読切小説
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魔女と男05



「随分物々しい」

 俺はぬるいエールをちびちびとやりながら、ぴりぴりと張り詰めた空気が流れる酒保の様子を眺めていた。

 大きな森に面したこの村に足を踏み入れてから、今の感想はずっと感じていた。
 村の周囲は切り出した丸太で壁が築かれ、門まで作られていた。
 要所要所に設けられた鐘楼にはクロスボウを手にした見張りが立ち、住民の殆どが思い思いの武器で武装していた。
 村は一目見て堅気でない者たちで溢れ返り、のんびりとした風景からは程遠かった。
 俺は初め、どこか盗賊の根城にでも迷い込んだのではないかと疑ったほどだ。

「へぇ、そいつはもう。皆さん相当苛立ってますからね。村中どこをつついても弾ける風船のようなものですよ」

 俺の言葉に答えたのは魔女殿ではなく、行商人をしているというホーラッドという名の男だ。
 顔馴染みという訳ではなく、魔女殿と席について食事を摂っていると、気さくに話しかけてきてそのまま相席している。
 魔女殿は気にかけず、当人も敵意は持っていないようだったので、彼の話に耳を傾けていた。

「何故?」

 ホーラッドは人目を憚るようにきょろきょろと辺りを見回してから、口に手の平を立てて囁く。

「……番人ですよ、番人」

「番人?」

 背中を丸めて乗り出す行商人の姿勢を真似て、俺も小声で尋ね返した。

「へぇ。エルフなんですがね、これがまた滅法強いらしくて。一昨日も着いたばかりの傭兵団が意気揚々と森に踏み入りましたが、戻って来る時には敗残兵な有様でして、はい。
 ここだけの話ですがね。ここにいる皆さんも相当負けが込んでまして、酒盛りで憂さ晴らしという次第なんですよ」

 彼の話は不可解だった。
 エルフと言えば森に住む者の代名詞になるほど有名だが、そのエルフと人が何故争っているのだろう。
 俺が読んだ書物にエルフは好戦的な性格だという記述は無く、どちらかと言えば争い事を嫌って森の奥深くに隠れ住む種族。
 だった気がする。

「何か理由が?」

 俺が訊ねると、行商人は目を丸くして俺と魔女殿を見比べた。

「お二人さん、財宝の噂を聞きつけてやって来たんじゃないんですかい?」

「財宝?」

 何やら複雑な事情が絡んでいるようだ。

 なんでも森の最深部には太古の遺跡が手付かずのまま今も眠っており、遺品や財宝も少なくないとか。
 その遺跡をエルフが守っているという話だ。
 この村はその財宝を目当てに集まってきた発掘屋を中心に、各地を流離う冒険者や雇われの傭兵、その彼らを相手に商売をするホーラッドのような行商人が集まって自然に出来た村だと言う。
 有り触れた寝物語なのかもしれないが、実際にその状況を見るとなかなか新鮮に感じられた。

「松明から大砲の弾。勿論、逗留するには垢落しも入りますからね、お望みならそっちの方も揃います。なんせ手付かずの遺跡ですからね、どれだけの金銀宝石財宝が唸っていることか。
 この村は今ちょっとしたゴールドラッシュみたいなもんでして。
 まあ、今のところ番人を突破できた者はいないんですが」

「なるほど」

 一山当てようと集まってきて、思わぬ足止めを食わされているらしい。
 のどかさとは程遠い風景も、ぴりぴりとした空気にも納得がいった。

「ホーラッドも一山当てに来たのか?」

「とんでもねぇです! あたしゃ自慢じゃねぇですが腕っ節の方はからっきしで。誰かを雇って森の中の遺跡に乗り込もうなんて、慣れない事はするもんじゃありやせん。
 あたしら商売するもんは物が入ってからが本番でしてね」

 財宝が手に入ったとして、それを流通させなければ意味が無い。
 金銀財宝もただあるだけでは重い荷物になるだけだ。
 利ざやで稼ぐ事は商人が得る立派な報酬で、ホーラッドはその領分をきっちりと守っているようだ。

 首から提げた大きなポシェットをぽんと叩いて見せるホーラッドに、今までミードを舐めていた魔女殿が口を開く。

「それで盗掘屋と傭兵半分盗賊半分なへっぽこどもに見切りをつけて、わしらに声をかけて来たか」

 にやりと笑った魔女殿に、ホーラッドはぎょっとした後に気まずそうな愛想笑いを浮かべた。

「いやはや、見抜かれてましたか」

「ふん。商人ほど噂話に耳聡い職種もなかろう。店を持たず渡り歩いておるなら尚更な」

「ご高名なお二人の姿をお見受けしましてね、是非ともお近づきになりたいと思いまして。
 こうして不躾ながらも相席させて頂きました次第でして、はぁい」

 どうやらこちらの素性は初めから見抜かれていたようだ。
 王国から手配されている身を考えれば、それほど不思議ではない。
 何気なく視線を魔女殿からホーラッドに向けると、彼は慌てたように手を向けて左右に振った。

「いやいやいや、勿論お二人をどうこうしようって話じゃありません。第一、場所が場所だけにそちらの筋の方も多くいらっしゃるんですよここには。
 王国の目が届いていない内に、一攫千金を手にして自分の首を買おうって方々も多いらしくて。
 どちらの筋であろうと、私にとってはお金を落としてくれるありがたいお客さんですからね」

 ホーラッドはぺこぺこと頭を下げながら満面の笑顔で揉み手をして見せた。

「なるほど」

 俺は今まで感じていた印象に合点がいって、頷いた。

 これが胡散臭いというものなのか。

「それはもうお二人のご活躍には期待しておりまして。もし御用の機会がありましたらこのホーラッドを指名してくれればと。地の果てからでも駆けつけます、はぁい。
 つきましてはご入用になりそうなものを幾つか用意してまいりまして。あ、勿論お値段の方は勉強させて頂きますので」

 ホーラッドと名乗ったこの行商人は、テーブルの上に自らの商品を並べながら説明を始めた。
 俺は温いエールをちびちびと舐めながら、その言葉に耳を傾けた。

「まずはこちら。どれだけ重傷を追っても使えばたちまち元気に走り回るという最強の回復薬! 例え余命幾ばくも無い病人にも効く万能薬です!
 それもそのはず、栄養たっぷり愛情たっぷりの牧場で育てられたホルスタウロスの一番搾り乳に、マンドラゴラの根を加え、さらにドリアードの雫――どこの雫かは申し上げられませんが――を加えて出来上がったのがこの一品!
 普段なら一つで金貨二五枚は下らないこちらの万能薬を、今ならなんと驚きのこの価格!」

 彼はどこまでも胡散臭かった。



 俺は魔女殿と共に風呂に入っていた。
 おおよそ、村や街にある酒保はそのまま宿として機能しており、この村でも同じだった。
 宿の利点は、こうして温かい風呂に入れる事にある。

「魔女殿」

 俺は両袖を捲り上げ、一人用の湯船に浸かっている魔女殿の髪を石鹸で泡立てながら呼びかけた。

「うん?」

 湯船の縁に寄りかかり鼻歌などを歌っていた魔女殿がこちらに振り返った。

「どうするのですか」

 ホーラッドから聞いた話と、この村の状況。
 逗留だけなら王国領の街と違い、人目を気にせずのんびりと出来る。
 魔女殿が所望されるミードに困る事も無かった。

 充分に泡立てた後、指を立てて魔女殿の髪をわしわしと洗う。
 濡れて泡立つ髪が指に絡むのが判った。

「ふーむ」

 魔女殿は目を閉じて、心地良さそうな声で唸った。

「ぬしはどうしたい?」

 逆に訊ね返されて、俺はどうしたいのかを考えた。

「平和に過ごしたいです」

 平穏と安息に過ごせる日々が何よりだ。
 俺の素直な感想に、魔女殿は大げさなくらいに大きなため息を一つついた。
 そのまま湯船に肩まで使ってしまう。

「夢の無い男よのぉ。そこは遺跡を目指して邪魔する者を全て蹴散らし、金銀財宝を独り占めにしてやる! と嘯くのが男というものぞ」

「金ならミード、銀なら銀貨一枚もあれば平穏に過ごせます」

 俺は魔女殿の耳周りもしっかりと掻きながら、その様子を想像してみた。

 金色の蜂蜜酒で魔女殿は上機嫌になり、銀貨一枚でつまみも頼める。
 それは夢のように平和な光景だった。

「わしは心構えの話をしておる。どうして発言がそう所帯じみているのか。冒険話の一つでも耳にすれば、思わずわくわくしてくるのが男であろうに」

「村や街に入るだけでいつもどきどきしています」

「色目を使ってくる女の胸や腰でも追っておるのか」

「気色ばんだ人々に石を持って追われるのではないかと」

「ただ街に足を踏み入れるだけで心配性な事よ。やましい事などなんら無いのだから胸を張って堂々としていればよろしい」

「やましい事が無いのですか?」

「なんぞあるのか?」

「……いえ。
 流します。目を閉じて下さい」

「うむ」

 魔女殿の返事を待ってから、俺は桶の湯で泡を落とす。
 勿論勢い良く浴びせるなどという事はせず、少しずつ、良く髪を撫で解しながら流した。
 桶の湯がなくなる頃には泡はすっかり流れ落ち、魔女殿の金髪は鮮やかな光沢を取り戻して輝いていた。

 俺は再び石鹸を泡立て、魔女殿の首から下を手の平を使って磨く。
 すっかり湯で温まった為か、相変わらずのぷにぷに感で指が弾んだ。

「まあとりあえず。あの者の話を聞いて、ぬしも少しはわくわくしたのではないか?」

「そうですね」

「よろしい。ならば金銀財宝を根こそぎに、まるっと全てを頂こうではないか」

「魔女殿は結論ありきで話されている気がします」

「真っ直ぐ進むか遠回りするかの違いで、結論など同じだ。遺跡の財宝を番人ごと頂くなど、実に痛快な話ではないか」

「番人ごと?」

「決まっておろう。ちょうど良い機会であるし、エルフのような知性の高い者と契約するのも一興」

「魔女殿は一興で済みますが、俺は一驚では済まないと思います」

「人生に驚きはつきものだ。第一驚くような事の無い人生などつまらんではないか」

「それについては同意しますが、穏便な驚きで済んで欲しいです」

「かかか、それは無理だ。相手がエルフとなれば高飛車に高慢ちきに自信過剰と三拍子揃っておる。これで穏便に済む方がおかしい」

「魔女殿は意地悪です」

「そうとも、わしは意地悪な魔女だ。自ら優れた存在だなどと公言して憚らぬエルフが、肉欲と快楽に溺れてエロフになる様子を見るのが好きなのだ。
 ついでに言えば、エルフの扱いに四苦八苦するぬしの様子も見たいな。これほど楽しい事は無い。うけけけ」

 魔女殿は小さな肩を揺らして笑った。
 意地悪で悪趣味な事は当の昔に知っているが、俺はそれが嫌だと感じる事は無かった。
 魔女殿の意地悪に対しても、まだ見ぬエルフと出会う事に関しても。

 魔物に対して基礎的な知識は書物から得ているものの、実際に会うのは殆どが初めてだ。
 スゥにしても、リコにしても。
 今まで特定の魔物としか接点が無かったので、様々な魔物と直に会って異なる価値観と触れ合う機会は素直に嬉しい。
 心が通って契約出来るのなら、さらに嬉しかった。

「期待に沿えるよう努力します」

「うむ。期待しておるぞ」

 俺は魔女殿が湯船から上げた足の裏と指の股を磨きながら、ふと気がついた。

「魔女殿」

「なんぞ?」

「エルフと出会うとします」

「うむ」

「相手が男であったらどうするのですか?」

 遺跡の番人がエルフだという話はホーラッドから聞いていたが、性別までは言及しなかったしこちらも訊ねていなかった。
 素朴な疑問に、魔女殿は足の指をわきわきと広げた。

「その時は新世界を目にする事になろう」

「新世界ですか」

「うむ。おそらく薔薇色だぞ」

「今からでも遺跡に向かうのは止めに出来ますか?」

「不許可だ」

「注意一秒バイ一生ですか」

「名実共に両刀使いであるな」

「……」

「泣くな。まだエルフが男と決まった訳ではない」

「はい」 

「男だったら強く生きるのだぞ」

「……はい」

 待ち受ける未来を想像しかけて、すぐに止めた。
 今は待ち受ける己の未来を憂うよりも、魔女殿の足裏マッサージの方が大切だ。
 旅の疲れが少しでも取れるよう、魔女殿の足を丹念に揉み解した。



「ところでMBよ」

「はい」

 魔女殿は湯船の縁に腕を引っ掛け、泡風呂にぷかりと浮かんだ仰向けの格好で俺を見た。

「わしを洗っていてむらむらせんか?」

 そう訊ねられた。

「取り立てて、何も」

 俺は正直に答えた。 



 その日、村の宿から風呂が一つ消えました。



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「……ん」

 眠って身体を休めていた私は、横たえていた身体を起こした。

 どこか遠くで地脈の乱れを感じた気がした。

 改めて森の気配を探ってみるが、木々のどよめきもかしましいリスたちの噂話も聞こえてこない。
 人間がまたこの森に足を踏み入れて来た訳ではないようだ。
 暗い空を見上げるとぽっかりと穴が開いたような満月が浮かんでいた。

 森に抱かれて眠っていたと言うのに、気分は憂鬱なままだ。
 今までどれだけ人間を打ち払ってきたのだろう。
 打ち払えども打ち払えども人間たちは不尭にして不屈。
 以前は静かだったこの森も、いまや連日踏み入る人間たちで騒がしいばかり。
 多くの動物が姿を消し、多くの木々たちが減らし、それでも尚人間たちはとどまる事を知らない。

 いっそこの手にかけてしまおうかと思った事さえ、一度や二度では足りなかった。

「ふぅーう」

 大きく吸い込んだ森の息吹をゆっくりと吐き出した。

 いけない。
 憎悪や殺意に囚われて短慮を起こせば、それは結局自らの首を絞める。
 これは我慢比べのようなもの。
 人間たちが諦めこの森を侵すような真似を断念するまで、打ち払い続ける。
 消極的ではあるが、それが最善手だ。

 命を奪えばより苛烈な争いの火種を持ち込む事になる。
 自ら穢れを誘い込むような真似をしてはいけない。
 本末転倒だ。

 それは判っている。
 判っているが、増え続ける人間に辟易しているのも事実だ。
 姿を見せて以後まるで病魔のような勢いで数を増やし、今では森の外延に集落まで築き上げてしまった。
 木々が切り倒される悲鳴を耳にしていながら、その様子を見ているしかなかった事に苛立ちを覚える。

 自ら打って出る事は出来ない。
 たった一人では迎え撃つ事は出来ても、まとまった人間の集落を攻め落とす事など出来るはずがない。
 それは重々承知しているが、だからと言って納得出来る事ではなかった。
 森の外ならけりをつけられるが、森から出ては充分に力を振るえない。
 勿論森を出た所で人間に劣る訳がないが、私の領域である森の助けがあってこそこうして人間たちを打ち払う事が出来る。
 だからこそ今日まで一人で人間の集団を相手に取り、この森を守り続ける事が出来た。

 刺し違えるだけでは駄目なのだ。
 これからも森を守り続けていかねばならない。

「私、馬鹿な事をしている?」

 その独白に答える者はいない。
 木々も動物たちも寝静まっている。
 まるで恐ろしい何かに怯えて息を凝らしているように。

 ため息をついて、私は苔生した岩から立ち上がる。

 眠気がすっきりと醒めてしまった。
 今の内に森をぐるりと一回りしておこう。
 夜が明ければまた人間たちが乗り込んで来るかもしれない。
 年経た木々に頼んで、少し道を開けておいて貰わないと。
 矢の補充も必要だ。
 樫の樹たちに枝を分けて貰えるようお願いしよう。

 一人で森全体を守るには限界がある。
 あえて歩き易い道を作っておくことで、人間たちの侵入経路を特定する。
 人間たちは当初何の迷いもなくその道を使っていたが、最近は警戒してか少人数で分散して侵入する事が多い。
 今では大きな道と細い獣道を作り、それらを複雑に絡めている内に迷路のようになっていた。
 森に無理をさせるのは心苦しいが、それでもこの状況を凌がなければならない。

 私は木々の逞しい幹を借りて飛び移りながら、森の中を進んだ。

 願わくば、明日こそ人間たちが自らの愚かさに気づいて諦めてくれるように。



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 夜が明けると魔女殿の機嫌は直っていた。

「おうおう、すでに敵地だというのに呑気なものよな。鎧兜に身を包んで大行進とは。あれでは見付けて下さいと言っているようなものよ。
 あ奴ら、まだこの森に入るのは初めての素人やも知れんな」

「素人なのは俺たちも同じ事ではないのですか?」

 草木を掻き分けながら進む俺の肩に座り、魔女殿は先を行く傭兵団の様子を眺めていた。
 歩き難くても草木を切る事は魔女殿からは禁止されてしまった為、この格好になった。
 魔女殿を肩車するのも負ぶるのも慣れていたので、特に支障はなかった。

 俺の言葉に、ぺしぺしと頭を叩かれた。

「左様。故にこうして穏行の術を用いておるのだ」

 魔女殿はあらかじめその術を用いてから、村から出た。
 探索に向かう傭兵団にくっついて村を出て、今はつかず離れず距離を保ったまま進んでいた。
 魔女殿が用いたのは単純に姿が見えなくなる術だけではなく、同時に消音の術も行使している。
 なので普通に話していようと傭兵団に俺たちの声は聞こえないし、姿も見えない。
 いつもながら凄い魔術だと思うのだが、俺たち自身は普段と何も変わらないので実感するのは難しかった。

 傭兵団の人数はざっと三〇余名。
 手にした得物は剣やフレイルに、クロスボウ。
 頭からつま先までしっかりと鎧に身を包んだ完全武装で、荷駄まで引いていた。

「今に見ていろ。もうじき楽しい事になる」

「そうですか」

 魔女殿が楽しがるという事は、何か意地悪な事が起きるのだろう。 

 俺はがちゃがちゃと武器を鳴らしながら意気揚々と進む傭兵団の後ろ姿を眺めて、少し同情した。



 森に足を踏み込んでから鐘一つと間を空けず、魔女殿の言う楽しい事が起きていた。

「三番隊四番隊! 散らばるな、固まれ!」
「落ち着いて円陣を組め! 盾を離すな!」

 どこか和やかでさえあった傭兵団の面々は、軒並み逼迫した様子で怒号を張り上げていた。

「取り乱しておるな」

「取り乱してますね」

 その様子を、俺と魔女殿は離れた草むらの影から覗いていた。
 傭兵たちは混乱の坩堝にある。
 先頭を歩いていた一人が何の前触れもなくいきなり倒れて、後はこの状況だ。

「敵は、敵はどこだ!?」
「くそっ、どこから撃ってきやがる!」

 男たちの罵声と悪態に混じって、鋭く空気を切り裂く音を聞いた。

 円陣を組んでいた男が一人、ばたりと倒れた。
 矢が当たったのだろうが、着弾と同時に血とは別の淡い輝きがぱっと飛び散った。

 不可解だが美しい光景に見惚れていると、魔女殿が唸った。

「ふむ。あれは矢に魔力を直接込めて撃っておるな。あれでは鉄の鎧など幾ら重ねたところで紙切れ同然だ。
 どこから撃ったか見えたか?」

「俺から見て北西、距離は三〇〇という所でしょうか。もう移動しているようです」

「森の中でそこまで見通せるとは。相変わらずぬしは変態だの」

「恐れ入ります」

 眉をひそめる魔女殿の言葉を褒め言葉と受け取って、会釈した。
 頭を下げている内に、再び風を切る音が耳に届いた。

 ぱっと魔力の残滓が輝いて、今度は傭兵たちが三名同時にばたばたと倒れた。
 魔力を用いて鉄の装甲を無効化しているとの事だったが、それにしても余りに不自然だった。

「矢の軌道が明らかに変です」

 地面を這うように進んだり、木々を避ける様に蛇行したりと、明らかに弓矢の限界を超えている。
 矢に用いられているのはどこにでもあるような枝にしか見えず、何か細工が仕掛けられている風には見えなかった。

「あれも魔術だ」

「魔術ですか。なんでもありですね」

 俺が感想を述べると、魔女殿はふむと頷いて首を引っ込めた。

「いい機会であるから、実際に例を交えて魔術について説明しておこうか」

「耳にたこが出来るほど聞かされた気がします」

「だというのにぬしは全く覚えておらんだろうが。
 どうでも良い事はいつまで経っても覚えているというのに、どうして魔術に関しては覚えが悪いのかのー」

 実際にどれだけ詰め込まれても、魔術に関する知識だけがところてんのようにつるんと押し出されてしまう。
 口を尖らせる魔女殿には悪いと思うのだが、それは俺にも良く判らなかった。

「申し訳ありません」

「よいよい。繰り返しは学習の基本だ。いつか覚えられる事を願うとしよう」

 魔女殿は気楽に笑って手を振ると、落ちていた枝を一本拾い上げた。

「今用いられているあの矢について説明をしよう。鏃に用いられておるのは魔力の塊。
 自らの魔力を外部に出してあたかも物質のような属性を持たせるという、極々基本的な術式だ」

 魔女殿は枝切れで地面に大雑把な人型を描いて、身体の外へ続く矢印を入れた。

「魔女殿が用いられるお仕置き術のようなもの、ですか?」

「うむ。あれも原理は同じだ。世俗によって呼び名に差はあろうが、原理は同じと考えよ。
 話を戻すぞ? 矢があのような軌道を取るのもまた魔術によるもの。空中を蛇行するは風の精霊に、大地を這うは地の精霊に依った力だ」

 次に魔女殿は矢印の先に矢を描いて、その矢に向かう矢印を上下から入れた。

「では問題だ。先の鏃に用いた魔力の塊、今言った矢にかかるそれぞれの力。これの違いは何か?」

 質問するよりも早く問題を出されて、俺は足元の図を眺めて首をひねった。

「うわー!」
「ば、馬鹿な! 一方的にやられるだと!?」

 森にこだまする悲鳴に驚愕が深まっていくのを聞きながら、答える。

「いわゆる黒魔術、精霊魔術と呼ばれるものの違いですか?」

「外れだ。呼び名に差はあっても原理は同じだと言ったはずだ。もっと単純に、広い意味で考えてみよ」

 地面の図を枝切れで指し示され、俺はまじまじと覗き込んだ。

 鏃と矢にかかる力の違いとは?

「三番隊、ぜ、全滅!」
「四番隊、四番隊はどうなった!?」
「畜生、返事がねぇ! ここまでとは聞いてないぞ!?」

 森に響く悲鳴が悪態に変わるのを聞きながら、慎重に答える。

「……この矢印の出所ですか?」

 ちらりと魔女殿の表情を伺う。
 魔女殿はにこにこと笑っていた。

「そうだ。出所、つまり魔力の源が異なる。鏃は体内に蓄積された魔力から作られているのに対して、矢にかかっておるのは元々世界に存在する魔力。
 すなわちオドとマナだ」

 魔女殿は人型の中にオド、外にマナと書いて記した。

「無論オドを用いて矢を曲げるなどという芸当も出来る。しかしオドは個人によって総量が定められている。それを伸ばすことも出来るが消費する源は同じ。
 ジョッキの中のミードを飲み干せば、空になるのは道理であろ?」

「なるほど」

「それに対してマナも有限ではあるが、その総量はオドと比べ莫大なものだ。マナは酒保の樽に詰まったミードと考えれば良い。
 二つの異なる魔術を、オドとマナ一回ずつの消耗だけで行使出来る。どちらに対しても節約が効く」

「なるほど」

「さて。オドとマナについて説明した所で問題だ。ぬしは先ほど魔術はなんでもありと言ったが、では何故魔術は様々な系統に分かれていると思う?」

「オドとマナの範囲は関わってきますか?」

「それは一度忘れよ。オドであろうとマナであろうと源は違えど効果は同じ。では何故黒魔術、精霊魔術、神聖魔術と枝分かれし体系付けられているのか」

 俺は三本の指を立てて見せた魔女殿に言われて、腕を組んで考えた。

「ち、畜生!」
「馬鹿野郎、でたらめに撃ってどうする! 幾ら鉄を貫いても当たらなければどうということはぎゃー!」
「お、お頭がやられたー!」

 森に轟く悲鳴にいよいよ悲壮感が漂い出しているのを感じながら、答える。

「都合がいいからですか?」

 それが一般的な知識として広く浸透しているという事は、色々な人々の思惑にとってこの形が都合がいいのではないか。
 そんな気がした。

 魔女殿はこくりと頷いた。

「そう、都合が良いのだ。
 ただ想像しろと言われても、何を想像して良いのかが判らず混乱するだけだ。黒魔術だ、精霊魔術だとある程度括ってしまえば、イメージし易かろ?
 魔力はただ存在するだけでは何の効果も示さぬ。呪文は魔力に方向性を持たせる手段。体系付けはどこへ向かわせるかの舵取り。斯くして魔力は 都合よく形を得て世界に顕現する。
 理解したか?」

 俺は正直に答える。

「判ったような判らないような気がしました」

 魔女殿は怒るでもなく小さな苦笑を浮かべただけだ。

「つまり、イメージを忘れるなという事だ。ぬしも魔力の基礎地は持っておる。後は想像力さえ働かせれば良いだけだ。
 今ではせいぜい地脈の流れを無意識に感じ取る程度だが、一度壁を越えれば魔術を扱えるようになろう」

 魔術を扱う。
 俺にとってはまるで夢のような話だ。

 長年魔女殿から手ほどきを受けながらも、初歩魔術の一つも成功させた事のない俺には、その言葉を聞く度に胸の鼓動が速くなる。
 自分の不甲斐なさを恥じているのか、魔術を扱う自分の姿に胸が踊っているのか、俺にも良く判らない。
 多分、両方の感情が入り混じっているのだろう。

 俺は胸に手を当て少し早くなった自らの鼓動を感じていると、魔女殿が頭を上げた。

「……おお、終わったようだ」

 俺は魔女殿に続いて頭を上げた。

「見事にこてんぱんだな」

「見事にこてんぱんですね」

 傭兵たちは残らず地に伏せて苦痛の呻き声を上げている。
 呻いているという事はまだ生きているという事で、どうやら死者は一人もいないようだ。
 手足や肩を射抜かれて誰も彼も無事とは言い難かったが、致命傷は避けられている。
 魔力の鏃が突き刺さる苦痛の程度は判らないが、這いずり、またはよろめきながらも立ち上がり、森の出口を目指す事は出来るようだ。

「森を侵す人間たちよ、直ちに去れ! さもなくば次は眉間を射抜くぞ!」

 森の中に凛とした声が響いたかと思うと、ざっと雨音に似た音を立てて矢が降り注いだ。
 矢は倒れ伏した傭兵には当たらず、地面に突き刺さる。
 脅しだ。

「ひ、ひぃぃ!」
「駄目だ、逃げろー!」
「歩けない奴は置いていくぞ!」
「お、お、お頭ぁー!」

 強力かつ変幻自在の射撃の前に成す術なく倒れた傭兵団にとって、脅しであっても最後の意気を挫くには充分過ぎた。 
 矢の軌道すら操って見せたのだ。
 狙おうと思えば急所に当てるなど容易いだろう。
 意気揚々と森に踏み込んだ傭兵団は、満身創痍の姿で引き返していった。

 その様子を見送り、俺は魔女殿に訊ねる。

「いつまで隠れているのですか?」

「わしが良いというまでだ。警告もなく問答無用で射かけてくる相手ぞ。ここで姿を見せればたちまち蜂の巣だ。
 もう少し様子を見るのだ」

「判りました」

 男たちの悲鳴が遠ざかり森に静けさが戻る。
 俺たちは尚も茂みから辺りの様子を窺った。

 不意に、樹上から一つの人影が躍り出た。
 その鮮やかな緑に、森の欠片が落ちてきたのかと思った。

「魔女殿」

「うむ」

 新緑を思わせる長い緑色の髪。
 澄んだ泉のように青い瞳。
 露出した肌は白く透き通り、その耳は長く尖っていた。

「エルフだ」

 実際に見るのは初めてだ。
 本で見るのとは明らかに違っていた。
 色褪せた紙に黒のインクで描かれた姿は、ここまで鮮やかに彩られてはいなかった。

 傭兵たちが身につけた鉄の鎧ごと射抜いていた弓は、木製の素っ気無いほど簡単な作りで、そういう種類なのか花が咲き蔦を絡ませている。
 身につけている衣服も草花で編まれているというのに、それでも尚草は青々と瑞々しく、花は萎れず鮮やかな色合いを保ったままだ。
 森の欠片という印象は、ある意味その通りだったのかもしれない。
 彼女はそのまま森の一部分で、まさしく森エルフと呼ぶべき存在だった。

 俺は樹上から地面に降り立ったエルフをじっと観察する。
 エルフは総じて長身で華奢だと書物にあったが、案外そうでもない事に気がつく。
 細身だがか弱さは感じられず、腿や二の腕にしっかりと筋肉がついている。
 締まっている分ほっそりして見えるが、瞬発力よりも持久力に適した身体つきだ。

 エルフは射掛けた矢を拾い上げる。
 肩に背負った矢筒へと回収しながら、時折顔を上げて周囲を見回していた。
 魔女殿の魔法のお陰で、こちらに視線を向けても目が合う事はない。
 俺たちの存在に勘付いて探しているというより、単純に周辺を警戒しているのだろう。
 身のこなしは優雅だが同時に隙もなく、彼女が優れた戦士であることは想像に難くなかった。
 
 身長は俺よりも低く、人間の女性と比べてそう変わらない。
 彼女は若くまだ成長するのだろうか。
 顔立ちも幼く見えるがエルフは人間より長命な種族であるらしいし、外見から年齢の判断は出来ない。
 そのいい例を身近に知っているので、年齢の事は気にならなかった。
 彼女も俺よりずっと年上なのだろうか。
 この森で暮らしているのか、それなら他にもエルフがいるのか。

 疑問はとりとめもなく浮かんできて俺の頭に蓄積される。
 出来るなら今すぐ言葉を交わして疑問を紐解きたかったが、その欲求を押さえつけてその場に留まった。

 魔女殿の言うようになるのは困る。
 争い事は苦手だ。

 俺たちが見ている事に気づいた様子はなく、エルフは矢を粗方拾い終えると現れた時と同様唐突に姿を消した。

 跳んだ。
 木々の合間を縫うように飛び交いながら、瞬く間に姿を消してしまった。

 俺の口からほうとため息が洩れたのは、思ったよりも緊張していたからか、鮮やかな新緑色に心奪われていたからか。
 さわやかな匂い立つ一陣の風のようだった。

 魔女殿は緊張した様子もなく帽子を被り直して、ふむと一つ頷いた。

「どうやらエルフ側の人手は足りんようだな。先ほどの者一人か、おっても後は戦えぬ者なのだろう」

「何故判るのですか?」

「あの村を見たろう。村を作る木材はどこから持ってきた? 森を削り取るのが一番早い。
 頭数が揃っていれば、自らの領域を削り取らせて村など作らせはせんだろうよ」

「なるほど」

「……ご苦労な事よ。あのエルフ、どうやら森に入る全ての者どもを追い立てる腹積もりらしいぞ」

「そうなのですか?」

「森の中にオドが入り乱れておる。新参をだしに突破を図ろうと考えた者は、わしらだけではなかったという事だ。
 良い目晦ましだ。エルフが走り回っている内に奥地へと向かい、遺跡の財宝とご対面と行こう」

「はい」

「その後エルフがのこのこと戻って来おったら、ぬしがコマせ。多少強引でも構わん。男なら黙って押し倒せ。嫌よ嫌よも好きの内だ。
 古代遺跡で青姦というのも中々におつなものであろうよ」

「コマすなどと口にしないで下さい。台無しです」

「口うるさくなったものよのぉ」

「おかげさまで。魔女殿」

「うん?」

「人間を囮にし、財宝を掠め取り、最後にエルフの操まで頂こうと言うのは、どう考えても俺たちが悪人な気がします」

「魔女が善良のはずなかろうよ」

「……それもそうですね」

 魔女殿は定位置になりつつある俺の肩によじ登り、俺は指し示される方向に向かって歩き出す。
 気に入ったのか、魔女殿は先ほど拾った枝切れを振りながら陽気に歌いだした。

「無乳 貧乳 微乳 美乳♪
 余乳 巨乳 魔乳 覇乳♪
 八組ぃ〜の乳を選ぶとしたら♪
 君ならどれが好きぃ〜♪」

「全て」

 素直に答えた。

「この欲張りめ」

「困った事に」

 くつくつと笑う魔女殿を担いで、俺たちは森の奥を目指した。



xxx  xxx



 森に踏み入る者たちを最速で倒した。
 木々のざわめきから敵の位置を掴み、地と風の精霊に矢を運んでもらい、魔力の鏃を撃ち込んだ。

「森から去れ、人間!」

 腕を、足を、細心の注意払って急所を外して射抜き、倒れ伏した人間たちを一喝した。

 ――次。

 戦意を失い遁走する姿をろくに確認する間もなく、次の場所へ。
 樹から樹へと飛び移りながら、私は森に呼びかける。

「歩く者よ、飛ぶ者よ、這う者よ、泳ぐ者よ、森に育まれる同胞たちよ。教えておくれ。騒々しい鉄の音色は今いずこ?」

 近くにいるよ――
 遠くにいるよ――
 群れを作っているよ――

 動物たちのかしましい声に耳を傾けながら、向かう方角を瞬時に取捨選択、判断する。

「樫よ、ブナよ、我らを育む賢き者たちよ。その豊かな枝を、その逞しい幹を、今より少し動かして下さいませんか?」

 ああいいとも緑の子よ――
 我は地に日を当てよう――
 我は葉に日を浴びよう――

 木々たちの小さな囁き声を注意深く聞き取りながら、次へ、次へ、次へ。
 速く、速く、より速く。

 草木の悲鳴が近づき、森の空気に混じるおぞましい鉄と油の饐えた匂いを感じ取り、私は弓に矢を番えた。

【ベ プロウド オフ オネース ストレングス オフ ベアール】

 力自慢の羆の爪を鏃にあしらえ、弦を引く。
 人間の数は三。
 狙いは先頭の男。
 鉄の鉈を振るい今も草木を無遠慮に切り払っている者。

【クレエピング ミネ】

 番えた矢を大いなる大地に向け放つ。
 撃ち放った矢はあたかも足の無い者のように、地を音もなく這いずり人間の元へと忍び寄り、毒蛇の静けさで熊の一振りを届けた。
 握っていた鉄の鉈ごと、人間の指が弾け跳んだ。

 ――しまった。

 己を叱咤するよりも速く、人間が膝を折って蹲るより速く、私は二射目の矢を番えている。

【ベ プロウド オフ オネース ストレングス オフ ベアール】

 後悔している暇は無い。

【ア ウヒアルウィンド】

 気紛れな旋風に呼びかけ、続けざまに二本の矢を放った。

 風が放った矢と陽気なワルツを踊り、棒立ちになっていた二人の人間の元へと届ける。
 膝を砕き、肩の肉をこそぎ落とした。

 もんどりうって倒れた人間たちを、厳しく叱責する。

「己が痛みを森の痛みと知れ! 次は無い!」

 私は苦悶に呻く人間たちをその場に残して、次へ。

 もう呑気に放った矢を拾い集めている暇など無い。
 人間たちはあちこちから森の中に侵入していた。
 最初に打ち払ったあの大仰な数と出で立ちをした者達はただの囮だ。
 囮を打ち払っている間に、少人数に分かれた人間たちが森の奥へと目指している。

 小賢しい真似を。

 私は木々の間を跳び抜けながら次を目指し、澱のように絡む怒りを振り払う。
 心を乱してはいけない。
 必要以上の血を求めてはいけない。
 怒りが判断をわずかに曇らせた。
 目に人間の手が弾ける様子が焼きついている。

 あそこまでする必要は無かった。
 先ほどの人間は、囮の者たちほど鉄に身を固めていた訳ではなかった。

 怒りだけが判断を鈍らせたのではない。
 この激しい感情。
 振り切りたくても影のように追いすがってくる、この感情は。

 近いよ――
 息を潜めて隠れているよ――
 気をつけて―― 

 同胞からの助言に、私は思考を締め出した。

「ありがとう、森の同胞よ」

 隠れているという事は、こちらの接近を気取っているのか。
 私は残り一本となっていた矢を番え、それでも速度を落とさず敵手を探した。

 例えこちらの接近を感知するだけの手練れであろうとも、手をこまねいている訳には行かない。
 迎え撃つ者が一人しかいない以上、複数の侵入者に対して最速で打ち倒していくしかなかった。

 今までオドの消費を抑えて来ていたが、すでに肉体は限界に近い。
 体力そのものも先細りし続けている。
 だがマナの力を借り続ける訳にはいかない。
 この森のマナを、これ以上消費する訳にはいかなかった。

 足を止めたい。
 このまま倒れ込んで森の息吹を吸い込んでいたい。
 胸の奥ははちきれんばかりに膨らみ、息をするだけで鋭く痛む。

 次で最後。
 これで最後。

 悲鳴を上げ続ける肉体に言い聞かせて、私は跳躍を続けた。

 森を侵す人間を、誰一人としてあの場所へ踏み込ませる訳にはいかない。
 あの場所に人間が辿り着けばどうなるのか。
 何が起こるのか。
 考えるだけでおぞましい。

 そして、私はそのおぞましさを今も尚愛していた。

 木々の間を飛び交いながら、

【我、幻想の境界に身を捧げし者】

 人間の言葉を耳にした。

【汝、忘れられし者に恋焦がれし者】

 呪文の詠唱――

【ド ノト カレ アト アルル スタグ ホオヴ】

 番えた矢に込めるは牡鹿の蹄。
 私は声が聞こえてくる方向へと跳んだ。

【至極の約定に基づき我が足元に跪け!】

 見つけた。
 機械仕掛けの奇妙な弓矢を手にした者らに守られて、杖を手にしたローブ姿の男が周囲のマナを吸い上げている。
 私が身を預けた樫の樹に向けて、鉄の鏃を用いた矢がざっと殺到した。

【その汚らわしき抱擁を以って、罪深き汝が業を】

 詠唱は続いている。
 避けている暇はない。
 身体を逸らしながら、私はあらぬ方向へと矢を放った。

【ア ウヒアルウィンド!】

 射ると同時に風に呼びかける。
 一直線に飛んでいた矢は、地面に突き刺さる寸前で空中をきりきりと不規則に舞い、魔術師を守る人間たちの脇をすり抜け、黒いローブの中へと吸い込まれた。

 肉を叩く派手な音が響いた。
 目深に降ろしていたローブが魔力の余波で弾け飛び、魔術師はその年経た素顔をさらしながら大きくのけぞった。
 顔面に蹄の跡を残し、口から血と砕けた歯が飛ぶのが見えた。

「あ――」

 思考よりも速く身体は動いていた。
 すでに矢の尽きた弓を手放し、木々の間を稲妻のごとく飛び交い人間たちに迫った。

「あああああああっ!」

 叫んだ。
 叫びながら、弓を捨て剣に持ち替えようとしていた人間の腹部に拳を叩き込む。

【ストレングス オフ ベアール!】

 最速で羆の爪を借り、拳で打った鎧がひしゃげるのを感じた。

【ストレングス オフ ベアール!】

 振り下ろされる白刃を避け、跳び、かわしながら、オドを振り絞り、脚を、拳を、人間たちに叩き込む。

【ストレングス オフ ベアール!】

 鉄を砕き、肉を潰し、骨が折れる嫌な感触が身体に染み渡る。
 最速で、最速で、最速で。

【ストレングス オフ ベアール!】 
 
 振りかかる敵意を、狂おしい憎しみを、浴びせられる罵声を。
 叩き、叩き、叩き砕き。

【ストレングス オフ ベアール!】

 殺意に燃え上がる人間たちをねじ伏せた。



 気がついた時、私は寝起きしている泉の側で倒れていた。

「――くっ」

 起き上がろうとして、身体のあちこちが痛んで顔をしかめた。
 歯を食いしばって痛みに耐え、私は何とか上体を持ち上げた。
 鮮烈だった痛みはずくずくと骨身にしみるような鈍さに変わり、私の身体に張り付いて息づいているようだった。

「はあ、はあっ……」

 息を切らしながら記憶を探る。
 最後の侵入者たちを強引にねじ伏せる、凶暴な記憶がすぐさま呼び起こされた。

 あれで最後だ。
 複数同時の侵入に対し、ひたすら耐えに耐えて耐え抜きながら守りきった。
 人間たちを全て退ける事が出来た。

「……はぁ」

 それなのに、高揚も喜びもなかった。
 どっしりと圧し掛かる疲労感と痛みだけが身体に残り、私は再び大地へと仰向けに転がる。
 草と土が私を優しく受け止めてくれた。

 枝葉が遮る森の天井から、僅かな木漏れ日が差し込んでいる。
 私はその様子をぼんやりと見つめながら、手に痛みとは別のものに襲われている事に気がついた。

 腕を持ち上げ、手を目の前に。
 私の手はどうしようもなく震えていた。

 手の甲の皮がめくれ、血が付着している。
 羆の爪を借りる事で自らの身体も守っていたが、術が間に合わず拳で鉄を殴りつけてもいた。

 そう。
 鉄など殴ってしまえばこうなって当然。
 それよりも。

 手の震えが止まらない。
 何に怯えているのか判る。
 自らの怒りと、人間が放つ憎悪と、戦いの恐怖。

 今まで、目を合わせる距離で人間と接触する事などなかった。
 はっきりと、顔に刻まれた皺まで判る距離で戦いに臨んだ事などなかった。

 遠く離れた場所から一方的に弓を射かけ、致命傷を避けて戦意を挫く戦いばかりを続けてきた。
 あれほど生の感情ぶつけられた事はなく、ぶつけ返した事もなかった。

 獣のように雄叫びを上げたのは、怯懦に竦むまいと必死に張り上げた悲鳴でもあった。

 あの時頭の中から閉め出した感情が甦ってくる。
 私に絡み追いすがって来るものは、人間たちへの怒り。
 そしてそれに勝る恐怖。
 私は怯えている。

 ぼろぼろになった自分の手を見つめながら、私はそれに気がついていた。
 恐怖に駆られる余り、必要以上の血を流してしまった。
 草を刈る者の手を吹き飛ばし、マナを吸う魔術師の顔を狙った。

 彼らは生きているだろうか。
 死んではいないだろうか。
 私は、人間を殺めてしまったのだろうか。

 あの直後どうなったのかまでは記憶に残っていなかったが、身体に残る感触はまざまざと私に訴えかけてくる。
 骨肉を打ち砕いたあの感触が、今も身体にへばりついていた。

 咽喉の奥からせり上がって来る嗚咽を堪え、私は震えの止まらない手を握り締めた。

 食べる為でもなければ、生きる為の殺生でもない。
 殺める為だけの殺生だ。

 恐怖と怒りに駆られる内に、そのような恐ろしい真似をしてしまったのだろうか。
 少なくとも徒手でねじ伏せたあの人間たちには、私はエルフに見えなかっただろう。
 もっと恐ろしい、怪物じみた何かに映ったはずだ。

 恐い。

 人間の瞳の中に映ったあの姿。
 感情に任せて力を振るう自分の姿が、何よりも恐い。
 自分が自分でなくなってしまうようなこの感覚。
 森エルフから名も無き魔物へと堕ちてしまうのではないかという、泥の溜まった沼にでも踏み入れてしまったような不安。
 噴き出した恐怖を深く閉じ込めようと、私は肩を抱き、膝を丸めて縮み込む。

 人間たちはまた来るだろう。
 森の奥を目指して進み続けるだろう。
 それを阻まねばならない。

 恐くて恐くて仕方ないけれど、逃げ出す訳にはいかない。

 私はここで生きると決めた。
 エルフとは別の何物かに成り果てる事は恐いが、自ら課した誓いを破るのはもっと恐い。
 今は少しでも、身体を休めて傷と体力とオドを癒さなければ。

 私は胎児のように身体を丸めて回復に努めた。



 告白してしまうと――
 私は故郷を離れたくなどなかったのだ―― 



xxx  xxx



「魔女殿」

 俺は周囲の様子を見回しながら、肩の上の魔女殿に呼びかけた。

「うん?」

「景色が随分変わった気がします」

 どれほど歩いてきたのか。
 森は広く、道なき道を進んでいるだけに時間がかかる。
 およそ鐘三つといったところだろうか。
 辺りの様子はすっかり様変わりしてしまっていた。

 なんと言うか、全体的に色合いが悪い。

 木々の幹は歪んだようにねじくれ、醜い瘤が張り出している。 
 枝を飾っていた瑞々しい葉は枯れ草色に変わり、ほとんど葉が落ちてしまっている木も見受けられた。
 草花は華やかさなど欠片も感じられない毒々しい色合いに染まり、苔や茸の類が目立つ。
 空気も澱んで湿気が混じり、地面は水分を含んでぬかるんでいた。

 何より静かだった。
 生き物のかすかな息吹も感じられず、風すら感じられない。
 木々にしても、足元の草花にしても、雰囲気さえも森の外周と比べるとまるで別世界だ。

「そうだの」

 ついでに言えば、魔女殿の様子も少し変だ。
 景色が変わりだしてから急に口数が減り、今では俺が話しかけないと黙り込んだまま。
 急に不機嫌になる事はままあるが、機嫌の良し悪しに関わらず饒舌な魔女殿にしては珍しかった。

 自然と会話は減り、死に絶えたように静寂が広がる森を歩き続けた。 

「MBよ、もうよい。ここで降ろせ」

 俺の頭を手の平でぺしりと叩いて、不意に魔女殿が口を開いた。
 俺は言われた通り魔女殿をぬかるんだ地面の上に降ろす。
 土が悪いのか水気が多過ぎるのか、一踏みする事にぐしゅりと地面から水が染み出してくる。
 森というよりも湿地帯に迷い込んだようだ。

 魔女殿は毒々しい景色を厳しい目つきでぐるりと見回した後、ふんと鼻を鳴らした。

「MBよ」

 振り向いた魔女殿の赤い瞳が俺を見上げてくる。

「はい」

 俺は背を少し曲げて魔女殿の瞳を覗くように見つめ返した。

「遺跡探索はやめだ」

 魔女殿はあっさりと言った。
 番人であるエルフの目を掻い潜っていながら、どうして今、ここで言い出すのか。
 魔女殿の思惑は不可解だ。

「はい、判りました」

 不可解だが、魔女殿の意志に沿う事に疑問はなかった。

「なんぞ、文句の一つでもないのか?」

 魔女殿に問われて、

「文句はありませんが、疑問はあります」

 俺は正直に答えた。

「ならばその疑問を口にしてみてはどうか?」

「魔女殿は意地悪なので、訊ねても答えてくれないのではないかと思います」

 魔女殿は俺に知識を与えてくれる。
 知らなかった様々な事を教えてくれる。
 だが、知識以外については答えを貰える事はまずあり得なかった。

 魔女殿は俺をじっと見上げた後、にやりと意地悪く笑った。
 それが答えなのだろう。

「では戻るか。ここは空気が悪い。まともな景色を目にすれば、滅入った気分も幾らか晴れるだろうよ」

「はい」

 魔女殿は帽子の鍔をくいと上げてぬかるむ地面を歩き出し、俺はその後に続いた。
 歩きながら、今の光景がまともではないという事を記憶に留めおいた。

 二人来た道を引き返し、周囲の木々に緑が戻り、澱んだ湿気が爽やかな風に押し流され、鮮やかな花が戻ってきた俺たちを迎えた。
 細い木漏れ日に目を細めて、小さく深呼吸をする。
 体内に溜まっていた澱んだ空気が入れ替えられた気がして、少し心地良かった。

 魔女殿の言う通り、気分が晴れた。
 気がした。

「さて、ここからは別行動と行こう。わしは用事が出来たのでそちらを片付ける。ぬしはその間、その辺りを適当に散策でもしているが良い」

 そう言って、魔女殿は手にした枝切れでその辺りを指し示した。
 まともな森が広がっている方角で、まともではない森は指されなかった。

「判りました」

 おおよその行動範囲を理解して頷いた。
 別行動を取るという事がどういう意味を指すかくらい、俺にも判る。
 囮ないし餌だ。
 良くある事なので気にしない。

 魔女殿を心配する必要もない。
 一人で行動する時は、俺は俺の心配だけをしていればいい。
 早ければ鐘一つと経たず、あのエルフの少女と遭遇する事になるだろう。
 話が出来る機会が予想よりも早く巡ってきたのは、素直に嬉しい。
 会話になるだけの余地が残されているのかを心配しよう。

「ああ、一応言っておくがある」

「何でしょうか?」

 歩き出そうとしていたところを呼び止められ、振り返った俺に魔女殿は指を三本立てて見せた。

「何、心得のようなものを三つな。
 一つ。エルフに危害は加えるな。これは、まあわざわざ言いつけるまでもないかもしれんな。ぬしは甘いからな」

「そうでもないと思うのですが」

 甘いと正面切って言われて俺が首をひねると、魔女殿は人差し指を立てたままふんと鼻先で笑った。

「抜かせ。ならば次の言葉は特と胸に留め置けよ?
 二つ。エルフと人間以外の何かを見つけたら、迷わず斬れ」

「……判りました」

 即答は出来なかったが、頷く事は出来た。
 魔女殿は意地悪に笑いながら、立てている指にもう一本付け加えた。

「三つ。まあ、あれだ。死ぬな」

「最善を尽くします」

 俺は頷き、改めて魔女殿が提示した三つの心得を思い浮かべる。

 エルフに危害を加えるな。
 エルフと人間以外の何かを見つけたら斬れ。
 死ぬな。

 その三つを記憶にしっかりと留め置いて、俺は改めて魔女殿を見つめた。
 魔女殿も俺を見上げて見つめ返していた。

 この赤い宝石のような瞳を、いつまでも見つめていたいと思った。

「では、行くが良い」

 断ちがたい未練にも似た感情を断ち切られる。

「はい。行って来ます」

 俺は緑濃い森へ足を踏み出した。



09/10/29 00:30更新 / 紺菜

■作者メッセージ
リコ編と同じく三編を目処に書き上げたいと思っています。
誤字を修正中。

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