まひとさま
どこかで鳥が鳴いている。
石段に腰掛けて、空也は頭上に影を落とす屋根を仰いだ。浮いた瓦の隙間に生えた苔や雑草がゆるい風に揺れているのが見える。風はここに座る空也もまた心地よく撫でていく。
山の中にあるその社は、今回あらためて整備されたことで、なんとか見られる程度には綺麗になっていた。社そのものを建て替えることも検討されたようだが、最終的に自治会はそこまですることもないと判断したらしい。実際、半世紀のあいだ放置されていたにしては、社は柱も梁もしっかりと残っていた。周囲には元々、この半世紀の間に生えた若木がいくらか生えていたが、それらも今回伐採されて見通しがよくなっている。山の中に突然現れた開けた空間は、社をすっぽりと覆う部屋のようだ。
“まひと様”の手がかりはまだ掴めていなかった。蚊帳の外にいる空也からしてみれば、やはりこの信仰はただの根拠のない迷信なのではないかと思えてくるくらいだ。七海から聞かされたあの一夜の体験も、彼女の思い過ごしなのでは……。
だが、七海本人はそんな風には考えていないだろう。彼女とはあれから一度だけ顔を合わせたが、祭が近づいてくるに従って不安は増しているようだった。七海のあんな様子は見たくない──彼の動機はそれだけだ。極端な話、彼女が気に病むことさえないのなら、“まひと様”の正体についてはでっち上げだって彼は構わないのだけれど。
「……」
空也は立ち上がって、小さな社殿に向かってたった数段しかない石段を登った。社殿は高床になっていて、そもそも人が入れる造りにはなっていない。納戸か物置くらいのものだ。今、彼の目の前には、鍵のかかった小さな扉があった。手を伸ばしてその金属製の取っ手に触れる。
この向こうに、おそらく御神体が祀られている。“まひと様”の本体だ。せめてこの扉を開けることができれば……。しかし、扉には鍵がかかっていて、しかも鍵穴は長い年月のうちに土埃で塞がっていた。そもそも鍵を村の誰かがちゃんと保管しているのかどうかすら定かではない。扉を無理やり壊すことはできなくはないが──祭を目前に控えた今このタイミングでそんなことをする度胸までは彼にはなかった。
ともかく、この場所からはもう何かを得られそうにない。空也は社殿に背を向けて石段を下りた。
祭は次の日曜に迫っていた。
◯
当日はなんということもない朝だった。
鐘や太鼓の音が聞こえてくるわけでもなく、店が出ているわけでもない。休みの日だから野次馬ぐらいは来るかもしれないが、それでもほとんどの住人は普段通りの日常を送るだろう。七海からしてみれば、少し拍子抜けしたような気持ちはある。
七海は事前に言われていた通り、村の公民館までやって来た。既に車が何台か停まっていて、中に人が来ていることがわかる。自転車を停めて建物に入った彼女を数人の大人が出迎えた。自治会の面々だ。
「おはよう。今日はよろしくお願いします」
「おはようございます。よろしくお願いします」
互いに挨拶を交わす。七海からしてみれば、もちろん顔は知っているが、こういうときでもないとなかなか話すことのない相手だ。とはいっても、彼女が“巫”に選ばれてから、既に何度か顔を合わせる機会はあった。
彼女が靴を脱いで上がろうとしたところで、彼らの後ろから、宮司の佐久間が顔を覗かせた。すでに袴姿に着替えている。七海に向かって佐久間はにっこりと微笑みかけた。
「おはようございます。あなたが七海ちゃんね?」
「……おはようございます」
七海はおずおずと頭を下げた。空也との会話の中で槍玉に上げたりはしたが、彼女こそ実際に話すのはこれが初めてだ。二、三言ごく軽い口調で言葉を交わした後で、佐久間は「それじゃ、儀式用の行衣に着替えてきてくれる?」と言った。
七海は彼女に案内されるまま、奥の座敷に向かった。村の公民館は平屋建てだ。大部分は板張りの集会場になっていて、その奥に二部屋ほど小さな座敷が備えられている。雨戸がすべて外されて明るい集会場とは対照的に、部屋の中は薄暗かった。
電灯のスイッチを入れる。部屋の隅に、白い和服が畳まれていた。これがきっと佐久間の言っていた行衣だろう。あまり見慣れないその服を開いて持ち上げてみて、旅館で着る浴衣みたいだな、と七海は思った。丈はふくらはぎくらいまであるだろうか。それと、
「……下は」
七海は周りを見回した。……どうやらズボンはないらしい。まあ、紐でちゃんと前を留めるようになっているから、はだけて脚が見えてしまうようなことはないだろうが……。彼女は顔を顰めて、とりあえず行衣を置いて自分の服のボタンに指をかけた。文句を言っていても仕方がない。
背後のドアの方を気にしながら服を脱ぐ。一度下着姿になって、行衣に袖を通したところで、背後のドアがトントンとノックされた。
「お邪魔するわね」
「! ちょっ……!」
反射的に、七海は慌てて行衣の前を掻き合わせた。ノータイムで部屋に入ってきた佐久間を丸めた背中越しに振り返る。
「あの、まだ着替え中です!」
「あらごめんなさい。まあ、女の子同士だから」
「そういう……」
言い返そうとして、七海は途中で諦めた。そういう感じの人か。
彼女は大人しくさっさと着替えを終えてしまうことにした。首を屈めて襟の裾のほうについている紐を掴む。服を整えていると、後ろから佐久間が話しかけてきた。
「ごめんなさいね、急に。貴女とは一度お話してみたかったものだから」
「そんな……。話って言っても、私なにも知らないのに」
「あら、違うわ。祭のことじゃなくて、わたしが聞きたかったのは貴女のことよ」
「私の?」
七海は首だけ後ろに向けて佐久間の顔を見た。意外な、というか、彼女にとっては不審な言葉だ。
「なんで私のことなんか」
「あなたのことは空也くんから聞いていたから。どんな子か知りたかったの」
思わず、七海は返答に窮した。空也が自分のことに言及していたことに反応すればいいのか、それとも彼らが既にこんなに親しくなっていることを気にするべきなのか。
着替えを終えて、七海はようやく身体ごと佐久間の方へ向き直った。佐久間は何か言おうとして、その前にふと七海の前に屈み込んだ。手を伸ばして彼女の行衣を直してくれる。どうやらどこか着方がおかしかったらしい。
立ち上がった佐久間の顔を、七海は自然と目で追った。……あらためて、本当に綺麗な女性(ひと)だ。細い眉や通った鼻筋は鋭利さを感じさせるが、その眼差しや口元が雰囲気を和らげている。髪や長い睫毛は色素が薄く、面立ちと相まってどこか日本人離れしたところがある。普通これだけ整った顔立ちをしていると近寄りがたく感じてしまいそうなものだけれど、彼女の場合は、柔らかい微笑みと穏やかな声が、包み込むような空気を作り出している。
そして、やっぱり胸が大きい。身体の凹凸が目立たなくなる和服を着ていてさえこれだけ目を引くのだから、普通の服ならさぞ贅沢に見えるのだろう。
見上げた七海の視線になにか意図を感じたのか、佐久間は首を傾げてみせた。そんな彼女の仕草に促されるように、七海は自然と口を開いていた。
「空也と、どんな話をしたんですか」
「空也くんと? そうね、……彼から聞いてない?」
「あいつ話してくれないので。訊いてもはぐらかすし」
「あら。でも、それなら私から話しちゃうわけにはいかないわね」
「……そうですか」
あっさりと断られて、七海は眉根を寄せた。だが、彼女の言っていることは正論だ。空也には空也の考えがあるのだから、彼が言わないことを佐久間が言ってしまうわけにはいかない。そもそも七海は部外者なのだから、会話の内容を伝える義務なんか二人にはないのだ。
それでもなんとなく悔しかったので、七海は後から一言つけ加えた。
「でも、この祭のことを調べてるんだろうなってことは、なんとなく」
そして、その調査にこの女性が協力しているんだろうということも予想はつく。彼らが話をしたのは「しろいし」の客室だろうか。それとも空也の部屋かもしれない。彼女が実際に村にいたのはほんの数日だけだから、その後のやり取りはメールか何かを交換しているのだろう。親しげに話す彼らの様子を想像して、七海はなんだか急に胸の内側のあたりがじりっと疼くのを感じた。
そんなに変な顔をしたつもりはなかったが、彼女の顔を見て、佐久間はふふっと微笑んだ。
「安心して。盗ったりなんかしないわ」
「そんなんじゃないです!」
七海は反射的に言い返した。頬が一気に熱くなっていた。ムキになる七海に、佐久間はうふふと楽しそうに笑う。
「七海ちゃんは、彼とは長いの?」
「付き合いがってことですか。……まあ、物心ついた頃からっていうか」
「そうなんだ。じゃあ、きっとお互いのことをよく知ってるのね」
「さあ。小さい頃はともかく、小学校に上がっちゃったらもうクラスの女の子とかの方がよく話してましたし……最近はそんなに会ってないし」
「いつから好きだったの?」
「だから! そういうのじゃ!」
油断するとすぐに突っ込んでくる。
本当にそういうのじゃないのだ。空也とは確かにずっと一緒だけれど、だからといって彼女たちは特別な関係にあるわけではない。あくまでその仲は「異性だとまあ一番親しい」くらいのもので、互いに女子同士、男子同士に限ればそれ以上に仲のいい相手はいくらでもいる。だから本当に、そういうのじゃない。
ないのだ、けれど。
有り体に言って、空也はそんなに女子にモテる方ではない。普段のぼやっとした様子とか、それでいて実はいざというときの頭の回転が悪くないところとか七海はそんなに悪くないのではないかと思うのだが、ともかく周りの女子の間で彼のことが気になっているという話は聞いたことがない。だから、彼と佐久間が──こんな綺麗な人が親しくしていると知ったときのあの胸が軋むような感覚は、七海にとっては思いがけないものだった。
「心配することないわ。彼、私と二人っきりで部屋の中にいても、まったく気にしてないんだから」
「は? アイツ何考えてるんですか?」
安心させるように佐久間が言う。思わず七海は声を上げた。それまで考えていた想いはどこかへ飛んでいってしまった。こんな美人の女性と二人きりで何も感じないなんて、あいつ本当に健全な男子高校生か?
妙な怒り方をする七海に、佐久間は微塵も動じることなく返答した。
「決まってるじゃない。七海ちゃんのことを考えているのよ」
「……」
あっさりと答えられて七海は沈黙した。顔を紅くする七海を見下ろして、佐久間はくすっと笑う。
「心配しなくたって大丈夫。すべて、落ち着くべきところに落ち着くようになってるんだから」
──聞道昔加古村何某申者山中於或剣見付由。
──その昔、加古村の何某という者が山中で一振りの剣を見つけた。
七海と霧絵が公民館で空也の話をしている頃、彼はそんなことは知らず、自分の部屋でノートパソコンに向かっていた。昨夜遅く、天目一神社がようやく資料を送ってくれたのだ。今朝になってそれに気づいた空也はとりあえずお礼のメールをして、それから資料を開いた。
送ってもらった資料は原本をそのまま読み込んだ画像ファイルだったが、先方はなんと現代語に訳したものまでつけてくれていた。ありがたいことである。画像ファイルを一目見ただけで解読を諦めた空也は、すぐに訳文のテキストを開いた。文章はそれほど長くない。
記録はどうやら、天目一神社が自分の管理下にある神社の由緒を調べて綴ったものらしい。やはり「まひと様」は天目一神社の系列に連なっていたのだ。書かれたのは天保の頃だというから、つまり江戸時代である。謂れはそれよりさらに昔、当時の加古津村の住人が山で謎の遺物を拾ったところから始まっていた。
──彼がそれを持ち帰ったところ、痩せた田畑が実ったり、長らくできなかった子が生まれたりといったご利益があった。彼はこれが有り難いものだと考え、村で祀ることにした。
──数年が経ち、彼らはこの神が恵みだけでなく障りもまた起こすことに気づいた。御霊を宥めるため、彼らは巫を立てることにした。巫は御霊に選ばれた女が行い、その夫が社掌を務めることになった。
問題の巫が出てきた。巫女というとなんとなく若い女性がするイメージだったが、ここでは結婚しているらしい。まあ当時のことだから、例えば今の七海くらいの年齢なら既に結婚していてもおかしくないのだろうが……。社掌というのは神主みたいなものだろうか。
空也はほとんど無意識のうちに、七海が誰かと結婚するところを想像した。考えるまでもなく、まあいずれはそうなるのだろうが。彼女が幸せになるのは願ってもないことだけれど、そうするとこれまでのようには彼女と気安く話せなくなるかもしれない。それは嫌だなあ……。
今は関係ないことだった。空也は頭を振って、資料に視線を戻した。
──やがて、その噂は天目一宮まで届いた。宮はこれを鍛冶の神である天目一箇神による験(しるし)と考え、ここに社を建立し天目一宮の末社とした。
「……んー」
空也はパソコンの画面から目を上げた。どうやら、おおよそこれが加古津村の社の縁起らしい。文章の中にある「天目一宮」というのがこの資料を送ってくれた天目一神社のことなのだろう。
彼の頭になにか引っかかるものがあった。この資料に書かれていたいくつかの言葉に、どこかで見覚えがある気がしたのだ。しばらく考えて、彼はそれがどこだったか思い出した。
「……そうだ」
例の、この近辺の逸話を纏めた本だ。この調査を始めた頃に図書館で借りてきたやつである。
本は、ここ数週間の間に机の隅に追いやられていた。借りてきたのはもう一月以上前だ。貸し出しの期限は二週間だから、既に何度か延長手続きを取っている。図書館がもっと近くて本を返しにいくのが簡単だったらとっくに返却してしまっていただろうから、返って良かったかもしれない、と彼は思った。
バラバラとページを捲る。目的の話はすぐに見つかった。
公民館で準備を整えた七海たちは、社のある山の麓まで移動していた。
山道の入り口には特になにかあるわけではないが、社が見つかってからはとりあえず草は除けられて小さな広場のようになっている。既にその場所には、暇をしているらしい村の住人たち何人かが集まっていた。七海たちが乗ってきた数台の車が停まると、住人たちは待ち侘びたように声を上げた。
車を降りて、七海は住人たちの顔を見渡した。先に来ていた両親が目配せする。……どうやら、空也は来ていないらしい。
行衣姿の七海を他の野次馬たちが冷やかしたが、彼女に続いて佐久間が降りてくると、その声はどよめきに変わった。無理もないと七海は思った。この女性の袴姿の威力はさっきも語った通りだ。佐久間は何やら自治会の面々と相談していたが、やがて彼らの元を離れ、山を背にして広場の中心に立った。手には紙垂のついた木の枝を持っている(大幣、というらしい)。何かが始まろうとしていることを察知した野次馬たちのざわめきが小さくなる。
「今より、加古津村による、“まひと様”へのご祈祷を執り行います」
佐久間が口を開く。公民館でのふざけた調子とは似ても似つかない、凛としたよく通る声だった。眼差しから感情が消え、美貌がいよいよ際立っている。場が水を打ったように静まり返る。
続けて、彼女は「巫を務める者は、ここへ」と告げた。七海の出番だ。七海は佐久間の前に進み出た。気づかないうちに緊張していたのか、身体が強張っていた。
固い表情の七海を見て、佐久間が安心させるように微笑む。彼女は小声で囁きかけた。
「目を閉じて……力を抜いて」
それはなんか違うんじゃないか?
と思わないではなかったが、ともかく七海は大人しく目を瞑った。しゃら、と紙の擦れる音がして、佐久間が大幣を掲げたことがわかった。髪に紙垂の触れる感触がある。彼女がすっと息を吸う気配があって、
「掛けまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に……」
祝詞は、辺りに朗々と響き渡った。七海は我知らず背筋の伸びる思いがした。周りに集まった住人たちもそうだったんじゃないだろうか。佐久間の声には、自然とそうさせるだけの、なにか厳かさのようなものがあった。
「……諸々の禍事、罪、穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を聞こし食せと、恐み恐みも白す」
言葉が途切れた。
どうやら祝詞は終わったらしい。声の余韻が、空気に溶けるように消えていく。
──瞬間、七海は全身に鳥肌が立つのを感じた。まるで、身体を覆っていた膜が無理やり剥ぎ取られたような。素肌の敏感な部分が空気にそのまま曝け出されたような、生まれたままの姿で衆目の前に放り出されたような──そんな落ち着かなさを、彼女は感じていた。
いても立ってもいられなくなって、七海はそっと目を開けた。自分を見下ろす佐久間の視線とぶつかる。七海の目に何を読み取ったのか、彼女はまたにっこりと微笑んでみせた。さっきまでと同じ励ますような笑みが、今は真意の読めない、不安を掻き立てるものに見えた。
佐久間は七海から視線を離し、周りの観衆を見回した。彼らに説明するように口を開く。
「これより、巫はまひと様のお社へ赴き、その恩寵を受け取ります」
社へ……。そうだ、事前に聞かされている予定通りだ。元々そのための巫なのだから。
思わず、七海もまた周囲を窺った。七海たち二人が行う儀式を見つめる野次馬の中に、やっぱり彼の姿はない。
あれだけ色々と心配してくれていたのに、なんで今ここにいないんだあいつは。
あの呑気そうな顔を見れば、少しは安心できたかもしれないのに。
──A村の老人から聞いた話である。
その話は、そんな一文から始まっていた。もっとも空也がいま読んでいるこの本では、大抵どの話もそういう始まり方をしているから、別段ほかの話と比べて目立っているわけではない。おまけにほとんどの話は起承転結の形になっていない。本当に、ただこの周辺の地域に伝わっている話を収集したもののようだ。
──ある村に、一人の娘がいた。
──娘は美しく成長し、やがて村の男の妻となった。夫婦は仲睦まじく暮らしたが、一年ほどして、夫は戦争に取られてしまう。妻は夫の無事を祈り、仕える鎮守神に毎夜毎日の祈祷を行った。だが彼女の祈りも虚しく、夫は還らぬ人となる。妻の悲しみは深く、周囲の者たちが不安に思うほどだった。
これはいつ頃の話なんだろう、ふと空也はそう思った。「戦争に取られた」というぐらいだからその辺りの時代のような気もするが、太平洋戦争ではなくもっと昔の戦争の可能性もある。具体的な年代は文章の中には出てこなかった。
──そのうちに、村の者たちは彼女の奇行に気づくようになった。霊代の剣を手に、夜ごとに村の中を彷徨い歩いているというのである。人々は彼女が悲しみのあまり気をおかしくしてしまったと噂した。はじめ、犬猫を襲う程度だった頃は見ぬふりをしていた彼らだったが、やがて彼女が夜道を行く人に切りつけるようになると、そうもしていられなくなった。
──妻は親類たちによって、二度と夜歩きができないよう家の中に閉じ込められることになった。本来であれば病院へでも入れられるところであるが、思えば哀れな身の上である。人々は彼女に同情もしていた。話し合った末、彼らは彼女を新しい夫と添わせることにした。
最後の部分を読んで、時代だなあ、と空也は特に関係のない感想を抱いた。いつまでも独り身でいるのがよくないという考えなのだろう。だが、どうやらこの話の中ではそれで正解だったらしい。
話の最後は、簡単に妻のその後を記して結ばれていた。
──それでも妻の悲しみは癒えなかったが、新しい夫と暮らし、子を成すうちに、やがて彼女は正気を取り戻していった。その後は先の夫の菩提を弔って余生を過ごしたという。
「……めでたし、めでたし」
あまりめでたしで終わるような話ではない。
それはさておき、空也の記憶に引っかかっていたのは、話に出てきた“剣”というワードだった。最初に読んだときには「なんだそれ」と思いながらも読み流していたのだが(実際、他の話にも首を捻る部分は割とあるのである)、今こうして改めて読むと、より一層気になってくる。夫を失った妻が悲しみのせいで気が触れてしまい、夜な夜な徘徊し人を襲うようになった──ここまでは、まあ話としてはわからなくはない。しかし、そこでこの妻が手にするのが“剣”である。身の回りの刃物など他にいくらでもあるだろうに、包丁でも鎌でもなく剣なのだ。剣ってそんなに身近なものか?
ここに語られている事件が起こった年代はわからないが、まあ仮に近代──明治から昭和初期の話だとして。その辺の時代の生活の周辺に“剣”が登場する頻度というのはどれくらいだろうか?
「で……こっちか」
空也は本を置き、パソコンの資料に視線を戻した。
天目一神社が送ってくれた資料によれば、加古津村の社の興りは住人が拾った剣を祀ったことだ。この情報がなければ、逸話集のたくさんの話の中からこの妻の話をピックすることはなかっただろう。今、空也は思っている。……この話は、加古津村で起こった出来事なのではないだろうか。話の中で妻が手にしていた剣はつまり、過去に加古津村の住人が見つけ、有り難いものとして祀ったその剣なのではないかということだ。
ふと、空也の頭にもう一つの想像が浮かんだ。話に出てくる妻は、戦争に行った夫の無事を「仕える神に」祈ったことになっている。もしもこの話が加古津村であったことなら、神とはもちろん“まひと様”のことだろう。まひと様に仕えていたという彼女は、もしかして──巫だったかもしれない。
巫の役目に従って、七海は山中の社にたどり着いた。
このしばらくの間に住人たちが何度も往復していることもあって、社までの道中は特に歩きにくいことはなかった。ここのところ雨が降っていないということもあるだろう。山の中は外よりは気温が低いが、それでも肌寒いということもない。
その代わりに、七海は周囲の物音が気になって仕方なかった。葉擦れの音、枝が揺れる音が聞こえるたびに、それらに直接胸の内側を撫でられているような気がした。さっきの佐久間の祝詞を聞いてからこちら、自分がひどく無防備な存在になってしまったように感じる。七海は努めてそれらの音を心から締め出して、ただ自分の中に響く声だけを聞いて歩いていた。山に入ってから、七海にはどこからか自分を呼ぶ声が聞こえていた。
(……)
どこからか、ではない。目の前に立つこの社の奥からだ。
山の中の開けた空間。ここまで木々に遮られていた太陽が、ここでは燦々と降り注いでいる。日光を浴びて立つ社に向かって、七海は一歩ずつ歩いていった。数段しかない石段を、登りきる。
彼女はその扉に手を伸ばした。
天目一箇神、という名前は、つまり“まひと様”が何者かという情報は、そこまで意味があるものではないんじゃないだろうか。二つの文献を並べて読んでいるうちに、だんだんと空也はそう感じてきた。確かに天目一神社の資料からはまひと様=天目一箇神と読めるが、これは天目一神社が加古津村の社を併合するために「そういうことにした」のではないか、ということである。天目一箇神は鍛冶の神だから、件の剣を造ったのが彼であるという話に無理はない。だが、そのことにかこつけてうまくこじつけたようにも見える。
剣は天目一箇神からこの村に託されたものではない。資料にあるような恵みや障りをもたらしたのは、剣そのものなのだ。
つまり、この村の信仰の対象は。彼らが祀ろうとしているのは──
七海が社の扉に触れると、奥からカタンと錠の落ちる金属音がした。彼女の手が緑青の浮いた取っ手を握る。扉は苦もなく開いた。
中から現れたのは、赤錆びた一振りの剣。
石段に腰掛けて、空也は頭上に影を落とす屋根を仰いだ。浮いた瓦の隙間に生えた苔や雑草がゆるい風に揺れているのが見える。風はここに座る空也もまた心地よく撫でていく。
山の中にあるその社は、今回あらためて整備されたことで、なんとか見られる程度には綺麗になっていた。社そのものを建て替えることも検討されたようだが、最終的に自治会はそこまですることもないと判断したらしい。実際、半世紀のあいだ放置されていたにしては、社は柱も梁もしっかりと残っていた。周囲には元々、この半世紀の間に生えた若木がいくらか生えていたが、それらも今回伐採されて見通しがよくなっている。山の中に突然現れた開けた空間は、社をすっぽりと覆う部屋のようだ。
“まひと様”の手がかりはまだ掴めていなかった。蚊帳の外にいる空也からしてみれば、やはりこの信仰はただの根拠のない迷信なのではないかと思えてくるくらいだ。七海から聞かされたあの一夜の体験も、彼女の思い過ごしなのでは……。
だが、七海本人はそんな風には考えていないだろう。彼女とはあれから一度だけ顔を合わせたが、祭が近づいてくるに従って不安は増しているようだった。七海のあんな様子は見たくない──彼の動機はそれだけだ。極端な話、彼女が気に病むことさえないのなら、“まひと様”の正体についてはでっち上げだって彼は構わないのだけれど。
「……」
空也は立ち上がって、小さな社殿に向かってたった数段しかない石段を登った。社殿は高床になっていて、そもそも人が入れる造りにはなっていない。納戸か物置くらいのものだ。今、彼の目の前には、鍵のかかった小さな扉があった。手を伸ばしてその金属製の取っ手に触れる。
この向こうに、おそらく御神体が祀られている。“まひと様”の本体だ。せめてこの扉を開けることができれば……。しかし、扉には鍵がかかっていて、しかも鍵穴は長い年月のうちに土埃で塞がっていた。そもそも鍵を村の誰かがちゃんと保管しているのかどうかすら定かではない。扉を無理やり壊すことはできなくはないが──祭を目前に控えた今このタイミングでそんなことをする度胸までは彼にはなかった。
ともかく、この場所からはもう何かを得られそうにない。空也は社殿に背を向けて石段を下りた。
祭は次の日曜に迫っていた。
◯
当日はなんということもない朝だった。
鐘や太鼓の音が聞こえてくるわけでもなく、店が出ているわけでもない。休みの日だから野次馬ぐらいは来るかもしれないが、それでもほとんどの住人は普段通りの日常を送るだろう。七海からしてみれば、少し拍子抜けしたような気持ちはある。
七海は事前に言われていた通り、村の公民館までやって来た。既に車が何台か停まっていて、中に人が来ていることがわかる。自転車を停めて建物に入った彼女を数人の大人が出迎えた。自治会の面々だ。
「おはよう。今日はよろしくお願いします」
「おはようございます。よろしくお願いします」
互いに挨拶を交わす。七海からしてみれば、もちろん顔は知っているが、こういうときでもないとなかなか話すことのない相手だ。とはいっても、彼女が“巫”に選ばれてから、既に何度か顔を合わせる機会はあった。
彼女が靴を脱いで上がろうとしたところで、彼らの後ろから、宮司の佐久間が顔を覗かせた。すでに袴姿に着替えている。七海に向かって佐久間はにっこりと微笑みかけた。
「おはようございます。あなたが七海ちゃんね?」
「……おはようございます」
七海はおずおずと頭を下げた。空也との会話の中で槍玉に上げたりはしたが、彼女こそ実際に話すのはこれが初めてだ。二、三言ごく軽い口調で言葉を交わした後で、佐久間は「それじゃ、儀式用の行衣に着替えてきてくれる?」と言った。
七海は彼女に案内されるまま、奥の座敷に向かった。村の公民館は平屋建てだ。大部分は板張りの集会場になっていて、その奥に二部屋ほど小さな座敷が備えられている。雨戸がすべて外されて明るい集会場とは対照的に、部屋の中は薄暗かった。
電灯のスイッチを入れる。部屋の隅に、白い和服が畳まれていた。これがきっと佐久間の言っていた行衣だろう。あまり見慣れないその服を開いて持ち上げてみて、旅館で着る浴衣みたいだな、と七海は思った。丈はふくらはぎくらいまであるだろうか。それと、
「……下は」
七海は周りを見回した。……どうやらズボンはないらしい。まあ、紐でちゃんと前を留めるようになっているから、はだけて脚が見えてしまうようなことはないだろうが……。彼女は顔を顰めて、とりあえず行衣を置いて自分の服のボタンに指をかけた。文句を言っていても仕方がない。
背後のドアの方を気にしながら服を脱ぐ。一度下着姿になって、行衣に袖を通したところで、背後のドアがトントンとノックされた。
「お邪魔するわね」
「! ちょっ……!」
反射的に、七海は慌てて行衣の前を掻き合わせた。ノータイムで部屋に入ってきた佐久間を丸めた背中越しに振り返る。
「あの、まだ着替え中です!」
「あらごめんなさい。まあ、女の子同士だから」
「そういう……」
言い返そうとして、七海は途中で諦めた。そういう感じの人か。
彼女は大人しくさっさと着替えを終えてしまうことにした。首を屈めて襟の裾のほうについている紐を掴む。服を整えていると、後ろから佐久間が話しかけてきた。
「ごめんなさいね、急に。貴女とは一度お話してみたかったものだから」
「そんな……。話って言っても、私なにも知らないのに」
「あら、違うわ。祭のことじゃなくて、わたしが聞きたかったのは貴女のことよ」
「私の?」
七海は首だけ後ろに向けて佐久間の顔を見た。意外な、というか、彼女にとっては不審な言葉だ。
「なんで私のことなんか」
「あなたのことは空也くんから聞いていたから。どんな子か知りたかったの」
思わず、七海は返答に窮した。空也が自分のことに言及していたことに反応すればいいのか、それとも彼らが既にこんなに親しくなっていることを気にするべきなのか。
着替えを終えて、七海はようやく身体ごと佐久間の方へ向き直った。佐久間は何か言おうとして、その前にふと七海の前に屈み込んだ。手を伸ばして彼女の行衣を直してくれる。どうやらどこか着方がおかしかったらしい。
立ち上がった佐久間の顔を、七海は自然と目で追った。……あらためて、本当に綺麗な女性(ひと)だ。細い眉や通った鼻筋は鋭利さを感じさせるが、その眼差しや口元が雰囲気を和らげている。髪や長い睫毛は色素が薄く、面立ちと相まってどこか日本人離れしたところがある。普通これだけ整った顔立ちをしていると近寄りがたく感じてしまいそうなものだけれど、彼女の場合は、柔らかい微笑みと穏やかな声が、包み込むような空気を作り出している。
そして、やっぱり胸が大きい。身体の凹凸が目立たなくなる和服を着ていてさえこれだけ目を引くのだから、普通の服ならさぞ贅沢に見えるのだろう。
見上げた七海の視線になにか意図を感じたのか、佐久間は首を傾げてみせた。そんな彼女の仕草に促されるように、七海は自然と口を開いていた。
「空也と、どんな話をしたんですか」
「空也くんと? そうね、……彼から聞いてない?」
「あいつ話してくれないので。訊いてもはぐらかすし」
「あら。でも、それなら私から話しちゃうわけにはいかないわね」
「……そうですか」
あっさりと断られて、七海は眉根を寄せた。だが、彼女の言っていることは正論だ。空也には空也の考えがあるのだから、彼が言わないことを佐久間が言ってしまうわけにはいかない。そもそも七海は部外者なのだから、会話の内容を伝える義務なんか二人にはないのだ。
それでもなんとなく悔しかったので、七海は後から一言つけ加えた。
「でも、この祭のことを調べてるんだろうなってことは、なんとなく」
そして、その調査にこの女性が協力しているんだろうということも予想はつく。彼らが話をしたのは「しろいし」の客室だろうか。それとも空也の部屋かもしれない。彼女が実際に村にいたのはほんの数日だけだから、その後のやり取りはメールか何かを交換しているのだろう。親しげに話す彼らの様子を想像して、七海はなんだか急に胸の内側のあたりがじりっと疼くのを感じた。
そんなに変な顔をしたつもりはなかったが、彼女の顔を見て、佐久間はふふっと微笑んだ。
「安心して。盗ったりなんかしないわ」
「そんなんじゃないです!」
七海は反射的に言い返した。頬が一気に熱くなっていた。ムキになる七海に、佐久間はうふふと楽しそうに笑う。
「七海ちゃんは、彼とは長いの?」
「付き合いがってことですか。……まあ、物心ついた頃からっていうか」
「そうなんだ。じゃあ、きっとお互いのことをよく知ってるのね」
「さあ。小さい頃はともかく、小学校に上がっちゃったらもうクラスの女の子とかの方がよく話してましたし……最近はそんなに会ってないし」
「いつから好きだったの?」
「だから! そういうのじゃ!」
油断するとすぐに突っ込んでくる。
本当にそういうのじゃないのだ。空也とは確かにずっと一緒だけれど、だからといって彼女たちは特別な関係にあるわけではない。あくまでその仲は「異性だとまあ一番親しい」くらいのもので、互いに女子同士、男子同士に限ればそれ以上に仲のいい相手はいくらでもいる。だから本当に、そういうのじゃない。
ないのだ、けれど。
有り体に言って、空也はそんなに女子にモテる方ではない。普段のぼやっとした様子とか、それでいて実はいざというときの頭の回転が悪くないところとか七海はそんなに悪くないのではないかと思うのだが、ともかく周りの女子の間で彼のことが気になっているという話は聞いたことがない。だから、彼と佐久間が──こんな綺麗な人が親しくしていると知ったときのあの胸が軋むような感覚は、七海にとっては思いがけないものだった。
「心配することないわ。彼、私と二人っきりで部屋の中にいても、まったく気にしてないんだから」
「は? アイツ何考えてるんですか?」
安心させるように佐久間が言う。思わず七海は声を上げた。それまで考えていた想いはどこかへ飛んでいってしまった。こんな美人の女性と二人きりで何も感じないなんて、あいつ本当に健全な男子高校生か?
妙な怒り方をする七海に、佐久間は微塵も動じることなく返答した。
「決まってるじゃない。七海ちゃんのことを考えているのよ」
「……」
あっさりと答えられて七海は沈黙した。顔を紅くする七海を見下ろして、佐久間はくすっと笑う。
「心配しなくたって大丈夫。すべて、落ち着くべきところに落ち着くようになってるんだから」
──聞道昔加古村何某申者山中於或剣見付由。
──その昔、加古村の何某という者が山中で一振りの剣を見つけた。
七海と霧絵が公民館で空也の話をしている頃、彼はそんなことは知らず、自分の部屋でノートパソコンに向かっていた。昨夜遅く、天目一神社がようやく資料を送ってくれたのだ。今朝になってそれに気づいた空也はとりあえずお礼のメールをして、それから資料を開いた。
送ってもらった資料は原本をそのまま読み込んだ画像ファイルだったが、先方はなんと現代語に訳したものまでつけてくれていた。ありがたいことである。画像ファイルを一目見ただけで解読を諦めた空也は、すぐに訳文のテキストを開いた。文章はそれほど長くない。
記録はどうやら、天目一神社が自分の管理下にある神社の由緒を調べて綴ったものらしい。やはり「まひと様」は天目一神社の系列に連なっていたのだ。書かれたのは天保の頃だというから、つまり江戸時代である。謂れはそれよりさらに昔、当時の加古津村の住人が山で謎の遺物を拾ったところから始まっていた。
──彼がそれを持ち帰ったところ、痩せた田畑が実ったり、長らくできなかった子が生まれたりといったご利益があった。彼はこれが有り難いものだと考え、村で祀ることにした。
──数年が経ち、彼らはこの神が恵みだけでなく障りもまた起こすことに気づいた。御霊を宥めるため、彼らは巫を立てることにした。巫は御霊に選ばれた女が行い、その夫が社掌を務めることになった。
問題の巫が出てきた。巫女というとなんとなく若い女性がするイメージだったが、ここでは結婚しているらしい。まあ当時のことだから、例えば今の七海くらいの年齢なら既に結婚していてもおかしくないのだろうが……。社掌というのは神主みたいなものだろうか。
空也はほとんど無意識のうちに、七海が誰かと結婚するところを想像した。考えるまでもなく、まあいずれはそうなるのだろうが。彼女が幸せになるのは願ってもないことだけれど、そうするとこれまでのようには彼女と気安く話せなくなるかもしれない。それは嫌だなあ……。
今は関係ないことだった。空也は頭を振って、資料に視線を戻した。
──やがて、その噂は天目一宮まで届いた。宮はこれを鍛冶の神である天目一箇神による験(しるし)と考え、ここに社を建立し天目一宮の末社とした。
「……んー」
空也はパソコンの画面から目を上げた。どうやら、おおよそこれが加古津村の社の縁起らしい。文章の中にある「天目一宮」というのがこの資料を送ってくれた天目一神社のことなのだろう。
彼の頭になにか引っかかるものがあった。この資料に書かれていたいくつかの言葉に、どこかで見覚えがある気がしたのだ。しばらく考えて、彼はそれがどこだったか思い出した。
「……そうだ」
例の、この近辺の逸話を纏めた本だ。この調査を始めた頃に図書館で借りてきたやつである。
本は、ここ数週間の間に机の隅に追いやられていた。借りてきたのはもう一月以上前だ。貸し出しの期限は二週間だから、既に何度か延長手続きを取っている。図書館がもっと近くて本を返しにいくのが簡単だったらとっくに返却してしまっていただろうから、返って良かったかもしれない、と彼は思った。
バラバラとページを捲る。目的の話はすぐに見つかった。
公民館で準備を整えた七海たちは、社のある山の麓まで移動していた。
山道の入り口には特になにかあるわけではないが、社が見つかってからはとりあえず草は除けられて小さな広場のようになっている。既にその場所には、暇をしているらしい村の住人たち何人かが集まっていた。七海たちが乗ってきた数台の車が停まると、住人たちは待ち侘びたように声を上げた。
車を降りて、七海は住人たちの顔を見渡した。先に来ていた両親が目配せする。……どうやら、空也は来ていないらしい。
行衣姿の七海を他の野次馬たちが冷やかしたが、彼女に続いて佐久間が降りてくると、その声はどよめきに変わった。無理もないと七海は思った。この女性の袴姿の威力はさっきも語った通りだ。佐久間は何やら自治会の面々と相談していたが、やがて彼らの元を離れ、山を背にして広場の中心に立った。手には紙垂のついた木の枝を持っている(大幣、というらしい)。何かが始まろうとしていることを察知した野次馬たちのざわめきが小さくなる。
「今より、加古津村による、“まひと様”へのご祈祷を執り行います」
佐久間が口を開く。公民館でのふざけた調子とは似ても似つかない、凛としたよく通る声だった。眼差しから感情が消え、美貌がいよいよ際立っている。場が水を打ったように静まり返る。
続けて、彼女は「巫を務める者は、ここへ」と告げた。七海の出番だ。七海は佐久間の前に進み出た。気づかないうちに緊張していたのか、身体が強張っていた。
固い表情の七海を見て、佐久間が安心させるように微笑む。彼女は小声で囁きかけた。
「目を閉じて……力を抜いて」
それはなんか違うんじゃないか?
と思わないではなかったが、ともかく七海は大人しく目を瞑った。しゃら、と紙の擦れる音がして、佐久間が大幣を掲げたことがわかった。髪に紙垂の触れる感触がある。彼女がすっと息を吸う気配があって、
「掛けまくも畏き伊邪那岐の大神、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原に……」
祝詞は、辺りに朗々と響き渡った。七海は我知らず背筋の伸びる思いがした。周りに集まった住人たちもそうだったんじゃないだろうか。佐久間の声には、自然とそうさせるだけの、なにか厳かさのようなものがあった。
「……諸々の禍事、罪、穢有らむをば、祓へ給ひ清め給へと白す事を聞こし食せと、恐み恐みも白す」
言葉が途切れた。
どうやら祝詞は終わったらしい。声の余韻が、空気に溶けるように消えていく。
──瞬間、七海は全身に鳥肌が立つのを感じた。まるで、身体を覆っていた膜が無理やり剥ぎ取られたような。素肌の敏感な部分が空気にそのまま曝け出されたような、生まれたままの姿で衆目の前に放り出されたような──そんな落ち着かなさを、彼女は感じていた。
いても立ってもいられなくなって、七海はそっと目を開けた。自分を見下ろす佐久間の視線とぶつかる。七海の目に何を読み取ったのか、彼女はまたにっこりと微笑んでみせた。さっきまでと同じ励ますような笑みが、今は真意の読めない、不安を掻き立てるものに見えた。
佐久間は七海から視線を離し、周りの観衆を見回した。彼らに説明するように口を開く。
「これより、巫はまひと様のお社へ赴き、その恩寵を受け取ります」
社へ……。そうだ、事前に聞かされている予定通りだ。元々そのための巫なのだから。
思わず、七海もまた周囲を窺った。七海たち二人が行う儀式を見つめる野次馬の中に、やっぱり彼の姿はない。
あれだけ色々と心配してくれていたのに、なんで今ここにいないんだあいつは。
あの呑気そうな顔を見れば、少しは安心できたかもしれないのに。
──A村の老人から聞いた話である。
その話は、そんな一文から始まっていた。もっとも空也がいま読んでいるこの本では、大抵どの話もそういう始まり方をしているから、別段ほかの話と比べて目立っているわけではない。おまけにほとんどの話は起承転結の形になっていない。本当に、ただこの周辺の地域に伝わっている話を収集したもののようだ。
──ある村に、一人の娘がいた。
──娘は美しく成長し、やがて村の男の妻となった。夫婦は仲睦まじく暮らしたが、一年ほどして、夫は戦争に取られてしまう。妻は夫の無事を祈り、仕える鎮守神に毎夜毎日の祈祷を行った。だが彼女の祈りも虚しく、夫は還らぬ人となる。妻の悲しみは深く、周囲の者たちが不安に思うほどだった。
これはいつ頃の話なんだろう、ふと空也はそう思った。「戦争に取られた」というぐらいだからその辺りの時代のような気もするが、太平洋戦争ではなくもっと昔の戦争の可能性もある。具体的な年代は文章の中には出てこなかった。
──そのうちに、村の者たちは彼女の奇行に気づくようになった。霊代の剣を手に、夜ごとに村の中を彷徨い歩いているというのである。人々は彼女が悲しみのあまり気をおかしくしてしまったと噂した。はじめ、犬猫を襲う程度だった頃は見ぬふりをしていた彼らだったが、やがて彼女が夜道を行く人に切りつけるようになると、そうもしていられなくなった。
──妻は親類たちによって、二度と夜歩きができないよう家の中に閉じ込められることになった。本来であれば病院へでも入れられるところであるが、思えば哀れな身の上である。人々は彼女に同情もしていた。話し合った末、彼らは彼女を新しい夫と添わせることにした。
最後の部分を読んで、時代だなあ、と空也は特に関係のない感想を抱いた。いつまでも独り身でいるのがよくないという考えなのだろう。だが、どうやらこの話の中ではそれで正解だったらしい。
話の最後は、簡単に妻のその後を記して結ばれていた。
──それでも妻の悲しみは癒えなかったが、新しい夫と暮らし、子を成すうちに、やがて彼女は正気を取り戻していった。その後は先の夫の菩提を弔って余生を過ごしたという。
「……めでたし、めでたし」
あまりめでたしで終わるような話ではない。
それはさておき、空也の記憶に引っかかっていたのは、話に出てきた“剣”というワードだった。最初に読んだときには「なんだそれ」と思いながらも読み流していたのだが(実際、他の話にも首を捻る部分は割とあるのである)、今こうして改めて読むと、より一層気になってくる。夫を失った妻が悲しみのせいで気が触れてしまい、夜な夜な徘徊し人を襲うようになった──ここまでは、まあ話としてはわからなくはない。しかし、そこでこの妻が手にするのが“剣”である。身の回りの刃物など他にいくらでもあるだろうに、包丁でも鎌でもなく剣なのだ。剣ってそんなに身近なものか?
ここに語られている事件が起こった年代はわからないが、まあ仮に近代──明治から昭和初期の話だとして。その辺の時代の生活の周辺に“剣”が登場する頻度というのはどれくらいだろうか?
「で……こっちか」
空也は本を置き、パソコンの資料に視線を戻した。
天目一神社が送ってくれた資料によれば、加古津村の社の興りは住人が拾った剣を祀ったことだ。この情報がなければ、逸話集のたくさんの話の中からこの妻の話をピックすることはなかっただろう。今、空也は思っている。……この話は、加古津村で起こった出来事なのではないだろうか。話の中で妻が手にしていた剣はつまり、過去に加古津村の住人が見つけ、有り難いものとして祀ったその剣なのではないかということだ。
ふと、空也の頭にもう一つの想像が浮かんだ。話に出てくる妻は、戦争に行った夫の無事を「仕える神に」祈ったことになっている。もしもこの話が加古津村であったことなら、神とはもちろん“まひと様”のことだろう。まひと様に仕えていたという彼女は、もしかして──巫だったかもしれない。
巫の役目に従って、七海は山中の社にたどり着いた。
このしばらくの間に住人たちが何度も往復していることもあって、社までの道中は特に歩きにくいことはなかった。ここのところ雨が降っていないということもあるだろう。山の中は外よりは気温が低いが、それでも肌寒いということもない。
その代わりに、七海は周囲の物音が気になって仕方なかった。葉擦れの音、枝が揺れる音が聞こえるたびに、それらに直接胸の内側を撫でられているような気がした。さっきの佐久間の祝詞を聞いてからこちら、自分がひどく無防備な存在になってしまったように感じる。七海は努めてそれらの音を心から締め出して、ただ自分の中に響く声だけを聞いて歩いていた。山に入ってから、七海にはどこからか自分を呼ぶ声が聞こえていた。
(……)
どこからか、ではない。目の前に立つこの社の奥からだ。
山の中の開けた空間。ここまで木々に遮られていた太陽が、ここでは燦々と降り注いでいる。日光を浴びて立つ社に向かって、七海は一歩ずつ歩いていった。数段しかない石段を、登りきる。
彼女はその扉に手を伸ばした。
天目一箇神、という名前は、つまり“まひと様”が何者かという情報は、そこまで意味があるものではないんじゃないだろうか。二つの文献を並べて読んでいるうちに、だんだんと空也はそう感じてきた。確かに天目一神社の資料からはまひと様=天目一箇神と読めるが、これは天目一神社が加古津村の社を併合するために「そういうことにした」のではないか、ということである。天目一箇神は鍛冶の神だから、件の剣を造ったのが彼であるという話に無理はない。だが、そのことにかこつけてうまくこじつけたようにも見える。
剣は天目一箇神からこの村に託されたものではない。資料にあるような恵みや障りをもたらしたのは、剣そのものなのだ。
つまり、この村の信仰の対象は。彼らが祀ろうとしているのは──
七海が社の扉に触れると、奥からカタンと錠の落ちる金属音がした。彼女の手が緑青の浮いた取っ手を握る。扉は苦もなく開いた。
中から現れたのは、赤錆びた一振りの剣。
25/03/27 07:23更新 / 睦
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