読切小説
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夏の幽霊
「……子どもたちだけで校区外には行かないように。旅行とか帰省のときは、川には近づかないように」

 先生の話を真面目に聞いている人は、クラスの中にほとんどいなかった。もう六年目ともなれば毎度お定まりの注意は大体そらで言えてしまう。教室の暑さ、ついさっき返された通知表、これから始まる非日常──集中できない理由はいくらでもあって、じっと席に座っていろという方が無理というものだ。
 いつも通りの文句を言い終えて、先生は話を終わらせる。

「それじゃ、小学校生活最後の夏休みですから。楽しんできてください」

 起立、礼。日番の号令で全員の挨拶が揃って、クラスが一斉に騒がしくなった。マコトは机の横にかけた手提げに連絡袋を入れた。今日は終業式だけだったから、ランドセルは持ってきていない。
 先生の話が終わって真っ先に立ち上がった連中が、教室の隅に集まっていた。そのうちの一人、ヒロが手招きして彼を呼んだ。

「おーいマコト! お前も来るか?」
「行くって、どこに?」
「肝試しだよ、肝試し。三丁目にあるんだよ、出るって家が」

 ヒロたちは、秘密の話をしているとき特有の悪い笑顔を浮かべていた。
 彼らによるとその家は、三丁目に住んでいる子どもたちの間では有名な場所らしかった。もう十年も前、その家でサツジン事件が起きたのだそうだ。警察の捜査が行われたものの、結局犯人は見つからず、家は今では空き家のまま放置されているのだとか。

「面白そうだろ?」
「えぇ……、そんなとこ行って怒られない?」
「おっ? びびってんのか?」

 ヒロは揶揄うように言った。こんなことでびびっていると思われるのは、──それが肝試しそのものに対してであれ、あるいは怒られることに対してであれ──彼らにとっては沽券に関わることだ。マコトが返す言葉に詰まった隙に、ヒロはぐいっとマコトの首に腕を回した。

「おし、決定な。今晩九時に三丁目の神社集合だから」
「わかったよ」

 マコトはしぶしぶ頷いた。このまま断ってつまらないやつ認定されるのもつまらないし、それに……。実際、マコト自身もちょっと楽しそうだと思い始めていたのだ。せっかく夏休みが始まるんだし、少しぐらい冒険があってもいい。
 結局のところ、浮き足立っているのはマコトも変わらないということだ。

「来るときはあんま騒ぐなよ。近所の人に見つかったら怒られるからな」
「やっぱり怒られるんじゃん……」





 夜道にはまだ昼間の熱気が残っていた。
 蛙の合唱には時期が遅く、虫が鳴くにはまだ暑く、夜の畦道にはマコトが自転車を漕ぐ音だけが響いている。表の県道は街灯やコンビニの明かりに照らされているが、道一本入ればもう真っ暗だ。誰も通らないアスファルトの道を、自転車のライトの頼りない光が滑っていく。
 学校から帰って、誰もいない家の玄関を開けてマコトはとりあえず宿題に手をつけた。こういうのはやる気のあるうちにやっておくものだ。とはいえ、いつも面倒なものを後に回して大変なことになるのは変わらないのだけど。そうして親が帰ってきてから、彼は夜に友だちと約束があることを親に伝えた。
 もちろん肝試しだなんて言いはしない。いくらなんでも、サツジン事件のあった家に興味本位で探検なんて言えば大目玉を喰っただろう。彼は星を見にいくと言ったのだ。両親は心配そうな反応をしていたが、マコトは「もう約束をしてしまった」で押し切った。もしも雨が降っていたらこの言い訳は無理があっただろうから、今晩は晴れていてよかった。
 かくして、マコトは夜道に自転車を漕いでいる。
 待ち合わせ場所の神社には、既に何人かが集まっている気配があった。その内の一人がマコトの自転車に気づいて、懐中電灯をくるくると振り回す。マコトはブレーキをかけて自転車を停めた。

「よう」
「おまたせ」

 互いに小声で挨拶を交わす。辺りは暗くて、声を聞いてようやく相手が誰だかわかるくらいだ。それは向こうも同じだったらしく、マコトが返事をしたのを聞いて、声からそれまでの探るような調子を消した。

「なに持ってんだ?」
「えっと、星座盤」
「せいざばん?」
「それより、もうみんな集まってるの?」
「いや、あと何人か……」

 そう言っているうちに、ベルを鳴らして残りの連中がやってきた。集まったのはクラスの男子の半分くらいだ。全員揃ったらしいのを確認して、ヒロが手を挙げて注意を引く。

「よーし、じゃあ行くぞ」
「チャリどうすんの?」
「置いてく。向こうに停める場所ないからな。……ちゃんと鍵しとけよ」

 案内するヒロたちの後ろについて、ぞろぞろとみんなで歩いていく。こんな暗い中みんなで歩くのなんて、たぶん四年の林間学校のとき以来だ。あのときも、そういえば肝試しだった。ただしあれは脅かす役の人がいて、場所ももちろん今回みたいないわくのある場所ではない。
 その家は、神社からそう離れてはいなかった。古くからの住宅地の端っこにある一軒家だ。外見は周りの家と比べても特にどうということのない民家だが、やっぱり十年放っておかれているからだろうか、マコトたちの目にはどこか不安になるような気配を纏って見えた。……先にヒロの話を聞いているからかもしれないが。
 家の前を通ったとき、マコトは入り口のすぐ側の塀を見て呟いた。

「表札が……」

 剥がされていた。塀の一か所に表札があったのであろう跡だけが残っている。誰も住んでいないのだから当然だけれど、それでもその様子は、ここが間違いなく“肝試しの舞台”として相応しいように見えた。
 玄関までの短い道の周りも、やっぱり放置されて雑草が伸び放題だった。ぷうんと音を立てて蚊が顔の周りに寄ってくる。振り払おうと騒ぐ皆を、前を行くヒロたちが小声で叱りつける。

「静かにしろよ。近所にばれちまうだろ」
「なあ、どっかから入れんの? 玄関は鍵かかってるんじゃないの」
「まかせろって。兄ちゃんが友達から聞いた話だと……」

 尋ねられたことに、ヒロは得意げに答えながら家を回る。どうやら窓を調べているらしい。昔の家らしく大きく造られている窓は、当然そのほとんどは雨戸が下ろされている。そうでないのは構造的に雨戸を作れない小さな窓だけだ。その、そうでない方の窓を、彼は見つけるたびに触りながら歩いていた。
 そして、

「おっ、開いたっ!」

 家を半分以上回った頃、ひとつの窓の前で彼は快哉を叫んだ。手前に開くタイプの縦長の窓は、ほんの少し動いて隙間ができていた。網戸は……元から外れている。ヒロはその隙間に手を突っ込んで、中のハンドルを回して窓を開けた。
 ぽっかりと家の中の暗闇が覗く。

「聞いてたんだよな、ここから入れるって。さあ……、誰から行く?」
「えっ、ヒロが最初に行くんじゃないの」
「それじゃつまんないだろ。ほら、びびってないで入れよ」

 にやにやと笑うヒロに促されて、男子たちは一人ずつ窓によじ登った。マコトもまた後に続く。窓枠に手をかけて桟を踏み、靴のまま中に飛び下りる。手に持ったままの星座盤が邪魔になったけれど(だって自転車のカゴに放ったらかしておくわけにはいかないし)、なんとか乗り越えられた。
 その瞬間。
 すっ、と空気が変わったようだった。雨戸が閉められてずっと陽が差していなかったからだろうか? 家の中はひんやりとした涼気に満ちていた。外の物音が聞こえなくなってしんとしている。マコトは無意識のうちに、半袖の腕をさすった。お腹が痛くなるような気がする。

「クツ、脱がなくていいのかな」

 なんとなく声を潜めて、マコトはそう言った。最初のところが少しだけ掠れた。同じようにやっぱり緊張した声で、友だちの一人が返事をする。

「いいだろ。埃すげえぞ」
「そっか」
「よし、行くぜ」

 最後に入ってきたヒロが、懐中電灯のスイッチを入れて言った。肝試しとはいっても具体的になにをするのかは考えていなかったらしく、短く話し合ってとりあえず全部の部屋を回ってみることに決める。
 部屋の中は実際、懐中電灯の明かりに照らされて、埃が空中に光の線を描いていた。床はぎしぎしと音を立てるほど傷んではいないが、それでも古い家によくある湿った木の匂いが漂っている。マコトたちが忍び込んだのは、どうやらお風呂場の前の脱衣所のようだった。ドアの冷たい金属のノブにそっと触れ、回して廊下に出る。いくつかの懐中電灯が廊下の床板を照らし出す。
 それからマコトたちは、客間、台所、食堂と、順に部屋を巡っていった。

「なんか……。なんもないね」
「だな」

 どこも暗くて不気味ではあるけど、言ってしまえばそれだけだ。彼らが心のどこかで期待していたような、なにかヘンなことは起こりそうもない。まあ、最初から幽霊や心霊現象なんてものを信じているわけではないのだけど。
 家の造りから考えれば、次は居間だろうか。けれどこの調子だと次の部屋もなにもないに違いない。一行の間にどことなく気の緩んだ空気が流れた、そのときだった。

「うわっ、なんだこれ」

 ドアを開けたヒロが、そう言って立ち止まった。後ろを歩いていた一人がその背中にぶつかる。マコトたちは後ろから覗き込んで、やっぱり彼と同じように立ち竦む。
 部屋の中は、それまでと違ってなにもなかった。机や椅子はもちろん、棚やテレビ、果てはエアコンに至るまですべての家具が取り除かれている。床もない。床板が剥がされて、その下の、なにか断熱材みたいなものが覗いていた。壁紙ももちろん、ない。内装を剥ぎ取られて、部屋の中は寒々としていた。

「なんでここだけ……」
「なんでって、そりゃ」

 理由をそれぞれに考えて、彼らは一様に口をつぐんだ。床や壁紙を張り替えるというのは、汚れたそれらを新しくするときではないか。汚れというのはもちろん──ヒロの語った話が頭の中に蘇る。

「ここが……」

 ここが、現場なのだ。誰かがごくりと唾を呑む。どこかもう意識から遠のいていた事件のことが、急に真に迫ってきた。マコトは服の下でざわざわと鳥肌が立つのを感じた。
 ヒロが「次行くぞ」とちょっと怒ったような口調で言って、マコトたちの間を通り抜けて引き返した。さっきまでと違って張り詰めた空気を纏って、マコトたちは彼に続いて廊下を歩いていく。一階で残る場所はあと少しだ。
 最後に残った部屋の前に立って、木の引き戸に手をかける。ちょっと躊躇ってから、ヒロは一気に戸を引き開けた。

「〜〜っ!?」

 瞬間、マコトは心臓が止まるかと思った。部屋の中から、彼らの方が光に照らされたのだ。マコトたちは揃って固まって──それから、一斉に力を抜いた。
 鏡だった。入り口の正面に等身大の姿見が置かれていて、それがマコトたちの持つ懐中電灯の光を反射していたのだった。普段ならこんなこと、驚きもしなかっただろうが、今はさっきの居間の異様な様子のせいで心が敏感になってしまっているみたいだ。

「んだよ、びびらせやがって……」

 そうぼやいて、ヒロは懐中電灯を鏡から外した。部屋は寝室らしい。マコトも息を吐き、鏡から視線を外そうとした、そのときだった。

「……え?」

 マコトはまたぎくりと身を竦ませた。他の皆はもう動き出している。その中の一人が、固まったままのマコトを見て変な顔をした。

「どうかした?」
「……今、鏡の中に」
「お、おい、変なこと言うなよ」
「けど──」
「うわぁっ!!」

 背後から聞こえてきた叫び声に、マコトたちは揃って飛び上がった。心臓を押さえながら振り返ると、最後尾にいた一人が後頭部を押さえながら、ぶんぶんとおかしくなったように頭を振っていた。

「いっ、今、なんかいた! なんか触った!」
「はあ!? そんなわけないだろ」
「マジだって! 本当に……」

 皆でその彼を宥めようとしているうちに、別の一人が「いる、ホントにいる」と叫び出した。おまけに彼が振り回した懐中電灯が隣にいた男子の顔に当たり、ぶつけられた方は鼻を押さえてよろめいた。手の間から鼻血の赤が光に照らされて見えた。
 一同は騒然となった。一人だけならなにかの間違いだが、二人となると確かな事実だ。皆、だんだんとおよび腰になっていく。

「なあ、ヤバくないかこれ」
「うん……」
「ヒロ、帰ろう」

 一人が言い出すと、他の何人かもそれを待っていたように同意した。一部はもう逃げ出そうとしている。なし崩しに、マコトたちは部屋を出て廊下を早足に引き返すことになった。脱衣所の窓に我先にと駆け寄る。そうして、マコトたちは家の外へと脱出した。
 忘れていた熱気が、再び手足にまとわりつく。
 雑草と蚊に囲まれて、マコトたちは顔を見合わせた。相手の顔にきょとんとした表情が浮かんでいた。おそらく自分もそうだろうとマコトは思った。建物の中から逃れたことでさっきまでの怖れは消え失せ、今は恐怖心よりも疲労感が勝っている。まるでプールの授業が終わった後みたいだ。最後にヒロが出てくるのを待って、マコトたちはぞろぞろと表の門の方へと歩いていく。
 そこへ、

「おい、お前らっ!」

 隣の家の二階から怒鳴り声が響いた。マコトたちは飛び上がり、こんどこそ一目散に逃げ出した。


    ◯


 翌日。
 蝉も鳴くのを止めるような日差しの中、マコトはまた例の家を訪れていた。
 夜の闇の中で見るのとは違って、太陽の下で見るその家は特に不気味には見えなかった。普通のよくある空き家だ。昨晩あれだけびびっていたのがおかしく思えてくる。流れ出る汗を拭って、マコトはきょろきょろと左右の道を見た。逃げ水の浮いた道に人通りはない。
 そして、彼は小走りに昨日の窓のところまで潜り込んだ。
 鍵の開いた窓のある側(怒鳴ってきた人の家の反対側だ)は隣が駐車場になっていて、ちょっと見ただけなら塀に遮られて外からは見つからなさそうだ。マコトは昨日と同じように窓を開け、壁をよじ登った。
 明るい外との差で、マコトは初めなにも見えなかった。
 だんだんと目が慣れて、家の中のものが見えるようになってくる。家中の雨戸が下ろされているとはいえ真昼のこと、少しは光が入ってきているようだった。夕べの記憶を頼りに、彼はあの鏡のある寝室まで辿り着く。
 寝室の中は、当たり前だけれど、昨日の夜となにも変わらなかった。引き戸は開け放たれたまま、そして鏡も同じように、こちらを向いて鎮座している。マコトはその前に立って、
 そして、鏡越しに後ろの相手と目を合わせた。

「よかったあ。また来てくれたんだ」

 部屋の中にマコトのものではない声が響いた。
 マコトはゆっくりと後ろを振り返った。目の前に、長い黒髪を背中に揺らした女の人が立っていた。

「不安だったんだ、また誰も戻ってきてくれないんじゃないかって」

 中学生か高校生か、彼女はどこかの学校の制服を着ていた。夏だから──ということもないのだろうけれど、白とグレーのセーラー服は半袖だ。マコトは無意識にまず足を確認した。紺色のスカートの下、白い靴下を履いた足は床につく前にすうっと透けて消えている。マコトの喉がひくりと鳴った。
 幽霊。

「忘れ物ならそこにあるよ。それを取りに来たんだよね?」
「あ……」

 幽霊の女の人は、すっと腕を上げて部屋の隅を指し示した。マコトの視線が指の先を向く。昨日のどさくさでマコトが忘れていった星座盤が落ちている。

「そんなの持って肝試しにくるなんて変わってるなって思ってたけど」
「あ……星を、見るって言って家を……出たから」
「そっか、そりゃ肝試しなんて言ったら怒られるよね」
「そ……その」

 頷いて納得している彼女に向かって、マコトは思い切って口を開いた。けっこう勇気を振り絞った割には、声はあんまり大きくならない。やっと普段と同じくらいだ。

「昨日、この部屋の、この、鏡で」
「目が合ったよね。やっぱり、キミは気づいてると思ってた」

 マコトの言葉を引き取って、幽霊のお姉さんは微笑んだ。
 昨日、みんなとこの部屋に入ったとき、彼が鏡の中に見たのは彼女の姿だった。瞬きをするまでの一瞬、ほんの一瞬だけ。それでもそのこと一晩中マコトの心の中に引っかかっていて、今日ここへ来たのはそれについて調べることも目的のひとつだったのだ。
 果たして、マコトの見た女の人は本当にいた。ごくんと唾を呑み込んで、マコトは訊く。

「お、お姉さんは、何……何なんですか」
「なにって、……そう、なんだと思う?」
「……幽霊……?」
「正解」

 くすくすと、幽霊にしては朗らかに笑って、彼女はそう答えた。
 ヒロたちが知ったらなんと言うだろう。





「ごめんね、お茶もジュースも出せなくて」

 マコトを客間に案内して、お姉さんは申し訳なさそうにそう言った。
 マコトは大人しく正座していた。雨戸の閉まった部屋の中で畳の上に座っているのは変な気分だ。ちなみに、クツは脱いでいる。きっと足の裏が真っ黒になっているから、家に帰る前によく拭かないといけない。
 この頃にはもう、最初の警戒する気持ちはほとんどなくなっている。初めは油断していると取り憑かれたりするんじゃないかだなんて思っていたのだけれど、彼女の言葉を聞いているうちにそんな心配はなさそうに思えてきたのだ。

「昨日は驚かせちゃってごめんね。怪我した子、大丈夫だった?」
「大丈夫、……だと思、います」
「よかった。こんど会ったらごめんねって言っといて」

 それでも、マコトの中の緊張は解けていなかった。怖くはない。幽霊だけど、普通に話ができる相手だ。だが──どうしてか、彼女と向かい合っていると落ち着かなかった。
 きっと薄暗いこの部屋の雰囲気のせいだ。あるいはそれは、これまでマコトがこういうお姉さんと話すことがあまりなかったからかもしれない。マコトは一人っ子だし、近所にも友達のきょうだいにもこんな相手はいない。

「ずっと待ってたの。キミみたいな子が来てくれるのを。何年かに一回、肝試しに来る人はいるけど、みんな一度だけで来なくなっちゃうから」
「待ってたって、なんで?」

 マコトが尋ねると、お姉さんはふと目を伏せた。さっきまでの彼の慌てぶりを面白がる様子とは随分な違いだ。言葉を探して、どうやらそれはすぐに見つかったらしい。口元に微笑を浮かべて答える。

「相手が欲しかったんだ」
「相手……?」
「お話とか、他にもいろいろ。私はこの家から出られないから、誰も来てくれないとずっと独りなんだよ。病気で死んじゃって、もう──十年くらいになるかな」
「……病気?」

 いろんな疑問を飛び越えて、マコトの頭に一番に入ってきたのはそのことだった。ヒロに聞いた話と随分違う。

「殺人事件、……っていうのは……」
「あー、違うよ。っていうか、そんな噂になってるんだ。まあ病気じゃ肝試しのハクが足りないもんね」
「……」
「幽霊になってからは生きてた頃より元気なんだけど、元気な分よけいに暇なんだ、これが」

 十年間、独り。その事実を理解して、マコトは絶句した。マコトが今12歳だから、自分のことに置き換えて考えると、物心ついてからずっと誰にも会わずに過ごしていることになる。
 暇だと彼女は言うけれど、それは……「寂しい」というのではないだろうか。

「今の日付はよくわからないけど、きっと、キミは夏休みなんだよね」
「うん」
「じゃあ、せっかくだからお願いがあるんだけど、いいかな」

 んっ、とマコトは詰まった。

「……なに?」
「毎日じゃなくていいし、この夏休みの間だけでいいんだけど、……たまに、ここに遊びにきてほしいの」
「遊びに?」
「そう。宿題とかしにくるのでもいいし。図書館代わり……には、ならないかもしれないけど」

 マコトは瞬きした。
 拍子抜けしたのだ。実のところ、彼はまたちょっと警戒していたのだった。これはいわゆる、親しみやすい姿で一度油断させておいて後から急に不意打ちしてくる、みたいなアレなのではないかと。けれど話を聞く限り、どうもそんな意地悪なことはなさそうだ。
 毎日は、無理だけど。たまに来て宿題とかゲームとかするぐらいなら……

「……いいよ」
「やった! そうだ、キミ、名前は?」
「宮部……。宮部真(マコト)」
「マコト! 私は君佳(キミカ)。姫野君佳」

 自分の胸に手を当ててそう言い、キミカは弾けるような笑顔をマコトに向けた。

「よろしくね、マコト」


    ◯


「……ねえ、キミカ」
「んー?」

 シャアシャアとクマゼミが鳴いている。
 鉛筆を動かす手を止めて声をかけると、彼女はのんびりした返事と共に身体を起こした。太陽の光が荒れ放題の庭を鮮やかに照らして、キミカは逆光になっている。大きく開いた掃き出し窓から涼しい風が入ってきた。
 邂逅から数日、マコトは約束通り、宿題とゲームを手提げに詰めてキミカの家にやってきた。学校で言われた通り(そして母親から言われている通り)ちゃんと十時までは家で勉強をしてきたのだが、それでも宿題を持ってきたのはどうせ暇になるだろうと思ったからだ。なにしろこの家にはテレビもないから。
 なにをするにせよ、雨戸の下りた客間はちょっと暗い。そう言うと、キミカはあっさりと「雨戸を開けたらいいよ」と答えた。流石にそれはまずいだろう。マコトは新しい友だちの家に遊びにきたくらいのつもりでも、外から見れば空き家への立派な不法侵入なのだ。見つかったらまた怒られてしまう。
 それに対してのキミカの答えは、客間のこっち側の窓なら開けても大丈夫だということだった(「こっちは庭だし、その向こうには線路しかないからバレないよ」)。実際、雨戸と窓を開けて風を吹き込ませても、これまでのところ誰かが怒鳴り込んでくるような様子はない。

「どうかした?」

 振り返ったキミカは、掃き出し窓から脚だけ庭に下ろしてぶらぶらさせているらしい。今は後ろに手を突いて上半身を起こしているが、さっきまでは手持ち無沙汰に畳の上に寝転がっていた。マコトが宿題を始めた頃は側でいろいろと教えてくれようとしていたのだけれど、それが漢字の書き取りになってからは流石に教えられることもなくなったのだ。床に黒髪を広げたキミカを見て、マコトは普段から彼女はこうしていたんだろうなと思った。……生きていた頃は。
 日の差し込む場所で見る彼女は、太陽の光にかき消えてしまいそうに頼りなく見える。まだマコトが使いこなせる語彙にはない言葉だけれど、こういうのを指して「儚い」という。もっとも、キミカ自身はそんなことをまったく気にしていなさそうなくらいに呑気だから、おそらく心配はいらないのだろうけれど。
 首を傾げて微笑む彼女の顔をちらっと見て、マコトはちょっと早口で言った。

「ここ、トイレないよね?」
「ん、……そうだね。水止まってるし」
「やっぱり?」

 んー、とマコトは唸る。家を出るとき、母親に麦茶の入った水筒を渡された。喉が渇いたと感じるたびに飲んでいる。ここはそれなりに暑いし汗もかいているけれど、それでも時間が経つとやっぱりしたくなるものらしい。トイレのことはすっかり頭から抜け落ちていた。

「近くに公園あるよ。あと、あー、昔はコンビニもあったけど、今もあるのかな」

 どうする? とキミカが訊いてくる。
 結局、マコトはコンビニまで行くことにした。手を振るキミカに見送られながら客間を立ち、例によって脱衣所の小窓によじ登る。彼女は庭の方から出ればいいのにと言ったが、マコトはそれは断っていた。あんまり堂々と歩いているとまた誰かに見つかりはしないかと不安だったのだ。
 家を出ると、むっとした熱気がマコトを押し包んだ。この間やその前の肝試しのときも思ったことだが、この家の中は妙に気温が低い。幽霊がいるからかな、とマコトは考えた。なにか魔法みたいな力が働いているのかもしれない。幽霊だから魔法じゃなくて……、呪いとか。
 キミカの言ったコンビニに着いてトイレを借り、ついでにアイスを買って、マコトはクーラーの効いた店内からまた暑い外に出てきた。トイレだけ借りて出るわけにはいかないから買い物もしたが、正直マコトのお小遣いでは毎回なにか買うわけにもいかない。次からは公園の方を使おうか。
 などと、考えていたところで、

「よう、マコト」

 声をかけられてマコトは顔を上げた。キッと音を立て、自転車に跨ったヒロがマコトの前で停止する。彼は自転車を降りると、それをコンビニの駐輪スペースまで転がしながら話しかけてきた。

「どこ行くんだ? お前の家、こっちじゃないだろ?」
「ヒロ。……ちょっと、友達んとこ」
「……ふーん?」

 相槌を打ちながら、ヒロは訝しんでいるようだった。それも当然だ、マコトたちは普通、誰かのことを話すときに「友達」なんて曖昧な言い方をしたりはしない。そのまま名前を言うのだ。マコトは話題を変えるついでに、気になっていたことを訊いてみた。

「ねえヒロ、あれからあの家行った?」
「あの家って、肝試しのか? 行ってねーよ」

 ヒロは顔を顰めた。それから彼が語ったことによると、どうやらヒロはあの後、肝試しのことが親にバレてしこたま怒られたらしい。マコトの親まで情報が回らなかったのは幸いだが、もし学校に連絡が行っていたら、夏休みが終わった後でまとめて説教かなにかあるかもしれない。
 自転車に鍵を掛けながら、ヒロは思い出したように訊き返した。

「マコトは行ったのか?」
「……えーっと」





「おかえりー」

 マコトが戻ると、キミカは彼の漢字ドリルを覗き込んでいるところだった。そんなものを見てもつまらないと思うのだが、自分でページを捲ることができないキミカは開かれているものを眺める以外にすることがないらしい。彼女はマコトの方へ顔を向けて、すぐにその手の中のアイスに目を留めた。

「あ、アイス持ってる! いいなー」
「いいなって……キミカ、食べられないじゃん」
「そうだけどお」

 いいなーいいなーとしきりに繰り返すキミカを見ながら、マコトはさっきのヒロとの会話を思い返していた。ヒロの問いにどう答えようか迷って、

『……ううん、行ってない。そもそもなにもなかったし』

結局、彼は嘘をついたのだった。ヒロは特に疑うこともなく「だよな」と答えていた。
 幽霊と話をしたなんて打ち明ければ、マコトは一躍クラスの話題の中心になっただろう。少なくとも二学期の最初の一ヶ月くらいは人気者間違いなしだ。そうなることを少しも考えなかったわけではない。
 ……だが、そのためにはキミカのことを教えなければならない。この家にはまた男子みんなが押しかけて、キミカと話をする権利はマコトだけのものではなくなってしまうだろう。彼はそれがなんとなく惜しかったのだ。
 ぱちっと視線がキミカと合って、思わずマコトは目を逸らした。なんとなく、心の中を見透かされそうな気がしたのだ。


    ◯


「あ」
「あっ」
「あーあ……」

 目の前の敵キャラが槍を突き出し、画面の中で主人公があっさりと倒れる。すぐに画面に「GAME OVER」の文字が表示された。
 直前のセーブ地点まで巻き戻ったゲーム画面をしばらく眺めて、マコトはそれの電源を切った。机の上に放り出す。

「やめちゃうの?」
「うーん、ちょっと飽きた」

 今日の勉強はとりあえず終わりにし、マコトはこの日はゲームを始めていた。とはいってもこのキミカの家に通信環境なんてあるはずもないから、遊べるのは自然、一人用のゲームだけになる。キミカももちろんゲームの相手はできない。

「っていうか、キミカは飽きないの。ずっと見てるだけでしょ?」
「見てるだけでも楽しいよ」
「それならいいけど……」

 マコトが一人でゲームをしている間、キミカはずっと肩越しにマコトのプレイを覗き込んでいた。最初の頃にマコトが見せたときには「画面でっか! 絵が綺麗!」と騒いでいたキミカも、数日も経つと流石にもう慣れたらしい。マコトが敵を倒したりパズルを解いたりするのを時おり口を挟みながら眺めている。
 そうはいっても、実質一人で同じゲームばかりしているとやっぱり飽きてしまう。さてこれからどうしようとマコトが思案していると、キミカが、なにか面白い悪戯を思いついたように笑みを浮かべた。

「そうだ。マコト、面白いものあるよ」
「……面白いもの?」
「うん、多分、まだ外の物置にあると思うんだけど」

 そう言うキミカの表情に不穏なものを感じながら、マコトは言われた通りに庭へ下りて玄関の側にある物置まで回っていった。相変わらず外に出ると陽射しが眩しい。
 そして、中途半端に開いたままの物置の中を覗き込んで、

「これっ……!」

 彼は、泡を食ってキミカの元へ取って返した。
 思わず大きな声を出しそうになって慌てて抑える。近所に見つかってしまう。すごい剣幕で戻ってきたマコトを、キミカは部屋の中からにやにや笑いながら見下ろしていた。彼がこんな反応をすることは予想通りだったらしい。

「キミカ! ……これっ」
「見つけた? 何年か前に、中学生くらいの子が置いてったんだよね」
「これ、エッチな本じゃんっ」

 その「エッチな本」という言い方が面白かったのか、彼女はくすくすと笑った。真っ赤な顔をして怒鳴るマコトに、キミカはすっとしゃがみ込んで顔を近づける。

「エッチなのはマコトは嫌い?」
「嫌いっていうか、……読まないよ、こんなの!」
「んー、でも、これって怒るほどエッチじゃないよ」

 マコトが物置で見つけたのは、古くなった一冊の雑誌だった。隠すように置かれていたせいで雨風からも日光からも守られていたらしいが、それでも表紙は汚れてかさかさになっている。……その表紙に写っているのは、胸を手で隠した裸の女の人の写真だった。とてもじゃないけど彼女の言うように「エッチじゃない」ものとは思えない。

「と、とにかく、オレこんなの読まないからね」
「えー。私は読みたいな」
「ぇえっ!?」
「一緒に見ようよ。私、自分じゃページめくれないんだもん」
「っ……」

 マコトは言葉を失ったまま、口をぱくぱくと動かした。こんなのは男の人が見たがるものだ。キミカみたいな、……お姉さんが、こんなことを言うなんて。
 「ね、一緒に見よ」とキミカは誘ってくる。マコトは自分が持っているその雑誌を目の端で見た。自分は決して見たいわけじゃないけど、キミカが見たいって言うなら……。

「……いいよ」

 キミカは小悪魔みたいに笑って、マコトが部屋に上がって机に雑誌を置くまでを見守った。彼が開いた雑誌を、ゲームをやっていたときと同じように上から覗き込む。
 雑誌は写真集だった。知らない女の人が、白い背景の前でこちらを向いてはにかんでいる。その肌も真っ白だ。肩甲骨が剥き出しになって、少なくとも上半身にはなにも身につけていない。パンツは穿いているのかもしれないけれど、それも写真で見える範囲ではわからない。そして、

「わぁ、おっぱい大きいねえ」
「っ……」

 思っていることを言い当てられて、マコトは顔がさらに熱くなるのを感じた。
 彼女の言う通りだった。女の人は片方の腕で恥ずかしそうに胸を隠しているものの、細い腕はその豊満な胸全体を覆うには全然足りていない。腕を押しつけられたことで胸はむにゅっと形を変えていて、それがよりサイズを強調していた。もしもマコトがもっと大きくて、そして“こういうモノ”に慣れていたら、この女の人の仕草が「恥ずかしそう」ではなく扇情的に見せているのだということがわかっただろう。けれど少なくとも、今のマコトにそんな知識はない。
 キミカは隣に回り込んで、机の上に肘をつくような格好をした。思わず目で追ったマコトの方へ視線を向けて、

「マコト、いま私のおっぱい見てたでしょ」
「っ、見てないっ……」
「ふふふ。私のはここまで大きくないよ」
「……」

 かあっと顔を赤くするマコトを見て、キミカはにこにこと笑った。

「かわいいなあ、マコトは」
「その、……こめんなさい」
「謝らなくてもいいよ。男のコはそのくらいエッチなのが普通だよ」

 そう言いながら、キミカはまだ喉の奥で笑っていた。小さくなるマコトを促して、ページをめくらせる。
 それからも彼女は、「もうちょっとで見えそうなのにね」だとか「マコトは大きい方が好き?」だとか言ってみては、いちいち反応するマコトの様子を楽しんでいるようだった。マコトからしてみればたまらない。ぎゅっと縮こまって、黙々とページをめくっていくしかなかった。最後まで見終わってようやく解放されたときには頭がくらくらしていたほどだ。
 女の人の白いハダカは、夢にまで出てきた。


    ◯


 鼻から息を吐きながら、ぐいぐいと水を掻いていく。去年買ってもらったゴーグルはプールの底をくっきりと映し出している。肺の中の空気を全部吐き出して、マコトは水面に顔を出した。
 途端に世界に音が戻ってくる。プールの中は、いつもと違って学年が違う人たちで溢れている。今日は学校のプールが開放される町別水泳の日だった。
 友だちに会うのは久々だし、夏休み中の学校に入れるのも非日常な感じで楽しい。それにマコトはプールの授業はそんなに好きでもないけど、泳ぐのはけっこう好きだ。だからマコトは毎年この町別水泳の日を割と楽しみにしていた。
 ただし、今回は別だった。水を掻き分けながら目の前を通り過ぎていく同じ学年の女子をうっかり目で追いかけて、

(……っ!)

 我に返ってマコトは慌てて視線を逸らした。プールの底を蹴ってその場を離れる。

(キミカのせいだ……!)

 キミカのせいだ。これまでマコトは、クラスの女子を見てエッチな気持ちになったことなんかなかった。誰だれがかわいいと思うことはあっても、同じ学年の女子の膨らみが目立つようになりはじめた胸のところに視線が吸われるようなことはなかったのに。
 今日は変だった。女子の胸の膨らみを見るたびに、頭の中にあの白いハダカがちらつく。あの写真集の女の人の、腕で形を変えた大きなおっぱいが頭を離れない。いつまでもそのことについて考えていると水着の中でチンコが大きくなってしまいそうで、マコトはそれを振り払うように水を蹴った。





「町別水泳かー」

 マコトの気も知らずに、話を聞いたキミカは感慨深そうに「懐かしー」と呟いた。当然、キミカが小学生だった頃にも夏休みの町別水泳はあったのだ。目の前のキミカにも小学生だった頃がある、そのことがマコトにはうまく想像できない。

「私ほとんど参加できなかったけどね。プールの授業も見学ばっかりだったし……。マコトは水泳得意だった?」
「好きだけど、あんまり得意じゃない。クラスにすごく泳ぐの速い奴はいるけど」
「そういえば私の同級生にもいたなー。元気してるかな」

 キミカは遠い目をしてみせた。彼女が……死んだのが十年くらい前だから、その同級生はキミカよりも十歳年上ということだ。そんなの、もう大人だ。小学生が高校生になって、そして大人になる。それは当然のことなのだが、マコトにはやっぱり実感できない。彼にとっては自分がいつか高校生になることさえ遠い未来のことに感じられた。
 もっとも、それはキミカが幽霊なせいもあるかもしれないけれど。
 自分が小学校に通っていたころの思い出を色々と振り返っていたらしいキミカは、そういえば、と唐突に切り出した。

「そういえば、私たちの頃はプールの授業のときは確か男子も女子も同じ教室で着替えてたんだよね」
「えぇ? それは嘘だろ」
「嘘じゃないよ。まあ、低学年のときだけど。マコトはそうじゃなかった?」
「そんなわけないじゃん!」

 もちろん、一年生だろうが二年生だろうが着替えは男女別だ。マコトが叫ぶと、キミカはそりゃそうかと頷いた。

「いやぁ、今考えたらやばいよねー」
「……だって、ハダカ見えちゃうってことでしょ」
「そうだよ。小一男子が女子の裸をそこまでイシキするかはわかんないけど……。マコトみたいにエッチだったらともかく」
「オレも見ないよ!」

 マコトは憤慨した。マコトだって、これまではそんなことを気にしたことはなかったのだ。
 そんなマコトを見て、キミカは悪戯っぽく笑っている。マコトはまたからかわれているのだということに気づいた。こうなると彼には分が悪い。マコトは無理やり話を変えることにした。

「……キミカ、オレ、しばらく来ないから」
「えっ?」

 途端に彼女はそわそわと慌て始めた。机を回ってマコトの方へ近づいてくる(通り抜けたりはしないんだとマコトは思った)。こんな風に取り乱すキミカは珍しい。彼女はマコトの前に屈んで、彼の顔を覗き込んだ。

「怒った? ごめんね、そんなつもりじゃ」
「違うよ! お盆でひいおばあちゃん家に行くの」
「あ、……ああ」

 マコトが否定すると、キミカはほっと胸を撫で下ろした。

「びっくりしたぁ。そっか、そういう季節だよね」
「……怒ると思ったんならからかわないでよ」
「ごめんって。だってマコト、かわいいんだもん」

 キミカがそう言って笑う。マコトはまたぶすっと顰めっ面をした。もしかしたら、キミカは男子がかわいいなんて言われても嬉しくないことを知らないのかもしれない。


    ◯


「ねえ、ひいおばあちゃん」
「うん?」

 じわじわとセミが鳴いている。マコトの家のある町ではこの時間に鳴くのはクマゼミと決まっているけれど、ひいおばあちゃん家の周りではそうではないらしい。ひいおばあちゃん家のある田舎はマコトが住んでいる場所よりも少しだけ涼しい。
 マコトがNHKの教育テレビから目を離して声をかけると、ベッドに腰掛けて同じようにテレビを眺めていたひいおばあちゃんもまたマコトの方を見た。ひいおばあちゃん、今日は元気だ。

「ひいおばあちゃん、幽霊って見たことある?」
「幽霊かね?」
「うん」
「幽霊かね。幽霊ねえ」

 唐突なマコトの問いにひいおばあちゃんは首を捻って、それから思い出したように言った。

「死んだおじいは会あたことあー言いちょったねえ」
「ホントに!?」
「戦争に行きちょった時分に見たんだげな。マコちゃん、戦争てわかーかえ」

 もちろん、マコトだって戦争のことは知っている。ちゃんと学校で習うのだ。
 ひいおばあちゃんは口をすぼませてのんびりと話す。そんな風にしてひいおばあちゃんが語ったところによると、おじい──死んだひいおじいちゃんの話は、次のようなことだった。
 戦時中、ひいおじいちゃんは兵隊として南方のなんとかという土地で戦った(土地の名前をマコトは知らなかった)。幸い、ひいおじいちゃんは終戦まで生き延びることができたけれど、仲間の中にはそうでない人もいた。激しい戦闘があった数日後のある日、ひいおじいちゃんたちは、数日前に死んでしまった戦友の幽霊を見たのだという。
 夏の強い日差しの中、幽霊はまるで影の中に立っているように暗く沈んで見えた。
 ひいおじいちゃんたちは揃ってその戦友に話しかけた。骨も拾ってやれなくて済まない、お前も一緒に国に帰りたいだろうに……。けれど、幽霊はなにも答えない。ただじっと、なにか訴えかけるようにひいおじいちゃんたちの方を見つめている。
 そうしているうちに、ひいおじいちゃんは、その友人が故郷に残してきた妻のことをしきりに気にしていたことを思い出した。そうしてひいおじいちゃんは幽霊に向かって言った。奥さんにはお前のことをきっと伝えるから心配するなと。
 その言葉を聞いて、幽霊は消えてしまった。光に溶けたかのように一瞬のことだった。

「……そうなんだ……」
「おじい嘘こきだったけんね」
「え?」

 話に続けて当たり前のように言ったひいおばあちゃんの言葉に、マコトはぱちぱちと瞬きした。

「え、じゃあ、幽霊は」
「あれマコちゃん、幽霊なんて本当に信じちょおのかえ。おらんよ幽霊なんて」
「えぇ……」

 マコトはぼやいた。裏切られた気持ちだ。ひいおばあちゃんみたいな昔の人にそんなことを言われるとは思わなかった。普通こういうのって、立場が逆じゃないだろうか。
 母屋の方から、あじうり切れたよ、とお母さんの声がした。ひいおばあちゃんが「マコちゃん、おばあにあじうりもらーてきて」とマコトを促す。マコトは立ち上がって離れの玄関へと向かった。
 クツを履きながら、マコトは内心で独りごちる。

 ──でも、いるんだよなぁ。

 とりあえず、ひいおばあちゃんの話でわかったことはひとつ。
 幽霊というのは、なにか目的があってこの世に戻ってくるものなのだ。

 ──それじゃ、キミカはなんのために戻ってきたんだろう?


    ◯


 掃き出し窓に腰掛けて、キミカが鼻歌を歌っている。マコトは相変わらず机に向かって宿題だ。漢字ノートや計算ドリルは順調に進んではいるし、お盆の間に図工の宿題や読書感想文もやっつけてきたけれど、まだ大きいのがいくつか残っている。
 頭の上に気配を感じてマコトは顔を上げた。キミカが窓辺を離れて、マコトが机に広げたままだった夏休みのしおりを覗き込んでいた。彼女はぺらぺらとページをめくりながら感慨深げに独りごちた。

「夏休みもそろそろ終わりだねー」
「ちょっと、勝手に見ないでよ」

 マコトは憤慨しながらしおりを取り上げた。キミカはごめんごめんと頬を掻いている。
 夏休みの残りははあと一週間と少し。──マコトは不意に、キミカが最初に言っていたことを思い出した。夏休みのはじめ、二人が最初に出会ったときに彼女が言っていたことを。

「ねえ、キミカ、夏休みが終わったら……」

 マコトが声をかけると、キミカは小さく首を傾げた。頬にかかった髪がさらりと揺れる。窓の外の眩しい景色に、彼女の姿は逆光になっている。
 その顔を見て、マコトは少しのあいだ言葉を失った。
 初めて出会ったとき、キミカはマコトに、夏休みの間ここに遊びにきてほしいと言った。その夏休みももう終わる。マコトは学校に行かなければならないし、もちろん学校で友達に会うのはは嫌ではないのだけど、キミカとの今の二人だけの時間はなくなってしまう。なにか、──もったいないような、焦るような気持ちがあったけれど、それをうまく表す言葉がマコトには見つけられなかった。
 そんなマコトの様子を見て、キミカはにこっと微笑んだ。言いたいことを既に見破られていて、口を塞がれたように、マコトには思えた。彼女はマコトに向かって手のひらを差し出した。

「マコト、手、出して」
「?」

 眉をひそめて、それからマコトはキミカと手のひらを合わせるように手を突き出した。キミカが腕を伸ばして、指を絡めた。マコトも手を握り返す。
 ひやりと冷たい。

「……──っ!?」

 それが意味することに気づいて、マコトは反射的に手を振り解きそうになった。そういえば彼女はさっきマコトの夏休みのしおりのページをめくっていた。ページを。
 幽霊のキミカは、なにかに触ることはできないはずなのに。

「びっくりしたでしょ」
「っ、え、っえ?」
「この夏休みの間、ずっとマコトと一緒にいたから、マコトの生……元気を分けてもらったんだ」
「そ……それって、」

 いいように言っているけど、それは、要は生気を吸い取ったってことじゃないか?
 気がついてみれば、今のキミカは、スカートの下のすらりとした裸足までちゃんと見えていた。この世に戻ってきているのだ。それはきっと、マコトの生気を吸って。マコトはごくりと唾を呑み込んだ。このところ抱えていた疑問がまた頭をもたげてくる。

「キミカ、キミカは……なっ、なんで、幽霊になったの?」

 幽霊がこの世に戻ってくるのは、なにか目的があるから。キミカのそれはなんなのか──疑問は、当然ながらまだ答えは出ていなかった。
 キミカはあっさりとマコトの手を離した。

「知りたい?」
「……うん」
「私の目的」

 マコトが頷くと、彼女はさっと身体を起こした。後ろ手に指を組んで背中を向ける。マコトには思いもよらないことだったが、キミカは照れていたのだった。これから言おうとしていることを口に出すことに流石に恥ずかしさを覚え──そして、そのことに彼女自身戸惑っていた。まあそんな細やかな機微はマコトにはわからない。
 振り返って、身体ごとマコトに向き直る。慈しむような笑みを浮かべて、キミカは静かに言葉を出した。……私の目的は、

「セックスすること」

 マコトは瞬きした。

「セックス、──口に出して言うのは恥ずかしいけど、みんないつかは自分も誰かとすることになるんだって思ってる。私だって、いつかのそれに……期待してた」
「……」
「けど……。私にはその機会はなかったから」
「……」

 それを経験する前に、彼女は生涯を終えてしまったから。キミカが言葉を終えると、二人の間には沈黙が下りた。マコトはなにも言わない。
 窓の外から電車の走る音が聞こえる。どこか遠くでこの辺りの子らが話している。
 だんだん、場に微妙な空気が流れ始めた。

「……えっ、もしかしてセックスって知らない?」
「いや、えっと」

 聞いたことはあるのだ。たしか、いつかヒロたちが話していたはず。だからまあ、ロクな意味の言葉ではないのだろうが。
 驚いていたキミカはやがて、にやにやとその表情を崩していった。目を三日月みたいな形にして、心の底から嬉しそうに、彼女は笑う。

「あーあ、マコトってば可哀想。それなのにこんな悪いお姉さんに捕まっちゃって。
 ……セックスっていうのはね」

 そうして、マコトの耳に口を近づけて。

「エッ・チ・な・コト、だよ」
「……っ」

 耳に吐息がかかって、首筋の毛がぞわぞわと疼いた。振り向いたマコトに、キミカは例の悪戯っぽい笑顔を向ける。

「ね、マコト。エッチなことしたくない?」
「え、う、いや」
「したいよね。おっぱい、見たいもんね?」

 顔を覗き込んで前屈みになったセーラー服の胸元に彼の視線は引き寄せられていた。キミカの含み笑いはその視線を見透かしたようだ。マコトは耳まで赤くなった。
 真っ赤な顔のマコトの手を包み込むように握って、キミカは彼に言った。

「私とセックスしてくれるならさ。マコト、明日の夜にまたここに来て」
「夜……?」
「そう。初めて──」

 初めて会った日みたいに。


    ◯


 夜道にはまだ昼間の熱気が残っている。
 あの日から一月とちょっと経っても、まだ夜は暖かいままだ。とはいっても早朝にはもう虫が鳴いていることを彼は知っている。夏の終わりはもうすぐそこなのだろう。誰も通らない道を、マコトは自転車を漕いでいく。
 キミカの家が見えてくる。夜に来たのはあの日以来で、そのときも自転車では来なかった。なるべく音が立たないように自転車の速度を緩めて、アスファルトを靴底で擦ってサドルから飛び降りる。自転車を塀の内側に隠して、それからマコトは庭の掃き出し窓から客間に上がった。結局、夏の間中この窓から出入りしていたことになる。玄関を大っぴらに使うわけにはいかないから仕方ないけれど。
 キミカが部屋の入り口に顔を覗かせて、おいでおいでと招く。マコトは立ち上がって彼女の後についていった。暗い廊下で、キミカの後ろ姿はうっすらと光を放っているように見えた。

「今日はこっち」

 そう言って彼女が案内したのは、二人が最初に出会った寝室だった。一緒に忍び込んだみんなを驚かせたあの鏡もそのままだ。あのときは気づかなかったが、部屋の中にあるベッドは手すりのついたものだった。ひいおばあちゃん家にあるのと同じ、長い間寝ている人が使うやつだ。
 ただ、そんな細かいことは今のマコトの頭の中には入ってこなかった。彼の意識は目の前のキミカのことで一杯いっぱいなのだ。

「待ってね」

 そう言って、キミカは手を制服の脇へやった。微かな音を立ててチャックが引き上げられる。目が伏せられて、睫毛が長いのがわかる。パサッとセーラー服を脱いで、彼女は今度は顔を下げてスカートのホックを外す。マコトはそんな彼女の一挙手一動足を呆けた顔で見守っていた。
 キミカが両手で肌着を捲り上げる。きれいなお臍と、その上のブラジャーが目の前に晒された。頭から服を引き抜いて、彼女はマコトの様子を見下ろして歯を見せて笑った。その頬が赤くなっている。マコトの心がどきんと揺れた。床に肌着を落として、キミカは、両手を裸の背中に回した。
 ぷちん、と小さな音。ブラが下から押し上げられて、ふわっと持ち上がった。

「ほら、お待たせ」
「っ……」

 肩紐から腕を抜いて、彼女は片手でブラを押さえたままマコトの前に屈んだ。白いおっぱいの上半分が目に飛び込んでくる。隙間から奥の方も。そしてキミカは、完全にブラを取り払ってしまった。

「どうだ」
「ど、っあ」
「ふふ、触ってもいいよ」

 はにかむ彼女の声に操られるように、マコトは半ば無意識でふらふらと手を伸ばした。上半身はだかになったキミカがその手を取って自分の胸に導く。手のひらに、柔らかい弾力を感じた。

(うわ……!)

 マコトは目を見開いた。
 気もそぞろでどこか現実味がなかった風景が、衝撃に一気にクリアになっていくようだった。キミカの肌はすべすべと滑らかで、マコトの手のひらに吸いつくようだ。膨らみに沈み込んだマコトの手を同じ強さで押し返してくる。感触を確かめるように彼が手を動かすと、キミカはぴくっと肩を揺らした。
 柔らかさに憑かれたようにマコトがおっぱいを揉んでいると、その様子を面白そうに眺めていた彼女はやがて、目を細めて深く息をするようになった。そのうちに彼はどういうときにキミカの反応が大きくなるのか気づいた。試しに丸い大きなおっぱいの上、ピンク色につんと尖った乳首を擦ってみる。「んぅっ」とキミカの口から甘い声が漏れて、マコトは反射的に手を止めた。

「ん、上手だよ、マコト」
「気持ちいい、の?」

 心臓がどきどきと高鳴っていた。マコトの問いにキミカは答えず、代わりに垂らしていた両手でマコトの膝頭に触れた。そのすぐ上、腿の下の方を押して、彼をベッドに座らせる。
 そのままキミカは、手のひらをマコトの内腿に滑らせた。ハーフパンツの裾からするりと彼女の手が忍び込んでくる。マコトは悲鳴を上げた。

「っ、キミカっ!」
「……わ、すごい」

 興奮したような声をキミカは漏らした。彼女の指はズボンの下で、パンツも潜(くぐ)ってマコトのチンコに触れていた。彼のそこは今、最初からずっと勃起していたのだった。座るとズボンの股を尖らせているのが丸見えだったし、そうでなくともさっきから布が擦れて焦燥感があった。
 ズボンの両方の裾から侵入してきたキミカの手は、そんな状態のチンコを包むように掴んだ。びくんと腰が跳ねた。細い指が固くなったチンコに巻きついて、柔らかい手のひらと一緒にやわやわと刺激してくる。

「すご……マコト、マコトもこんな風になるんだね。……かちかちだ」
「キミカ、っ、待って」
「マコト、これまでもたまに立ってたよね。あの写真集見てるときとかさ」
「待っ、キミカ、駄目だって!」

 マコトは背中を丸めてキミカの腕を掴んだ。彼女は剥き出しの肩を竦めて、上目遣いに煽るようにマコトを見ている。気づかれていたことに動揺するだけの余裕は今の彼にはなかった。股の間をぞわぞわと這い回る感覚に歯を食い縛る。チンコの先端、裏筋、内腿、キンタマの袋、そういったところ全部がキミカの手とおまけにパンツの布に刺激されて、このまま触られ続けていればどうなってしまうか、一刻も早く止めてもらわないと、

「キミカ! 駄目、出ちゃうからっ」
「頑張れ頑張れ、いま出したらおもらしになっちゃうよ」
「お願い待って、キミカ──」
「──いいよ、イッて」
「っ──」

 脚の付け根がぎゅうっと押されるように疼く。我慢しきれなくて、とうとうマコトはズボンの中、キミカの手の中で爆発した。

「あ、あ、あーっ……」

 どく、どく、と腰が脈打って、精子を彼女の指に吐き出していく。股全体に広がっていく快感に、マコトは目を瞑って彼女の腕を握りしめた。射精を止められない。我慢する機能が壊れてしまったみたいだ。
 肩で息をする彼を見上げ、キミカは意地悪く笑った。

「おもらし」
「キミカがっ……! やめてくれないから!」
「ふふ、気持ちよかったね」

 その言葉には反論できず、マコトは赤面した。ひんやりとした手に容赦なくチンコを擦られるのは、キミカの言う通り、そう、確かに気持ちよかったのだ。おそらくはキミカが考えているよりもずっと激しい快感だった。自分でするのとは比べ物にならない。
 キミカがマコトのズボンから手を抜いて立ち上がる。彼女はマコトに笑いかけた。

「セックス、しよっか」
「……うん」

 マコトが頷くと、キミカはスカートに手をかけて、それをそっと床に落とした。白くて眩しい太腿、そしてその上の部分を覆う水色の下着が現れる。股のところにマコトが目を引かれそうになったとき、キミカが「マコトも脱いでよ」と要求した。「私だけじゃ恥ずかしいよ」
 マコトは素直にズボンを脱ぎにかかった。他人の部屋で、しかも女の人の前でチンコを出すなんてもちろん初めてのことだったし落ち着かなかったけれど、そうしないと二人の目的が果たせない。今晩はそれをしにきたのだ。
 「セックス」については、マコトは昼間のうちにちょっと調べていた。すぐに耐えられなくなってやめてしまったものの、いくつかの画像や動画の映像は目に焼きついている。そこでは男の人が女の人のおっぱいを触ったり、女の人が男の人のチンコを触ったりしていた。それだけではない、最後には男の人が女の人に跨って、──あんなの、絶対に気持ちいいに決まっている。マコトは自分の股間を見下ろした。普段なら一度出してしまったら小さくなるそこは、今日はまだ固いままだ。
 服を抜いだキミカはベッドの上で横坐りに膝を折っている。マコトもベッドに登って、正座をして彼女と向かい合う。

「じゃあ今度は、私のこと触ってくれる?」
「うん」
「おっぱいじゃないよ。こっち」

 キミカは彼の手を取って、自分のへその下に誘導した。マコトがさっきから気になっていた場所だ。当然ながらマコトについているようなものはなく、そして細く毛に縁取られている。キミカに導かれて肌をなぞっていった彼の指は、すぐに濡れた感触に迎えられた。は、とキミカが息を漏らす。

「濡れ、てる」
「そうだよ。マコトのちんちんが大きくなるみたいに、女の子は気持ちいいとそうなるの」

 さっき、彼女の下着が濡れていたように見えたのは間違いではなかったらしい。蜜を零す割れ目に至ると、マコトの指はすぐにその柔らかな肉の中に小さなしこりを探り当てた。

「ほら、ここ」
「なにか……」
「わかる? 女の子の気持ちいいところ。敏感なところだから、優しくしてね」

 キミカに促され、マコトはその突起に触れた指をそっと動かした。最初は固いと思っていたそれだが、よく確かめてみると周りの肉と同じ弾力があるらしい。つ、つ、と指の下でそれが滑るたびに、キミカはびくびくと体を揺らした。はう、あふ、と吐息が漏れる。蜜が溢れて指を伝う。さっき胸を触っていたときよりもずっと敏感な反応だった。
 彼女の反応を見ながら、マコトは自分のチンコが自分でも知らないほど大きくなっているのを感じていた。彼の身じろぎに合わせてゆらゆらと揺れる先端は、もう少しで彼女の肌に触りそうだ。その様子に熱っぽい眼差しを送って、やがてキミカは、我慢できなくなったように急に身体を動かした。
 後ろについた手に体重を預けて膝を開く。股の一本筋が、本当なら厳重に隠されているはずのそこが目の前に堂々と晒される。マコトはごくっと唾を呑み込んだ。部屋のこの暗闇の中でも、そこがぐしゃぐしゃに濡れて光っていることは見て取れた。

「はぁっ……。さ、マコト、この後どうするかわかる?」
「た、ぶん」
「大丈夫、簡単だよ。マコトの気持ちいいところを、わたしの気持ちいいところ……ここだよ、ここ、ここに入れるだけ」

 言いながら、キミカは手を伸ばして割れ目を開いてみせた。指の間で粘液が糸を引く。腰を浮かせながら、あ、でも、と彼女はつけ加える。

「本当はね、セックスするときは、ゴムっていうのをつけなきゃだめだからね」
「……ゴム?」
「そう。マコトもこれから先、本当に好きな人とすることになったらちゃんとつけるんだよ」
「オレ、キミカのこと好きだよ?」

 マコトが言うと、キミカは目を丸くした。
 特別なことを言ったつもりはなかった。マコトには彼女が何のことを言っているのかよくわからなかったが、とりあえずこれだけは言っておかなければと思ったのだ。あっけに取られていたキミカの顔が、やがてくしゃくしゃと崩れる。嬉しいような、泣き出しそうな、彼女のこんな表情を見るのは初めてだ。頬が真っ赤に染まっていた。

「私も好きだよ。……マコト、来て」
「うん」
「私、もう我慢できないよ」

 キミカの腰の近くに手をついて、覆い被さるように(というよりは身長差のせいでほとんどしがみつくように)マコトはそのための姿勢になった。勃起したチンコが待ちきれないようにキミカの割れ目を向いている。彼女のそこが待ち構えるように口を開いている。
 片手でチンコを握って、マコトはキミカに体を近づけた。先がぬるりとした肉に触れて、──そして、沈み込む。

「うぁ……っ!」
「っ……」

 下半身が丸ごと呑み込まれたみたいだった。マコトは悲鳴を上げた。味わったことのない快感に、脳味噌が焼き切れそうだ。頭をキミカのおっぱいにつけて耐えていると、頭上で彼女が熱っぽい息を吐いた。

「熱い……生きてるね」

 感極まったように、彼女は言った。欲情に濡れた目でマコトを見下ろす。

「マコト、動いて」
「うご、く?」
「マコトが気持ちいいように、して」

 回らない頭で考えて、それからマコトはキミカの骨盤に手を置いて、ぴったりとくっつけていた腰を少しだけ離した。ずるりと粘膜が擦れて,途端にまた痺れるような気持ちよさが復活する。
 一度動きはじめると、今度はもう止まれなかった。股の内側に渦巻く衝動に突き動かされるようにマコトは一心不乱に腰を動かした。一振りごとにキミカはだんだんと高い声を上げている。耳に聞こえる彼女の余裕のない様子が、どうしてかマコトをさらに必死にさせた。

「んぁっ、んっ、んぅっ」
「キミカ、キミカ……」
「ふっ、マコト」

 するりと頬に手が滑った。マコトはぎゅっと瞑っていた目を開けて、見下ろす彼女と視線を合わせた。顎が上がって、涎が垂れた。
 ベッドに横たわったキミカの裸の全身が丸見えになっている。マコトが動くたび、天井を向いたおっぱいが上下に揺れる。彼女は片手でシーツを皺になるほど握って、もう片方の手をマコトに向かって伸ばしていた。潤んだ瞳が彼を見つめて、

「好きっ、だよ」
「オレも……」

 オレも好き、と答えようとした。けれど声は掠れて、膨れ上がる欲求に押し流されて言葉にならなかった。キンタマがぐうっと引っ張られるのがわかる。視界にチカチカと火花が散る。
 狭いキミカの中が、彼を搾りとるように締まった。

「〜〜っ!」

 マコトは射精した。
 尿道を通り抜けた精子がキミカの穴の中に溢れて、びゅる、びゅるる、と後から後から注ぎ込まれた。中途半端に開いた口から意味のわからない声が漏れている。なにも考えられなかった。頭の中が空っぽになったみたいだ。
 感覚のなくなったチンコが最後の精子を吐き出した。全身から力が抜けて、マコトは前に向かって倒れ込んだ。最後の瞬間、彼は柔らかい体が自分を優しく包み込むのを感じた。


    ◯


 夏休みの最後の数日を、マコトはぼんやりとしたまま過ごした。
 あの夜どうやって家まで帰ったのか、彼はよく覚えていない。翌朝セミの声で目を覚ましたとき、マコトはいつもの通り、自分の部屋のベッドの上でカーテンの隙間から差し込む朝日を浴びていた。両親はもう仕事に出かけていた。どうやら夕べ抜け出したことは気づかれていないらしい。
 股に──チンコのあたりに重い疲れがあって、それが昨日の記憶が夢などではないことを証明していた。目を閉じればすぐにキミカの体が浮かんでくる。白い手、柔らかいおっぱい、滑らかなお腹、そしてその下の……。だが、そういうことを思い出しても、今はもう昨日までほどの切羽詰まった興奮はなかった。相変わらず頬は熱くなる、けど。
 取り憑かれていたのかもしれない、と思う。この夏の間、キミカという幽霊に。

「よう、ひさしぶり」
「ひさしぶり、ヒロ」

 久々にみんな集まった学校は、夏休みのことなど忘れてしまうぐらいいつも通りだった。始業式をやって、宿題を出して、「下」の教科書をもらって。皆がひそかに警戒していた肝試しのお説教はなかった。
 昼になって、下校の時間。校門を出たマコトは、少しの間その場に立ち止まって迷った。マコトの家までの通学路にあの家はない。だが、ちょっと寄り道すればすぐに行ける場所にはあるのだ。あれから一週間、マコトはキミカの家に行っていない──

「……」

 だが、結局マコトはそのまままっすぐに家に帰った。夏休みが終わって日常に戻った今となっては、この間までのことは急に現実味を失って感じられた。もうあんなこと、起こりそうにないと思えてしまったのだ。
 そのかわり、彼はしばらく経ってから、三丁目のお寺を訪れた。この辺りに住んでいたのならここにお墓があるはずだ。それほど広くはない墓地だが、並んでいる墓石の中に「姫野家」という文字を見つけるのには三十分くらいかかった。珍しい苗字だし、周りに同じ名前のお墓もない。だが、それが本当にキミカのお墓かはわからなかった。
 誰のものかわからないお墓の前で、マコトはしばし佇んだ。手を合わせる気にはならなかった。そんなことをしたらキミカが本当に死んでしまったように思えてしまいそうだ。
 ただ突然現れて、そしていなくなってしまった人──マコトの中では彼女はそういう人だった。
 顎を汗が伝う。休みが終わり、日常が戻ってきて、暑さだけがいつまでも夏の名残を残していた。
24/09/18 12:08更新 /

■作者メッセージ
お読みいただきありがとうございました。……が。
長い! 濡れ場まで長い!
次は「狐憑き(キツネツキ)」ですが、もっとサクッと濡れ場に入るようにします。

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