魔物化に乗り遅れた人間男
魔探偵：昨日もさ、隣の部屋の男が彼女連れ込みやがって、夜通しあえぎ声だよ。ねむれねぇよ！
バフォイ：サキュバスだっけ？
魔探偵：そうだよ。マジふざけんなって話だよ
バフォイ：もげろ
万魔殿勤務：もげろ
Alice：もげろ
「『もげろ』……っと」
慣れた手つきでお決まりのフレーズをキーボードで叩く。エンターを押すと、目の前の画面に『魔界DT』という俺のハンドルネームと、それに寄り添うように先ほど打ち込んだ『もげろ』という文面が現れる。
俺は今、電脳世界に魂を置いているといっても過言ではないだろう。意識を全てパソコン上に集中させ、外界とつながる感覚を完全に遮断している。これは、現実世界に深く絶望した人間しか持ち得ない特別なスキル。
おそらく、今俺と相対している仲間も、同じスキルを有しているだろう。だが、それを確かめるなんて野暮なことはしない。聞かずとも、画面上にいる仲間は俺と同じか、それ以上に現実に絶望している人間ばかりなのだから。
耳にヘッドホンを付け、俺と同じ境遇の、現実に希望を見出せなくなった男たちの嘆きを、大音量で聞く。彼らの旋律は、俺の心を一瞬えぐり、その後に癒す。その勢いに任せ、モテているやつらに『もげろ』と大合唱を奏でぶつけてやるのだ。
『魔物娘にモテない男たちの部屋』……今日もこのチャットルームは大盛況であった。
◆ ◆ ◆
――ピンポーン
確かに何度もチャイムを押している。音も鳴っている。しかし、中にいるはずの彼は反応しない。
――おかしい。確かにいるはずなのに。部屋に入るのは確認したのに。
眉間にしわが寄るのを感じた。
――何よ。せっかく新しい私を見てもらおうと思ったのに。
思わず一つ、ため息をつく。
コートの下、ちょうど腰の部分が、もぞもぞと動く。私の新しい部分。尻尾と翼が、私の意思に反して動いている。
「はぁ……はぁ……」
ため息はそのまま、我慢のきかない荒い息遣いに変わった。魔物の本能が、もう限界だと悲鳴を上げている。
――ああ、早く開けてもらおう。早く彼に扉を開けてもらって、このコートの下を見せたい。
コートの下は、真冬にも関わらずビキニだけである。しかも、大事な部分しか隠れていないかなり露出度の高いもの。
――早く、変わった私を見てもらいたい。
「はぁ……はぁ……」
荒くなる息は止まることがなく、目の前が白く染まった息で隠される。ぽわぽわと、現実から意識が遠ざかっていく。
「ねえ、私……あなたのために変わったんだよ？大好きなあなたのために、サキュバスに……」
「な、成美……」
コートのボタンを外し中身を見せた瞬間、彼の喉が大きく鳴るのが聞こえた。
――嬉しいっ、私に欲情してくれている！
それだけで、私の心が喜びで満たされた。
するりと肩からコートを滑り落とし、用意したビキニ姿を披露する。
「えへへ、どうかな？あなたのために、新しく買ったんだけど……きゃっ！」
くるりと背中を向け、尻尾と翼をよく見せようとした瞬間、彼が後ろから抱き付いてきた。
「も、もぅ、ここ、玄関だよ？するなら部屋で……」
「すまん、もう、我慢ができない……！」
彼が私の耳に口を寄せ、獣のような息遣いとともに囁いた。彼の低く甘い声が、私の鼓膜から全身を震わせる。
――ああっ！人間だった頃から……小さい頃からずっとアプローチしてたのに、こんなに求められたの初めて！
素肌にじかに伝わる彼の体温を感じ、私の心は温かさでいっぱいになる。
そして、私のお尻の谷間には、もっと温かい感触が伝わってくる。
「はぁぁ……そんなっおちんちん、すりつけないでっ……くぅんっ」
思わず鼻から甘ったるい息が漏れてしまう。今私が一番欲しいものが、大事な部分を上下にこすっている。
「はぁっ、はぁっ！成美の体、いい匂いがする……興奮する……」
彼が私の首筋に鼻を寄せ、すりすりとこすりつけてくる。
――私はあなたの匂いで、どうにかなっちゃいそうだよ……！
興奮が高まり、彼のオスの香りが濃くなっている。
そしてついに興奮が頂点に高まり、彼が自分のズボンを勢いよく引き下ろした……！
と、ここで私の妄想は途切れてしまった。
――経験がなかったら、入れられる感覚なんて分からないし……
そう、私は彼に純潔をささげると心に誓ったせいで、いまだに処女なのだ。完全にニブチンの彼のせいである。
――全く、会うたびにおっぱい押し付けたりラッキーパンチラ見せてあげてるというのに、何で反応しないのよ！
そして、いまだに玄関の扉が開くことはない。
自分の魅力のなさを嘆いていると、私の背後で物音がした。
◆ ◆ ◆
――ドンドコドコドコ！ドンドコドコドコ！
魔物娘にすらモテない男の悲しみと鬱屈した性欲が、ドラムにぶつけられる。このドラムソロには、彼の負の感情が全て詰め込まれている。ドラマーの境遇が自然と思い起こされ、涙を禁じえない。しかし、それは文面には表れない。こういうとき、チャットは便利だなと感じる。
Alice：あーあ、幼馴染の女の子がサキュバスになってて「私をプレゼント」って来てくれたらいいのになぁ。
バフォイ：ない
万魔殿勤務：ないない
今日も、寂しい独り身の男たちが、むなしい妄想で涙をごまかす。
「そんなことあるわけないだろ」と冷静に反論するのは簡単だ。しかし、俺たちは画面の向こう側にいる、膝を抱えて目を腫らす男の姿が見えている。だから、そんなひどいことはできない。
だから、見せ掛けの「ない」を連呼するのだ。笑ってしまうことで、現実の泣きをごまかすために。
チャットに書いたことはないが、俺には女子の幼馴染がいる。しかし、Aliceが書いているような関係では決してない。ドジなやつで、やたらと俺にぶつかってきたり変なものを見せたりするが、それはそもそも男として意識をされていない表れなのである。
だから、自信を持って、高らかに仲間と同調することができる。
魔界DT：ないな。ワロス
◆ ◆ ◆
「むっ」
不機嫌が発露したように、無意識に声が漏れた。鼻がひくつき、耳がぱたぱたと動く。
せっかく大好きな後輩のために、人間を捨ててしまったというのに、先客がいるようだ。
――むむむ……もしあいつといい仲になってたら、引っかいてやろうか。
人生のほぼ全てを捨ててワーウルフになったのだ。せっかくの計画をめちゃくちゃにされたなら、それくらいのことはしても罰は当たらないだろう。
そう心に決めてアパートに足を踏み入れた。
匂いがだんだんと濃くなってくる。
――やはり、彼の部屋か……
階段を上り、三階の廊下にたどり着くと、濃厚なメスの香りが右の端の部屋へと続いていた。
何度も足を運んだから分かる。彼の部屋だ。
――あれ。
部屋の玄関扉が見える位置まで足を伸ばすと、その前に女性が立っているのが見えた。
何度もチャイムを鳴らし、時折ため息をついている。
「おい、その部屋に何か用か？」
目一杯声を低くし、相手に恐怖を植え付けるようにする。しかし、相手は全くひるむ様子がなかった。
――まずいな、これは。
こちらを向いた彼女の瞳は、決意の炎が灯っていた。間違いない。彼女は、今目の前にいるサキュバスは、私と同じ目的でここに来ている。
「何してるんですか、楓先輩」
不審そうな目でこちらを覗く女。
――あれ？何でこいつ私の名前を？
「何びっくりしてるんですか」
ずずいとこちらに顔を寄せ、不審な顔にさらに不機嫌さが加えられる。
「あのですね……毎日私たちのことを恨めしそうに見ていたら、嫌でも誰か調べたくなるんですよ」
「え、あ、ああ……お前、いつもあいつの隣にいる……！」
しまった。いつもあいつのことしか見ていなかったから、完全にこいつの存在を忘れていた。
「それに、『何か用か』って聞きたいのはこちらですよ。先輩こそ、何しにここに来たんですか？」
腰に手を当て、鼻息荒く私に問いかけてくる彼女。こいつはまだ私の目的に気付いていないのか。まあ、私の姿をきちんと見せれば、一発で分かるだろう。
「これを見せれば分かるか？」
そう言って、私はつけていた手袋をはぎとった。そこには、ワーウルフの証である、ふさふさの犬の毛並みが生えた腕が。
「あっ」
彼女もようやく分かったようだ。目を丸くして、驚きで口を閉じるのも忘れている。
「そういうことだ。だから、さっさと……」
「無駄ですよ」
――こいつ、先輩の言葉をさえぎりやがった……
「あん？」と思わずドスのきいた声が漏れる。
「彼、何度チャイム鳴らしても反応しないんですから」
ああ、こんな面倒なことになるくらいなら、あの日にアタックしておくべきだった。
あの日、奇跡のように、あいつと私が、誰もいない教室で二人きりになった日に……
「よう、こんなところで何してるんだ？」
「あ、先輩」
彼はちょうど荷物をまとめて椅子から立とうとしているところだった。だが、私がそれを制する。
「まあまあ待てよ。そう焦ることはないだろ？」
そう言って、私は彼の座っている椅子の真後ろに立った。
「え、あ、先輩、どうしたんです……かっ！」
彼の言葉がつまる。私が彼を背後からぎゅっと抱きしめたからだ。
「ちょ、ちょっ……と……先輩ぃっ」
彼がじたばたともがくが、私は強く力をこめ、彼の動きを押さえ込む。力が強くなるたびに、私の腕、足に茶色の毛が生え、爪が鋭くなり、頭の上からは犬の耳が生えた。
「あっ……まっ……」
「そうだよ。魔物だよ。お前のことを想って、魔物になったんだ」
ほら、こっちを向きな、と彼のあごを、狼の指で優しくなで、こちらに振り向かせた。
「あむっ、れるっ」
唇を合わせ、すぐさま舌をねじこむ。
「んんっ！？んっ、んぅ……」
ビクリと彼が一度震えたが、すぐに舌を伸ばして私に応えてくれた。すっと体の力を抜き、私の胸に背中を預ける。
「うん、可愛いよ……」
唇を離し、しっとりとした彼の唇を指でなでる。
「もっとキス、するか？」
私の言葉に、彼はこくりとうなずいた。
「よし、じゃあ机に座って……」
彼を机の上に座らせ、私と正面同士が向くようにした。
教室が夕暮れに染まり、彼の体が逆光でシルエットとして浮かぶ。だが、私には彼の表情が手にとるように分かる。
毎日毎日、こいつのことだけを想い続けていたのだ。私はこいつのために人間をやめたのだ。
そして、もう一度キス。
「ちゅ……んっ、んはぁ……」
二度目のキスをたっぷりと堪能し、名残惜しく唇を離した。しとっと濡れた唇がぷるりと少し伸びた。
「あーあ、そんなとろとろな顔しやがって……本当、可愛いな」
彼の頭を優しくなでる。完全に力が抜け切った彼は、私の手の動きに合わせ頭をかくかくと動かした。
「さて、これから、先輩がいっぱい気持ちいいこと、教えてやるからな」
――はあ、何考えているのやら。
いいところまでいった気がするが、ここで急に冷めてしまった。
――どうせ、過ぎたことだし。それに……
いまだに男性経験なんかないのだから、これ以上妄想を広げることができない。
そう考えていると、サキュバスが同情をこめた視線で私を見つめてきた。
「な、な、何なんだよ！」
「いや、先輩も、私と一緒なんだなぁ、って」
彼女が笑みをつくるが、どこか悲しそうだった。
――何だよ！何なんだよ！処女で何が悪いんだよ！
思わず叫びたくなったのを、部屋のチャイムを何度も連打することでごまかした。
◆ ◆ ◆
喉をつぶすようなシャウトが、俺の鼓膜を痛いほど震わせる。
ボーカルのやり場のない怒りが、俺の心に爪を立てる。だが、この傷は勲章だ。音楽体験を彼らと共有することによって、今、俺は彼らと無二の親友となっている。
バフォイ：仲のいい女の先輩がさ、ワーウルフになって優しく筆卸ししてくれたりしないかね
まただ。他愛もない妄言。だが、俺たちはそれを笑い飛ばすことはできない。
魔物娘が現実世界に登場してから何年も経っているのに、こんな美味しいシチュエーションには一度も遭遇していないのだ。
周りの男たちは皆、こういったエロ漫画もかくやという素敵体験をしているというのに、俺たちはいまだ余り物。
だから俺たちは「ないない」「ワロス」と偽りの笑みを浮かべるしかないのだ。
◆ ◆ ◆
――ああ、お兄ちゃん……
陽が落ち、辺りが闇に包まれた。ここから先は私の時間。
大きく口を開けると、月光に鋭く伸びた歯がきらめく。
――お兄ちゃん、由紀の大好きなお兄ちゃんっ！今行くからねっ！
短く詠唱すると、背中から可愛らしいコウモリの翼が生えた。
誰もいない住宅街の道路を一歩、二歩、三歩！軽やかに駆け地を蹴ると、重力に逆らって私の体がふわりと浮かぶ。
こんな小さな翼で、よく人間一体が丸ごと持ち上がるものだと、いまだに不安がぬぐえない。
――まあ、そもそも私はもう人間じゃないんだけどね。
そう、私はバンパイアになったのだ。夜の使徒になったのだ。
――待っててねお兄ちゃんっ、ヴァンパイアになった私が、お兄ちゃんを気持ちよくしてあげるからねっ！
今の心は、体のように軽やかだ。もうすぐ、お兄ちゃんと一つになれる。私の初めてを捧げられる。嬉しくて楽しみで仕方がない。
「お兄ちゃん、入っていい？」
三階の角部屋。お兄ちゃんの部屋の窓を叩く。
「はいはい誰……由紀？」
突然かつ予想外の場所からの訪問に、お兄ちゃんの声が驚きで上ずっている。
「入って、いいかな？」
再度窓を叩き、許可を待つ。ヴァンパイアは、他人のいる部屋に入るときはその相手の許可を貰わないといけない。
「あ、ああ……」
とまどいながらも、お兄ちゃんはうなずいてくれた。それと同時に、窓の鍵が独りでに回る。
「それじゃあ、お邪魔しまーす」
カラリと窓を開け、部屋に入り込む。もちろん、靴は脱いでベランダにおいておく。
「それで、どうしたんだ？いきなりこんなところに来て」
二人でベッドの縁に座った。私とお兄ちゃんの二の腕部分がかすかに触れ合って、温かい。
「どうしたって、妹がお兄ちゃんに会いに来たんだよ？それだけで十分じゃない？」
そっと体を傾け体重を預けると、お兄ちゃんはびくっと体を震わせた。
――あ、ひょっとして、お兄ちゃん……私のこと、異性として意識してる？
初心な反応に、私は嬉しくなった。
「そ、そ、それでもなっ、窓からはないだろ！三階だぞ？危ないじゃないか」
そう言っているお兄ちゃんの視線は、右へ左へふらふらとしている。
――んふふ、妹に潤んだ瞳で上目遣いで見つめられて、ドキドキしてるのかな？それじゃあ……えいっ！
意を決し、そっとコートの上ボタンを外した。そして中のVネックのセーターの胸元をそっと下ろし、胸の谷間をちらりと見せる。
「……っ！」
――あっ、お兄ちゃんが息を呑んだ！
お兄ちゃんの顔にじっとりと汗が浮かぶ。今、私を襲いたい本能と、兄妹でそんなことをしてはいけないという理性が激しく戦っているのだろう。
「……いいんだよ？」
最後の一押し。
「ほら、私の目を見て……」
私の瞳が、吸血鬼特有のルビー色に輝く。
「私の歯を見て」
にぃと口を開き、伸びた犬歯を見せる。
「私ね、魔物になったんだよ。魔物はね、大好きな人、世界で一番大好きな人と一緒になれる権利があるんだよ」
だから……そう言いながら抱きつき、お兄ちゃんを優しくベッドに寝かせる。
「魔物だから、もう兄妹とか関係ないんだよ？愛し合うオスとメス……それで十分」
甘く囁いて、その唇でお兄ちゃんの唇をふさぐ……
「えへへ、えへへへへ……」
これから起こるであろう出来事に、にやけ笑いが止まらない。
顔がぽっぽと温かくなって、目じりが下がってしまう。
――はぁ、もうすぐ、お兄ちゃんに初めてを……
うきうきしながら空を飛んでいると、視界にお兄ちゃんの住むアパートが見えてきた。
「三階のぉー、角部屋がぁー、お兄ちゃんのぉー……あれ」
お兄ちゃんの部屋に狙いを定めると、玄関の前に二つの人影が見えることに気付いた。
「あ……成美姉ちゃん？」
一つの方には見覚えがあった。お兄ちゃんの幼馴染の成美姉ちゃんだ。
――いつもお兄ちゃんにベタベタしている嫌な人。
内心ではそう思っていたが、言葉には出さない。表面上は、いい妹だ。
「え、え？由紀ちゃん！？」
空を飛んでやってきた私を見て、成美姉ちゃんは驚いた声を上げた。
「ん？何だこいつ……まさか」
もう一人の女性が、何か理解したような表情を浮かべる。彼女の露出している両腕は、ふさふさの毛で覆われていた。
――あ、ライバル！
私も一瞬で理解した。成美姉ちゃんもこの女の人も、私と同じ目的だ。
そもそも、吸血鬼と人狼は昔からのライバルなのだ。
「ガルルルル……」
私はうなって二人を威嚇した。
「ふふん、なるほどね。どうやらこいつも私たちと目的は一緒みたいだな」
狼女が得意げな声を出す。私たちに勝てるという自信があるらしい。
「どうしてそんなに自信満々なのかしら？お兄ちゃんと一緒にいる時間は、私が一番長いんだからね！」
そう言って、私も鼻息を荒くする。
「まあまあ、そういう話は、部屋に入ってからにしない？」
歯をむき出しにして威嚇しあう二人を、成美姉ちゃんが制した。
◆ ◆ ◆
――ああ、ギターが泣いている。
むせび泣くようなスウィープが、聞き手の涙すら誘う。このソロは一流だ。一億総モテ時代とも呼べる魔物娘大フィーバーの昨今だというのに、俺たちは独りだ！売れ残りの絞りカスだ！怒りの涙が鳴り響く。
魔探偵：妹がヴァンパイアになってさ、月夜の晩に窓から入ってくるとかさ
Alice：妹いるの？
魔探偵：いや、いないけど
彼らは涙を拭きながら、この文面を叩いているのだろうか。
魔界DT：妹がいいって言っている人間は、本物の妹がいないからそんなこと言えるんだよ
不用意に打った文面が、一気にチャットを騒然とさせる。
魔探偵：え、DT妹いるのかよ！
バフォイ：えっ
万魔殿勤務：お前が一番女っ気がないと思っていたのに
――しまった。
自らの不用意さを悔いたが、過ぎたことはどうしようもない。打ち込まれた文章はきっちり証拠として残されてしまうため、ごまかしが効かない。こういうとき、チャットは不便だなと感じる。
仲間に対しての言い訳を並び立てるうちに、音楽がフェードアウトしていった。
アルバムがゴールを向かえ、至福の六十分が終わりを告げる。
そして、次に俺の耳に入ってきたのは、けたたましく鳴るチャイムの連打だった。
◆ ◆ ◆
――ピンポンピンポンピポピポピンポーン
「あーもー！あいついつになったら気付くんだ！？」
楓がイライラしながらチャイムを何度も叩く。
「寝てるんじゃないの？」
成美がふぅとため息をつく。
「パソコンやってると思いますよ。お兄ちゃん、一度没頭したら叩いても戻ってきませんから」
爆音で音楽ですよ、と両耳をふさぐ仕草をしながら、由紀がつぶやく。
「でもそれじゃあ埒が明かないじゃないか……どうすればいいんだよ」
「あっ……」
困り果て諦めの言葉を漏らす楓だったが、そのとき何かに気付いたかのように声を上げた。
「そういえばサキュバスの魔法で開錠できるんだった」
彼女がぽんと手を叩くと、しばしの沈黙が流れる。
「何でそれを早く言わなかったんだよ……」
「いや、完全に失念してました……あはは」
乾いた笑いを漏らしながら、成美が恥ずかしそうにほほをかく。
「まあいいや。それじゃあ……開けますねっ」
そう言うと、彼女はうるさいのを諌めるときのように、人差し指を立て唇に寄せた。そして一言魔法の言葉をつぶやくと、ドアの鍵へと指先を近付けた。
――ガチャリ
小さく開錠の音がする。
「よぉし、突撃ぃ！」
◆ ◆ ◆
魔界DT：誰か来てる。ちょい離席
「一体こんな時間に誰……」
至福で幸福な時間を打ち破った罪深き者に怒りの声をぶつけてやろうと立ち上がると、勢いよく玄関扉が開かれた。
「あー！やっぱりパソコンだ！」
「えっ、あっ、由紀……？」
そこには目を赤く爛々と輝かせ、鋭い犬歯を見せる妹。
「やっぱりいたじゃないか！ひどいぞ！居留守だなんて」
犬耳を生やし、両腕が綺麗な茶色の毛に覆われた先輩。
「まあいいや。結局は会えたんだし」
そして、頭から角を生やし、コートを脱ぎ捨て翼と尻尾を見せる幼馴染の姿があった。
「なっ、えっ……？三人一緒に、何を……」
後ずさりする俺を、三人がじりじりと追い詰める。
「何って、魔物化に乗り遅れた人間男を救いに来たのよ」
「そうだよお兄ちゃん。私たち、お兄ちゃんのために魔物になって会いに来たんだからね」
「童貞だろうけど安心しな。私たちも初めてなんだからな。みんなで仲良く……」
――４Ｐよ！
――魔界DTさんがログアウトしました――
バフォイ：サキュバスだっけ？
魔探偵：そうだよ。マジふざけんなって話だよ
バフォイ：もげろ
万魔殿勤務：もげろ
Alice：もげろ
「『もげろ』……っと」
慣れた手つきでお決まりのフレーズをキーボードで叩く。エンターを押すと、目の前の画面に『魔界DT』という俺のハンドルネームと、それに寄り添うように先ほど打ち込んだ『もげろ』という文面が現れる。
俺は今、電脳世界に魂を置いているといっても過言ではないだろう。意識を全てパソコン上に集中させ、外界とつながる感覚を完全に遮断している。これは、現実世界に深く絶望した人間しか持ち得ない特別なスキル。
おそらく、今俺と相対している仲間も、同じスキルを有しているだろう。だが、それを確かめるなんて野暮なことはしない。聞かずとも、画面上にいる仲間は俺と同じか、それ以上に現実に絶望している人間ばかりなのだから。
耳にヘッドホンを付け、俺と同じ境遇の、現実に希望を見出せなくなった男たちの嘆きを、大音量で聞く。彼らの旋律は、俺の心を一瞬えぐり、その後に癒す。その勢いに任せ、モテているやつらに『もげろ』と大合唱を奏でぶつけてやるのだ。
『魔物娘にモテない男たちの部屋』……今日もこのチャットルームは大盛況であった。
◆ ◆ ◆
――ピンポーン
確かに何度もチャイムを押している。音も鳴っている。しかし、中にいるはずの彼は反応しない。
――おかしい。確かにいるはずなのに。部屋に入るのは確認したのに。
眉間にしわが寄るのを感じた。
――何よ。せっかく新しい私を見てもらおうと思ったのに。
思わず一つ、ため息をつく。
コートの下、ちょうど腰の部分が、もぞもぞと動く。私の新しい部分。尻尾と翼が、私の意思に反して動いている。
「はぁ……はぁ……」
ため息はそのまま、我慢のきかない荒い息遣いに変わった。魔物の本能が、もう限界だと悲鳴を上げている。
――ああ、早く開けてもらおう。早く彼に扉を開けてもらって、このコートの下を見せたい。
コートの下は、真冬にも関わらずビキニだけである。しかも、大事な部分しか隠れていないかなり露出度の高いもの。
――早く、変わった私を見てもらいたい。
「はぁ……はぁ……」
荒くなる息は止まることがなく、目の前が白く染まった息で隠される。ぽわぽわと、現実から意識が遠ざかっていく。
「ねえ、私……あなたのために変わったんだよ？大好きなあなたのために、サキュバスに……」
「な、成美……」
コートのボタンを外し中身を見せた瞬間、彼の喉が大きく鳴るのが聞こえた。
――嬉しいっ、私に欲情してくれている！
それだけで、私の心が喜びで満たされた。
するりと肩からコートを滑り落とし、用意したビキニ姿を披露する。
「えへへ、どうかな？あなたのために、新しく買ったんだけど……きゃっ！」
くるりと背中を向け、尻尾と翼をよく見せようとした瞬間、彼が後ろから抱き付いてきた。
「も、もぅ、ここ、玄関だよ？するなら部屋で……」
「すまん、もう、我慢ができない……！」
彼が私の耳に口を寄せ、獣のような息遣いとともに囁いた。彼の低く甘い声が、私の鼓膜から全身を震わせる。
――ああっ！人間だった頃から……小さい頃からずっとアプローチしてたのに、こんなに求められたの初めて！
素肌にじかに伝わる彼の体温を感じ、私の心は温かさでいっぱいになる。
そして、私のお尻の谷間には、もっと温かい感触が伝わってくる。
「はぁぁ……そんなっおちんちん、すりつけないでっ……くぅんっ」
思わず鼻から甘ったるい息が漏れてしまう。今私が一番欲しいものが、大事な部分を上下にこすっている。
「はぁっ、はぁっ！成美の体、いい匂いがする……興奮する……」
彼が私の首筋に鼻を寄せ、すりすりとこすりつけてくる。
――私はあなたの匂いで、どうにかなっちゃいそうだよ……！
興奮が高まり、彼のオスの香りが濃くなっている。
そしてついに興奮が頂点に高まり、彼が自分のズボンを勢いよく引き下ろした……！
と、ここで私の妄想は途切れてしまった。
――経験がなかったら、入れられる感覚なんて分からないし……
そう、私は彼に純潔をささげると心に誓ったせいで、いまだに処女なのだ。完全にニブチンの彼のせいである。
――全く、会うたびにおっぱい押し付けたりラッキーパンチラ見せてあげてるというのに、何で反応しないのよ！
そして、いまだに玄関の扉が開くことはない。
自分の魅力のなさを嘆いていると、私の背後で物音がした。
◆ ◆ ◆
――ドンドコドコドコ！ドンドコドコドコ！
魔物娘にすらモテない男の悲しみと鬱屈した性欲が、ドラムにぶつけられる。このドラムソロには、彼の負の感情が全て詰め込まれている。ドラマーの境遇が自然と思い起こされ、涙を禁じえない。しかし、それは文面には表れない。こういうとき、チャットは便利だなと感じる。
Alice：あーあ、幼馴染の女の子がサキュバスになってて「私をプレゼント」って来てくれたらいいのになぁ。
バフォイ：ない
万魔殿勤務：ないない
今日も、寂しい独り身の男たちが、むなしい妄想で涙をごまかす。
「そんなことあるわけないだろ」と冷静に反論するのは簡単だ。しかし、俺たちは画面の向こう側にいる、膝を抱えて目を腫らす男の姿が見えている。だから、そんなひどいことはできない。
だから、見せ掛けの「ない」を連呼するのだ。笑ってしまうことで、現実の泣きをごまかすために。
チャットに書いたことはないが、俺には女子の幼馴染がいる。しかし、Aliceが書いているような関係では決してない。ドジなやつで、やたらと俺にぶつかってきたり変なものを見せたりするが、それはそもそも男として意識をされていない表れなのである。
だから、自信を持って、高らかに仲間と同調することができる。
魔界DT：ないな。ワロス
◆ ◆ ◆
「むっ」
不機嫌が発露したように、無意識に声が漏れた。鼻がひくつき、耳がぱたぱたと動く。
せっかく大好きな後輩のために、人間を捨ててしまったというのに、先客がいるようだ。
――むむむ……もしあいつといい仲になってたら、引っかいてやろうか。
人生のほぼ全てを捨ててワーウルフになったのだ。せっかくの計画をめちゃくちゃにされたなら、それくらいのことはしても罰は当たらないだろう。
そう心に決めてアパートに足を踏み入れた。
匂いがだんだんと濃くなってくる。
――やはり、彼の部屋か……
階段を上り、三階の廊下にたどり着くと、濃厚なメスの香りが右の端の部屋へと続いていた。
何度も足を運んだから分かる。彼の部屋だ。
――あれ。
部屋の玄関扉が見える位置まで足を伸ばすと、その前に女性が立っているのが見えた。
何度もチャイムを鳴らし、時折ため息をついている。
「おい、その部屋に何か用か？」
目一杯声を低くし、相手に恐怖を植え付けるようにする。しかし、相手は全くひるむ様子がなかった。
――まずいな、これは。
こちらを向いた彼女の瞳は、決意の炎が灯っていた。間違いない。彼女は、今目の前にいるサキュバスは、私と同じ目的でここに来ている。
「何してるんですか、楓先輩」
不審そうな目でこちらを覗く女。
――あれ？何でこいつ私の名前を？
「何びっくりしてるんですか」
ずずいとこちらに顔を寄せ、不審な顔にさらに不機嫌さが加えられる。
「あのですね……毎日私たちのことを恨めしそうに見ていたら、嫌でも誰か調べたくなるんですよ」
「え、あ、ああ……お前、いつもあいつの隣にいる……！」
しまった。いつもあいつのことしか見ていなかったから、完全にこいつの存在を忘れていた。
「それに、『何か用か』って聞きたいのはこちらですよ。先輩こそ、何しにここに来たんですか？」
腰に手を当て、鼻息荒く私に問いかけてくる彼女。こいつはまだ私の目的に気付いていないのか。まあ、私の姿をきちんと見せれば、一発で分かるだろう。
「これを見せれば分かるか？」
そう言って、私はつけていた手袋をはぎとった。そこには、ワーウルフの証である、ふさふさの犬の毛並みが生えた腕が。
「あっ」
彼女もようやく分かったようだ。目を丸くして、驚きで口を閉じるのも忘れている。
「そういうことだ。だから、さっさと……」
「無駄ですよ」
――こいつ、先輩の言葉をさえぎりやがった……
「あん？」と思わずドスのきいた声が漏れる。
「彼、何度チャイム鳴らしても反応しないんですから」
ああ、こんな面倒なことになるくらいなら、あの日にアタックしておくべきだった。
あの日、奇跡のように、あいつと私が、誰もいない教室で二人きりになった日に……
「よう、こんなところで何してるんだ？」
「あ、先輩」
彼はちょうど荷物をまとめて椅子から立とうとしているところだった。だが、私がそれを制する。
「まあまあ待てよ。そう焦ることはないだろ？」
そう言って、私は彼の座っている椅子の真後ろに立った。
「え、あ、先輩、どうしたんです……かっ！」
彼の言葉がつまる。私が彼を背後からぎゅっと抱きしめたからだ。
「ちょ、ちょっ……と……先輩ぃっ」
彼がじたばたともがくが、私は強く力をこめ、彼の動きを押さえ込む。力が強くなるたびに、私の腕、足に茶色の毛が生え、爪が鋭くなり、頭の上からは犬の耳が生えた。
「あっ……まっ……」
「そうだよ。魔物だよ。お前のことを想って、魔物になったんだ」
ほら、こっちを向きな、と彼のあごを、狼の指で優しくなで、こちらに振り向かせた。
「あむっ、れるっ」
唇を合わせ、すぐさま舌をねじこむ。
「んんっ！？んっ、んぅ……」
ビクリと彼が一度震えたが、すぐに舌を伸ばして私に応えてくれた。すっと体の力を抜き、私の胸に背中を預ける。
「うん、可愛いよ……」
唇を離し、しっとりとした彼の唇を指でなでる。
「もっとキス、するか？」
私の言葉に、彼はこくりとうなずいた。
「よし、じゃあ机に座って……」
彼を机の上に座らせ、私と正面同士が向くようにした。
教室が夕暮れに染まり、彼の体が逆光でシルエットとして浮かぶ。だが、私には彼の表情が手にとるように分かる。
毎日毎日、こいつのことだけを想い続けていたのだ。私はこいつのために人間をやめたのだ。
そして、もう一度キス。
「ちゅ……んっ、んはぁ……」
二度目のキスをたっぷりと堪能し、名残惜しく唇を離した。しとっと濡れた唇がぷるりと少し伸びた。
「あーあ、そんなとろとろな顔しやがって……本当、可愛いな」
彼の頭を優しくなでる。完全に力が抜け切った彼は、私の手の動きに合わせ頭をかくかくと動かした。
「さて、これから、先輩がいっぱい気持ちいいこと、教えてやるからな」
――はあ、何考えているのやら。
いいところまでいった気がするが、ここで急に冷めてしまった。
――どうせ、過ぎたことだし。それに……
いまだに男性経験なんかないのだから、これ以上妄想を広げることができない。
そう考えていると、サキュバスが同情をこめた視線で私を見つめてきた。
「な、な、何なんだよ！」
「いや、先輩も、私と一緒なんだなぁ、って」
彼女が笑みをつくるが、どこか悲しそうだった。
――何だよ！何なんだよ！処女で何が悪いんだよ！
思わず叫びたくなったのを、部屋のチャイムを何度も連打することでごまかした。
◆ ◆ ◆
喉をつぶすようなシャウトが、俺の鼓膜を痛いほど震わせる。
ボーカルのやり場のない怒りが、俺の心に爪を立てる。だが、この傷は勲章だ。音楽体験を彼らと共有することによって、今、俺は彼らと無二の親友となっている。
バフォイ：仲のいい女の先輩がさ、ワーウルフになって優しく筆卸ししてくれたりしないかね
まただ。他愛もない妄言。だが、俺たちはそれを笑い飛ばすことはできない。
魔物娘が現実世界に登場してから何年も経っているのに、こんな美味しいシチュエーションには一度も遭遇していないのだ。
周りの男たちは皆、こういったエロ漫画もかくやという素敵体験をしているというのに、俺たちはいまだ余り物。
だから俺たちは「ないない」「ワロス」と偽りの笑みを浮かべるしかないのだ。
◆ ◆ ◆
――ああ、お兄ちゃん……
陽が落ち、辺りが闇に包まれた。ここから先は私の時間。
大きく口を開けると、月光に鋭く伸びた歯がきらめく。
――お兄ちゃん、由紀の大好きなお兄ちゃんっ！今行くからねっ！
短く詠唱すると、背中から可愛らしいコウモリの翼が生えた。
誰もいない住宅街の道路を一歩、二歩、三歩！軽やかに駆け地を蹴ると、重力に逆らって私の体がふわりと浮かぶ。
こんな小さな翼で、よく人間一体が丸ごと持ち上がるものだと、いまだに不安がぬぐえない。
――まあ、そもそも私はもう人間じゃないんだけどね。
そう、私はバンパイアになったのだ。夜の使徒になったのだ。
――待っててねお兄ちゃんっ、ヴァンパイアになった私が、お兄ちゃんを気持ちよくしてあげるからねっ！
今の心は、体のように軽やかだ。もうすぐ、お兄ちゃんと一つになれる。私の初めてを捧げられる。嬉しくて楽しみで仕方がない。
「お兄ちゃん、入っていい？」
三階の角部屋。お兄ちゃんの部屋の窓を叩く。
「はいはい誰……由紀？」
突然かつ予想外の場所からの訪問に、お兄ちゃんの声が驚きで上ずっている。
「入って、いいかな？」
再度窓を叩き、許可を待つ。ヴァンパイアは、他人のいる部屋に入るときはその相手の許可を貰わないといけない。
「あ、ああ……」
とまどいながらも、お兄ちゃんはうなずいてくれた。それと同時に、窓の鍵が独りでに回る。
「それじゃあ、お邪魔しまーす」
カラリと窓を開け、部屋に入り込む。もちろん、靴は脱いでベランダにおいておく。
「それで、どうしたんだ？いきなりこんなところに来て」
二人でベッドの縁に座った。私とお兄ちゃんの二の腕部分がかすかに触れ合って、温かい。
「どうしたって、妹がお兄ちゃんに会いに来たんだよ？それだけで十分じゃない？」
そっと体を傾け体重を預けると、お兄ちゃんはびくっと体を震わせた。
――あ、ひょっとして、お兄ちゃん……私のこと、異性として意識してる？
初心な反応に、私は嬉しくなった。
「そ、そ、それでもなっ、窓からはないだろ！三階だぞ？危ないじゃないか」
そう言っているお兄ちゃんの視線は、右へ左へふらふらとしている。
――んふふ、妹に潤んだ瞳で上目遣いで見つめられて、ドキドキしてるのかな？それじゃあ……えいっ！
意を決し、そっとコートの上ボタンを外した。そして中のVネックのセーターの胸元をそっと下ろし、胸の谷間をちらりと見せる。
「……っ！」
――あっ、お兄ちゃんが息を呑んだ！
お兄ちゃんの顔にじっとりと汗が浮かぶ。今、私を襲いたい本能と、兄妹でそんなことをしてはいけないという理性が激しく戦っているのだろう。
「……いいんだよ？」
最後の一押し。
「ほら、私の目を見て……」
私の瞳が、吸血鬼特有のルビー色に輝く。
「私の歯を見て」
にぃと口を開き、伸びた犬歯を見せる。
「私ね、魔物になったんだよ。魔物はね、大好きな人、世界で一番大好きな人と一緒になれる権利があるんだよ」
だから……そう言いながら抱きつき、お兄ちゃんを優しくベッドに寝かせる。
「魔物だから、もう兄妹とか関係ないんだよ？愛し合うオスとメス……それで十分」
甘く囁いて、その唇でお兄ちゃんの唇をふさぐ……
「えへへ、えへへへへ……」
これから起こるであろう出来事に、にやけ笑いが止まらない。
顔がぽっぽと温かくなって、目じりが下がってしまう。
――はぁ、もうすぐ、お兄ちゃんに初めてを……
うきうきしながら空を飛んでいると、視界にお兄ちゃんの住むアパートが見えてきた。
「三階のぉー、角部屋がぁー、お兄ちゃんのぉー……あれ」
お兄ちゃんの部屋に狙いを定めると、玄関の前に二つの人影が見えることに気付いた。
「あ……成美姉ちゃん？」
一つの方には見覚えがあった。お兄ちゃんの幼馴染の成美姉ちゃんだ。
――いつもお兄ちゃんにベタベタしている嫌な人。
内心ではそう思っていたが、言葉には出さない。表面上は、いい妹だ。
「え、え？由紀ちゃん！？」
空を飛んでやってきた私を見て、成美姉ちゃんは驚いた声を上げた。
「ん？何だこいつ……まさか」
もう一人の女性が、何か理解したような表情を浮かべる。彼女の露出している両腕は、ふさふさの毛で覆われていた。
――あ、ライバル！
私も一瞬で理解した。成美姉ちゃんもこの女の人も、私と同じ目的だ。
そもそも、吸血鬼と人狼は昔からのライバルなのだ。
「ガルルルル……」
私はうなって二人を威嚇した。
「ふふん、なるほどね。どうやらこいつも私たちと目的は一緒みたいだな」
狼女が得意げな声を出す。私たちに勝てるという自信があるらしい。
「どうしてそんなに自信満々なのかしら？お兄ちゃんと一緒にいる時間は、私が一番長いんだからね！」
そう言って、私も鼻息を荒くする。
「まあまあ、そういう話は、部屋に入ってからにしない？」
歯をむき出しにして威嚇しあう二人を、成美姉ちゃんが制した。
◆ ◆ ◆
――ああ、ギターが泣いている。
むせび泣くようなスウィープが、聞き手の涙すら誘う。このソロは一流だ。一億総モテ時代とも呼べる魔物娘大フィーバーの昨今だというのに、俺たちは独りだ！売れ残りの絞りカスだ！怒りの涙が鳴り響く。
魔探偵：妹がヴァンパイアになってさ、月夜の晩に窓から入ってくるとかさ
Alice：妹いるの？
魔探偵：いや、いないけど
彼らは涙を拭きながら、この文面を叩いているのだろうか。
魔界DT：妹がいいって言っている人間は、本物の妹がいないからそんなこと言えるんだよ
不用意に打った文面が、一気にチャットを騒然とさせる。
魔探偵：え、DT妹いるのかよ！
バフォイ：えっ
万魔殿勤務：お前が一番女っ気がないと思っていたのに
――しまった。
自らの不用意さを悔いたが、過ぎたことはどうしようもない。打ち込まれた文章はきっちり証拠として残されてしまうため、ごまかしが効かない。こういうとき、チャットは不便だなと感じる。
仲間に対しての言い訳を並び立てるうちに、音楽がフェードアウトしていった。
アルバムがゴールを向かえ、至福の六十分が終わりを告げる。
そして、次に俺の耳に入ってきたのは、けたたましく鳴るチャイムの連打だった。
◆ ◆ ◆
――ピンポンピンポンピポピポピンポーン
「あーもー！あいついつになったら気付くんだ！？」
楓がイライラしながらチャイムを何度も叩く。
「寝てるんじゃないの？」
成美がふぅとため息をつく。
「パソコンやってると思いますよ。お兄ちゃん、一度没頭したら叩いても戻ってきませんから」
爆音で音楽ですよ、と両耳をふさぐ仕草をしながら、由紀がつぶやく。
「でもそれじゃあ埒が明かないじゃないか……どうすればいいんだよ」
「あっ……」
困り果て諦めの言葉を漏らす楓だったが、そのとき何かに気付いたかのように声を上げた。
「そういえばサキュバスの魔法で開錠できるんだった」
彼女がぽんと手を叩くと、しばしの沈黙が流れる。
「何でそれを早く言わなかったんだよ……」
「いや、完全に失念してました……あはは」
乾いた笑いを漏らしながら、成美が恥ずかしそうにほほをかく。
「まあいいや。それじゃあ……開けますねっ」
そう言うと、彼女はうるさいのを諌めるときのように、人差し指を立て唇に寄せた。そして一言魔法の言葉をつぶやくと、ドアの鍵へと指先を近付けた。
――ガチャリ
小さく開錠の音がする。
「よぉし、突撃ぃ！」
◆ ◆ ◆
魔界DT：誰か来てる。ちょい離席
「一体こんな時間に誰……」
至福で幸福な時間を打ち破った罪深き者に怒りの声をぶつけてやろうと立ち上がると、勢いよく玄関扉が開かれた。
「あー！やっぱりパソコンだ！」
「えっ、あっ、由紀……？」
そこには目を赤く爛々と輝かせ、鋭い犬歯を見せる妹。
「やっぱりいたじゃないか！ひどいぞ！居留守だなんて」
犬耳を生やし、両腕が綺麗な茶色の毛に覆われた先輩。
「まあいいや。結局は会えたんだし」
そして、頭から角を生やし、コートを脱ぎ捨て翼と尻尾を見せる幼馴染の姿があった。
「なっ、えっ……？三人一緒に、何を……」
後ずさりする俺を、三人がじりじりと追い詰める。
「何って、魔物化に乗り遅れた人間男を救いに来たのよ」
「そうだよお兄ちゃん。私たち、お兄ちゃんのために魔物になって会いに来たんだからね」
「童貞だろうけど安心しな。私たちも初めてなんだからな。みんなで仲良く……」
――４Ｐよ！
――魔界DTさんがログアウトしました――
11/12/18 23:34更新 / 川村人志