その1 - 土曜日 -
休日の目覚めは最悪だった。
設定を間違えていたらしい携帯のアラームがガンガンと脳を揺さぶり、頭が内側から破裂しそうなほど痛い。顔をくしゃくしゃに歪めて身体を起こした俺は、がなり立てるアラームを乱暴に切った。耳障りな音は消えたが気分の悪さは消えてくれず、二度寝は諦めてのそのそと身体を起こす。向かう先は洗面所だ。
鏡の中の男は実に血色の悪い面をしていた。明らかな二日酔いである。
昨晩はプロジェクト成功の打ち上げだった。気の置けない同期同士の席は実に気楽で、久々のアルコールも美味過ぎて堪らず、注がれるままに飲み干したアホが俺だ。
何事かをやらかしちゃいないかと昨晩の記憶を探るも、全然思い出せない。まあ、野郎共で飲んでいただけだし、何かあっても笑い話で済むだろう。
「にしたって、記憶が飛んでるのはやりすぎだ……」
見れば、スーツのまま寝ていた。家に帰りつくやベッドにダイブしたらしい。我ながらズボラ過ぎる振る舞いに苦笑するしかない。
ふと思い立ってポケットの財布を広げてみると、諭吉さんはまだご存命であった。最後に数えた時と変わりなく、大きな散財まではしてないようだ。ひとまず安心し、冷たい水で顔を濡らし、ついでに喉も潤した。寝起きの水は効果てき面で、眠気も頭痛も流れ落ちていく。
その時。
洗面所に向かって俯いていた俺の横で、風呂場へのドアがカチャンと開いた。締まりが悪くなったか、とさして気にも止めずタオルで顔を拭う。視界を覆った俺の手を湿気のともなった空気が撫でた。ついで香る、甘ったるい匂い。
はて、昨日風呂でも沸かしたかしらんと顔を上げた俺の視界に……全裸女子が映り込んできた。
その時の俺の心情を何と言えばよいだろう。
呆然、驚愕、興奮の流れが適切か。
突如発生したラッキースケベに俺の思考は停止し、見知らぬ侵入者に危機感が湧いて出て、その開放的な出で立ちに「俺の出番か」と愚息が膝を上げた。お前じゃねえ座ってろ。
女との付き合いが長いことご無沙汰だったためか、懐かしさすら覚えるほど華やかな香りが暴力的なまでに訴えかけてくる。この光景が夢でないことを。ならここで俺が取るべき行動は決まっている。
「でゅ、どなたですか?」
どもった。
女子のマッパを目の前にして思わずにやけた口元が邪魔しやがった。言い直せただけ良しとしたい。
俺の問いかけに対し、少女はどこか焦点の遠い目でパチパチと瞬きで応えた。傾げた頭、ショートヘアの毛先から水が滴る。淡い紫の髪は染めているのか疑わしいほど自然な色合いで、メッシュというのだったか、ところどころは銀白色になっている。
しっとりと柔らかい光沢を放つ素肌は見るからにきめ細かく美しい。いっそ神々しい。だのにきょとんと間の抜けた顔が実に、実に、
(すっげえ可愛い)
いやいやそうじゃなくて。きょとんとしたいのはこっちだっつーの。
「泥棒にしてはなんか、堂々としてるしさ。ひょっとして部屋を間違えたんじゃないすか?」
俺が間違えた可能性も頭をよぎったが、洗面所に無造作に置かれたリネングッズから見て俺の部屋で間違いない。つまり珍入者はこの少女で決まりだ。こんな目立つ子が近くに住んでたら嫌でも目につくだろうけど、今はどうでもいい。
「えっと、ほら。タオルは貸しますから。パっと着替えちゃってください」
俺は引き出しからタオルを引っ張り出すと、ぼんやりと佇む少女に押しつけた。恥ずかしくて顔が見れないから胸を見るしかなかったけど仕方ないよね。スレンダーでも主張はバッチリ桜色。
速やかに洗面所から撤収して後ろ手に扉を閉じる。我ながら惚れ惚れするほど冷静な対応っぷり。この紳士をして、誰が痴漢と呼べようか。
大丈夫だよね? 裸見られたとか、無理矢理家に連れ込まれたとかで訴えられないよね? むしろそっち系の押し込み強盗とかだったらどうしよう。今頃は怖いお兄さんが玄関前でスタンバってるとか……。
(――やばい!)
妙にリアルな想像に、背筋を寒いものが伝った。慌てて玄関へ駆け寄りドアノブにかじりつく。戸締まりはバッチリだった。
(……あれ、おかしいな。ドア閉まってんのになんで、)
「ねえ」
突然掛けられた声に振り向くと、何ということでしょう。タオルを肩に引っかけただけのやけに男らしいスタイルで、先の女子が突っ立っていた。下着すらつけてない! なのに垂れてない! 思わず二度見しちゃう。
「ドライヤー。どこにあるのかな」
「どドライヤーすか? ちちょっと待っつね?」
噛み噛みだよもう。なんなのこの子、堂々とし過ぎでしょ。もはやどちらがアウェーか分からないよ。
言われるまま、台所レンジの横に引っかけてあるドライヤーを渡した。洗面所には手頃なコンセントがないので、仕方なくこの場所に置いているのだ。
少女はおもむろに髪を乾かし始める。こうして見ると男と女の違いがよく分かるね。さらっさらだわ。
ぽけーっと見惚れていたのだが少女は気にもしない様子である。髪をかき上げながら大きなあくび、目尻に涙なんか溜めちゃって。色気あふれる外見の隙だらけな姿に、抗いようもなくドキドキする。ドライヤーの風で揺れるタオルからちらちら覗く桜色にもドキドキする。
「ねえ」
「え?」
いかん、流石に見過ぎたか。
しかし少女は顔をしかめるどころか、至極どうでも良さげだった。
「朝ご飯、どうするの。冷蔵庫に何もないけど」
「あー、このところ買い物行ってないから……。まあ、外で食うよ」
「ん。少し待って。支度する」
「へ? あ、うん?」
言って、少女はドライヤーを俺に押しつけると、洗面所兼脱衣所に引っ込んでいった。あれ、すごく間違ってる気がするんですけど……。出ていくのが普通じゃないの?
唖然と立ち尽くす俺。どうにも事態が飲み込めない。むしろこんな事態を飲み込める奴の方が異常だろう。
しかし得体の知れない少女を置いて家を出るわけにもいかず、適当な外出着に着替え直した俺は律儀にも玄関前で待機することにした。返事しちゃったしね……。
幸運なことに、外を窺っても怖いお兄さんは見当たらなかった。そもそも家を押さえられてる時点で詰んでる気がしないでもないが、深く考えたって答えなんて出ない。こういうのはあれこれ気を回すのではなく、要所を押さえればいいのだ。
(財布は固く。勧誘はお断り)
決意を新たにしていると扉が開いた。
そこから現れたのは、見目麗しい美少女だ。
カチっとしたホワイトシャツにタイトなチノクロスのパンツルック、透けるような水色のカーディガンを羽織っている。頭にはキャスケット帽をのせ、目立つ色合いの紫髪を隠しているようにも見えた。
何というか。大人と子供が同居したような絶妙なバランスだ。首もとで切りそろえられた髪は(風呂上がりだから)濡れたように艶やかで、(風呂上がりだから)ほんのり赤く染まった頬はドキムネものだった。リップでも塗ったのか唇もつやつやだ。
そして何より。膝からくるぶしに掛けて白く艶めくおみ足! 思わず拝みたくなる。
「おまたせ」
「お、おう」
舐めるように視線を上下してしまったが彼女はどこ吹く風である。情けなく目線を散らす俺の脇をするりと抜けて、外へ出て行ってしまった。
そのまま帰るのかと、安堵半分寂しさ半分な心情が湧いて出たが、彼女は玄関を開けた廊下の先にちょこんと佇んでいた。
ちらりとこちらを窺う仕草が、はっきり言って、めっちゃ可愛い。ヤバい。
俺の不安は霧散しつつあった。
男ってほんとバカ。
○
よいごしの おんな ?
○
酔って帰って寝て起きたら美少女が風呂に入ってました。
文面だけなぞったら色々とこじらせた男の妄想そのものだが、どういうわけだか現実らしいということをようやく飲み込みつつある俺だった。だってその美少女がすぐ後ろをついてくるのだもの。
あちこちに興味深そうな視線を向けつつ、時折俺の背中に近づいたり離れたり。大人びた雰囲気から覗く子供っぽい仕草に、人知れず笑みを浮かべる俺。きもい。どう見たって不審者、他人に見られようものなら通報待ったなしである。
正直に告白しよう。
俺はこの状況に喜びを感じている。
なにせ美少女、なによりも美少女である。例え原因が何であれ、美少女とお近づきになって嬉しくない男などいない。断言する。美少女よ永遠なれ。
ゆえに俺は彼女がついてくることに何も言わずにいた。距離を置くかどうかは状況を把握してからでも遅くない筈だ。
そう、この意味不明な状況にも原因はある。それを思い出せないことには、俺は彼女との接し方が掴めないままだ。まずはそこをきっちり理解しなくては。
なので朝飯の場というのは丁度良い。とりあえず間は持つし、予想以上にヤバかったらそのままおさらばだ。周囲の目をそれなりに意識させる場所なのがミソである。
念の為、朝飯は俺が今まで行ったことのない店でとることにした。知り合いに見られるのは嫌だし、俺の生活圏を把握されるのはマズいと考えたからだ。いや、家を知られてるのに生活圏も何もありませんが。ささやかな抵抗ってやつです。
通りを二つほど跨いだ先、十字路に見えた適当な喫茶店に入り、モーニングを注文する。彼女はホットケーキと紅茶のセット、俺はスクランブルエッグとソーセージ、トーストにコーヒーのセット。ザ・モーニングって感じだ。ついでにツナサラダも頼み、それをつつきながら話を切り出すことにした。
店内の奥まった席。店員の視界から隠れるようにして座る。
「あの、さ。俺はまず状況を把握したいんだけど。……質問いいかな?」
「うん。私からも訊きたいことあるし」
応じる言葉にドキリとしたが、ここで挫けてはいけない。努めて冷静に。
「んじゃ、交互にいこうか。俺たち、どこで会ったの?」
「昨日の晩。ひどく酔っぱらった君が話し掛けてきて、素敵な言葉で口説いてくれて、面白い人だなぁって」
そこまで言って、少女は俺の顔をじっと見つめる。
「もしかしなくても、その様子じゃ覚えてないか」
「……はい」
うなだれるしかなかった。
(マジかよ俺)
予想しないでもなかったが。酔った勢いで連れ込みとか、盛大にやらかしてる。あくまでこの子の言葉を信じるならだが。しかし先に言ってべき言葉はある。
「ごめん。怖かったろ」
「全然? むしろ嬉しかった。人肌恋しかったし」
ノーモーションの切り返しにたまらず突っ伏す。なんて直球な表現するのこの子。っつーかこれって俺まさか、
「次は私」
「あ、はい。どうぞ」
「いま付き合っている女の子はいる?」
「へあ!?」
まったく予想だにしなかった質問に、M78星雲出身の宇宙人みたいな声が出た。
狼狽する俺に彼女は身を乗り出す勢いで重ねてくる。
「彼女。いるの? いないの?」
「い、ない、けど」
「そう。良かった」
なぜ頷くのそこで。やめてよ勘違いしちゃうでしょ。
いかん、脳がヒートアップする前に仕切り直さねば。
「おお俺の質問だけどさ、あれだ、俺の方にそんな感じはないから言うんだけど、昨日は何事もなく済んだ感じでいいんでしょうね?」
焦って言ってから気がつく。これって最低な質問じゃねえか。相手から行為の有無を言わせるとかバカなの?
普通なら渋面必至、最悪ビンタが飛ぶかと思われる質問であったが、なんと彼女はケロっとしていた。
「君は帰り着くなり寝こけてた。余程疲れてたのかな、起きる様子がなかったから私もご一緒させてもらったけど」
「……あー」
もう色々情けなかった。酔って、口説いて、連れ込んで、寝落ち……。甲斐性なしの見本市じゃねえか。嘘かどうか追求しようかという気概がみるみる萎えていく。詳細を思い出してしまったら恥ずか死ぬ恐れがあった。下手に追求できない。
とりあえず、"ご一緒"のところは聞かなかったことにした。
「次は私。君の名前は?」
「……北上です」
「キタガミ、キタガミね。うん、覚えた」
なんだか奇妙なイントネーションだった。顔立ちからして少し日本人離れしているし、もしかして外国人なのだろうか。まあ聞いたところでなんだという話だが。
「私はカオル。偽名だけど」
「偽名かい」
思わず突っ込む。いや、名乗られたところで本名かどうか分からんけど、俺ってば思わず本名出しちゃったよ。
「信頼はゆっくり築いていくものだから」
歯の浮くようなセリフ、しかし冗談を言った風ではない。そんな言葉が妙に様になっているのは感情の起伏が読めないせいだろうか。見た目の割に落ち着いているようだが……流石に年齢を訊くのは躊躇われる。
店員の動く気配がした。そろそろ料理が運ばれてきそうだ。
「質問は終わり?」
「……はい」
凹み気味な俺に対し、彼女は「そっか」とだけ、これまた判断に困る表情で頷くだけだった。
○
こいの かけひき ?
○
質問が途切れ、何だかよく分からない空間になったまま、俺と彼女は運ばれてきた料理に手をつけた。普通に旨かった。適当に選んだ店の割には当たりを引いたと言える。
食事の間はお互いに無言だ。黙々と食べ終え、会計を済まし、店を出る。会計は俺持ちだった。かっこつけでも何でもなく、彼女が手荷物を置き忘れていたのだ。俺の家に。
そう。
なし崩し的に解散だろうとぼんやり考えていた俺の予測は外れ、ひとまず家に戻る運びとなっていた。これは俺にとってチャンスなのか、判断しかねる状況である。
だってそうだろ? 酔って口説いて連れ込んだ女の子に対し、俺は何かを要求できる立場ではないのだ。彼女の方から何かしら意志を示さない限り、俺が好き勝手にどうこうしていいわけがない。
断じて、ビビってるのではなく。
立場をわきまえているのである。
「彼女いる?」なんてあからさまなアプローチがあったような気もするが、連れ込みを考慮すると、自分に責が及ばないかを確認していたとも受け取れる。むしろそっちのがあり得る。
そんなことを考えながら、ついに玄関前まで来てしまった。とりあえずの凌ぎにと必死で頭を回していた、当たり障りのない会話が途切れる。
「……」
背後の気配。どこまでもミステリアスな彼女は、じっと俺の背中に視線を注いでいる。
ここで俺はなんというべきか。常識的に言えば、
「財布取ってくるね」
とでも言ってひとりで中に入るべきだろう。そうしてドア越しに手渡しして、さよならと手を振る。実に現実的。しかしここで、
「コーヒーでもお代わりしてく?」
とでもぬかしてプレイボーイを気取るのもありな気がする。そこから先の展開は想像もつかないが、およそ理想的だ。いや、家にコーヒーは置いてませんけど。ココアならある。
まあ、先の考えからして理想案は却下なのだが。
(恥の上塗りっていうんだよな、こういうの)
毒を食らわば皿まで、なんて開き直った真似などできる度胸はないし、情けない真似を重ねるわけにはいかない。
今朝の甘たるい香りがどこからか漂ってきた。キンモクセイとは違うが、いやにクセのある、鼻に残る香りだ。人口の香りにはない、一面の土と緑を彷彿とさせる、脳を埋め尽くすような力強さ。まるで吸い込んだ内側から全身に浸透していくかのようだ。
嗅覚はイメージ記憶と繋がりが深いという。カオルの白い肌、滑らかな曲線美がフラッシュバックする。急速に体温が高まり、脈を強めた心臓から吐き出された血が、下腹部に、集まって、
「っはー……」
ちがう。落ちつけ。そうじゃない。責任ある大人だ俺は。無責任な真似なんて、何より自分が許せない。
ひやりと冷たいドアノブに手を掛けた。手の平との温度差に、湯だった意識が冷えていくのを感じる。そうだ、大丈夫。中に入って、財布をとって、それで、
「コーヒー飲んでいっていい?」
コーヒー? いや、コーヒーは飲まない。コーヒーは飲まないから、
「ココアなら、あるけど」
「それでいいよ」
ドアノブを引き、扉を開ける。開いた隙間から滑り込むようにして、カオルは中に入って行った。俺も彼女に続いて後ろ手にドアを閉める。
(あれ。なんで中に入れてんだ、俺)
靴を脱ぐ彼女の背中を、俺は茫然と眺めていた。
設定を間違えていたらしい携帯のアラームがガンガンと脳を揺さぶり、頭が内側から破裂しそうなほど痛い。顔をくしゃくしゃに歪めて身体を起こした俺は、がなり立てるアラームを乱暴に切った。耳障りな音は消えたが気分の悪さは消えてくれず、二度寝は諦めてのそのそと身体を起こす。向かう先は洗面所だ。
鏡の中の男は実に血色の悪い面をしていた。明らかな二日酔いである。
昨晩はプロジェクト成功の打ち上げだった。気の置けない同期同士の席は実に気楽で、久々のアルコールも美味過ぎて堪らず、注がれるままに飲み干したアホが俺だ。
何事かをやらかしちゃいないかと昨晩の記憶を探るも、全然思い出せない。まあ、野郎共で飲んでいただけだし、何かあっても笑い話で済むだろう。
「にしたって、記憶が飛んでるのはやりすぎだ……」
見れば、スーツのまま寝ていた。家に帰りつくやベッドにダイブしたらしい。我ながらズボラ過ぎる振る舞いに苦笑するしかない。
ふと思い立ってポケットの財布を広げてみると、諭吉さんはまだご存命であった。最後に数えた時と変わりなく、大きな散財まではしてないようだ。ひとまず安心し、冷たい水で顔を濡らし、ついでに喉も潤した。寝起きの水は効果てき面で、眠気も頭痛も流れ落ちていく。
その時。
洗面所に向かって俯いていた俺の横で、風呂場へのドアがカチャンと開いた。締まりが悪くなったか、とさして気にも止めずタオルで顔を拭う。視界を覆った俺の手を湿気のともなった空気が撫でた。ついで香る、甘ったるい匂い。
はて、昨日風呂でも沸かしたかしらんと顔を上げた俺の視界に……全裸女子が映り込んできた。
その時の俺の心情を何と言えばよいだろう。
呆然、驚愕、興奮の流れが適切か。
突如発生したラッキースケベに俺の思考は停止し、見知らぬ侵入者に危機感が湧いて出て、その開放的な出で立ちに「俺の出番か」と愚息が膝を上げた。お前じゃねえ座ってろ。
女との付き合いが長いことご無沙汰だったためか、懐かしさすら覚えるほど華やかな香りが暴力的なまでに訴えかけてくる。この光景が夢でないことを。ならここで俺が取るべき行動は決まっている。
「でゅ、どなたですか?」
どもった。
女子のマッパを目の前にして思わずにやけた口元が邪魔しやがった。言い直せただけ良しとしたい。
俺の問いかけに対し、少女はどこか焦点の遠い目でパチパチと瞬きで応えた。傾げた頭、ショートヘアの毛先から水が滴る。淡い紫の髪は染めているのか疑わしいほど自然な色合いで、メッシュというのだったか、ところどころは銀白色になっている。
しっとりと柔らかい光沢を放つ素肌は見るからにきめ細かく美しい。いっそ神々しい。だのにきょとんと間の抜けた顔が実に、実に、
(すっげえ可愛い)
いやいやそうじゃなくて。きょとんとしたいのはこっちだっつーの。
「泥棒にしてはなんか、堂々としてるしさ。ひょっとして部屋を間違えたんじゃないすか?」
俺が間違えた可能性も頭をよぎったが、洗面所に無造作に置かれたリネングッズから見て俺の部屋で間違いない。つまり珍入者はこの少女で決まりだ。こんな目立つ子が近くに住んでたら嫌でも目につくだろうけど、今はどうでもいい。
「えっと、ほら。タオルは貸しますから。パっと着替えちゃってください」
俺は引き出しからタオルを引っ張り出すと、ぼんやりと佇む少女に押しつけた。恥ずかしくて顔が見れないから胸を見るしかなかったけど仕方ないよね。スレンダーでも主張はバッチリ桜色。
速やかに洗面所から撤収して後ろ手に扉を閉じる。我ながら惚れ惚れするほど冷静な対応っぷり。この紳士をして、誰が痴漢と呼べようか。
大丈夫だよね? 裸見られたとか、無理矢理家に連れ込まれたとかで訴えられないよね? むしろそっち系の押し込み強盗とかだったらどうしよう。今頃は怖いお兄さんが玄関前でスタンバってるとか……。
(――やばい!)
妙にリアルな想像に、背筋を寒いものが伝った。慌てて玄関へ駆け寄りドアノブにかじりつく。戸締まりはバッチリだった。
(……あれ、おかしいな。ドア閉まってんのになんで、)
「ねえ」
突然掛けられた声に振り向くと、何ということでしょう。タオルを肩に引っかけただけのやけに男らしいスタイルで、先の女子が突っ立っていた。下着すらつけてない! なのに垂れてない! 思わず二度見しちゃう。
「ドライヤー。どこにあるのかな」
「どドライヤーすか? ちちょっと待っつね?」
噛み噛みだよもう。なんなのこの子、堂々とし過ぎでしょ。もはやどちらがアウェーか分からないよ。
言われるまま、台所レンジの横に引っかけてあるドライヤーを渡した。洗面所には手頃なコンセントがないので、仕方なくこの場所に置いているのだ。
少女はおもむろに髪を乾かし始める。こうして見ると男と女の違いがよく分かるね。さらっさらだわ。
ぽけーっと見惚れていたのだが少女は気にもしない様子である。髪をかき上げながら大きなあくび、目尻に涙なんか溜めちゃって。色気あふれる外見の隙だらけな姿に、抗いようもなくドキドキする。ドライヤーの風で揺れるタオルからちらちら覗く桜色にもドキドキする。
「ねえ」
「え?」
いかん、流石に見過ぎたか。
しかし少女は顔をしかめるどころか、至極どうでも良さげだった。
「朝ご飯、どうするの。冷蔵庫に何もないけど」
「あー、このところ買い物行ってないから……。まあ、外で食うよ」
「ん。少し待って。支度する」
「へ? あ、うん?」
言って、少女はドライヤーを俺に押しつけると、洗面所兼脱衣所に引っ込んでいった。あれ、すごく間違ってる気がするんですけど……。出ていくのが普通じゃないの?
唖然と立ち尽くす俺。どうにも事態が飲み込めない。むしろこんな事態を飲み込める奴の方が異常だろう。
しかし得体の知れない少女を置いて家を出るわけにもいかず、適当な外出着に着替え直した俺は律儀にも玄関前で待機することにした。返事しちゃったしね……。
幸運なことに、外を窺っても怖いお兄さんは見当たらなかった。そもそも家を押さえられてる時点で詰んでる気がしないでもないが、深く考えたって答えなんて出ない。こういうのはあれこれ気を回すのではなく、要所を押さえればいいのだ。
(財布は固く。勧誘はお断り)
決意を新たにしていると扉が開いた。
そこから現れたのは、見目麗しい美少女だ。
カチっとしたホワイトシャツにタイトなチノクロスのパンツルック、透けるような水色のカーディガンを羽織っている。頭にはキャスケット帽をのせ、目立つ色合いの紫髪を隠しているようにも見えた。
何というか。大人と子供が同居したような絶妙なバランスだ。首もとで切りそろえられた髪は(風呂上がりだから)濡れたように艶やかで、(風呂上がりだから)ほんのり赤く染まった頬はドキムネものだった。リップでも塗ったのか唇もつやつやだ。
そして何より。膝からくるぶしに掛けて白く艶めくおみ足! 思わず拝みたくなる。
「おまたせ」
「お、おう」
舐めるように視線を上下してしまったが彼女はどこ吹く風である。情けなく目線を散らす俺の脇をするりと抜けて、外へ出て行ってしまった。
そのまま帰るのかと、安堵半分寂しさ半分な心情が湧いて出たが、彼女は玄関を開けた廊下の先にちょこんと佇んでいた。
ちらりとこちらを窺う仕草が、はっきり言って、めっちゃ可愛い。ヤバい。
俺の不安は霧散しつつあった。
男ってほんとバカ。
○
よいごしの おんな ?
○
酔って帰って寝て起きたら美少女が風呂に入ってました。
文面だけなぞったら色々とこじらせた男の妄想そのものだが、どういうわけだか現実らしいということをようやく飲み込みつつある俺だった。だってその美少女がすぐ後ろをついてくるのだもの。
あちこちに興味深そうな視線を向けつつ、時折俺の背中に近づいたり離れたり。大人びた雰囲気から覗く子供っぽい仕草に、人知れず笑みを浮かべる俺。きもい。どう見たって不審者、他人に見られようものなら通報待ったなしである。
正直に告白しよう。
俺はこの状況に喜びを感じている。
なにせ美少女、なによりも美少女である。例え原因が何であれ、美少女とお近づきになって嬉しくない男などいない。断言する。美少女よ永遠なれ。
ゆえに俺は彼女がついてくることに何も言わずにいた。距離を置くかどうかは状況を把握してからでも遅くない筈だ。
そう、この意味不明な状況にも原因はある。それを思い出せないことには、俺は彼女との接し方が掴めないままだ。まずはそこをきっちり理解しなくては。
なので朝飯の場というのは丁度良い。とりあえず間は持つし、予想以上にヤバかったらそのままおさらばだ。周囲の目をそれなりに意識させる場所なのがミソである。
念の為、朝飯は俺が今まで行ったことのない店でとることにした。知り合いに見られるのは嫌だし、俺の生活圏を把握されるのはマズいと考えたからだ。いや、家を知られてるのに生活圏も何もありませんが。ささやかな抵抗ってやつです。
通りを二つほど跨いだ先、十字路に見えた適当な喫茶店に入り、モーニングを注文する。彼女はホットケーキと紅茶のセット、俺はスクランブルエッグとソーセージ、トーストにコーヒーのセット。ザ・モーニングって感じだ。ついでにツナサラダも頼み、それをつつきながら話を切り出すことにした。
店内の奥まった席。店員の視界から隠れるようにして座る。
「あの、さ。俺はまず状況を把握したいんだけど。……質問いいかな?」
「うん。私からも訊きたいことあるし」
応じる言葉にドキリとしたが、ここで挫けてはいけない。努めて冷静に。
「んじゃ、交互にいこうか。俺たち、どこで会ったの?」
「昨日の晩。ひどく酔っぱらった君が話し掛けてきて、素敵な言葉で口説いてくれて、面白い人だなぁって」
そこまで言って、少女は俺の顔をじっと見つめる。
「もしかしなくても、その様子じゃ覚えてないか」
「……はい」
うなだれるしかなかった。
(マジかよ俺)
予想しないでもなかったが。酔った勢いで連れ込みとか、盛大にやらかしてる。あくまでこの子の言葉を信じるならだが。しかし先に言ってべき言葉はある。
「ごめん。怖かったろ」
「全然? むしろ嬉しかった。人肌恋しかったし」
ノーモーションの切り返しにたまらず突っ伏す。なんて直球な表現するのこの子。っつーかこれって俺まさか、
「次は私」
「あ、はい。どうぞ」
「いま付き合っている女の子はいる?」
「へあ!?」
まったく予想だにしなかった質問に、M78星雲出身の宇宙人みたいな声が出た。
狼狽する俺に彼女は身を乗り出す勢いで重ねてくる。
「彼女。いるの? いないの?」
「い、ない、けど」
「そう。良かった」
なぜ頷くのそこで。やめてよ勘違いしちゃうでしょ。
いかん、脳がヒートアップする前に仕切り直さねば。
「おお俺の質問だけどさ、あれだ、俺の方にそんな感じはないから言うんだけど、昨日は何事もなく済んだ感じでいいんでしょうね?」
焦って言ってから気がつく。これって最低な質問じゃねえか。相手から行為の有無を言わせるとかバカなの?
普通なら渋面必至、最悪ビンタが飛ぶかと思われる質問であったが、なんと彼女はケロっとしていた。
「君は帰り着くなり寝こけてた。余程疲れてたのかな、起きる様子がなかったから私もご一緒させてもらったけど」
「……あー」
もう色々情けなかった。酔って、口説いて、連れ込んで、寝落ち……。甲斐性なしの見本市じゃねえか。嘘かどうか追求しようかという気概がみるみる萎えていく。詳細を思い出してしまったら恥ずか死ぬ恐れがあった。下手に追求できない。
とりあえず、"ご一緒"のところは聞かなかったことにした。
「次は私。君の名前は?」
「……北上です」
「キタガミ、キタガミね。うん、覚えた」
なんだか奇妙なイントネーションだった。顔立ちからして少し日本人離れしているし、もしかして外国人なのだろうか。まあ聞いたところでなんだという話だが。
「私はカオル。偽名だけど」
「偽名かい」
思わず突っ込む。いや、名乗られたところで本名かどうか分からんけど、俺ってば思わず本名出しちゃったよ。
「信頼はゆっくり築いていくものだから」
歯の浮くようなセリフ、しかし冗談を言った風ではない。そんな言葉が妙に様になっているのは感情の起伏が読めないせいだろうか。見た目の割に落ち着いているようだが……流石に年齢を訊くのは躊躇われる。
店員の動く気配がした。そろそろ料理が運ばれてきそうだ。
「質問は終わり?」
「……はい」
凹み気味な俺に対し、彼女は「そっか」とだけ、これまた判断に困る表情で頷くだけだった。
○
こいの かけひき ?
○
質問が途切れ、何だかよく分からない空間になったまま、俺と彼女は運ばれてきた料理に手をつけた。普通に旨かった。適当に選んだ店の割には当たりを引いたと言える。
食事の間はお互いに無言だ。黙々と食べ終え、会計を済まし、店を出る。会計は俺持ちだった。かっこつけでも何でもなく、彼女が手荷物を置き忘れていたのだ。俺の家に。
そう。
なし崩し的に解散だろうとぼんやり考えていた俺の予測は外れ、ひとまず家に戻る運びとなっていた。これは俺にとってチャンスなのか、判断しかねる状況である。
だってそうだろ? 酔って口説いて連れ込んだ女の子に対し、俺は何かを要求できる立場ではないのだ。彼女の方から何かしら意志を示さない限り、俺が好き勝手にどうこうしていいわけがない。
断じて、ビビってるのではなく。
立場をわきまえているのである。
「彼女いる?」なんてあからさまなアプローチがあったような気もするが、連れ込みを考慮すると、自分に責が及ばないかを確認していたとも受け取れる。むしろそっちのがあり得る。
そんなことを考えながら、ついに玄関前まで来てしまった。とりあえずの凌ぎにと必死で頭を回していた、当たり障りのない会話が途切れる。
「……」
背後の気配。どこまでもミステリアスな彼女は、じっと俺の背中に視線を注いでいる。
ここで俺はなんというべきか。常識的に言えば、
「財布取ってくるね」
とでも言ってひとりで中に入るべきだろう。そうしてドア越しに手渡しして、さよならと手を振る。実に現実的。しかしここで、
「コーヒーでもお代わりしてく?」
とでもぬかしてプレイボーイを気取るのもありな気がする。そこから先の展開は想像もつかないが、およそ理想的だ。いや、家にコーヒーは置いてませんけど。ココアならある。
まあ、先の考えからして理想案は却下なのだが。
(恥の上塗りっていうんだよな、こういうの)
毒を食らわば皿まで、なんて開き直った真似などできる度胸はないし、情けない真似を重ねるわけにはいかない。
今朝の甘たるい香りがどこからか漂ってきた。キンモクセイとは違うが、いやにクセのある、鼻に残る香りだ。人口の香りにはない、一面の土と緑を彷彿とさせる、脳を埋め尽くすような力強さ。まるで吸い込んだ内側から全身に浸透していくかのようだ。
嗅覚はイメージ記憶と繋がりが深いという。カオルの白い肌、滑らかな曲線美がフラッシュバックする。急速に体温が高まり、脈を強めた心臓から吐き出された血が、下腹部に、集まって、
「っはー……」
ちがう。落ちつけ。そうじゃない。責任ある大人だ俺は。無責任な真似なんて、何より自分が許せない。
ひやりと冷たいドアノブに手を掛けた。手の平との温度差に、湯だった意識が冷えていくのを感じる。そうだ、大丈夫。中に入って、財布をとって、それで、
「コーヒー飲んでいっていい?」
コーヒー? いや、コーヒーは飲まない。コーヒーは飲まないから、
「ココアなら、あるけど」
「それでいいよ」
ドアノブを引き、扉を開ける。開いた隙間から滑り込むようにして、カオルは中に入って行った。俺も彼女に続いて後ろ手にドアを閉める。
(あれ。なんで中に入れてんだ、俺)
靴を脱ぐ彼女の背中を、俺は茫然と眺めていた。
16/07/02 11:06更新 / カイワレ大根
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