印の女
「気に入った! これだ!」
黒肌の上に衣装をまとった狼少女が満足げに頷く。ヴォルフの要望通り、衣装は踊り子風ではなく、軽装の冒険者のようになった。
ヘソから上下を分けたセパレートの布地を、革製のベルトで上から固定する形状。胸の谷間で挟むように通った革ベルトは胸の下を支え、逆さT字で胴を回り、首元のチョーカーに固定されている。胸の谷間を横断する都合上、形の良い乳の輪郭が強調される形だがきっちりとインナーで覆っているので許容範囲だろう。首や腕、足首にも革ベルトが巻かれていて拘束具を彷彿とさせるデザインだ。大胆だが洒落もので通せる範囲ではある。
まぶしい腋を出し、ヘソを晒し、太ももを見せびらかす露出の多さに目を瞑ればだが。健全か性的かで言ったら限りなく性的だ。破けた外套よりはマシと思う他ない。
「大変似合っておいでですよ」
「おう! 当たり前だな!」
「……」
店員はべた褒め、少女は得意げだ。水を差せば後が面倒くさいので流すことを決めたヴォルフだった。少女は少女でヴォルフの反応など気にもしてない。『似合うだろ?』なんて言われようものなら口が勝手に皮肉を吐きそうなのでありがたい限りである。
「俺にはこれを売ってくれ。金はこいつで」
目星をつけていた新品の外套を見せながら追加で金貨を並べる。すると店員は困ったように眉根をひそめた。
「失礼ながらお客さま。こんなに頂くことはできません。せめて半分で……」
「なら情報を売ってくれ」
店員の言葉に被せ、ヴォルフはカウンターに肘をついて身を乗り出す。
「さっきの妙なやつ、ノエルと言ったな。あいつについて教えて欲しい」
「ノエル様ですか?」
キョトンと目を瞬かせ、店員は応じる。
「特別なことは何も存じ上げません。劇場で座長をなさっていて、衣装や布類をよく注文いただいています」
「劇場?」
こんな街に劇場があるのか?とヴォルフは驚いた。
「私ごときに聞くまでもなく、この街にいれば誰でも耳にしますよ。中央通りの大劇場──アンデッドフールの座長と言えば聞かない者はいないでしょう」
「……そうか」
店員は取り立てて特異なことを言っている風ではない。至極当たり前のことを喋っている様子だ。
その事実こそがヴォルフの不安を煽った。
(アンデッドフール……死にぞこないの愚か者? 死者の馬鹿騒ぎ? ふざけた名前だ)
劇場の名前は特別おかしくはない。大衆へ迎合する集団に煽り立てる名前は珍しくもないからだ。ただそれは、普通の都市ならばの話である。
(ここは宗教都市だろう。なぜ芸人がいて劇場がある)
教会と相反する刹那的な文化。教義をあざ笑うかのような名前の劇場。そんなものが当然に存在する理由。そこから導き出せる答えは……。
「おい」
ヴォルフの思考を遮って、少女が険のある声をあげた。
「オレの前で他の女の話かよ。いい度胸じゃねえか?」
「は?」
なにをバカなと鼻で笑う。そんな色気ある話などでは決してない。だがヴォルフの余裕とは裏腹に少女の様子は妙な具合だ。
「お前なあ、……っ!?」
何事かを言いかけた少女は、不意に、ヴォルフの右手を掴んで引き寄せた。掴んだ手に鼻を寄せ、ハスハスと匂いを嗅ぎ出す。興奮のせいか鼻息がひどく湿っぽい。
「お、おい」
店員も驚きに目を丸くしていた。荒い鼻息はこしょばゆく、手を嗅がれているのを見られているのも恥ずかしい。だが少女は周囲の反応など気にも留めず、あろうことか、ざらりとした舌で手のひらをベロリとひと舐めした。
「な」
なにしやがる、という罵倒は、次に襲ってきた感覚にかき消される。
「っつぁ!?」
熱い。
痒さやくすぐったさよりも、舌で舐められたどの感覚よりも。それらの後を追ってきた、灼けるような熱がすべてを塗り潰す。血の勢いが増し、手の平の血管がドクドクと脈打つのを感じる。まるで灼けた鉄具を掴んでしまった時のような。しかし、不思議と痛みは感じない。"熱い"という感覚だけが鮮烈に襲ってくる。
「お、お客さま!?」
「ぅぐ!」
狼狽する店員を気に掛ける余裕もなくヴォルフは悶えた。手を掴んだままの少女を苦悶の表情で睨みつける。
少女の方はというと、ヴォルフの様子など歯牙にもかけず、じっと手のひらを観察している。
「――消えねえ……!」
そう呟いてパっと手を離す。
「くそがっ……!」
吐き捨てるように呟き、全身の毛を逆立てた憤怒の表情で店を出て行ってしまった。呆気にとられながらヴォルフが自分の手のひらを見ると、何やら緑色の印が浮かんでいるのが見える。
(なんだ……この模様……?)
眼をデフォルメしたような不気味な造形だったが、瞬きをする間に消えてしまう。呆然とするが最優先事項を思い出した。
この街で少女をひとりにするのだけは絶対にマズい。慌てて手荷物を握る。
「釣りは要らん、邪魔したな」
引き留めようとする店員の声を無視して一方的に告げ、ヴォルフも店を飛び出した。
店を出てすぐ、大通りに向けてずんずん歩く少女の背中に慌てて走り寄る。
「おい! 止まれ!」
声を掛けるが少女は足を止めない。ヴォルフは購入した外套を羽織りながら走り、その横に追い付いた。
「どうした急に。どこに行く気だ」
手を握ろうとするがすげなく振り払われる。どうやら相当にご立腹の様子だ。
「てめえに印をつけた女をぶっころす! オレのもんに手を出したらどうなるか思い知らせてやんだよ!」
「印? さっきのか?」
質問は無視して少女は鼻をひくつかせる。眼を瞑り首を振って何かを探す素振りをしたが、煩わしそうに鼻柱を拭った。
「ちっ! 匂いが混ざって分かりづれえ、どこ行きやがった。――っあー! つかよぉ!」
苛立ちそのまま、ギっとヴォルフをにらみつける少女。その迫力にたじろぐ耳に信じられない言葉が入ってきた。
「ここのどこが魔物ご法度だってんだよ! そこら中からメスの匂いがしやがるじゃねえか!」
「……なに?」
我が耳を疑う。咀嚼しても呑み込めず、次の言葉が出てこない。
「踊ってた女ども! さっきの店のやつ! てめえにマーキングしやがったクソアマ! 見かける女のどいつもこいつも魔物の匂いをぷんぷんさせてやがる! てめえが魔物はいねえっつったんだ! 適当こきやがってこのクソバカ野郎!」
少女は言葉に怒りを乗せて叫ぶ。噛みつかんばかりに口を開いて唾を飛ばす剣幕に、しかしヴォルフはひと呼吸置いて頷いた。
内心頭を抱えるが、一方で、街に入ってから胸につかえていた違和感にようやく答えが示されたと納得する気持ちもあった。足下が揺らぎかけるもまだ耐えられる。
「表向きは宗教都市の体裁を保っているが、既に堕とされていた、ということか
……」
煽情的な格好で人前に出る旅芸人たちがいて、下世話な名前の劇場が広く知られている実状。そして少女の言い分を信じるなら、街の至る所に人間に扮した魔物がいる。
これは主神教会が正常に機能していない証拠だ。街の住人に知れ渡っているかは分からないが、もはや支配権はすげ替わっていると言える。魔物側が教会の意向を飲み込むかは知らないが、逆は絶対にあり得ないのだから。
(暢気に依頼を受けてはいられないかもな、何を要求されるか分かったもんじゃない)
今いる路地を出た先の大通りから入ってきた門まではさほど遠くない、日が落ちる前に街を離れることも可能だろう。ヴォルフは深呼吸をし、頭を切り替える。事態は一刻を争うかも知れないのだ。
「まずここを離れるぞ」
道筋を思い出し先ほどの市場まで引き返そうとする。しかし少女は動こうとしなかった。
「どうした。悪いが今日のベッドはお預けだ」
事態は急を要する。ここでひと晩を明かすわけにはいかない、陽が落ちる前にとにかく遠くへ、街道から一番近い宿屋は……と次の次へと算段を立てるヴォルフだったが。
「いやだね。クソアマにお前の手の印を消させる、それまでここは出ねえ!」
「何言ってんだ。こんなもんどこかで祓ってもらえばいいだろ。術者と距離を置けば勝手に剥がれる可能性もある」
魔術にはあまり詳しくないヴォルフだが、対抗手段に覚えがないわけではない。少なくとも身体に変調はないのだ、急いでどうにかする必要はないように思えた。
だが少女の考えは違った。
「それで消えなかったらどうすんだ!? お前はオレのもんだ! 他の女の印なんか絶対に残さねえ! 絶対にだ!」
内側からあふれ出る激情が瞳から火花になって弾け出てくる。行き場を無くして滞留した感情が、目の前の獲物に向けられた。
「てめえは俺のもんだってさんざん言ったよなぁ……まだ分かってねえってか?……なぁ?……」
地を踏みしめていた脚がゆぅらりと足下から脱力する。瞬間、ヴォルフの直感が回避を告げた。あれは予兆だ。
「消さねえってんならよ──肉ごと噛みちぎってやるよ!」
「ッ!?」
爆ぜるような音と共に、弧を描く跳躍で掴みかかってきた少女を屈んで紙一重で躱す。さっきから情緒がメチャクチャだ、よほどの地雷を踏んでいるらしい。
「まて、やめろ!」
慌てて裏通りへと引き返す。表で騒いでいたら誰かが衛兵を呼んでしまうだろう。逃走ルートを絞らない位置取りを意識して、全身の神経を張り詰める。
ぐるると低く唸って威嚇してくる獣へ必死で声を掛けた。
「分かった! お前の言い分は分かった!」
「うるせえ! その口から黙らせてやる!」
下手な声かけは逆効果だ。
頭を回転させ次の言葉を考えるが、こうまで興奮してしまった少女を落ち着かせる方法はひとつしか浮かばなかった。もうどうにでもなれとばかりにヴォルフは続ける。
「さっきの女がいる場所は分かってる! まずそこに行くぞ!」
「っ!? どこだ! 言え!」
「俺と一緒にだ! 間違っても先に行くなよ!」
乱暴されても居場所は吐かないと、何とか少女を宥めすかせる。場所が割れていると分かるやそちらに意識が向くあたり、怒りは印をつけた相手そのものに飛んでいると言えるだろう。
(どうか拗れないでくれ……)
ヴォルフの祈りは虚しく宙を漂った。
○
ノエルが指していた店は既にヴォルフの目に留まっていた。
市場から歩いて来たとき、ひと際大きな人混みを作っていた大衆食堂が目についたのだ。大通りの角という見晴らしの良い立地なら盛況な店はよく目立つ。
昼時のこの時間、店内から溢れて店外にも用意された席まですべて埋まっている様子だった。目的が目的なので、律儀に並んで食べる気はないため客の顔だけ物色してうろつく。
店内に収まらずテーブルだけ出された外にはおらず、店中にもそれらしい人物は見当たらない。あれほど目立つ格好だからすぐに見つかると踏んでいたのだが、もしや別の店に行ったのだろうか。
(こいつの我慢も限界……いや、匂いにやられて涎を垂らしてやがる。飯を奢れば機嫌直しそうだな)
少女の行動原理がシンプルで助かった。
いっそ列に並んでしまおうかと思ったヴォルフだったが、不意に少女が弾かれたように首を動かす。視線を追うと、店の2階から手を振っている女がいた。
「やあ! また会ったね!」
ノエルと名乗った女だった。シルクハットを脱いで派手な髪色を晒している。
あいつだ、とヴォルフが告げるまでもなく。
「てんめぇぇえええ!!」
ダダダ、と階段すら使わず壁を一息に駆け上った少女がノエルに肉薄する。
しまった、とヴォルフが後悔する間もなく少女の腕がノエルに伸び、ノエルは急に接近して来た少女に目を丸くしていて為す術なくもつれ合った。
「っうわあああ!?」
ドンガラがっしゃんと食器の割れる音と悲鳴だけが聞こえた。1階からは様子が分からない。慌てて階段を探し、カウンターの横、物音に固まった店員の後ろにそれを見つけた。
ヴォルフは身をかがめて人波を縫うように走り寄り、階段を一気に駆け上がる。途中、貸切中と縄が張ってあったが無視して潜り抜けた。
昇った2階は1階の混み具合とは無縁の場所だった。広々としたスペースがあるのはテーブルがひとつしか置いていないからで、1階にあるような安っぽい家具ではなく見るからに高級で重厚な家具で固められていた。まさに貴賓席という風情である。
そしてノエルはその床に転がされていた。上に乗って抑え込んでいるのは狼少女だ。他に人は居ない。弁明する意味ではシンプルな話になったと胸をなで下ろすヴォルフだった。
「おい、離してやれ。話が拗れそうだ」
「うるせぇ! コイツはぜってえ許さねえ! 人のもんに手え出しやがってよぉ!」
「すまない、悪気はなかったんだ。よもやこうも繋がりが強いとは……そうだ」
少女に敵愾心を向けられ関節をバッチリ極められているノエルだが、痛がる素振りはまるで見せていない。むしろ空いた隙間で器用に腰を浮かして何やらカチャカチャと金具をいじくる音が聞こえてくる。
「アヌスを差し出すから気が済むまで叩くかほじくるかして罰を与えてはくれまいか。遠慮はしないで良いよ、いつも使っているからね……ああ……すまない、いやしい興奮は抑えきれないが気にしないでくれ♥」
両手を塞がれているのに何故かシュルシュルとズボンがずり下がっていく。何故か下着は穿いておらず、つるりとした白い下半身が突如として露わになり、あまりの事態に少女とヴォルフは揃って固まるしかない。再びの邂逅は訳が分からない事態になった。
○
「私はノエル・フェルディア。劇団で座長を務めている。それとこの店のパトロンでね、すっかり味の虜になっているんだ。今日は好きなだけ奢らせてくれ、食料庫を空にしても構わないよ」
仕切り直して。
ノエルが一声かけると、階下からどんどん料理が運ばれてきた。
焼き物揚げ物煮物蒸し物。多様な料理の中でもサンドイッチは実に絶品だった。香ばしく焼き上げたパンに切れ目を入れ、ふわふわに炒ったタマゴと絶妙な塩加減のハム、シャッキリと瑞々しい野菜、まろやかなチーズにピリリとアクセントを効かせたマスタードを挟み込んでいる。すべてが調和していて美しさすら感じた。
少女はと言えば、怒りはすっかり収まって、運ばれてくる料理の数々を満面の笑みで平らげていた。
(単純なやつだな)
呆れながらもヴォルフ自身、美味い料理が食い放題という状況に嬉しくないと言ったら嘘になる。遠慮など欠片もなしにがっつく少女を満足げに眺めながら、ノエルは続ける。
「先ほどはすまなかったね、事情も察せずに勝手なことをしてしまって。ヴォルフくんにつけた印は綺麗さっぱり消させてもらったよ」
「気味の悪いことをされたのはそうだが……こちらも一方的に殴りかかったからな。おあいこだろ」
「もが?」
口いっぱいに頬張りながら間抜け面をさらす少女に「いいから食ってろ」と促す。少女が食事に夢中な内に話を進めておきたい。
「ありがとう。おあいこついでに、君の依頼について話をさせてくれないか」
「……何?」
妙なことを言われ、ヴォルフは首を傾げた。
「俺の依頼内容を知ってるのか?」
「とぼけることはないよ。君はもう、ここが普通の街じゃあないと気づいてるだろう」
「っ!」
とぼけたつもりはなかった。だがその口ぶりにヴォルフは思い至る。
始まりは主神教徒からの依頼。訪れた宗教都市は表向きの姿だけで実態は魔物の蔓延る魔都市だった。それらの操り糸がこの女に繋がっているというのなら。
「お前がここの支配者なのか?」
「頭の回転が速いね。ただ支配者は飛躍しすぎだ、私はチケットを買えずに立ち往生している一人の観客に過ぎないよ」
「つまり?」
「そのままの意味さ。この街は真の意味で開放されていない。大司教の祈りは力強く、主神の祝福は我々に重い枷をつけている。私たちは心を閉じてしまっている大司教には手が出せない」
ノエルは言う。大司教が健在である限り、自分を含めた魔物たちが本領を発揮することはできないと。それがこの都市の今の姿なのだ。
「信仰心がとびきり高いんだろう。例えば勇者のような、前向きに発揮される力であれば向き先を変えて堕落させることは可能だ。しかし大司教のような、内向きに守り維持する力に立ち向かうのは容易じゃない。そして大司教には心に決めた女性がいる。これがいちばん厄介で、唯一の突破口になり得る。それこそが、大司教の一人娘」
ひと息吐き、ノエルは真剣な面持ちでヴォルフを見つめた。
「君への依頼は、その娘を解放することだ。それは私の望みでもある。必ず引き受けてくれたまえ」
黒肌の上に衣装をまとった狼少女が満足げに頷く。ヴォルフの要望通り、衣装は踊り子風ではなく、軽装の冒険者のようになった。
ヘソから上下を分けたセパレートの布地を、革製のベルトで上から固定する形状。胸の谷間で挟むように通った革ベルトは胸の下を支え、逆さT字で胴を回り、首元のチョーカーに固定されている。胸の谷間を横断する都合上、形の良い乳の輪郭が強調される形だがきっちりとインナーで覆っているので許容範囲だろう。首や腕、足首にも革ベルトが巻かれていて拘束具を彷彿とさせるデザインだ。大胆だが洒落もので通せる範囲ではある。
まぶしい腋を出し、ヘソを晒し、太ももを見せびらかす露出の多さに目を瞑ればだが。健全か性的かで言ったら限りなく性的だ。破けた外套よりはマシと思う他ない。
「大変似合っておいでですよ」
「おう! 当たり前だな!」
「……」
店員はべた褒め、少女は得意げだ。水を差せば後が面倒くさいので流すことを決めたヴォルフだった。少女は少女でヴォルフの反応など気にもしてない。『似合うだろ?』なんて言われようものなら口が勝手に皮肉を吐きそうなのでありがたい限りである。
「俺にはこれを売ってくれ。金はこいつで」
目星をつけていた新品の外套を見せながら追加で金貨を並べる。すると店員は困ったように眉根をひそめた。
「失礼ながらお客さま。こんなに頂くことはできません。せめて半分で……」
「なら情報を売ってくれ」
店員の言葉に被せ、ヴォルフはカウンターに肘をついて身を乗り出す。
「さっきの妙なやつ、ノエルと言ったな。あいつについて教えて欲しい」
「ノエル様ですか?」
キョトンと目を瞬かせ、店員は応じる。
「特別なことは何も存じ上げません。劇場で座長をなさっていて、衣装や布類をよく注文いただいています」
「劇場?」
こんな街に劇場があるのか?とヴォルフは驚いた。
「私ごときに聞くまでもなく、この街にいれば誰でも耳にしますよ。中央通りの大劇場──アンデッドフールの座長と言えば聞かない者はいないでしょう」
「……そうか」
店員は取り立てて特異なことを言っている風ではない。至極当たり前のことを喋っている様子だ。
その事実こそがヴォルフの不安を煽った。
(アンデッドフール……死にぞこないの愚か者? 死者の馬鹿騒ぎ? ふざけた名前だ)
劇場の名前は特別おかしくはない。大衆へ迎合する集団に煽り立てる名前は珍しくもないからだ。ただそれは、普通の都市ならばの話である。
(ここは宗教都市だろう。なぜ芸人がいて劇場がある)
教会と相反する刹那的な文化。教義をあざ笑うかのような名前の劇場。そんなものが当然に存在する理由。そこから導き出せる答えは……。
「おい」
ヴォルフの思考を遮って、少女が険のある声をあげた。
「オレの前で他の女の話かよ。いい度胸じゃねえか?」
「は?」
なにをバカなと鼻で笑う。そんな色気ある話などでは決してない。だがヴォルフの余裕とは裏腹に少女の様子は妙な具合だ。
「お前なあ、……っ!?」
何事かを言いかけた少女は、不意に、ヴォルフの右手を掴んで引き寄せた。掴んだ手に鼻を寄せ、ハスハスと匂いを嗅ぎ出す。興奮のせいか鼻息がひどく湿っぽい。
「お、おい」
店員も驚きに目を丸くしていた。荒い鼻息はこしょばゆく、手を嗅がれているのを見られているのも恥ずかしい。だが少女は周囲の反応など気にも留めず、あろうことか、ざらりとした舌で手のひらをベロリとひと舐めした。
「な」
なにしやがる、という罵倒は、次に襲ってきた感覚にかき消される。
「っつぁ!?」
熱い。
痒さやくすぐったさよりも、舌で舐められたどの感覚よりも。それらの後を追ってきた、灼けるような熱がすべてを塗り潰す。血の勢いが増し、手の平の血管がドクドクと脈打つのを感じる。まるで灼けた鉄具を掴んでしまった時のような。しかし、不思議と痛みは感じない。"熱い"という感覚だけが鮮烈に襲ってくる。
「お、お客さま!?」
「ぅぐ!」
狼狽する店員を気に掛ける余裕もなくヴォルフは悶えた。手を掴んだままの少女を苦悶の表情で睨みつける。
少女の方はというと、ヴォルフの様子など歯牙にもかけず、じっと手のひらを観察している。
「――消えねえ……!」
そう呟いてパっと手を離す。
「くそがっ……!」
吐き捨てるように呟き、全身の毛を逆立てた憤怒の表情で店を出て行ってしまった。呆気にとられながらヴォルフが自分の手のひらを見ると、何やら緑色の印が浮かんでいるのが見える。
(なんだ……この模様……?)
眼をデフォルメしたような不気味な造形だったが、瞬きをする間に消えてしまう。呆然とするが最優先事項を思い出した。
この街で少女をひとりにするのだけは絶対にマズい。慌てて手荷物を握る。
「釣りは要らん、邪魔したな」
引き留めようとする店員の声を無視して一方的に告げ、ヴォルフも店を飛び出した。
店を出てすぐ、大通りに向けてずんずん歩く少女の背中に慌てて走り寄る。
「おい! 止まれ!」
声を掛けるが少女は足を止めない。ヴォルフは購入した外套を羽織りながら走り、その横に追い付いた。
「どうした急に。どこに行く気だ」
手を握ろうとするがすげなく振り払われる。どうやら相当にご立腹の様子だ。
「てめえに印をつけた女をぶっころす! オレのもんに手を出したらどうなるか思い知らせてやんだよ!」
「印? さっきのか?」
質問は無視して少女は鼻をひくつかせる。眼を瞑り首を振って何かを探す素振りをしたが、煩わしそうに鼻柱を拭った。
「ちっ! 匂いが混ざって分かりづれえ、どこ行きやがった。――っあー! つかよぉ!」
苛立ちそのまま、ギっとヴォルフをにらみつける少女。その迫力にたじろぐ耳に信じられない言葉が入ってきた。
「ここのどこが魔物ご法度だってんだよ! そこら中からメスの匂いがしやがるじゃねえか!」
「……なに?」
我が耳を疑う。咀嚼しても呑み込めず、次の言葉が出てこない。
「踊ってた女ども! さっきの店のやつ! てめえにマーキングしやがったクソアマ! 見かける女のどいつもこいつも魔物の匂いをぷんぷんさせてやがる! てめえが魔物はいねえっつったんだ! 適当こきやがってこのクソバカ野郎!」
少女は言葉に怒りを乗せて叫ぶ。噛みつかんばかりに口を開いて唾を飛ばす剣幕に、しかしヴォルフはひと呼吸置いて頷いた。
内心頭を抱えるが、一方で、街に入ってから胸につかえていた違和感にようやく答えが示されたと納得する気持ちもあった。足下が揺らぎかけるもまだ耐えられる。
「表向きは宗教都市の体裁を保っているが、既に堕とされていた、ということか
……」
煽情的な格好で人前に出る旅芸人たちがいて、下世話な名前の劇場が広く知られている実状。そして少女の言い分を信じるなら、街の至る所に人間に扮した魔物がいる。
これは主神教会が正常に機能していない証拠だ。街の住人に知れ渡っているかは分からないが、もはや支配権はすげ替わっていると言える。魔物側が教会の意向を飲み込むかは知らないが、逆は絶対にあり得ないのだから。
(暢気に依頼を受けてはいられないかもな、何を要求されるか分かったもんじゃない)
今いる路地を出た先の大通りから入ってきた門まではさほど遠くない、日が落ちる前に街を離れることも可能だろう。ヴォルフは深呼吸をし、頭を切り替える。事態は一刻を争うかも知れないのだ。
「まずここを離れるぞ」
道筋を思い出し先ほどの市場まで引き返そうとする。しかし少女は動こうとしなかった。
「どうした。悪いが今日のベッドはお預けだ」
事態は急を要する。ここでひと晩を明かすわけにはいかない、陽が落ちる前にとにかく遠くへ、街道から一番近い宿屋は……と次の次へと算段を立てるヴォルフだったが。
「いやだね。クソアマにお前の手の印を消させる、それまでここは出ねえ!」
「何言ってんだ。こんなもんどこかで祓ってもらえばいいだろ。術者と距離を置けば勝手に剥がれる可能性もある」
魔術にはあまり詳しくないヴォルフだが、対抗手段に覚えがないわけではない。少なくとも身体に変調はないのだ、急いでどうにかする必要はないように思えた。
だが少女の考えは違った。
「それで消えなかったらどうすんだ!? お前はオレのもんだ! 他の女の印なんか絶対に残さねえ! 絶対にだ!」
内側からあふれ出る激情が瞳から火花になって弾け出てくる。行き場を無くして滞留した感情が、目の前の獲物に向けられた。
「てめえは俺のもんだってさんざん言ったよなぁ……まだ分かってねえってか?……なぁ?……」
地を踏みしめていた脚がゆぅらりと足下から脱力する。瞬間、ヴォルフの直感が回避を告げた。あれは予兆だ。
「消さねえってんならよ──肉ごと噛みちぎってやるよ!」
「ッ!?」
爆ぜるような音と共に、弧を描く跳躍で掴みかかってきた少女を屈んで紙一重で躱す。さっきから情緒がメチャクチャだ、よほどの地雷を踏んでいるらしい。
「まて、やめろ!」
慌てて裏通りへと引き返す。表で騒いでいたら誰かが衛兵を呼んでしまうだろう。逃走ルートを絞らない位置取りを意識して、全身の神経を張り詰める。
ぐるると低く唸って威嚇してくる獣へ必死で声を掛けた。
「分かった! お前の言い分は分かった!」
「うるせえ! その口から黙らせてやる!」
下手な声かけは逆効果だ。
頭を回転させ次の言葉を考えるが、こうまで興奮してしまった少女を落ち着かせる方法はひとつしか浮かばなかった。もうどうにでもなれとばかりにヴォルフは続ける。
「さっきの女がいる場所は分かってる! まずそこに行くぞ!」
「っ!? どこだ! 言え!」
「俺と一緒にだ! 間違っても先に行くなよ!」
乱暴されても居場所は吐かないと、何とか少女を宥めすかせる。場所が割れていると分かるやそちらに意識が向くあたり、怒りは印をつけた相手そのものに飛んでいると言えるだろう。
(どうか拗れないでくれ……)
ヴォルフの祈りは虚しく宙を漂った。
○
ノエルが指していた店は既にヴォルフの目に留まっていた。
市場から歩いて来たとき、ひと際大きな人混みを作っていた大衆食堂が目についたのだ。大通りの角という見晴らしの良い立地なら盛況な店はよく目立つ。
昼時のこの時間、店内から溢れて店外にも用意された席まですべて埋まっている様子だった。目的が目的なので、律儀に並んで食べる気はないため客の顔だけ物色してうろつく。
店内に収まらずテーブルだけ出された外にはおらず、店中にもそれらしい人物は見当たらない。あれほど目立つ格好だからすぐに見つかると踏んでいたのだが、もしや別の店に行ったのだろうか。
(こいつの我慢も限界……いや、匂いにやられて涎を垂らしてやがる。飯を奢れば機嫌直しそうだな)
少女の行動原理がシンプルで助かった。
いっそ列に並んでしまおうかと思ったヴォルフだったが、不意に少女が弾かれたように首を動かす。視線を追うと、店の2階から手を振っている女がいた。
「やあ! また会ったね!」
ノエルと名乗った女だった。シルクハットを脱いで派手な髪色を晒している。
あいつだ、とヴォルフが告げるまでもなく。
「てんめぇぇえええ!!」
ダダダ、と階段すら使わず壁を一息に駆け上った少女がノエルに肉薄する。
しまった、とヴォルフが後悔する間もなく少女の腕がノエルに伸び、ノエルは急に接近して来た少女に目を丸くしていて為す術なくもつれ合った。
「っうわあああ!?」
ドンガラがっしゃんと食器の割れる音と悲鳴だけが聞こえた。1階からは様子が分からない。慌てて階段を探し、カウンターの横、物音に固まった店員の後ろにそれを見つけた。
ヴォルフは身をかがめて人波を縫うように走り寄り、階段を一気に駆け上がる。途中、貸切中と縄が張ってあったが無視して潜り抜けた。
昇った2階は1階の混み具合とは無縁の場所だった。広々としたスペースがあるのはテーブルがひとつしか置いていないからで、1階にあるような安っぽい家具ではなく見るからに高級で重厚な家具で固められていた。まさに貴賓席という風情である。
そしてノエルはその床に転がされていた。上に乗って抑え込んでいるのは狼少女だ。他に人は居ない。弁明する意味ではシンプルな話になったと胸をなで下ろすヴォルフだった。
「おい、離してやれ。話が拗れそうだ」
「うるせぇ! コイツはぜってえ許さねえ! 人のもんに手え出しやがってよぉ!」
「すまない、悪気はなかったんだ。よもやこうも繋がりが強いとは……そうだ」
少女に敵愾心を向けられ関節をバッチリ極められているノエルだが、痛がる素振りはまるで見せていない。むしろ空いた隙間で器用に腰を浮かして何やらカチャカチャと金具をいじくる音が聞こえてくる。
「アヌスを差し出すから気が済むまで叩くかほじくるかして罰を与えてはくれまいか。遠慮はしないで良いよ、いつも使っているからね……ああ……すまない、いやしい興奮は抑えきれないが気にしないでくれ♥」
両手を塞がれているのに何故かシュルシュルとズボンがずり下がっていく。何故か下着は穿いておらず、つるりとした白い下半身が突如として露わになり、あまりの事態に少女とヴォルフは揃って固まるしかない。再びの邂逅は訳が分からない事態になった。
○
「私はノエル・フェルディア。劇団で座長を務めている。それとこの店のパトロンでね、すっかり味の虜になっているんだ。今日は好きなだけ奢らせてくれ、食料庫を空にしても構わないよ」
仕切り直して。
ノエルが一声かけると、階下からどんどん料理が運ばれてきた。
焼き物揚げ物煮物蒸し物。多様な料理の中でもサンドイッチは実に絶品だった。香ばしく焼き上げたパンに切れ目を入れ、ふわふわに炒ったタマゴと絶妙な塩加減のハム、シャッキリと瑞々しい野菜、まろやかなチーズにピリリとアクセントを効かせたマスタードを挟み込んでいる。すべてが調和していて美しさすら感じた。
少女はと言えば、怒りはすっかり収まって、運ばれてくる料理の数々を満面の笑みで平らげていた。
(単純なやつだな)
呆れながらもヴォルフ自身、美味い料理が食い放題という状況に嬉しくないと言ったら嘘になる。遠慮など欠片もなしにがっつく少女を満足げに眺めながら、ノエルは続ける。
「先ほどはすまなかったね、事情も察せずに勝手なことをしてしまって。ヴォルフくんにつけた印は綺麗さっぱり消させてもらったよ」
「気味の悪いことをされたのはそうだが……こちらも一方的に殴りかかったからな。おあいこだろ」
「もが?」
口いっぱいに頬張りながら間抜け面をさらす少女に「いいから食ってろ」と促す。少女が食事に夢中な内に話を進めておきたい。
「ありがとう。おあいこついでに、君の依頼について話をさせてくれないか」
「……何?」
妙なことを言われ、ヴォルフは首を傾げた。
「俺の依頼内容を知ってるのか?」
「とぼけることはないよ。君はもう、ここが普通の街じゃあないと気づいてるだろう」
「っ!」
とぼけたつもりはなかった。だがその口ぶりにヴォルフは思い至る。
始まりは主神教徒からの依頼。訪れた宗教都市は表向きの姿だけで実態は魔物の蔓延る魔都市だった。それらの操り糸がこの女に繋がっているというのなら。
「お前がここの支配者なのか?」
「頭の回転が速いね。ただ支配者は飛躍しすぎだ、私はチケットを買えずに立ち往生している一人の観客に過ぎないよ」
「つまり?」
「そのままの意味さ。この街は真の意味で開放されていない。大司教の祈りは力強く、主神の祝福は我々に重い枷をつけている。私たちは心を閉じてしまっている大司教には手が出せない」
ノエルは言う。大司教が健在である限り、自分を含めた魔物たちが本領を発揮することはできないと。それがこの都市の今の姿なのだ。
「信仰心がとびきり高いんだろう。例えば勇者のような、前向きに発揮される力であれば向き先を変えて堕落させることは可能だ。しかし大司教のような、内向きに守り維持する力に立ち向かうのは容易じゃない。そして大司教には心に決めた女性がいる。これがいちばん厄介で、唯一の突破口になり得る。それこそが、大司教の一人娘」
ひと息吐き、ノエルは真剣な面持ちでヴォルフを見つめた。
「君への依頼は、その娘を解放することだ。それは私の望みでもある。必ず引き受けてくれたまえ」
24/08/14 23:16更新 / カイワレ大根
戻る
次へ