カタコンベ
カタコンベに入るために必要な書面を受け取り、その足で街の北西、郊外の墓地に向かった。
話を聞いた限りでは急を擁する上に重大な案件だ。仮に俺の手に余るものだとしても、何もせずにこの街を去るのは如何にもまずい。
あの大司教はとんだタヌキ野郎だった。覇気を失った姿すらも織り込み済みで俺を試したのだと思いたくなるくらいには。ノエルといういけ好かない魔物にしてもそうだが、依頼内容を知った上で去るものには相応の備えがあると想像できる。事情を耳にした以上、何もせずに離れるような選択肢は俺にはない。たとえそれが過去に追いつかれたものだとしても。
(覚悟はしていた筈だ……いつかは過去に追いつかれると)
聖騎士という過去を言及され、心を乱されたのは否定できない。
栄誉と誇りを持って歩んでいた道。たとえ脇に逸れたとしても、その足跡は簡単に消えることはない。いや、こんな感傷を持つことが無駄だ。今はただ、提示された問題に向き合うべきなのだ。
通りを外れ、路地を抜けるとやがて人の気配が途切れる。眼前には鉄柵で区切られ墓地が見えた。中心に大きな石碑を置き、放射状に拡がった道がそれぞれ墓石へと伸びている。そこから一際大きな幅を取っている道は、小さな家のような、霊廟へと続いていた。それこそがカタコンベの入り口であるという。
霊廟に扉はついておらず、近づくと、開かれた入り口からは下り坂の階段になっていた。さながら大口を開けた大蛇のようだ。俺は今からその中に踏み込み、大司教の娘の亡骸を回収してこなくてはならない。それが出来なくとも、聖騎士団の現状は把握しなければならないだろう。
踏み入れる前、遠く背後から鐘楼の鐘が時刻を告げるように鳴った。日が暮れ始める時間の合図だ。気の進まないまま、義務感で足を動かして降りていく。
下り坂の終点には大きな鉄扉があり、みっちりと閉じられていた。あらかじめ伝えられた手順の通りノックをする。振動もしないくらい完璧な硬度のようだったが、音はしっかりと伝わっていたらしく、少しするとゴトリと物音が聞こえた。そして鉄扉の一部の板が横にずれ、僅かな格子窓が生まれる。中には兜姿が見えた。手に持っていた書面を手渡すと、すぐに窓は閉じられる。
まるで外の空気を断つような態度だが、実際そうなのだろう。代々聖なる遺骸を守り続けてきたカタコンベの番人が、気楽に構えている筈もないのだ。しかも今は行方不明者多数という厄介な問題が表出している。
やがてゴゴゴと物々しい音がして、でかい閂が引き上がる音がした。ゆっくりと扉が開かれる。
地下室の空気はやはり異質で、カタコンベの入り口は小さな詰め所になっており、奥には同じような鉄扉がさらに控えていた。詰め所にいるのは2人分の甲冑、どちらも聖騎士団の所属と分かる意匠をつけている。
2人は無言で頷くと、ひとりが入り口の鉄扉を閉め、もうひとりが奥の鉄扉の錠を外した。この様子では当然、俺が中に踏み入った後も固く閉じられるのが決まりだろう。
不意に、アイツのことが気に掛かる。依頼のことで頭がいっぱいで、ひと声かけてから来るのを忘れていた。考えても詮のないことなので、俺は頭を振って思考を切り替え、カタコンベの内部へと足を踏み出した。
○
一歩目で感じたのは空気の重さだった。息苦しいわけではない、むしろ思っていた以上に澄み切っていて清潔感すら覚える。しかし場の空気、圧力が想像よりも"濃い"。
カタコンベの最初の部屋は小部屋だった。入り口の両脇に聖像が並んでおり、常夜灯のような淡い明かりが部屋の隅に設置されている。正面には通用口と思しきものがひとつだけある。扉はなく、開け放たれた通路が延々と伸びている。
次の部屋に入ると、すぐに理解が出来た。通路は十字型に四方へと伸びており、さながら蟻の巣のように、部屋同士が連なる配置になっているのだ。大きさはまちまちだが、見晴らしの間隔的に正方形の作りは同じだ。
壁はすべて積み上げられた石材だった。通路を避けた壁には長方形に抉られた穴と、おそらく棺であろう木箱が少しの余白をもって収容されている。木箱は密度が異様に高く、腐食と湿気に強いグリオーク材で作られていた。遺骸を納めるものとしては最適だろう。そこにはおそらく、聖別された歴代の司祭や聖騎士団の面々が眠っている。
全体の広さは分からないが、見事に区画整理されているので迷うことはなさそうだった。むしろ見映えが変わらなすぎるのが問題だ。まずは端を知るべきかと正面の道を突っ切って進む。大まかな広さが掴めれば当たりもつけやすい。
カツカツと石畳を踏む音だけが響く。どこからか風は通しているようだが、静かだった。しかしイヤな静寂ではない、神聖な空気がもつ荘厳さがもたらす沈黙である。何かが起こるような、起こらないような、緊張と弛緩の両方が同居していた。事前に行方不明者の話を聞いていなければ穏やかに観光気分で居られたかも知れない。
ふと、右の通路から人の気配がした。腰をかがめ、慎重に様子を窺う。このような場所にはゴーストのような精神体が彷徨っていてもおかしくない。ふた部屋ほど見送ったところで、膝を折って部屋に座り込む甲冑姿が見えた。じっと観察する。間違いなく聖騎士団の意匠だ、行方不明な10人のうちの1人だろう。
甲冑は身動きしない。しかし佇まいからは意識の放射というか、実体を伴った生き物特有の気配がきちんと感じ取れた。少なくとも幻影の類いではなさそうだ。注意深く近づき、声を掛けた。
「どうした、大丈夫か?」
「──あぁ……」
うめき声。俺の声に反応したと思いたかったが、身じろぎをしていない。ブツブツと呟いているだけのようだ。耳を澄ませて声を拾う。
「……ダメだ……まだ……まだなんだ……」
虚ろな声だ、意識がおぼつかない寝言のような。目の前でヒラヒラと手を振って見せたがそれでも反応がない。夢を見ている、と解釈しても良さそうだ。
そして奥の部屋からも同等の気配が感じ取れる。人数はさらに多い。
(これは最奥に元凶があると思って良さそうだな)
近づくべきか、引き返すべきか。仮に彼らが魔術のような攻撃を受けていたとして、間近にいる俺が影響を受けていないのはどう解釈すべきだろうか。
術者は既にここを離れている、術者の関心はここの聖騎士団に偏っている、俺の術耐性が上回っている。
最後は無さそうだが、これは術が継続的に発動されている気配がないというのが大きい。ここに残ったのは残滓というか、何らかの発露の余波であって本命ではないと思われる。夢枕に立ってまで父を求める娘の切なる願いが身近な聖騎士団たちに向いている、と見るべきか。そして儀式の手順に従おうとしている聖騎士たちはそれに対抗してしまい、精神の押し引きで身体の自由を奪われている、とか。
(部外者の俺は影響が薄いから感じ取れない、という話か?)
なにせ娘の顔も知らないのだ。呪術の類いは縁が深いほど色濃く強力になると聞くし、もしかすると今回の任務に俺のような存在は適任なのかも知れない。
覚悟を決めた。念のため、精神系の魔術に対する耐性魔法を改めて唱え直しておく。身体強化は聖騎士の基本技術だ。
次の部屋に行くと、壁面に寄りかかって2人の聖騎士が居た。さらに進むともう1人。彼らの身体の向きからおおよその方角は掴める。また儀礼用であろう、旗や祭具のような物が床に落ちていて、それらも目印になった。そうして7部屋ほど動くと、さらにもう1人が居て、その部屋から先に異様な部屋が見えた。
そこを見たときに浮かんだのは『祭壇』だった。その部屋だけは作りが他の部屋とは異質で、部屋の中心に石積みの台座のようなモノがあり、上には棺ではなく小さな木箱が鎮座していた。
そして台座の手前には、残りの聖騎士5人が居る。ひとりだけ兜の意匠が異なる者が居たが、おそらく騎士団長だろう。いちばんの実力者だろうが、他の者と変わらず地面に力なく座り込んでおり、意識があるようには見えなかった。
出入り口が一カ所しか存在しない、特殊な作りの部屋だ。中心の台座の高さは俺の背丈には届かないほどで、木箱を足せばちょうど目の高さに来る程度だった。部屋にはあれ以外の木材はない。おそらくあれに大司教の娘の遺骸が収まっているのだ。人間の一人分が入る箱ではないが、"頭であれば"ちょうどいい大きさだ。
(五体満足ではいられなかったんだろうな)
気の毒だが仕方ない。不謹慎ではあるが、このまま持ち帰れそうなサイズなのは非常に助かる。
さて、どうするべきか。
これらの現状を伝える為に戻るか、このまま木箱を回収するか。前者は悠長だが確実で安全、後者は手っ取り早いがリスクがある。聖騎士たちが虚ろなまま止まっているのは箱がここにあるからで、仮に失われた場合、どんな行動を起こしてくるか分からない。最悪、状況が動いた場合に斬りかかってくる恐れがある。しかし引き返して再度戻ってきたとき、事態が動いていない保証もない。彼らの衰弱状態も気になる。
そうして物思いに耽っていて、注意散漫でいたのが失敗だった。
不意に、木箱がズリズリと引き摺られるようにして、台座の端からはみ出たのだ。動いたのはほんの一瞬、しかし配置のバランスが崩れ、ゆっくりと重力に引っ張られて地面へと転がり落ちていく。
「っと」
教育の性というべきか。遺体だと分かりきっているそれを無碍にはできず、俺は思わず空中で捕まえた。地面に落とすことはできないと。だが迂闊だった。
手に取った瞬間、空気が一変するのをハッキリと感じ取れた。
「──ライア、さま?」
騎士団長が、空気を入れた風船のように立ち上がる。その手に力が籠もるのがギリっと握られた音で分かった。
「起きられた、ライアさまが、起きられた……」
他の団員もそれに続く。俺の背後には、5人もの甲冑姿が居並ぶ。
「ついに、ついに」「行かれるのですね」
うわ言が伝播する。その声量はもはや寝言ではない。叫びと化していく。
「今こそ!」「今こそ!」「今こそ!」
聖騎士団の壁が、俺の逃げ場を塞いでいた。
しくじったと思ったときにはもう遅い。入り口を背に、じりじりと近づいてくる甲冑の圧力。俺は木箱を脇に抱え声を張り上げた。
「おい! お前らのお嬢様を連れてここを出ようってんだ、どけ!」
「行かれるのだ」「お供しますぞ」「今度こそ……」「ライアさまああああああ!!」
これといった反応はない。むしろ俺の声をかき消すような声量だ。幽鬼のように足取りに気力はないまま、だというのに腹から声が出ていやがる。殴り倒してもいいが、数日ここに飲まず食わずで居て衰弱しているのは確かなのだ、下手な刺激が命に関わらないとは思えない。厄介なことこの上ない存在だ。
「くそ……!」
部屋の隅に追い込まれる。いっそのこと木箱をぶん投げて、気を取らせた内にすり抜けるという手があるか。
と、やけっぱちなことを考えていたので反応が数瞬遅れた。後頭部にフヨンと柔らかな感触が届く。
「お困りのようだね!」
壁しかなかった背後から出てきたのは、ノエルだった。
「何をしに来た!?」
「ご挨拶だね、君を助けに来たに決まっているだろう?」
ノエルは前方、聖騎士たちを睨むと右腕を大きく振った。その腕からは魔力が感じられる。
「そぉら! 君たちのお姫様が逃げるぞ!」
すると俺の身体から蒸気のように煙が立ち上り、聖騎士たちの後ろにぎゅるぎゅると集まった。煙はやがて色濃く固まり、木箱を脇に抱えた俺の輪郭を形作ると、脱兎のごとく走り出した。
「ライアさま!!」「お待ちください!」「お供します!」
ヨタヨタともつれ足も構わずに、騎士たちが出入り口から出ていく。呆気に取られていると、俺の肩に持たれかかったノエルが悪戯っぽく微笑んだ。
「幻惑さ。だが実体があるわけじゃない、なるべく奥に行かせるが追いつかれたら消えてしまうよ。急いだほうがいい」
頷いて、ひとまず祭壇の部屋を出る。出口までの道順は覚えているが、聖騎士たちは明後日の方向に走っていったようだ。ひとまず安堵し、傍らを見る。ノエルは俺の肩に顎を乗せたままフヨフヨと浮いていた。頬ずりしそうな距離だ。
構わず正面を向いたまま話した。
「礼は言うが、お前には聞きたいことが多い」
「ああ、君は約束通り依頼を引き受けてくれた。何でも聞いてくれたまえ、もちろん謝礼はこの後で送らせてもらうよ」
「そいつは助かる」
腰を屈めながらせかせかと走る。
「お前の依頼は娘の亡骸を解放するようにという話だったが、俺はこいつを大司教に届けなきゃならん。それは承知してくれるか?」
「承知するも何もそれこそ依頼の肝だよ。私も協力して大司教に送り届けよう」
「なるほど。もしかするとこの娘は、もう魔物になっちまってるんだな?」
「それは半々といったところかな」
ノエルはフウ、と大きなため息を吐いた。酷く息苦しそうだ。
「ここの空気は独特でね、不浄なもの──つまり主神にとっての敵たる魔物が過ごすにはひどく厳しい環境なんだ。そんなところに置かれてしまったものだから、彼女は魔物に成れたものの十分な力を発揮できずにいる。私もヴォルフくんという縁を通じてようやく霊体としてここに来れたくらいなんだ、それでも大幅に制限を架されている」
呼応するようにガタガタと、脇に抱えた木箱の中身が揺れた。
「それでも父への思いが上回ったのだろう、彼女は少しずつ力を溜めてようやく夢を送れるに至ったわけだ。そうして今、身体を作る力を魔術に回して、街の祝福を反転させる大魔術を発動せんとしている。大司教の身内だからこそ可能な結界術だよ」
「──そうか」
心のどこかで引っかかっていた。
元聖騎士として、人間として、この依頼に協力するということがどういうことなのか。
俺は今、ひとつの街を魔に堕とす協力をしてしまっている。しかもそれは教会からも、魔物からも、依頼という形で望まれたが故なのだ。何とも因果な話だ。
もはや幸福に至る道に、主神の導きはないということなのか。
「ふむ? なにやら楽しそうな顔をしているね」
「ハッ、デカい花火が上がりそうだからな。笑うしかないだけだ」
「いいね、私も派手なものは大好きさ。もし無事にコトが済んだら──と振りをしたのはすまないヴォルフくん! 緊急事態だ!」
ノエルが泡を食った様子で叫んだ、その目は木箱に向いている。先ほど僅かに揺れた木箱は沈黙しているが、ノエルはそこから立ち昇る何かに気が付いたらしい。
「あそこの台座が封印の肝だったらしい、彼女の濃厚な魔力が空間に漏れ出ている! こいつはまずいぞ──」
ガタガタと揺れる音がまたしても響く。だがそれは木箱からではなく、壁に設置された棺からだった。
ひとつが鳴り始めたことで、応じるようにバキボキベキと、至る所から木材をへし折る音が響く。破砕音の大合唱だ。先ほどまでのカタコンベの静謐な空気は一変し、家屋が一斉に倒壊するような激烈な爆音が耳を覆った。
「──彼らが起きる!」
ノエルの悲痛な叫びと同時に、亡者たちの叫びが上がった。
○
「暗い……寒い……!」「あら〜どこかしらここぉ?」「男ぉおおおお!!」
思い思いの嬌声が至る所から上がる。カタコンベに眠った棺たちが一斉に目覚めだしているのだ、魔力の変質の影響であればまずは女からだろう。少しすれば男も起き出してくるかも知れない。
もはや隠密は意味がないと、俺は姿勢を上げて全速力でカタコンベを駆け抜ける。
「うわあああああ!?」
道中、うなだれていた聖騎士の1人が叫び声を挙げていた。見れば、包帯を巻いた女と、白骨を四肢に纏った女に口を寄せられて必死に両腕で押しのけている。ふと包帯女と目が合うが、俺の傍らにいるノエルを見てか、また聖騎士の方へと向き直った。
「両手に華だね」
「羨ましい限りだな」
残念だが人助けをする余裕はもはや無い。一刻も早くここを出なければ犠牲になるのは俺だ。
そうして先を急ぐと、1人の聖騎士が粘性の液体に絡めとられていた。じめついた場所ではあるからスライムもどさくさに紛れてやって来たのだろう、当然に無視する。
その先では聖騎士2人が十数人ものゾンビに壁に押されて呻いているのが見え、さらに次の部屋では赤黒の衣装を身にまとった女に急所を咥えこまれている聖騎士がブルブルと足を震わせているのが見えた。助けを乞うように目を向けられるが知ったことではない。
「起きてすぐにイラマチオとはやるね! 楽しんで!」
口笛を吹かんばかりに囃し立てるノエルは無視してさらに先へ進む。
やがてカタコンベの出入り口が見えてきたが、運の悪いことに、3方向の通路すべてをゾンビたちが塞いでしまっていた。あと少しだというのに。
「先に言っておくと、私の魔法は同族にはすこぶる効きが悪いよ。腹をすかせた子たちを誤魔化せる保証は欠片もない! そも哀れな彼女たちに乱暴なことはしたくない!」
自信満々に役に立たないことを教えてくれるノエルである。
さてどうするべきか。殴り倒すのも斬り倒すのも、大勢が相手では上手い手段とは思えなかった。迂闊に接近して足でも取られたら目も当てられない。
仕方がないと、不慣れながらうろ覚えに詠唱する。使えるものは何でも試すべきだ。
「(吹き飛べ!)」
局所的に突風が巻き起こり、ゾンビたちは仰向けに転がった。そう強く魔力を込めたつもりはなかったが、場に満ちた魔力が後押ししてくれたらしい。
急いでゾンビたちを飛び越えて扉にかじりつく。背後の騒音に負けない声量で、全力で扉を叩いた。
「開けろ! 魔物が起き出した!」
鉄扉が揺れ動くほどの勢いを出したが、反応がない。もしや魔物発生という異常事態を迎え、俺ごと締め出すという最悪な手を取ってしまったのか。
途方に暮れていると、ノエルが扉を迂回するように壁を潜って中の様子を教えてくれた。
「もぬけの殻だが争った形跡があったよ。おそらく私のように壁を抜けられる同胞に襲われて上に向かったんじゃないかな」
「そうか、最悪から2番目だな」
鉄扉はビクともしない。
扉を避けていたことから何となく予感はしていたが、念のためノエルに中から扉を開けられないかを聞いてみる。
「すまないが、この扉に施された聖魔法に対抗できるほどの力は戻っていないんだ。正直近づくのも厳しい」
詰みである。
やがてゾンビたちがゆっくりとこちらに向かってくる。そのさらに奥には、魔物にやられてしまったのであろう聖騎士団たちが幽鬼のように歩いてくる。彼らの力を合わせれば扉を壊すこともできるだろうが、その時には俺も彼らの仲間入りだ。
「ひとつ提案があるんだが……」
ノエルが口を開く。
「私と番うというのはどうかな? 一生分の財と、飽きない娯楽を約束するよ」
悪くない提案だ、と頷こうとしたその瞬間。
背後の扉が異常な熱を発していることに気がつき、慌てて飛び退いた。何かが爆ぜ散る音がすると同時、厚い鉄板を貫通して、赤い爪が4本突き出てくる。
ギギギギ、と不快な音を立てて爪がゆっくりと地面に落ちきると、バゴンッと大きな衝撃音と共に鉄扉が吹き飛んだ。近づいていたゾンビたちがあおりを食らって転がっていく。
噴煙と共に顔を出したのは、フシュゥゥゥと白煙を口から吐き出し、獣毛と獣爪を四肢にまとった狼少女だった。バチバチとまなじりからは火花が散り、ひと目で激怒していることが分かる。
あまりの事態に固まる俺の横で、ノエルはにこやかに手を挙げた。
「やっと来たね! 私はもうプロポーズしたよ!」
そうして耳元に口を寄せてきて、悪戯がバレた子供のようにチロリと舌を出した。ぽしょぽしょと悩まし気な吐息で囁きかけてくる。
「君への好意は本心だよ、これでも乙女のように胸が高鳴っているんだ。私は生を諦めきれず、死の淵から蘇って現世にしがみついている愚かな女だ。だから君のような、人生の再スタートを始めた男に堪らなく惹かれてしまう……」
ンチュ、と頬にキスをして。
「死に損ないの人生を笑い飛ばして、君と共に生きたい♥」
甘い言葉に脳が痺れた不意をつき、ノエルは俺の手から木箱を奪い取った。
「こっちの用事は任せてくれたまえ!」
そうして、煙のように立ち消えてしまった。扉が開かれたことで制限とやらが解除されたのだろうか。
そしてこの場に残されたのは、呆気に取られている死人共と、それに翻弄されたままの聖騎士団と、バカみたいに惚けている俺と、憤怒の形相で佇む狼少女であった。
話を聞いた限りでは急を擁する上に重大な案件だ。仮に俺の手に余るものだとしても、何もせずにこの街を去るのは如何にもまずい。
あの大司教はとんだタヌキ野郎だった。覇気を失った姿すらも織り込み済みで俺を試したのだと思いたくなるくらいには。ノエルといういけ好かない魔物にしてもそうだが、依頼内容を知った上で去るものには相応の備えがあると想像できる。事情を耳にした以上、何もせずに離れるような選択肢は俺にはない。たとえそれが過去に追いつかれたものだとしても。
(覚悟はしていた筈だ……いつかは過去に追いつかれると)
聖騎士という過去を言及され、心を乱されたのは否定できない。
栄誉と誇りを持って歩んでいた道。たとえ脇に逸れたとしても、その足跡は簡単に消えることはない。いや、こんな感傷を持つことが無駄だ。今はただ、提示された問題に向き合うべきなのだ。
通りを外れ、路地を抜けるとやがて人の気配が途切れる。眼前には鉄柵で区切られ墓地が見えた。中心に大きな石碑を置き、放射状に拡がった道がそれぞれ墓石へと伸びている。そこから一際大きな幅を取っている道は、小さな家のような、霊廟へと続いていた。それこそがカタコンベの入り口であるという。
霊廟に扉はついておらず、近づくと、開かれた入り口からは下り坂の階段になっていた。さながら大口を開けた大蛇のようだ。俺は今からその中に踏み込み、大司教の娘の亡骸を回収してこなくてはならない。それが出来なくとも、聖騎士団の現状は把握しなければならないだろう。
踏み入れる前、遠く背後から鐘楼の鐘が時刻を告げるように鳴った。日が暮れ始める時間の合図だ。気の進まないまま、義務感で足を動かして降りていく。
下り坂の終点には大きな鉄扉があり、みっちりと閉じられていた。あらかじめ伝えられた手順の通りノックをする。振動もしないくらい完璧な硬度のようだったが、音はしっかりと伝わっていたらしく、少しするとゴトリと物音が聞こえた。そして鉄扉の一部の板が横にずれ、僅かな格子窓が生まれる。中には兜姿が見えた。手に持っていた書面を手渡すと、すぐに窓は閉じられる。
まるで外の空気を断つような態度だが、実際そうなのだろう。代々聖なる遺骸を守り続けてきたカタコンベの番人が、気楽に構えている筈もないのだ。しかも今は行方不明者多数という厄介な問題が表出している。
やがてゴゴゴと物々しい音がして、でかい閂が引き上がる音がした。ゆっくりと扉が開かれる。
地下室の空気はやはり異質で、カタコンベの入り口は小さな詰め所になっており、奥には同じような鉄扉がさらに控えていた。詰め所にいるのは2人分の甲冑、どちらも聖騎士団の所属と分かる意匠をつけている。
2人は無言で頷くと、ひとりが入り口の鉄扉を閉め、もうひとりが奥の鉄扉の錠を外した。この様子では当然、俺が中に踏み入った後も固く閉じられるのが決まりだろう。
不意に、アイツのことが気に掛かる。依頼のことで頭がいっぱいで、ひと声かけてから来るのを忘れていた。考えても詮のないことなので、俺は頭を振って思考を切り替え、カタコンベの内部へと足を踏み出した。
○
一歩目で感じたのは空気の重さだった。息苦しいわけではない、むしろ思っていた以上に澄み切っていて清潔感すら覚える。しかし場の空気、圧力が想像よりも"濃い"。
カタコンベの最初の部屋は小部屋だった。入り口の両脇に聖像が並んでおり、常夜灯のような淡い明かりが部屋の隅に設置されている。正面には通用口と思しきものがひとつだけある。扉はなく、開け放たれた通路が延々と伸びている。
次の部屋に入ると、すぐに理解が出来た。通路は十字型に四方へと伸びており、さながら蟻の巣のように、部屋同士が連なる配置になっているのだ。大きさはまちまちだが、見晴らしの間隔的に正方形の作りは同じだ。
壁はすべて積み上げられた石材だった。通路を避けた壁には長方形に抉られた穴と、おそらく棺であろう木箱が少しの余白をもって収容されている。木箱は密度が異様に高く、腐食と湿気に強いグリオーク材で作られていた。遺骸を納めるものとしては最適だろう。そこにはおそらく、聖別された歴代の司祭や聖騎士団の面々が眠っている。
全体の広さは分からないが、見事に区画整理されているので迷うことはなさそうだった。むしろ見映えが変わらなすぎるのが問題だ。まずは端を知るべきかと正面の道を突っ切って進む。大まかな広さが掴めれば当たりもつけやすい。
カツカツと石畳を踏む音だけが響く。どこからか風は通しているようだが、静かだった。しかしイヤな静寂ではない、神聖な空気がもつ荘厳さがもたらす沈黙である。何かが起こるような、起こらないような、緊張と弛緩の両方が同居していた。事前に行方不明者の話を聞いていなければ穏やかに観光気分で居られたかも知れない。
ふと、右の通路から人の気配がした。腰をかがめ、慎重に様子を窺う。このような場所にはゴーストのような精神体が彷徨っていてもおかしくない。ふた部屋ほど見送ったところで、膝を折って部屋に座り込む甲冑姿が見えた。じっと観察する。間違いなく聖騎士団の意匠だ、行方不明な10人のうちの1人だろう。
甲冑は身動きしない。しかし佇まいからは意識の放射というか、実体を伴った生き物特有の気配がきちんと感じ取れた。少なくとも幻影の類いではなさそうだ。注意深く近づき、声を掛けた。
「どうした、大丈夫か?」
「──あぁ……」
うめき声。俺の声に反応したと思いたかったが、身じろぎをしていない。ブツブツと呟いているだけのようだ。耳を澄ませて声を拾う。
「……ダメだ……まだ……まだなんだ……」
虚ろな声だ、意識がおぼつかない寝言のような。目の前でヒラヒラと手を振って見せたがそれでも反応がない。夢を見ている、と解釈しても良さそうだ。
そして奥の部屋からも同等の気配が感じ取れる。人数はさらに多い。
(これは最奥に元凶があると思って良さそうだな)
近づくべきか、引き返すべきか。仮に彼らが魔術のような攻撃を受けていたとして、間近にいる俺が影響を受けていないのはどう解釈すべきだろうか。
術者は既にここを離れている、術者の関心はここの聖騎士団に偏っている、俺の術耐性が上回っている。
最後は無さそうだが、これは術が継続的に発動されている気配がないというのが大きい。ここに残ったのは残滓というか、何らかの発露の余波であって本命ではないと思われる。夢枕に立ってまで父を求める娘の切なる願いが身近な聖騎士団たちに向いている、と見るべきか。そして儀式の手順に従おうとしている聖騎士たちはそれに対抗してしまい、精神の押し引きで身体の自由を奪われている、とか。
(部外者の俺は影響が薄いから感じ取れない、という話か?)
なにせ娘の顔も知らないのだ。呪術の類いは縁が深いほど色濃く強力になると聞くし、もしかすると今回の任務に俺のような存在は適任なのかも知れない。
覚悟を決めた。念のため、精神系の魔術に対する耐性魔法を改めて唱え直しておく。身体強化は聖騎士の基本技術だ。
次の部屋に行くと、壁面に寄りかかって2人の聖騎士が居た。さらに進むともう1人。彼らの身体の向きからおおよその方角は掴める。また儀礼用であろう、旗や祭具のような物が床に落ちていて、それらも目印になった。そうして7部屋ほど動くと、さらにもう1人が居て、その部屋から先に異様な部屋が見えた。
そこを見たときに浮かんだのは『祭壇』だった。その部屋だけは作りが他の部屋とは異質で、部屋の中心に石積みの台座のようなモノがあり、上には棺ではなく小さな木箱が鎮座していた。
そして台座の手前には、残りの聖騎士5人が居る。ひとりだけ兜の意匠が異なる者が居たが、おそらく騎士団長だろう。いちばんの実力者だろうが、他の者と変わらず地面に力なく座り込んでおり、意識があるようには見えなかった。
出入り口が一カ所しか存在しない、特殊な作りの部屋だ。中心の台座の高さは俺の背丈には届かないほどで、木箱を足せばちょうど目の高さに来る程度だった。部屋にはあれ以外の木材はない。おそらくあれに大司教の娘の遺骸が収まっているのだ。人間の一人分が入る箱ではないが、"頭であれば"ちょうどいい大きさだ。
(五体満足ではいられなかったんだろうな)
気の毒だが仕方ない。不謹慎ではあるが、このまま持ち帰れそうなサイズなのは非常に助かる。
さて、どうするべきか。
これらの現状を伝える為に戻るか、このまま木箱を回収するか。前者は悠長だが確実で安全、後者は手っ取り早いがリスクがある。聖騎士たちが虚ろなまま止まっているのは箱がここにあるからで、仮に失われた場合、どんな行動を起こしてくるか分からない。最悪、状況が動いた場合に斬りかかってくる恐れがある。しかし引き返して再度戻ってきたとき、事態が動いていない保証もない。彼らの衰弱状態も気になる。
そうして物思いに耽っていて、注意散漫でいたのが失敗だった。
不意に、木箱がズリズリと引き摺られるようにして、台座の端からはみ出たのだ。動いたのはほんの一瞬、しかし配置のバランスが崩れ、ゆっくりと重力に引っ張られて地面へと転がり落ちていく。
「っと」
教育の性というべきか。遺体だと分かりきっているそれを無碍にはできず、俺は思わず空中で捕まえた。地面に落とすことはできないと。だが迂闊だった。
手に取った瞬間、空気が一変するのをハッキリと感じ取れた。
「──ライア、さま?」
騎士団長が、空気を入れた風船のように立ち上がる。その手に力が籠もるのがギリっと握られた音で分かった。
「起きられた、ライアさまが、起きられた……」
他の団員もそれに続く。俺の背後には、5人もの甲冑姿が居並ぶ。
「ついに、ついに」「行かれるのですね」
うわ言が伝播する。その声量はもはや寝言ではない。叫びと化していく。
「今こそ!」「今こそ!」「今こそ!」
聖騎士団の壁が、俺の逃げ場を塞いでいた。
しくじったと思ったときにはもう遅い。入り口を背に、じりじりと近づいてくる甲冑の圧力。俺は木箱を脇に抱え声を張り上げた。
「おい! お前らのお嬢様を連れてここを出ようってんだ、どけ!」
「行かれるのだ」「お供しますぞ」「今度こそ……」「ライアさまああああああ!!」
これといった反応はない。むしろ俺の声をかき消すような声量だ。幽鬼のように足取りに気力はないまま、だというのに腹から声が出ていやがる。殴り倒してもいいが、数日ここに飲まず食わずで居て衰弱しているのは確かなのだ、下手な刺激が命に関わらないとは思えない。厄介なことこの上ない存在だ。
「くそ……!」
部屋の隅に追い込まれる。いっそのこと木箱をぶん投げて、気を取らせた内にすり抜けるという手があるか。
と、やけっぱちなことを考えていたので反応が数瞬遅れた。後頭部にフヨンと柔らかな感触が届く。
「お困りのようだね!」
壁しかなかった背後から出てきたのは、ノエルだった。
「何をしに来た!?」
「ご挨拶だね、君を助けに来たに決まっているだろう?」
ノエルは前方、聖騎士たちを睨むと右腕を大きく振った。その腕からは魔力が感じられる。
「そぉら! 君たちのお姫様が逃げるぞ!」
すると俺の身体から蒸気のように煙が立ち上り、聖騎士たちの後ろにぎゅるぎゅると集まった。煙はやがて色濃く固まり、木箱を脇に抱えた俺の輪郭を形作ると、脱兎のごとく走り出した。
「ライアさま!!」「お待ちください!」「お供します!」
ヨタヨタともつれ足も構わずに、騎士たちが出入り口から出ていく。呆気に取られていると、俺の肩に持たれかかったノエルが悪戯っぽく微笑んだ。
「幻惑さ。だが実体があるわけじゃない、なるべく奥に行かせるが追いつかれたら消えてしまうよ。急いだほうがいい」
頷いて、ひとまず祭壇の部屋を出る。出口までの道順は覚えているが、聖騎士たちは明後日の方向に走っていったようだ。ひとまず安堵し、傍らを見る。ノエルは俺の肩に顎を乗せたままフヨフヨと浮いていた。頬ずりしそうな距離だ。
構わず正面を向いたまま話した。
「礼は言うが、お前には聞きたいことが多い」
「ああ、君は約束通り依頼を引き受けてくれた。何でも聞いてくれたまえ、もちろん謝礼はこの後で送らせてもらうよ」
「そいつは助かる」
腰を屈めながらせかせかと走る。
「お前の依頼は娘の亡骸を解放するようにという話だったが、俺はこいつを大司教に届けなきゃならん。それは承知してくれるか?」
「承知するも何もそれこそ依頼の肝だよ。私も協力して大司教に送り届けよう」
「なるほど。もしかするとこの娘は、もう魔物になっちまってるんだな?」
「それは半々といったところかな」
ノエルはフウ、と大きなため息を吐いた。酷く息苦しそうだ。
「ここの空気は独特でね、不浄なもの──つまり主神にとっての敵たる魔物が過ごすにはひどく厳しい環境なんだ。そんなところに置かれてしまったものだから、彼女は魔物に成れたものの十分な力を発揮できずにいる。私もヴォルフくんという縁を通じてようやく霊体としてここに来れたくらいなんだ、それでも大幅に制限を架されている」
呼応するようにガタガタと、脇に抱えた木箱の中身が揺れた。
「それでも父への思いが上回ったのだろう、彼女は少しずつ力を溜めてようやく夢を送れるに至ったわけだ。そうして今、身体を作る力を魔術に回して、街の祝福を反転させる大魔術を発動せんとしている。大司教の身内だからこそ可能な結界術だよ」
「──そうか」
心のどこかで引っかかっていた。
元聖騎士として、人間として、この依頼に協力するということがどういうことなのか。
俺は今、ひとつの街を魔に堕とす協力をしてしまっている。しかもそれは教会からも、魔物からも、依頼という形で望まれたが故なのだ。何とも因果な話だ。
もはや幸福に至る道に、主神の導きはないということなのか。
「ふむ? なにやら楽しそうな顔をしているね」
「ハッ、デカい花火が上がりそうだからな。笑うしかないだけだ」
「いいね、私も派手なものは大好きさ。もし無事にコトが済んだら──と振りをしたのはすまないヴォルフくん! 緊急事態だ!」
ノエルが泡を食った様子で叫んだ、その目は木箱に向いている。先ほど僅かに揺れた木箱は沈黙しているが、ノエルはそこから立ち昇る何かに気が付いたらしい。
「あそこの台座が封印の肝だったらしい、彼女の濃厚な魔力が空間に漏れ出ている! こいつはまずいぞ──」
ガタガタと揺れる音がまたしても響く。だがそれは木箱からではなく、壁に設置された棺からだった。
ひとつが鳴り始めたことで、応じるようにバキボキベキと、至る所から木材をへし折る音が響く。破砕音の大合唱だ。先ほどまでのカタコンベの静謐な空気は一変し、家屋が一斉に倒壊するような激烈な爆音が耳を覆った。
「──彼らが起きる!」
ノエルの悲痛な叫びと同時に、亡者たちの叫びが上がった。
○
「暗い……寒い……!」「あら〜どこかしらここぉ?」「男ぉおおおお!!」
思い思いの嬌声が至る所から上がる。カタコンベに眠った棺たちが一斉に目覚めだしているのだ、魔力の変質の影響であればまずは女からだろう。少しすれば男も起き出してくるかも知れない。
もはや隠密は意味がないと、俺は姿勢を上げて全速力でカタコンベを駆け抜ける。
「うわあああああ!?」
道中、うなだれていた聖騎士の1人が叫び声を挙げていた。見れば、包帯を巻いた女と、白骨を四肢に纏った女に口を寄せられて必死に両腕で押しのけている。ふと包帯女と目が合うが、俺の傍らにいるノエルを見てか、また聖騎士の方へと向き直った。
「両手に華だね」
「羨ましい限りだな」
残念だが人助けをする余裕はもはや無い。一刻も早くここを出なければ犠牲になるのは俺だ。
そうして先を急ぐと、1人の聖騎士が粘性の液体に絡めとられていた。じめついた場所ではあるからスライムもどさくさに紛れてやって来たのだろう、当然に無視する。
その先では聖騎士2人が十数人ものゾンビに壁に押されて呻いているのが見え、さらに次の部屋では赤黒の衣装を身にまとった女に急所を咥えこまれている聖騎士がブルブルと足を震わせているのが見えた。助けを乞うように目を向けられるが知ったことではない。
「起きてすぐにイラマチオとはやるね! 楽しんで!」
口笛を吹かんばかりに囃し立てるノエルは無視してさらに先へ進む。
やがてカタコンベの出入り口が見えてきたが、運の悪いことに、3方向の通路すべてをゾンビたちが塞いでしまっていた。あと少しだというのに。
「先に言っておくと、私の魔法は同族にはすこぶる効きが悪いよ。腹をすかせた子たちを誤魔化せる保証は欠片もない! そも哀れな彼女たちに乱暴なことはしたくない!」
自信満々に役に立たないことを教えてくれるノエルである。
さてどうするべきか。殴り倒すのも斬り倒すのも、大勢が相手では上手い手段とは思えなかった。迂闊に接近して足でも取られたら目も当てられない。
仕方がないと、不慣れながらうろ覚えに詠唱する。使えるものは何でも試すべきだ。
「(吹き飛べ!)」
局所的に突風が巻き起こり、ゾンビたちは仰向けに転がった。そう強く魔力を込めたつもりはなかったが、場に満ちた魔力が後押ししてくれたらしい。
急いでゾンビたちを飛び越えて扉にかじりつく。背後の騒音に負けない声量で、全力で扉を叩いた。
「開けろ! 魔物が起き出した!」
鉄扉が揺れ動くほどの勢いを出したが、反応がない。もしや魔物発生という異常事態を迎え、俺ごと締め出すという最悪な手を取ってしまったのか。
途方に暮れていると、ノエルが扉を迂回するように壁を潜って中の様子を教えてくれた。
「もぬけの殻だが争った形跡があったよ。おそらく私のように壁を抜けられる同胞に襲われて上に向かったんじゃないかな」
「そうか、最悪から2番目だな」
鉄扉はビクともしない。
扉を避けていたことから何となく予感はしていたが、念のためノエルに中から扉を開けられないかを聞いてみる。
「すまないが、この扉に施された聖魔法に対抗できるほどの力は戻っていないんだ。正直近づくのも厳しい」
詰みである。
やがてゾンビたちがゆっくりとこちらに向かってくる。そのさらに奥には、魔物にやられてしまったのであろう聖騎士団たちが幽鬼のように歩いてくる。彼らの力を合わせれば扉を壊すこともできるだろうが、その時には俺も彼らの仲間入りだ。
「ひとつ提案があるんだが……」
ノエルが口を開く。
「私と番うというのはどうかな? 一生分の財と、飽きない娯楽を約束するよ」
悪くない提案だ、と頷こうとしたその瞬間。
背後の扉が異常な熱を発していることに気がつき、慌てて飛び退いた。何かが爆ぜ散る音がすると同時、厚い鉄板を貫通して、赤い爪が4本突き出てくる。
ギギギギ、と不快な音を立てて爪がゆっくりと地面に落ちきると、バゴンッと大きな衝撃音と共に鉄扉が吹き飛んだ。近づいていたゾンビたちがあおりを食らって転がっていく。
噴煙と共に顔を出したのは、フシュゥゥゥと白煙を口から吐き出し、獣毛と獣爪を四肢にまとった狼少女だった。バチバチとまなじりからは火花が散り、ひと目で激怒していることが分かる。
あまりの事態に固まる俺の横で、ノエルはにこやかに手を挙げた。
「やっと来たね! 私はもうプロポーズしたよ!」
そうして耳元に口を寄せてきて、悪戯がバレた子供のようにチロリと舌を出した。ぽしょぽしょと悩まし気な吐息で囁きかけてくる。
「君への好意は本心だよ、これでも乙女のように胸が高鳴っているんだ。私は生を諦めきれず、死の淵から蘇って現世にしがみついている愚かな女だ。だから君のような、人生の再スタートを始めた男に堪らなく惹かれてしまう……」
ンチュ、と頬にキスをして。
「死に損ないの人生を笑い飛ばして、君と共に生きたい♥」
甘い言葉に脳が痺れた不意をつき、ノエルは俺の手から木箱を奪い取った。
「こっちの用事は任せてくれたまえ!」
そうして、煙のように立ち消えてしまった。扉が開かれたことで制限とやらが解除されたのだろうか。
そしてこの場に残されたのは、呆気に取られている死人共と、それに翻弄されたままの聖騎士団と、バカみたいに惚けている俺と、憤怒の形相で佇む狼少女であった。
24/08/15 19:39更新 / カイワレ大根
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