Is not a game
彼は立ち止まって、手に持つスマートフォンの画面をしげしげと眺めた。
そして、思わず首をかしげた。はてな。ポータルキーが落ちている。それもひとつやふたつという数ではない。何十という数のキーが、画面内に散らばっている、というか明らかに、その並びは指向性を持ち、目の前の裏路地に向かって点々と続いている。そのさまはちょうど、『ヘンゼルとグレーテル』に出てきたパンくずの道しるべを思い起こさせた。
ルール上、ドロップされて地面に落ちているアイテムは、誰が拾ってもよいものである。
ポータルキーは入手手段が限られるため、彼の懐事情抜きにも貴重なアイテムである。
そしてこれらのキーは、何かの目的があって捨てられたわけでもなく、道沿いに適当にばらまいているだけのように思われた。
であれば、目前に続くこのパンくずは、彼にとっては輝く金貨の山に等しいのだった。
夕闇のとばりが、頭上で厳かに引かれていく。風に吹かれてちぎれた今朝がたの雨雲が描き出した壮大な夕暮れが終幕を迎え、上弦の半月を群雲が隠す。湿ったアスファルトから雨の残り香が埃っぽく香る。彼は、街灯さえない軒先のような暗い路地裏へ分け入りつつ、内心では僥倖僥倖とゲスな哄笑を響かせながら、ひたすらに画面をつついては手の届く四十メートル圏内のアイテムを片っ端から拾い集めていた。
路地裏に広がるのは、彼のいままで知らなかった世界。植木鉢の乗せられたエアコンの室外機の裏から、野良猫たちが足早に立ち去っていく。通学路の通りから、たったの道一本を隔てて広がる、時代の潮流から偶然取り残され、昭和がいまなお息づくような、絵に描いたみたいな古い空間。彼は鼻息を荒げながらビール瓶ケースをまたぐ。
近所の駅。その駅の東口。知らない神社。公園の滑り台。指が触れるたび、ちゃらんちゃらんと軽快な効果音がイヤホンから響く。そのたび彼はにまにまする。誰もいない裏路地でもなければこんな表情はできないだろう。
落ちているポータルキーは、どれも彼が普段通学に利用している駅の近辺のものばかりだった。これだけあれば、当分は困らない。なんだか知らないが、降って湧いた幸運というのはまさしくこういうことを言うのだろうと彼は思った。
しかし、さすがに奇妙に思う点もいくつかあった。
落ちているキーは、見たところ近所のものばかりなのだ。まとめて手に入れるにはそれなりに苦労するアイテムである。徒歩だとしても充分に活動圏内だろうポータルのキーを、それもここまで大量に捨てるというのは、なかなか考えがたい。ましてや、車はおろか自転車も立ち入れないこの入り組んだ裏路地まで立ち入ってまで捨てる理由など皆無であろう。この先にポータルがあるわけでもない。つまり、帰り道でもないのなら、こんなところにわざわざ入っていく理由があるとは思えないのだ。
エージェントとしては、自らの住む家の近くでアイテムをドロップすることは避けるべきであるとされている。他のエージェントによる望まぬ自宅の特定を防ぐためだ。しかもキーは近隣のものばかり。わたしはこの近くで活動していますと言っているようなものだ。
いったいなぜそんなことを?
しかし、そうした領域に安易に踏み込まないのもまた、エージェントとしてのマナーなのであった。
ちゃらんちゃらん、ちゃらん。
拾いまくっているうち、次第に落ちているキーが変化し始めていることに彼は気づいた。近所の駅から、彼の通う大学の最寄駅近辺のものへと。思っていたより落とし主の行動圏は広いのかもしれないと彼は考えた。
大学最寄駅。駅前広場。駅前商店街の門。居酒屋の軒先のたぬきの信楽焼。眺めるうち、そのキーたちに、彼は見覚えがあるような気がしてきた。
「……え」
キーを拾う彼の指がふと、止まった。思わず疑問を口にしてしまってから、彼は慌てて周囲を見回して、いまの間抜けな声が誰にも聞かれていないことを確かめた。頭上をコウモリが一匹羽ばたいていく以外に動くものはなかったので、彼はひとまず安堵した。
そして再び、彼は画面をしげしげと眺めた。
拾おうとしたポータルキーは、彼の通う大学の校門のそれであった。
大学校門。教室棟。図書館。体育館。校庭の噴水。部室棟。その近辺には学内ポータルのキーばかりがばらまかれて落ちている。彼は、とりあえず拾って回る。
けれども、大学敷地内に進入できるエージェント。彼は考える。もしかして、このキーの落とし主は同じ学内のエージェントなのでは。しかも、この近辺に住む……。彼は思わず勘ぐってしまう。
学内エージェントであるなら、この機に何とかお近づきになれたりしないだろうか。一緒に活動できるなら、いろいろとできることも広がるだろう。彼は取らぬ狸との共同作戦計画を思案し始めた。
直後彼は、思わずもう一度、首をかしげる羽目になった。
いつの間にやら、ミートアップビーコンが、彼の真横に浮いていたのだ。おそらくはたったいま出現したものだ。それはこないだ実装されたばかりの課金アイテムで、ポータルの上に巨大な案内板を表示できるというだけのアイテムである。
だが、それにしてはいくつか不審な点があることに彼は気づいた。
まず第一に、このハートのようなマークのビーコンを彼は見たことがないという点。
第二に、ミートアップビーコンはポータルの上にしか表示できないはずだという点。
最後に、それがいつの間にか自身の真横に浮いているという点。
その方向には、廃墟同然の三階建てのビルが建っているだけである。見たところでは、ひとの気配などまったくない。だがいま目の前に設置されたということは、設置したエージェントはいま、その方角、その場所に、いるはずなのである。
彼はビルを見上げた。
その屋上を。
彼は茫然と、イヤホンを外した。
そして、すっとんきょうな声を漏らした。
「……、は?」
廃ビルの縁に腰かけ、ふらふらと足を揺らしながら、手にしたスマートフォンの画面の明かりにぼんやりと照らされた誰かの姿が、彼の目に映っていた。
ふいに、月を隠す群雲がふっと払われて、その誰かの姿が、月明かりの下にあらわになるのを、彼はことばも発せずに眺めていた。
「……んふ♥」
鼻の抜けたように笑う彼女の声を、彼は聞いた気がした。
見たところ女子大生……、冷静に観察し始めて、それどころでないことにすぐに彼は気づく。
「ちょ、そこっ、あぶないですよ――」
彼がそう言い終わるより前に、女子大生はスマートフォンを手にしたまま、まったく滑らかな動きでその身を宙に踊らせていた。
落下する女性に、彼が何も反応できないでいる間に、彼女の姿が音もなくまばゆい桃色の光に包まれる。
目を見開いて、彼は見た。
桃色の粒子がきらきらと漂う中、女子大生は、姿を変えて、彼の眼前にゆったりと浮遊していた。
艶めかしくもしなやかな肢体が煽情的な衣装にくるまれて、ふわふわと目の前に浮かんでいる。
その腰には、こうもりのような羽根と、ゆらゆら揺れる長いしっぽ。頭にはぐるり渦巻く山羊の角。
いったい何が起きているのか。完全に処理限界を越えた状況を前に、事態を表現することばを失った彼は、ただぽかんと口を開けているしかできなかった。
「いやー、まさかここまで綺麗にひっかかってくれるとはわたしも思ってなかったんだけど……」
「……え。あの、え?」
半ば笑いながら言う女性に、彼はまだ衝撃から立ち直れないで、意味をなすことばを発せない。
「うん、ありがとね、心配してくれて」
「いや、そうじゃなくて、あなたは」
「ん? 見ての通り、サキュバスだけど」
「……いや、あの、そこじゃ、なくて、ですね」
ふるんっ、空中でその肢体をあでやかに揺らしながら、何もかも見透かしたような不敵なほほえみを崩さないサキュバスに、ようやっとことばが脳内でまとまり始めた彼は、しどろもどろになりながらも尋ねた。
「……、せん、ぱい、ですか……?」
「うん」
実にあっさりとうなずく彼女に、彼はスマートフォンを取り落とさん勢いで目を丸くする。彼女は、彼の大学の先輩にあたるひとだった。……その先輩が、悪魔? 浮いてる? なんで? 再びことばが雲散霧消し、ぽかんと口を開けるばかりな彼に、先輩はすっ、と、音もなく空中を近づいた。
そして、彼の耳元にくちびるを寄せて、ささやいた。
「――"The world around you is not what it seems"」
急接近してきたあられもない姿の先輩に耳元でささやかれて、その主に無防備な胸元やおなかなどを凝視したまま、ぼんっ、などと爆発音が聞こえてきそうな勢いで、彼は顔を真っ赤に染めた。
「……、はえ?」
ささやきだけで魂を抜かれてしまったように、彼はだらしのない声をこぼす。
その熱心な視線の向かう先をはっきりとこころよく認識しながら、サキュバスは歌うように言った。
「『あなたの周りの世界は、見たままのものとは限らない』……、そういうことだよ、後輩くん♥」
そのことばがどういう意味か、このゲームのキャッチコピーだ、と、やっと彼が思い出したとたん、彼は、突然、奇妙な浮遊感を覚えた。
彼のつま先がすかすかと空を切る。
「え、わっ?」
「教えてあげる。きみの知らないほんとうの世界……」
彼女は、そこでことばを切った。
と、彼が思ったとたん、彼のからだが勢いよく彼女へ引き寄せられて。
ばふんっ。
「それとわたし♥」
彼は自身の胸や、からだ全体に当たる、何かむにむにとものすごくやわらかいものを認識した。
それと何か、いったい何と表現すればいいのか、花のように、柑橘類のようにさわやかで、そのくせくらくらするようで、肉のようにかぐわしい、むしゃぶりつきたくなるような香りを。
「へ、あ、え? わ、あわっ? せんぱい?」
「んー?」
「これ、これ、あたって」
「あててんですー♥」
胸に当たってむにゅりとつぶれるおっぱい、両足の間に無理矢理割って入ってきて、ぐにゅぐにゅとあそこの部分に圧を加える剥き出しのふともも、そして背中に這わされ、自身を抱きしめる彼女の手に気づいた彼は、茹でだこのように全身を赤くした。
極度の興奮に荒いだ息と、彼の狂おしい心臓の拍動と、服越しにかすかに固く、存在感を主張し始めたものがふとももを押し返すのが感じられて、サキュバスはんふふ、とみだらな笑みを深め。
そして、再び桃色の光が彼らを包み、光がひときわ、強くなった瞬間。
そこには、誰もいなくなった。
あとには、ハートマークの描かれたミートアップビーコンだけが、唯一その場に残された。
数秒後、ふいに空間から突きだしたサキュバスの煩わしげな両手と顔が、ついついとスマートフォンをつついてそれも消し去ると、こんどこそ、彼らがここにいた痕跡のすべては、消えてなくなったのだった。
15/11/22 03:34更新 / むく