白石空也
「しろいし」は小さな民泊だったが、中の様子はなかなか悪くなかった。元は作業場か何かを兼ねた住居だったのだろうか、今はロビーとして整えられ、掃除もきちんと行き届いている。
わざわざ外まで出迎えに来てくれた宿の主人は、朗らかに話しかけながら彼女を建物の中に案内した。今はカウンターの奥に回って棚からノートを取り出している。宿帳ということらしい。ノートに書かれた記録を見る限り、彼女より前に最後に客が泊まったのはもうだいぶ前だ。今も彼女の他に宿泊客はいない。
「では、ここにお名前をお願いします」
差し出されたペンを受け取って、キャップを外す。ノートの一番新しい行に、彼女は「佐久間 霧絵」と記入した。
部屋の窓からは、彼女が訪れたこの加古津(かこづ)村の様子が一望にできた。
四方をぐるりと山に囲まれ、中心部に拓かれた畑の真ん中を川が貫いて流れている。主要な産業は林業と野菜の栽培。もちろん住民全員が農林業に従事しているわけではなく、町まで働きに出ている人も多い。ちなみにこの宿の主人も本業は別にあるそうだ。集落は畑を縁取るように山際に散らばっている。
言ってしまえば、ド田舎である。仕事でなければ一生来ることはなかったかもしれない。霧絵も実際に来る前は宿をどうしようか迷っていたくらいで、自治会の面々がここを紹介してくれて助かった。まあ二、三日のことだから、毎日ふもとの町から通ってもよかったが。
ジャケットを脱いでクローゼットに掛けたところで、コンコン、と部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
霧絵が促すと、ノックの主はそう挨拶をして部屋に入ってきた。
先程の主人ではない。おそらくはその息子だろう、高校生くらいの男の子だ。さっき霧絵がロビーにいたとき、隅で掃除をしていたのを見た。彼は入り口のところで一礼した。
「お食事やお風呂の説明をさせていただきます」
「はいはい」
霧絵が歩いていくと、彼はメモを見ながら説明を始めた。あまり慣れてはいないようで、ところどころ詰まったりつっかえたりしている。たまにしか客が来ないのなら慣れないのも仕方ないか、と彼女は思った。それでも、彼が真面目で誠実な性格をしているらしいことは、見ていればわかった。
「──以上となります」
「ありがとう」
「はい、……」
メモをパタリと閉じた彼に、霧絵は礼を言った。彼はそれに応えるように再び頭を下げた。……のはいいが、そのまま部屋から出ていくでもなくその場に立ってそわそわとしている。説明は終わったというのに、まだ何か言いたげだ。
──ところで。彼女は、自分の美貌のことをよく知っている。服を突き上げるバストがどれだけ男の視線を惹きつけるかも、引き締まったウエストや(今は隠しているが)すらりと伸びた太ももが彼らの目にどのくらい魅力的に映るかも承知している。街を歩いていれば、ちらちらと視線が突き刺さるのは珍しいことではない。
「どうかしたの?」
だが、どうもこの子の視線はそういった類のものではなさそうだ。霧絵は促した。そういった類のものでも、彼女としてはそれはそれで構わないのだが。
促された後も、彼はまだ迷っているようだったが、やがて意を決したように口を開いた。
「こんなこと、本当はお客様にお尋ねするのはよくないと思うんですが」
「いいわよ。聞いてあげる」
「佐久間様は……」
「霧絵でいいわ」
彼は目をパチクリとさせた。
「あ、はい、桐絵様は」
「様もいらない」
「いや、そういうわけには」
「あら? でも、“お客様”にする話じゃないんでしょう?」
彼女が言うと、彼は「そうですね」と苦笑した。改めて話を続けようとして、そういえば自分は名乗っていないことに気づいたのだろう。いきなり会話を区切って自分の胸に手を当てる。
「あ、僕は空也といいます」
「空也くんね」
元来は割とのんびりした性格なのだろう、と霧絵は思った。タイミングが独特だ。ただ、今の彼にはどうやら何か気にかかっていることがあるらしく、一度話を逸らしてもすぐに表情を曇らせて元に戻してしまうようだった。空也は本題を続ける。
「それで……。霧絵さんは、宮司、さん? なんですよね」
「正確には宮司ではないんだけど、まあ、神職ね」
「今回の祈祷のために来てくださった?」
「そうね。そのために呼ばれたわ」
「じゃあ、教えてください」
問われたことに答えていく霧絵を、彼は大真面目な表情で見つめた。ごくんと唾を呑み込んで。
「僕らが祀ろうとしているのは──何なんでしょうか」
◯
T郡加古町加古津──加古津村は、古くから細々と農業で生活を立てていた村である。この「古くから」というのが地域的に古代まで遡ることができるレベルの古さなのだが、それだけの歴史があるとはいっても、別に栄えているわけではない。現在の人口は500人ほどだ。今から50年近く前、大規模な水害で住人の大部分が犠牲になったときなど、集落の存続そのものが危うくなったことさえある。現在の住人のほとんどはその後に町から移り住んできた人間とその子・孫たちだ。
で、まあそういうわけで、現在の加古津は主に野菜の生産を行っている。ところが、つい昨年のことである。その野菜の栽培に問題が起きるようになったのだ。
「端的に言うと、野菜の生育が異常によくなりました」
おおよその話は自治会長から聞いている。だが、ちょうどいいので、霧絵は空也からも話を聞かせてもらうことにした。
何が起こったか。端的に言うと、異常に生育がよくなった。背は伸び葉は繁り、ナスやトマトなどの実は摘果が追いつかないほどたわわに実った。生産量でいうと前までの年の倍近くにまでなったそうだ。これだけでも問題ではあるのだが、なによりの問題は、そのほとんどが奇形だったことだった。辛うじて色で区別できるが、見た目はどれも内側から過剰に膨らんで、もうほとんど元の野菜とは似ても似つかない。
そういえば──と彼らは思った。ここまであからさまではなかったものの、数年前から既に、こういった症状を示すものは偶に出ていた。以前からじわじわと、何らかの異変が広がっていたのだろうか。
一応、自分たちで食べるには問題ない。味も、特には普通のものと変わりないようだ。だが、これでは卸すことはできなかった。農協に引き取ってもらえなければ、野菜農家としては食い扶持を失ったのと同じことだ。結局その年は酷い赤字だったと彼は聞いていた。そして被害はその年だけでは収まらず、今年もすでに同じ異常成長の兆候が見られていた。
「一応、大学の先生に来てもらって、水や土の成分も調べてもらったんですけど……」
特に問題のある物質は検出されなかった。一度は放射線まで調べたのだ。もちろん結果は問題なし。植物にはこれだけ異常が現れているのに、原因がさっぱりわからないのだった。
もはや完全にお手上げである。そんなとき、村の一部の年寄りたちが、唐突にこんなことを言い出した。
「『まひとさま』のお祀りが途絶えているからだ、と」
「まひとさま、……ね」
「正直、僕らにとっては寝耳に水だったんですけど」
彼らの言うことによれば、このような異常が起こる原因はそれだというのだ。
前にも言った通り、加古津村は約50年前の水害の後、外の住人たちが移住してきたという経緯がある。空也の両親や祖父母もその中の一員だ。新しい住人たちは、それ以前からこの村で行われていた信仰を知らない。まひと様という神も、もちろんそれを祀った神社や儀式が存在することも、初めて聞く内容だった。
果たして彼らの言った通り、小さな社が山中に発見された。半世紀近くほっとかれていたわけだから相当に傷んではいたが、辛うじて形を保っていた。さてお社が見つかったはいいとして、これをどうするか、本当にこれを祀るのか、という話があったが、
「もう、うちの村としても打つ手がなくて……。駄目で元々、やってみてもいいだろうってことになったんです」
「それで私が呼ばれたわけね」
「はい、村の中には正しいやり方を覚えている人も、ちゃんとした資格のある人もいなかったので。ありがとうございます」
彼はそう言ってまた頭を下げた。流石に客商売の家の子というか、その仕草は板についている。だが、顔を上げた空也は、釈然としない表情をしていた。
「……本当のことを言うと、こんなことを本職の方に言うのは失礼ですけど、僕はあんまりピンと来なかったんです。
打つ手がないのはわかるけど、神頼み? この現代に? って」
彼の言うことはわからないでもない。だが、霧絵の得てきた知識からしてみれば、それは別に珍しいことでもなかった。現代でも家を建てようと思ったらその前には地鎮祭というものをするし、車祓いのために神社を訪れる人も少なくはない。七五三なんかはそういった“生活の中の祈祷”の最たるものだろう。無信心を主張する割に、この国の人間は迷信深い。
だが、ともかく彼が引っかかっているのはそこではないはずだ。彼はさっき、「自分たちが祀ろうとしているのは何なのか」と訊いた。神頼みという手段が信用できないことが問題なのなら、そういう問いにはならない。
「でも、空也くんが気にしてるのはそこじゃないんでしょう?」
「……はい」
霧絵が確認すると、空也は神妙な顔で頷いた。
「あ、えーっと、それを説明しようとすると、まず“祭”の内容から説明しないといけないんですが……。霧絵さんは、祭のだいたいの流れについてもうお聞きになりましたか?」
「ええ。もちろん」
霧絵は頷いた。彼女は今日、この宿に来る前に、村の自治会の面々と話をしていたのだ。彼らは霧絵のいる神社に祈祷を依頼する前に、あらかじめ当時のことを知っている年寄りたちから祭の大枠のところを聞き取っていたらしい。
まず、祭は毎年行われるわけではない。およそ50年に一度、彼らも正確なことを覚えているわけではないが、ともかくそのくらいの周期で行われていたという。つまり、祭を知っている年寄りたちも、二回以上それを経験したことのある者はいない。
そして流れはこうだ。祭に先だち、住人たちの中から「巫」の候補を一人選ぶ。巫は必ず女で、歳は十三、四くらいだったそうだ。巫候補に選ばれた女性は、社のある山で一晩過ごし、まひと様の選別を受ける。まひと様に認められて、ようやくその女性は巫になることができるのだ。
祭の当日、巫は身を清め、今度は社の本殿に参ることになる。そこで彼女はまひと様と──
「一つになる、んだそうです」
呟くように言う空也の表情は、極めて重いものだった。
“一つになる”。いろいろと意味は考えられる言葉だ。だが、この深刻な表情から見るに、彼が考えているのは、
「そのまひと様っていうのと、交わ──」
「──そうとは限らないわ。『巫』っていうくらいなんだから、神……“まひと様”を降(おろ)すことをそう表現しているのかもしれない。そうやって定期的に神さまと繋がりを作ることで、ご利益を受け取ろうって考えね」
「そ、……う、ですね」
答えて、ふう、と彼は息を吐いた。一人で考えているうちにどんどんと悪い方へと想像を膨らませてしまうというのは、これもまたよくあることだ。“まひと様”を祀る話が出てからこちら、彼は色々とずっと考え続けていたのかもしれない。
だが、霧絵の言葉を聞いても、空也はあまり安心したようには見えなかった。霧絵は首を捻った。「神を降す」だなんて、それこそこの現代で考えれば、どうせそういう体で儀式をするだけだ。神頼みを迷信だと呆れる少年が本気にするようなこととも思えないが……。
「今回“巫”に選ばれたのは、空也くんの知り合いなのね?」
「はい。……まあ、小さい村なので、みんな知り合いといえば知り合いなんですけど」
空也の視線にためらいが滲んだ。どうやら核心に踏み込んだことを、霧絵は直感した。
「巫は、僕の同級生で、名前を桑名七海といいます」
「七海ちゃん。巫だから、もちろん女の子よね」
祭の前段階、巫選びは既に完了している。桑名七海は巫の候補に指名され、年寄りたちのあやふやな記憶に従って、山の入り口にある小屋で一晩を過ごした。
まひと様に認められる、ということが、何をもってそういえるのかは誰もわからなかった。おそらくは何か既に形骸化した手順があって、今はそれをただなぞっているのだと、そのときの空也や村のおおよその人間や思っていたのだが──
「一晩経って山から戻ってきた七海は、ひどく……なにか、心ここに在らずって感じでした」
隠してはいたが、ほとんど怯えているといってもいいくらいだった。後から様子がおかしいことに気づいた彼が尋ねると、彼女は言ったのだ。彼女自身半信半疑ではあったが、わたし──
認められたと思う、と。
わざわざ外まで出迎えに来てくれた宿の主人は、朗らかに話しかけながら彼女を建物の中に案内した。今はカウンターの奥に回って棚からノートを取り出している。宿帳ということらしい。ノートに書かれた記録を見る限り、彼女より前に最後に客が泊まったのはもうだいぶ前だ。今も彼女の他に宿泊客はいない。
「では、ここにお名前をお願いします」
差し出されたペンを受け取って、キャップを外す。ノートの一番新しい行に、彼女は「佐久間 霧絵」と記入した。
部屋の窓からは、彼女が訪れたこの加古津(かこづ)村の様子が一望にできた。
四方をぐるりと山に囲まれ、中心部に拓かれた畑の真ん中を川が貫いて流れている。主要な産業は林業と野菜の栽培。もちろん住民全員が農林業に従事しているわけではなく、町まで働きに出ている人も多い。ちなみにこの宿の主人も本業は別にあるそうだ。集落は畑を縁取るように山際に散らばっている。
言ってしまえば、ド田舎である。仕事でなければ一生来ることはなかったかもしれない。霧絵も実際に来る前は宿をどうしようか迷っていたくらいで、自治会の面々がここを紹介してくれて助かった。まあ二、三日のことだから、毎日ふもとの町から通ってもよかったが。
ジャケットを脱いでクローゼットに掛けたところで、コンコン、と部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
「失礼いたします」
霧絵が促すと、ノックの主はそう挨拶をして部屋に入ってきた。
先程の主人ではない。おそらくはその息子だろう、高校生くらいの男の子だ。さっき霧絵がロビーにいたとき、隅で掃除をしていたのを見た。彼は入り口のところで一礼した。
「お食事やお風呂の説明をさせていただきます」
「はいはい」
霧絵が歩いていくと、彼はメモを見ながら説明を始めた。あまり慣れてはいないようで、ところどころ詰まったりつっかえたりしている。たまにしか客が来ないのなら慣れないのも仕方ないか、と彼女は思った。それでも、彼が真面目で誠実な性格をしているらしいことは、見ていればわかった。
「──以上となります」
「ありがとう」
「はい、……」
メモをパタリと閉じた彼に、霧絵は礼を言った。彼はそれに応えるように再び頭を下げた。……のはいいが、そのまま部屋から出ていくでもなくその場に立ってそわそわとしている。説明は終わったというのに、まだ何か言いたげだ。
──ところで。彼女は、自分の美貌のことをよく知っている。服を突き上げるバストがどれだけ男の視線を惹きつけるかも、引き締まったウエストや(今は隠しているが)すらりと伸びた太ももが彼らの目にどのくらい魅力的に映るかも承知している。街を歩いていれば、ちらちらと視線が突き刺さるのは珍しいことではない。
「どうかしたの?」
だが、どうもこの子の視線はそういった類のものではなさそうだ。霧絵は促した。そういった類のものでも、彼女としてはそれはそれで構わないのだが。
促された後も、彼はまだ迷っているようだったが、やがて意を決したように口を開いた。
「こんなこと、本当はお客様にお尋ねするのはよくないと思うんですが」
「いいわよ。聞いてあげる」
「佐久間様は……」
「霧絵でいいわ」
彼は目をパチクリとさせた。
「あ、はい、桐絵様は」
「様もいらない」
「いや、そういうわけには」
「あら? でも、“お客様”にする話じゃないんでしょう?」
彼女が言うと、彼は「そうですね」と苦笑した。改めて話を続けようとして、そういえば自分は名乗っていないことに気づいたのだろう。いきなり会話を区切って自分の胸に手を当てる。
「あ、僕は空也といいます」
「空也くんね」
元来は割とのんびりした性格なのだろう、と霧絵は思った。タイミングが独特だ。ただ、今の彼にはどうやら何か気にかかっていることがあるらしく、一度話を逸らしてもすぐに表情を曇らせて元に戻してしまうようだった。空也は本題を続ける。
「それで……。霧絵さんは、宮司、さん? なんですよね」
「正確には宮司ではないんだけど、まあ、神職ね」
「今回の祈祷のために来てくださった?」
「そうね。そのために呼ばれたわ」
「じゃあ、教えてください」
問われたことに答えていく霧絵を、彼は大真面目な表情で見つめた。ごくんと唾を呑み込んで。
「僕らが祀ろうとしているのは──何なんでしょうか」
◯
T郡加古町加古津──加古津村は、古くから細々と農業で生活を立てていた村である。この「古くから」というのが地域的に古代まで遡ることができるレベルの古さなのだが、それだけの歴史があるとはいっても、別に栄えているわけではない。現在の人口は500人ほどだ。今から50年近く前、大規模な水害で住人の大部分が犠牲になったときなど、集落の存続そのものが危うくなったことさえある。現在の住人のほとんどはその後に町から移り住んできた人間とその子・孫たちだ。
で、まあそういうわけで、現在の加古津は主に野菜の生産を行っている。ところが、つい昨年のことである。その野菜の栽培に問題が起きるようになったのだ。
「端的に言うと、野菜の生育が異常によくなりました」
おおよその話は自治会長から聞いている。だが、ちょうどいいので、霧絵は空也からも話を聞かせてもらうことにした。
何が起こったか。端的に言うと、異常に生育がよくなった。背は伸び葉は繁り、ナスやトマトなどの実は摘果が追いつかないほどたわわに実った。生産量でいうと前までの年の倍近くにまでなったそうだ。これだけでも問題ではあるのだが、なによりの問題は、そのほとんどが奇形だったことだった。辛うじて色で区別できるが、見た目はどれも内側から過剰に膨らんで、もうほとんど元の野菜とは似ても似つかない。
そういえば──と彼らは思った。ここまであからさまではなかったものの、数年前から既に、こういった症状を示すものは偶に出ていた。以前からじわじわと、何らかの異変が広がっていたのだろうか。
一応、自分たちで食べるには問題ない。味も、特には普通のものと変わりないようだ。だが、これでは卸すことはできなかった。農協に引き取ってもらえなければ、野菜農家としては食い扶持を失ったのと同じことだ。結局その年は酷い赤字だったと彼は聞いていた。そして被害はその年だけでは収まらず、今年もすでに同じ異常成長の兆候が見られていた。
「一応、大学の先生に来てもらって、水や土の成分も調べてもらったんですけど……」
特に問題のある物質は検出されなかった。一度は放射線まで調べたのだ。もちろん結果は問題なし。植物にはこれだけ異常が現れているのに、原因がさっぱりわからないのだった。
もはや完全にお手上げである。そんなとき、村の一部の年寄りたちが、唐突にこんなことを言い出した。
「『まひとさま』のお祀りが途絶えているからだ、と」
「まひとさま、……ね」
「正直、僕らにとっては寝耳に水だったんですけど」
彼らの言うことによれば、このような異常が起こる原因はそれだというのだ。
前にも言った通り、加古津村は約50年前の水害の後、外の住人たちが移住してきたという経緯がある。空也の両親や祖父母もその中の一員だ。新しい住人たちは、それ以前からこの村で行われていた信仰を知らない。まひと様という神も、もちろんそれを祀った神社や儀式が存在することも、初めて聞く内容だった。
果たして彼らの言った通り、小さな社が山中に発見された。半世紀近くほっとかれていたわけだから相当に傷んではいたが、辛うじて形を保っていた。さてお社が見つかったはいいとして、これをどうするか、本当にこれを祀るのか、という話があったが、
「もう、うちの村としても打つ手がなくて……。駄目で元々、やってみてもいいだろうってことになったんです」
「それで私が呼ばれたわけね」
「はい、村の中には正しいやり方を覚えている人も、ちゃんとした資格のある人もいなかったので。ありがとうございます」
彼はそう言ってまた頭を下げた。流石に客商売の家の子というか、その仕草は板についている。だが、顔を上げた空也は、釈然としない表情をしていた。
「……本当のことを言うと、こんなことを本職の方に言うのは失礼ですけど、僕はあんまりピンと来なかったんです。
打つ手がないのはわかるけど、神頼み? この現代に? って」
彼の言うことはわからないでもない。だが、霧絵の得てきた知識からしてみれば、それは別に珍しいことでもなかった。現代でも家を建てようと思ったらその前には地鎮祭というものをするし、車祓いのために神社を訪れる人も少なくはない。七五三なんかはそういった“生活の中の祈祷”の最たるものだろう。無信心を主張する割に、この国の人間は迷信深い。
だが、ともかく彼が引っかかっているのはそこではないはずだ。彼はさっき、「自分たちが祀ろうとしているのは何なのか」と訊いた。神頼みという手段が信用できないことが問題なのなら、そういう問いにはならない。
「でも、空也くんが気にしてるのはそこじゃないんでしょう?」
「……はい」
霧絵が確認すると、空也は神妙な顔で頷いた。
「あ、えーっと、それを説明しようとすると、まず“祭”の内容から説明しないといけないんですが……。霧絵さんは、祭のだいたいの流れについてもうお聞きになりましたか?」
「ええ。もちろん」
霧絵は頷いた。彼女は今日、この宿に来る前に、村の自治会の面々と話をしていたのだ。彼らは霧絵のいる神社に祈祷を依頼する前に、あらかじめ当時のことを知っている年寄りたちから祭の大枠のところを聞き取っていたらしい。
まず、祭は毎年行われるわけではない。およそ50年に一度、彼らも正確なことを覚えているわけではないが、ともかくそのくらいの周期で行われていたという。つまり、祭を知っている年寄りたちも、二回以上それを経験したことのある者はいない。
そして流れはこうだ。祭に先だち、住人たちの中から「巫」の候補を一人選ぶ。巫は必ず女で、歳は十三、四くらいだったそうだ。巫候補に選ばれた女性は、社のある山で一晩過ごし、まひと様の選別を受ける。まひと様に認められて、ようやくその女性は巫になることができるのだ。
祭の当日、巫は身を清め、今度は社の本殿に参ることになる。そこで彼女はまひと様と──
「一つになる、んだそうです」
呟くように言う空也の表情は、極めて重いものだった。
“一つになる”。いろいろと意味は考えられる言葉だ。だが、この深刻な表情から見るに、彼が考えているのは、
「そのまひと様っていうのと、交わ──」
「──そうとは限らないわ。『巫』っていうくらいなんだから、神……“まひと様”を降(おろ)すことをそう表現しているのかもしれない。そうやって定期的に神さまと繋がりを作ることで、ご利益を受け取ろうって考えね」
「そ、……う、ですね」
答えて、ふう、と彼は息を吐いた。一人で考えているうちにどんどんと悪い方へと想像を膨らませてしまうというのは、これもまたよくあることだ。“まひと様”を祀る話が出てからこちら、彼は色々とずっと考え続けていたのかもしれない。
だが、霧絵の言葉を聞いても、空也はあまり安心したようには見えなかった。霧絵は首を捻った。「神を降す」だなんて、それこそこの現代で考えれば、どうせそういう体で儀式をするだけだ。神頼みを迷信だと呆れる少年が本気にするようなこととも思えないが……。
「今回“巫”に選ばれたのは、空也くんの知り合いなのね?」
「はい。……まあ、小さい村なので、みんな知り合いといえば知り合いなんですけど」
空也の視線にためらいが滲んだ。どうやら核心に踏み込んだことを、霧絵は直感した。
「巫は、僕の同級生で、名前を桑名七海といいます」
「七海ちゃん。巫だから、もちろん女の子よね」
祭の前段階、巫選びは既に完了している。桑名七海は巫の候補に指名され、年寄りたちのあやふやな記憶に従って、山の入り口にある小屋で一晩を過ごした。
まひと様に認められる、ということが、何をもってそういえるのかは誰もわからなかった。おそらくは何か既に形骸化した手順があって、今はそれをただなぞっているのだと、そのときの空也や村のおおよその人間や思っていたのだが──
「一晩経って山から戻ってきた七海は、ひどく……なにか、心ここに在らずって感じでした」
隠してはいたが、ほとんど怯えているといってもいいくらいだった。後から様子がおかしいことに気づいた彼が尋ねると、彼女は言ったのだ。彼女自身半信半疑ではあったが、わたし──
認められたと思う、と。
24/09/23 22:02更新 / 睦
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