奢で柔らかな身体に触れる後ろめたさと興奮、そして年端も行かぬ少女(こちらでは成人しているらしいが、ジパングの人間は皆若く――幼く見える)に性的興奮を覚えるという罪悪感に苛まれながら、今日も彼女に先導されながら往来を進む。こうして彼女は茶屋で過ごした後は私を連れてこの街の施設やその周辺の「穴場」と呼ばれるスポットを紹介してくれる。
今日は町から出て外に行くようだ。門番に朗らかに挨拶をしながら外に出ると、私が任務についているアリハ山とは正反対の小高い山に向かう。そこには私がいる山と違って危険な魔物や動物がおらず、街の里山として利用されていた。植林された松林は秋頃に大量の落ち葉を落とし、それはよく燃える燃料として冬の間に利用される。またそこかしこに生えている栗や柿の木といった実の成る木は、民衆でも手軽に手に入る貴重な甘味として重宝されている――らしい、全て現在進行形で彼女から聞いた受け売りだ。
「あ、ここのところ木の根っこが飛び出てるから気を付けて」
「ああ」
「ほら、私に掴まって」
「っ……」
「わっ」
その華奢な細腕からは想像も付かない力で抱き寄せられ、その拍子に彼女に覆い被さるようにして抱きついてしまう。私の身長180センチと比べて彼女は30センチは低いので、必然的にすっぽりと胸の中に抱きすくめる様な形になってしまった。文字通り目と鼻の先にある彼女の頭部からは、薄っすらと梅の花の香りが漂ってくる。この地方特有の香水のような物で「御香」と呼ばれる物だろう、やはり上流階級の人間だという推測に確信が持てた。思わず抱きしめてしまったその身体は、着物の上からでも分かる少女特有の柔らかさを両腕に伝えてくる。
「ダルク、どうしたの? 大丈夫?」
固まってしまった私を少し赤くなった顔で見上げ、腕の中の彼女が心配そうにそう声をかけてくるに至り、漸く私は我に帰った。
「ッ…………ああ、すまない、少し躓いてしまった」
「ううん、気にしないで。私がちゃんと先導できなかったから悪いんだから」
そう言って私の腕を取って安全な所に誘導する彼女を視ながら、私の内心はいよいよ罪悪感で張り裂けそうになる。彼女に不備など一切ないにも関わらず、私の嘘のせいで彼女には要らぬ苦労をかけさせている。だと言うのに私はこれ幸いと彼女に甘え、更には不埒な下心さえ最近では抱き始めている始末だった。
盲目で、更には魔力視という異能のおかげで、今まで私は特定の女性と長続きした事がない。魔力視は時として相手が隠したいと思うような事まで暴き立ててしまう、その気味の悪さに耐え切れるような女性は、この25年間ついに現れなかった。そしていつしか私は特定の相手を持つ事を諦め、誰かの温もりが欲しいと感じた時には娼館へ行くようになった。娼婦たちは余計な事を言わないし、聞かない。しかも私の魔力視は人間の病気を見抜く事も出来るので、娼館では簡易検診の真似事をして有りがたがられていたのである。この異能をそうやって歪な形であるが認めて貰える、そんな事もあいまってか、私はいつしか娼館に入り浸るようになっていた。
そんな時に下ったジパングへの転勤。私の娼館通いを快く思わなかった誰かが仕組んだのか、はたまた上官の説明通り自分が適任だったからか……実際、この閉鎖的な国に派遣するには自分が適任だったろう事は分かる。だが、娼婦以外を抱く気になれない体になっていた私は、僧侶でもないのにこのジパングに来てからずっと半年間禁欲生活を強いられてきたのだ。
そんな折に出会ったモミジ……こんな私に笑顔を向け、慕ってくれる少女の存在に、半年間もの長きに渡って押さえつけて来た私の獣性が疼いているのが分かる。間違いが起こる前に娼館に行って発散してしまおうかと考えた事も有った、だが、穢れ無き少女と共に語らいながら裏では娼婦を相手に性欲を発散させるという行為が、どうしようもなく後ろめたく感じられ、今の今まで娼館に足を運ぶ機会を逸してしまった。
「ほら、ついたよ!」
そんな事を鬱々と考えている間にも、彼女は甲斐甲斐しく私を先導して目的地まで連れて来てくれた。その場所は山頂に程近い岩棚で、誰かが設置したのか雨除けの屋根と粗末なベンチが備え付けてある。そのベンチに案内されて腰を下ろすと、眼下にはさっきまでいた街の様子が一望出来るうえ、初夏に吹く気持ちのよい風が頬を撫でた。その素晴らしい景色に簡単の溜息が出そうになるのを噛み殺し、傍らの彼女に話しかける。
「今日の穴場は一体なんだ? なかなか風が気持ちいい場所だが」
「えへへ、今日はね、有葉山とは碧ヶ淵を挟んで正反対の所にある里山の岩棚。この長椅子と、あと屋根もあるんだけど、この両方は街の人が作ったんだよ。里山に入っている時に雨が降ってきたり、上り下りする途中に一休みしたい人が利用するんだ」
「ほう。だがそれだと里山に入る人間は皆知っている事になるが?」
そう尋ねると、彼女はしたり顔で首を振った。
「ところがどっこい、この休憩所は設置した所が悪かったのか殆ど誰も知らなくて、もっと中腹辺りにある立派な休憩所の方にみんな行くんだ。生えてる木の関係で下からも上からもこの場所は見えないし、正真正銘の穴場だよ!」
「ほう、なるほど」
「あとね、ここから見える景色は最高に綺麗なんだ! 今から説明するよ!」
「ああ、それは楽しみだ。ありがとう」
「えへへへ、まずはねぇ――」
そうして彼女はたっぷりと時間をかけ、その岩棚から見える景色を精細に――そして精彩に語った。その念の入った語り様は、まさしく盲いの人間が聞いてもその情景を想像出来そうなほど気合の入った代物である。何度か色の説明に窮するような場面も合ったが、「私が盲いになったのは途中からで、色の概念は分かる」と新たな嘘を上乗せして事なきを得た。実際はその物自体が持つ色のマナを読み取る事で「色を感じ取る」事は可能である。それが健常者の言う「赤」や「蒼」と全く同じ物なのかどうかなど確かめようがないが、視えてはいるのだ。
頬を薄っすらと紅を引いたように染めながら夢中になって説明する彼女に、自然な笑みで微笑みかける。今は彼女に対する罪悪感よりも、愛おしさの方が先に立った。
やがて全ての情景を説明し終えた彼女は、ほうと息をついて下界の景色に視線を落とし、暫しもじもじと何度か此方の様子を伺ってからおもむろに話し掛けてきた。
「ね、ねえ」
「うん? どうした」
「い、いきなりこんな事頼むなんて、変だとは、思うんだけど」
「ああ」
「ひ、膝の上に座っていい?」
「膝の上?」
「うん……あ、だ、駄目だよね! あははは、ごめんね変な事言って!」
調子外れの笑い声を上げ、真っ赤になって恥ずかしげに顔を俯ける彼女を前に、私は一瞬あっけにとられた。しかし次の瞬間には彼女に微笑みかけ、返事の代わりにその身体を抱きかかえて私の膝の上に座らせた。
「わっ……」
「ほら、これでいいか?」
「うん……ありがとう」
そうして嬉しそうに頬を染めて礼を言う彼女の顔を見た瞬間、思わず膝の上に乗せた彼女をそっと抱きしめる。その行動に一瞬驚いたかのように身体を強張らせた彼女だったが、すぐに身体の力を抜いて私の身体に身を預けて来た。
「もっと……ギュッとして……」
首元まで真っ赤になった彼女の、その小さな桜色をした唇から零れ落ちた言葉は、耳を澄ませなければ聞こえぬほど小さな声だった。
私は直接それには答えず、ただ無言で両腕に力を込めて彼女を抱き締めたのだった……。
■■■
ゆったりと時の流れが見えるかのような安らいだ時間が過ぎていく。やがて太陽が西の空に沈もうかと言うほどの時間が経って、ポツリと彼女が口を開いた。
「烏天狗がさ、何で人間なんかをつけ回してコソコソ嗅ぎ回ると思う?」
ぼんやりと夕日に染まり始めた街を見つめながらのその言葉に、私は少し考えてから口を開いた。
「そうだな、たぶん単にそうやってからかっているんじゃないか? 私が珍しい異人だという事もあるのだろう」
「ん……違う、よ……」
「ほう、じゃあどうしてだ?」
興味深げにそう問いかけると、彼女は私の腕を抱き締めながら言葉を続けた。
「烏天狗には、掟があるんだ。彼等――彼女等は異種族と子供を作っちゃいけなくて、でもその掟には例外があるから、意中の異性が別種族だった場合には、今ダルクがされているみたいに観察して、そうして集まった情報を大天狗様に持っていって裁可を仰ぐんだ。「この相手とつがいになってもいいですか」ってね」
「……」
まるで他人事のように紡がれるその言葉に、激しい疑問が湧き上がって来る。社会性を持つ魔物――もはや亜人と言って差し支えない種族の、更にその特殊な掟……。いくら彼女が博識だからと言って、そう軽々しく知る事が出来るとは思えない情報である。混乱する私を他所に、彼女は言葉を続けた。
「それでね、許可が出たら、その相手を浚って行って、自分の巣に連れ帰るんだ」
「連れ帰って……どうするんだ?」
我ながら馬鹿な問いだと思った。
彼女もそう思ったのか、クスリと小さく笑う。
「連れ帰って、つがいになるんだ」
「…………なるほど」
私もまた、他人事のようにして頷いた。
やがて数瞬の沈黙の後、彼女はまるで溜まっていた物が一気に溢れ出すかのように言葉を紡ぎ始める。
「でも、さ、この制度ってさ、残酷だよね、好きな相手なんだよ? 異種族なのにつがいになりたいって思うくらい、好きな相手なんだよ? そんな相手をずっとずっと見続けてさ、全部全部書き留めて、何もかも調べて、そんなことしている内にもっともっと好きになって、そ、それで、それでさ……それでっ!」
不意に彼女は涙の粒を零れ落ちさせると、彼女の身体を抱き締める私の腕に、縋り付くようにして抱きついた。
「それで、もし「不許可」だったら……っ!? そんなに、そんなにす、好きになったのに、駄目って言われたら、どうしたらいいの!? 今更無理なのに! それだけ好きになってから、だ、駄目って言われても、い、今更、今更さぁっ無理に、決まってるじゃん!」
「モミジ……!」
直接には何も言っていない、だが、殆ど白状したに等しかった。私の両目は何の光も映さぬ文字通りの節穴だが、ここまで言われて気が付かないほど曇ってはいない。しかし、直接言わないのは掟とやらのせいか。私も彼女の身の上を追及する言葉は何も吐かずに、彼女の身体をこちらに向け、向かい合った形で力強く抱き締めた。
彼女はわんわんと泣きながら、私の胸元に噛り付くように顔を埋めた。その両手は私の背後に回り、縋り付くように背中を掻き抱いた。
「む、無理だよぉ……駄目って、言われたって……っ! 諦められないよぉ!」
「ああ……残酷な、制度だな」
「好きなんだっ……こ、こんな気持ちで、もし…もし、駄目だなんて、言われたら、い、言われたら……ッ、どうしたらいいの!? 分かんない……分かんないよッ!」
子供のように泣きじゃくる彼女を抱き締め、その美しい黒髪――烏の濡れ羽色と呼ぶらしいその特徴的な髪を梳る。私の胸元に顔を埋めたまま泣き続ける彼女に、一体何を言うべきだろうか? この血を吐くような告白の中、彼女は一度として自分がそうだとは明言していない。恐らく掟と照らし合わせてギリギリの所なのだろう。
意を決した私は、ゆっくりと語りかけるように彼女の耳元で言葉を紡いでいく。
「……そこまで、想われたとしたら、そいつは光栄な奴だな。私だったら、もし正体を明かしてくれれば最初から幾らでもその調査に応じるんだがな」
「だ、駄目なんだ、調査が終わるまで自分から正体を明かすのは、掟に反するんだ」
「何故?」
「その相手が、誰も見ていないような所で何をしているのかが重要だし、それに……」
「それに?」
「正体を明かして、もし、もし受け入れられたら、歯止めが利かなくなるだろうって」
その点に関しては掟とやらを作った奴も考えているようだ。まさに慧眼というべきか、もし彼女が今この瞬間にでも自らの正体を明かしても、私は躊躇なくその誘いに応じるだろう。だが、調査が終わって許可が出る前からそうなれば、彼女は掟に従って何らかの罰を受けるに違いない。
「そう、か……」
「うっ……うぅぅ……!」
ぐずぐずと泣き崩れる彼女を抱き締めながら、ゆったりと話しかける。
「私は、モミジ、君の事が好きだ」
「ぇ――」
「たとい君がどんな身分でどんな身の上の持ち主だろうと、私が「モミジ」という名の個性を持った一人の少女を好いているのは変わらない……それだけは確かだ」
「ダルク……」
呆然とした顔の彼女に話しかける。頭の中で言葉を選びながら、かなりギリギリの表現で語りかけた。
「だから、君が自分の正体を私に言う時期が来たら、その時に君の気持ちを聞かせて欲しい。そして、もしその時に君自身の気持ちとは関係ない要因で、私の気持ちに応えられない場合――」
「うん――」
彼女の顔を見つめ、言葉を続けた。
「一緒に私の故国へ、トルトリア帝国へ行こう」
「っ――!」
「上官に連絡を取れば、きっと助けになってくれる。あの人は話の分かる人だ、事情を話せば何とかしてくれる」
「ぁ……ダルク……わ、わたしっ――」
何か言葉を紡ごうとした彼女の唇を、そっと塞ぐ。
「ん――」
そっと啄ばむ様な、触れるだけの口付けだというのに、まるで初めて女性に触れた少年のように心臓が高鳴っているのが分かった。密着した彼女の身体からも、自分と同じくらいに早鐘を打つ鼓動が伝わってくる。
ほんの一瞬、十秒にも満たないキスを終えて唇を離すと、彼女は潤んだ瞳のままこちらを見上げている。そのまま押し倒して好き放題にしたいと、己が内の獣性が大声を上げているが、もし欲望のままに行動して一番不利益を被るのは彼女だ。ぐっと我慢してその頭をそっと撫でる。
「ダルク……」
「うん?」
「たぶんね、明日で最後になる気がする、烏天狗の襲撃」
「……そう、か。確かなのか?」
「うん、明日で調査期間は終了するよ」
「なるほど……じゃあ、飛びっきりの準備をして迎え撃たないとな」
そう言うと、彼女は可笑しげに笑う。
「信じるの? あてずっぽうかも知れないのに」
「今まで君の語った情報に嘘はなかった。それとも、明日で最後って言うのは信用のない情報なのか?」
その言葉に彼女ははにかむように笑って、再度私の胸元に抱きついて来た。
「ううん……間違いない。明日で、最後……」
そう言って私の胸に顔を擦り付ける彼女をそっと抱き締めながら、その日は夕日が山の向こうに消え行くまで、ずっとずっとそうしていたのだった。
■■■
あのあと、夜の帳が下りて来た辺りでどちらともなく下山しようという雰囲気になり、互いに何も言葉を交わさぬまま下山の道を進んだ。彼女があのカラステングなのだとすれば、当然ながら私の魔力視も知っているはずだ。だというのに彼女は無言で私の腕を取り、ギュッとそれを抱き締めながら山道を歩いたのだった。本来の盲いを先導する方法ではむしろ逆効果のその態度だったが、私は何も言わずに彼女の掌を握って指を絡め合わせた。
そして街の入り口まで来て、彼女は私を解放すると「またね」と短く声をかけ、目の前から忽然と消えた。初めて目の前で視るジンツウリキの精妙さに唸りながら、私は一人帰路を急ぐ。明日の決戦に備えるためである。
「出し惜しみは……無しだ。彼女を打ち倒せるくらいの人間だと調査に記してもらえれば、きっとその評価は上がるはず」
観測所に帰ってから自分に言い聞かせるように呟いて、金庫の中に仕舞ってある取って置きの品々を取り出す。
「拘束(バインド)の魔法球ひとつ、魔力遮断(マナ・コンシールメント)の魔力符が二枚、麻痺毒の小瓶が一壷、遠隔起動用の魔法符が十枚……」
そして最後に取り出したのは、翠緑色に淡く光り輝く魔法球。領地防護(ランドプロテクション)の魔法が詰まった魔法球だ。効果は半径30メートルと、本来の効果範囲と比べれば微々たる物であるが、一個人で所有するには破格の代物だろう。今回の任務を拝命するに当たって上官から頂いた物だ、これを使うような状況には追い込まれないでくれよと笑いながら渡されたのだが……申し訳ありません、使わせて貰います少佐殿。
「決戦は、明日……」
現在時刻は1910時、これから可及的速やかに準備をする必要がある。
「まってろ、モミジ……!」
不退転の決心を胸に、私は観測所の外に飛び出した……。
■■■
「………………ふぅぅぅぅぅ」
まだ太陽もその姿を見せ始めたばかりの早朝、観測所の屋上で大気中の大源(マナ)をゆっくりと我が身に取り込む。そして身体の中で淀んだ小源(オド)を陰の気を纏ったマナとして空気中に吐き出した。
「そろそろ、か」
そう呟いた瞬間、感知結界の中に彼女が飛び込んでくる。
「来たかッ!!」
すぐさま身体強化(フィジカルエンチャント)の呪文で限界まで身体を強化する。そして屋上から飛び降りると、彼女がやって来た方角に向かって駆け寄った。
「いたな……っ」
天高く聳え立つ杉の木の隙間を、まるで木が避けているのではないかと言いたくなるほど軽快に飛び回る黒い影……いや、よく見れば黒ではなく萌黄色の着物を着ている。どうやら今までの攻防で身に纏っていた黒っぽい服から着替えたらしい。
くるくると翻りながら上空を飛ぶ彼女に向かい、いつもの様にクロスボウを放つ。流石にその鏃は相手に打撃を与える特殊な物に交換して有るが、あたれば常人では骨くらい軽く折れるものだ。だが、案の定放たれたクォレルは彼女に当たる寸前で向きを変え、近くの木の幹に突き立った。
ここまではいつも通り、だが、今日は一味違うぞ、モミジ!
戦闘服のポケットから取り出した遠隔起動符に、短くコマンドワードを囁く。
「起動」
その瞬間、観測所を中心とした半径30メートルに翠緑色の魔力光が立ち昇った。その光は上空で折れ曲がると、巨大な円柱状になる。領地防護の魔法が発動したのだ。
「破邪結界!? う、嘘!? そんな気配無かったのに!」
「神妙にしろ!!」
「うぁ!?」
あまりに突然発動した大魔法に呆然とした彼女めがけ、クロスボウを放つ。その放たれたクォレルには、先端に小瓶が括り付けてある。もし彼女がいつもの通りならば怪しんで大きく避けただろうが、何の気配も無く発動した領地防護に驚いていたためにいつもの自動防御に任せた。だが、それこそが命取り。
彼女の目の前でクォレルがすいっと進路を変えた瞬間、先端に括り付けておいた麻痺毒入りの小瓶が破裂する。水蒸気爆発(フリアティック・イクスプロージョン)の魔法をあらかじめエンチャントしておいたのだ。
小瓶の破片と共に霧状になった麻痺毒を彼女は驚きと共に吸い込んでしまう。慌てて吐き出そうとするが、霧になったものを吐き出すなど不可能。あっと言う間に肺から吸収され、ふらふらと先程とは桁違いの弱弱しい動きでその場から逃げようとする。
「逃がさん! いや、最早何処にも逃げ場など無いぞ、モミジ!!」
「くっ……!」
悔しげに顔を顰めながら、黒い羽のダートを放ってくる。いつもはこれに苦しめられたが、今回のそれは全く持って精彩にかけていた。的確に避けながら、取り出したスローイングダガーを次々と放つ。
麻痺毒で痺れているであろうに、彼女はその攻撃を全て紙一重でかわす。どうやら自動防御の魔法は切れてしまったらしい。麻痺毒を中和する事に魔力を回したのだろう、その判断は全く持って正しい、だが、その程度は読んでいた。
「詰みだ、モミジ」
「ぇ――」
新たに取り出した遠隔起動符に命令を下す。
「起動」
「ぁう!!」
突然木々の間から飛んで来た魔法の縄が、彼女を縛りつける。バインドの魔法球が発動したのだ。突然浮力の要たる翼を封じられた身体は、当然ながら重力と慣性の法則にしたがって斜め下に落下した。具体的には、私の腕の中に。
どさりと私の腕の中に落ちて来た彼女は、何が何やら分からないと言いたげな、呆気に取られた顔をしていた。そんな彼女にニヤリと笑いかけ、私はこの一ヶ月以上続いた勝負の最後を飾る言葉を口にした。
「王手(チェックメイト)」
「は……ははは、あははははは!」
最後の勝負は、私の勝ちで幕を下ろした……。
■■■
「まほー、きゅー?」
「ああ、これだ。中に込めた魔法を解き放った後はただの水晶玉に戻る。ランドプロテクション――君の言う破邪結界もこれに封じ込めてあった」
「な、なんらそれーはんそくぅー!」
「はははははは」
麻痺毒のせいで呂律の回らない彼女の抗議の声に、私は笑いながらそっと頭を撫でる。彼女はだらりと足と手――翼を地面に投げ出して私の胡坐の上に収まっている。
「勝負の世界は非常だ、今回は私の勝ちということで……。有終の美は飾れなくて残念だったな、モミジ」
「うぅぅ、そんらのはんそくらー」
「こら、戦場で敵にもそう言う積もりか」
「ちくしょぉぉぉ」
悔しげに歯噛みする彼女を後ろから抱き締め、その頭に顔を埋める。
ああ、やはり仄かに梅の花の香りがする。
「ぁ、やぁ! かぐら! へんらい! へんらい!」
「はははは、何を言ってるのかさっぱりだな。もっとはっきり発音してくれ」
「ぅあああぁうあうあぁ」
怒りか羞恥にか、真っ赤になって必死にもじもじと彼女が動く。
と、まるで神の図った偶然か、或いは悪魔の仕組んだ悪戯か、彼女のお尻の谷間が私の股間のナニを挟んだ。そしてそんな事とは露知らぬ彼女は必死に私から逃れようともじもじと動きまく――――――――――――あ。
「あ」
「う」
二人同時に声を出してピシリと固まる。その間にも、身体全体で感じる彼女の肢体と、股間の柔らかい感触のせいでむくむくと股間の棍棒に血が流れ込んでいく。彼女は自分のお尻の間に一体何があったのか瞬時に悟り、私は自らの最低さに凍りついた。さっきとは別の意味でもじもじしながら、彼女は耳まで真っ赤にしながらそっと背後の私を伺った。
「ぅ、あ……だ、だうく……」
「……………………なんだ」
「お、おっきく、してう……?」
「…………」
私は無言で視線を逸らした。
最低すぎる、首を吊って死にたい。
しかも私の視界は目の向いた方向にあるわけではないので、目を逸らしたとしても意味は無い。必死になって言い訳を考えていると、彼女は真っ赤になりながらゆっくりと体を動かした。
「だうく……」
「ッ!? モミジ、なにを!?」
ハッと我に帰って前を向くと、彼女は念動魔法(サイコキネシス)でスカートを持ち上げ、白い下着を晒しながら私に向き直るようにして腰を下ろしていた。当然、元気になってしまった私の股間は彼女のその場所に当たってしまっている。
「い、いい……よ」
「――――なに?」
「いい、よ。だうく……」
「ッ…………!?」
いい?
いいのか? 本当に?
いや駄目だ、駄目に決まってるだろう! 昨日の話しを聞いてなかったのか!
でも彼女がいいって言ってるけど?
一時の気の迷いだ、掟で困るのは彼女だ!
でもいいって言ってんじゃねぇの! やっちめぇよ! ほれほれ!
駄目だ!
お堅ぇ野郎だな! 据え膳食わぬは男の恥だろっ! びびってんじゃねえや!
私の汚い欲望で彼女が不利益を被るなど、許容出来ぬ!!
てやんでぃ! じゃあその股間の暴れん棒なんだってぇんだ? あぁ!?
こ、これは!?
やりてぇんだろ? 溜まってんだろ? なぁ、ダルクさんよぉ……!
くぅ……!
ご無沙汰なんじゃねえの? 娼館にも行かずに溜めちまってまぁ……。実はこうなるのを予見して溜めてたのかい?
ち、違う!
違わねえさ、ほら、目の前の彼女を見てみろや。とっくに待ちきれずに濡れちまってるぜ。
ッ!?
「だうく……」
「ぁ……モミジ……」
ハッと気が付くと、彼女は興奮に上気した顔のまま涙ぐみ、その股間の下着はしっとりと湿り気を帯び始めていた。どうやら私が心の声(?)と会話している間、ゆっくりと股間を摺り寄せていたらしい。
その様子に思わずごくりと生唾を飲み込む。
そして彼女は麻痺毒で呂律の回らぬ口を懸命に動かし、その台詞を、口にした。
「だるく、だいすき…………!」
「ッ!! モミジ!!」
我慢なんか、出来るわけないだろうが!!!
ヒュー! 流石あっしの見込んだ男だ、いいぞ、もっとやれ!!
心の声(?)に言われるまでもなく、私は半年以上もの間溜まりに溜まった獣性を解き放っていた……。
■■■
一体何度彼女の中で果てたのか覚えていない。互いに繋がったまま抱き締めあい、荒い呼吸をゆっくりと落ち着ける。やがて彼女がそっと顔を離し、私と見詰め合う。彼女は火照った顔のままへらりと笑い、ちらりと舌を出した。
「えへへへ、やっちゃったぁ……」
「……良かったのか?」
「へへ、実は全然良くないけど、何とか誤魔化す」
「…………」
ここで「すまない」とは口が裂けても言えない。しかし、もし彼女が何か罰を与えられたらどうしよう、そんな思いが今更になって込み上げて来た。心配そうな表情がそのまま出ていたのだろう、彼女はこちらを安心させるように微笑んでキスをしてくる。
「大丈夫だよ、何とかなるから。見鬼で、思慮深くて、優しくて頼りになって、しかも私を倒したくらいの実力者だよ? 絶対合格するよ!」
「……帰って、来るよな?」
「うん! お墨付きを貰ったら、絶対帰ってくるから、待ってて!」
「ああ……」
よっぽど私は情けない顔をしていたのか、彼女は子供をあやすように「よしよし」と右の翼で私の頭を撫でた。これでは立場が逆だ、私は羞恥に赤くなりながらも、不安を無理矢理押し殺すように彼女を思い切り抱き締めた。
「絶対帰って来るんだ!」
「うん、約束する!」
■■■
ごめん、約束は守れそうに無い。
そう心中で、私の帰りを今か今かと待っているであろう彼に謝罪する。何のことは無い、彼と性交渉を持った事が全てばれてしまったのだ。流石に古来からある掟だ、私のような馬鹿者を見つけ出す方法がちゃんと確立してあった。そしてそれに引っかかってしまった私は座敷牢に三日三晩軟禁され、そして今日、天狗達の長たる大天狗12名の前に引っ立てられたのだ。
流石に縄をかけれるような事はなかったが、その扱いは罪人そのもので、牢番やすれ違う天狗・烏天狗からは憐憫の視線や嘲りの視線が突き刺さった。心身ともに疲れ果て、禁術符によってあらゆる術を封じられ、強行突破しようにも周囲に集ったのは私など足元にも及ばない大天狗が12人。最早、どうしようもなかった。周囲の大天狗達からは、突き刺すような視線が集まっている。
(ダルク……ごめん、ごめんね!)
一緒に故郷に行こうとまで言ってくれた彼の気持ちに応えられない悔しさと、一時の欲望に身を任せて彼を誘惑してしまった自らの愚かしさに、どうしようもなく涙が滲む。
「烏天狗、碧光院椛(りょくこういん もみじ)。前に出よ」
「……は」
大広間を歩き、御簾の向こうに居られる大天狗、鬼一法眼様の前で跪く。薄っすらと姿が見えるだけだと言うのに、突き刺さるような威圧感が襲い掛かってくる。脂汗を流しながらその瞬間を待つ。
「碧光院、その方烏天狗の身にありながら優秀なるを見初められ、今は碧ヶ淵州を治める州司徒の位を授かっている。これに間違いはあるか?」
「有りませぬ」
「その方は一月と数週間前、そなたの行政区に居を構えた異人を見初め、これを伴侶にしたいと思うて調査を始めた。これに間違いは?」
「有りませぬ」
「そしてその調査が終わるその日、そなたはその異人との勝負に負け、その男によって犯された。これに間違いは?」
「ッ! はい、間違いが御座います」
「ほう? 申してみよ」
「わたくしは確かに彼に負けました、しかし性交渉を迫ったのはわたくしからです、彼はわたくしの事情を察して踏み止まろうとしてくれました」
「ほう、ではその方から迫ったと? 男に罪はないと?」
「はい、彼はわたくしが愚かなまねをせずにおればそのままわたくしを開放したはずです」
「ふーむ」
御簾の向こうで法眼様が顎に手をやって首を捻る。その仕草に、思わず身を乗り出す。
「本当です! 彼に罪はありません!」
「これ! 指示も無いのに発言するでない!」
「ッ……!」
御簾の隣に控えている老天狗に戒められ、唇を噛んで頭を下げる。
そして、法眼様が口を開いた。
「碧光院よ、そなたは優秀で、ここで失うのは非常に惜しい人材だ」
「は、有難う御座います」
「そこでだ、そなたがこの場で「あの異人に襲われた」と証言するならば、そなたの罪は洗い浚い免除しよう」
「――――!」
「どうだ? たった一言、この場で発言するだけでいいぞ? さもなくばどうなるか……想像するのも恐ろしい厳罰が待っておる……。さあ、いかがする」
その言葉に、私はゆっくりと顔を上げ、御簾の向こうの法眼様を睨みつけた。
その不遜な態度に老天狗が声を上げようとした瞬間、私は天まで届けとと言わんばかりの大声で返事をする。
「やーなこったぁ!!!」
「なに!?」
「なんとっ!」
「ほう……」
「ヒュウ!」
「なッ!?」
「ほほう」
「……」
「おお!?」
「なぁにい!?」
「貴様!」
「無礼者!」
法眼様を除いた11人の大天狗が次々に驚きの声を上げる。構うものか、もうこうなったらダルクを助けるためになんだって言ってやる!
「法眼様、恐れながら申し上げます!」
「貴様! どなたに口をきいて――」
「よい」
「は!?」
「碧光院、話してみよ」
「ハハッ」
恭しく一礼をして、キッと御簾の向こうの法眼様を見据える。
「私は彼を――ダルクを愛しております。たとえ種族が違おうと、この気持ちに嘘偽り一切なし! 愛した者を身代わりにして助かるくらいなら、この碧光院、いかな拷問の果てに命尽きたとて、彼が助かるなら本望に御座りまする!!」
「ほう………………」
法眼様の深い声が大広間中に響き渡る。
私の切った大啖呵と、静かに気迫を放つ法眼様によって広間内はシンと静まり返った。
「では、そなたの意見は確かに聞いた。これよりそなたの沙汰を申し付ける」
「ハハッ!」
終わった。
ダルク、迎えに行けなくてごめん。でも、貴方は無事にいられるから――。
「碧光院、その方、構無し(かまいなし)」
「――――――は?」
「構無し(無罪)だと言ったのだ、聞こえぬか?」
「は――――」
予想外の言葉に凍りついた瞬間、周囲の大天狗はおろか法眼様までもが大笑いをし始めた。さっと御簾が持ち上がると、そこにはがっしりと貫禄のある体格をした法眼様が破顔大笑しながら扇子で身体を扇いでいる。
「かっかっかっかっか! 素晴らしい啖呵だ! 碧光院よ、良きに計らえ。ではこれにて散会!」
『ハハッ!』
ザッと周囲の大天狗たちが腰を折り、ざわざわと好き勝手に話しながらその場を去っていく。唖然とした顔で座り込んでいる私の前に、あの老天狗――寿老院様がニコニコ笑いながら歩み寄って来る。
「ほっほっほ、碧光院よ、咒智院様にお礼を申しておけ。あの方が取り成して頂けなければお主も人間も両方厳罰に処せられていたところよ!」
「咒智院様……」
呆然とその名前を呟くと、寿老院様は高らかに笑いながらその場から去っていった。
咒智院様。烏天狗の身にありながら大天狗12人の次席に位置する俊英。我々烏天狗にとっての憧れの星、超特級の出世頭、そして修験道や神通力を初め真言密教、陰陽道、道教、遥か大陸から伝わる真言(マントラ)の術までもその身に修め、「咒と智に並ぶもの無し」との称号である咒智院をなんと500年ぶりに襲名した大天才……。
「何で、咒智院様が……」
「そりゃあオメェ、ほっとけ無えからに決まってんじゃねぇの」
「え!?」
ギョッとして視線を巡らすと、そこにはどっかと胡坐をかいてぷかりぷかりと煙管を吹かす咒智院様の姿があった。とっくに変化の呪法など修めておられるはずなのに、その姿は我々烏天狗と何も変わらない。こうやって頑なに烏天狗としての姿を保つのが、我々の同族から人気と尊敬の念が耐えぬ理由の一つであろう。
「咒智院様! 今回はお助け頂き真に有り難く存じ――」
「ああ、やめやめ。堅っ苦しい挨拶はなしだ。碧光院よ、オメェいまの啖呵は本気かい? 本気で言ったのかい?」
ニヤリと笑ってそう問いかけてくる咒智院様に、真剣な顔で返す。
「は、本気で申しました。嘘偽りはありません」
「へッ……言うねぇ」
「本心です」
「おうおう、別に疑っちゃあいねえよ!」
そう言ってカラカラと笑うと、私の近くまで歩み寄って私の肩をするりと撫でた。
「あの異人さんと仲良くしろよ! あっしが応援してやるからよ!」
「は、はい! 有難う御座います!!」
「おう! もういいぜ、速く帰ってやんな」
「はい!」
元気よく返事をして立ち上がると、いつの間にか禁術符が全て無効化されて剥がれ落ちていた。まさか、あのするりと撫でられた瞬間に全て解呪されたと言うのか。私は改めて咒智院様の力の強大さに畏怖の念を抱くと共に、禁術符の縛りがなくなった事で戻って来た力を全て引き出す。
ああ、ダルク! 今帰るよ!!
「それでは、これにて!」
瞬身の呪法を使い、私の身体は大広間から消え去った……。
■■■
「おーおー、総本山で瞬身の法なんぞ使いやがって。あっしが補助しなけりゃどうなってたとおもってんのかねぇ」
ぷかりと煙管を吹かせ、ニヤリと虚空に笑いかける。
「へっへっへ、こいつが愛のなせる技って奴かい? 無茶無鉄砲は恋の花ってねぇ……。お幸せになりなせぇよ、お二人さん!」
「いい話で終わらせようとしてもそうは行かんぞ」
「あちゃ、頭領。いつから見てらしたんで?」
そのすっとぼけた様子に、法眼は苦笑いを浮かべた。
「咒智院、戯れが過ぎるぞ」
「はて、何のことやら」
「あの異人を念話と意識操作でけしかけたのはお主だろう、全く……演目に手を加える客など最低最悪だとは思わんのか?」
「最後は大団円で終わったじゃあねえですか、終わりよければ全てよし! てね」
そう言って咒智院はかんらからからと大笑い。
法眼は苦虫を噛み潰したような顔をしてから、大きな溜息をついた。
「全く……お主は他の点では非の打ち所が無いほど優秀なくせに、その趣味の悪い覗き見根性はどうにかならん物か」
「はっはっはっ! そいつぁ無理ってぇもんだ、あっしからこれを取ったらただの優秀な大天狗になっちまうじゃねぇの」
「ただの優秀な大天狗になって欲しいのだがな」
「無理」
即答だった。
■■■
「あれ? 何描いて……うわぁ」
椅子の後ろからヒョイとこちらの手元を覗きこんだ彼女は、そこに描かれたものを見て目を見開いた。肩口に乗せられた彼女の顔から、あの時嗅いだ梅の花の香りが仄かに漂ってくる。
「ねえねえ、もしかしてこれって!」
「ああ、君だ。生憎君以外のカラステングは視た事が無いからな、必然的に君がモデルになる。どうだ、上手いもんだろ?」
「うん! 凄いなぁこれ!」
キラキラと目を輝かせながら、描かれた自分を見る彼女に若干誇らしげな思いを抱きながら、明日帝都に送る予定の報告書を書き上げる。書類の最後に署名と判子を押して、終了だ。烏天狗の習俗や文化に関してかなり詳細な情報が彼女経由で集まったが、あまり外部に漏らすと危険そうなものは彼女と共に取捨選択して報告からは削った。その作業の後にこっそりと書き始めたので、彼女がこれを見たのはこれが初めてになる。
暫し感嘆の声を漏らしながらその絵を見ていた彼女だったが、やがてそわそわと私の顔を伺い始める。どうやらそろそろ待ちきれないようだ。
「ねえねえ、お仕事終わった?」
「ああ、今日の分は終わりだ」
「へへへ、じゃあさ、じゃあさ」
「全く……」
溜息をつくと、彼女を抱き上げて膝の上に乗せる。互いに向き合うように座った彼女は、既に熱っぽく頬を染めていた。期待の篭った目を見つめながら、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「一回だけだからな?」
「うん!」
絶対に一回ではすまないと二人とも分かっているが、お約束のようなものだ。そしてそっと彼女に口付け、その華奢な身体を抱き締める。こうして抱き締めあっているだけで鼓動が高まり、興奮してくるのが分かる。
「ダルク……大好き」
「ああ、私も愛している、椛……」
山中にある異人が住む家では、夜な夜な女性の嬌声が漏れ聞こえると、麓の街で噂になったが、何故かいつ尋ねてもその異人しか姿が見えず、その声を聞いた者は狐か狸か、はたまた天狗にでも化かされたのだろうと物笑いの種になったとか。
そうして今日も、ダルク陸軍少尉のジパングでの任務はつつがなく進行していくのであった……。
機密レベルC 軍属以外の閲覧を禁ず……
私の名前はダルク。家名はない。帝国から遥かに東、この極東の国ジパングに派遣され定点観測所に勤め出してから、今日でちょうど六ヶ月になる。ジパングの魔物は謎が多い、今までずっと神秘のベールに包まれてきたそれらを解き明かす為、帝国の陸軍情報部から派遣された私はこの「ジパング」という、今まで話に聞いた事しかなかった国で職務に励んでいる。
この国の特殊な政治体系と閉鎖性を鑑み、今のところ派遣されているのは自分一人だ。ゆくゆくは増員すると上司は言っていたが……さて、いつになる事やら。自分が受け入れられたのは、たった一人という条件と、そして私自身の特徴に由来しているのだろう。私は盲目だ、つまりジパングの役人達は「盲いが調査など……建前で来たに違いない」と判断したのである。
無論、実際は違う。私は確かに生まれてこの方、一切光を感じられない身体だが、その代わりに魔力を感じ取る力を授かっている。この世界の全てには魔力(マナ)が宿っているのだ、それを感じ取れるという事は、世界を感じ取れるという事に等しい。
そして今日も見張り台に一人立ち、この山ばかりの国の中でも一際険しい「クラマヤマ」と呼ばれる場所を全身で感じ取る。大陸とは全く違う魔物たちが息づくこの島国は、赴任してから驚きの連続だった。そうして今日も、新しく感じ取った魔物の詳細をレポートに書き綴っていく……。
「ちッ……またか」
思わず小さく舌打ちをする。
一ヶ月くらい前から、こうして定点観察に出るたびに誰かの――いや、何かの視線を感じるのだ。最初は警戒を帯びた視線だったので恐らく知能のある魔物がこちらを見ているのだろうと気にも留めなかった。やがてそれは興味深げな視線に代わり、今ではあからさまにこちらを窺う気配を匂わせている。しかも不可解な事に、その視線の主は私の魔力感知で全く捉える事が出来ないのだ! 今までこんな事は一度としてなかった、どんなに完璧に隠行した魔物や魔術師でも見つける事が出来たというのに、その視線の主はどれだけ探してみても見つける事はかなわなかった。
いつだったか向こうに気付いている事を感付かれるのを覚悟して、本格的に探査魔法を使って探してみたのだが、するりと両手からすり抜ける様に逃げられてしまった。完全に気付かれたので、今後はもう来ないかと思えば、何故か前以上の熱心さで観察されるようになって辟易している。全く……一体何なんだ?
■■■
「ああ、そりゃあ鴉天狗に違えねえだ」
「カラステング?」
「ああ、異人さん聞いたことねえだか?」
「初めて聞く魔物だ……」
食料を買いに下山し、麓の街でその話をした途端、まるで当たり前のように答えが返って来た。彼が言うにはどうやらそのカラステングという魔物は我々で言うところのハーピィ種に近いらしい。だが、目にも止まらぬ速さで空を飛び、ジンツウリキとか呼ばれるこの国の魔法を使いこなすと聞いては、どうも同一視するには危険そうだ。
「異人さん、鴉天狗に見られてるって気付いたんだか? すげえなあ、普通わかんねえべよ」
「…………この通り盲いでね、他の感覚が鋭いんだ」
「ほー」
少し話し過ぎたか、現地の人間には魔力視は隠さねばならない。私は魔力視のおかげで本来必要のない杖を突きながら、やや足早に帰路を急いだ。
「――っ」
来た、この感覚、あの何かが――いや、カラステングとか呼ばれる魔物がこちらを見ている。だがここは街の中だ、この距離だと明らかに街の中に佇んでいるはず、何故騒がれない? いや、恐らく話に聞いたジンツウリキとかいう魔法だろう、それで姿を隠しているに違いない。もしそうならば自分が見つけられなかったのも頷ける、全く未知の魔法体系なのだ。
(そろそろ癪に障ってきたな……)
実害は無いが、じっと見られるというのは意外にストレスが溜まる。この際痛い目を見てもらって退散願おう。
「小さき精霊 スプライト 汝の力もて 我が身を虚空へ隠したまい……《不可視》」
小声で素早く魔法を唱える。インビジビリティで姿を消し、すっと路地裏に入って気配を消す。視線の相手が慌てる様子が感じ取れる、今までずっとこちらから探るだけで隠れる事はしなかったのだ。恐らく隠行は出来ないと高を括っていたのだろうが……この程度が出来なければ魔物の調査など出来ない。気配遮断と隠行魔術(マジック・コンシールメント)は私の十八番だ、しかもこれほど人の気配(マナ)が飛び交っている場所だ、それらの一つに自らを紛れさすなど造作もない。
明らかに相手は隠行の魔法が乱れて、パタパタと走る音がこちらに近づいてくる。よし……これなら分かるぞ。相手が路地裏に入って来た瞬間、胸倉を引っ掴んで壁に押し付け、杖から引き抜いた仕込み刀を首筋に這わせた。
「動くなッ!!」
「ひっ!?」
「んなぁ!?」
驚きのあまり刀を引くが、胸倉は掴んだままにしておく。
「な、なにぃ?」
「ひ……」
私が壁に押し付けている相手は……人間の少女に視えた、何処からどう視ても人間だ、魔力視を更に念入りにしてみたが、やっぱり人間だった。少なくともハーピィには見えない。東方特有の漆黒の髪は後ろの方だけ短く二本に束ねられ、ピンと左右に撥ね出している、その髪は路地裏に差し込む淡い光に反射して濡れた様に光り、この辺りでは珍しい夕日のように紅い瞳は恐怖と驚愕に震えていた。
罪悪感を感じながらも、この少女が自分の後を追ってこの路地裏に入り込んで来たのは確かなのだ、ぎろりと睨みつけて――目を閉じたままなので迫力はあまり無いかも知れないが、ないよりましだろう――詰問する。
「おい貴様、何故私をつけ回していた? 答えろ」
「し、知らない、人違いじゃないの?」
「…………チッ!」
やられた!! 恐らくジンツウリキで感覚を狂わされたのだろう、恐ろしい使い手だ。やはり本格的に対策を練る必要がある。今はただ見ているだけで、やっている事も悪戯程度だが、このままエスカレートした場合どうなるか分からない。
「すまない、君をカラステングと間違えたようだ」
そう謝って仕込み刀を杖の中に戻す。
私のその言葉を聞き、少女は驚きに目を丸くして話しかけて来た。
「!? へ、へぇ……私、鴉天狗に見えるかな?」
「いや、どう考えても人間だ。私のミスだ、謝罪する」
そう言って彼女に頭を下げ、杖を突きながら帰路を急ぐ。
これは少し大仕事になりそうだ、帰って早急に準備を始めよう……。
■■■
初めはただの興味本位だった。鞍馬山系は幾つもの国を跨る大連山で、そのうちのひとつである碧ヶ淵地方を治めるように大天狗様から仰せつかった私は、ある日その異人に出会ったのだ。いや、出会ったと言うより一方的に見知っただけである。赤銅色に輝く髪と、混じりっけない真っ白の肌、そして六尺(180センチ)はゆうにあるその身長は、まさに異相と言って差し支えない。特にその身長はどの町にの人込みに紛れようと、たった一人だけ飛び出してしまって非常に目立つだろうと思わせた。
彼は碧ヶ淵周辺の妖怪や妖獣を調べては手元の紙に何かを書き込み、時には山の中腹に建てた塔の屋上から周囲を見回しては一日を過ごしていた。どうやらそれが仕事らしい。堀の深い顔立ちを気難しげに顰め、一日中そうやってすごす姿はなにやら修行中の苦行者か、宇宙の真理を解き明かそうと日夜頭を捻る僧侶に見える。
そして、ある日私は気が付いた、彼が山中を歩く時も書き物をする時も、塔の屋上に出ている時でさえ、全くその両目が開いていない事に。見鬼……それも通常の生活にすらその力を用いる、正真正銘これ以上無いほどの特級の見鬼だ。幽世(かくりよ)と顕界(うつしよ)の間を結ぶ稀有な能力、彼岸(あちら)を覗き込みながら此岸(こちら)に身を置く矛盾の存在……。数々の神通力に精通する天狗達でさえ到達出来ない領域に、軽く一足飛びで踏み入るその能力はまさしく僥倖。興奮を抑えきれない私はその日から彼の観察を始めたのだ。
私たち天狗には色々な掟があり、その一つに「他種族と交わってはならない」というものがある。天狗種以外と交わった血はその力を薄め、やがてそれは種族全体の衰退に繋がると言うのだ。だが、この掟には例外がある、それは「ただし、対象者が極めて特異な才能の持ち主か、或いは血に関係した特異能力を持っており、なおかつ一族に迎え入れても問題ない人格の持ち主であれば、その限りではない」というものである。
当然ながらこれらの事を調べるにはかなりの時間がかかる。その為にこの掟を何とか無効にしたい天狗達は、気に入った異性が万が一異種族だった場合には必死になってコソコソと相手の周りを嗅ぎ回って調査をする。そして年に四回開かれる本山での定期報告の折にその調査書を提出し、それが大天狗様に認められてからやっと相手をモノに出来るのだ。
当初、私は別に彼をつがいにしたいと思って観察をし始めたわけではなかった、ただ単にその特異な才能を調べてみたいという好奇心から彼を観察し始めたのだ。だが、それはとある日の出来事で一変する事となる。
順調に観察が始まって少したったある日、全くいつものように観察を続けていた矢先の出来事であった、塔の屋上で佇んでいる彼を十丈(約30メートル)離れた杉の木の上から見ながら、その手元にある閻魔帳にすらすらと書き込んでいた瞬間。
「ッ!?」
ぞくりと背筋に走る悪寒に、慌てて隠れ蓑の呪法を唱えて身体を隠したその次の瞬間だった。凄まじい精度と速度で探査呪法が周辺一帯を走り抜け、まるで地に落ちた砂粒の一つまでも見逃さぬと言わんばかりの執念深さで私の周囲が重点的に探られる。慌てて更に数個の呪法を追加して咒的強度を上げ、次々と矢継ぎ早に投げかけられた探査呪法と捕縛結界の隙間を縫うようにしてその場から離脱した。
途中で見失ったのか、その場から更に百丈(約300メートル)ほど離れて漸く追跡の手が緩んだ時には、どっと全身から冷や汗が出た。まさしく肝が冷えるとはこの事かと冷や汗を拭いながら、私の心は先程までとは大きく様変わりしていた。
即ち、この観察を本来の目的として続行する事を心に決めたのだ……。
「凄い……あの程度の乱れで、私の隠行に気が付くなんて……」
彼が去って行ってからも心臓がドキドキと高鳴っている。突然の事による緊張と、至近距離に迫った彼の顔のせいだった。彼が路地裏に消えてから突如としてその気配が消えた瞬間、確かに私は慌てた。急ぎ過ぎた為に呪法が疎かになってしまったという自覚もあった、だが、まさかあんな程度の綻びから正体を看破されかかるとは正直思ってもみなかった。
結局のところ正体はばれなかったが、かなり危ないところだった。彼が至近距離からじろじろと見鬼の力で見回してきた時などは「ああ……終わった」と半ば諦めかけたほどである。どうやら彼は龍脈筋や地脈・気脈を視る事には優れているが、その反面一つ一つのモノを詳しく視る事は不得手らしい。そうでなければさっき胸倉を掴まれた瞬間に仕込み杖でずんばらりとひらきにされていただろう。念の為に変化呪法の強度を偏執的にまで高めておいて助かった、備え有れば憂い無しとは正にその通りだ。
「ふぅ……」
彼の気配が街から出て行ったことを感じ取ってから、漸く襲ってきた脱力感に苛まれる。がくがくと震える膝は身体を支える事が出来ず、ぺたりとその場に座り込んでしまう。そうしてぼんやりと路地裏から見える狭い空を眺めているなか、ふと気が付く。
「私、修験服のままじゃないか……」
彼が異人で助かった。さもなければこんな年端も行かぬ少女が修験服を着て街中にいるという特大の違和感に気が付いて、その場で更に激しく詰問されていただろう。森林内での迷彩効果も考えて萌黄色に染め上げられた修験服と羽織を指先でつまみながら、思わず気の抜けた笑いが漏れる。何が「備え有れば憂い無し」だ、変化・変装で最も重要な服装の選定に失敗しているではないか。
「ははは……あはは、あははは!」
気の抜けた瞬間、どうしても我慢出来ずに笑い転げてしまう。路地裏で萌黄色の修験服を着た少女が笑い転げている姿はこれ以上無いほど奇異な光景だろうが、施してある呪法のおかげで気付かれる心配はない。
げらげらと笑い転げながら、私は新たな誓いを胸にする。即ち、何としてでも彼とつがいになる、と……。
■■■
あの街中で一敗食わされてからというもの、私と忌々しいカラステングとの本格的な戦いが始まった。戦いと言っても血生臭いものではなく、ようは私が一方的に相手を見つけようと我武者羅になっていたのだが……。罠を仕掛けてみたり、感知魔方陣を仕掛けてみたり、使い魔を放ったりしてみたものの、分かった事と言えばカラステングの「カラス」とはどうやら我々の言う「クロウ」もしくは「レイブン」に相当する言葉のようだ、ちらりと見えた真っ黒の羽で分かった。ハーピィ種にしては随分と地味な色彩だ、やはりこのジパング特有の種族だろう。
戦いはまるで図ったかのように0600時に始まり、約4時間の死闘を経て1000時には悠々と相手が去って行って終わる。戦いが始まってからいつの間にか決まったその「交戦期間」は、別に協定を結んだわけでもないのに敵のカラステングは毎度毎度律儀に守っている。その態度や、積極的に攻勢に出て来ない行動からして恐らく愉快犯的な性格の相手なのだろう。これはある意味幸運と言え、また有る意味では不幸でもあった。
一応この国の政府との約定には「手に負えぬ魔獣が出たり、心身に重篤な障害が出て任務が続行不可能な状態に置かれたもしくは置かれそうな場合には、然るべき手段で救援を現地政府に要請する事が出来る」となっている。もしあのカラステングが本気で襲ってきた場合、自分はなす術もなく殺されてしまうだろう事はこれまでの攻防で重々承知出来た。その点では幸運であるが、相手があくまでこちらをからかってただ観察する事だけを目的にしている限り、自分は救援を要請する事が出来ない。
そうして今日も、私とカラステングの忌々しい鬼ごっこが始まる。
「そこ!」
絶妙のタイミングで放ったスローイングダガーは敵追尾(ホーミング)のエンチャントが施してある。自分の筋力と魔法の効果で目にも止まらぬ速度を持って敵に迫ったその武器は、黒い翼の影に触れる寸前であらぬ方向に進路を変え、何もない方向へと飛び去って行った。
「くそ、またか!」
飛び道具はこうやって殆ど無効化されてしまう、かと言ってあの速度で森の中を飛び回るような相手に接近戦など出来る筈もなく、こうして毎度毎度新たな魔法を弓矢や手裏剣に施して試行錯誤を繰り返しているのだ。
「チッ……時間切れか」
一週間も繰り返せば大体の感覚が掴めて来る、案の定カラステングは悠々と半径50メートルの感知結界から去って行ってしまった。この攻防が始まった最初期に設置したその結界のおかげで何とか何処にいるかは分かるのだが、当然ながらそこから出て行かれては皆目見当が付かない。今日の攻防はここで終了だ。
「畜生め!!」
帝国語で罵倒を浴びせて中指をおっ立てる。恐らく意味など分からないだろうに、黒い翼のハーピィはその言葉に答えるかのようにくるりくるりと空中で舞ってから空の彼方に飛び去っていった。
全身を覆う徒労感と空しさに大きく溜息をつき、使用した手裏剣や弓矢を一人寂しく片付ける。明日こそは、そう毎度毎度の誓いを胸に帰路についたのだった……。
■■■
「あはははは! それで? 今日も一敗地に塗れたってわけ?」
「次は勝つ」
「この前も言ってなかったっけ?」
「……次は本気だ」
「へぇ、じゃあ次の報告も楽しみにしてる。まあ、一ヶ月以上もたって殆どその内容が変わらないんじゃあ、望み薄だけど!」
あの日からガラリと変わった生活は大きく三点。一つは毎日のようにカラステングと繰り返される攻防、二つ目はあれ以来感じなくなったカラステングの視線、そして三つ目はあの人違いで脅してしまった少女――モミジとの交友だった。
麓の町にある一軒の茶屋で、今も隣に座ってケラケラと楽しげに笑っている。あの忌々しい攻防が始まってからというもの、こうして午後に町に下りて来ては彼女と語らうのが日課になっていた。半年以上もたった一人での任務ということで人恋しさも有ったが、それと同時に彼女が持つ情報が私を惹きつけた。
ジパングの土地風俗に関する逸話や風聞などを筆頭に、この地特有の魔物――ヨウカイと此方では呼ぶらしい――の外見とその能力、伝わる神話や歴史、彼等が奉じる主な神々の名前とその力、果てにはこの地方で作られる伝統料理の作り方など、その話の種は尽きるという言葉を知らぬように次から次へと溢れ出た。
その尽きぬ知識と教養に不信感を抱かぬわけではなかったが、彼女とこうして語らっている時間は今の私にとって唯一と言っていいくらいの心安らぐ瞬間だ。何度か何者なのか訊いてみた事もあったが、ニヤリと笑って「ヒ・ミ・ツ」と返されてからは余計な事は聞かぬようにしている。ここまで高い見識と教養を積んでいる所を見るに、恐らく貴族か豪商の娘といった所だろう。毎日決まった時間にしかこの町で会えない所を考えれば、もしかしたらこの時間帯だけ自由に外に出れるのかもしれない。
そんな事を考えていると、隣に座っていた彼女は手元の皿から串団子を取って最後の一つを口に入れた。餡子のたっぷり乗ったそれはこの店自慢の一品で、気軽に食べるには少々値段の張る物だが、定期的に本国から送られてくる資金があり余っているのでこの程度の散財は痛くない。彼女がニコニコ笑いながらそれを咀嚼するのを視てから、背後を向いて声をかける。
「店主、茶と団子のお代わりをくれ」
「へい、毎度!」
威勢の良い返事が返ってくると、すぐさま店主が急須と団子の乗った皿を持って現れる。私は草団子を一皿と茶を一杯、彼女はみたらし団子を一皿と餡子の串団子を二皿、最初にこの茶屋に彼女に誘われてやって来てからずっとその注文だ、店主も慣れたもので既に用意しているのだろう。
「わぁ、相変わらずおいしそう!」
「お嬢ちゃん、「おいしそう」じゃなくて「おいしい」んだぜ。間違えちゃあ困る」
「へへへ、いつもおいしいよ、おじさん」
「毎度!」
そう言って店主は笑いながら奥に引っ込んでいった。
そうして新たな団子に取り掛かろうとして、彼女は不思議そうに首をかしげてこちらを見た。
「そう言えば、よく私が食べ切ったって分かるよね? ホントに見えないの?」
「目が見えずとも大体分かる。特にモミジは行動が単純だからな、予想もつけやすい」
「あー! ひどーい!」
「ははははは」
「これを食べたら、今日も新しい所を案内してあげる!」
「ああ、有難う。助かるよ」
「えへへへへへ」
朗らかに笑ってじゃれ合いながらも、私の内心は罪悪感と無念で満ちていた。魔力視を隠さねばならないこの身の上では、彼女の容姿や服の柄色を褒める事も出来ぬし、風景を眺めて彼女と感動を共有する事も出来ない。今日も鮮やかな色の着物だな、似合っている、そんな簡単な褒め言葉すら今の自分には口が裂けても言う事が出来ないし、移り行くこの国の豊かな四季を話題に出し、その情緒を共に楽しむ事も出来ない。
そして何より、こうして友達になった少女に大きな隠し事をしているという事実が、私にとって一番堪えた。私が盲いであるという事実を知った彼女は、あの仕込み杖の代わりにと、私と腕を組んで街の中を共に歩いてくれる。必要ないと言っても、盲いの人間が杖だけで往来をすいすい歩くのはどうにも説得力に欠けるため、その申し出を断る明確な理由を提示出来なかったのだ。……そして、度し難いことに私自身、彼女の柔らかな身体が密着して共に歩くその瞬間を心待ちにしていたのである。
「ご馳走様!」
「店主、金はここに」
「へい、毎度ありがとう御座い!!」
「いこっ!」
「ああ」
盲いであると嘘をつき、その華奢で柔らかな身体に触れる後ろめたさと興奮、そして年端も行かぬ少女(こちらでは成人しているらしいが、ジパングの人間は皆若く――幼く見える)に性的興奮を覚えるという罪悪感に苛まれながら、今日も彼女に先導されながら往来を進む。こうして彼女は茶屋で過ごした後は私を連れてこの街の施設やその周辺の「穴場」と呼ばれるスポットを紹介してくれる。
今日は町から出て外に行くようだ。門番に朗らかに挨拶をしながら外に出ると、私が任務についているアリハ山とは正反対の小高い山に向かう。そこには私がいる山と違って危険な魔物や動物がおらず、街の里山として利用されていた。植林された松林は秋頃に大量の落ち葉を落とし、それはよく燃える燃料として冬の間に利用される。またそこかしこに生えている栗や柿の木といった実の成る木は、民衆でも手軽に手に入る貴重な甘味として重宝されている――らしい、全て現在進行形で彼女から聞いた受け売りだ。
「あ、ここのところ木の根っこが飛び出てるから気を付けて」
「ああ」
「ほら、私に掴まって」
「っ……」
「わっ」
その華奢な細腕からは想像も付かない力で抱き寄せられ、その拍子に彼女に覆い被さるようにして抱きついてしまう。私の身長180センチと比べて彼女は30センチは低いので、必然的にすっぽりと胸の中に抱きすくめる様な形になってしまった。文字通り目と鼻の先にある彼女の頭部からは、薄っすらと梅の花の香りが漂ってくる。この地方特有の香水のような物で「御香」と呼ばれる物だろう、やはり上流階級の人間だという推測に確信が持てた。思わず抱きしめてしまったその身体は、着物の上からでも分かる少女特有の柔らかさを両腕に伝えてくる。
「ダルク、どうしたの? 大丈夫?」
固まってしまった私を少し赤くなった顔で見上げ、腕の中の彼女が心配そうにそう声をかけてくるに至り、漸く私は我に帰った。
「ッ…………ああ、すまない、少し躓いてしまった」
「ううん、気にしないで。私がちゃんと先導できなかったから悪いんだから」
そう言って私の腕を取って安全な所に誘導する彼女を視ながら、私の内心はいよいよ罪悪感で張り裂けそうになる。彼女に不備など一切ないにも関わらず、私の嘘のせいで彼女には要らぬ苦労をかけさせている。だと言うのに私はこれ幸いと彼女に甘え、更には不埒な下心さえ最近では抱き始めている始末だった。
盲目で、更には魔力視という異能のおかげで、今まで私は特定の女性と長続きした事がない。魔力視は時として相手が隠したいと思うような事まで暴き立ててしまう、その気味の悪さに耐え切れるような女性は、この25年間ついに現れなかった。そしていつしか私は特定の相手を持つ事を諦め、誰かの温もりが欲しいと感じた時には娼館へ行くようになった。娼婦たちは余計な事を言わないし、聞かない。しかも私の魔力視は人間の病気を見抜く事も出来るので、娼館では簡易検診の真似事をして有りがたがられていたのである。この異能をそうやって歪な形であるが認めて貰える、そんな事もあいまってか、私はいつしか娼館に入り浸るようになっていた。
そんな時に下ったジパングへの転勤。私の娼館通いを快く思わなかった誰かが仕組んだのか、はたまた上官の説明通り自分が適任だったからか……実際、この閉鎖的な国に派遣するには自分が適任だったろう事は分かる。だが、娼婦以外を抱く気になれない体になっていた私は、僧侶でもないのにこのジパングに来てからずっと半年間禁欲生活を強いられてきたのだ。
そんな折に出会ったモミジ……こんな私に笑顔を向け、慕ってくれる少女の存在に、半年間もの長きに渡って押さえつけて来た私の獣性が疼いているのが分かる。間違いが起こる前に娼館に行って発散してしまおうかと考えた事も有った、だが、穢れ無き少女と共に語らいながら裏では娼婦を相手に性欲を発散させるという行為が、どうしようもなく後ろめたく感じられ、今の今まで娼館に足を運ぶ機会を逸してしまった。
「ほら、ついたよ!」
そんな事を鬱々と考えている間にも、彼女は甲斐甲斐しく私を先導して目的地まで連れて来てくれた。その場所は山頂に程近い岩棚で、誰かが設置したのか雨除けの屋根と粗末なベンチが備え付けてある。そのベンチに案内されて腰を下ろすと、眼下にはさっきまでいた街の様子が一望出来るうえ、初夏に吹く気持ちのよい風が頬を撫でた。その素晴らしい景色に簡単の溜息が出そうになるのを噛み殺し、傍らの彼女に話しかける。
「今日の穴場は一体なんだ? なかなか風が気持ちいい場所だが」
「えへへ、今日はね、有葉山とは碧ヶ淵を挟んで正反対の所にある里山の岩棚。この長椅子と、あと屋根もあるんだけど、この両方は街の人が作ったんだよ。里山に入っている時に雨が降ってきたり、上り下りする途中に一休みしたい人が利用するんだ」
「ほう。だがそれだと里山に入る人間は皆知っている事になるが?」
そう尋ねると、彼女はしたり顔で首を振った。
「ところがどっこい、この休憩所は設置した所が悪かったのか殆ど誰も知らなくて、もっと中腹辺りにある立派な休憩所の方にみんな行くんだ。生えてる木の関係で下からも上からもこの場所は見えないし、正真正銘の穴場だよ!」
「ほう、なるほど」
「あとね、ここから見える景色は最高に綺麗なんだ! 今から説明するよ!」
「ああ、それは楽しみだ。ありがとう」
「えへへへ、まずはねぇ――」
そうして彼女はたっぷりと時間をかけ、その岩棚から見える景色を精細に――そして精彩に語った。その念の入った語り様は、まさしく盲いの人間が聞いてもその情景を想像出来そうなほど気合の入った代物である。何度か色の説明に窮するような場面も合ったが、「私が盲いになったのは途中からで、色の概念は分かる」と新たな嘘を上乗せして事なきを得た。実際はその物自体が持つ色のマナを読み取る事で「色を感じ取る」事は可能である。それが健常者の言う「赤」や「蒼」と全く同じ物なのかどうかなど確かめようがないが、視えてはいるのだ。
頬を薄っすらと紅を引いたように染めながら夢中になって説明する彼女に、自然な笑みで微笑みかける。今は彼女に対する罪悪感よりも、愛おしさの方が先に立った。
やがて全ての情景を説明し終えた彼女は、ほうと息をついて下界の景色に視線を落とし、暫しもじもじと何度か此方の様子を伺ってからおもむろに話し掛けてきた。
「ね、ねえ」
「うん? どうした」
「い、いきなりこんな事頼むなんて、変だとは、思うんだけど」
「ああ」
「ひ、膝の上に座っていい?」
「膝の上?」
「うん……あ、だ、駄目だよね! あははは、ごめんね変な事言って!」
調子外れの笑い声を上げ、真っ赤になって恥ずかしげに顔を俯ける彼女を前に、私は一瞬あっけにとられた。しかし次の瞬間には彼女に微笑みかけ、返事の代わりにその身体を抱きかかえて私の膝の上に座らせた。
「わっ……」
「ほら、これでいいか?」
「うん……ありがとう」
そうして嬉しそうに頬を染めて礼を言う彼女の顔を見た瞬間、思わず膝の上に乗せた彼女をそっと抱きしめる。その行動に一瞬驚いたかのように身体を強張らせた彼女だったが、すぐに身体の力を抜いて私の身体に身を預けて来た。
「もっと……ギュッとして……」
首元まで真っ赤になった彼女の、その小さな桜色をした唇から零れ落ちた言葉は、耳を澄ませなければ聞こえぬほど小さな声だった。
私は直接それには答えず、ただ無言で両腕に力を込めて彼女を抱き締めたのだった……。
■■■
ゆったりと時の流れが見えるかのような安らいだ時間が過ぎていく。やがて太陽が西の空に沈もうかと言うほどの時間が経って、ポツリと彼女が口を開いた。
「烏天狗がさ、何で人間なんかをつけ回してコソコソ嗅ぎ回ると思う?」
ぼんやりと夕日に染まり始めた街を見つめながらのその言葉に、私は少し考えてから口を開いた。
「そうだな、たぶん単にそうやってからかっているんじゃないか? 私が珍しい異人だという事もあるのだろう」
「ん……違う、よ……」
「ほう、じゃあどうしてだ?」
興味深げにそう問いかけると、彼女は私の腕を抱き締めながら言葉を続けた。
「烏天狗には、掟があるんだ。彼等――彼女等は異種族と子供を作っちゃいけなくて、でもその掟には例外があるから、意中の異性が別種族だった場合には、今ダルクがされているみたいに観察して、そうして集まった情報を大天狗様に持っていって裁可を仰ぐんだ。「この相手とつがいになってもいいですか」ってね」
「……」
まるで他人事のように紡がれるその言葉に、激しい疑問が湧き上がって来る。社会性を持つ魔物――もはや亜人と言って差し支えない種族の、更にその特殊な掟……。いくら彼女が博識だからと言って、そう軽々しく知る事が出来るとは思えない情報である。混乱する私を他所に、彼女は言葉を続けた。
「それでね、許可が出たら、その相手を浚って行って、自分の巣に連れ帰るんだ」
「連れ帰って……どうするんだ?」
我ながら馬鹿な問いだと思った。
彼女もそう思ったのか、クスリと小さく笑う。
「連れ帰って、つがいになるんだ」
「…………なるほど」
私もまた、他人事のようにして頷いた。
やがて数瞬の沈黙の後、彼女はまるで溜まっていた物が一気に溢れ出すかのように言葉を紡ぎ始める。
「でも、さ、この制度ってさ、残酷だよね、好きな相手なんだよ? 異種族なのにつがいになりたいって思うくらい、好きな相手なんだよ? そんな相手をずっとずっと見続けてさ、全部全部書き留めて、何もかも調べて、そんなことしている内にもっともっと好きになって、そ、それで、それでさ……それでっ!」
不意に彼女は涙の粒を零れ落ちさせると、彼女の身体を抱き締める私の腕に、縋り付くようにして抱きついた。
「それで、もし「不許可」だったら……っ!? そんなに、そんなにす、好きになったのに、駄目って言われたら、どうしたらいいの!? 今更無理なのに! それだけ好きになってから、だ、駄目って言われても、い、今更、今更さぁっ無理に、決まってるじゃん!」
「モミジ……!」
直接には何も言っていない、だが、殆ど白状したに等しかった。私の両目は何の光も映さぬ文字通りの節穴だが、ここまで言われて気が付かないほど曇ってはいない。しかし、直接言わないのは掟とやらのせいか。私も彼女の身の上を追及する言葉は何も吐かずに、彼女の身体をこちらに向け、向かい合った形で力強く抱き締めた。
彼女はわんわんと泣きながら、私の胸元に噛り付くように顔を埋めた。その両手は私の背後に回り、縋り付くように背中を掻き抱いた。
「む、無理だよぉ……駄目って、言われたって……っ! 諦められないよぉ!」
「ああ……残酷な、制度だな」
「好きなんだっ……こ、こんな気持ちで、もし…もし、駄目だなんて、言われたら、い、言われたら……ッ、どうしたらいいの!? 分かんない……分かんないよッ!」
子供のように泣きじゃくる彼女を抱き締め、その美しい黒髪――烏の濡れ羽色と呼ぶらしいその特徴的な髪を梳る。私の胸元に顔を埋めたまま泣き続ける彼女に、一体何を言うべきだろうか? この血を吐くような告白の中、彼女は一度として自分がそうだとは明言していない。恐らく掟と照らし合わせてギリギリの所なのだろう。
意を決した私は、ゆっくりと語りかけるように彼女の耳元で言葉を紡いでいく。
「……そこまで、想われたとしたら、そいつは光栄な奴だな。私だったら、もし正体を明かしてくれれば最初から幾らでもその調査に応じるんだがな」
「だ、駄目なんだ、調査が終わるまで自分から正体を明かすのは、掟に反するんだ」
「何故?」
「その相手が、誰も見ていないような所で何をしているのかが重要だし、それに……」
「それに?」
「正体を明かして、もし、もし受け入れられたら、歯止めが利かなくなるだろうって」
その点に関しては掟とやらを作った奴も考えているようだ。まさに慧眼というべきか、もし彼女が今この瞬間にでも自らの正体を明かしても、私は躊躇なくその誘いに応じるだろう。だが、調査が終わって許可が出る前からそうなれば、彼女は掟に従って何らかの罰を受けるに違いない。
「そう、か……」
「うっ……うぅぅ……!」
ぐずぐずと泣き崩れる彼女を抱き締めながら、ゆったりと話しかける。
「私は、モミジ、君の事が好きだ」
「ぇ――」
「たとい君がどんな身分でどんな身の上の持ち主だろうと、私が「モミジ」という名の個性を持った一人の少女を好いているのは変わらない……それだけは確かだ」
「ダルク……」
呆然とした顔の彼女に話しかける。頭の中で言葉を選びながら、かなりギリギリの表現で語りかけた。
「だから、君が自分の正体を私に言う時期が来たら、その時に君の気持ちを聞かせて欲しい。そして、もしその時に君自身の気持ちとは関係ない要因で、私の気持ちに応えられない場合――」
「うん――」
彼女の顔を見つめ、言葉を続けた。
「一緒に私の故国へ、トルトリア帝国へ行こう」
「っ――!」
「上官に連絡を取れば、きっと助けになってくれる。あの人は話の分かる人だ、事情を話せば何とかしてくれる」
「ぁ……ダルク……わ、わたしっ――」
何か言葉を紡ごうとした彼女の唇を、そっと塞ぐ。
「ん――」
そっと啄ばむ様な、触れるだけの口付けだというのに、まるで初めて女性に触れた少年のように心臓が高鳴っているのが分かった。密着した彼女の身体からも、自分と同じくらいに早鐘を打つ鼓動が伝わってくる。
ほんの一瞬、十秒にも満たないキスを終えて唇を離すと、彼女は潤んだ瞳のままこちらを見上げている。そのまま押し倒して好き放題にしたいと、己が内の獣性が大声を上げているが、もし欲望のままに行動して一番不利益を被るのは彼女だ。ぐっと我慢してその頭をそっと撫でる。
「ダルク……」
「うん?」
「たぶんね、明日で最後になる気がする、烏天狗の襲撃」
「……そう、か。確かなのか?」
「うん、明日で調査期間は終了するよ」
「なるほど……じゃあ、飛びっきりの準備をして迎え撃たないとな」
そう言うと、彼女は可笑しげに笑う。
「信じるの? あてずっぽうかも知れないのに」
「今まで君の語った情報に嘘はなかった。それとも、明日で最後って言うのは信用のない情報なのか?」
その言葉に彼女ははにかむように笑って、再度私の胸元に抱きついて来た。
「ううん……間違いない。明日で、最後……」
そう言って私の胸に顔を擦り付ける彼女をそっと抱き締めながら、その日は夕日が山の向こうに消え行くまで、ずっとずっとそうしていたのだった。
■■■
あのあと、夜の帳が下りて来た辺りでどちらともなく下山しようという雰囲気になり、互いに何も言葉を交わさぬまま下山の道を進んだ。彼女があのカラステングなのだとすれば、当然ながら私の魔力視も知っているはずだ。だというのに彼女は無言で私の腕を取り、ギュッとそれを抱き締めながら山道を歩いたのだった。本来の盲いを先導する方法ではむしろ逆効果のその態度だったが、私は何も言わずに彼女の掌を握って指を絡め合わせた。
そして街の入り口まで来て、彼女は私を解放すると「またね」と短く声をかけ、目の前から忽然と消えた。初めて目の前で視るジンツウリキの精妙さに唸りながら、私は一人帰路を急ぐ。明日の決戦に備えるためである。
「出し惜しみは……無しだ。彼女を打ち倒せるくらいの人間だと調査に記してもらえれば、きっとその評価は上がるはず」
観測所に帰ってから自分に言い聞かせるように呟いて、金庫の中に仕舞ってある取って置きの品々を取り出す。
「拘束(バインド)の魔法球ひとつ、魔力遮断(マナ・コンシールメント)の魔力符が二枚、麻痺毒の小瓶が一壷、遠隔起動用の魔法符が十枚……」
そして最後に取り出したのは、翠緑色に淡く光り輝く魔法球。領地防護(ランドプロテクション)の魔法が詰まった魔法球だ。効果は半径30メートルと、本来の効果範囲と比べれば微々たる物であるが、一個人で所有するには破格の代物だろう。今回の任務を拝命するに当たって上官から頂いた物だ、これを使うような状況には追い込まれないでくれよと笑いながら渡されたのだが……申し訳ありません、使わせて貰います少佐殿。
「決戦は、明日……」
現在時刻は1910時、これから可及的速やかに準備をする必要がある。
「まってろ、モミジ……!」
不退転の決心を胸に、私は観測所の外に飛び出した……。
■■■
「………………ふぅぅぅぅぅ」
まだ太陽もその姿を見せ始めたばかりの早朝、観測所の屋上で大気中の大源(マナ)をゆっくりと我が身に取り込む。そして身体の中で淀んだ小源(オド)を陰の気を纏ったマナとして空気中に吐き出した。
「そろそろ、か」
そう呟いた瞬間、感知結界の中に彼女が飛び込んでくる。
「来たかッ!!」
すぐさま身体強化(フィジカルエンチャント)の呪文で限界まで身体を強化する。そして屋上から飛び降りると、彼女がやって来た方角に向かって駆け寄った。
「いたな……っ」
天高く聳え立つ杉の木の隙間を、まるで木が避けているのではないかと言いたくなるほど軽快に飛び回る黒い影……いや、よく見れば黒ではなく萌黄色の着物を着ている。どうやら今までの攻防で身に纏っていた黒っぽい服から着替えたらしい。
くるくると翻りながら上空を飛ぶ彼女に向かい、いつもの様にクロスボウを放つ。流石にその鏃は相手に打撃を与える特殊な物に交換して有るが、あたれば常人では骨くらい軽く折れるものだ。だが、案の定放たれたクォレルは彼女に当たる寸前で向きを変え、近くの木の幹に突き立った。
ここまではいつも通り、だが、今日は一味違うぞ、モミジ!
戦闘服のポケットから取り出した遠隔起動符に、短くコマンドワードを囁く。
「起動」
その瞬間、観測所を中心とした半径30メートルに翠緑色の魔力光が立ち昇った。その光は上空で折れ曲がると、巨大な円柱状になる。領地防護の魔法が発動したのだ。
「破邪結界!? う、嘘!? そんな気配無かったのに!」
「神妙にしろ!!」
「うぁ!?」
あまりに突然発動した大魔法に呆然とした彼女めがけ、クロスボウを放つ。その放たれたクォレルには、先端に小瓶が括り付けてある。もし彼女がいつもの通りならば怪しんで大きく避けただろうが、何の気配も無く発動した領地防護に驚いていたためにいつもの自動防御に任せた。だが、それこそが命取り。
彼女の目の前でクォレルがすいっと進路を変えた瞬間、先端に括り付けておいた麻痺毒入りの小瓶が破裂する。水蒸気爆発(フリアティック・イクスプロージョン)の魔法をあらかじめエンチャントしておいたのだ。
小瓶の破片と共に霧状になった麻痺毒を彼女は驚きと共に吸い込んでしまう。慌てて吐き出そうとするが、霧になったものを吐き出すなど不可能。あっと言う間に肺から吸収され、ふらふらと先程とは桁違いの弱弱しい動きでその場から逃げようとする。
「逃がさん! いや、最早何処にも逃げ場など無いぞ、モミジ!!」
「くっ……!」
悔しげに顔を顰めながら、黒い羽のダートを放ってくる。いつもはこれに苦しめられたが、今回のそれは全く持って精彩にかけていた。的確に避けながら、取り出したスローイングダガーを次々と放つ。
麻痺毒で痺れているであろうに、彼女はその攻撃を全て紙一重でかわす。どうやら自動防御の魔法は切れてしまったらしい。麻痺毒を中和する事に魔力を回したのだろう、その判断は全く持って正しい、だが、その程度は読んでいた。
「詰みだ、モミジ」
「ぇ――」
新たに取り出した遠隔起動符に命令を下す。
「起動」
「ぁう!!」
突然木々の間から飛んで来た魔法の縄が、彼女を縛りつける。バインドの魔法球が発動したのだ。突然浮力の要たる翼を封じられた身体は、当然ながら重力と慣性の法則にしたがって斜め下に落下した。具体的には、私の腕の中に。
どさりと私の腕の中に落ちて来た彼女は、何が何やら分からないと言いたげな、呆気に取られた顔をしていた。そんな彼女にニヤリと笑いかけ、私はこの一ヶ月以上続いた勝負の最後を飾る言葉を口にした。
「王手(チェックメイト)」
「は……ははは、あははははは!」
最後の勝負は、私の勝ちで幕を下ろした……。
■■■
「まほー、きゅー?」
「ああ、これだ。中に込めた魔法を解き放った後はただの水晶玉に戻る。ランドプロテクション――君の言う破邪結界もこれに封じ込めてあった」
「な、なんらそれーはんそくぅー!」
「はははははは」
麻痺毒のせいで呂律の回らない彼女の抗議の声に、私は笑いながらそっと頭を撫でる。彼女はだらりと足と手――翼を地面に投げ出して私の胡坐の上に収まっている。
「勝負の世界は非常だ、今回は私の勝ちということで……。有終の美は飾れなくて残念だったな、モミジ」
「うぅぅ、そんらのはんそくらー」
「こら、戦場で敵にもそう言う積もりか」
「ちくしょぉぉぉ」
悔しげに歯噛みする彼女を後ろから抱き締め、その頭に顔を埋める。
ああ、やはり仄かに梅の花の香りがする。
「ぁ、やぁ! かぐら! へんらい! へんらい!」
「はははは、何を言ってるのかさっぱりだな。もっとはっきり発音してくれ」
「ぅあああぁうあうあぁ」
怒りか羞恥にか、真っ赤になって必死にもじもじと彼女が動く。
と、まるで神の図った偶然か、或いは悪魔の仕組んだ悪戯か、彼女のお尻の谷間が私の股間のナニを挟んだ。そしてそんな事とは露知らぬ彼女は必死に私から逃れようともじもじと動きまく――――――――――――あ。
「あ」
「う」
二人同時に声を出してピシリと固まる。その間にも、身体全体で感じる彼女の肢体と、股間の柔らかい感触のせいでむくむくと股間の棍棒に血が流れ込んでいく。彼女は自分のお尻の間に一体何があったのか瞬時に悟り、私は自らの最低さに凍りついた。さっきとは別の意味でもじもじしながら、彼女は耳まで真っ赤にしながらそっと背後の私を伺った。
「ぅ、あ……だ、だうく……」
「……………………なんだ」
「お、おっきく、してう……?」
「…………」
私は無言で視線を逸らした。
最低すぎる、首を吊って死にたい。
しかも私の視界は目の向いた方向にあるわけではないので、目を逸らしたとしても意味は無い。必死になって言い訳を考えていると、彼女は真っ赤になりながらゆっくりと体を動かした。
「だうく……」
「ッ!? モミジ、なにを!?」
ハッと我に帰って前を向くと、彼女は念動魔法(サイコキネシス)でスカートを持ち上げ、白い下着を晒しながら私に向き直るようにして腰を下ろしていた。当然、元気になってしまった私の股間は彼女のその場所に当たってしまっている。
「い、いい……よ」
「――――なに?」
「いい、よ。だうく……」
「ッ…………!?」
いい?
いいのか? 本当に?
いや駄目だ、駄目に決まってるだろう! 昨日の話しを聞いてなかったのか!
でも彼女がいいって言ってるけど?
一時の気の迷いだ、掟で困るのは彼女だ!
でもいいって言ってんじゃねぇの! やっちめぇよ! ほれほれ!
駄目だ!
お堅ぇ野郎だな! 据え膳食わぬは男の恥だろっ! びびってんじゃねえや!
私の汚い欲望で彼女が不利益を被るなど、許容出来ぬ!!
てやんでぃ! じゃあその股間の暴れん棒なんだってぇんだ? あぁ!?
こ、これは!?
やりてぇんだろ? 溜まってんだろ? なぁ、ダルクさんよぉ……!
くぅ……!
ご無沙汰なんじゃねえの? 娼館にも行かずに溜めちまってまぁ……。実はこうなるのを予見して溜めてたのかい?
ち、違う!
違わねえさ、ほら、目の前の彼女を見てみろや。とっくに待ちきれずに濡れちまってるぜ。
ッ!?
「だうく……」
「ぁ……モミジ……」
ハッと気が付くと、彼女は興奮に上気した顔のまま涙ぐみ、その股間の下着はしっとりと湿り気を帯び始めていた。どうやら私が心の声(?)と会話している間、ゆっくりと股間を摺り寄せていたらしい。
その様子に思わずごくりと生唾を飲み込む。
そして彼女は麻痺毒で呂律の回らぬ口を懸命に動かし、その台詞を、口にした。
「だるく、だいすき…………!」
「ッ!! モミジ!!」
我慢なんか、出来るわけないだろうが!!!
ヒュー! 流石あっしの見込んだ男だ、いいぞ、もっとやれ!!
心の声(?)に言われるまでもなく、私は半年以上もの間溜まりに溜まった獣性を解き放っていた……。
■■■
一体何度彼女の中で果てたのか覚えていない。互いに繋がったまま抱き締めあい、荒い呼吸をゆっくりと落ち着ける。やがて彼女がそっと顔を離し、私と見詰め合う。彼女は火照った顔のままへらりと笑い、ちらりと舌を出した。
「えへへへ、やっちゃったぁ……」
「……良かったのか?」
「へへ、実は全然良くないけど、何とか誤魔化す」
「…………」
ここで「すまない」とは口が裂けても言えない。しかし、もし彼女が何か罰を与えられたらどうしよう、そんな思いが今更になって込み上げて来た。心配そうな表情がそのまま出ていたのだろう、彼女はこちらを安心させるように微笑んでキスをしてくる。
「大丈夫だよ、何とかなるから。見鬼で、思慮深くて、優しくて頼りになって、しかも私を倒したくらいの実力者だよ? 絶対合格するよ!」
「……帰って、来るよな?」
「うん! お墨付きを貰ったら、絶対帰ってくるから、待ってて!」
「ああ……」
よっぽど私は情けない顔をしていたのか、彼女は子供をあやすように「よしよし」と右の翼で私の頭を撫でた。これでは立場が逆だ、私は羞恥に赤くなりながらも、不安を無理矢理押し殺すように彼女を思い切り抱き締めた。
「絶対帰って来るんだ!」
「うん、約束する!」
■■■
ごめん、約束は守れそうに無い。
そう心中で、私の帰りを今か今かと待っているであろう彼に謝罪する。何のことは無い、彼と性交渉を持った事が全てばれてしまったのだ。流石に古来からある掟だ、私のような馬鹿者を見つけ出す方法がちゃんと確立してあった。そしてそれに引っかかってしまった私は座敷牢に三日三晩軟禁され、そして今日、天狗達の長たる大天狗12名の前に引っ立てられたのだ。
流石に縄をかけれるような事はなかったが、その扱いは罪人そのもので、牢番やすれ違う天狗・烏天狗からは憐憫の視線や嘲りの視線が突き刺さった。心身ともに疲れ果て、禁術符によってあらゆる術を封じられ、強行突破しようにも周囲に集ったのは私など足元にも及ばない大天狗が12人。最早、どうしようもなかった。周囲の大天狗達からは、突き刺すような視線が集まっている。
(ダルク……ごめん、ごめんね!)
一緒に故郷に行こうとまで言ってくれた彼の気持ちに応えられない悔しさと、一時の欲望に身を任せて彼を誘惑してしまった自らの愚かしさに、どうしようもなく涙が滲む。
「烏天狗、碧光院椛(りょくこういん もみじ)。前に出よ」
「……は」
大広間を歩き、御簾の向こうに居られる大天狗、鬼一法眼様の前で跪く。薄っすらと姿が見えるだけだと言うのに、突き刺さるような威圧感が襲い掛かってくる。脂汗を流しながらその瞬間を待つ。
「碧光院、その方烏天狗の身にありながら優秀なるを見初められ、今は碧ヶ淵州を治める州司徒の位を授かっている。これに間違いはあるか?」
「有りませぬ」
「その方は一月と数週間前、そなたの行政区に居を構えた異人を見初め、これを伴侶にしたいと思うて調査を始めた。これに間違いは?」
「有りませぬ」
「そしてその調査が終わるその日、そなたはその異人との勝負に負け、その男によって犯された。これに間違いは?」
「ッ! はい、間違いが御座います」
「ほう? 申してみよ」
「わたくしは確かに彼に負けました、しかし性交渉を迫ったのはわたくしからです、彼はわたくしの事情を察して踏み止まろうとしてくれました」
「ほう、ではその方から迫ったと? 男に罪はないと?」
「はい、彼はわたくしが愚かなまねをせずにおればそのままわたくしを開放したはずです」
「ふーむ」
御簾の向こうで法眼様が顎に手をやって首を捻る。その仕草に、思わず身を乗り出す。
「本当です! 彼に罪はありません!」
「これ! 指示も無いのに発言するでない!」
「ッ……!」
御簾の隣に控えている老天狗に戒められ、唇を噛んで頭を下げる。
そして、法眼様が口を開いた。
「碧光院よ、そなたは優秀で、ここで失うのは非常に惜しい人材だ」
「は、有難う御座います」
「そこでだ、そなたがこの場で「あの異人に襲われた」と証言するならば、そなたの罪は洗い浚い免除しよう」
「――――!」
「どうだ? たった一言、この場で発言するだけでいいぞ? さもなくばどうなるか……想像するのも恐ろしい厳罰が待っておる……。さあ、いかがする」
その言葉に、私はゆっくりと顔を上げ、御簾の向こうの法眼様を睨みつけた。
その不遜な態度に老天狗が声を上げようとした瞬間、私は天まで届けとと言わんばかりの大声で返事をする。
「やーなこったぁ!!!」
「なに!?」
「なんとっ!」
「ほう……」
「ヒュウ!」
「なッ!?」
「ほほう」
「……」
「おお!?」
「なぁにい!?」
「貴様!」
「無礼者!」
法眼様を除いた11人の大天狗が次々に驚きの声を上げる。構うものか、もうこうなったらダルクを助けるためになんだって言ってやる!
「法眼様、恐れながら申し上げます!」
「貴様! どなたに口をきいて――」
「よい」
「は!?」
「碧光院、話してみよ」
「ハハッ」
恭しく一礼をして、キッと御簾の向こうの法眼様を見据える。
「私は彼を――ダルクを愛しております。たとえ種族が違おうと、この気持ちに嘘偽り一切なし! 愛した者を身代わりにして助かるくらいなら、この碧光院、いかな拷問の果てに命尽きたとて、彼が助かるなら本望に御座りまする!!」
「ほう………………」
法眼様の深い声が大広間中に響き渡る。
私の切った大啖呵と、静かに気迫を放つ法眼様によって広間内はシンと静まり返った。
「では、そなたの意見は確かに聞いた。これよりそなたの沙汰を申し付ける」
「ハハッ!」
終わった。
ダルク、迎えに行けなくてごめん。でも、貴方は無事にいられるから――。
「碧光院、その方、構無し(かまいなし)」
「――――――は?」
「構無し(無罪)だと言ったのだ、聞こえぬか?」
「は――――」
予想外の言葉に凍りついた瞬間、周囲の大天狗はおろか法眼様までもが大笑いをし始めた。さっと御簾が持ち上がると、そこにはがっしりと貫禄のある体格をした法眼様が破顔大笑しながら扇子で身体を扇いでいる。
「かっかっかっかっか! 素晴らしい啖呵だ! 碧光院よ、良きに計らえ。ではこれにて散会!」
『ハハッ!』
ザッと周囲の大天狗たちが腰を折り、ざわざわと好き勝手に話しながらその場を去っていく。唖然とした顔で座り込んでいる私の前に、あの老天狗――寿老院様がニコニコ笑いながら歩み寄って来る。
「ほっほっほ、碧光院よ、咒智院様にお礼を申しておけ。あの方が取り成して頂けなければお主も人間も両方厳罰に処せられていたところよ!」
「咒智院様……」
呆然とその名前を呟くと、寿老院様は高らかに笑いながらその場から去っていった。
咒智院様。烏天狗の身にありながら大天狗12人の次席に位置する俊英。我々烏天狗にとっての憧れの星、超特級の出世頭、そして修験道や神通力を初め真言密教、陰陽道、道教、遥か大陸から伝わる真言(マントラ)の術までもその身に修め、「咒と智に並ぶもの無し」との称号である咒智院をなんと500年ぶりに襲名した大天才……。
「何で、咒智院様が……」
「そりゃあオメェ、ほっとけ無えからに決まってんじゃねぇの」
「え!?」
ギョッとして視線を巡らすと、そこにはどっかと胡坐をかいてぷかりぷかりと煙管を吹かす咒智院様の姿があった。とっくに変化の呪法など修めておられるはずなのに、その姿は我々烏天狗と何も変わらない。こうやって頑なに烏天狗としての姿を保つのが、我々の同族から人気と尊敬の念が耐えぬ理由の一つであろう。
「咒智院様! 今回はお助け頂き真に有り難く存じ――」
「ああ、やめやめ。堅っ苦しい挨拶はなしだ。碧光院よ、オメェいまの啖呵は本気かい? 本気で言ったのかい?」
ニヤリと笑ってそう問いかけてくる咒智院様に、真剣な顔で返す。
「は、本気で申しました。嘘偽りはありません」
「へッ……言うねぇ」
「本心です」
「おうおう、別に疑っちゃあいねえよ!」
そう言ってカラカラと笑うと、私の近くまで歩み寄って私の肩をするりと撫でた。
「あの異人さんと仲良くしろよ! あっしが応援してやるからよ!」
「は、はい! 有難う御座います!!」
「おう! もういいぜ、速く帰ってやんな」
「はい!」
元気よく返事をして立ち上がると、いつの間にか禁術符が全て無効化されて剥がれ落ちていた。まさか、あのするりと撫でられた瞬間に全て解呪されたと言うのか。私は改めて咒智院様の力の強大さに畏怖の念を抱くと共に、禁術符の縛りがなくなった事で戻って来た力を全て引き出す。
ああ、ダルク! 今帰るよ!!
「それでは、これにて!」
瞬身の呪法を使い、私の身体は大広間から消え去った……。
■■■
「おーおー、総本山で瞬身の法なんぞ使いやがって。あっしが補助しなけりゃどうなってたとおもってんのかねぇ」
ぷかりと煙管を吹かせ、ニヤリと虚空に笑いかける。
「へっへっへ、こいつが愛のなせる技って奴かい? 無茶無鉄砲は恋の花ってねぇ……。お幸せになりなせぇよ、お二人さん!」
「いい話で終わらせようとしてもそうは行かんぞ」
「あちゃ、頭領。いつから見てらしたんで?」
そのすっとぼけた様子に、法眼は苦笑いを浮かべた。
「咒智院、戯れが過ぎるぞ」
「はて、何のことやら」
「あの異人を念話と意識操作でけしかけたのはお主だろう、全く……演目に手を加える客など最低最悪だとは思わんのか?」
「最後は大団円で終わったじゃあねえですか、終わりよければ全てよし! てね」
そう言って咒智院はかんらからからと大笑い。
法眼は苦虫を噛み潰したような顔をしてから、大きな溜息をついた。
「全く……お主は他の点では非の打ち所が無いほど優秀なくせに、その趣味の悪い覗き見根性はどうにかならん物か」
「はっはっはっ! そいつぁ無理ってぇもんだ、あっしからこれを取ったらただの優秀な大天狗になっちまうじゃねぇの」
「ただの優秀な大天狗になって欲しいのだがな」
「無理」
即答だった。
■■■
「あれ? 何描いて……うわぁ」
椅子の後ろからヒョイとこちらの手元を覗きこんだ彼女は、そこに描かれたものを見て目を見開いた。肩口に乗せられた彼女の顔から、あの時嗅いだ梅の花の香りが仄かに漂ってくる。
「ねえねえ、もしかしてこれって!」
「ああ、君だ。生憎君以外のカラステングは視た事が無いからな、必然的に君がモデルになる。どうだ、上手いもんだろ?」
「うん! 凄いなぁこれ!」
キラキラと目を輝かせながら、描かれた自分を見る彼女に若干誇らしげな思いを抱きながら、明日帝都に送る予定の報告書を書き上げる。書類の最後に署名と判子を押して、終了だ。烏天狗の習俗や文化に関してかなり詳細な情報が彼女経由で集まったが、あまり外部に漏らすと危険そうなものは彼女と共に取捨選択して報告からは削った。その作業の後にこっそりと書き始めたので、彼女がこれを見たのはこれが初めてになる。
暫し感嘆の声を漏らしながらその絵を見ていた彼女だったが、やがてそわそわと私の顔を伺い始める。どうやらそろそろ待ちきれないようだ。
「ねえねえ、お仕事終わった?」
「ああ、今日の分は終わりだ」
「へへへ、じゃあさ、じゃあさ」
「全く……」
溜息をつくと、彼女を抱き上げて膝の上に乗せる。互いに向き合うように座った彼女は、既に熱っぽく頬を染めていた。期待の篭った目を見つめながら、言い聞かせるように言葉を紡ぐ。
「一回だけだからな?」
「うん!」
絶対に一回ではすまないと二人とも分かっているが、お約束のようなものだ。そしてそっと彼女に口付け、その華奢な身体を抱き締める。こうして抱き締めあっているだけで鼓動が高まり、興奮してくるのが分かる。
「ダルク……大好き」
「ああ、私も愛している、椛……」
山中にある異人が住む家では、夜な夜な女性の嬌声が漏れ聞こえると、麓の街で噂になったが、何故かいつ尋ねてもその異人しか姿が見えず、その声を聞いた者は狐か狸か、はたまた天狗にでも化かされたのだろうと物笑いの種になったとか。
そうして今日も、ダルク陸軍少尉のジパングでの任務はつつがなく進行していくのであった……。
10/04/26 19:21更新 / spooky