連載小説
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儀式
 丈の高い下草が、彼が一歩踏み出すたびに足の下で折れる。細かな枝が進行方向を邪魔してくる。押しのけるには太く、体重を支えるには心許ない木々に苦労しながら、空也は急な斜面を進んでいく。
 「しろいし」を飛び出した空也は、まひと様の社を目指して山の中を駆けていた。いつもの山道だったらもっと辿りやすいのだが、あの山道の入り口には今は祭を見守りにきた村の住人たちが集まっているだろうから駄目だ。儀式の最中に社に忍び込もうとすれば見咎められるだろう。仕方なく、彼は別のルートを選んでいた。この道が社に通じていることはわかっているが、普段人が通らない道がこんなに歩きにくいとは思わなかった。おまけに出がけに引っ掴んできたもので片手が塞がっているせいで余計に進みにくい。
 霧絵から聞いた儀式のスケジュールから考えて、七海は祝詞を受けた後、とっくに山に入っているはずだ。もう社に着いていてもおかしくない。早くしないと……。空也は心を急がせていた。
 木々に遮られていた視界が、急に晴れる。

「……七海」

 社の前に、よく知った後ろ姿が立っていた。
 呟いた空也の声に、七海はゆっくりと振り返った。見慣れた制服でも私服姿でもない、白い行衣を纏っている。黒髪がよく映えている……。空也は場違いな感想を抱いた。完全に顔を空也の方に向けた彼女の目は、彼を見ているようで、しかしどこも見てはいなかった。
 その右手に、一振りの剣。

(あれが……)

 背後の社の扉が開いていることに、空也は気づいた。すると、あれが“まひと様”の本体だ。長さは70センチほどだろうか。日本の古い剣ということで古墳時代のようなものを想像していたが、西洋の幅広剣のようにも見える。社に納められていたときの錆に覆われた様子とは違って(そのときの姿を彼は知らないが)、今の剣は濡れたように、生きているように赤く輝いていた。
 遅かったか……?
 夢見るような眼差しで、七海は空也の方へ踏み出した。空也は戸惑った。すぐにでも彼女に駆け寄りたいが、今の七海はとても普段通りとは思えない。……彼が迷っている間にも、彼女は何かに導かれるような足取りでこちらへと歩いてくる。二メートルくらいにまで近づいたところで、彼女は握った剣を空也に向かって突き出した。

「っ……!」

 反射的に、空也は右手に握っていたビニール傘で剣を弾いた。
 彼女は──あるいは、彼女を操っている何かは、驚いたようだった。あの逸話集の話で、空也は剣を持った妻が人に切りつけたというエピソードを読んでいた。丸腰で“まひと様”と対峙することに不安を覚えた彼は、家を出るときに咄嗟に目についた傘を掴んできたのだった。
 とりあえず、無駄にはならなかった。今の一撃を防ぐのには役に立ったわけだから。だが次は無理だろう。一度相手と触れ合っただけで、空也はプラスチックとアルミの傘で金属の剣と相対するのがどれだけ無謀なことか思い知った。重さが違いすぎる。
 七海が剣を振り被る。空也は慌てて傘の留め具を外した。正面に向けて手元のボタンを押す。
 音を立てて傘が開く。振り下ろされた剣がビニールを切り裂いて、そして中央の骨組みに当たって止まった。目の前の数センチのところに赤い切先がある。すかさず、彼は握っている持ち手を思いきり捻りながら傘の縁を蹴っ飛ばした。傘と剣は絡まり合って、共に持ち主の手を離れて地面に転がった。

「つっ……」

 派手な音を立てた剣を目で追いながら、空也は傘を握っていた右腕を押さえた。いま傘を捻ったとき、大きく動いた剣の切先が腕を掠めていたのだ。今のところ、傷は赤い筋になっているだけで、少なくとも血が出ている様子はない。痛みも大したことはなかった。……後でアドレナリンが切れたときにどうなるかはわからないが。
 剣は弾き飛ばされたときの場所のままで転がっていた。心なしか、七海の手にあったときよりも色がくすんで見える。何事も起こる様子がない……。そのことを確認して、空也はほっと息をついた。
 瞬間、強い衝撃が胸にぶつかった。

「うわっ」

 空也は尻餅をついて、そのまま背中を地面に打ちつけた。石畳だったら頭を強打していたかもしれない。起きあがろうとして、彼は遅まきながら七海が自分の上に四つん這いになっていることに気づいた。
 両腕の間に空也を閉じ込めて、七海は至近距離から彼を見下ろしていた。長い髪が彼の頬に触れる。さっきのやり取りで行衣が乱れて、衿元に細い首から鎖骨にかけてのラインが剥き出しになっていた。少し視線を下ろせば胸元、が……覗けそう、だ。一瞬、そちらに視線が吸われそうになって、空也は心の中で自分に突っ込んだ。そんな場合じゃないだろう。
 代わりに、彼は七海の目をまっすぐに見返した。彼女の瞳はとろりと潤んで、まるで高熱に浮かされたときのようだ。頬や首筋も紅潮している。剣を振り回したことで興奮した、というよりは、その興奮に突き動かされてこの一連の行動に及んだように見えた。僅かに開いた口から、浅い吐息が漏れていた。
 じく、と切られた腕の傷が痛んだ。痛みは熱となって、血液の流れに乗って全身に巡るようだった。彼女に連られたように、自分の心臓の鼓動までが早くなっていることを、彼は自覚した。
 彼女の長い睫毛がすぐそこにある。切れ長の目が、鼻が、唇が──
 自身の衝動に蓋をする。空也は両手を持ち上げると、それで彼女の頬を包み込むように挟んだ。

「ななな」

 彼女の瞳の中に、ちらちらと桑名七海の意識が覗くのを空也は見た。内側にいる彼女に声を届けるように、彼は静かに語りかけた。

「戻ってこい」

 カメラのピントが合うように、ゆっくりと彼女の視線が戻ってきた。空也は瞬きもせずにその様子を見守っていた。十秒が経ち、二十秒が経って、やがて彼女は口を開いて言った。

「……ナナナって言うな」

 はは、と笑って、それから空也は大きく息を吐き出した。
 頬に当てていた両手を彼女の背中に回す。七海は「ちょっと」と文句を言ったが、すぐに大人しく四肢から力を抜いて、彼に体重を預けた。身体の上に彼女の体温を感じた。





 どれだけそうしていたか、そのうちに七海がもぞもぞと身じろぎした。空也は腕を上げた。二人揃って地面の上に身体を起こす。
 七海の行衣の裾が解けて、彼女の太腿の内側が際どいところまで覗いていた。空也はすぐに目を逸らしたが、その動きに目敏く気づいた七海は顔を赤らめてさっと隠した。そんな風に睨まれる筋合いはない。
 彼女が裾を直している間に、空也は顔を背けたまま立ち上がった。

「早く戻らないと、皆に変に思われるかな」
「そうよね。そんなに時間は経ってないと思うけど……」
「七海もここに着いたとこだったもんな。タッチの差だったか」
「これ……どうすれば」

 会話に答えていた七海が、唐突に困ったような声を出した。振り返った彼の後ろで、彼女は転がった剣を遠巻きに見下ろしていた。“まひと様”の御神体。確かにそのままにしておくわけにはいかないだろう。彼は首を捻った。

「そうだな。まあ、祠に戻すんじゃないか? 鍵はどうしようもないけど……」

 というか、どうやって開いたんだ。
 空也の言葉を聞いて、七海が恐るおそる手を近づける。それを見て、空也は慌てて制止した。

「俺がやるよ」

 七海はこちらに顔を上げて、それから頷いて剣から離れた。空也は剣に歩み寄ると、思い切って柄を拾い上げた。
 それなりに長さのある金属の剣だ。重みがずしりと手にかかった。冷たくはない。表面は滑らかだが、ぴりぴりと弾かれるような感触を覚えるのは気のせいか。鑑定されてたりして──この人間は何者だ、とか。空也は他人事のように想像した。
 いずれにせよ、こんなモノに測られるのはまっぴらだ。いつの間にか、剣に意思があるかのような非現実的な考え方をしている自分に気づいて、空也は内心で苦笑した。彼は剣を持ったまま社の前に立ち、それを台座に戻すと、バタンと扉を閉じた。
 背後で七海がほっと息を吐いたのがわかった。

「じゃ、帰るか」
「うん。……空也はどうするの?」
「俺はこっそり家に戻るよ。みんな俺が来てること知らないだろ」
「そうね。じゃあ、学校で」
「学校で。足元気をつけろよ」
「空也」

 手を挙げてその場を去ろうとした彼を、七海が呼び止めた。振り返った先、彼女はなにか言いたげな瞳をこちらに向けていた。言葉を探すように視線を彷徨わせる。最終的に彼女が口にしたのは、短い一言だった。

「……ありがと」

 空也は眉を下げて笑った。


    ◯


 祭は無事に終わった。そもそも何をもって成功とするのか住人の誰にもわからなかったが、少なくとも霧絵は自信たっぷりにそう宣言した。山から降りてきた七海を見た彼女は、なにやら納得したように頷いて、それから住人たちに向かって「巫はまひと様とひとつとなりました」と語ったのだった。「まひと様は、再びこの村に恵みを与えるでしょう」
 数ヶ月が経ち、今年の野菜が育つ頃になったが、今年は去年までのようなおかしな成長は起こらなかった。ただの偶然なのか、それとも本当に超常の存在の影響があったのか──実際のところ、それはわからない。だが、住人たちの多くはこの変化を“まひと様”と結びつけて考えているようだ。どれだけ本気でそう思っているかは人によって差があるだろうが、少なくとも祭を行ったことで状況が改善したことは事実である。
 辟易しているようなのは七海だった。あれ以来、まひと様の巫としてことあるごとに彼らの口に上るのだ。それは感謝であったり、信頼であったり、あるいは冗談であったりと様々だが、どれにしても、祭さえ終われば役目は終了すると思っていた彼女にとっては災難以外の何物でもないらしい。
 それを別にしても、近頃の彼女は様子がおかしかった。

「お」

 廊下に七海の姿が見えて、下駄箱の前で待っていた空也は顔を上げた。
 彼女は隣のクラスの友だちと連れ立って歩いていた。だからだろう、空也に気づいてもちらりと視線をよこしただけで、特に何もリアクションはしてこなかった。下駄箱のところまでやって来た七海が手を振って友だちと別れたのを見て、空也は彼女に歩み寄った。

「七海」
「……なに?」

 靴を履き替える手を止めずに、彼女は応じた。

「いや、別に。元気かなと思ってさ」
「嘘。別にってことないでしょ」
「一緒に帰れないかなって」
「……私、部活なんだけど」
「休めない?」

 七海は驚いたように振り向いた。なにを言っているんだこいつは、とでも言いたげだ。考えてみれば、空也がこんな強引な言い方をするのはこれまでそうあることではなかった。まあ、あまりにも一方的な言いようではある。
 だが、空也は譲るつもりはなかった。
 唖然としていた七海だったが、やがてため息をついて、わざとらしく顔をしかめた。どうやら気を取り直してくれたらしい。「先輩に訊いてくる」と言い置いて、彼女は部室棟に向かった。
 空也は校門のところで待っていることにしたが、いくらも待たないうちに、七海は拍子抜けしたような顔で戻ってきた。

「早退するって言ったら、なんかあっさり許可をもらえたわ」
「まあ、今の七海は見るからに調子悪そうだしな」
「……」

 そうなのだ。今日に限らず、ここのところ彼女はずっと顔色がよくなかった。口ごもったところを見ると七海自身でも気づいているのだろう。クラスメイトにも指摘されたりしているかもしれない。
 校門を出て、駅前にあるバス停までの道のりを二人で歩く。周りには空也のように部活に入っていない生徒たちの姿があった。彼らはそれぞれに何人かで固まって、会話に花を咲かせながら歩いている。

「暑くなってきたな」
「先週まではそうでもなかったのにね」
「そろそろ体育とかが地獄になってくる時期だな」
「今日だって大概だったわよ」
「ああ、だから疲れてるのか」

 話しているうちにわバス停に着いた。駅の前にあるロータリーには、いくつかの路線に分かれて乗車待ちの人の列ができている。そのうちの一番短い列に彼らは並んだ。空也たちが乗る加古津に向かうバスは、いつだって利用者はそう多くない。
 それほど待つこともなくバスがやってくる。意外でもないことだが、今日も座席には座れそうだ。二人掛けのシートに空也が先に座り、続いて乗り込んできた七海を見上げると、彼女はちょっと迷った様子を見せてから、肩を竦めて隣の席に座った。どうやら隣に座るか後ろの席に座るか迷っていたらしい。
 ドアが閉まり、バスが動き出す。
 シートにもたれて、七海は深く息を吐いた。ぱちぱちと瞬きをしている彼女に、空也は横から話しかけた。

「着いたら起こすよ」
「寝ないわよ」
「寝てていいのに」
「嫌だって言ってるじゃない」

 七海は頑なに首を振った。だが、明らかに眠そうだ。そもそも、顔色が悪いと言ったこともそうだが、目の下にははっきりと隈ができている。同じ部活のメンバーに心配されるのも無理はない。

「夜もちゃんと寝られてないのか?」

 彼女の返事までには、少し時間があった。バスが停留所に停まり、何人かの乗客が降りていく。バスが再び発車するのを待って、彼女はぽつりと口を開いた。

「寝ると、いつも同じ夢を見るの」
「夢かぁ。どんなのか、聞いてもいい?」
「……自分の内側から、声が、語りかけてくるような……」
「“まひと様”か?」

 七海は答えなかった。だが、答えなかったということは、つまりはそういうことなのだろう。少なくとも七海はそう思っている。
 あの儀式ですべて終わったとは、空也は思っていなかった。理由のひとつは霧絵が最後に残した言葉だ。村を去り際、彼女は空也に向かってこっそりと言ったのだった──「頑張って」、と。結局、彼女は七海の身になにが起こったのか教えてくれたわけではなかったが、彼女がそう言うということは空也にはまだすべきことがあるのだ。

「語りかけてくるって言っても、言葉がわかるわけじゃないの。こうしろって言ってるのが、なんとなくわかるっていうか」
「それで、相手はどんなこと言ってるんだ? ……自分を使って人を切りまくれとか?」
「そんなこと言わないわよ」
「あれ、そうなのか。じゃあ……?」
「空也と……」
「え、俺?」

 思わず空也は口を挟んだ。そこで自分の名前が出てくるとは思わなかった。彼はすぐに黙って続きを待ったが、七海はそれきり口を噤んでしまった。静かになった車内に、ゴトゴトとタイヤの揺れる音だけが響いた。

「次は、加古津公民館前──」

 アナウンスが告げる。七海が窓の外の景色に目をやって、それからさっと降車ボタンを押した。高いベルの音と共に「つぎ、停まります」のランプが光る。
 バスが停車した。七海が鞄を抱えて立ち上がる。続けて空也が立つと、彼女はそれを見て眉をひそめた。何か言おうとして、だがここで言うものでもないと思ったのだろう。諦めたように通路を前方へと移動し始めた。空也も後に続いて、顔馴染みの運転手に声をかけてバスを降りる。
 発車したバスが遠くなっていくのを二人で見送った後で、七海はぐるっと振り返った。

「で、なんで空也まで降りるのよ」
「送ってこうかなって」
「普段そんなことしないくせに。変な噂されるわよ」
「あ、そうか。……七海が帰れって言うなら、帰るよ」

 今この場所に限っては周囲に人の気配はないが、集落の中に入っていけば外に出ている住人もいるだろう。最近はそれほど一緒にいるわけでもない彼らが連れ立って歩いているところなんて見られたら、どんな噂を立てられるかわからない。このド田舎では噂が広まるのは早い。

「……まあ、いいけど」

 そう言って、彼女は顔を背けた。歩き始めた七海の歩幅に合わせて、普段より少し早足で歩く。
 バスの通っていた県道からは車一台分ほどの道が分かれ、公民館の横を抜けて集落へと入ってゆく。行手に山を見上げる緩やかな坂道を登り、三叉路を二つ曲がると見えてくるのが七海の家だ。空也も小さな頃に何度か来たことがあった。家の前までたどり着き、鞄の中をごそごそ探っている七海を見ながら、空也は後ろから声をかけた。

「じゃあ、ちゃんと休めよ」
「待って」
「え?」
「上がっていって」

 七海が玄関の鍵を開けて振り返る。空也が瞬きして見つめ返すと、彼女はふいと顔を背けた。
 彼女の後に続いて家の中に入る。玄関の中を見回して、空也は強い懐かしさに襲われた。この家に来るのは、たぶん……小学生のころ以来か。上がりがまちに座って靴を脱ぐ、幼い自分と七海が見えるようだ。
 家の中には自分たちの他には誰もいない。居間に案内されて、彼はとりあえず鞄を置いて卓袱台の側に座ろうとした。七海はソファの前に立ってこちらを見ていた。

「さっきの話──」

 不意に彼女が口を開いて、空也は床に腰を下ろそうとした動きを中断した。中途半端な距離で空也たちは向かい合う。話を交わすには少し遠く、突っ立ったままいるには不自然な距離だ。彼を見つめたまま、七海は淡々と言葉を口にした。

「空也と目合(まぐわ)えって」
「……え?」
「セックスしろって。逃すなって、そう声が言ってる」
「セッ、」

 なにか言おうとして、彼はなにも思いつけなかった。
 七海の口からそんな言葉を聞くとは思わなかった。幼い頃からずっと接しているが、彼女と話すことといえば互いの親のこと、友だちのこと、学校のこと……。こんな際どい会話を彼女とすることになるなど考えたこともない。
 空也はこれまでのことを思い返した。彼女の身に起きたことを。巫としてまひと様に選ばれたとき、七海はどうなったと言っていた? ──そして記憶に上るのは、社で彼女に斬りつけられたときのこと。傷は血を流しはしなかったが、その熱は全身を巡り、彼の興奮を駆り立てるようだった……。これまで考えなかったが、もしかすると“まひと様”とはそういう性質を持つ存在なのではないか。空也は、確信を持って訊いた。

「まだ、いるんだな?」
「──わかってないよ、空也」

 だが、彼女はあっさりと否定した。その表情は理解の及んでいない空也を憐れむようで、彼女自身の言葉とは裏腹に、普段の七海ならしないだろう顔だった。

「私の中にまひと様がいるんじゃない。私がまひと様なの」

 七海は空也に向かって一歩近づいた。
 空也は思わず後ずさった。何年も一緒にいて、彼らの間には自然と馴染む距離感というものができていた。親、友だち、そういった親しい相手との間にできるのと同じものだ。今、彼女はその距離よりも近い場所に踏み込んでいた。
 この間、社で彼女を抱き留めたが、あのときは緊急事態で興奮していた(それでも後から思い返して転げ回りたくなったものだけれど)。今はそれとは状況が違う。ついさっきまで彼は普段通りの会話をしていたつもりで、いつもの距離を越えて近づくには心の準備ができていなかった。彼女の存在が、容姿が、急にこれまでとは違って感じられた。
 『セックスしろって』、彼女の言葉が耳の奥をさわさわとくすぐる。事ここに至って、彼はようやく自分がどれだけ的外れな考えを抱いていたのか気づいた。彼は、この件に巻き込まれているのはあくまでも七海で、空也はそんな彼女を助けようとしているだけの立場だと思っていたのだ。とんでもない。彼だって当事者だったのに。腕の傷跡がまた熱を持つ気がした。

 ──まずい。これはまずい。

 何がまずいといって、この家には今は自分たちしかいないのだ。七海の両親はどちらも街に働きに出ていて、少なくとも数時間やそこらでは帰ってこないだろう。自分が──七海が、ではなく──このまま流されてしまったとき、それを止めてくれる人間はここにはいない。
 七海がさらに一歩近づく。もう手を伸ばさなくても相手の顔に触れられる距離だ。空也がなにか言おうと口を開きかけたそのとき、七海は無造作に腕を突き出した。

「え?」

 彼は目を見開いてそう言った。いや、実際に言ったかどうかは定かではない。見下ろした視線の先、空也自身の胴の真ん中あたりに、あの赤い剣が突き立っていた。
 咄嗟に身動きが取れないでいる空也に対して、七海は歩み寄ると軽々と剣を引き抜いた。血が吹き出すことはない──あれだけ深く刺さっていたのに。七海は再び、無言で剣を空也の腹に差し入れた。

「あっ……?」

 膝から力が抜ける。空也は床に崩れ落ちた。背中を丸めてうずくまる姿勢の彼を、七海が屈んで覗き込む。剣は、彼女が引き抜いた瞬間にどこかへ消えていた。
 「私がまひと様なの」、その言葉の意味を理解していなかった。今の七海はまひと様なのだ。自分そのものであるあの剣をどうこうすることなど、自分の身体を動かすように造作ないことなのだろう。
 と、空也の頭の冷静な部分は分析している。しかしその“冷静な部分”は、一瞬ごとにガリガリと削られていっていた。刺された場所が熱い。息が浅くなる。腕を少し切られたときとは比べ物にならないほどの熱が全身を巡って、脳を浮かせて、そして下腹部に集まっていた。

「どんな気分?」

 七海の唇が動いて、そんな言葉を吐き出した。
 その唇に視線が吸い寄せられる。頬に、首筋に、揺れる髪に。これまで馴染んでいたはずのその要素一つひとつに、ひどく心を乱された。この女性を手に入れたい。すべてを自分のものにしたい。そう空也の肉体が暴れている。内から内から湧き出した欲望に支配されそうな空也を見透かすように、七海の眼差しが見つめていた。

「私が剣に触れたのはほんのちょっとの時間だけだったから、すぐに完全にはひとつになれなかった。空也はせっかく貴重なチャンスを手に入れてたのに」

 彼女の指が空也の手首に触れて、空也はびくっと膚を震わせた。導く七海に縋りつくように腕を伸ばす。空也を立ち上がらせながら、七海は反対にソファに腰を下ろした。いつの間にか、ソファに座る彼女に覆い被さるような形になっている。
 はっ、はっ、と、空也の口から動物のような息が漏れていた。学生服のズボンの中で欲望がはち切れそうだ。震える手が七海の両肩を掴む。

「空也の正解は、その間に私から離れることだったのよ」
「そんなこと」

 絞り出した声は熱に上擦っていた。

「……そんなこと、わかっててもしなかった。俺から七海と離れるなんて」
「なら──」

 空也の手でソファに押し倒されながら、彼女は口元に微笑みを浮かべた。彼女か、それとも“まひと様”か。

「──なら、初めからこうなる以外の結末はあり得なかったってことね」





 幼馴染が居間のソファに横たわってこちらを見上げている。夏服のブラウスの前をはだけて、空也の手によって押し上げられた淡い色のブラからは胸がはみ出させて。膝を組み敷かれたせいでスカートが捲れ返って中身が丸見えだ。「あられもない」という言葉がこれほどぴったりと合う光景を、空也は見たことがなかった。しかも、七海が。あの七海が。あまりの現実味のなさに頭がグラグラした。
 彼女の下着は最初に見たときからびしょ濡れで、大股開きになった腿すら濡れて光っていた。空也は唾を呑み込んで、下着の縁に指を滑らせる。七海の腰全体がびくんと跳ねた。

「脱がせていい?」
「……聞かないでよ」

 赤い顔で七海は返した。完全に“捕まえた”と確信したからだろうか、さっきまでの淫らな人格は影を潜めていた。七海だ、と空也は思えた。彼のよく知る七海だ。
 下着のウエストに指をかけて少しずつ下ろしていく。整えられた茂みがだんだんと顔を覗かせて、そして、とうとう下着越しに存在を主張していた割れ目が姿を表した。息を吸おうとして空也は失敗した。心臓が痛い。彼の動悸は最高潮に達していた。
 彼は、乱暴な手つきにならないよう必死に自分の衝動を抑えつけながら、彼女の浮いた脚から下着を抜き取った。震える手でそのまま自分のベルトに手をかける。学生服のズボンの中は、今にも破裂しそうな爆弾のように張り詰めている。爆発していないのが不思議なほどだ。学生服のズボンを中のパンツごと引きずり下ろそうとして、空也の中にほんの少しだけ躊躇いが生まれた。自分のこんな汚い部分を彼女に見せたくない……。だが、それも一瞬だった。彼女のこれだけ恥ずかしいところを見ておいてそんな勝手な話はない。なにより、今の彼らの濁流のような衝動に比べれば、ちっぽけな理性など問題にもならなかった。
 空也はパンツを下げた。自分でも驚くほどに熱(いき)り立った陰茎が現れる。見下ろす七海の目に興奮が滲むのを彼は見た。

「はっ、はっ」
「ふぅ、……ふ」

 部屋の中に二人の荒い息遣いだけが響く。自分の欲望の中心を彼女の熱の中心に合わせる。その段階になって、彼は大事なことに気づいた。コンドーム。
 改めて自分の考えの甘さを思い知らされる。女子の部屋に立ち入っておいて、こういう展開をほんの少しも妄想しなかったというわけでもないのに。七海と視線が合って、彼の中に生まれた迷いを彼女が見抜いたことが彼にはわかった。彼女はなにも言わない。ただその目がこの先を望んでいた。こんなところで止めないでと、そう言っていた。
 空也は歯を食い縛った。本当は男の空也が止まらなければならないのだ。けれど、今の彼にはこの衝動に歯止めをかけることも、行為を中断することだってできそうになかった。情けなく顔を歪ませながら、掠れた声で、せめて彼は言った。

「責任、取るから」
「……」

 一瞬、七海は反応しなかった。しかしそれからおもむろに手を伸ばし、彼のシャツの胸の合わせを乱暴に掴む。そのまま彼女は引き寄せた空也の唇に吸いついた。
 柔らかい感触に脳を殴りつけられたような衝撃が走る。空也は起こったことを理解するより先に、本能的にその感触を貪った。やがて彼がようやく状況に慣れはじめた頃、しかし七海の方はあっさりと唇を離してしまった。
 代わりに、彼女はコツンと額を合わせた。

「──取ってよね」

 言葉と共に吐息が零れる。空也は小さく顎を引いて返事に代えた。
 男根の切先が彼女の割れ目に触れる。びりりと走った快感に駆り立てられるように、空也は腰を動かして挿入を開始した。狭く柔らかい肉の壁が陰茎を押し包んでいくと、脳が灼き切れそうなほどの快楽が空也を襲った。七海の身体が強張って、その口から喘ぐような嬌声が上がった。

「あっ、ぁ、あ、はあっ」
「っ、く……」


    ◯


「──昔」

 加古津村の上空、高みから遥かに村を見下ろしながら、キリエは独り呟いた。

「昔──いつのことだかわからないくらいの昔、あちらの世界の魔剣のうちの一本がこの地に流れ着いた」

 色素の薄い髪に煌めく瞳。艶やかな肌を惜しげもなく晒した際どい服は、彼らの前で神職のふりをしていたときとは大きく違っている。そして腰の周りでうねる細く尖った尻尾。背中からは小さな、黒い翼が生えて、彼女の魔力を捕まえて緩やかに動いている。

「魔剣の魔力は土地に溜まり、やがて近くの動物や植物に影響を及ぼすようになった。土地の住人たちは彼らなりに対策を考えて、魔剣の魔力を一身に引き受ける“巫”、つまり、剣の担い手となる女を設けるという方法を確立した……」

 だが、それだけでは不十分だ。魔物の魔力を浴び続けた女性がいつまでも独りでいられるわけはないのだから。このあたりの正確なことは、どこかで失伝してしまったらしい。

「魔剣の管理役は夫婦で一対。これで、ようやく儀式は完了ってわけ」

 同時にキリエのこの村での役割も終了だ。彼らがいる限り、魔剣も大人しくしているだろう。眼下の村から伝わってくる魔剣の魔力から、あの若い二人がようやく一線を越えたことが読み取れた。出歯亀である。
 とはいえ、彼女にとって重要なことはそこではなかった。大事なのは、ちゃんとあの二人が結ばれたということだ。
 心配はしていなかった。物事はすべて、落ち着くべきところに落ち着くようになっているのだから。
 すべてが終わった今、キリエが言うべきことはひとつだけ。

「……お幸せに」
25/08/11 12:50更新 /
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■作者メッセージ
お待たせしました!
完結しました。お読みいただきありがとうございます。

次は「ハーピー」で、前後編くらいでサクッといく予定。

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