魔女狩りの村 その2
「じゃ、準備はいいですか?」
そう言って、サラはエミール少年のウィッグの位置を整える。
天幕の隙間から物理法則を無視して外へ伸びていた少年の影が、するすると彼の元に戻ってきて、そこからミーファが顔を出した。
「今なら、だれにも見られずに外に出られますわ。雲が出てきて、月も隠れてます」
サラ、ミーファ、エミール少年の三人は、目を合わせてこくりと頷いた。
三人は、荷物を出し入れする後方の搬送口ではなく、御者台のある馬車前方へと移動した。サラが顔だけ外に出して、周囲を確認する。問題なかったらしく、長い尻尾を器用に動かして、少年の腕を引く。
エミール少年としては、御者台などにまわって馬が暴れたりしないか心配だったが、夜は馬を別のところに繋いでいるらしく、顔を出した先に馬の姿は無かった。
サラに手を引かれ、御者台から湿った土の上に、静かに飛び降りる。
荷馬車を挟んだ背後からは、ワイワイと賑やかな人の気配がする。
「どうします? 火でも着ければ逃げやすくなると思いますが」
「いや、サラ、やめようよ……」「流石に良心の呵責というのもがありますわ……」
「んじゃ、このままズラかりますか」
二人(と影に潜んだ一人)は速やかに、連なる荷馬車の群れの中を、身を屈め隠れながら、小走りで移動を始めた。
商隊は今夜の宿泊地として、草原を走る街道のすぐ側を選んだらしい。街道の続く先には、こんもりとした森が見える。恐らく、森の中で夜を迎えるのを避けたのだろう。
「とりあえず、あの森に逃げ込みましょう。流石に夜の森を散策するほど、連中も飢えては無いでしょうからね」
サラが小声で指示を出した。
周囲には何人かの見張りを見つけることも出来たが、彼らが警戒しているのは外部から襲いくる野党や獣、魔物の類であり、脱走者がいるなどとは発想もしていないようだった。
こういったことに場慣れしたサラの先導もあり、一行は見張りの死角を突いて馬車群の中をすいすいと進んでいった。そして、もう少しで森側に出ると思った時である。
ガウガウガウッ!
と、猛烈な吠え声と共に、馬車の下から複数の犬の頭が現れた。じゃらじゃらと鎖の鳴る音もする。
突然足元から現れた犬達に、エミール少年は驚いて尻餅をつきそうになるが、サラがそれを瞬時に受けとめ、その勢いのまま少年の腕を引いて、森に向けて走り始めた。
「なんだ!? どうした!?」
馬車を挟んですぐ反対側から、若い男の声がする。
サラが走りながら、張り詰めた声で口走る。
「番犬がいたんだ! 気が付かなかった!」
背後が騒がしくなる。振り返れば、ランタンらしきいくつも光の点が動き回っている。
「ボス、振り返らないで! 姉御も、大人しくしててください! 大丈夫です、狼除けの番犬は、逃げる獲物を追うようには訓練されてませんから!」
だがしかし、サラがそう言った矢先、背後から獣が草を蹴る音が近づいてきた。そしてそれは、背後だけでなく左右からも近づいてくる。
『ちょっと! 追いかけてきてますわよ!』
ミーファが、影の中から二人に語り掛ける。
「なっ!? 吠え声も上げずに!? こいつら、ちょっとおかしいです! 普通の商隊じゃあない!」
もう少しで森に届くというところで、目の前に二匹の犬が飛び出してきた。
鋭く吠えて、エミール少年とサラの足を止める。
背後と左右から追いかけてきていた犬たちも合流し、五匹の犬が、唸りながら二人の周りをぐるぐると回り始めた。サラが、エミール少年を庇うように自分の背後に回す。
ランタンの明かりの群れが、近づいてくる。
商隊のリーダーである大男が一歩進み出て、いやらしい猫撫で声で語り掛けてきた。
「お嬢ちゃんたち、そりゃないだろう? ただ乗りは立派な犯罪なんだぜ?」
言っていることは一応真っ当ではあるが、男とその取り巻きが醸し出す異様な雰囲気は、既に堅気のそれではなかった。
「なにも、法外な運賃を頂こうって訳じゃねえ。妹ちゃんは聞いてないのかもしれないが、ちゃんとお姉ちゃんが俺たちと交渉して決めた対価なんだぜ?」
少年たちを取り囲む男達が、下卑た笑い声を上げた。その輪の中から、煽り立てる様な声が上がった。
「ま、どうしても嫌ってんなら、他にも請求方法はあるがな! もっとも、それだと宛先不明のお釣りが出ちまうが!」
笑い声が、一段と大きくなる。大男も、くっくっくと噛み締めるように笑いを上げた。
「やっぱりあんたら、人攫いか! ったく、ホントにタダってのが一番タチ悪ぃな!」
サラが吐き捨てるように言う。
大男が、薄ら笑いを浮かべたまま、手を前に出して待ってくれ、とジェスチャーをする。
「いやいや、誤解しないでくんな。お姉ちゃんの予想も外れちゃいないが、昔の話さ。ついこないだ、隣国のお得意さんが潰されちまってね。今までと同じじゃ食っていけないってんで、同業者で集まってデカいキャラバン作ったって訳よ。ついつい口が滑って昔の脅し文句が出ちまったが、今は善良な一般商人さ」
そう言って、大男はその長い腕を伸ばし、エミール少年を庇うように立つサラの頭上を越えて少年の首根っこを掴むと、ぐいっと自分の元に引き寄せた。少年も抵抗を試みたが、圧倒的な体格差のせいで、宙に持ち上げられてしまう。
「だからよ、大人しく最初の約束で手を打とうや? 普通の商人ってのは契約を守るし、守らせるもんなんだろ? なあ、妹ちゃんが余計に痛い思いするのは、姉として見過ごすべきじゃないと思うぜ、俺は」
大男はにやにやと笑って、中釣りにした少年をゆらゆらと揺らしたが、サラはそれどころでは無かった。少年の影が、にわかに泡立ち始めたからだ。
「ああ姉御! 落ち着いて! 今出たらだめです!」
「あん? 何言ってんだ? 俺はこのガキが……うおぉ!?」
大男はサラの発言の意味が分からず、怪訝そうに声を出したが、疑問をきちんと言葉にする前に前に、その言動は中断された。彼の足元から、何本もの強靭な影の蔦が飛び出したからだ。
蔦は、大男を空中で縛り上げ、エミール少年を優しく、抱き止めるようにして大男から引き離す。
大男は、訳も分からずに周囲をきょろきょろと見渡し、「どうした」「何が起こった」と喚き散らした。
だが、彼の仲間たちにこの状況を理解できるものなど存在しない。皆一様に、戸惑いながら顔を見合わせ、一歩身を引いている。
唯一、サラだけが頭を抱え、「やっちまった……」と小さく呟いた。
次々と湧き出す影の蔦は、重なり絡み合いながら周囲に広がり、大男の取り巻きたちへ迫ってゆく。
何人かが、「なんだこれは!?」「断ち切れ!」などと言って剣を振るうも、逆に得物を絡め取られてしまう。少年たちの周囲を囲んでいた犬も、いつの間にか世話係らしい男の後ろに隠れ、捨てられた子犬のような情けない声を上げている。
部下たちの情けない姿を見て痺れを切らしたのか、大男ががなり立てた。
「ばかもんども! 早く助けんか!」
「あら、危険を冒して仲間を助けるような正義漢が、この場にいまして?」
突然の背後からの呼びかけに、大男が驚いて振り返る。
しかし、蔦で体が縛られているせいで、真後ろが見えない。
ミーファは、大男の後頭部に張り付くように、フワフワと宙に浮いていた。
取り巻きたちがどよめく。
「ま、魔物だ!」「逃げろ、食われるぞ!」
蜘蛛の子を散らすように逃げ出した取り巻きたちの背に向けて、大男が喉が潰れんばかりの大声をあげる。
「ま、魔物だと!? どこだ! どこにいるんだ! 後ろか!? 俺の後ろなのか!? 待て、逃げるな、助けてくれ! どんな奴だ!? おい、助けて! 助けろ! 頼む助けて!!」
徐々に小さくなっていく無数のランタンの明かりに向けた声は、徐々に悲壮感の溢れたものへと変わってゆく。
そんな大男の頬を、影の蔦が、つー、と撫でた。
「ひぃ!?」
蔦は男の顔を這うように、ゆっくりと彼の目を覆った。
ミーファは、歯の隙間でシューッと分かりやすい呼吸音を立て、そのままゆっくりと、視界を奪われた大男に近づいていく。
「た、たすけ…」
男の喉から声にならない渇いた声が漏れ、脂汗がたらたらと頬を伝う。
ミーファは自分の口が大男の耳元に来た時、影の蔦にぐっと力を入れた。
大男はびくんと体を痙攣させ、上体を弓なりに逸らしたかと思うと、そのまま力無く頭を垂れた。
失神したらしい。
「ふう」
ミーファが影の蔦を解き始める。
気を失った大男はゆっくりと地面に降ろされ、夜の静寂が戻ってくる。
既に遠くに見えるキャラバンでは、いくつかの小さな明かりが動き回っているようだった。逃げ帰った者達が、魔物を迎撃するための準備を整えているのだろう。
「初めてやりましたが、なかなか楽しいですわね。こういうのも」
ふむふむと満足げに頷きながら、ミーファが地上付近まで下りてくる。エミール少年が、ミーファに駆け寄る。
「この男の人は?」
心配そうに口を開く少年であったが、ミーファが優しい声音で返す。
「大丈夫、脅かしただけで、怪我などはさせてないですわ。さ、とりまき方が戻ってくると面倒です。とっとと森に入りましょう」
事が思っていたように運び機嫌を良くしたのか、先陣を切って森の中へと続く道を進んで行くミーファに、エミール少年と、何故だか機嫌の悪そうなサラが、後に続いたのだった。
☆
季節は夏真っ盛りであり、枝葉が深く生い茂った夜の森は、街道上とはいえ既に人間の領域とはほど遠いものであったが、それらも三人にとっては大した脅威ではなかった。
夜目の効くミーファが先頭を切り、後尾では気配に敏感なサラが、ウィッグだけを外して大きな耳で周囲に気を配りつつ、二人に挟まれ行進するエミール少年をサポートする。さらに、三人の周囲には常にミーファの影の蔦が展開されることで、防御壁を形成していた。唯一、気がかりなことがあるとすれば、ミーファの魔力に負担がかかりすぎているという事だろうか。
なので、適当に追っ手もつかないであろう距離を進んだら、三人は割とすぐに休憩の準備に入った。
三人は街道から外れ、森の中へと分け入っていった。少し進んだ先で、ミーファが影で作った菖蒲の葉の刃を用いて、邪魔な枝葉を切り払い、ちょっとした空間をつくる。サラは街道の方向が分かるよう、地面に目印を置いた後、焚火の準備に入った。
すぐに火が付き、安定する。
すると、サラが背嚢からバゲットと、トロッコの車輪の様に大きくて丸いチーズを取り出した。
「ちょっとサラ、そんなものどこで買いましたの。路銀が心もと無いんですから、あまり高級なものは……」
「さっきの商隊の荷物から拝借したんですよ。ま、迷惑料ってことでいいでしょう」
夕食の準備を始めるサラに、エミール少年も手伝いを申し出るが、「チーズのことはアタイに任せて」と断られてしまった。
サラは、手持ちのナイフを火で炙り消毒した後、バゲットを一人前ずつ切り分ける。チーズはナイフの刃が通らない程固かったが、軽くあぶった後に、火にくべておいたナイフの刃を当てることで、無理なく塊から一食分を切り分けることが出来た。チーズの塊に熱で変色したナイフの刃を当てると、接触した個所がとろりと溶けて、独特の発酵臭が森の中に広がった。
エミール少年が、その食欲を誘う匂いにごくりと喉を鳴らす。ふと、サラを見と、チーズを見る目は真剣そのものだが、口元は緩み、涎が垂れている。
その後、一人前づつに切り分けたチーズを各々のバゲットの上に乗せ、焚火で炙る。
発酵臭はいっそう濃くなり、塊だったチーズは徐々にその輪郭をなくし、黄金の気泡を浮かべながら、バゲットの上面にゆっくりと広がってゆく、
「もういいですよ」
そう言って、サラは一人一個づつ、バゲットを木皿の上に取り分ける。
彼女は少年に皿を手渡す時、「熱いんで気を付けてください」と警告をしたが、食欲に負けた少年は彼女の警告を無視していきなりバゲット側面をつかみ、指先に軽い火傷をしてしまった。
三人は、夕食と共に思い思いの時間を過ごし始めた。
早々にバゲットを平らげたミーファは、屋敷から逃げ出す時に持ってきたシェルドン家の家紋入りのティーセットを使い、お茶の準備をしている。
サラは膝の上に地図を広げ、バゲット片手に旅程の確認をしている。
エミール少年は、傍らに食べかけのバゲットを乗せた皿を置き、ミーファが用意した魔法教本で魔法の勉強をしていた。今は初歩的な回復魔法の項を読んでいるが、正直言ってさっぱり理解できない。少年は、残りのバゲットを一息で口に放り込む。焚火の煙で燻されたせいか、若干スモークチーズに似た風味が口の中に広がる。首を上げて空を見上げれば、森の木々に切り取られた夏の夜空は、瞬く星々が川の様に連なり、神秘的な様相を呈している。
同じ空であるはずなのに、屋敷から見ていた星空とは、また違う景色な気がした。地上から延びた焚火の煙が、まるで川の支流の様に、星々の川に合流していくように見えた。
少年の頬を大きな蛾が掠めていき、そのまま焚火の中に消えていった。
ミーファが、お茶の用意を終えて、サラと少年に食後のハーブティーを手渡した。ふーっと息を吹くと、上りたつ湯気が揺らめき、少年の鼻先を撫でた。少年はふと、先ほどミーファが脅かしてそのまま放置してきた男のことを思い立って、なんの気なしに口に出した。
「さっきの男の人、だいじょうぶかなぁ」
サラが地図に目を落としたまま、興味もなさそうに返事をする。
「ま、近くに仲間もいたし、大丈夫なんじゃないすか? 運が悪けりゃ、狼にでも齧られてるかもしれませんが、それも報いってやつでしょう」
ミーファが、溜息を吐く。そしてサラに向けて強い口調で言った。
「まったく、なんで貴女はいつもいつもトラブルばかり持ち込みますの。今の所2連敗じゃないですの」
サラが、地図から顔を上げ、不服そうに口を尖らせながら反論する。
「……今回は姉御も相手を善人と勘違いしてたじゃないですか。それに、汽車の件含めれば一勝二敗です。これから行く魔女ってのが当たりなら、五分五分になりますよ」
「どうだか……。坊っちゃまも、いつも怖い思いばかりさせて申し訳ございません」
「ううん、大丈夫だよ! 人攫いは、サラのおかげで慣れてたしね!」
「ボス、火に油注がないで下さい……」
サラが額に手を当て、首を振る。
「そんなことより、不味いのは姉御が正体見せちゃったことですよ。あいつら、こないだの人身売買の連中と関わりがあるみたいでしたし、下手したらボスの居場所が割れちまいますよ。そしたら、またあのおっかないクノイチが……」
「ちょっと! あたくしのせいだって言いたいんですの!? 仕方ないでしょ、あの状況では!」
ミーファが、サラの発言を遮る様に食ってかかった。サラが、語気を荒げて反論する。
「そりゃ分かってますよ! でも、姿を見せる必要は無かったでしょう!? 影使いのファミリアを連れた三人組って、それだけで自己紹介してるようなもんですよ!」
「二人とも、ケンカしないで……」
突然言い争いを始めた二人に驚き、エミール少年が仲裁に入る。が、二人は聞く耳を持たない。
「あのまま坊ちゃまの変装がばれて、人相を覚えられる方が問題でしょうが! そもそも、あんな怪しい連中に声を掛けた貴女が諸悪の根源ではないですの!」
「そんなに言うんでしたら、あいつら全員一人残らず殺しちまうのが一番良かったんですよ! 姉御なら出来たでしょ!? 何でやらなかったんです!?」
「な!? なんて野蛮な! 坊ちゃまの前で、そんなこと口に出さないでください!」
「姉御が言わせたんでしょ!?」
「なんですって!?」
旅の疲れ、逃亡生活のストレスもあってか、二人の言い争いは加速するばかりである。
少年は何とか二人を止めようと試みるも、それは全く無理な話であった。
「もういいです!」
サラは勢いよく立ち上がり、自分の背嚢から太いロープとブランケットを取り出すと、少年たちに背を向ける。
「ちょっと! どこ行きますの!?」
「今日は木の上で寝ます! 見張りも兼ねてね!」
振り返りもせずにそれだけ言うと、サラは機敏な動きで手頃な木にするすると登っていき、すぐに見えなくなってしまった。人間だとしたら相当手練れな野伏と思える動きだが、ラージマウスとしては特に驚くべき動きではない。ラージマウス特有の長い尻尾による自在な体重移動が、あのような縦横無尽かつ機敏な挙動を可能にしているのだ。
「まったく、勝手なんですから!」
夜目の効くミーファには暗い木々の中も見通せるらしく、サラを目で追う様に視線を動かしながら、憤慨の声を上げた。
そう言って、サラはエミール少年のウィッグの位置を整える。
天幕の隙間から物理法則を無視して外へ伸びていた少年の影が、するすると彼の元に戻ってきて、そこからミーファが顔を出した。
「今なら、だれにも見られずに外に出られますわ。雲が出てきて、月も隠れてます」
サラ、ミーファ、エミール少年の三人は、目を合わせてこくりと頷いた。
三人は、荷物を出し入れする後方の搬送口ではなく、御者台のある馬車前方へと移動した。サラが顔だけ外に出して、周囲を確認する。問題なかったらしく、長い尻尾を器用に動かして、少年の腕を引く。
エミール少年としては、御者台などにまわって馬が暴れたりしないか心配だったが、夜は馬を別のところに繋いでいるらしく、顔を出した先に馬の姿は無かった。
サラに手を引かれ、御者台から湿った土の上に、静かに飛び降りる。
荷馬車を挟んだ背後からは、ワイワイと賑やかな人の気配がする。
「どうします? 火でも着ければ逃げやすくなると思いますが」
「いや、サラ、やめようよ……」「流石に良心の呵責というのもがありますわ……」
「んじゃ、このままズラかりますか」
二人(と影に潜んだ一人)は速やかに、連なる荷馬車の群れの中を、身を屈め隠れながら、小走りで移動を始めた。
商隊は今夜の宿泊地として、草原を走る街道のすぐ側を選んだらしい。街道の続く先には、こんもりとした森が見える。恐らく、森の中で夜を迎えるのを避けたのだろう。
「とりあえず、あの森に逃げ込みましょう。流石に夜の森を散策するほど、連中も飢えては無いでしょうからね」
サラが小声で指示を出した。
周囲には何人かの見張りを見つけることも出来たが、彼らが警戒しているのは外部から襲いくる野党や獣、魔物の類であり、脱走者がいるなどとは発想もしていないようだった。
こういったことに場慣れしたサラの先導もあり、一行は見張りの死角を突いて馬車群の中をすいすいと進んでいった。そして、もう少しで森側に出ると思った時である。
ガウガウガウッ!
と、猛烈な吠え声と共に、馬車の下から複数の犬の頭が現れた。じゃらじゃらと鎖の鳴る音もする。
突然足元から現れた犬達に、エミール少年は驚いて尻餅をつきそうになるが、サラがそれを瞬時に受けとめ、その勢いのまま少年の腕を引いて、森に向けて走り始めた。
「なんだ!? どうした!?」
馬車を挟んですぐ反対側から、若い男の声がする。
サラが走りながら、張り詰めた声で口走る。
「番犬がいたんだ! 気が付かなかった!」
背後が騒がしくなる。振り返れば、ランタンらしきいくつも光の点が動き回っている。
「ボス、振り返らないで! 姉御も、大人しくしててください! 大丈夫です、狼除けの番犬は、逃げる獲物を追うようには訓練されてませんから!」
だがしかし、サラがそう言った矢先、背後から獣が草を蹴る音が近づいてきた。そしてそれは、背後だけでなく左右からも近づいてくる。
『ちょっと! 追いかけてきてますわよ!』
ミーファが、影の中から二人に語り掛ける。
「なっ!? 吠え声も上げずに!? こいつら、ちょっとおかしいです! 普通の商隊じゃあない!」
もう少しで森に届くというところで、目の前に二匹の犬が飛び出してきた。
鋭く吠えて、エミール少年とサラの足を止める。
背後と左右から追いかけてきていた犬たちも合流し、五匹の犬が、唸りながら二人の周りをぐるぐると回り始めた。サラが、エミール少年を庇うように自分の背後に回す。
ランタンの明かりの群れが、近づいてくる。
商隊のリーダーである大男が一歩進み出て、いやらしい猫撫で声で語り掛けてきた。
「お嬢ちゃんたち、そりゃないだろう? ただ乗りは立派な犯罪なんだぜ?」
言っていることは一応真っ当ではあるが、男とその取り巻きが醸し出す異様な雰囲気は、既に堅気のそれではなかった。
「なにも、法外な運賃を頂こうって訳じゃねえ。妹ちゃんは聞いてないのかもしれないが、ちゃんとお姉ちゃんが俺たちと交渉して決めた対価なんだぜ?」
少年たちを取り囲む男達が、下卑た笑い声を上げた。その輪の中から、煽り立てる様な声が上がった。
「ま、どうしても嫌ってんなら、他にも請求方法はあるがな! もっとも、それだと宛先不明のお釣りが出ちまうが!」
笑い声が、一段と大きくなる。大男も、くっくっくと噛み締めるように笑いを上げた。
「やっぱりあんたら、人攫いか! ったく、ホントにタダってのが一番タチ悪ぃな!」
サラが吐き捨てるように言う。
大男が、薄ら笑いを浮かべたまま、手を前に出して待ってくれ、とジェスチャーをする。
「いやいや、誤解しないでくんな。お姉ちゃんの予想も外れちゃいないが、昔の話さ。ついこないだ、隣国のお得意さんが潰されちまってね。今までと同じじゃ食っていけないってんで、同業者で集まってデカいキャラバン作ったって訳よ。ついつい口が滑って昔の脅し文句が出ちまったが、今は善良な一般商人さ」
そう言って、大男はその長い腕を伸ばし、エミール少年を庇うように立つサラの頭上を越えて少年の首根っこを掴むと、ぐいっと自分の元に引き寄せた。少年も抵抗を試みたが、圧倒的な体格差のせいで、宙に持ち上げられてしまう。
「だからよ、大人しく最初の約束で手を打とうや? 普通の商人ってのは契約を守るし、守らせるもんなんだろ? なあ、妹ちゃんが余計に痛い思いするのは、姉として見過ごすべきじゃないと思うぜ、俺は」
大男はにやにやと笑って、中釣りにした少年をゆらゆらと揺らしたが、サラはそれどころでは無かった。少年の影が、にわかに泡立ち始めたからだ。
「ああ姉御! 落ち着いて! 今出たらだめです!」
「あん? 何言ってんだ? 俺はこのガキが……うおぉ!?」
大男はサラの発言の意味が分からず、怪訝そうに声を出したが、疑問をきちんと言葉にする前に前に、その言動は中断された。彼の足元から、何本もの強靭な影の蔦が飛び出したからだ。
蔦は、大男を空中で縛り上げ、エミール少年を優しく、抱き止めるようにして大男から引き離す。
大男は、訳も分からずに周囲をきょろきょろと見渡し、「どうした」「何が起こった」と喚き散らした。
だが、彼の仲間たちにこの状況を理解できるものなど存在しない。皆一様に、戸惑いながら顔を見合わせ、一歩身を引いている。
唯一、サラだけが頭を抱え、「やっちまった……」と小さく呟いた。
次々と湧き出す影の蔦は、重なり絡み合いながら周囲に広がり、大男の取り巻きたちへ迫ってゆく。
何人かが、「なんだこれは!?」「断ち切れ!」などと言って剣を振るうも、逆に得物を絡め取られてしまう。少年たちの周囲を囲んでいた犬も、いつの間にか世話係らしい男の後ろに隠れ、捨てられた子犬のような情けない声を上げている。
部下たちの情けない姿を見て痺れを切らしたのか、大男ががなり立てた。
「ばかもんども! 早く助けんか!」
「あら、危険を冒して仲間を助けるような正義漢が、この場にいまして?」
突然の背後からの呼びかけに、大男が驚いて振り返る。
しかし、蔦で体が縛られているせいで、真後ろが見えない。
ミーファは、大男の後頭部に張り付くように、フワフワと宙に浮いていた。
取り巻きたちがどよめく。
「ま、魔物だ!」「逃げろ、食われるぞ!」
蜘蛛の子を散らすように逃げ出した取り巻きたちの背に向けて、大男が喉が潰れんばかりの大声をあげる。
「ま、魔物だと!? どこだ! どこにいるんだ! 後ろか!? 俺の後ろなのか!? 待て、逃げるな、助けてくれ! どんな奴だ!? おい、助けて! 助けろ! 頼む助けて!!」
徐々に小さくなっていく無数のランタンの明かりに向けた声は、徐々に悲壮感の溢れたものへと変わってゆく。
そんな大男の頬を、影の蔦が、つー、と撫でた。
「ひぃ!?」
蔦は男の顔を這うように、ゆっくりと彼の目を覆った。
ミーファは、歯の隙間でシューッと分かりやすい呼吸音を立て、そのままゆっくりと、視界を奪われた大男に近づいていく。
「た、たすけ…」
男の喉から声にならない渇いた声が漏れ、脂汗がたらたらと頬を伝う。
ミーファは自分の口が大男の耳元に来た時、影の蔦にぐっと力を入れた。
大男はびくんと体を痙攣させ、上体を弓なりに逸らしたかと思うと、そのまま力無く頭を垂れた。
失神したらしい。
「ふう」
ミーファが影の蔦を解き始める。
気を失った大男はゆっくりと地面に降ろされ、夜の静寂が戻ってくる。
既に遠くに見えるキャラバンでは、いくつかの小さな明かりが動き回っているようだった。逃げ帰った者達が、魔物を迎撃するための準備を整えているのだろう。
「初めてやりましたが、なかなか楽しいですわね。こういうのも」
ふむふむと満足げに頷きながら、ミーファが地上付近まで下りてくる。エミール少年が、ミーファに駆け寄る。
「この男の人は?」
心配そうに口を開く少年であったが、ミーファが優しい声音で返す。
「大丈夫、脅かしただけで、怪我などはさせてないですわ。さ、とりまき方が戻ってくると面倒です。とっとと森に入りましょう」
事が思っていたように運び機嫌を良くしたのか、先陣を切って森の中へと続く道を進んで行くミーファに、エミール少年と、何故だか機嫌の悪そうなサラが、後に続いたのだった。
☆
季節は夏真っ盛りであり、枝葉が深く生い茂った夜の森は、街道上とはいえ既に人間の領域とはほど遠いものであったが、それらも三人にとっては大した脅威ではなかった。
夜目の効くミーファが先頭を切り、後尾では気配に敏感なサラが、ウィッグだけを外して大きな耳で周囲に気を配りつつ、二人に挟まれ行進するエミール少年をサポートする。さらに、三人の周囲には常にミーファの影の蔦が展開されることで、防御壁を形成していた。唯一、気がかりなことがあるとすれば、ミーファの魔力に負担がかかりすぎているという事だろうか。
なので、適当に追っ手もつかないであろう距離を進んだら、三人は割とすぐに休憩の準備に入った。
三人は街道から外れ、森の中へと分け入っていった。少し進んだ先で、ミーファが影で作った菖蒲の葉の刃を用いて、邪魔な枝葉を切り払い、ちょっとした空間をつくる。サラは街道の方向が分かるよう、地面に目印を置いた後、焚火の準備に入った。
すぐに火が付き、安定する。
すると、サラが背嚢からバゲットと、トロッコの車輪の様に大きくて丸いチーズを取り出した。
「ちょっとサラ、そんなものどこで買いましたの。路銀が心もと無いんですから、あまり高級なものは……」
「さっきの商隊の荷物から拝借したんですよ。ま、迷惑料ってことでいいでしょう」
夕食の準備を始めるサラに、エミール少年も手伝いを申し出るが、「チーズのことはアタイに任せて」と断られてしまった。
サラは、手持ちのナイフを火で炙り消毒した後、バゲットを一人前ずつ切り分ける。チーズはナイフの刃が通らない程固かったが、軽くあぶった後に、火にくべておいたナイフの刃を当てることで、無理なく塊から一食分を切り分けることが出来た。チーズの塊に熱で変色したナイフの刃を当てると、接触した個所がとろりと溶けて、独特の発酵臭が森の中に広がった。
エミール少年が、その食欲を誘う匂いにごくりと喉を鳴らす。ふと、サラを見と、チーズを見る目は真剣そのものだが、口元は緩み、涎が垂れている。
その後、一人前づつに切り分けたチーズを各々のバゲットの上に乗せ、焚火で炙る。
発酵臭はいっそう濃くなり、塊だったチーズは徐々にその輪郭をなくし、黄金の気泡を浮かべながら、バゲットの上面にゆっくりと広がってゆく、
「もういいですよ」
そう言って、サラは一人一個づつ、バゲットを木皿の上に取り分ける。
彼女は少年に皿を手渡す時、「熱いんで気を付けてください」と警告をしたが、食欲に負けた少年は彼女の警告を無視していきなりバゲット側面をつかみ、指先に軽い火傷をしてしまった。
三人は、夕食と共に思い思いの時間を過ごし始めた。
早々にバゲットを平らげたミーファは、屋敷から逃げ出す時に持ってきたシェルドン家の家紋入りのティーセットを使い、お茶の準備をしている。
サラは膝の上に地図を広げ、バゲット片手に旅程の確認をしている。
エミール少年は、傍らに食べかけのバゲットを乗せた皿を置き、ミーファが用意した魔法教本で魔法の勉強をしていた。今は初歩的な回復魔法の項を読んでいるが、正直言ってさっぱり理解できない。少年は、残りのバゲットを一息で口に放り込む。焚火の煙で燻されたせいか、若干スモークチーズに似た風味が口の中に広がる。首を上げて空を見上げれば、森の木々に切り取られた夏の夜空は、瞬く星々が川の様に連なり、神秘的な様相を呈している。
同じ空であるはずなのに、屋敷から見ていた星空とは、また違う景色な気がした。地上から延びた焚火の煙が、まるで川の支流の様に、星々の川に合流していくように見えた。
少年の頬を大きな蛾が掠めていき、そのまま焚火の中に消えていった。
ミーファが、お茶の用意を終えて、サラと少年に食後のハーブティーを手渡した。ふーっと息を吹くと、上りたつ湯気が揺らめき、少年の鼻先を撫でた。少年はふと、先ほどミーファが脅かしてそのまま放置してきた男のことを思い立って、なんの気なしに口に出した。
「さっきの男の人、だいじょうぶかなぁ」
サラが地図に目を落としたまま、興味もなさそうに返事をする。
「ま、近くに仲間もいたし、大丈夫なんじゃないすか? 運が悪けりゃ、狼にでも齧られてるかもしれませんが、それも報いってやつでしょう」
ミーファが、溜息を吐く。そしてサラに向けて強い口調で言った。
「まったく、なんで貴女はいつもいつもトラブルばかり持ち込みますの。今の所2連敗じゃないですの」
サラが、地図から顔を上げ、不服そうに口を尖らせながら反論する。
「……今回は姉御も相手を善人と勘違いしてたじゃないですか。それに、汽車の件含めれば一勝二敗です。これから行く魔女ってのが当たりなら、五分五分になりますよ」
「どうだか……。坊っちゃまも、いつも怖い思いばかりさせて申し訳ございません」
「ううん、大丈夫だよ! 人攫いは、サラのおかげで慣れてたしね!」
「ボス、火に油注がないで下さい……」
サラが額に手を当て、首を振る。
「そんなことより、不味いのは姉御が正体見せちゃったことですよ。あいつら、こないだの人身売買の連中と関わりがあるみたいでしたし、下手したらボスの居場所が割れちまいますよ。そしたら、またあのおっかないクノイチが……」
「ちょっと! あたくしのせいだって言いたいんですの!? 仕方ないでしょ、あの状況では!」
ミーファが、サラの発言を遮る様に食ってかかった。サラが、語気を荒げて反論する。
「そりゃ分かってますよ! でも、姿を見せる必要は無かったでしょう!? 影使いのファミリアを連れた三人組って、それだけで自己紹介してるようなもんですよ!」
「二人とも、ケンカしないで……」
突然言い争いを始めた二人に驚き、エミール少年が仲裁に入る。が、二人は聞く耳を持たない。
「あのまま坊ちゃまの変装がばれて、人相を覚えられる方が問題でしょうが! そもそも、あんな怪しい連中に声を掛けた貴女が諸悪の根源ではないですの!」
「そんなに言うんでしたら、あいつら全員一人残らず殺しちまうのが一番良かったんですよ! 姉御なら出来たでしょ!? 何でやらなかったんです!?」
「な!? なんて野蛮な! 坊ちゃまの前で、そんなこと口に出さないでください!」
「姉御が言わせたんでしょ!?」
「なんですって!?」
旅の疲れ、逃亡生活のストレスもあってか、二人の言い争いは加速するばかりである。
少年は何とか二人を止めようと試みるも、それは全く無理な話であった。
「もういいです!」
サラは勢いよく立ち上がり、自分の背嚢から太いロープとブランケットを取り出すと、少年たちに背を向ける。
「ちょっと! どこ行きますの!?」
「今日は木の上で寝ます! 見張りも兼ねてね!」
振り返りもせずにそれだけ言うと、サラは機敏な動きで手頃な木にするすると登っていき、すぐに見えなくなってしまった。人間だとしたら相当手練れな野伏と思える動きだが、ラージマウスとしては特に驚くべき動きではない。ラージマウス特有の長い尻尾による自在な体重移動が、あのような縦横無尽かつ機敏な挙動を可能にしているのだ。
「まったく、勝手なんですから!」
夜目の効くミーファには暗い木々の中も見通せるらしく、サラを目で追う様に視線を動かしながら、憤慨の声を上げた。
15/07/21 01:35更新 / 万事休ス
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