連載小説
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前編
 顔面、喉、胸。
 払う、捌く、また払う、ダガーの間合いではレイピアには届かない。剣同士がぶつかる音が響く、また喉、大きく払う、生まれた隙にライは一足飛びに踏み込み──

「っは、ぐっ……」

 右腕を突き出そうとしたところで、飛んできた蹴りがお腹に直撃した。
 ダガーを取り落としてよろよろと後退る。そのまま、彼はぺたりと尻餅をついた。ライを蹴り飛ばしたブロムが、レイピアで自分の肩をとんとんと叩きながらこちらへと歩いてくる。

「剣に意識が向きすぎだ。いつも言っとろうが」
「ゲホッ、なにも、蹴らなくても」
「いつまでも覚えん方が悪い。ほれ」

 ブロムが手を差し出す。ライは彼の手に掴まって立ち上がった。ブロムにはもう何年も稽古をつけてもらっているのに、一本取れたためしがない。
 昔はどこかの国で兵士をやっていたというこの老人は、ライたちの氏族の中では唯一正式な剣術を修めた人間だ。ライの氏族の戦士は弓は使うが、みんな剣は全然だった。そういうわけで、彼らが剣を学ぶ必要があるときには必ず彼に教わるのだ。

「ま、今日はこんなところか」

 ブロムがぐりぐりと肩を回しながら言う。続けて「おうい、終わったぞ」とどこかへ呼びかけた彼の言葉に、ライは顔を上げた。いつの間にか、少し離れた地面の上に、幼馴染の見慣れた姿があった。

「来てたの、エメリ」
「来たら悪い?」
「そんなこと言ってないだろ」

 土の上に直接膝を抱えていた彼女は、お尻を払って立ち上がった。ブロムと二人、剣をしまって近づいていったライに、傍の手桶から布を絞って渡す。
 ギシギシと身体中に走る痛みに悲鳴を上げながら、ライは受け取った布で顔を拭った。蹴られたお腹以外にも、右手をはじめとして筋肉は強ばり、さらには打たれた痣が全身にできている。痛いところを避けながら肩から腕へと拭いていっていると、目の前でその様子を見ていたエメリがおもむろに口を開いた。

「ライ、臭い」
「うぇ、そう?」
「汗臭いよ」

 ライはすんすんと自分の体のにおいを嗅いだ。……自分ではよくわからない。言った当人のエメリは、それでいながら特に嫌な顔もせず澄ましている。まあ暑い中で激しく動いていたんだから仕方ない、面倒だが水場まで行って──そこまで考えて、彼はふと思い至ってエメリの方を見た。

「ね、エメリ、またあそこに行こうよ」

 エメリは、大きな目でぱちぱちと瞬きした。彼女にはすぐにライの言っている場所がわかったらしい。「いいわ」と頷いて応える。二人で秘密の会話を始めたライたちを眺めて、ブロムは持っていた布を桶へ放り込んだ。

「なんだ、逢引きの相談か」
「えへへ、秘密!」
「まあええわい。存分にやってくれ。ワシは先に戻っとるからな」

 満面の笑みのライに、ブロムが肩を竦める。すたすたと彼らから距離を取って、それからエメリはすうと息を吸った。僅かに開いた唇から息が零れていくのに従って、彼女の姿が変わりはじめる。
 体は大きく、脚は強靭に、鱗に覆われ、腕は伸びて弓のようになった指の間に皮膜が広がる。変貌はまるで服を脱ぎ替えるように自然だ。

「見事なもんだな、いつ見ても」

 ライの隣に並んで、ブロムがぽつりと呟く。ライも同感だ。「他のみんなより小さいけどね」と言うと、ブロムに「お前だってちびだろうが」と返された。見つめるライたちの目の前で、エメリは、輝く緑色の鱗を持つ竜に姿を変えた。
 エメリが伏せると、翼がふわりと風を巻き起こす。ライは低くなった彼女の背中によじ登った。彼を背に乗せたエメリが身体を上げる。視線が高くなる。一歩、二歩、後退ったブロムがこっちを見上げている。
 エメリが地面を蹴り、遅れて翼を打ち落とす。ぐん、とライの身体に負荷がかかり、地上のブロムの姿が一瞬にして小さくなった。全身に風を受けながら空中に身を乗り出すと、眼下に、大平原の中に寄り添うヴアの天幕が見える。





 エメリはワイバーンだ。
 この平原に暮らす騎馬遊牧民たちの例に漏れず、ヴア族もまたいくつかの生き物と関わりの深い生活を営んでいる。馬、羊……。ただし、ヴア族ではそれらに加えて、昔からもうひとつの生き物を暮らしの中に組み込んでいた。それが、エメリたちワイバーンだ。
 数代前の祖が山から連れ帰ったというワイバーンは、ヴアでは他の氏族に対して優位に立つための力であり、同時に産業の重要な要素だった。一族に新しくワイバーンが生まれると、彼らは歳の近い男の子を選んで彼女たちのつがいにする。そうやって選ばれた二人は、やがて周辺の国々に雇われる竜騎士となるために育てられるのだ。ライとエメリは今のところ一族で一番幼いつがいだが、いずれは二人もどこかの国に雇われることになる。
 人と、馬と、羊と、そしてワイバーンから成る国家。これが、ライたちの暮らす国だった。





 二度、三度、翼を動かして、エメリはゆっくりと地上に降り立った。河の水面にさざ波が立つ。
 今の集落がある河べりから少し離れたこの場所は、いつかライとエメリが見つけた秘密の場所だった。河岸がなだらかで水の中に入りやすく、それでいて他の場所よりも植物が育っているから身体を隠すのも簡単だ。ライたちはこの場所を水浴びや魚を獲って遊ぶために使っていた。集落では魚はあまり食べないから、持って帰るとみんな喜んでくれる。
 ライが背中から下りるのを待って、エメリがいつもの小さな女の子の姿に戻った。互いに視線を交わして相手の出方を窺う。一瞬の交錯の後、ため息をついたのはライの方だった。前回はライが先に水浴びをしたから、今度はエメリが先にする番だ。

「早くしてね。おれも入りたいし」
「あたしのときばっかり急かさないで。ライだってのんびりするくせに」
「はぁ〜い」
「覗かないでね」

 ちょっとだけ振り向いてそう言い置いて、エメリは薮の向こうに消えた。ライは水辺を背に、灌木にもたれて地面に腰を下ろす。集落では馴染まない木膚の匂いが鼻を掠めた。布の擦れる音が聞こえてきて、後ろでエメリが服を脱いでいることがわかる。
 彼女のはだかが気に、ならないことはない。エメリとは兄妹のように暮らしてはいるが、ライとは違って彼女は平気で人前で服を脱いだりしない。最後にエメリの裸を見たのはたぶん母親からまとめて洗われていたときで、それはもっとずっと小さな頃の話だ。まだ集落の女やワイバーンたちとは違う、けれど今ではライともちょっと異なるエメリの体を、だからライはよく知らない。
 一度だけこっそりと覗いたときは、すぐにばれてしまった。彼も緊張していて結局よく見えなかったし、そのあとエメリは三日くらい口を利いてくれなかったから、ライはもう決してそんなことをしないことに決めている。得と損がつり合っていない。彼女は一度怒らせると大変なのだ。

「あー、暑いなぁ」

 地平線を眺めながら、ライは呟いた。河の涼気も生い茂る植物に遮られて彼のところまでは届かない。乾いた熱風が平原の短い草を揺らす。雲が落とした影が地表を滑っていく。

「エメリ、どう? 魚とかいる?」
「うん。……けど、袋は持ってこなかったわ」
「あー、本当だ。もうすぐ兄さんたちも帰ってくるし、獲って帰ったら喜ばれたのに」
「残念ね」

 声に続いて、彼女が水から出る音が聞こえてきた。肌についた水滴を払って、岩の上にでも腰掛けて身体を乾かしているのだろう。ライはほんのちょっとだけその様子を想像した。やがて服を身につける気配がして、薮を回ってエメリが近づいてくる。
 とんとん、と肩を突つかれるまで、ライは灌木に後ろ頭を預けたままでいた。振り返った彼を見下ろす、彼女の少し翠がかった黒髪が水に濡れて、ライはこのエメリを見るのが好きだ。
 つがいに選ばれた他の兄弟や従兄弟たちと比べて、ライたち二人の関係はゆっくりだと思う。兄たちのほとんどはライの歳にはもう……そういうことも経験していたと聞く。ワイバーンの中では、どうやらエメリは“奥手な”方らしかった。もっとも、そんなことをしなくともライとエメリは充分に仲がいいから、周りも二人の関係についてとやかく言ってくることはない。彼らにとってワイバーンとの行為は、あくまで相手と信頼関係を築くための手段なのだ。
 ライだって、そういったことに、その、興味がないわけではない。けれど今はエメリといるだけで楽しいし、慌てなくても、そういうのはいずれ機会が来るだろうと思っていた。

「じゃ、おれ行ってくるね」
「うん」
「……覗かないでね?」
「覗かないわよ!」

 憤慨するエメリを笑って水辺へと向かう。胸くらいの高さの草をかき分けていくと、目の前にさざめく水面が現れた。対岸が小さく視界の向こうに見えている。
 砂地がむき出した緩やかな坂を下っていく。上下の服を脱ぎ散らかして、下穿きを脱ぐ前に、ライはちょっとだけ後ろを振り返った。エメリが覗かれると怒る気持ちもわかる。ライだって、ちんこ見られるのは恥ずかしいし。





 河原での水遊びを終えて、再びエメリに乗って集落へ戻る。太陽はそろそろ傾こうとしている。地表に狼の小さな群れが見える。遠く地平線の上に、エメリたちワイバーンの故郷、ビオア山脈が見えている。

「……ん?」

 空の一点にぽつりと黒い影が見えて、ライは目を細めた。鳥、ではない。それにしては随分と大きい。向こうの方でもライたちに気がついたのか、影はこちらに進行方向を変えてぐんぐんと近づいてくる。それがライのようにワイバーンに跨った人間だということはすぐにわかった。

「エメリ、マーグだ」

 ライの呼びかけに応えて、エメリが首をもたげる。近づいてきたのは、歳の離れたライの兄だった。とうに集落を出て今は竜騎士としてやっている。マーグのワイバーンがエメリの横に並ぶと、彼は口の横に手をかざして声を張り上げた。

「おーい、ライ! 久しぶりだな!」
「マーグ! そっちこそ!」
「ちょっとは弓も上達したかー?」
「それはー、見てのお楽しみだね!」

 マーグと会うのは一年ぶりだ。成人して集落を出たつがいは、年に一度、夏至が近くなると一族の元へ戻ってくる。そして、持ち帰った周辺の国々の情勢について話し合うのだ。平原にありながら他国との交流を抱えるヴア族としては、この夏の会合は世情を把握するための重要な機会だった。
 二頭のワイバーンが高度を下げ始める。地表に集落の天幕と、そして絨毯のような羊の群れが見える。降下しながら、ライは明日からの日々に思いを馳せる。
 ライたちが出かけている間に他の誰かが帰ってきている様子はなかったから、きっとマーグたちのつがいが一番乗りだ。これから明日にかけて、親戚たちとそのつがいのワイバーンが次々に帰ってくる。普段は空と草原と羊と、まあせいぜい河を眺めて暮らしているライだが、兄たちの語る外の世界の話はいつだって心踊る。この数日間はライにとって、一年で一番わくわくする時期になるはずだった。


    ◯


「おーう」
「よう、おはよう」
「いやはや、すげえ霧だな」
「珍しいよな、ここまで濃いのは」

 二人のヴア族の男が言葉を交わす。彼らの話す通り、周囲にはミルクのように濃い霧が漂っている。霧の向こうから羊たちの声が聞こえている。

「羊、大丈夫か。どこかへ迷い出ていったりしないだろうな」
「どこへ行ったって霧さえ晴れたら見つけられるだろ。……それよりほら、早く準備始めるぞ」
「人が増えてるもんなあ。この時期は飯の用意も大変だ」

 男たちは互いに笑い合った。昨日のうちにほとんどの竜乗りたちが帰還しており、集落の天幕はその数を増やしている。ワイバーンは人間と比べてそれほど多く食べるわけではないが、男たちは総じてよく食べる。寄合に出す肉の用意も大変なのだった。
 と、二人のうちの片方がふと話をやめ、明後日の方向に視線を向けた。

「……?」

 眉をひそめて見つめる先には、ただ靄が揺蕩っているだけだ。地面が白く霧に溶けて視点も定まらない。様子のおかしい男に、もう一人が訝しげに尋ねる。

「どうかしたか?」
「いや、今、そこに」

 相方への返事を中途半端に切って、彼は、霧の中に呼びかけた。

「おい、誰かいるのか?」





 昼夜の気温の差の大きい平原では、夏でも早朝のうちは肌寒い。おまけに今朝は辺り一面に霧が立ち込めていた。河霧が立つことはときどきあるけれど、ここまで広い範囲の霧をライはこれまでの人生で見たことがない。昨日のうちに戻ってきていてよかったとワイバーン乗りたちは言い合っていた。この霧がどこまで広がっているのかはわからないが、今朝は外からでは集落を見つけられないだろう。
 集会場代わりの族長の大天幕では、そういうわけで日が登ってしばらく経った今も暖炉が焚かれていた。集まった男たちの顔が羊糞を燃やした炎に照らされている。ライもまた、大人たちに交じって天幕の中にいた。普段なら夫と一緒にいたがるワイバーンたちは今はいない。男衆だけで天幕がいっぱいになるということもあるが、基本的に彼女らは人間の政治には興味がないのだ。
 そして、それはライも同じだった。外の世界の話を聞くのは好きだけれど、国同士の情勢なんて聞かされてもわからない。族長の子どもとはいってもライは跡を継ぐわけではないし、集落を出るのもまだ先の話だ。

「こっちじゃ竜騎士を排斥しようって勢力が強くなってるな。うちの国はまだ廃止はされないだろうけど……」
「主神教じゃワイバーンも“魔物”って話だからなあ。そういう動きは度々あったみたいだ」
「どうも、竜騎士を抱えてない国が教団に働きかけてるらしい」
「まあ持ってる方の国でも黙っちゃいないだろうから、そう簡単になくなったりはしないだろうがな」

 くあ、とライは欠伸した。途端に、横からごつんと拳骨が落とされる。

「ちゃんと聞いとれ」
「だってー……」

 ブロムに向かって口を尖らせる。夜明け前から羊の世話をしていた身体が、暖かい天幕の中で眠気を訴えているのだ。ライがぼやきながら目を擦っている間にも、大人たちの話は進んでいる。それまでは聞き手に回っていた族長のギャロウが腕を組んで言う。

「色々とやりにくくなるかもしれんな。こっちでも、アガ族がガータの民と契約したって話もあるし」
「ガータっていうとあの、森の、なんか妙な呪(まじな)いを使うっていう……」
「まあ俺たちヴアがワイバーンと交わって強くなったのと同じことだろうな。力をつけて平原に勢力を伸ばそうってことだろう。よその氏族のやり方に口を出すわけにもいかない」
「ヴア族が目の上の瘤って連中も多いだろうからなあ」
「……っと」

 目の前の甕に手を伸ばしたギャロウが、ふと眉を上げて中身を覗き込んだ。

「酒が切れたな。悪いが誰か、外の奴に伝えてきてくれ」
「あ、じゃあおれが行くよ」
「おい、こら」

 ライはぱっと顔を上げた。引き留めようとしたブロムの手をさっと躱し、男たちの隙間を抜けて天幕の入り口に向かって駆けていく。そのまま外へと消えた彼を見送って、ブロムが渋い顔で言った。

「まったく……。もう戻ってこんぞ、あれは」
「まあいいさ。まだ餓鬼でいたって悪いことはない」
「お前さんがそうやって甘いのも良くないと思うがな」

 じろりと睨むブロムに、ギャロウが苦笑する。彼に限らず、天幕の中には全体的に同じような空気が漂っていた。ブロムは溜め息をついた。皆、彼らの末っ子に甘いのだった。





 天幕から出たライは、すぐに彼を待っていたらしい姿を見つけて立ち止まった。

「あれ、エメリ。どうしたの」
「別に。暇だったから」

 そう言って、彼女は膝を抱えていた手を解いて立ち上がる。ちょっとお尻を気にしているのは、草が濡れていたせいで湿ってしまったのだろう。ライこそどうしたの、まだ会合終わってないでしょ、そう尋ねるエメリに、ライは酒がなくなった経緯を説明した。

「そんなこと言って、逃げてきたんでしょ」
「バレた?」

 ばっさりとまとめたエメリに悪びれもせず笑って返す。彼女は、だからといって咎めることもなく、お見通しよとばかりに鼻から息を吐き出しただけだった。
 二人で連れ立ってその場を離れる。辺りは相変わらず白い霧に覆われていて、隣の天幕すらぼんやりとしか見えない。ライはとりあえず、料理を用意する者たちのいる天幕を目指した。屠殺は朝のうちに終わって今はもう羊の悲鳴が聞こえてくることもないが、いつもと同じ集落の中、いくら霧が深いといっても流石に迷うことはない。

「初めてだよね、こんなに霧が出るなんて」
「うん……。
 ……ねえ、ライ。なんかこの霧」

 話しかけたライに曖昧な返事をよこしたエメリは、僅かな思案の後で躊躇いながら切り出した。隣を見ると、彼女は少し顎を上げ、すんすんと空気の匂いを嗅いでいる。ライも真似して鼻を動かしてみた。……なんてことない、濡れた草と羊の、いつもの集落の匂いがするだけだ。

「霧がどうかした?」
「……うまく、言えないわ」
「ふーん?」

 ワイバーンは人よりも五感が優れている。エメリがなにかを感じとっていても、ライにはそれがわからないということは充分にある。ともかく、そのエメリ当人がわからないのならライにわかるはずもない。
 行く手にうっすらと目的の天幕の影が見えてくる。と、その内側に霧の中から人影が現れた。ライたちは揃って立ち止まった。相手はなにかを腕に抱えてこちらへ向かってきているらしい。すぐに、それが酒の甕だということがわかった。
 近づいてくる料理係の男に、ライは手を振った。

「あ、ちょうどいいところに! ギャロウがお酒なくなったってさ!」
「おう、届けとくよ」

 向こうは向こうで霧の中から現れたライたちに驚いたようだったが、彼の言葉を聞いてすぐにまた歩き出した。二人の側を足早に通り過ぎていく。その横顔を見送って、ライはエメリに笑いかけた。

「こんなに霧が深いと誰だかわかんないね」
「そうね。……それで、この後どうするの? 弓の訓練はできないし、あたし、霧の中を飛ぶのは嫌よ」
「うん、ジェダたちの話を聞きにいこうかなって」

 ジェダはマーグのつがいだ。この時間、ワイバーンたちはどこかの天幕で集まって、会合が終わるのを待っているはずだ。エメリは一瞬だけ微妙な反応をした後で、「こっち」と言い置いて歩き始めた。その小さな背中について歩く。乱暴にひとつに纏めた髪がうなじのところで揺れている。
 仲間たちのいる天幕に着いて、エメリが壁に括りつけられた扉を開ける。

「ただいま」
「お邪魔しまーす」

 エメリの後ろから覗き込むと、中では頭を寄せて話し合っていたらしいワイバーンたちがこちらを振り向いたところだった。ワイバーンとして成熟した彼女たちは、人の姿をしているときでもエメリよりずっと背が高い(あと、胸も大きい)。戸口に彼の顔を見つけた彼女たちが一斉に寄ってくると、その勢いもあってライはちょっと気圧された。

「あらぁ、ライじゃん」
「久しぶり、ぺリッド。スフィア、ベリルも」
「ちょっと背が伸びたんじゃない?」
「元気してた? エメリったらあんたのこと訊いてもはっきりしないんだもの」
「おまけにすぐに逃げ出しちゃうしね」
「スフィアたちが訊いたのはライの話じゃないでしょ」

 勝手なことを口にする仲間たちに、エメリがそう言って会話に割って入った。随分と憤慨した様子だ。睨みつけるエメリを気にも留めず、彼女たちはきゃらきゃらと笑い合う。

「なに言ってるの、ライとどこまで進んだって話じゃない」
「初めてのときのこととか」
「気持ちいいやり方とか」
「ねーえ?」

 顔を赤くするエメリを見て、ライは心の中で苦笑いした。さっきのエメリの微妙な反応のわけはそれか。道理であんなところに一人でいたわけだ。そういうことに慣れた彼女たちが、いつまでも初心な末娘をからかって楽しむのはいつものことだった。助け舟を出すつもりで、ライは口を挟んだ。

「でも、今はそんな話してたわけじゃないよね?」

 彼がそう言うと、ワイバーンたちは顔を見合わせた。ライが入ってきたときの彼女たちはそんな楽しげな話をしていたようには見えなかったのだ。彼女たちはしばらく互いに出方を窺っていたが、やがてジェダが躊躇いながら切り出した。

「皆で話してたの、この霧が変だって。……この霧、魔法の匂いがする」
「魔法の? 霧が変って、確かエメリもそんなこと言ってたよね」
「誰かが無理に作り出したのかも。けど、こんな大掛かりなこと、よほどの魔物でもない限り一人でできるとは思えないけど……」
「……それ、ギャロウに言った方がいいかな」

 ライは、さっき会合で大人たちが話していたことを思い出していた。アガ族が力を借りたという、呪いを使うという森の民のこと。急に無性に胸が騒いで、ライは後ずさって扉に手をかけた。

「おれ、知らせてくる」

 そう言うや、彼は天幕を飛び出した。霧の中を族長の天幕に向かってひた走る。数歩先の地面も白くぼやけて平衡感覚がおかしくなりそうだ。他の天幕より一回り大きい族長の天幕にやっとのことで辿りついて、ライは肩で息をしながら扉を開けた。暖炉の熱気が身体を押し包む。もう火は落としてもいい時間なのに。
 そうして、目に飛び込んできた光景に、ライは立ち竦んだ。

「……ギャロウ! ブロム、みんな!」

 天幕の中は苦痛の声に満ちていた。離れる前は元気に話し合っていたはずの親戚たちが皆、絨毯の上に転がって悶えている。口元にどす黒い泡がこびりついているのは血か。喉を掻き毟り、白眼を剥いている者もいる。
 そして──そんな中に、一人の男が立っていた。明らかに平原の騎馬民とは異なる装いに身を包み、足元のヴア族の男たちを見回している。男はライに鋭い視線を向けると、まだ混乱から抜け出せない彼に短く言い放った。

「もう助からない」

 ライは目を見開いた。この声。姿は変わっているが、さっき酒の甕を運んでいた男だ。毒、という言葉が、ライの脳裏に閃く。彼が腰からダガーを引き抜くと、相手は絨毯に転がるヴア族の衣服を踏みつけて逃げ出した。とはいっても天幕の中、大した距離があるわけでもない。ライに壁まで追い詰められた男は、フェルト地の壁を取り出したナイフで切り裂いた。天幕を支える骨組みをすり抜け、布の裂け目から外へと逃げていく。

「待て!」

 ライは躊躇わず後を追った。外に出た男は、予想に反してそれ以上逃げることはせず、立ち止まって懐からなにかを取り出していた。長い紐のついた小さな玉だ。男はライを見据えたまま、紐の端を握ってその玉をぐるぐると回し──そして、頭上へと投げ上げた。
 思わず目で追ったライの視線の先、小さな玉が霧の中へと消えていく。次の瞬間、上空に眩いばかりの白い閃光が炸裂した。

「っ……!?」

 まるでそれが合図だったかのように、霧が晴れていく。見上げる先に夏の青空が覗く。





「ライ!」

 緊迫したジェダの声がライを呼んだ。ライははっと我に返り、目の前にいたはずの男の方へ視線を戻した。ライが上空の花火に気を取られた一瞬の間に、男は薄れていく霧に溶けるように姿を消していた。
 ワイバーンたちが駆けてくる。ジェダだけではない、あの場にいた全員が慌てた様子でこちらへ向かってきているようだった。

「ライ、大変だ──」
「ジェダ! マーグが、みんなが毒を盛られた!」
「……なんだって!?」

 ワイバーンたちは揃って血相を変えた。彼女たちの夫は皆この天幕にいるのだ。呼びにきたはずのライを置いて彼女たちは天幕に飛び込んでいく。間を置かず、天幕の中から悲痛な叫び声が聞こえてきた。
 ライは歯を食い縛った。もう助からないとあの男は言っていたけれど、なにか手があるはずだ。なんとか……、そう考えようとしたライの腕を、ただ一人この場に残っていたエメリが強く掴んだ。

「ライ、集落が攻められてる」
「……え?」
「他の氏族に攻められてる。アガ族だって、みんなは言ってた」

 彼女たちは元々これを伝えにきていたのだ。気づけば天幕の向こう、集落の端の方から、怒号や悲鳴が上がっている。エメリの言っている内容が遅れてじわじわと頭の中に入ってきた。アガ族が攻めてきた──おそらくは、呪いで平原を覆わせた霧に紛れて。
 目障りなヴアを除くために。
 そして今、ヴア族の中心にいる男たちは皆毒に倒れていた。集落は戦士の大半を失っている。

「……戦わないと」

 気づけば、ライはそう口にしていた。単純な戦力という意味でも、また指揮という意味でも彼らなしには戦いにならない。おまけにライに本当の戦いの経験なんてない。けれど、今この集落に残された最後のワイバーン乗りがライなのだった。戦わないと、そう繰り返すライを、横合いからエメリが強く制する。

「無理よ、あたしたちだけじゃ。相手は馬乗りに加えて魔法使いもいるのに」
「じゃあどうするんだよ。ただ待ってるわけにはいかないだろ?」
「でも」
「おれ、弓取ってくる」

 ライは天幕に取って返した。中の様子を思い出して怯みそうになったけれど、弓はこの中だ。まだなにかを言いたげにしていたエメリも、納得していないながら口を閉じてついてきた。
 天幕の中は相変わらず酷い有様だった。今はもうほとんど呻き声は途絶えていたが、未だ篭もった熱気の中に、血と混じった吐瀉物の饐えた臭いが満ちている。入り口で立ち竦んだエメリを見てライはちょっとだけ後悔した。けれどどのみち、彼女にこの様子を見せないようにするにはもう手遅れだ。外で待っているよう言う時間も惜しく、ライは倒れた男たちを避けながら天幕の奥へと走った。
 弦の張っていない弓と矢筒を持って引き返す。エメリの手を引いて天幕を出ようとしたところで、後ろから鋭い声で呼び止められた。

「ライ。エメリ」

 跪いて夫を抱いたベリルが、絨毯の上からこちらを見上げていた。ライは思わず目を逸らした。彼女たちの悲痛な嘆きを直視する勇気がライにはなかったのだ。
 けれど、目尻に涙を湛えていても、彼女がライを見つめる視線は揺らいではいなかった。ワイバーンたちの中でも最年長のベリルは年少のライたちに対してしなければならないことをわかっていた。果たして彼女が口にしたのは、ライにとっては信じられないことだった。

「逃げなさい。あなたたちだけでも」
「なんで! 集落のみんなを置いて逃げられるわけない」
「あなた一人いたところでどうすることもできないわ。ライ、聞きなさい! 馬や羊は殺されない。女も、もしかしたら男だってアガ族に併合されるだけで済むかもしれない。けれど、あなたは……」

 間違いなく殺される。ヴアの力そのものであるワイバーン乗りで、しかも族長の息子であるライを、彼らが許すはずがない。……だが、それを言うならば彼女たちだって同じはずだ。今や天幕のあちらこちらで会話に耳を傾けているワイバーンたちに向かって、ライは両手を広げて叫んだ。

「なら、みんなも一緒に逃げようよ」
「できないわ」
「なんで──」
「──この人を置いていけない」

 そう言って、彼女は腕の中の夫に目を落とした。今はさっきまでのように苦しんでいる様子がないのは、呼吸が落ち着いたのか、そうではないだろう。彼女の夫を抱く腕に力がこもる。そして、ベリルはライの隣のエメリに視線を移した。

「エメリ、ライを頼んだわよ」

 ベリルの言葉にぐっと詰まって、それでもエメリは頷いた。ライがなおも食い下がろうと口を開いたそのとき、エメリは、彼の腕を引っ張って身を翻した。
 ライの力ではワイバーンであるエメリには敵わない。なす術もなく、天幕の外へと引きずられていく。空の下に出ても彼女は足を緩めず、戦いの音から少しでも遠ざかるように走り続けていた。足下の草につんのめりながら、ライは前を行くエメリに怒鳴る。

「離してよ、エメリ! 離せよ!」

 もがくライの言葉にエメリは耳を貸さない。集落の端まで来た頃、彼女は強くライの手を引いて、その身体の下に潜り込んで彼を背負い上げた。彼が驚きの声を上げる間もなく竜の姿に変身する。
 ワイバーンのエメリのしなやかな脚が地面を強く蹴って、ライの身体は宙に舞い上がった。視界の端に遠くなっていく地上が映る。集落の天幕。羊の群れ。ライの故郷。
 そこへ騎馬の集団が襲いかかる様は、まるで、狼が獲物の体を食い破っているように見えた。
24/09/23 21:10更新 /
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■作者メッセージ
ヴア族は末子相続だけどワイバーン乗りのライには相続権がない、とか、いろいろ設定はあるけど多分もう出す機会はない。
今回で起・承・転あたりまでやったので、後編はサクッと終わると思います。

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