連載小説
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桑名七海
 その夜、七海が連れてこられた小屋は、元は林業従事者のために建てられた資材小屋らしかった。今は新しいものが別の場所に造られ、ここはほとんど空になっている。土埃だらけではあったが、大人たちが事前によく掃除してくれているから、一晩過ごすくらいなら支障はない。もちろん七海だって汚れた部屋で寝たくはないから一緒に掃除した。

「しっかり鍵をかけておけよ」

 別れ際、両親たちはそう言った。年頃の娘が一人でこんな場所で夜を明かすのだからそれも当然だ。心配するくらいならこんな訳のわからない儀式なんかさせないでくれと思わないではなかったけれど、親も他の住人たちの手前そんなことは言えなかったのだろう。この狭いコミュニティで、いくらこんな無防備な状況とはいえ祭の中心になる女子に悪戯しようとする不届き者なんかいるはずない──と、七海は自分に言い聞かせることにした。
 夕食は済ませたし、シャワーも浴びてきた。ここでは本当に寝るだけだ。お風呂上がりにジャージで外に出るのは中学の修学旅行を思い出すけれど、今回はそんなにいいものではない。
 隅に用意されている布団を広げる。敷物があるから床に直よりはマシとはいえ、それでも冬だったら寒くて仕方なかっただろう。今の時期でよかった、と七海は思った。明かりをバチンと消すと、小屋の中はほとんど完全に真っ暗になった。手探りで布団に潜り込み、枕に頭をつける。急に、窓の外の音が大きく聞こえてきた。虫の声、風の音、草や木の枝がざわざわと揺れる音。
 幼馴染ののんびりした顔を、急に七海は思い浮かべた。空也ならこんな状況でも簡単に寝られるんだろう。まあ、かく言う七海もそれほど神経質な方ではない。一度眠りについてしまえば、あとは朝を待つだけだ。
 それでおしまい。祭の本番はまた何か仕事を与えられるのだろうが、とりあえずそれまではこのよくわからない役目から解放される。なにも考えずに寝てしまうのがいい。そう思っていたのだが──

 不意に目が覚めた。
 まず、ここどこだと思った。知らない布団に知らない天井。少しして、自分が山のそばの小屋にいることを思い出した。彼女の頭に浮かんだのは、「なんで目が覚めたんだろう」という疑問だった。
 夜明けはまだ遠いらしい。部屋の中は真っ暗だ。猫でも鳴いたんだろうか。村の中には最近なんだか野良猫が増えているようで、夜になるとよく盛りのついた声が聞こえてくる。だが……。こんな山の方にはいないだろう。じゃあ、どうして? と思ったあたりで、

(!)

 七海はふと、誰かに見られているような気配を感じた。

(……)

 見られている。確かに。
 この部屋の中ではない。どこか、もっとずっと遠くからだ。部屋の中には自分以外誰もいない、それは間違いないと思う。かといって、窓から覗き込まれているとかそういう話でもない。ただ、自分が、桑名七海という人間がここにいることを知られていて、そしてどんな人間なのか測られている──そんな気がする。
 七海はこの夜の目的、自分が何のためにこんな場所にいるのかを思い出した。彼女はなにも好き好んで山の中の小屋で寝ているわけではない。つまり、“まひと様”の選別を受け──

(……思い込みよ)

 そう、きっと思い込みだ。どうして急にそんなことを思ったのか。馬鹿なことを考えていないで、早く寝直してしまった方がいい。
 そう思っているのに、七海はどうしても寝つけなかった。どうにも居心地が悪い。被っていた布団の下で寝返りをうつ。
 そうしているうちに、彼女は、落ち着かないのが謎の気配のせいばかりではないことに気づいた。もっと内側──彼女の身体の中心に、いつの間にかぽつりと熱が灯っていた。

(え……?)

 七海は戸惑って、ぴたりと動きを止めた。
 まったく縁のない感覚ではない。というか、まあ、あんまり大きな声では言わないが、これまでに何度かは経験したことがある。ここ数年はそれ以前よりも頻度が高まっているような気もする。七海が気づくのを待っていたように、急に生まれた彼女の下腹部の熱はじわじわと強さを増していった。

(ち、ちょっと……)

 なんで、こんな場所で。普段と違う状況に置かれて神経が昂っているということはあるにしても、こんな……性的に興奮するなんて、どう考えてもおかしい。自分の身体の思いもよらない反応に彼女は慌てた。こんなの、まるで変態じゃない。
 七海の困惑を余所に、彼女の中心は高まった熱を少しずつ外へと溢れ出させつつあった。両脚の間が潤っているのがわかる。居心地の悪さを誤魔化すように腿を擦り合わせると、零れた液体がじゅくんと下着に滲んだ。頬までが羞恥に熱くなった。
 は、と無意識に吐息が漏れる。仰向けで転がっているだけでは解決できないもどかしさがあった。布団の上で両手をぎゅっと握りしめて、内側からの次第に大きくなる誘惑に耐える。だめだ、流石にこんな場所で、そんなこと。明日になればまた皆が様子を見にくるのに。

「っ……」

 触りたい。
 触りたい。
 疼いている場所に触れて、この曖昧な感覚に答えを出してしまいたい。堪えきれなくなって、七海はとうとう右手をジャージの中に滑り込ませた。指が下着に触れる。ビリッと甘い刺激が電流のように、お腹から爪先まで走り抜けた。
 案の定というか、脚の間は酷い有様だった。自分でも呆れてしまうほどに濡れている。溢れ出る露に指先を濡らしながら、七海は何かに取り憑かれたように手を動かした。一度誘惑に負けるとあとはどうしようもなかった。

「ぁ、はっ、ふうっ」

 声が漏れそうになって布団を噛む。誰も聞いていないとわかっていても、流石に小屋の外にまで響かせたくはなかった。
 最初は下着越しに割れ目をなぞっているだけだったが、すぐにそれでは我慢できなくなった。下着のウエストを持ち上げて、指を中に差し入れる。指先を熱い沼に埋めながら付け根のあたりで突起を擦ると、ぐちゅぐちゅと酷い音がした。与えられる快楽に涙を滲ませながら、七海は、だんだんと自分が高められていくのを他人事のように感じていた。
 内側から押し上げられるようにその瞬間が近づいてくる。ぎゅっと閉じた瞼の裏に、バチバチと星が散った。

「っ、ふぅ〜〜っっ!」

 身体中を長い長い絶頂が通り抜けて、それからがくんと力が抜けた。唾液を吸った布団から口を離して、はぁ、はぁ、と深い呼吸を繰り返す。掛け布団をばさっと跳ね除けると、熱気と共に篭っていた匂いがぶわりと部屋中に広がるのがわかった。
 暗闇の中、回らない頭を抱えて仰向けに横たわりながら、七海はどこからか向けられた視線が一部始終を見つめているのを感じていた。





 その夜に体験したことを、まさか彼女は馬鹿正直に全部話したわけではない。それでも、断片的な内容と話しているうちに真っ赤になった彼女の顔から、空也にはだいたいのことを察することができた。そもそも付き合い長いのだ。互いに大抵のことはわかる。

「七海、すっかりびびっちゃって。今ではもう『ただの迷信』だなんて思ってないと思います」

 空也は長い話を終えた。ふうん、と霧絵が考え込む。顔を上げて、彼女は空也と目を合わせて首を傾げた。

「七海ちゃんは、巫の役をやめたいとは言わなかったの? もともと勝手に決められたことなんだし、降りてもいいと思うけど……」
「ああ、それは」

 空也は苦笑いを浮かべた。今の説明では端折ったけれど、そのあたりはまだもう少しだけ経緯があるのだ。

「最初は“巫”をやるのは七海じゃなかったんです。二つ下の、中学生の子がいたんですけど。ただその子は虫が駄目なんですよね。小屋で一晩過ごすとか絶対に無理で」
「それで七海ちゃんが引き受けたんだ?」

 そういうことである。だから、今更やっぱり嫌だなどとは言えないのだ。そんなことをすれば、またその子にお鉢が回ることがわかっているから。

「そういうヤツなんですよ」
「よく知ってるのね」
「まあ、幼馴染ですから」
「大切なのね?」

 霧絵がさりげなく追及すると、空也はあっさりと答えた。

「はい」
「……いいわ」

 彼女は笑みを浮かべた。

「あなたたちが祀ろうとしている、『まひとさま』が一体どういうものなのか──調べるのを手伝ってあげる」


    ◯


 バスが村に入る頃にはいつも、乗車しているのはほんの数人だけになる。
 途中の停留所でバスが停まった間に、七海は空也が座っている席のひとつ後ろまで歩いていった。高校を出てすぐの停留所で乗ったときからそこに空也がいるのはわかっていたのだが、その頃にはまだ人が大勢乗っていたのだ。七海が近づいてきたのに顔を上げて気づいて、彼は眺めていたスマホをしまった。

「よ。なんか顔合わせるのは久々だな」
「私は部活あるもの」
「今日は?」
「今日は休み。昨日が試合だったから」

 幼馴染で高校も同じだが、クラスが違えばそんなに顔を合わせるわけではない。部活の朝練がある七海と彼では登校も別だ。彼の言う通り、こうして会うのは久々だった。

「なに調べてたの?」
「ん? んー、別に」
「……ふーん」

 七海の問いに、彼は少し考えてからごまかした。七海は敢えて追及しなかった。バスに乗ってからずっと、彼は真面目な顔でスマホで何かを読んでいる様子だった。乗り物に弱い空也がバスの中でスマホを開いているの自体、珍しいことだ。
 しばらくの間、七海たちは無言のまま揺られていた。バスは川を見下ろす道を走っている。交差点がないものだから、信号で停まることもほとんどない。空也は窓の外を流れていく景色を眺めているらしい。七海は彼の後ろ頭に視線を置いたまま言葉を探していたが、やがておもむろに口を開いた。

「あの宮司さん、『しろいし』に泊まってたのよね?」
「霧絵さんのこと?」

 彼女の眉間にむっと皺が寄った。霧絵さん、と来た。いつの間にそんな距離感になったのか。村の大人たちはみんな「佐久間さん」とか「佐久間先生」と呼んでいるはずだ。
 あの神職の女性が村に滞在していたのはほんの二日ほどの間だけだ。自治会の面々と祭についての打ち合わせをして、次に来るのはもう祭本番の直前なのだとか。彼はあくまでその間に泊まっていた宿の従業員というだけで、大して話す時間があったわけでもないだろうに、

「ずいぶん仲良くなったのね」
「仲良くっていうか……。いろいろ話とか聞かせてもらって。面白かったよ」
「ふーん」

 後ろの席でじとっと半眼になった彼女に気づいているのかいないのか、空也はあっけらかんと返答をよこした。「それから、あの人は宮司じゃないらしいぞ」などと言っている。七海は言葉を続けた。努めて声に感情を込めないようにしたつもりだが、多少冷たくなったかもしれない。

「綺麗な人だったわね」
「霧絵さん? すごい美人だよな」
「胸も大きいし」
「……あー、確かに」
「あの胸で神職は無理でしょって思った」

 空也は吹き出した。えふっ、えふん、と咳払いをして、慌てて表情を取り繕っているらしい。七海は少しだけ満足した。しばらくして会話を再開した彼の声には、まだ失笑の欠片が残っていた。彼女の口が悪いことは彼もよく知っている。
 「次は、加古津公民館前」とバスのアナウンスが告げた。七海は降車ボタンに指を伸ばした。ベルの音が響き、ランプが光る。
 「しろいし」があるのはもう一つ先の停留所だから、ここで降りるのは七海だけだ。バスが停まるのを待って、七海は手すりを掴んでシートを立ちあがった。「じゃ」と彼に言って狭い通路を通り過ぎようとしたとき、彼女は、後ろから呼び止められた。

「ななな」
「ナナナって言うな」

 七海は脊髄反射で言い返した。立ち止まって振り返ると、彼は安心させるように彼女を見つめていた。

「別に難しく考えることないからな」
「……」
「心配することないよ。役目があるって言っても、結局いろいろするのは大人だろ。七海はただ終わるの待ってればいいんだから」
「……わかってるわよ」

 ぶっきらぼうな答えに、彼は「じゃな」と手を振った。

 彼女が停留所に降りると、バスはエンジンをかけて再び走り出した。窓からちらりと空也の姿が見えた。
 彼がここのところ何を調べているのか、七海にはだいたいわかっていた。どうしてそんなことをしているのかも。──あのとき、七海が不安がっている様子を見せたからだ。口では心配なんてすることないと言いながら、彼は彼女を安心させるための材料を探しているのだ。そういう人だ、ということを、七海はよく知っていた。なにしろ幼馴染だから。





 髪を揺らして去っていく七海をバスの窓から見送って、空也はしまっていたスマホを再び取り出した。
 “まひと様”の手がかりを求めて、彼はこれまでに街の方にある町立図書館を訪ねていた(バスと足を合わせて一時間以上かかった)。この地域の逸話か伝承が纏められた本など見つからないかと思ったのだ。結果としてそういう本は見つけられたものの、都合よく加古津村の話だけを集めた本などあるはずはないから、本の内容は加古町や県全体のことになる。収められている昔話にしても、教訓めいてはいるが大して由来のなさそうなもの、妙に物騒なばかりで意図のわからないものなど方向性がバラバラだった。明らかにどこか他所の話を持ってきただろうというものもある。本を借りてきたはいいものの、空也はその先を調べる取っ掛かりを見つけられないでいた。
 そうして、彼が行き詰まりを感じていた頃、村に呼ばれた霧絵がやって来たのだった。

 ──「まひと」という名前を聞いて……

 彼女が「しろいし」を訪れた日。空也に事情を説明された後で、彼女は思案しながらそう口にした。

『すぐに思いつくのは、まず「真の人」よね』
『……はい』

 真人。空也もそれは考えた。天武天皇の時代に制定された八色(やくさ)の姓(かばね)の一つで、主に天皇家の子孫に下賜された、どうやら称号のようなものらしい。──すべてインターネットで調べただけの知識ではあるが。ちなみに八色の姓の中には“朝臣”という聞き馴染みのある名前も入っている。百人一首なんかで「藤原ナントカ朝臣」というような名前を見た気がするから、“真人”も似た使い方をするものなのだろう。
 だが、違和感があった。真人は一族全体に与えられた名前だ。個人名や個人を表す通り名ではなく、そんな漠然とした名前で信仰されることがあるのだろうか? 菅原道真とか崇徳院とか、人間が神様として祀られること自体は珍しいわけではないが。

『他に気になるのは……。そうね、「まひと」が正しい名前なのかってことかしら』
『どういうことですか?』
『ほら、“まひと様”についての話は村の覚えてる人に聞いただけで、文献か何かに示されていたわけじゃないでしょう? 彼らの間で代々言い慣わされてきた言葉なら、言いやすいように形が変わることもあるかもしれない』
『な、る、ほど……』

 それは考えなかった。もしそうだとすれば、「まひと」でいくら調べても手掛かりを得るのは難しいかもしれない。考え込んでしまった空也に、霧絵は励ますように明るい声をかけた。

『安心して。私も手伝ってあげるから。とりあえず、神社庁の方から近くの神社にあたって、似た信仰が伝わってないか調べてみるわ』

 ──そして、つい一昨日。霧絵から連絡があった。彼女から送られてきたメールには、この近くにある神社のことが書かれていた。過去にこの加古津村と付き合いがあったかどうかはわからないが、位置関係的にはあってもおかしくない。名前を「天目一神社」というその神社では、そのものずばり“天目一箇神”という神様を祀っているのだとか。

「あめの、まひとつのかみ……」

 そう読むらしい。一つ目の鍛冶の神だ。だから「目一(まひとつ)」。かつてこの村にも「まひとつ様」という呼ばれ方をする神様だか社だかがあって、それがいつの間にか「まひと様」に変わった──ということはあるだろうか。
 その天目一神社と連絡を取ることはできないだろうか、と空也はメールで訊いてみた。当時の加古津村と天目一神社の関わりを示すような情報があれば知りたいし、その中で“まひと様”の正体に迫る手掛かりを掴めれば御の字だ。霧絵は返信で、向こうの神社に話を通しておいてくれると言ってくれた。そういうわけで、空也は昨夜、天目一神社にメールを打った。そちらの神社が記録しているもので、50年前以前の加古津村に触れた資料か何かあれば教えていただけないか。
 返事が来るまで、とりあえずは待ちになる。昨夜から空也は、その天目一箇神について調べてみていた。
 天目一箇神とは、日本書紀に登場する鍛冶の神だ。天照大御神が岩戸に引き籠ったときに外に引っ張り出すための儀式の道具を造ったとか、国譲りをした大物主神を祀る祭具を造ったとか、ともかく日本神話において色々な金属具をつくる役割を担っているらしい。なぜ一つ目かといえば、これは鍛冶師の職業病として片目を傷めるものがあったからだという。鍛冶の神が一つ目というのは、世界的に他にも例があるのだとか。

「……」

 調べているうちに、気になることがあった。
 もう一つ、『播磨国風土記』にも天目一箇神が登場するらしい。この書物のうち、天目一箇神が登場するのは“託賀郡の条”──つまり、託賀郡という場所であったことを記した章だ。空也の目に留まったのはこの地名だった。「託」という字は「たくす」と読むが、他にも「かこつ」とも読むのではなかったか。
 彼が住むこの村は加古津村という。

(単なる偶然、かもしれないけど……)

 空也は試しに「託」という字を漢字辞典で引いてみた。いくつも意味が並んでいる。
 たのむ。たよる。あずける。
 かこつける。ことよせる。
 神仏のお告げ。

「……ふう」

 空也はスマホの電源を切った。目を閉じてシートの背もたれに頭を預ける。少し長く画面を見過ぎただろうか、軽く酔いが回っている感覚がある。
 託賀。賀を託す。加古津村。この符合には何か意味があるのだろうか。これが単なる偶然でないとすれば。

 この村は、何を託されたというのだろう?
24/11/23 19:30更新 /
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■作者メッセージ
ちなみに、空也のビジュアルイメージはワートリの香取(兄)です。糸目ののんびり屋。

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