後編
エメリの巻き起こす風が、木々の梢をざわざわと揺らす。ゆっくりと彼女は斜面に降り立った。
彼女の背中からずるずると滑り落ちる。こんなに長い間全力で飛び続けたのは初めてだ。脚がすっかり萎えてしまっていた。かくんと膝を折って地面にへたり込んだライを、女の子の姿に戻ったエメリが黙ったまま見下ろしている。
その表情を見上げて、ライは、彼女もまた今のことを冷静に考えられているわけでないことを知った。今のこと、そして、これからのことを。エメリは小さく口を開け、荒い息を繰り返していた。その眉の端が弱々しく下がっている。こんなエメリを見るのは初めてだ。
居ても立ってもいられなくなって、ライは急かされるように言葉を探した。
「……どこか、落ち着ける場所を見つけないとね」
「そう、ね」
エメリは小さく頷いた。立ち上がって差し出した彼の手を、彼女がきゅっと掴む。反対の手で矢筒を背負い直して、ライは彼女の手を引いて歩き出した。
一氏族とはいえ騎馬民を敵に回して、しかもたった二人だけで財産もなしにはあの広大で乾燥した平原では生きていけない。集落から逃げたエメリが目指したのは、彼女たちワイバーンの故郷、ビオア山脈だった。こちらへ向かうのは彼らに見られていたけれど、森をひとつこえたこの山脈までは追ってはこないだろう。互いに話し合ったりはしないものの二人ともそう考えていた。なにしろ森や山では騎馬民の頼みの馬が使えない。
故郷とはいっても、エメリが実際にここに来たことがあるわけではない。他の姉妹たちもそうだ──そうだった。ただ、自分たちの祖がこの山脈のどこかの谷に住んでいたということを知っているだけ。もしかしたら山の奥深くには今でも仲間たちが住んでいるのかもしれないけれど、とりあえず今はそんなことを当てにできるだけの余裕はない。
「雨の、匂いがする」
なるべく下草の少ない場所を二人で歩く。ライに手を引かれて斜面を登りながら、エメリがぽつりと呟いた。
それはライも感じていた。日が落ちるまでにはまだ時間があるはずだが、空はもう薄暗く曇っている。すぐに雨が降り出すだろう。地面から湿気た熱気が立ち上っていた。空気は辺りに生い茂った木々に閉じ込められて、平原なら噴き出す汗を払ってくれたはずの風もない。ライの故郷とは何もかもが違っていた。雨雲だって、平原では通りがかりにざっと地面を濡らしていくだけだ。こんな風にぐずぐずと待っていたりはしない。
「どこか、落ち着ける場所を見つけないと……」
ライが繰り返したとき、彼の耳にとうとう、ぽつり、ぽつり、と水の粒が落ちてきた。
「エメリ、大丈夫？」
「うん。ライは？」
「大丈夫」
木膚に背中を預けて、ぴったりと腕をくっつけて並んで膝を抱える。問いかけに答えるエメリの前髪が濡れてぺったりと額に貼りついている。きっとライのもそうだ。雨が、まるで壁のように降りしきっている。故郷のヴア族の天幕で屋根に当たる雨の音を聞いていたときのことをライは思い出した。
巨大な樹の中だった。ライとエメリが二人ずついても腕を回しきれないような大きな樹だ。その根元が地面から浮いて、二人が並んで入れるくらいの空洞ができていた。だんだんと雨が勢いを増していく中、ライと一緒に周囲を見回していたエメリがこの空間を見つけて、なんとか本降りになる前にこの屋根の下に潜り込むことができたのだった。
そうして今、彼らは言葉を交わしている。大丈夫？ 大丈夫。なにが大丈夫かもわからないままに。
「エメリ、お腹空いてない？ 晴れたら狩りに行かなきゃね」
「大丈夫」
腕に顎をうずめるエメリに、ライは話題を探しては話しかけ続ける。
「弓も矢もあるし。それから川を探しにいかないと」
「うん」
「この雨、まだ降るのかな。平原ならもう止むけど、山のことはわかんないね」
「うん」
「けど、ここはエメリの故郷なんだろ？ だったらきっと住みやすい場所なんだよ。大丈夫、おれたち生きてけるよ」
「……ライ」
「それに、そうだ、みんな殺されたとは限らないし。いつかまたあ、会えたりして──」
「ライ」
「あれ……」
喉がひくついた。ぼろ、と、涙の雫が勝手に溢れて頬を伝った。
「お、おかしいな。あは、ごめん、おれ、なんでだろ」
一度溢れ出してしまえば、涙は後から後から流れて止まらなかった。ライは慌てた。こんな、エメリの前で。彼女は途方に暮れたような顔でライを見ている。手のひらでごしごしと目を擦っても、それでもどうにもならない。
絶望が夜の冷気のように心に忍び寄ってきていた。家族が殺された悲しみもあったが、それ以上に、自分たちのこの先が怖かった。家族も、故郷も、これまでライを育ててきたものが全部なくなって、いきなり世界に二人だけで放り出されてしまったのだ。これからどうすればいいのかわからない。孤独で、不安で、心細かった。
「……いいよ」
「え……？」
エメリがぽつりと呟いて、ぼやけていた視界が急に塞がれた。横から伸びてきた彼女の腕が、ふわりとライの頭を引き寄せたのだった。頭の上から彼女の声が降ってくる。
「エメリ」
「泣いていいよ。大丈夫」
「……ふ、っう」
最後に泣いたのはいつのことだっただろう。ブロムにしごかれたときか。ギャロウを怒らせて叱られたときか。それとももっと小さな頃、兄弟たちにからかわれたときだったか。そんな記憶も──そうだ、もうライだけのものになってしまった。
樹々の葉が揺れる音が聞こえる。雨が地面を叩いている。
ライが彼女の膝を押すと、エメリはゆっくりと腕を解いた。
顔を上げる。鼻が触れ合いそうなくらい近い距離で、二人は見つめ合った。エメリの綺麗な金色の瞳にライの顔が映っている。頬の産毛に雨の粒が結んでいる。それとは違う水で目尻が濡れていて、彼女もまた泣いていたことがわかった。
金の瞳が揺れる。ライは引き寄せられるように彼女に顔を近づけた。涙を追い出すように目を細めて、けれどライもエメリもお互いから視線を逸らしはしない。唇に柔らかいものが触れた。初めての感触だった。
「ライ……」
吐息に掠れた声が、そっと離した唇の隙間から零れた。ライの胸がざわざわと騒ぐ。エメリの声なんていつも聞いているのに。彼は再び彼女の唇に触れた。肩を掴むと、服越しにエメリはぴくんと跳ねた。彼女の手はライの背中にあった。
悲しみは消えたわけではなかった。これからのことを考える不安や、当惑も。けれどそれらのことは、天幕の中で聞く雨音みたいに遠のいて、今は心臓の音がうるさかった。
「ん、ふ……」
未熟な口付けを繰り返す。互いの境界線が曖昧になっていく。エメリの唇が濡れていた。なにも考えずにライがぺろりと舐めると、エメリの肩がふるると震える。彼女もまた舌を伸ばしてライに応えた。二人の唾液が混じって、糸を引いて落ちた。
ライは右の手で彼女の腕に触った。そうして肩から脇、それから脇腹へと下りていく。エメリが気づいて身を固くした。指が帯に触れる。これは先に解いた方がいいのだろうか。迷った末、ライは手を更に先へ進めた。エメリは馬に乗らないが、着ている服は他のヴア族と同じで、馬に乗りやすいよう横に切れ込みの入ったものだ。ライはその切れ込みから手を突っ込んで、中のズボンに触った。
「ま、待って」
彼がズボンの紐に手をかけたところで、流石にエメリが制止した。服を探る手に気を取られるあまり、いつの間にか口付けが止まっていた。エメリの方でもずっとライの手を意識していたらしい。そのことにライは急に気恥ずかしくなったが、視線を外すことなく、逆に挑むようにエメリの目を覗き込んだ。
「だめ？」
「だ、駄目じゃない、けど」
エメリは俯いて唇を噛んだ。その耳が真っ赤になっていることにライは気づいた。ライの顔も赤くなっているに違いなかった。ただし、恥ずかしさではなく興奮で。強く息を吸って、きっぱりとエメリは言った。
「自分で脱ぐ、から」
心臓が破裂しそうなくらいに鳴っていた。
どうしたって上着を着たままズボンを脱ぐことはできない。エメリは帯を解いて外すと、右肩のところにあるボタンに手をかけた。手持ち無沙汰になって、ライは彼女のボタンを下から外し始める。「勝手にしないで」と怒るエメリに「こっちの方が早いだろ」と返す。最後のボタンをエメリが外すと、彼女は上着を背中に落とした。薄い色の肌着一枚を隔てた向こうに彼女のはだかがあった。
上着を脱いだとき、肌着の胸のところがつんと尖っているのが見えた。肩から手を動かして胸に触ろうとしたライをエメリが凄い顔で睨む。布の向こうに柔らかい体を感じて、ライは驚いた。いつもの服の上からわかる体つきはまだライと変わらないように見えるのに。動かした手が固い突起に触れると、エメリは眉を寄せて身体を震わせた。
唾を呑み込んで、片方の手でゆっくりと布地を手繰り寄せていく。既にエメリがズボンの紐を緩めていたから、肌着はライの手に従ってするすると引き上げられた。裾から彼女のほっそりした腰が覗く。次いで肋骨の浮き出た脇腹が。まだくびれもあまりない、胸だって薄い、
「ライ」
「だって」
「だって、じゃ、ないっ」
けれどそこはライのそれとは明らかに違っていた。すべすべした肌がなだらかな丘になって、その頂に仄かに色づいた蕾が立っている。ライは左の手で服を一番上まで捲り上げて押さえると、右手を小さな膨らみに押しつけた。胸はその厚みの分だけ沈みこんで、エメリの口から吐息が漏れる。彼女は樹の内壁にもたれて浅い呼吸を繰り返していた。先端の蕾に指を伸ばす。そこを摘むと、エメリはきゅっと表情を歪めて、それからライの手を強く振り払った。
顔を上げる。金色の瞳がライの視線を捕える。
「エメ、」
「自分で脱ぐ、って、言った……っ」
すうっと血の気が引くのがわかった。
緊張とさっきまでの興奮からの反動で、耳がきいんと鳴った。怒らせた。自分の知らない彼女を暴き出すのに夢中で調子に乗っていた。言葉を失ったライがあんまり情けない顔をしていたのか、エメリは何度か深呼吸をして、それからむくりと身体を起こした。
「……ごめん」
怒らせたことも嫌だったけれど、エメリに嫌われてしまったかと思うともっと怖かった。どこまで許してくれてどこからは許容されないのかわからない。エメリとはずっと一緒にいたはずなのに。初めてのことだらけで、彼女のことまでなにもわからなかった。
怯んでしまったライを見て、エメリは「馬鹿」と詰ると彼の胸に顔を埋めた。恐るおそる、その頭を撫でる。これは……、許してくれたんだろうか。エメリはライの服から顔を離して、びくりと手を浮かせたライの腰に腕を回した。そうしてごそごそとやって、ライがまだ戸惑っているうちに彼の帯を解いてしまう。
彼女はライの上着の裾を捲ってその下に潜り込んだ。さっき自分の服にしたのと同じことだ。エメリがしようとしていることに気づいて、ライは慌てて口を挟んだ。
「じ、自分でやるよ」
口を挟んで、彼は流石にうかつさを自覚した。案の定、エメリは不機嫌そうにこちらを睨む。
「あたしだってそう言ったのに」
「うっ」
返す言葉もない。ライのズボンを緩めようとする彼女を、成すすべもなく見下ろす。
そこを見つめてエメリが顔を赤らめたのがわかって、ライも頬が熱くなるのを感じた。恥ずかしくて、居たたまれない。ライの分身は今、彼の興奮を一身に蓄えてまっすぐに立ち上がっていた。彼自身からは上着が邪魔をしてその様子は見えないけれど、既にずっと服が窮屈に感じていたほどだ。その圧迫感が、急に消える。素肌のそこに近い場所にエメリの指が触って、ライは引き攣れたように息を吸った。小さく悲鳴のような情けない声が漏れた。
服の内側に籠もっていた熱が薄れて、代わりにひやりとした外気が触れた。女の人には見せたことのないところが、兄弟の間でだって見られるのは恥ずかしいのに、彼女の前に晒されている。肩が跳ねる。細い指がそれを掴んだ。エメリの小さな手の中で、膨れ上がったライの欲望が心臓の鼓動に合わせてどくどくと脈打っている。
緊張に呼吸を上擦らせながら、エメリはしばらくそれを見つめていた。やがて意を決したように唾を呑み込んで、ゆっくりと腰を持ち上げる。緩められた下履きが地面に落ちて、肌着の裾の向こう、かろうじてその場所が、ライについているものがなくてつるりとしたそこがライが見ちゃいけないはずのそこが僅かに、確かに見えた。なにか言おうと思ってライは失敗した。喉がカラカラだった。
空いた左手でエメリは脱げたズボンから脚を抜く。そうして彼女はライの熱の塊を握ったまま、跨がるようにそれを自分の股に近づけて、膨れ上がった先端が一瞬だけ見えて、
「ぐっ……」
「っ、ぅ……！」
最初に感じたのは熱いぬめりだった。ずるりと粘膜同士が擦れて、すぐにその感触はエメリの中を無理やり押し開いていく圧迫感に変わる。エメリの体は小さくて、こんな狭いところにライのが入るわけないのに彼女は腰を下ろしていく。ライは行き場のない手を身体の横で握っていた。ライに合わせて形を変えていた奥が急に狭まって、これ以上は無理だと彼が思ったとき、ぶつっとなにかを破った感覚があった。ぎゅっと目を瞑ったエメリの目尻から涙がぽろぽろと零れた。
「っエメリ、」
目に涙を浮かべて、彼女は喘ぐ。大きく口を開けてぱくぱくと息を吸う彼女を見て、ライの奥底でなにかが蠢いた。這い上がってきた。胸の真ん中を刺したその得体の知れない感情は同時に腿の内側に集まって、エメリの中が締めつけてくる痛みと混ざってしまう。
エメリががばっとライに抱きついた。中が押し動かされて二人揃って呻き声を上げる。ライも堪らずエメリに腕を回して、そしてそこで怯んだ。彼女の身体は小さくて細くて力いっぱい抱きしめたら折れてしまいそうに思えた。目の前からエメリの顔が消えて、代わりに髪の束が頬をくすぐる。鼻に馴染んだ匂いが触れた。うなじの匂い、髪の、汗の匂い、エメリの匂いだった。
「ぅぐ、あ、ぁ、あっ」
「〜〜っ」
二人が重なっている場所で熱が膨らむ。耳の中にエメリの高い囁きが入ってくる。欲求が迫り上がって一番遠くの獲物を狙うときの弓みたいに引き絞られて我慢ができない。馬鹿みたいな声を出して、ライは、エメリの一番奥に自分の全部を吐き出した。
いつの間にか、雨は止んでいた。平原ほどの激しさはなくても夕立だったのだろう。空のどこかに夕日があって、樹々に残った雫をきらきらと輝かせていた。
二人は抱き合ったまま、互いの心臓が同じ速さで鼓動を刻むのを聞いていた。呼吸はゆっくりと落ち着いて、今はもう暖炉の前で眠りにつくときと変わらない。繋がったところも今では穏やかな心地よさを伝えてくるだけだった。
「エメリ」
突然、ライはエメリの肩に手を置いて、首に回していた腕を解かせた。離れた顔を真正面から見つめる。エメリはライの行為の余韻に上気したままの顔が、なにかの思いつきに輝いているのを見た。
「エメリ、子ども、作ろうよ」
「え……っ？」
予想外の行動に困惑しているエメリの肩を、ライは両手で揺さぶった。
「子ども作ろうよ、エメリ。ジェダたちが言ってた、子どもってこうやって作るんだろ？ 二人で生き抜いて、いっぱい家族増やそうよ」
「……うん」
「それで、それでさ、」
「うん」
「それでさ、ヴアみたいな国を作ろうよ。ちっちゃいけど、みんなで寄り添ってさ。そしたらもう心細くないよ」
そうだ、そうしたらいい。もうみんなはいないけれど、育った故郷もないけれど、二人で作ればいい。その目標があれば生きていける。
エメリが頷く。また潤んでしまった彼女の瞳を見つめながら、ライは繰り返した。
「作ろうよ、おれたちの国を」
彼女の背中からずるずると滑り落ちる。こんなに長い間全力で飛び続けたのは初めてだ。脚がすっかり萎えてしまっていた。かくんと膝を折って地面にへたり込んだライを、女の子の姿に戻ったエメリが黙ったまま見下ろしている。
その表情を見上げて、ライは、彼女もまた今のことを冷静に考えられているわけでないことを知った。今のこと、そして、これからのことを。エメリは小さく口を開け、荒い息を繰り返していた。その眉の端が弱々しく下がっている。こんなエメリを見るのは初めてだ。
居ても立ってもいられなくなって、ライは急かされるように言葉を探した。
「……どこか、落ち着ける場所を見つけないとね」
「そう、ね」
エメリは小さく頷いた。立ち上がって差し出した彼の手を、彼女がきゅっと掴む。反対の手で矢筒を背負い直して、ライは彼女の手を引いて歩き出した。
一氏族とはいえ騎馬民を敵に回して、しかもたった二人だけで財産もなしにはあの広大で乾燥した平原では生きていけない。集落から逃げたエメリが目指したのは、彼女たちワイバーンの故郷、ビオア山脈だった。こちらへ向かうのは彼らに見られていたけれど、森をひとつこえたこの山脈までは追ってはこないだろう。互いに話し合ったりはしないものの二人ともそう考えていた。なにしろ森や山では騎馬民の頼みの馬が使えない。
故郷とはいっても、エメリが実際にここに来たことがあるわけではない。他の姉妹たちもそうだ──そうだった。ただ、自分たちの祖がこの山脈のどこかの谷に住んでいたということを知っているだけ。もしかしたら山の奥深くには今でも仲間たちが住んでいるのかもしれないけれど、とりあえず今はそんなことを当てにできるだけの余裕はない。
「雨の、匂いがする」
なるべく下草の少ない場所を二人で歩く。ライに手を引かれて斜面を登りながら、エメリがぽつりと呟いた。
それはライも感じていた。日が落ちるまでにはまだ時間があるはずだが、空はもう薄暗く曇っている。すぐに雨が降り出すだろう。地面から湿気た熱気が立ち上っていた。空気は辺りに生い茂った木々に閉じ込められて、平原なら噴き出す汗を払ってくれたはずの風もない。ライの故郷とは何もかもが違っていた。雨雲だって、平原では通りがかりにざっと地面を濡らしていくだけだ。こんな風にぐずぐずと待っていたりはしない。
「どこか、落ち着ける場所を見つけないと……」
ライが繰り返したとき、彼の耳にとうとう、ぽつり、ぽつり、と水の粒が落ちてきた。
「エメリ、大丈夫？」
「うん。ライは？」
「大丈夫」
木膚に背中を預けて、ぴったりと腕をくっつけて並んで膝を抱える。問いかけに答えるエメリの前髪が濡れてぺったりと額に貼りついている。きっとライのもそうだ。雨が、まるで壁のように降りしきっている。故郷のヴア族の天幕で屋根に当たる雨の音を聞いていたときのことをライは思い出した。
巨大な樹の中だった。ライとエメリが二人ずついても腕を回しきれないような大きな樹だ。その根元が地面から浮いて、二人が並んで入れるくらいの空洞ができていた。だんだんと雨が勢いを増していく中、ライと一緒に周囲を見回していたエメリがこの空間を見つけて、なんとか本降りになる前にこの屋根の下に潜り込むことができたのだった。
そうして今、彼らは言葉を交わしている。大丈夫？ 大丈夫。なにが大丈夫かもわからないままに。
「エメリ、お腹空いてない？ 晴れたら狩りに行かなきゃね」
「大丈夫」
腕に顎をうずめるエメリに、ライは話題を探しては話しかけ続ける。
「弓も矢もあるし。それから川を探しにいかないと」
「うん」
「この雨、まだ降るのかな。平原ならもう止むけど、山のことはわかんないね」
「うん」
「けど、ここはエメリの故郷なんだろ？ だったらきっと住みやすい場所なんだよ。大丈夫、おれたち生きてけるよ」
「……ライ」
「それに、そうだ、みんな殺されたとは限らないし。いつかまたあ、会えたりして──」
「ライ」
「あれ……」
喉がひくついた。ぼろ、と、涙の雫が勝手に溢れて頬を伝った。
「お、おかしいな。あは、ごめん、おれ、なんでだろ」
一度溢れ出してしまえば、涙は後から後から流れて止まらなかった。ライは慌てた。こんな、エメリの前で。彼女は途方に暮れたような顔でライを見ている。手のひらでごしごしと目を擦っても、それでもどうにもならない。
絶望が夜の冷気のように心に忍び寄ってきていた。家族が殺された悲しみもあったが、それ以上に、自分たちのこの先が怖かった。家族も、故郷も、これまでライを育ててきたものが全部なくなって、いきなり世界に二人だけで放り出されてしまったのだ。これからどうすればいいのかわからない。孤独で、不安で、心細かった。
「……いいよ」
「え……？」
エメリがぽつりと呟いて、ぼやけていた視界が急に塞がれた。横から伸びてきた彼女の腕が、ふわりとライの頭を引き寄せたのだった。頭の上から彼女の声が降ってくる。
「エメリ」
「泣いていいよ。大丈夫」
「……ふ、っう」
最後に泣いたのはいつのことだっただろう。ブロムにしごかれたときか。ギャロウを怒らせて叱られたときか。それとももっと小さな頃、兄弟たちにからかわれたときだったか。そんな記憶も──そうだ、もうライだけのものになってしまった。
樹々の葉が揺れる音が聞こえる。雨が地面を叩いている。
ライが彼女の膝を押すと、エメリはゆっくりと腕を解いた。
顔を上げる。鼻が触れ合いそうなくらい近い距離で、二人は見つめ合った。エメリの綺麗な金色の瞳にライの顔が映っている。頬の産毛に雨の粒が結んでいる。それとは違う水で目尻が濡れていて、彼女もまた泣いていたことがわかった。
金の瞳が揺れる。ライは引き寄せられるように彼女に顔を近づけた。涙を追い出すように目を細めて、けれどライもエメリもお互いから視線を逸らしはしない。唇に柔らかいものが触れた。初めての感触だった。
「ライ……」
吐息に掠れた声が、そっと離した唇の隙間から零れた。ライの胸がざわざわと騒ぐ。エメリの声なんていつも聞いているのに。彼は再び彼女の唇に触れた。肩を掴むと、服越しにエメリはぴくんと跳ねた。彼女の手はライの背中にあった。
悲しみは消えたわけではなかった。これからのことを考える不安や、当惑も。けれどそれらのことは、天幕の中で聞く雨音みたいに遠のいて、今は心臓の音がうるさかった。
「ん、ふ……」
未熟な口付けを繰り返す。互いの境界線が曖昧になっていく。エメリの唇が濡れていた。なにも考えずにライがぺろりと舐めると、エメリの肩がふるると震える。彼女もまた舌を伸ばしてライに応えた。二人の唾液が混じって、糸を引いて落ちた。
ライは右の手で彼女の腕に触った。そうして肩から脇、それから脇腹へと下りていく。エメリが気づいて身を固くした。指が帯に触れる。これは先に解いた方がいいのだろうか。迷った末、ライは手を更に先へ進めた。エメリは馬に乗らないが、着ている服は他のヴア族と同じで、馬に乗りやすいよう横に切れ込みの入ったものだ。ライはその切れ込みから手を突っ込んで、中のズボンに触った。
「ま、待って」
彼がズボンの紐に手をかけたところで、流石にエメリが制止した。服を探る手に気を取られるあまり、いつの間にか口付けが止まっていた。エメリの方でもずっとライの手を意識していたらしい。そのことにライは急に気恥ずかしくなったが、視線を外すことなく、逆に挑むようにエメリの目を覗き込んだ。
「だめ？」
「だ、駄目じゃない、けど」
エメリは俯いて唇を噛んだ。その耳が真っ赤になっていることにライは気づいた。ライの顔も赤くなっているに違いなかった。ただし、恥ずかしさではなく興奮で。強く息を吸って、きっぱりとエメリは言った。
「自分で脱ぐ、から」
心臓が破裂しそうなくらいに鳴っていた。
どうしたって上着を着たままズボンを脱ぐことはできない。エメリは帯を解いて外すと、右肩のところにあるボタンに手をかけた。手持ち無沙汰になって、ライは彼女のボタンを下から外し始める。「勝手にしないで」と怒るエメリに「こっちの方が早いだろ」と返す。最後のボタンをエメリが外すと、彼女は上着を背中に落とした。薄い色の肌着一枚を隔てた向こうに彼女のはだかがあった。
上着を脱いだとき、肌着の胸のところがつんと尖っているのが見えた。肩から手を動かして胸に触ろうとしたライをエメリが凄い顔で睨む。布の向こうに柔らかい体を感じて、ライは驚いた。いつもの服の上からわかる体つきはまだライと変わらないように見えるのに。動かした手が固い突起に触れると、エメリは眉を寄せて身体を震わせた。
唾を呑み込んで、片方の手でゆっくりと布地を手繰り寄せていく。既にエメリがズボンの紐を緩めていたから、肌着はライの手に従ってするすると引き上げられた。裾から彼女のほっそりした腰が覗く。次いで肋骨の浮き出た脇腹が。まだくびれもあまりない、胸だって薄い、
「ライ」
「だって」
「だって、じゃ、ないっ」
けれどそこはライのそれとは明らかに違っていた。すべすべした肌がなだらかな丘になって、その頂に仄かに色づいた蕾が立っている。ライは左の手で服を一番上まで捲り上げて押さえると、右手を小さな膨らみに押しつけた。胸はその厚みの分だけ沈みこんで、エメリの口から吐息が漏れる。彼女は樹の内壁にもたれて浅い呼吸を繰り返していた。先端の蕾に指を伸ばす。そこを摘むと、エメリはきゅっと表情を歪めて、それからライの手を強く振り払った。
顔を上げる。金色の瞳がライの視線を捕える。
「エメ、」
「自分で脱ぐ、って、言った……っ」
すうっと血の気が引くのがわかった。
緊張とさっきまでの興奮からの反動で、耳がきいんと鳴った。怒らせた。自分の知らない彼女を暴き出すのに夢中で調子に乗っていた。言葉を失ったライがあんまり情けない顔をしていたのか、エメリは何度か深呼吸をして、それからむくりと身体を起こした。
「……ごめん」
怒らせたことも嫌だったけれど、エメリに嫌われてしまったかと思うともっと怖かった。どこまで許してくれてどこからは許容されないのかわからない。エメリとはずっと一緒にいたはずなのに。初めてのことだらけで、彼女のことまでなにもわからなかった。
怯んでしまったライを見て、エメリは「馬鹿」と詰ると彼の胸に顔を埋めた。恐るおそる、その頭を撫でる。これは……、許してくれたんだろうか。エメリはライの服から顔を離して、びくりと手を浮かせたライの腰に腕を回した。そうしてごそごそとやって、ライがまだ戸惑っているうちに彼の帯を解いてしまう。
彼女はライの上着の裾を捲ってその下に潜り込んだ。さっき自分の服にしたのと同じことだ。エメリがしようとしていることに気づいて、ライは慌てて口を挟んだ。
「じ、自分でやるよ」
口を挟んで、彼は流石にうかつさを自覚した。案の定、エメリは不機嫌そうにこちらを睨む。
「あたしだってそう言ったのに」
「うっ」
返す言葉もない。ライのズボンを緩めようとする彼女を、成すすべもなく見下ろす。
そこを見つめてエメリが顔を赤らめたのがわかって、ライも頬が熱くなるのを感じた。恥ずかしくて、居たたまれない。ライの分身は今、彼の興奮を一身に蓄えてまっすぐに立ち上がっていた。彼自身からは上着が邪魔をしてその様子は見えないけれど、既にずっと服が窮屈に感じていたほどだ。その圧迫感が、急に消える。素肌のそこに近い場所にエメリの指が触って、ライは引き攣れたように息を吸った。小さく悲鳴のような情けない声が漏れた。
服の内側に籠もっていた熱が薄れて、代わりにひやりとした外気が触れた。女の人には見せたことのないところが、兄弟の間でだって見られるのは恥ずかしいのに、彼女の前に晒されている。肩が跳ねる。細い指がそれを掴んだ。エメリの小さな手の中で、膨れ上がったライの欲望が心臓の鼓動に合わせてどくどくと脈打っている。
緊張に呼吸を上擦らせながら、エメリはしばらくそれを見つめていた。やがて意を決したように唾を呑み込んで、ゆっくりと腰を持ち上げる。緩められた下履きが地面に落ちて、肌着の裾の向こう、かろうじてその場所が、ライについているものがなくてつるりとしたそこがライが見ちゃいけないはずのそこが僅かに、確かに見えた。なにか言おうと思ってライは失敗した。喉がカラカラだった。
空いた左手でエメリは脱げたズボンから脚を抜く。そうして彼女はライの熱の塊を握ったまま、跨がるようにそれを自分の股に近づけて、膨れ上がった先端が一瞬だけ見えて、
「ぐっ……」
「っ、ぅ……！」
最初に感じたのは熱いぬめりだった。ずるりと粘膜同士が擦れて、すぐにその感触はエメリの中を無理やり押し開いていく圧迫感に変わる。エメリの体は小さくて、こんな狭いところにライのが入るわけないのに彼女は腰を下ろしていく。ライは行き場のない手を身体の横で握っていた。ライに合わせて形を変えていた奥が急に狭まって、これ以上は無理だと彼が思ったとき、ぶつっとなにかを破った感覚があった。ぎゅっと目を瞑ったエメリの目尻から涙がぽろぽろと零れた。
「っエメリ、」
目に涙を浮かべて、彼女は喘ぐ。大きく口を開けてぱくぱくと息を吸う彼女を見て、ライの奥底でなにかが蠢いた。這い上がってきた。胸の真ん中を刺したその得体の知れない感情は同時に腿の内側に集まって、エメリの中が締めつけてくる痛みと混ざってしまう。
エメリががばっとライに抱きついた。中が押し動かされて二人揃って呻き声を上げる。ライも堪らずエメリに腕を回して、そしてそこで怯んだ。彼女の身体は小さくて細くて力いっぱい抱きしめたら折れてしまいそうに思えた。目の前からエメリの顔が消えて、代わりに髪の束が頬をくすぐる。鼻に馴染んだ匂いが触れた。うなじの匂い、髪の、汗の匂い、エメリの匂いだった。
「ぅぐ、あ、ぁ、あっ」
「〜〜っ」
二人が重なっている場所で熱が膨らむ。耳の中にエメリの高い囁きが入ってくる。欲求が迫り上がって一番遠くの獲物を狙うときの弓みたいに引き絞られて我慢ができない。馬鹿みたいな声を出して、ライは、エメリの一番奥に自分の全部を吐き出した。
いつの間にか、雨は止んでいた。平原ほどの激しさはなくても夕立だったのだろう。空のどこかに夕日があって、樹々に残った雫をきらきらと輝かせていた。
二人は抱き合ったまま、互いの心臓が同じ速さで鼓動を刻むのを聞いていた。呼吸はゆっくりと落ち着いて、今はもう暖炉の前で眠りにつくときと変わらない。繋がったところも今では穏やかな心地よさを伝えてくるだけだった。
「エメリ」
突然、ライはエメリの肩に手を置いて、首に回していた腕を解かせた。離れた顔を真正面から見つめる。エメリはライの行為の余韻に上気したままの顔が、なにかの思いつきに輝いているのを見た。
「エメリ、子ども、作ろうよ」
「え……っ？」
予想外の行動に困惑しているエメリの肩を、ライは両手で揺さぶった。
「子ども作ろうよ、エメリ。ジェダたちが言ってた、子どもってこうやって作るんだろ？ 二人で生き抜いて、いっぱい家族増やそうよ」
「……うん」
「それで、それでさ、」
「うん」
「それでさ、ヴアみたいな国を作ろうよ。ちっちゃいけど、みんなで寄り添ってさ。そしたらもう心細くないよ」
そうだ、そうしたらいい。もうみんなはいないけれど、育った故郷もないけれど、二人で作ればいい。その目標があれば生きていける。
エメリが頷く。また潤んでしまった彼女の瞳を見つめながら、ライは繰り返した。
「作ろうよ、おれたちの国を」
23/06/25 23:32更新 / 睦
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