依頼
「ひゃっはー!」
宿屋の部屋に入るや否や、少女は一も二もなくベッドに飛び込む。柔らかく弾力を持つマットは衝撃に屈することなく反発し、少女の身体を幾度もはね飛ばした。その度にわーきゃーと上がる叫び声にヴォルフは首を振る。
「やめろ。みっともない」
「これこれ! これだ! たまんねえ!」
まさに子供だ。ヴォルフの言葉は少女に届いていないらしく、ひとしきり跳ねまわっていた。
やがて満足したのか枕を抱いて深呼吸しだす。息を荒げ頬を紅潮させた少女がベッドに寝そべっている構図はヴォルフの理性に多大なるダメージを与えたが、どうにか踏みとどまる。普段と違ってそれなりに見られる服装をしていることが大きいのだろう、シチュエーションの生々しさが違う。
「その妙な儀式は毎度やらなきゃ気が済まないのか?」
「うるせぇな、オレの勝手だ」
「ここは借りた部屋だ。無茶をして壊しでもしてみろ、すぐに叩き出してやるからな」
「知ったこっちゃねえや。久しぶりのベッドだ、邪魔するヤツは容赦しねえぞ」
「はあ……勝手にしろ」
ノエルとの食事を終え、紹介されたのがこの宿屋だった。紹介に相応しく立地も内装も設備も一級品の高級ホテルだ。少女が居なければヴォルフもはしゃいでしまっていたかも知れない。
『教会とは別に、私からも依頼料を払うつもりだ。この街に居る間の住まいと食事は私から提供しよう』
ノエルはそれだけ告げ、また煙のように去って行った。
これまでのどの依頼よりも高額で手厚く、体験したことのない厚遇だ。おいそれと答えは出ない。それだけにゆっくりと考える時間が欲しかったのだが、少女が共に居てはそれも難しかった。なぜ別々の部屋にしてくれなかったのかと文句を言いたい気分だったが、そも少女を連れてきたのは自分の判断なので諦める他ない。ノエルの手前、あえて素性を誤魔化す理由もなかったのだが。
ヴォルフの心情なぞ露知らず、少女はご満悦の表情でシーツを撫でている。
「そんなに気に入ってるならここに住めばいい」
「お前が住みたいならオレも住んでやるぜ」
「寝言は寝て言え」
これはいつものやり取りだった。毎度毎度、ベッドに並々ならぬ愛着をみせる少女だがヴォルフが決めた宿泊期間以上に居座ろうとしたことは一度もない。名残惜しそうな態度はみせるのだが、ヴォルフが立ち去ると必ず後をついてくる。以前、あえて長めに宿泊代を払ってこっそり抜け出し、少女を留まらせようとしたこともあったが無駄金を積んだだけに終わった。
ヴォルフは窓際の椅子に腰かけて思案に耽る。魔物が潜み機会を窺っている街のこと、不可解な依頼のこと、部屋にベッドがひとつしかないこと……考えることは多くあったが、まずは確かめなければならないことがあった。
「お前、あのノエルって女をどう思う?」
ノエルと名乗った女。掴み所のない劇団長。底知れない魔物。
強力な魔物と出会った場合、常ならば厄介事を避けるため、速やかに距離を置いているところだ。これまでの旅でも手に負えない魔物に襲われた時は素直に撤退している。少女も、戦わずに逃げるということに抵抗を感じてはいなかった。
だが相手は表面上、友好な立場を示している。裏があるかも知れないが、教会の依頼を受けて欲しいという意思自体にウソはなさそうだ。問題は依頼を受けた先にある何かを読み切れないこと。
あまりに慣れない事態の為、藁にでもすがる思いで少女の意見を聞いてみたかった。その野性的なセンスから導き出せる意見はどういうものか。
「あー?」
対する少女はつまらないものを見る目でヴォルフを見返す。
「気持ち悪ぃ幽霊女だが、お前の印は消させたし……どーでもいいな。うまかった飯もこのベッドもアイツのおかげなんだろ? ならもう言うこたねぇ」
枕に顔を埋めてご満悦の表情で匂いを嗅いでいる。あくまで自分の欲望に正直な態度にヴォルフは呆れるしかなかった。脳天気な少女のことも、そんなのを当てにしていた自分にも。事態に振り回されて正常な判断を失っている証拠である。まずは肩の力を抜かなければ。
「そうか。なら俺も好きにさせてもらう」
「おー、そうしろそうしろ」
気の抜けた声で少女はうつ伏せに枕を抱え、子供のように足をばたつかせていたが、ふと思い立ったように流し目を送ってきた。
「なんなら、まずひと休みするか?」
ちろりと唇を飛び出した舌がうごめき、瞳が妖しく輝く。せり上がった尻が誘うように揺れるのを目にしたヴォルフはカッと胸が熱くなるのを感じた。火の恐怖を覚えた獣が火元から距離を置くように少女から目を逸らす。
「馬鹿を言うな」
「ん〜? オレはひと休みっつっただけだぜ?」
確かにそうだ。ヴォルフは反論の言葉をぐっと飲み込む。
「それに、一度おっぱじめたらひと休みじゃあ済まねえよ。それでいいならすぐにでも……」
じり、と少女の辺りの空気が陽炎のように揺らめいた。少女が強烈な熱源となって周囲の温度を上げたのだ。見れば少女の目尻からはチリチリと火花が散っていた。それが示すのはヘルハウンドの臨戦態勢、鮮やかな炎がまなじりから溢れ出る様は実に鮮やかで幻想的だ。
ヴォルフは不覚にも魅入ってしまった。身を乗り出した少女がヴォルフのベッドに前足を掛けたとき、ギシリと軋んだ音でようやく我に返ったヴォルフは慌てて右手を突きだす。
「待て、少し待て」
訴える言葉には祈りが込められていて、必死な言葉だった。なにせ下手に少女の火が点いたらそれこそ数日は身動き出来なくなるからだ。一度噛みつかれたが最後、少女が満たされるまで自由はないだろう。ここまで来ておいてそんなオチは御免だった。
もはや逃げる以外の選択肢はない。案内で疲れたからひと眠りなんて悠長なことを考えている暇はなかった。
「先に用事を済ませておきたい。教会に行ってくる。お前は邪魔だからついてくるな」
「あぁ?」
「いや違う、そうじゃない。依頼の話を済ませたら肉を食おう。ひと休みはその後だ」
「肉?」
「ああ、肉だ。とびきり旨い山羊肉、精のつく仔山羊の肉が良いな、そうしよう」
「……へえ。悪くねえな」
にやりと笑って炎を引っ込めた少女を見るやいなや、ヴォルフは迅速に立ち上がりドアに向かった。少女の気分は舞い落ちる木の葉の如く移ろいやすい、引いた隙に駆け抜けるという術しかないのだ。
だが去り際、ヴォルフはふと思いついた。
「外に出るならその元気な尻尾はしまっておけよ」
少女の年も名前も知らないヴォルフだが、ぽかんと呆けた顔は幼子のようでおかしかった。普段の不遜な態度を知っているならなおのこと。
少女の突きだした尻からは、人化によって隠していた筈のふさふさの尻尾が興奮気味に跳ねていたのである。言われて硬直する様からして気づいていなかったらしい。
「――うるっせえ! とっとと行っちまえ!」
真っ赤になって吠える少女に追い立てられるようにしてヴォルフは部屋を後にした。
○
宿屋から出たヴォルフは再び大通りに戻り人混みに飛び込んだ。強面な上、がたいの良いヴォルフを道行く人は緩やかに避けてゆく。それを知ってか知らずか、ヴォルフは機械的な足運びで意識を思考に寄せていった。
(アイツのことだ。ああ言っておけば意地でも正体は晒さないだろう)
言うことを聞かない上、何かと仕事にちょっかいを掛けてくるあの狼少女のプライドは実に高い。小馬鹿にされたなら、それ以上の失態は犯すまいと躍起になる筈だ。だからとりあえず少女のことは隅に置いておくことにする。今はそれよりも考えるべきことがあった。
(……2人か。1人減ったな)
ヴォルフは振り返らぬまま、追跡者の存在を確信する。
街に入ってすぐ、ヴォルフは自分たちに向けられる複数の視線に気づいていた。始めは自分たちのような旅人が珍しいのだろうと思っていたのだが、少女を連れて歩き回っても変わらない視線に違和感を覚え、試しに服屋や飯屋、そして宿屋に入ってみたのである。少女を置いて自分一人になりようやくはっきりした。一定の速度で進む自分に一定の距離でついてくる者がいる。真っ当に考えれば監視のため、依頼主である教会が差し向けた見張りであろう。
(俺のような奴を懐に入れるというのに無防備な筈もないか)
検問が予想より緩かったのも監視を付けることが織り込み済だったせいかも知れない。
そう考えると、ヴォルフの連れてきた"身内"は教会にとって有効な手札になり得るから、いっそ歓迎されてしかるべきだった。今頃宿屋の周囲には監視の目が行き渡っている筈だ。それ以上の行為に及ぶかどうかは、これからのヴォルフの態度次第だ。
(人質にできるならご自由に)
少女のことだ、監視の存在にはとっくに気が付いていて、その上で捨て置いたに違いなかった。気づいてなお無視したということは、つまりどうにでも出来るということ。だからヴォルフが一番に懸念すべきは依頼そのもののことだった。監視を付ける時点で平和的な依頼ではないだろうし、ノエルの言う大司教の娘を解放しろ、とは一体どういうことなのか。
それもすべては、依頼主から話を聞かないことには分からない。逃げるにせよ飛び込むにせよ、方針を決めるのはそれからでも遅くはない筈だ。
(邪悪な魔物を滅ぼせと言われても無理だがな)
今の自分はただの傭兵。もはや聖騎士ではないのだから。
○
宗教都市の中心には当然、教義を象徴する建築物がそり立っているものだ。東西南北に伸びた大通りの集合地は大きく開けた広場になっており、そこには巨大な教会が建っていた。教会は天高く伸びた鐘楼を背負っていて、街のどこからでもその威容を目にすることが出来た。
はるか高く伸び上がった鐘楼。その鐘が鳴らされるときはどんな時だろうと考える。有事のとき……例えば催事であるとか、戦争であるとか、あるいはもっと日常的に時刻を知らせる時だろうか。以前、時計台がそびえ立つ街に居たことがあるが、常に時間に見張られているようで落ち着かなかった。日々を過ごすには適度に時間を忘れるくらいがちょうど良いのだ。
日が落ち切るにはまだ早い時間、俺は教会に辿りついた。
観音開きの扉は開け放しで、扉の正面から伸びた道の先には、ステンドグラスを背負った主神像が両手を広げて信徒を歓迎している。まだ夕前だからであろう、参拝客はチラホラと伺えた。
通路を通り、像の手前で脇に逸れる。まさかこんなところで物騒な話をするとは思えないから裏口からどこかに通されるのだろうと、像の両斜め後ろに見える扉のいずれかに辺りをつけて様子を見た。
すると左の扉が開き、中からシスターが出てきた。まっすぐに俺の方に歩いてくる。
「もし、ヴォルフ・ウォーレン様でおられますか?」
小さく頷く。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
促されるまま、シスターの後ろをついていく。
扉をくぐり、廊下を渡って、教会の奥へ奥へと進んでいく。途中、階段を上ったあたりでどうやらかなり大がかりな話らしいと改めて覚悟を固めた。普通、教会の中で密談に適したのは懺悔室だとか、詰め所だとか、裏の夜勤部屋とかだろう。階段を上ったらもうお偉いさんの執務室しか浮かばない。
やがて予想通り、ご立派な両開きのドアが見えた。シスターはおずおずとノックし「ヴォルフ様がいらっしゃいました」と声を掛ける。
咳払いか何か、くぐもった声が聞こえ、それを返事と受け取ったのかシスターは俺に顔を向けた。自分はここまでだと目が語っている。
意を決して扉を開けた。そこに居たのは、肩を落として椅子に座った男と、その傍で聖騎士団の甲冑を身につけている女の姿だった。
○
「貴公がヴォルフ・ウォーレンか。ご足労感謝する」
口を開いたのは傍に立つ女の方だった。そっちが喋るのかよ、と俺は思わず男を横目で見る。豪奢な服を身につけた如何にも権力者という風情だが、目元が落ち窪み覇気もなく、椅子に縛りつけられたかのように肩を落としている。根を土から剥がされ枯れる運命にある草花のような有様だ。明らかに様子がおかしい。
女騎士は戸惑う俺の態度を他所に、言葉を続ける。
「こうして足を運んで貰ったのは他でもない。我らが街の問題を解決して欲しいからだ」
ぴくりと、男の眉尻が動く。街、という単語に反応したのだろうか。
俺は意識の端に男を捉えつつ、失礼のないよう女騎士の方をしっかりと向いて話した。
「問題というのは……市井に蔓延る下世話な文化のことだろうか」
「街の様子は見ておられたか。それも無視はできないが、もっと直接的に差し迫っている問題があるのだ」
スイっと、女騎士は左手で部屋の壁を指差した。南に開かれた窓を背にしているので、方角的に言えば北西の方だろうか。
「街の端には墓地がある。そこに、代々の聖骸を納めた『カタコンベ』の入り口があるのだ」
カタコンベとは地下に作られた墓地を指す言葉だ。この辺りは土葬が主流の筈だが、いわゆるところの"誉れ高い"遺体である聖骸(例えば聖別を済ませた遺体、教会の司教や聖騎士団だ)を市井の民と一緒にまとめることはせず、地下深くに置いているらしい。そういう文化事態は別に珍しくもない。問題とは何なのか。
そして、またしても男の眉尻が動いた。カタコンベ、という言葉が引っかかったのだろう。いや、どころか椅子をガタリと揺らして立ち上がった。不意の動作に女騎士が泡を食って支える。なんと、男はもはや自力で立つこともままならないほどに衰弱しているようだ。
「娘、娘に、会わせてくれ……頼む。何でもする……」
「大司教様、落ち着いてください」
「ああ、ダメだ、儀式がまだ……すまない、ライア……すまない……」
「……」
沈痛な面持ちで、女騎士は大司教と呼んだ男の背を撫でて落ち着かせる。男が動くとみるやすぐに手甲を外したことといい、忠誠心というよりは慈愛のようなものを感じた。
俺の視線から探るものを感じたのだろう、女騎士は気まずげに言う。
「私は大司教様に生きるための全てをいただいた。恩義は返しても返しきれるものではない。だというのに、ご息女を守り切ることが叶わなかった。……どころか、そのお体さえも、今は……」
大司教を傍で支えながら俯く。並々ならぬ事情がありそうだが、話の焦点がズレていく予感に溜め息が出そうだった。男ほどではないが、女騎士の方も精神的にかなり参っているらしい。俺としては、ノエルからも言及されている『大司教の娘』とやらが重要だ。
大司教の様子を改めて観察する。
頬は痩せこけ憔悴し、偉容も無く、立派な聖衣に着られている枯れた男だ。眼光にまだ余力はあるが、消える直前の蝋燭のように儚い気配しか感じない。そして話の進行は部下に任せきり、まずもってマトモな状態ではない。破格の依頼料は貯め込んだ財に飽かしたものではなく、正常な判断を失っていることが大きいのだろう。そしてそこまでしてこだわるものは。
「俺の早とちりなら悪いが」
この2人のペースに合わせては埒が明かないと判断し、俺は勝手に話をまとめることにした。
「そこな大司教様の娘は不慮の事故で亡くなった。遺体は丁重に聖別され、カタコンベに埋葬された。しかしとある問題が発生し、その遺体を検める必要が生じた。カタコンベに入れるのは生前から聖別を済ませた聖騎士団員の一部だけだが、さらに事件が重なって、運び出すことが叶わなくなってしまった。だから俺にお鉢が回ってきた」
順序立てて論理的に整理する。的外れなら横槍が入ると思ったが、女騎士はポカンと口を開いて固まっていた。そういう間の抜けた表情をしていると随分と幼く見える。
「以上がこちらの予想だ。間違っているのなら訂正してくれ」
「あ、いや……合っている。もしや事前に調査をしていたのか……?」
「そんなところだ」
ウソである。だが話が早く進むならそれに越したことはない。
話の理解は出来た。ならば確認すべき点は3つだ。
1つ。
「なぜカタコンベから遺体を持ち出す必要がある? 俺の知識では遺体を持ち出すような儀礼は思い浮かばないが」
「それは――」
「よい、ご苦労だった。これからは私が話す。娘が、夢枕に立ったのだ。『私に会いたい』と……」
椅子に腰を戻した大司教が絞り出すように答えた。どうやら丸きり上の空というわけではないらしい。今にも消えそうなかすれ声だが、話は通じている。ならばと、俺は大司教に向き合った。
「夢のお告げね……別れには同情するが、それで規則を破るのはどうなんだ?」
「規則は、守っている。儀礼のやり直しなのだ。すべてを逆回しに、行おうとしている」
咳を挟みながら大司教は言葉を紡いだ。微かに灯った目の光に、俺は痺れのような感覚を覚えた。
認識を持ち直さなくてはいけない。いくら憔悴しているとはいえ、大司教はこの宗教都市を守る要なのだ。力ある魔物であろうノエルが手をこまねくほどの精神力をこの男は備えている。
カタコンベから遺体を持ち出すのは、大司教とその娘?が望んでいるから。これが1つ。
2つ。
「回収には聖騎士団が向かったと言ったな。彼らに何があった?」
「それが、分からないのだ。彼女は副団長。団長を含め、カタコンベに入り儀式をこなす筈だった総勢10名は、連絡がつかぬまま、5日が経とうとしている」
5日。地下の広さは分からないが、地上の都市は1日もあれば回りきれるくらいの規模と思うと相当な異常事態だ。何らかの足止めを食らっていると見るべきだろう。それが何なのか、この依頼の肝になる問題だ。
聖騎士団はカタコンベに潜り、行方不明となっている。これが2つ。
3つ。
「なぜ、俺なんだ?」
素性の怪しい傭兵ひとり。何故、俺のような男にこんな依頼が回ってきたのか。
その疑問に大司教は、光が戻りつつあった目をわずかに伏せ、絞り出すように言った。
「汚名を濯ぐ機会だと、思ってはいかがか。聖騎士、ヴォルフ・ウォーレン殿」
それはどういう感情の顔なのか。
湧き上がる怒りと羞恥に視界が靄がかった俺には、見極めることは出来なかった。
宿屋の部屋に入るや否や、少女は一も二もなくベッドに飛び込む。柔らかく弾力を持つマットは衝撃に屈することなく反発し、少女の身体を幾度もはね飛ばした。その度にわーきゃーと上がる叫び声にヴォルフは首を振る。
「やめろ。みっともない」
「これこれ! これだ! たまんねえ!」
まさに子供だ。ヴォルフの言葉は少女に届いていないらしく、ひとしきり跳ねまわっていた。
やがて満足したのか枕を抱いて深呼吸しだす。息を荒げ頬を紅潮させた少女がベッドに寝そべっている構図はヴォルフの理性に多大なるダメージを与えたが、どうにか踏みとどまる。普段と違ってそれなりに見られる服装をしていることが大きいのだろう、シチュエーションの生々しさが違う。
「その妙な儀式は毎度やらなきゃ気が済まないのか?」
「うるせぇな、オレの勝手だ」
「ここは借りた部屋だ。無茶をして壊しでもしてみろ、すぐに叩き出してやるからな」
「知ったこっちゃねえや。久しぶりのベッドだ、邪魔するヤツは容赦しねえぞ」
「はあ……勝手にしろ」
ノエルとの食事を終え、紹介されたのがこの宿屋だった。紹介に相応しく立地も内装も設備も一級品の高級ホテルだ。少女が居なければヴォルフもはしゃいでしまっていたかも知れない。
『教会とは別に、私からも依頼料を払うつもりだ。この街に居る間の住まいと食事は私から提供しよう』
ノエルはそれだけ告げ、また煙のように去って行った。
これまでのどの依頼よりも高額で手厚く、体験したことのない厚遇だ。おいそれと答えは出ない。それだけにゆっくりと考える時間が欲しかったのだが、少女が共に居てはそれも難しかった。なぜ別々の部屋にしてくれなかったのかと文句を言いたい気分だったが、そも少女を連れてきたのは自分の判断なので諦める他ない。ノエルの手前、あえて素性を誤魔化す理由もなかったのだが。
ヴォルフの心情なぞ露知らず、少女はご満悦の表情でシーツを撫でている。
「そんなに気に入ってるならここに住めばいい」
「お前が住みたいならオレも住んでやるぜ」
「寝言は寝て言え」
これはいつものやり取りだった。毎度毎度、ベッドに並々ならぬ愛着をみせる少女だがヴォルフが決めた宿泊期間以上に居座ろうとしたことは一度もない。名残惜しそうな態度はみせるのだが、ヴォルフが立ち去ると必ず後をついてくる。以前、あえて長めに宿泊代を払ってこっそり抜け出し、少女を留まらせようとしたこともあったが無駄金を積んだだけに終わった。
ヴォルフは窓際の椅子に腰かけて思案に耽る。魔物が潜み機会を窺っている街のこと、不可解な依頼のこと、部屋にベッドがひとつしかないこと……考えることは多くあったが、まずは確かめなければならないことがあった。
「お前、あのノエルって女をどう思う?」
ノエルと名乗った女。掴み所のない劇団長。底知れない魔物。
強力な魔物と出会った場合、常ならば厄介事を避けるため、速やかに距離を置いているところだ。これまでの旅でも手に負えない魔物に襲われた時は素直に撤退している。少女も、戦わずに逃げるということに抵抗を感じてはいなかった。
だが相手は表面上、友好な立場を示している。裏があるかも知れないが、教会の依頼を受けて欲しいという意思自体にウソはなさそうだ。問題は依頼を受けた先にある何かを読み切れないこと。
あまりに慣れない事態の為、藁にでもすがる思いで少女の意見を聞いてみたかった。その野性的なセンスから導き出せる意見はどういうものか。
「あー?」
対する少女はつまらないものを見る目でヴォルフを見返す。
「気持ち悪ぃ幽霊女だが、お前の印は消させたし……どーでもいいな。うまかった飯もこのベッドもアイツのおかげなんだろ? ならもう言うこたねぇ」
枕に顔を埋めてご満悦の表情で匂いを嗅いでいる。あくまで自分の欲望に正直な態度にヴォルフは呆れるしかなかった。脳天気な少女のことも、そんなのを当てにしていた自分にも。事態に振り回されて正常な判断を失っている証拠である。まずは肩の力を抜かなければ。
「そうか。なら俺も好きにさせてもらう」
「おー、そうしろそうしろ」
気の抜けた声で少女はうつ伏せに枕を抱え、子供のように足をばたつかせていたが、ふと思い立ったように流し目を送ってきた。
「なんなら、まずひと休みするか?」
ちろりと唇を飛び出した舌がうごめき、瞳が妖しく輝く。せり上がった尻が誘うように揺れるのを目にしたヴォルフはカッと胸が熱くなるのを感じた。火の恐怖を覚えた獣が火元から距離を置くように少女から目を逸らす。
「馬鹿を言うな」
「ん〜? オレはひと休みっつっただけだぜ?」
確かにそうだ。ヴォルフは反論の言葉をぐっと飲み込む。
「それに、一度おっぱじめたらひと休みじゃあ済まねえよ。それでいいならすぐにでも……」
じり、と少女の辺りの空気が陽炎のように揺らめいた。少女が強烈な熱源となって周囲の温度を上げたのだ。見れば少女の目尻からはチリチリと火花が散っていた。それが示すのはヘルハウンドの臨戦態勢、鮮やかな炎がまなじりから溢れ出る様は実に鮮やかで幻想的だ。
ヴォルフは不覚にも魅入ってしまった。身を乗り出した少女がヴォルフのベッドに前足を掛けたとき、ギシリと軋んだ音でようやく我に返ったヴォルフは慌てて右手を突きだす。
「待て、少し待て」
訴える言葉には祈りが込められていて、必死な言葉だった。なにせ下手に少女の火が点いたらそれこそ数日は身動き出来なくなるからだ。一度噛みつかれたが最後、少女が満たされるまで自由はないだろう。ここまで来ておいてそんなオチは御免だった。
もはや逃げる以外の選択肢はない。案内で疲れたからひと眠りなんて悠長なことを考えている暇はなかった。
「先に用事を済ませておきたい。教会に行ってくる。お前は邪魔だからついてくるな」
「あぁ?」
「いや違う、そうじゃない。依頼の話を済ませたら肉を食おう。ひと休みはその後だ」
「肉?」
「ああ、肉だ。とびきり旨い山羊肉、精のつく仔山羊の肉が良いな、そうしよう」
「……へえ。悪くねえな」
にやりと笑って炎を引っ込めた少女を見るやいなや、ヴォルフは迅速に立ち上がりドアに向かった。少女の気分は舞い落ちる木の葉の如く移ろいやすい、引いた隙に駆け抜けるという術しかないのだ。
だが去り際、ヴォルフはふと思いついた。
「外に出るならその元気な尻尾はしまっておけよ」
少女の年も名前も知らないヴォルフだが、ぽかんと呆けた顔は幼子のようでおかしかった。普段の不遜な態度を知っているならなおのこと。
少女の突きだした尻からは、人化によって隠していた筈のふさふさの尻尾が興奮気味に跳ねていたのである。言われて硬直する様からして気づいていなかったらしい。
「――うるっせえ! とっとと行っちまえ!」
真っ赤になって吠える少女に追い立てられるようにしてヴォルフは部屋を後にした。
○
宿屋から出たヴォルフは再び大通りに戻り人混みに飛び込んだ。強面な上、がたいの良いヴォルフを道行く人は緩やかに避けてゆく。それを知ってか知らずか、ヴォルフは機械的な足運びで意識を思考に寄せていった。
(アイツのことだ。ああ言っておけば意地でも正体は晒さないだろう)
言うことを聞かない上、何かと仕事にちょっかいを掛けてくるあの狼少女のプライドは実に高い。小馬鹿にされたなら、それ以上の失態は犯すまいと躍起になる筈だ。だからとりあえず少女のことは隅に置いておくことにする。今はそれよりも考えるべきことがあった。
(……2人か。1人減ったな)
ヴォルフは振り返らぬまま、追跡者の存在を確信する。
街に入ってすぐ、ヴォルフは自分たちに向けられる複数の視線に気づいていた。始めは自分たちのような旅人が珍しいのだろうと思っていたのだが、少女を連れて歩き回っても変わらない視線に違和感を覚え、試しに服屋や飯屋、そして宿屋に入ってみたのである。少女を置いて自分一人になりようやくはっきりした。一定の速度で進む自分に一定の距離でついてくる者がいる。真っ当に考えれば監視のため、依頼主である教会が差し向けた見張りであろう。
(俺のような奴を懐に入れるというのに無防備な筈もないか)
検問が予想より緩かったのも監視を付けることが織り込み済だったせいかも知れない。
そう考えると、ヴォルフの連れてきた"身内"は教会にとって有効な手札になり得るから、いっそ歓迎されてしかるべきだった。今頃宿屋の周囲には監視の目が行き渡っている筈だ。それ以上の行為に及ぶかどうかは、これからのヴォルフの態度次第だ。
(人質にできるならご自由に)
少女のことだ、監視の存在にはとっくに気が付いていて、その上で捨て置いたに違いなかった。気づいてなお無視したということは、つまりどうにでも出来るということ。だからヴォルフが一番に懸念すべきは依頼そのもののことだった。監視を付ける時点で平和的な依頼ではないだろうし、ノエルの言う大司教の娘を解放しろ、とは一体どういうことなのか。
それもすべては、依頼主から話を聞かないことには分からない。逃げるにせよ飛び込むにせよ、方針を決めるのはそれからでも遅くはない筈だ。
(邪悪な魔物を滅ぼせと言われても無理だがな)
今の自分はただの傭兵。もはや聖騎士ではないのだから。
○
宗教都市の中心には当然、教義を象徴する建築物がそり立っているものだ。東西南北に伸びた大通りの集合地は大きく開けた広場になっており、そこには巨大な教会が建っていた。教会は天高く伸びた鐘楼を背負っていて、街のどこからでもその威容を目にすることが出来た。
はるか高く伸び上がった鐘楼。その鐘が鳴らされるときはどんな時だろうと考える。有事のとき……例えば催事であるとか、戦争であるとか、あるいはもっと日常的に時刻を知らせる時だろうか。以前、時計台がそびえ立つ街に居たことがあるが、常に時間に見張られているようで落ち着かなかった。日々を過ごすには適度に時間を忘れるくらいがちょうど良いのだ。
日が落ち切るにはまだ早い時間、俺は教会に辿りついた。
観音開きの扉は開け放しで、扉の正面から伸びた道の先には、ステンドグラスを背負った主神像が両手を広げて信徒を歓迎している。まだ夕前だからであろう、参拝客はチラホラと伺えた。
通路を通り、像の手前で脇に逸れる。まさかこんなところで物騒な話をするとは思えないから裏口からどこかに通されるのだろうと、像の両斜め後ろに見える扉のいずれかに辺りをつけて様子を見た。
すると左の扉が開き、中からシスターが出てきた。まっすぐに俺の方に歩いてくる。
「もし、ヴォルフ・ウォーレン様でおられますか?」
小さく頷く。
「お待ちしておりました。どうぞこちらへ」
促されるまま、シスターの後ろをついていく。
扉をくぐり、廊下を渡って、教会の奥へ奥へと進んでいく。途中、階段を上ったあたりでどうやらかなり大がかりな話らしいと改めて覚悟を固めた。普通、教会の中で密談に適したのは懺悔室だとか、詰め所だとか、裏の夜勤部屋とかだろう。階段を上ったらもうお偉いさんの執務室しか浮かばない。
やがて予想通り、ご立派な両開きのドアが見えた。シスターはおずおずとノックし「ヴォルフ様がいらっしゃいました」と声を掛ける。
咳払いか何か、くぐもった声が聞こえ、それを返事と受け取ったのかシスターは俺に顔を向けた。自分はここまでだと目が語っている。
意を決して扉を開けた。そこに居たのは、肩を落として椅子に座った男と、その傍で聖騎士団の甲冑を身につけている女の姿だった。
○
「貴公がヴォルフ・ウォーレンか。ご足労感謝する」
口を開いたのは傍に立つ女の方だった。そっちが喋るのかよ、と俺は思わず男を横目で見る。豪奢な服を身につけた如何にも権力者という風情だが、目元が落ち窪み覇気もなく、椅子に縛りつけられたかのように肩を落としている。根を土から剥がされ枯れる運命にある草花のような有様だ。明らかに様子がおかしい。
女騎士は戸惑う俺の態度を他所に、言葉を続ける。
「こうして足を運んで貰ったのは他でもない。我らが街の問題を解決して欲しいからだ」
ぴくりと、男の眉尻が動く。街、という単語に反応したのだろうか。
俺は意識の端に男を捉えつつ、失礼のないよう女騎士の方をしっかりと向いて話した。
「問題というのは……市井に蔓延る下世話な文化のことだろうか」
「街の様子は見ておられたか。それも無視はできないが、もっと直接的に差し迫っている問題があるのだ」
スイっと、女騎士は左手で部屋の壁を指差した。南に開かれた窓を背にしているので、方角的に言えば北西の方だろうか。
「街の端には墓地がある。そこに、代々の聖骸を納めた『カタコンベ』の入り口があるのだ」
カタコンベとは地下に作られた墓地を指す言葉だ。この辺りは土葬が主流の筈だが、いわゆるところの"誉れ高い"遺体である聖骸(例えば聖別を済ませた遺体、教会の司教や聖騎士団だ)を市井の民と一緒にまとめることはせず、地下深くに置いているらしい。そういう文化事態は別に珍しくもない。問題とは何なのか。
そして、またしても男の眉尻が動いた。カタコンベ、という言葉が引っかかったのだろう。いや、どころか椅子をガタリと揺らして立ち上がった。不意の動作に女騎士が泡を食って支える。なんと、男はもはや自力で立つこともままならないほどに衰弱しているようだ。
「娘、娘に、会わせてくれ……頼む。何でもする……」
「大司教様、落ち着いてください」
「ああ、ダメだ、儀式がまだ……すまない、ライア……すまない……」
「……」
沈痛な面持ちで、女騎士は大司教と呼んだ男の背を撫でて落ち着かせる。男が動くとみるやすぐに手甲を外したことといい、忠誠心というよりは慈愛のようなものを感じた。
俺の視線から探るものを感じたのだろう、女騎士は気まずげに言う。
「私は大司教様に生きるための全てをいただいた。恩義は返しても返しきれるものではない。だというのに、ご息女を守り切ることが叶わなかった。……どころか、そのお体さえも、今は……」
大司教を傍で支えながら俯く。並々ならぬ事情がありそうだが、話の焦点がズレていく予感に溜め息が出そうだった。男ほどではないが、女騎士の方も精神的にかなり参っているらしい。俺としては、ノエルからも言及されている『大司教の娘』とやらが重要だ。
大司教の様子を改めて観察する。
頬は痩せこけ憔悴し、偉容も無く、立派な聖衣に着られている枯れた男だ。眼光にまだ余力はあるが、消える直前の蝋燭のように儚い気配しか感じない。そして話の進行は部下に任せきり、まずもってマトモな状態ではない。破格の依頼料は貯め込んだ財に飽かしたものではなく、正常な判断を失っていることが大きいのだろう。そしてそこまでしてこだわるものは。
「俺の早とちりなら悪いが」
この2人のペースに合わせては埒が明かないと判断し、俺は勝手に話をまとめることにした。
「そこな大司教様の娘は不慮の事故で亡くなった。遺体は丁重に聖別され、カタコンベに埋葬された。しかしとある問題が発生し、その遺体を検める必要が生じた。カタコンベに入れるのは生前から聖別を済ませた聖騎士団員の一部だけだが、さらに事件が重なって、運び出すことが叶わなくなってしまった。だから俺にお鉢が回ってきた」
順序立てて論理的に整理する。的外れなら横槍が入ると思ったが、女騎士はポカンと口を開いて固まっていた。そういう間の抜けた表情をしていると随分と幼く見える。
「以上がこちらの予想だ。間違っているのなら訂正してくれ」
「あ、いや……合っている。もしや事前に調査をしていたのか……?」
「そんなところだ」
ウソである。だが話が早く進むならそれに越したことはない。
話の理解は出来た。ならば確認すべき点は3つだ。
1つ。
「なぜカタコンベから遺体を持ち出す必要がある? 俺の知識では遺体を持ち出すような儀礼は思い浮かばないが」
「それは――」
「よい、ご苦労だった。これからは私が話す。娘が、夢枕に立ったのだ。『私に会いたい』と……」
椅子に腰を戻した大司教が絞り出すように答えた。どうやら丸きり上の空というわけではないらしい。今にも消えそうなかすれ声だが、話は通じている。ならばと、俺は大司教に向き合った。
「夢のお告げね……別れには同情するが、それで規則を破るのはどうなんだ?」
「規則は、守っている。儀礼のやり直しなのだ。すべてを逆回しに、行おうとしている」
咳を挟みながら大司教は言葉を紡いだ。微かに灯った目の光に、俺は痺れのような感覚を覚えた。
認識を持ち直さなくてはいけない。いくら憔悴しているとはいえ、大司教はこの宗教都市を守る要なのだ。力ある魔物であろうノエルが手をこまねくほどの精神力をこの男は備えている。
カタコンベから遺体を持ち出すのは、大司教とその娘?が望んでいるから。これが1つ。
2つ。
「回収には聖騎士団が向かったと言ったな。彼らに何があった?」
「それが、分からないのだ。彼女は副団長。団長を含め、カタコンベに入り儀式をこなす筈だった総勢10名は、連絡がつかぬまま、5日が経とうとしている」
5日。地下の広さは分からないが、地上の都市は1日もあれば回りきれるくらいの規模と思うと相当な異常事態だ。何らかの足止めを食らっていると見るべきだろう。それが何なのか、この依頼の肝になる問題だ。
聖騎士団はカタコンベに潜り、行方不明となっている。これが2つ。
3つ。
「なぜ、俺なんだ?」
素性の怪しい傭兵ひとり。何故、俺のような男にこんな依頼が回ってきたのか。
その疑問に大司教は、光が戻りつつあった目をわずかに伏せ、絞り出すように言った。
「汚名を濯ぐ機会だと、思ってはいかがか。聖騎士、ヴォルフ・ウォーレン殿」
それはどういう感情の顔なのか。
湧き上がる怒りと羞恥に視界が靄がかった俺には、見極めることは出来なかった。
24/08/14 23:17更新 / カイワレ大根
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