- トトコ -
二年という時間は短いようで、長い。
僕が二年という歳月の経過に茫然とさせられたのは、待ち合わせの場所に着いたときのことだった。「CLOCED」のプレートが斜めに傾いた喫茶店のドアは、ひさしぶりに訪れたせいで休業日をうっかり忘れていたというわけではない。煤煙で曇った窓ガラス越しに見える店内は、椅子もテーブルも博物館の展示品のように生気がなく、じっとして乾ききった印象だ。カウンター脇のかりかりに干からびたテーブルヤシの植木鉢が、いつごろからこの状態なのかをそれとなく教えてくれる。
小さなため息とともに携帯電話を取り出し、メールを打つ。返事はすぐに来た。
新しくできたファミレスがあるから、そこで会おうと言ってきていた。『場所、わかる?』と結ばれている。
わかる、と返信して、車に戻ろうとする。ちょっとだけ、かつての待ち合わせ場所を振り返ってみたのは、やはり寂しさからだった。
高校卒業までの18年間を過ごしたこの町を、離れていたのは少しだけと思っていた。だが、実際は結構な時間が過ぎさっていたのだということを、住み慣れたはずの街の風景が教えてくれている。
住宅街の片隅にあった畑は、いつも並んで手入れをしていた老夫婦の姿ともども消えて、土の臭いとは無縁なきらきらしいショッピングセンターになった。義務教育の九年間、通学路として横断した交差点の角には見慣れないコンビニエンスストアが出現している。公園のそばの林は跡形もなく、背の高い杉の木立に替わってつやつやしたセピアの壁のアパートが草野球の小学生を見下ろしている。
景色ばかりが変わったわけじゃない。
僕自身も、この道を、つい二年前までは風を頬に受けながら愛用のマウンテンバイクに乗って走りぬけていた。いまは従兄のお下がりの軽自動車のアクセルを踏み、風を通さないウインドウガラス越しに、懐かしさと見慣れなさが交じりあった街の風景を見ている。
新しい待ち合わせ場所に彼女は先に来ていた。店の入り口で僕を待っていた。まともに顔を合わせるのは、街並みよりひさしく四年ぶりくらいになるだろうか。ひさしぶりに見た彼女は、昔はショートだった髪をのばしたせいもあってか記憶の中の少女の顔よりもずいぶんと大人びて見える。二人の関係は最後に会った時から一秒たりとも進んでいないのに、ここで顔を合わせているのは四年という時間を経た僕と、彼女なのだ。そのギャップが気持ちを萎縮させ、かける言葉も思いつかず、どちらからともなくうなずいて、連れだって店内へと入った。注文は適当にすませた。
しばらくは、互いの近況などを話した。彼女の髪型が変わったこと、お互いの今の生活のこと、僕が通う大学のこと、彼女の新しい知り合いのこと。
おそらくは、数年ぶりに会った二人の人間なら誰でも似たり寄ったりの会話をするのだろう。でも、そんな話をするために、数年前に別れた元の彼氏を呼びだす女の子はいない。
だから、僕は待った。ありきたりの世間話が底をついて、会話が途切れて、彼女が目を伏せ、沈黙が二人の間のテーブルの上を支配しても、それをこちらから破ろうとはしなかった。
やがて彼女は、視線をテーブルに向けたまま、口を開いた。
トトコのことなんだけど、と言った。
ひやりとしたものが胸にさしこまれた。一気に鼓動がはねあがり、話の続きを聞くためには一度深呼吸をする必要があった。
彼女が何を言おうとしているのかは、見当もつかなかった。
ヒトコとトトコ、水波等子と等々子の双子の姉妹と知り合ったのは中学一年のとき。クラスが同じで、入った部活も一緒だった。家の方角も一緒で、暗くなってから三人そろって帰る時は心密かにナイト役を自らに任じたものだ。
彼女たちは双子であることに疑問の余地がないくらい、そっくりだった。すらりとした体つきに、透けるような肌と濡れたように黒々とした髪と瞳。二人とも口数は少ない方で、あまり表情を動かさない。きれいな顔立ちをしていたけど、そのせいで冷たい印象を周りに与えることが多かった。
姉のほうの等子はそれでも他人との関わり合いをそつなくこなし、女子の輪の中心にいることも多かった。妹の等々子はそんな時、姉の隣で、身を引いてじっとしている。等子の声は僕たち男子の集団のほうまでよく聞こえてきたけれど、等々子の声はほとんど聞いたことはなかった。
僕は周囲のやっかみ混じりのひやかしにもめげず、彼女たちと親しくつき合っていた。何度か、二人の家に邪魔したこともある。郊外の住宅地の中にある、洋風の白壁の一軒家だった。家の中はいつもひっそりとして、あまり生活臭がしなかった。それは潜水でプールや海の底にたどりついたときに感じる、心地よい静けさと似通ったものがあった。
そして、家のいたる所に置かれた大量の水槽が僕を驚かせた。玄関では色とりどりのグッピーが出迎え、リビングではエンゼルフィッシュのパノラマ水槽がテレビを隅へ押しやり、ベランダはと見れば大型の古代魚が長々と体を伸ばしていた。双子姉妹の部屋にはメダカが小さな水槽で群れていた。そしてなにより、一室まるごとが水槽と魚たちの設備のために使われている部屋があった。
「父さんの趣味なの」
低いモーター音と、水を潜りぬける気泡の音と、部屋の四方で動き回る様々な種類の魚たちに囲まれて唖然とする僕に等子が言い、そのそばでは等々子がうなずいていた。
さらにもう一部屋、魚のために作られた部屋があるらしく、二人の父親の書斎と続き部屋になっているという。それを聞いて僕はもうこの家は小型の水族館だなと思ったのだった。
その件の父親には一度だけ、玄関先で顔を会わせたことがあった。二言三言挨拶をかわしただけだったが、人当たりのよい実直そうな、ごく平凡で目立たない会社勤めの父親に見えた。
それに対して、姉妹の母親は家の中でその気配すら感じたことはなく、また二人と僕の間で話にのぼることもなかった。それでなんとなく察するところあって、僕は母親について何か尋ねることを控えていた。
そんなつき合いが三年生になるまでつづき、僕が等子から告白を受けたのは、二人が同じ高校へ進学を希望していることがわかったあとのことだった。
無事に三人そろって入学試験を潜りぬけたあと、僕は等子と交際をすすめていった。休日に一緒に出かけたり、お互いの部屋で過ごす時間が増えていった。
でも、本当のことをいえば、僕は、等々子のほうに惹かれていたのだ。
いつも等子の半歩後ろに立ち、言葉もなくただじっと僕のことを見つめてくる、姉以上に無口で無表情な女の子。でもよく見ていればわかるのだ、その目が言葉や表情に出さない彼女の心の内面をいきいきと伝えてくることが。その視線にこめられた意思が僕に伝わったことがわかると、はじめて微笑む。その控え目な笑顔を、そのころの僕は一日に何度も思い返していた。
等子にも好意は抱いていたし、彼女と一緒に過ごした時間は楽しかった。でもそれはリスクを避けようとした打算があってのことだ。等々子の気持ちがわかっていると思っているのは僕の独りよがりな誤解なんじゃないかという不安。等々子に気持ちをうちあけてもあっさりと拒否されるかもしれないという怖れが、向こうから好きだと言ってきた女の子を選ばせたのだ。
等々子への恋心はその時に断ち切ったはずだった。誰にも、等子にも悟られない心の奥にしまい込んでふたをした。
でも、それからいくらも経たないうちに、僕は等子とも、等々子とも、会うことはなくなってしまった。
僕たちはファミレスを出た。等子はここまで歩いて来ていたので、助手席に彼女を乗せて駐車場を出た。
「私の家に向かって」
等子がそう言った。僕は黙って車を走らせながら、さっき彼女に言われたことが、落ち着きなく体の内をぐるぐるとめぐっているのを感じていた。
等々子が今どうしてると思う?ときかれて、僕は返答に詰まった。
ある時を境に彼女は姿を見せなくなった。学校にも来ないし、家を訪ねてもその姿はなかった。等子は妹について「入院した」とだけ答えた。だから会えない、と言った。見舞いの申し出は頑として断わられ、病気なのか怪我なのかも教えてくれなかった。
そのまま等々子の消息を聞くことがなくなって、おそらくは、という仮定が浮かんだこともある。
それを口にするのをためらっていると、等子はふっと力のない笑みを見せた。
「父さんがね、死んだの」
突然の話の切り変わりように、僕はぽかんと口を開けた。
「癌だったの。もうずっと前からそうだったんだけど、とうとう、ね」
そう言われてようやくもごもごと悔やみの言葉を口にしたのだが、
「だから、私の家族はもうトトコだけなんだけど、私はあの家を出ていこうと思っているの」
等子はそう言って一瞬僕の顔を見つめて、そしてここじゃ話しづらいから場所を変えよう、と言ったのだ。
僕は等子の言葉から拾い上げたことを反芻した。父親はつい最近になって亡くなったが二人の母親はやはりすでにいないらしいこと、そして等子の口ぶりからすれば、いま家には等々子がいるらしいこと。
そして等子はどうやら僕を等々子に会わせようとしているらしいこと。
胸の底が疼くのを覚えて、僕は何度も落ち着きなくハンドルを握りなおした。
やがて車は水波家の前に辿りつき、僕たちは無言のまま車を降りた。
家の中は静まり返っていた。それは、昔感じた心地よい静けさとは別の、寂しさを感じさせるものだった。僕は茫然として、玄関に置かれたからっぽの水槽を眺めた。あの色とりどりのグッピーたちは、どこかへいってしまっていた。
どこからか水を循環させるモーターの音だけが響く家の中を、等子について歩いていく。リビングに入ると、やはりパノラマ水槽から魚たちは姿を消していた。水で満たされているものの、気泡のついたガラスの向こうには南国の水中を模した石と水草のディスプレーしか見えない。
僕はソファに腰かけ、等子がお茶を持ってきた。
「みんな、どこへやったんだ」
僕は魚のことをきいてみた。
「父さんの知りあいに引き取ってもらったの。趣味仲間とか、アクアリウムのお店に」
等子は向かいのソファに腰を降ろしたが、僕と目を合わせようとしない。
「それで」
僕は少しばかりいらついた声でうながした。魚たちの消えた部屋の風景が物悲しくて、やりきれない気分だった。
「それで、話の続きは?」
「君に、トトコに会ってもらいたいのよ」
「トトコが僕に会いたいって言ってるのか」
「そう。それで、決めてもらえるのなら………」
言葉の最後を言いよどみ、等子はさっと立ちあがった。
「きて」
「どこへいくんだよ」
「トトコのところへ。やっぱり、話すより会ってもらったほうが早い」
返事を待たず、等子はつかつかと歩きだした。
僕はそれについていく。廊下を歩きながら、等子は早口でしゃべっていた。
「私とトトコは双子。同じお母さんから生まれた………でも、私よりトトコの方がお母さんに近かった。トトコは、だから、人前に姿を見せなくなった。見せられなくなった。途中までは一緒だったのに、私とトトコはそこで分かれたの」
「わかれたって、どういうこと」
「私は普通の人に近くなり、トトコはお母さんに近くなった。私はね、怖かったんだと思う」
「トトコが?」
「違う。トトコは私の妹だよ?私が怖かったのは、私までトトコのようになっていくこと。怖くて何も考えられなくて、だから君にも嫌われた」
等子はそう言って、自虐的な笑みを浮かべて僕を見た。
彼女が何を言おうとしているのか僕には呑み込めなかったが、その笑みの意味はわかった。等々子の姿を見かけなくなって少したったころから、等子が僕を避けるようになったことだ。学校でも避けられ、休日の誘いも断られ、メールを打っても返事はそっけなく、なんとか捕まえて話をしようとしてもこっちを見てくれない。すぐに切り上げて立ち去ろうとする。
しまいには僕も頭にきて、それが元で僕たちは別れた。そのことを等子は言っているのだ。
「私は君が好きだったけど、あの頃はそれ以上に自分が変わることが怖かった。だって、ずっと一緒にいて、ずっと同じだったから、等々子だけが変わるとは思えなかった。でも」
等子が突然歩みをとめ、くるりと振りむいた。僕はあやうくぶつかりそうになって後ずさりした。
「私たちは、分かれたの。別々の、ヒトコとトトコに」
立ち止まったそこは、彼女たちの父親の書斎の前だった。重厚なチーク材の扉の向こうから、不意に大きな水音が聞こえた。それは書斎の中、そのもっと奥の方から聞こえたような気がした。
「トトコはここにいる」
等子はそういって、ドアを開けた。
書斎の中はほこりっぽい乾いた臭いがした。もう何年も書斎としては使われていないようだったが、家具や調度類はそのまま残っている。ペン立てとノートが乗った書き物机があり、飾り棚には魚にまつわる想像上の生き物を象った工芸品が並んでいる。ガラス扉のついた本棚に納められている本の多くは魚類図鑑だ。
そして僕は入口と反対側の壁が、一面曇りガラスの引き戸になっているのに気がついていた。まるで旅館の大浴場のように見える。おそらくそれが、僕の見たことのない最後の部屋だった。そう、もう一つの、魚という水にすむもののための部屋。
再び小さな水音がした。曇りガラスの向こうで影が動く。あれが等々子なんだろうか?
「トトコ」等子が呼びかけた。「連れてきたよ」
そして等子は曇りガラスの引き戸を左右に開け放った。それから、荒い呼吸に肩を波うたせながら振り返った。その唇は決意をこめて、ぎゅっとかたく結ばれている。そして彼女は僕に部屋の中を見せるために、脇へさがった。
やはり、そこにいたのは等々子だった。等子と同じように大人びた顔つきになっているけれど、等子と見分けるわずかな違いは昔のままの、まちがいなく等々子だった。
部屋の中は、外から見た浴場という感想と似通っていた。奥にあるのはさしずめ循環装置を備えた湯船といったところだが、正確にはいけすといったほうがいいかもしれないものだった。それより手前側の床はタイル張りで、やわらかそうな毛足の絨毯が敷かれていた。
等々子はその絨毯の上に横座りの姿勢でひざをついていた。水から上がったばかりなのだろう、濡れた髪が体にまとわりついている。彼女は肩にはりつくそれをつまんで払った。水かきのついた手で。
彼女の四肢は半ばまでは等子とそっくりだった。無駄のない、流れるようなほっそりとした白い手足。だが先にいくに従ってそれは人間の手足とはかけ離れ、水生生物のような暗色の無毛の皮膚に覆われたものになっていた。その先端で長く伸びた指の間には、水をかくための薄い膜が張っていた。そして、今、彼女の後ろで動いたもの。陸に揚げられた魚がのたくるように見えたそれは、尾びれのついた長く太い尻尾だった。
言葉は出なかった。喉の奥がひきつったようになり、何度もつばを飲み込んだけれど、声が出せなかった。何を口にすべきかも、真っ白になった頭では思いつきもしない。
「私たちのお母さんもそうだった」等子の声がした。「私たちが生まれてすぐに死んじゃったから、直接見た記憶はないけれど、トトコがこうなり始めた時、父さんが写真を見せてくれた。父さんたちはお互い本当に愛しあって、それで二人が生まれたんだから、何も変わったことはない、普通の家族と一緒なんだよって、父さんは言った、でもね、私は、怖かった!自分が普通の人間じゃないってことが、人間じゃないものに変わっていくことが怖かった!」
「………」
沈黙をはさみ、再び話しだした時、等子の声はいくぶんか落ち着いたものになっていた。
「それはトトコもそう。毎日、自分の手足を見ておびえてた。見えないように、タオルで手足をぐるぐる巻きにしてた。死のうとしたのも一度や二度じゃない」
「………」
「私がなんでトトコのようにならなかったのかはわからない。でももしかしたら、君のせいなのかもしれない」
「僕の…」
「君とつき合ってたのが私の方だったってこと。私は君という人間の近くにいたから人に近いままだったのかしれない。でも、君はトトコにとって、私のほかに心を開ける唯一の存在だった。私と君が一緒になって、トトコはひとりぼっちになった。だから人間から離れていった。そうなのかも、しれない」
等々子がうつむき、僕は等子を見た。彼女は泣いていた。泣き笑いの表情で、涙が頬をながれるままに、話しつづけた。
「だとしたら、トトコをこんな姿にしたのは私のせい。ほんとのところはわからないけれど、もしかしたらそうなのかもしれない。でもね、でもね、私ももう、たえられない」
僕はさっき等子がこの家を出ていくと言ったことを思い出した。姿が変わってしまった妹を支え、その姿を見るたびに自分もこうなるかもしれないとおびえ、妹を変えてしまったのは自分のせいかもしれないという罪悪感に苛まれる。この家で過ごすかぎりその三つがそろってつきまとう。おそらく彼女は、父親がすべて悪いのだと考えることでその苦しみを心の外へ押しやってきたのだろう。でも、父親が亡くなり、元凶として糾弾できる存在がいなくなった今、等子は自分をとりまく状況に耐えられなくなったのだ。だから彼女は家を捨てる決心をした。そして僕がここへ呼ばれた。でも、何のために?
そのとき、小さな声が聞こえた。それは、顔をそむけてすすり泣いている等子が発したものではなかった。
それは、ためらうように小さく、拒絶への怖れにか細く、不安で消え入りそうになりながら、僕の名を呼んでいた。
それは本当に久しぶりの、何年かぶりに聞く、等々子の声だった。彼女と目があうと、その口元がほんの少し、微笑みのかたちを作った。
僕は思わず、敷居をこえて部屋に入っていた。等子が後ろで僕を呼んだような気がしたけれど、僕は等々子に手を差しのべていた。等々子が、ためらいがちに腕をのばし、水かきのある手を重ねてきた。
昔、等子とつき合うと決めたときに、心の奥底にしまい込んだ想いが一気に胸の内を満たしていった。僕が、ほんとうに好きだった女の子。姿は変わってしまったけど、心まで、お互いの気持ちまで変わってしまったわけじゃない。
「トトコ」
「じゃあ、これできまりね」
等々子の名を呟いた僕の後ろから、等子の声が聞こえてきた。その声はどこか冷ややかで、虚ろな響きだった。
「前は私が抜け駆けしたけれど、今度は公平な立場で君が私たちのどっちを選ぶか確かめたかったから。だからここまで来てもらったの」
「ヒトコ…」
僕は振り向き、そして何も言えなかった。等子がいる書斎は向こう側、等々子がいるのはこちら側。その二つの部屋の敷居がひどく遠いものに思えた。越えがたい、境界線となって横たわっているかのようだった。
「家の鍵は置いていく。あと必要なものはここの引き出しに入っているから」
等子は感情のこもらない声でそう言うと、机の上に鍵を置き、書斎のドアへ向かった。
「ごめん」
その背中に、何を謝ったのかは自分でもわからないけれど、僕に言えたのはそれだけだった。
「トトコのこと、お願い。私はもう、会いに来ないかもしれないけれど、怖いからじゃない。嫌いだからじゃない。ただ辛いだけ」
ごめんね、トトコ。最後にそう言って、等子の姿は消えた。
僕は等々子を見た。形のよい眉がわずかにひそめられて、彼女も泣きだしそうになっているのがわかった。
「トトコ」
でも、僕が名前を呼ぶと、僕の手にすがって立ち上がり、ほんの少しの微笑を返してきた。
その表情の読みにくい顔も、しっとりと濡れた長い髪も、水かきのある人ならざる手足も、涙でうるみながらも喜びを伝えてくる瞳も、急に全てが愛しく思えてきて。
境界線のこちら側で、僕は等々子をしっかりと抱きしめた。