連載小説
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湯浴
「貰うよ」
 彼女は置かれた缶ビールを手に取り、その僅かな残りを飲み干した。景気づけと言わんばかりだ。空になった缶をベコッとワイルドに握り潰すと、テーブルに置き、またおれに向き合う。
「電話がしたい」
 端的な要望。さながら剥き身のナイフのような尖ったプレッシャーにビビりながら、おれは枕元に放ってあったスマホを手に持った。
 家に入られ、冷蔵庫を漁られ、ビールを飲み切られて、なおも文句も言わずに付き従ってしまうあたりから分かるだろうが、おれは何故か彼女に逆らおうとする気が起きないのだ。表現としては、頭の上がらない上司……は遠すぎる。先輩でもまだ少し遠い。年の遠い姉、ないし姉さん女房のような、完全に尻に敷かれているイメージがよく馴染んだ。
 ご丁寧にスマホのロックまでも解除し、彼女に手渡す。いったいどこに電話する気なのだろうか。
 はたして彼女は、スマホをしげしげと眺めた後、ためつすがめつに観察し出した。あれ?
「なんだこれは。ボタンはどこにある? ここか?」
 言って、スマホの下部に突起がないかと細い爪でカリカリした。いったいなんのことだろう、スマホにボタンはあったり無かったりするが、電話をかけるときに必要なものでもない。ちなみにおれの機種は比較的新しいのでボタンは少ない。
「いや、電話アプリから掛けるんですよ」
「あぷり?」
 なんか話が通じないぞ。急にどうしたというのだろう。
 怪訝そうにスマホを見入った後、彼女はジィっとこちらを見つめてきた。まるで頭の中身を覗き込むような瞳が妖しく光りだすが、やがてパチパチと瞬きして頭を振る。
「まったく、認知が自然すぎて読み切れん。お手上げだ」
 スマホを戻し、告げてくる。
「電話が掛けられるところまで弄ってくれ。イマドキの機械はよーわからん」
「いや、スマホですよ?」
 どこから来た人なんだろう。
「やかましい、やれ」
「はい……」
 逆らえない。美人が凄むとめっちゃ怖いから勘弁して欲しい。だがちょっと興奮するのもある。
 言われるがまま、おれは電話アプリを立ち上げて12キーを呼び出した。あとは数字を入力するだけだ。念のため、彼女に画面を見せつつ説明した。
「このまま画面をタップ……指で触ればボタンを押すのと同じことが起こります」
「まったく面妖なものを作りおって……ケータイはどうした」
 重ねて言うが、どこから来た人なんだろう。
 彼女は左手にスマホを持ち、右手の人差し指で慎重に画面をタップしていく。失礼な想像だが、機械オンチな女子大生というイメージがよく馴染んだ。正直にいってめちゃくちゃ可愛い。
 やがて入力し終え、彼女はどこかの誰かと通話を始めた。
 スクっと立ち上がり玄関の方に行ってしまったので会話は途切れ途切れだ。盗み聞きする気はなかったが、なにぶん1Kの狭い部屋なので漏れ聞こえてきてしまう。不可抗力である。
「私だ。──────だった────が────ハズレ────。────掘り出し物を────────決まり──。──────来い、待ってるぞ」
 終わり際は戻りながらの言葉だったので、はっきりと聞こえてしまった。どうにも聞き捨てならなくて思わず尋ねてしまう。
「あのもしかして、誰かここに呼びました……?」
「ん? あー、ツレが心配してると思ってな。今日の宿は押さえたと連絡しただけだ」
 誤魔化すような態度にイヤな予感を覚えつつ、しかしおれは追及する気になれなかった。もっと聞き捨てならない言葉を聞いてしまったからである。
「え、今日の宿……って」
「嬉しかろ?」
 長く細い指を顎に沿え、試すような目でこちらを見てくる。
 迷わず嬉しい!と応えるのが彼女がいちばん喜ぶだろうと、直感で分かった。だがおれの脳裏には明日の予定がズラリと列を成していて、そこに彼女が割り込んできたのが、ひどく煩わしいものに思えてしまった。何故か分からないが、泊まらせないという選択肢だけは外れている。
 誤魔化すように笑顔だけで応じるおれを見透かすように、彼女は底意地の悪い笑顔を浮かべる。楽しくなってきたな、と言わんばかりだった。


 ○


 おれはとっくに風呂に入っていたが、改めて湯舟を掃除して湯溜めをした。もちろん、彼女が風呂に入りたいと望んだからだ。深夜に差しかかろうかという時間帯に迷惑な話だが、それでも文句を言う気分には欠片もならなかった。
 おれが動く間に彼女は残りのキュウリの浅漬けを取り出して、パリポリとつまみながらテレビを眺めている。なんてことのないバラエティー番組で、観ているのだか観ていないのだか分からない遠い目を浮かべてノーリアクションを貫いていた。
「あの、ゲームとかやります?」
 湯を溜めている間はおれも手持ち無沙汰だ。正直おれは普段テレビを見ないので楽しめていない。だが彼女はテレビに目を向けたまま。
「いらん」
 短く言い切り、また漬物を味わう。おれもひとつ手に取って口に運んだ。
 間の持たぬ居心地の悪い時間……というほどではない、緩い空気が流れている。今や家の主は彼女で、おれは彼女の意を汲んで動く小間使いだ。だから彼女の振る舞いこそが絶対でありルールであり真理である。
 横座りでテーブルに肘をついてくつろぐ彼女の横で、おれは何とも言えない気分でそれを眺める。長いまつ毛の下の瞳は深淵を覗き込むような深い紫色で、見つめる者の心を捉えて離さない。そこには冷たさと暖かさが同居していて、どこか物憂げな雰囲気が灯っていた。
 肌は透き通るように白く、触れることも躊躇われる繊細な陶器を思わせる。その白さが、紅を帯びた唇と対を成して、一層の妖艶さを際立たせていた。その優雅な白にも紅にも、おれは触れて揉んでしゃぶる栄誉を賜れたのだが、まるで夢のように先の感覚は立ち消えてしまっている。あの極上の心地がまるで夢のように消化されてしまったのは惜しくてならないが、あの非科学的な、彼女を味わうほどおれの方まで気持ちがよくなるという感覚はまさしく非常識な体験で、白昼夢と見紛うのも無理からぬ話ではあった。
 彼女はまるで、現実の世界に存在しないかのような美しさを持っているのだ。そんな彼女が日常の象徴たる我が家でくつろいでいること、ましてや触れられるほど間近にいることがどうして現実だと思えるだろう。だが、確かにそこにいるという事実が、現実と夢の境界を曖昧にしていた。
 そうして物思いに耽っていると、ピピピとアラームが鳴った。湯舟が満たされた合図である。
 腰を上げて風呂場に赴き、蛇口を止める。熱さを確かめて入浴剤を投入し、ジャブジャブとかき混ぜた。
「ぃよし」
 そうして彼女に声をかけようと振り向くと。
 開け放しの扉の向こう、脱衣所とも呼べない部屋の通路に、彼女が立っていた。
 彼女の手がゆっくりと襟元に伸びる。白く細い指が衣の端を掴み、ゆっくりと引き下げていった。その動きには一切の無駄がなく、滑らかな所作がまるで儀式のようだ。襟が肩を滑り落ちると、白い肌が徐々に露わになり、まるで月光が差し込むような柔らかな光を放っていた。その肌は陶器のように滑らかで、どこか冷たさを感じさせるが、同時に抗えないほどの色香を放っている。彼女は慎重に、しかし決然と衣服を脱いでいく。布が床に落ちる音すらも、まるで意図的に抑えられているかのようだった。
 やがて、その肌に刻まれた刺青の一部が顔を覗かせる。
 深紅と赤紫の華紋様が、彼女の背中から左胸の乳房までを飾るように広がっており、それがまた彼女の妖しい魅力を際立たせていた。タンクトップという小さな布地がちょうど覆い隠していたらしい。紋様はまるで彼女自身の内に秘められた何かを語るように複雑で、目を引きつけて離さない。華は彼女の肌と一体化し、呼吸しているかのような瑞々しささえ見える。
 刺青は彼女の身体のラインに沿って描かれており、その均整の取れた曲線美はひと目を惹く。いや、極一部を除いて、その均整は歪に乱れていた。大きく突き出た乳たぶと、悩まし気に揺れる尻たぶである。だがそこに内包する淫猥さも含めて、見る者を惹きつけてやまない魅力をもっていた。
 刺青は彼女の魅力をさらに増幅し、妖艶さと共に、どこか近寄りがたい神秘的なオーラを放っている。その圧に押されるおれは一歩も動けずにいたが、彼女は一糸まとわぬ姿でもまるで怯む様子もなく、当然のように風呂場の敷居を跨いで後ろ手に扉を閉めた。馬鹿みたいに呆けるおれを心底楽しそうに見つめて。
「流してくれるか?」
 当たり前のように告げるので、おれは頷くしかなかった。


 ○


 彼女は風呂場の中で腰を下ろす。湯気は彼女の白い肌に絡みつき、その肌に刻まれた刺青がぼんやりと浮かび上がった。
 おれは、その背中を流さなければならない。流さなければならないのだが、その美しさに圧倒されて手が震えた。彼女の肌とその紋様に触れることは、禁忌の行為に等しいように感じられた。先ほどまでキスを交わし、胸まで揉んで見せたというのに。刺青は何か深い意味を持つようであり、その意味を理解しなければ触れることも能わないかのような、不思議な圧力を放っていた。
「分かるか?」
 彼女は振り返らずに言った。いや、風呂場の鏡越しに、彼女の瞳はおれを捉えている。
「こいつはな、お前の常識だ」
 言って、彼女は左胸に刻まれた華をふんわりと持ち上げる。蕾の中心に坐する乳首を撫でるようにして指を曲げた。
「理性、信念、現実。そういった"当たり前"のものが描かれている」
 彼女の告げる言葉はまるで頭上から垂らされた蜜のように、おれの頭を覆っていった。
 当たり前のもの──それを洗えと、彼女は言っているのだ。言われたならば、そのようにしなければならない。
 おれは濡らした手でボディソープを手に取り、素手で泡立てた。それに触れるのにタオル越しなどあり得ない。
 恐る恐る手を伸ばし、彼女の背中に触れた。彼女の肌は冷たく滑らかで、おれは慎重にそれを撫でていく。指先はまるで、薄皮を剥いだかのように鋭敏に、彼女という存在をおれの脳に焼き付けた。人間の肌は普通、見た目には滑らかでありながらも実際には微細な凹凸があり、触れるたびに感触が異なるものだ。毛穴であったり腫物であったり、肌は清く滑らかなままではいられない。だが彼女の肌は一切の凹凸を感じさせず、その滑っこさを存分に伝えてきた。微かに溝があるとすれば、彼女の肌に馴染んだ刺青である。
 指先が刺青の線をなぞるたび、おれ自身がその紋様に吸い込まれていくような、禁断の領域に踏み込むような、そんな感覚を覚えた。泡をつけた手で丁寧に撫でると、紋様がさらに鮮明に浮かび上がる。彼女は静かにその感触を受け入れている。
「……♥」
 やがて背中がすっかり泡で磨かれたとき、スゥっと彼女の腕が緩やかに持ち上がる。
 背中のケアが終わったのなら、当然前面へと進むべきだった。しかし、その行為に踏み込む前に、大きな心の壁が立ちはだかる。キスも乳揉みも、彼女からのアプローチがあってのことだったからだ。
 だが腕を持ち上げられただけでは、壁を抜けるに十分ではない。彼女のそこに自分から触れることは義務的な動作の一環を超えて、非常にプライベートで、常識的な距離から離れる意味を持つからだ。刺青をなぞる度に何度も自分に言い聞かせた「これは言われたからだ」という言い訳が消える。消えてしまう。おれの常識を拭ってなお残る僅かなものが、きれいさっぱり消えてしまう。
 何度か深呼吸して、内に残った良識に向き合おうとした。そこから先に踏み込むことがどんな意味を持つのか、一歩引いて考えようとした。
「ほれ♥」
 だが彼女は、そんなおれを嘲笑うかのように、身体を捻ってタプタプと挑発的に乳を揺らして見せた。豊か過ぎる乳房は背中越しでも隠しきることは出来ず、その双房をはっきりと主張しており、洗うたびに揺れ動くそれはおれの我慢を何度も試してきた。まるで釣り餌のように無視できない魅力でもって釘付けにしてくるのを見せつけられ、おれは結界寸前の怒張をさらに張りつめる。
 極めつけに。
 彼女は媚びるような姿勢で両腕を持ち上げて手を頭の後ろで組み、腋を見せつけ巨乳を強調するポーズをとると、ぴたりと閉じていた両脚をぱっかぁと開いて見せたのである。薄毛の浮いた秘所が淫らに開帳され、ヘコヘコ♥と男に媚びる迎え腰で前後にスライドして見せた。
 ここまでされて、引き下がることなどあり得るだろうか。常識を、理性を、信念を、そして現実を、砂山に突き立ったそれらを山崩しゲームのように泡で拭い去っていったおれに、どんな抵抗ができるというのだろうか。
「──ッ」
 おれは無我夢中で、両手を彼女の前面へと伸ばした。触れた瞬間、温かさと柔らかさが伝わってくる。背面に触れたときは冷たさすら感じたその肌は、興奮もあってか、フツフツと沸いた湯水のような、芯に残る熱を宿しつつあった。
 下から乳房を支えた時、その重さに驚愕する。泡立った手はぬるりと乳肌を滑りあがっていき、意図せずして、先端の突起に指が掠っていった。
 たぷぅゆさっ
「ぁんっ♥」
 すると彼女は殊更に、わざとらしく喘いで見せる。今までの低音ハスキーボイスから一転して、甘く媚びるエロアニメのような、いかにも芝居がかった喘ぎ声だ。くねくね♥と悩まし気に腰で媚びる動き付きで。
 笑い飛ばすのが賢明だったのだろう。だがおれは血が沸騰したかのような、視界に靄がかかるほどに興奮して、無様にも指に力を込めてしまう。強張った指の関節に合わせてむにゅぅと彼女の胸は卑猥に、泡にまみれて歪んでいく。乳房の輪郭を両手でなぞり、下乳からぐにゅっと揉みしだき、たわわに膨らんだ乳をアピールするように持ち上げて、たっぽたっぽと弄ぶ。いっそう暴力的な、性欲の籠った愛撫に対して、しかし彼女は嬉し気に目を細めた。
 ぐっと身体をこちらに預けるように体重を掛けてくると、腰を捻って、その豊満な尻肉でおれの身体を擦ってきた。大胆に足を広げきっているからこそできる淫靡なセックスアピールだ。おれはそれを、下への誘いだと受け取った。
 胸をいじる左手はそのままに、右手を股間へと滑らせていく。守る気など欠片もない、開け放たれた秘所の内側。愛液をとぷとぷと零してヒクつく膣口を掻き分け、膣内へと指を差し込んでいく。第一関節まで挿入すると、艶めかしく蠕動した膣肉が、迎えるように咥え込んできた。まるで指を肉棒と勘違いしているかのようだ。興奮で喉が焼けそうなほど、呼吸もままならないくらいに意識が飛びそうになったところで。
 ジャーっとシャワーヘッドから温水が流れ落ちてきて、彼女とおれは頭からそれを被った。
「おお、すまん。手が滑った♥」
 見れば、彼女がバルブを握っていた。
「……いえ」
 冷や水ならぬ温い水を浴びたおれは一気に冷静さを取り戻し、何事もなかったかのように、彼女の身体から泡を洗い流していく。
 泡が流れるに合わせて内なる"常識"が戻ってくることを期待したが、もはやそれはおれの中には残っていなかった。これまで携えていた理性、信念、現実が綺麗さっぱり流れ落ちて、純粋な欲望が芽吹くのを感じる。
 彼女を抱く。
 それは確かな覚悟だった。
24/08/22 11:35更新 / カイワレ大根
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