娼年と鬼火
「つまらない人生だったな・・・・・・」
真っ赤な石畳に倒れ伏しながら、誰にともなくあたしは呟いた。
「誰にも必要とされない・・・・・・、くだらない一生だった・・・・・・」
周りの人たちが暴れ馬車が――とか、早く医者を――とか叫んでいるのがぼんやりと聞こえた。
けど薄れいく意識と喧噪も、お腹からどくどくと流れ落ちるいのちの源も、あたしは気にも止めていなかった。
そんなことよりも・・・・・・。
そんな『どうでもいい』ことよりも――
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・。
「十六にもなって、こんな簡単な仕事も出来ないのかい」
あたしがこなしたいっそ直す前よりも綺麗だった裁縫仕事を見て、目の前の女性がため息をついた。
「はい、ごめんなさい・・・・・・。義母さん」
「・・・・・・ふん」
あたしに義母(はは)と呼ばれた瞬間、彼女の鼻に皺が寄ったが――それ以上は特に何も言われなかった。
「もういいよ。期待した私が馬鹿だった。こっちはやっとくからあんたは、晩飯の買い物に行ってきな」
しっしっ――と、犬でも追い払うように駄賃と籠を渡された。
「はい、わかりました・・・・・・」
沈んだ気持ちのせいでうつむいて市場を歩く。いや、項垂れて歩くのはいつものことだった。――これがあたしの日常だった。
地べたしか見ない。だって太陽は眩しいから。目が灼けるから。
父親には愛想を尽かされ、継母には煙たがられる。なんてことない、一山いくらのどこにでもある不幸自慢だ。あたしは灰かぶりじゃないから、きっとカボチャの馬車も来ないし絵本にもならない。
腹の虫がおさまらなかった。怒っているわけじゃない、空腹のせいだ。
果物の屋台と、義母さんに渡された巾着を見る。ちょうどお遣いの値段とぴったりだ。遊びはなかった。
あたしは言われた通りにしか――いや、言われた通りにすら動けない出来損ない。せめて良い子に。波風を立てず。感情を持たず。だから・・・・・・、だからあたしは――
「お嬢ちゃん、ポケットの中のオレンジを出そうか」
ぎくり――と固まったときにはすでに屋台の店主があたしの手首を掴んでいた。たじろいだ弾みで、ぽろりと品物が地面に落ちた。
「あ、あの・・・・・・、その、こ、これは・・・・・・」
「気の毒に思わなくもないがね。こっちも商売だ、出るとこに出てもらうよ」
目の前が真っ暗になった。肺が縮み上がって、なにか言おうとしてもしゃっくりみたいなしどろもどろしか出なかった。
「あぅ、えっと・・・・・・、あ、ち、ちが・・・・・・」
「誰か、憲兵を――」
「まあまあ親父さん、それくらいで勘弁してあげてよ」
助け船は、意外なところから現れた。
ふり向くとあたしの胸くらいまでの背の少年が、人好きのする笑顔であたしと店主の間に割って入ってきた。
「なんだ、セト。お前の知り合いか・・・・・・?」
「うん、そうだよ。お姉ちゃんたら、はぐれたと思って心配したよ」
店主の疑わしげな視線を受けても、セトと呼ばれた少年はまったく怯む様子はなかった。あたしの肩をいきなり抱き寄せ、十年来の親友のような屈託のない笑顔を向ける。
「あ、あの・・・・・・」
ふわり――と栗色の髪から良い香りが漂った。石鹸だ。
匂いだけでなく、きちんと切り揃えられた髪にこざっぱりとした衣装。そしてなにより、少年でありながらはっとするほどの『美貌』とすら呼べる容姿。貴族――でこそないが、少なくともそこそこ上流の階級のこどもであるのは間違いない。
「お願いだよ親父さん、僕の顔に免じて水に流してくれないかな」
「いやセト、いくらお前さんの頼みでも・・・・・・、そういうわけにはいかないだろう」
「じゃあこうしよう。僕がこの落っこちたオレンジを2倍の値段で買い取る。ついでに僕の分のオレンジももらおう、こっちも2倍で。4倍の儲けだ。ね、悪い話じゃないでしょう?」
「う、む・・・・・・」
畳みかけるような商談に店主はまだ渋い顔をしていたが、銀貨をぐいぐいと押しつけられてついには折れてしまった。
「ありがと、また来るね〜」
手を振りながら、持っているオレンジよりよっぽど明るい笑顔で少年が去っていく。あたしは居心地が悪くなって――なんとなく、彼の後について歩いた。
「あ・・・・・・、あの・・・・・・ッ」
あたしが口を開いたのは、たっぷり3ブロックは歩いてからだった。
「・・・・・・ん、どしたのお姉さん? あ、忘れてた。はい、これ渡すね。・・・・・・あ、1個は僕のだからね」
「あ、どうも・・・・・・。って、じゃなくて!」
「・・・・・・?」
しゃりしゃりと皮を剥いたオレンジを頬張りながら、少年はまっすぐな瞳であたしを見つめてくる。
「なぜ・・・・・・、あたしなんかを助けてくれたの?」
あたしは――いつだってこうだ。
どうして素直にありがとうと言えないのだろう。どうして他人の目を見られないのだろう。
情けなさすぎて、涙がこみ上げてくる。万引きで捕まったことよりも、そっちの方がよっぽど惨めな気分だった。
「だって――お姉さん、まるで幽霊みたいだったから」
気になって目で追ってたんだよ――と少年は続けた。
「・・・・・・あんまり気分の良い表現じゃなかったかな?」
言ってから失敗したと思ったか、少年がぽりぽりと頬をかいた。
けど、彼の抱いた印象はきっと正しい。
誰の役にも立たず誰からも愛情を受けず――何も為さないものが、幽霊でなくていったい何であるというのか。誰にも気にも止められず、ただ死んでないから生きている――そんな幽かな存在。
だけど――彼は見つけてくれた。
ぶわっ――と、身体の中を風が吹き抜けるような感覚がした。灰色だった町並みが、くすんでいた人混みが、七色に輝いているように見えた。
あたしは目をしばたたいた。
この気持ちは――――なに?
「自己紹介がまだだったね。僕はセト。お姉さんの名前は何ていうの?」
「名前なんて・・・・・・、そんなもの意味がないわ。昔はあったけど、今はそれであたしを呼んでくれる人は、ひとりもいないもの」
ああ、まただ。また昏い受け答えをしてしまった。暗い女だって思われる。嫌われる。嫌われるのがどうしようもなく怖かった。人に疎まれるのなんて、もう慣れっこと思っていたのに。
けどセトは特に気にした風もなくて、さらりと流してしまった。
「ふぅん、まあいいや。それじゃあお姉さんって引き続き呼ぶね。・・・・・・ねえお姉さん」
浮かべた屈託のない笑顔は――太陽だった。
あたしはいつだって、目を逸らしてきた。眩しすぎるから・・・・・・。目が灼けるから・・・・・・。
陽に焼かれたように、頬が熱くなるのを感じた。
「明日も――また会えるかな?」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・。
「そうなの、低血圧のせいで寝起きはいつも辛くて・・・・・・」
「海が見てみたいんだ。川や湖とは全然違うんでしょ・・・・・・」
「あたしもシチューは、ドロドロよりも汁っぽい方が好きよ・・・・・・」
「いやあ、あの時はお腹かかえて笑ったなあ・・・・・・」
それから毎日とはいかなかったけど、週に3、4回の頻度であたしは家を抜け出してセトと落ち合った。
会うのはいつも昼下がり、市場をぶらぶらしながら取り留めもない会話を重ねるだけだったけど、あたしにとっては生きてきてもっとも楽しい時間だった。つらい毎日の中で待ち遠しく思える、唯一の希望だった。
「お父さんもお母さんも、もういないの・・・・・・?」
ある日流れでお互いの両親の話題に行き着いたとき、セトは寂しそうに言った。
「うん、流行り病でね。三年前に死んじゃった・・・・・・」
「ごめん・・・・・・」
悪いことを訊いた。
だがそれ以上に意外だった。セトの身なりの良さは、きっとどこかの良家の子息かもしれないと思っていたからだ。学校にも通っているとばかり思っていた。
「そんな気にしないで。住んでるのはひとりだけど・・・・・・、給金はたんまり貰ってて、生活には苦労してないからさ」
あたしが沈んだ表情をすると、またすぐにセトは太陽の笑顔を向けてくれた。
「そうなんだ、誰か名の有る・・・・・・、職人さんの丁稚かなにかかな」
「え・・・・・・っ? あ、そ、そう・・・・・・、そんなところ」
世間知らずのあたしには、身寄りのないこどもでもちゃんと稼げる仕事なんてよくわからないけれど。
「あれ? けどあたしたち、いつも昼過ぎに会ってるよね。その職人さんはいつ働いてるの?」
「あ・・・・・・、えっとその、よ、夜型の親方なんだよ。だからお姉さんと別れてから、仕事場に向かってるのさ」
「ふぅん・・・・・・」
どこか引っかかる物言いだったが、それ以上は詮索しなかった。
あたしだって出来ない家事の話はあんまりしたくないし――なによりあんな良い子が嘘をつくわけがないから。
そんなことがあってから一週間後。
「いいかげんにおしよ! いつまでもあんたの面倒見てられないんだよ!」
その日あたしは料理においてとびきりの失敗を犯してしまって、久々に義母さんのカミナリが落ちた。
けれど、あたしはちっともこたえなかった。今日は無理だが、明日はセトと約束しているのだ。それだけであたしの裡から元気がむくむくと湧き出してこられる。
「ん・・・・・・、もう夕方か。そうだ忘れてた。あんた、郵便屋が閉まる前にこの封筒を出してきておくれよ」
だから義母さんに強引にお遣いを押しつけられても、全然不愉快にならなかった。
あたしは尚早と言っていいほどうきうきした気分で、夕焼けで赤く染まる街路を軽い足取りで進んでいった。
「あれ、セト・・・・・・?」
だから以前と違って面を上げて歩いていたあたしは、偶然にも少年が人混みの向こうを通り過ぎるのを見つけることができた。
セトの方はあたしには気付いていないようだ。
「おーい、セ・・・・・・――?」
声をかけようとしたが、ふと妙だと思った。
セトが進んでいった方向だ。それはこの街でも珍しく夜になっても灯りの落とさない、治安の悪さでも有名な区画だ。間違っても――真っ当な職場があるとは考えられない。
いやな予感がした。服の中で芋虫が這っているような、寒気を呼ぶ妄想だった。
あたしはお遣いのことなどすっかり忘れ、人混みを掻き分けてセトに追いつこうと駆け出した。けれどセトはまるで通い慣れた道だと言わんばかりに、するするとあたしとの距離を広げていく。
そして、辿り着いた先には――
「なにここ――歓楽街じゃない・・・・・・!」
煌びやかな看板に、何重にも混ざり合った客引きたちが張り上げる声。
あたしのような地味な女には、この世でもっとも縁遠い世界――けどそれは、セトにとっても同様なはずだ。
気がつけば、陽はもうとっぷりと暮れていた。
「まさか・・・・・・、そう、まさかよ・・・・・・。なにかの間違いよ」
きっと人違いだったのだ。
それでなくとも――誰かを迎えに来たのかもしれない。たとえば、女にだらしのない職人の師匠を仕事場に連れ戻しにとか。
そうだ。それだ。それに違いない――――
手慣れた様子でセトが一軒の娼館に裏口から入るのを目撃しても、あたしは断固として信じなかった。
走る前から息切れしていたが、あたしは急いで表に回る。
『お休み処――疲れたアナタに男の子たちと憩いのひとときを』
『取り揃えるのは1×歳以下のかわいい美少年のみ』
『もちろん本番、お持ち帰りもお値段と相談!』
嘘だ。
嘘だ。
嘘だ!!
わななきながら、目がおかしくなったのだと思って潰れんばかりに何度もこすった。行き交う人々が奇異の視線を向けてくるが、知ったことか。
そこで引き返すべきだったのだ。真実など美しくもなければ腹の足しにもならない。ただ臭いだけだ。
そんなものには蓋をして、何も見なかった聞かなかったことにして――そして明日もあさってもセトと楽しいお喋りをするのだ。それでいいじゃないか。藪をつついても、金塊なんて出てこない――
「いらっしゃい――お客さん初めてかい?」
いつの間にか、覚束ない足取りで店の敷居をまたいでいた。赤ら顔の店主が、新聞から顔を上げて応対する。
「あ、あの・・・・・・ッ、この店に、セトという子が迷いこんできませんでしたでしょうか? 栗色の髪で、そ、その、とっても整った顔立ちの男の子なんですが」
知らないと言え! 言ってくれ! お願いだ! あたしの知りたくないことを教えないでくれ!
だから――――
「なんだいセトをご指名かい? 悪いね、あいつは三日後まで予約で埋まってるんよ。なんせウチでもいちばん人気だから、セトのやつは」
がらがらがら――と、あたしの中の『なにか』が崩れた。
目は見開いているのに真っ暗で、がつんと殴られたように何も聞こえなくなった。喉はからからで、脚はがくがくで、脈拍はばくばくと激しさを増した。服の中を這っていた100匹の芋虫たちは、いつの間にか胃の中で縦横無尽に暴れていた。
「あ、ァあ・・・・・・――」
尋常でないあたしの様子に、ようやっと店主も怪訝な表情を見せた。
「お客さん、失礼だが・・・・・・、お金はお持ちで?」
商売人は金の匂いに敏感だが、それ以上に貧乏人の匂いにはもっと繊細だ。
あたしは立っていられるのも不思議な状態だったが、それでも「失礼します」とだけ告げてすごすごと店を去った。
脱兎のごとくですらなかった。
あたしは亀のようにのろのろと、方角も判然とせず彷徨った。地べたを――眺めながら。
いつの間にかあたしは来たこともない何処とも知れない場所に迷いこんでいたが、そんなことよりも胸に去来するものの方が大事だった。心臓の部分にぱっくりと穴が開いて、血が霧状になって漏れ出していた。
ふいに裏路地を出ると、眩しさに目をしかめた。
正面を見ると、いつもと変わらない朝陽。まるまる一晩中あたしは、夜の街を徘徊していたのか。
「ぅ、ぁ・・・・・・」
急に現れた太陽が――あたしの中からあの少年の笑顔を掘り起こす。
スコップで内側の肉をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような痛みを感じて、あたしはその場にうずくまった。
(苦しい。苦しい・・・・・・。誰か、助けて、誰か・・・・・・、セ――)
芋虫が食道を逆流してせりあがってきた。血管がささくれ立ち、神経が断裂しそうな嘔吐感。意識が飛びそうだった。
だから吐き気と戦っていたあたしは、石畳を走る轟音と怒号に気を配ることができなかった。
「危ない! 避け――馬が、言うことを――――ッ!」
「――――――――え?」
気付いたときには、あたしの身体は天高く放り上げられていた。
太陽にちょっとだけ近づけた気がして、少しだけ嬉しかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・。
「そう・・・・・・、あたし死んじゃったのね・・・・・・」
挽き肉のようになった自分の肉体が搬送される一部始終を、いやに冷静な心持ちでぼんやり眺めていた。
呆然としながら、あたしは『あたし』を改めて確認する。
腕は半透明ですかすかしているし、足に至っては地面に着いてすらいない。ふよふよと漂いながら、あたしは野次馬の前で手を振ったり大声を出してみたりした。どうやら誰にもあたしを認識できないようだった。
「だけど――それが何だというの?」
不思議と悲しいとは思わなかった。
誰にも気に止められなかった女がひとり、ひっそりと息を引き取っただけのことだ。所詮生きているか死んでいるか――それだけの違いだ。何が変わるというのだろうか。
あたしが死んでも心動かされる人などいない。逆にあたしの方も、未練となるような大事なヒトなんて――
「セ、ト――――」
どくん――と流れてもいない血潮が熱くなった。
まるで走馬燈のように――もう死んでいるのに――あたしの中に、セトとの思い出がフラッシュバックする。それはあたしの希望。それはあたしの財宝。それはあたしの――全てだった。
「ぅ、あ・・・・・・ッ?」
悲しくない? 本当にそうか?
ならば何故、あたしはこんなにも苦しい? ならば何故、馬車に撥ね飛ばされたときよりも痛みに苛まれている?
頭痛がする。身体の表面に湿っぽい暑さが這い回り、芯はからからに冷え切っていた。
「セト、セト、セト――――!」
あたしと談笑している裏で、セトは内心では無知な女だと嘲笑っていたんだ――許せない。
あたしが真実を知って彷徨っていた一方で、セトは見知らぬ女にあの笑顔を向け媚びへつらっていたんだ――許せない。
あたしは血を流しながら冷たくなっている間も、セトはそいつらと身体を重ねて暖め合っていたんだ――許せない!!
憎い、憎い、憎い、憎い――――!
体験したことのない激情が駆け巡る。それは例えるならまるで焔のよう・・・・・・、いや――焔そのもの――だった。
あたしの心臓のあった部位が、ふいに音を立てて燃え盛った。枯れ草になったあたしの心を薪にして、火の手の勢いはどんどんと増していく。
あっという間に、底冷えするような蒼い炎があたしの全身を飲みこんだ。
いや違った。あたし自身が――蒼い炎になったのだ。
『フシャーッ!』
足下で水溜まりを覗きこんでいた猫が、いきなり跳び上がり去っていった。
そこに映っていたのは――生きていた頃には決して浮かべたことのない、はらわたの底から笑顔を浮かべている幽鬼だった。
「あ、は・・・・・・。あはは、はは・・・・・・、ははははははハハハハハハハハハハハハハッ!」
決してその場の誰にも届かない哄笑が、凄惨な事故現場に響いた。
けど構わない。あたしの声も、あたしの熱も、あたしの魂も――全てはたったひとりのためのものなのだから。
「待っててね・・・・・・、待っててよね、セトォ!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・。
その貸家の一室は真夜中にもかかわらず施錠され、家主は外出していた。閉められたカーテンの隙間から朝陽が漏れ、小鳥の囀りが聞こえだした頃ようやっと――ゆっくりと玄関の扉が開いた。
「ただいま・・・・・・」
勤めを終えたもの特有のくたびれた声音。返事など期待しているわけでない、独り言めいた儀礼的な習慣。
だから――
「おかえりなさい」
部屋に潜んでいたあたしがにっこりと微笑んであげると、セトは疲れも忘れて驚いて飛び上がった。
「だッ、誰・・・・・・ッ!? 泥棒・・・・・・、って、え、お姉さん? え、え・・・・・・? そうだ、お姉さん、何できのう待ち合わせに・・・・・・、っていうか、あれ? お姉さん、どうして僕の家知って――――」
暗い室内でもはっきりと、セトの表情が混乱を極めていることがわかった。
「そうか・・・・・・、お姉さん、全部知っちゃったんだね・・・・・・」
かと思うと、今度は観念したかのようにうなだれた。
「店長がね、変なお客さんが来たって教えてくれたんだ。僕のことを捜してたって。まさか・・・・・・、って思ったんだ。違うって信じたかった。けど、やっぱりお姉さんだったんだね」
今まで見たことない自嘲的な笑みを浮かべて、ごめんね――とセトが呟いた。
「蔑んでくれていいよ。職人の弟子なんて嘘っぱちさ。だけど今更言い出せなかったんだ。お姉さんと話してると、仕事のことを忘れられた。また明日会うために、今日も頑張ろうって思えた。悪気はなかったんだ。だから――」
「ごちゃごちゃと――言い訳がましいガキね、セト」
「・・・・・・? お姉さん・・・・・・?」
普段の――今までのあたしなら、絶対にしないであろう受け答え。
そこでようやくセトも、この空間を包む違和感に辿り着いたらしい。
なぜ鍵のかかった部屋の中にあたしがいたのか。どうして閉め切っている割にはぼんやり明るいのか。そうしてセトの視線がまじまじとあたしに――燃え盛りながら空中に静止しているあたしに注がれる。
「お・・・・・・、おば、け・・・・・・?」
「どうしたの怯えた顔して。セトに会いたくて・・・・・・、ちょっと化けて出てきちゃっただけじゃない」
「う、わ――」
ほとんど反射的に、セトが踵を返した。
理性でなく本能が鳴らした警鐘に従って、遮二無二ドアノブへと手を伸ばそうとした。
「うふふ、だぁ〜め♪」
届こうかというその瞬間、まるでシャッターが落ちるように巨大な檻がセトの目の前の地面からせり上がった。完膚なきまでに物理法則を無視したその檻が、そのままあたしのいる方向へ収縮しながら帰還した。
まるで底引き網のように――セトを絡め取りながら。
「つぅかまえたァ♪」
悲鳴をあげるセトを、あたしは柔らかく抱き寄せた。
驚愕と、混乱と、恐怖とでかわいそうにセトは震えていた。そしてその瞳の中では――鬼火が狂喜に微笑んでいた。
「なんで・・・・・・、どうし――んむぅッ!?」
何事かを叫ぶ前に、あたしはセトの唇を奪った。
とにかくセトを安心させるのが火急に必要だったし――なにより、これ以上はあたしが我慢できなかった。
「んむ、ぷ、ぁむ、ぇろ、ぐず、ちゅっ、れ、ちゅぷ、くちゅちゅっ――」
「んぐ、むぅぅ・・・・・・ッ、んむ〜〜〜〜っ!」
二つの口腔内で、壮大な鬼ごっこが始まった。
逃げ惑うセトの舌を、猟犬のようにあたしの舌が捕らえ、絡み、ねじ伏せる。だが貪られながらも獲物は、スキを窺いぬるりと抜け出す。そうするとすぐに追跡が再開される――その繰り返しだった。
熱くて、激しくて、本当に長いベーゼだった。比喩などでなく、永遠にこうして口づけを交わしていたかった。
酸欠で真っ青な顔をしながらセトにばんばん肩を叩かれて、ようやく唇を離した。
「ハァ・・・・・・、ハァ、ハァ・・・・・・ッ! し、死ぬかと思った・・・・・・ッ」
「あら・・・・・・、ダメよ。亡霊の前で軽々しく死ぬとか言っちゃあ」
改めてあたしの死を突きつけられて、セトの表情が激しく歪んだ。
セトは良い子だ。ひとの死を悼む心を持っている。だがそれは哀れみでこそあれ、悲しみではなかった。やるせなさでこそあれ――悔しさではなかった。
「やっぱり・・・・・・、こんなこといけないよ、お姉さん」
それは死人が意思を持って動くことに対してだろうか。
「ねえお姉さん、僕に――何かできることはない?」
それはどうしたらあたしが成仏するかということだろうか。
実に優等生な意見だ。とてもとても――癪に障った。
「幽霊を祓いたいなら・・・・・・、どんな時代だって場所だって方法は変わらないわ。未練を晴らし、憂いを断てばいい。ひとことで言うなら、満足させることよ」
「満足・・・・・・?」
簡単な話だ。
「ふたりがセックスして、セトがあたしをイかせればいいのよ」
その瞬間セトが浮かべたのは動揺だった。だが決して、狼狽ではなかった。
それは『余裕』だった。曲がりなりにも男娼として数多の娘を抱いてきた自分が、こんな根暗でおぼこな女に後れを取るはずがない――そういう自負だった。
「あは、あはははははははっ。お姉さん、冗談言っちゃいけないよ。最期の望みがそんなことで、本当にいいの?」
死ななければあたしは『そんなこと』すら頼めなかった。
けどセトを責めることはできない。セトにとってそれは日常だったのだから。あたしとセトは文字通り、生きる世界が違ったのだから。
だけど――これからは違う。
「わかったよ、お姉さん。そういうことなら協力するよ。じゃあ・・・・・・、僕がリードするから、お姉さんは大人しく――」
「――何を勘違いしているの?」
いきなり、あたしの手がセトの肉棒を掴んだ。先程までの接吻で程よく硬くなったそれを、熱いよだれをだらだらと垂らす秘所へとまっすぐ運ぶ。
「ああ、すごい・・・・・・♪ セトのおちんちん、もう待ちきれないよ」
「い、いやあの、お姉さん・・・・・・? こういうのはまず、前戯があって――」
なおもペースを握ろうとしてくるセト。だが、それは認められない。
金属がこすれる音を立てて、あたしたちを覆っていた檻が変形した。
外側から押されるように狭まっていく空間は、必然的にあたしとセトを密着させる。そして床から生えてきた手錠と足枷が、セトの四肢を捕らえて中空に固定した。
「こ、これは・・・・・・!?」
「怖がらないで――ううん、存分に恐れ戦きなさい」
あくまでも――これは祟りだ。
あたしを裏切った恨めしいセトに、あたしの憎しみを思い知らせてやる儀式なのだ。祭壇に捧げられた生け贄は、ただ許しを請うていればいい――
「もっとも・・・・・・、泣いて謝ったって、やめてあげないけどね♪」
「ま・・・・・・っ、いきなりは、ッッッ〜〜〜〜――――!」
ぶちりという音が聞こえかねない激しさであたしの純潔を剛直が突き破った。
待ちわびた多幸感と圧し広がる異物感とで、あたしは必要ないことも忘れて息を詰まらせた。つつ・・・・・・と、亡霊に似つかわしくない破瓜の血が、セトの肉棒をゆっくりと伝った。
「い、たぁぁぁぁ・・・・・・ッ! すご、これ、ふ、太いぃ・・・・・・っ! セトの、あたしの膣内で、ますます大きくなってるぅぅ・・・・・・ッ♪」
「ぅ、く・・・・・・、せま・・・・・・ッ、ほら、言わんこっちゃない。お姉さん、大丈――――・・・・・・・・・・・・ッ!?」
処女貫通で悶えているあたしを気遣っていたセトの目の色が、ふいに変わった。
「あ・・・・・・、びくんびくんって、セトのおちんちんが脈打ってるの感じる♪」
「ぁ、ぇ、ぁ・・・・・・? な、なにこれ・・・・・・? あ、熱い! 火傷しちゃう・・・・・・ッ、こんな熱い女のひとの、僕、今まで・・・・・・、知らないっ!」
それはそうだろう。いくら受肉しているとはいえ、あたしの本質は炎の塊だ。
しかもただの炎ではない。愛する者を暖めて、昂ぶらせ、包みこみ、そして逃がさない。魔性のものだけが持つことを許される、人間を狂わせる地獄の蒼炎。たかだか街で一番人気の男娼が――御せられる類いのものではない。
「ぅあああああっ! 待って、待って待って待って! ストップ、お姉さん、いったんやめ――」
まるで小動物が媚びを売るような目で、セトがあたしを窺った。今まで幾人もの女を落としてきただろう、必殺のおねだり。
だがゆっくりとセトのそれが、絶望に変わっていく。舌舐めずりするあたしが彼の願いを聞く気などないことを――はっきりと理解したからだ。
「うんうん、もう我慢できないんだね。それじゃ今すぐ動いて、気持ち良くしてあげるからね?」
「ち、ちが・・・・・・っ、お姉さん、話を――くぁああああッ?!」
抗議は嬌声で最後まで言い終えることはできなかった。
熱さのせいで無意識に引いていたセトの男根を、あたしがひと思いに押し挿入れたからだ。セトのこどものものとは思えないペニスが、蛇に食べられるようにあたしの膣内に丸呑みされる。
「あっ、あっ、あっ、な、か・・・・・・、うねうね動いて・・・・・・、あぁあっあっあああっあ」
「うっ、くっ、ふ・・・・・・ッ、あ、あは・・・・・・っ、すご、すごいよぉ♪ 突くたびセトのおちんちん、あたしの気持ちいいとこ全部こすりあげてるぅ・・・・・・ッ♪ 腰止まらない♪ セトってぇ・・・・・・、セックス上手いんだね?」
実際のところ、セトと交われたのが嬉しくてどこを責められても感じてしまっているだけだ。むしろ自信満々だったセトの方が、目をつぶり歯を食いしばって逆に耐えている。
処女そのものの締めつけに、処女のものとは思えぬ膣肉のうねり。人間の女では到底味わえない魔物の快楽が、少年の心を病みつきにさせる。
「駄目――駄目だよセト。あたしを見て。あたしだけを見て。今あなたと繋がってるのは誰? あなたを捕まえているのは誰? 快楽を味わいながらしっかりと、その眼に刻みつけなさい」
両頬をつかんで、強引にあたしの方を向かせる。
あたしからも、あたしに負けたという現実からも目が逸らせない。喘ぎ声をあげながら、熱に浮かされたセトの瞳が暗示でもかけられたようにぼんやりと揺れていた。
「お、ねえさん・・・・・・、あぁ、僕・・・・・・もう・・・・・・ッ」
すがりつくようにセトが懇願した。
「ふふ、堪え性のない子ね。でも、いいよ、受け止めてあげる・・・・・・」
ストロークのペースが更に増した。とろとろになったセトの表情を愛おしげに撫でながら、あたしはスパートをかけた。
おもむろに睾丸がきゅっと縮まり、亀頭がぷくっと膨らむ。
「あは、来て――♪」
「射精す、射精すよっ、お姉さん――くぅぅッ!」
燃え盛る火よりなお熱い液体が、あたしの中に注がれる。
生まれて初めて――いや、死んで初めて味わった、愛しいひとの子宮への射精。天にも昇る幸福が、あたしの魂を支配した。
「ぁ、はあああぁぁぁぁっ♪ あったかぁい♪ セトのぷりぷりの精液が、あたしの中にどぷどぷ流れこんでるっ! 嬉しさだけでイっちゃう、イっちゃうよぉぉぉッ♪」
「あ、あ、あ――! ま、待って、止まって! 無理だからぁッ! イってる間に動かれたら・・・・・・ッ、敏感になってるからぁ・・・・・・ッ!」
半狂乱になって膣内から抜こうとするセトの腰を、浮遊しながらもあたしの脚ががっしりと捕まえた。
「ごめんねぇ・・・・・・っ、けど、無理なの♪ セトのが良すぎて、イってるのに腰ぃ、止まんないんだもん・・・・・・ッ♪」
「あ、あ、が・・・・・・、く、ぁ、ま・・・・・・、また射精る・・・・・・ッ! ぅあああああ――――」
「はぁ・・・・・・、お腹のなか、いっぱぁい・・・・・・♪」
結局セトが三回目の射精をしてようやく、あたしのグラインドがおさまった。こぽり――とあたしの子宮のあった位置が満足げに揺れる。
「ぅ、あ、か・・・・・・、もう、指一本うごかな、い・・・・・・」
一方セトは、心なしかやつれて見えるほどぐったりしていた。
たぶん霊体とのセックスは、生身のそれとは快感の質が違うからだ。精神や肉体を凌駕した、魂そのもので感じる快楽。文字通り精も根も尽き果てたセトがくたびれるのも、仕方のないことなのだ。
少し、悪いことをしたのかもしれない。
――だけど、
「だけど・・・・・・、これで満足したからお姉さんも成仏できるんだね?」
寂しそうな、けど裏腹に安堵したような表情をセトが浮かべる。
――足りない、
「僕、お墓参りに必ず行くよ。だからお姉さんも、安らかに・・・・・・」
神妙な声でセトが言う。あたかももう終わったかのように。
――もっと欲しい、
「ね、ねえお姉さん? そろそろ・・・・・・、この鎖を解いてくれないかな。だってもう――」
「――何を言っているの?」
安定していた火の手が、再び勢いを取り戻した。
「これでお終い・・・・・・? 甘かったわね、そんなわけないじゃない。セト、わかっているの? あなたはあたしに酷いウソをついたのよ」
「それは、謝って・・・・・・、でも、もう、協力して――」
「あたしがここで待っている間も――セトはお店で他の女を客に取っていたのよね」
糾弾の詰問にセトがぐ・・・・・・、と黙った。
「7人かしら? 8人かしら? 許せない、とても看過できないわ。だったらその人数分あたしを満足させなければ――とても公平とは言えないわよね」
「そ、そんなの――」
「そればかりじゃないわ。だってセトは何年もずっと売りをしてきたんですもの。何年もずっとあたしを騙し続けていたんですもの。出逢う前からずっとあたしを裏切っていたんですもの。セトが今までに抱いた女の回数分、少なくともあたしに捧げてもらわなくちゃあ・・・・・・――」
「あ、あ・・・・・・」
狂気の炎にあてられて、セトがみるみると青ざめる。
話し合いは無駄だ。相手は理屈を超越しているからだ。
抵抗は無意味だ。あたしは理学を超越しているからだ。
ここに至ってセトはようやく自分の境遇を理解した。
自分は悪霊に取り憑かれた――逃げ場を、力を、尊厳を、発言権を奪われて、病めるときも悩めるときも、共に過ごさなければならない。この女は死ぬまで――いやたとえ死んでも――自分を手放さないであろう・・・・・・。
「さあ、時間はたっぷりあるわ。まずはさっきの続きを、もう一度始めましょう・・・・・・」
萎えかけていた男根も、あたしの熱に晒されれば現金なものですぐ硬さを取り戻す。
「ゆ、許して・・・・・・! ごめんなさい、ごめんなさ――〜〜〜〜ッ!」
二回目の口づけでセトの唇を塞いだ。
余計な言葉はいらない。セトはただ、喘いでいればいいのだ。求めていればいいのだ。あたしだけに依存して、あたしだけに執着する。あたしからだけに心を動かし、あたしからだけに一喜一憂すればいい。
「ふふ、挿入れるわね・・・・・・」
あたしの襞のしわ一つ一つを丹念に教えこむように、じっくりじっくりと飲みこむ。時間は掃いて捨てるほどある。
永い永い抽送が――再び始まった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・。
小鳥のさえずりがいつの間にかねぐらに帰るカラスに取って代わっているのを聞いて、あたしはようやく遮幕の隙間から斜陽が差しこんでいるのに気付いた。
「あ、は・・・・・・♪ また射精たぁ。これで、えっと・・・・・・、そう、96回目の射精♪ うーん、さすがに薄くなってきたかなあ」
「あ、か・・・・・・・・・・・・?」
日の出から夕暮れまで不断で腰を振り続けていたなんて、いくらあたしが疲れを知らない肉体だからって――本当に、楽しいことは経つのが早い。
一方セトは完全にグロッキーだった。
ひょっとしたらもう数時間もセトがちゃんと喋っているのを聞いていない気がする。いくらなんでもやり過ぎたか。そろそろひとまず休憩させてあげるべきかもしれない。
「ほら、セト、しっかりして。起きて」
頬を優しくぺちぺちと叩くと、あたしに抱きかかえられたままのセトの瞳にぼんやりと光彩が戻る。自分の部屋にいることすら理解しているのかおぼろげだった。
ふらふらと定まらなかった視線が、紅い西日を捉えて止まった。
それは――無意識だった。寝言のような、思考の埒外における独り言。責任などない。何が悪いなどない。
「もう・・・・・・、こんな時間・・・・・・?」
だから誰に聞かせるでもなく、セトはぽろりと言葉を漏らした。
「しごと・・・・・・、行かなきゃ――――」
ぴしり――と空気が固まった。
言ってからマズイと気付いたらしい。一気に覚醒したセトが、全身から玉のような汗をかいて慌てて弁明を始めた。
「あっ、いや、その、今のは、ちが・・・・・・」
「ふぅん、そう・・・・・・、そうなんだ・・・・・・。セトはあたしとこうやって一緒にいるより、お金をもらって誰とも知らない女に媚びを売って犯してもらう方が好きなんだ・・・・・・」
「ち、ちがくて・・・・・・ッ! 今のは、その、習慣というか・・・・・・、いつもそうしてるから――あぁ、ごめんなさいごめんなさいっ!」
「休憩は・・・・・・、終わりだね?」
あたしが優しく微笑みかけてあげると、セトがまた逃げ出そうとする。
元気なものだ。指どころか舌だって満足に動かせないくせに。無駄な努力に身体を震わせているだけのセトを、前後運動を再開しながらあたしは檻をますます密着させて支える。
「も、ぉう、いやだぁ・・・・・・ッ、イくの、怖いよぉ・・・・・・! も、もうイきすぎで・・・・・・ッ、イってるのかイってにゃいのか、自分でもわからひゃい・・・・・・。もうやへて、やめへよぉッ!」
「うるさい! ホラ吹きの悪い子のくせに。あたしの心を弄んだくせに・・・・・・。ずっと嘲笑ってたんでしょ? 馬鹿な女だ、ちょっと助けたくらいで舞い上がっちゃってって」
「違う、それは――違うんだ!」
やけにきっぱりと、セトが叫んだ。
腰を振るのをいったん止めて、あたしは何事かを訴えるセトの目を覗きこむ。
「違うって・・・・・・何が?」
「始めにお姉さんを助けた、その理由だよ。幽霊みたいって言ったけど、でも本当は、本当は――」
つらい思い出に苛まれるように、セトが唇を噛んだ。
「親だけじゃなくて・・・・・・、姉がいたんだ。病気で一緒に死んじゃったんだけど、それが――お姉さんと、あんまりにも似てたんだ。市場で見かけたとき、びっくりした」
真摯そのものな瞳で、必死にセトは語った。
「だからお姉さんが困っていたとき、声をかけなくちゃって・・・・・・、そう思ったんだ」
そういうことだったのか。
セトはあたしに、実の姉の面影を見ていた。だからあたしの危機を救ってくれたし、それからも何くれとなく良くしてくれた。
なんていじましいんだろう。なんて健気なんだろう。そしてなんて・・・・・・、なんて――
「なんて――――嫉ましいんだろう」
今まででいちばん勢いをつけて、ペニスをあたしの奥底にねじこんだ。ほとんど総毛立って、セトが絶叫をあげた。
「う、がぁぁぁああぁあぁぁぁあああぁっぁ!? お、おねえさ・・・・・・ッ、なん、で・・・・・・?」
「要らないのよ全部。セトの心の中に、あたし以外の女は要らないの。たとえ死人だろうと。たとえ肉親だろうと。だから忘れさせるの。ねえ、魂が壊れるくらい激しくぐちゃぐちゃに犯せば、もしかしたら記憶も消え去るんじゃないかなあ?」
「そ、そんな――ぅわあああああっ?!」
きゅっと睾丸が持ち上がる、射精の前兆。何十回味わってもこの感触は、飽きることがない――
「ふふふ・・・・・・、それじゃ俗世にばいばいする97回目の絶頂、元気よくいってみよっか」
「あああぁ・・・・・・♪ ァァああぁアあぁあああッ――」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・。
日はとっぷりと暮れ、満月が煌々とあたしたちを照らしていた。カーテン越しの西日と違い、月ははっきりと肉眼で確認できる。
何故なら――
「ほらどうしたの、セト。縮こまっちゃって。高い場所怖いの? ん、でもここは、やっぱり硬いままね」
「む、無理無理無理だよお姉さん! こ、こんなの・・・・・・ッ、絶対誰か見てる。見られてるっ!」
ロマンチックな満天の星空に囲まれて、セトが羞恥に真っ赤に染まる。
ここは街の遙か上空。あたしが檻を持ち上げて作った、何ものも邪魔できないふたりだけの絶対の空間で、相変わらずあたしたちは交わり続けていた。人は豆粒のような大きさだが、月を眺めていたらもしかしたら、あたしたちのことも目撃するかもしれない。
「そうね・・・・・・、ねえセト、わかる? 街中の人間にいま、セトはセックスを見せびらかしてるんだよ。何千人もの野次馬の前なのにこんな興奮しちゃうなんて・・・・・・、変態だね? もうセトが戻るところなんて、どこにもないね・・・・・・?」
「あ、ぁ・・・・・・」
改めて逃げ道を封じられて、セトの表情が曇る。
そしてそれを、あたしが抱きしめる。硬い鉄の檻と柔らかいあたしの肉で挟まれて、頑なだったセトの心にゆっくりと毒が流れこむ。
「けど安心して。たとえセトがどんな救いのない嘘つきで変態でも・・・・・・、あたしだけは味方。あたしだけは見捨てない。あたしだけは・・・・・・セトを受け入れてあげる」
「お、ねえ・・・・・・、さん・・・・・・」
涙をにじませながら、セトがあたしの胸に突っ伏する。
その様子はまるでおっぱいを欲する赤ちゃんのようで――あたしの庇護欲と征服欲をくすぐらせた。
「あたしだけが寒がるセトの身体を暖められる。あたしだけが寂しがるセトの心を埋め合わせられる。あたしだけが乾いたセトの魂を――潤してあげられる」
あたしに依存しなさい。あたしを渇望しなさい。
あたしに溺れて、あたしに流されて、あたしに手も足も取られて、そして最後にあたしにすがりなさい。
子守歌でも聞かされたみたいに、セトのまぶたがとろんと落ちた。子供らしく、さすがにおねむらしい。まあ、今日のところはこれくらいでいいか。
何せあたしたちには――永遠の時間がある。
「眠りなさい、月があたしたちを見守ってくれてるわ」
太陽の笑顔をあたしだけに浮かべながら、ゆっくりとセトは夢の中に落ちていった。
真っ赤な石畳に倒れ伏しながら、誰にともなくあたしは呟いた。
「誰にも必要とされない・・・・・・、くだらない一生だった・・・・・・」
周りの人たちが暴れ馬車が――とか、早く医者を――とか叫んでいるのがぼんやりと聞こえた。
けど薄れいく意識と喧噪も、お腹からどくどくと流れ落ちるいのちの源も、あたしは気にも止めていなかった。
そんなことよりも・・・・・・。
そんな『どうでもいい』ことよりも――
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・。
「十六にもなって、こんな簡単な仕事も出来ないのかい」
あたしがこなしたいっそ直す前よりも綺麗だった裁縫仕事を見て、目の前の女性がため息をついた。
「はい、ごめんなさい・・・・・・。義母さん」
「・・・・・・ふん」
あたしに義母(はは)と呼ばれた瞬間、彼女の鼻に皺が寄ったが――それ以上は特に何も言われなかった。
「もういいよ。期待した私が馬鹿だった。こっちはやっとくからあんたは、晩飯の買い物に行ってきな」
しっしっ――と、犬でも追い払うように駄賃と籠を渡された。
「はい、わかりました・・・・・・」
沈んだ気持ちのせいでうつむいて市場を歩く。いや、項垂れて歩くのはいつものことだった。――これがあたしの日常だった。
地べたしか見ない。だって太陽は眩しいから。目が灼けるから。
父親には愛想を尽かされ、継母には煙たがられる。なんてことない、一山いくらのどこにでもある不幸自慢だ。あたしは灰かぶりじゃないから、きっとカボチャの馬車も来ないし絵本にもならない。
腹の虫がおさまらなかった。怒っているわけじゃない、空腹のせいだ。
果物の屋台と、義母さんに渡された巾着を見る。ちょうどお遣いの値段とぴったりだ。遊びはなかった。
あたしは言われた通りにしか――いや、言われた通りにすら動けない出来損ない。せめて良い子に。波風を立てず。感情を持たず。だから・・・・・・、だからあたしは――
「お嬢ちゃん、ポケットの中のオレンジを出そうか」
ぎくり――と固まったときにはすでに屋台の店主があたしの手首を掴んでいた。たじろいだ弾みで、ぽろりと品物が地面に落ちた。
「あ、あの・・・・・・、その、こ、これは・・・・・・」
「気の毒に思わなくもないがね。こっちも商売だ、出るとこに出てもらうよ」
目の前が真っ暗になった。肺が縮み上がって、なにか言おうとしてもしゃっくりみたいなしどろもどろしか出なかった。
「あぅ、えっと・・・・・・、あ、ち、ちが・・・・・・」
「誰か、憲兵を――」
「まあまあ親父さん、それくらいで勘弁してあげてよ」
助け船は、意外なところから現れた。
ふり向くとあたしの胸くらいまでの背の少年が、人好きのする笑顔であたしと店主の間に割って入ってきた。
「なんだ、セト。お前の知り合いか・・・・・・?」
「うん、そうだよ。お姉ちゃんたら、はぐれたと思って心配したよ」
店主の疑わしげな視線を受けても、セトと呼ばれた少年はまったく怯む様子はなかった。あたしの肩をいきなり抱き寄せ、十年来の親友のような屈託のない笑顔を向ける。
「あ、あの・・・・・・」
ふわり――と栗色の髪から良い香りが漂った。石鹸だ。
匂いだけでなく、きちんと切り揃えられた髪にこざっぱりとした衣装。そしてなにより、少年でありながらはっとするほどの『美貌』とすら呼べる容姿。貴族――でこそないが、少なくともそこそこ上流の階級のこどもであるのは間違いない。
「お願いだよ親父さん、僕の顔に免じて水に流してくれないかな」
「いやセト、いくらお前さんの頼みでも・・・・・・、そういうわけにはいかないだろう」
「じゃあこうしよう。僕がこの落っこちたオレンジを2倍の値段で買い取る。ついでに僕の分のオレンジももらおう、こっちも2倍で。4倍の儲けだ。ね、悪い話じゃないでしょう?」
「う、む・・・・・・」
畳みかけるような商談に店主はまだ渋い顔をしていたが、銀貨をぐいぐいと押しつけられてついには折れてしまった。
「ありがと、また来るね〜」
手を振りながら、持っているオレンジよりよっぽど明るい笑顔で少年が去っていく。あたしは居心地が悪くなって――なんとなく、彼の後について歩いた。
「あ・・・・・・、あの・・・・・・ッ」
あたしが口を開いたのは、たっぷり3ブロックは歩いてからだった。
「・・・・・・ん、どしたのお姉さん? あ、忘れてた。はい、これ渡すね。・・・・・・あ、1個は僕のだからね」
「あ、どうも・・・・・・。って、じゃなくて!」
「・・・・・・?」
しゃりしゃりと皮を剥いたオレンジを頬張りながら、少年はまっすぐな瞳であたしを見つめてくる。
「なぜ・・・・・・、あたしなんかを助けてくれたの?」
あたしは――いつだってこうだ。
どうして素直にありがとうと言えないのだろう。どうして他人の目を見られないのだろう。
情けなさすぎて、涙がこみ上げてくる。万引きで捕まったことよりも、そっちの方がよっぽど惨めな気分だった。
「だって――お姉さん、まるで幽霊みたいだったから」
気になって目で追ってたんだよ――と少年は続けた。
「・・・・・・あんまり気分の良い表現じゃなかったかな?」
言ってから失敗したと思ったか、少年がぽりぽりと頬をかいた。
けど、彼の抱いた印象はきっと正しい。
誰の役にも立たず誰からも愛情を受けず――何も為さないものが、幽霊でなくていったい何であるというのか。誰にも気にも止められず、ただ死んでないから生きている――そんな幽かな存在。
だけど――彼は見つけてくれた。
ぶわっ――と、身体の中を風が吹き抜けるような感覚がした。灰色だった町並みが、くすんでいた人混みが、七色に輝いているように見えた。
あたしは目をしばたたいた。
この気持ちは――――なに?
「自己紹介がまだだったね。僕はセト。お姉さんの名前は何ていうの?」
「名前なんて・・・・・・、そんなもの意味がないわ。昔はあったけど、今はそれであたしを呼んでくれる人は、ひとりもいないもの」
ああ、まただ。また昏い受け答えをしてしまった。暗い女だって思われる。嫌われる。嫌われるのがどうしようもなく怖かった。人に疎まれるのなんて、もう慣れっこと思っていたのに。
けどセトは特に気にした風もなくて、さらりと流してしまった。
「ふぅん、まあいいや。それじゃあお姉さんって引き続き呼ぶね。・・・・・・ねえお姉さん」
浮かべた屈託のない笑顔は――太陽だった。
あたしはいつだって、目を逸らしてきた。眩しすぎるから・・・・・・。目が灼けるから・・・・・・。
陽に焼かれたように、頬が熱くなるのを感じた。
「明日も――また会えるかな?」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・。
「そうなの、低血圧のせいで寝起きはいつも辛くて・・・・・・」
「海が見てみたいんだ。川や湖とは全然違うんでしょ・・・・・・」
「あたしもシチューは、ドロドロよりも汁っぽい方が好きよ・・・・・・」
「いやあ、あの時はお腹かかえて笑ったなあ・・・・・・」
それから毎日とはいかなかったけど、週に3、4回の頻度であたしは家を抜け出してセトと落ち合った。
会うのはいつも昼下がり、市場をぶらぶらしながら取り留めもない会話を重ねるだけだったけど、あたしにとっては生きてきてもっとも楽しい時間だった。つらい毎日の中で待ち遠しく思える、唯一の希望だった。
「お父さんもお母さんも、もういないの・・・・・・?」
ある日流れでお互いの両親の話題に行き着いたとき、セトは寂しそうに言った。
「うん、流行り病でね。三年前に死んじゃった・・・・・・」
「ごめん・・・・・・」
悪いことを訊いた。
だがそれ以上に意外だった。セトの身なりの良さは、きっとどこかの良家の子息かもしれないと思っていたからだ。学校にも通っているとばかり思っていた。
「そんな気にしないで。住んでるのはひとりだけど・・・・・・、給金はたんまり貰ってて、生活には苦労してないからさ」
あたしが沈んだ表情をすると、またすぐにセトは太陽の笑顔を向けてくれた。
「そうなんだ、誰か名の有る・・・・・・、職人さんの丁稚かなにかかな」
「え・・・・・・っ? あ、そ、そう・・・・・・、そんなところ」
世間知らずのあたしには、身寄りのないこどもでもちゃんと稼げる仕事なんてよくわからないけれど。
「あれ? けどあたしたち、いつも昼過ぎに会ってるよね。その職人さんはいつ働いてるの?」
「あ・・・・・・、えっとその、よ、夜型の親方なんだよ。だからお姉さんと別れてから、仕事場に向かってるのさ」
「ふぅん・・・・・・」
どこか引っかかる物言いだったが、それ以上は詮索しなかった。
あたしだって出来ない家事の話はあんまりしたくないし――なによりあんな良い子が嘘をつくわけがないから。
そんなことがあってから一週間後。
「いいかげんにおしよ! いつまでもあんたの面倒見てられないんだよ!」
その日あたしは料理においてとびきりの失敗を犯してしまって、久々に義母さんのカミナリが落ちた。
けれど、あたしはちっともこたえなかった。今日は無理だが、明日はセトと約束しているのだ。それだけであたしの裡から元気がむくむくと湧き出してこられる。
「ん・・・・・・、もう夕方か。そうだ忘れてた。あんた、郵便屋が閉まる前にこの封筒を出してきておくれよ」
だから義母さんに強引にお遣いを押しつけられても、全然不愉快にならなかった。
あたしは尚早と言っていいほどうきうきした気分で、夕焼けで赤く染まる街路を軽い足取りで進んでいった。
「あれ、セト・・・・・・?」
だから以前と違って面を上げて歩いていたあたしは、偶然にも少年が人混みの向こうを通り過ぎるのを見つけることができた。
セトの方はあたしには気付いていないようだ。
「おーい、セ・・・・・・――?」
声をかけようとしたが、ふと妙だと思った。
セトが進んでいった方向だ。それはこの街でも珍しく夜になっても灯りの落とさない、治安の悪さでも有名な区画だ。間違っても――真っ当な職場があるとは考えられない。
いやな予感がした。服の中で芋虫が這っているような、寒気を呼ぶ妄想だった。
あたしはお遣いのことなどすっかり忘れ、人混みを掻き分けてセトに追いつこうと駆け出した。けれどセトはまるで通い慣れた道だと言わんばかりに、するするとあたしとの距離を広げていく。
そして、辿り着いた先には――
「なにここ――歓楽街じゃない・・・・・・!」
煌びやかな看板に、何重にも混ざり合った客引きたちが張り上げる声。
あたしのような地味な女には、この世でもっとも縁遠い世界――けどそれは、セトにとっても同様なはずだ。
気がつけば、陽はもうとっぷりと暮れていた。
「まさか・・・・・・、そう、まさかよ・・・・・・。なにかの間違いよ」
きっと人違いだったのだ。
それでなくとも――誰かを迎えに来たのかもしれない。たとえば、女にだらしのない職人の師匠を仕事場に連れ戻しにとか。
そうだ。それだ。それに違いない――――
手慣れた様子でセトが一軒の娼館に裏口から入るのを目撃しても、あたしは断固として信じなかった。
走る前から息切れしていたが、あたしは急いで表に回る。
『お休み処――疲れたアナタに男の子たちと憩いのひとときを』
『取り揃えるのは1×歳以下のかわいい美少年のみ』
『もちろん本番、お持ち帰りもお値段と相談!』
嘘だ。
嘘だ。
嘘だ!!
わななきながら、目がおかしくなったのだと思って潰れんばかりに何度もこすった。行き交う人々が奇異の視線を向けてくるが、知ったことか。
そこで引き返すべきだったのだ。真実など美しくもなければ腹の足しにもならない。ただ臭いだけだ。
そんなものには蓋をして、何も見なかった聞かなかったことにして――そして明日もあさってもセトと楽しいお喋りをするのだ。それでいいじゃないか。藪をつついても、金塊なんて出てこない――
「いらっしゃい――お客さん初めてかい?」
いつの間にか、覚束ない足取りで店の敷居をまたいでいた。赤ら顔の店主が、新聞から顔を上げて応対する。
「あ、あの・・・・・・ッ、この店に、セトという子が迷いこんできませんでしたでしょうか? 栗色の髪で、そ、その、とっても整った顔立ちの男の子なんですが」
知らないと言え! 言ってくれ! お願いだ! あたしの知りたくないことを教えないでくれ!
だから――――
「なんだいセトをご指名かい? 悪いね、あいつは三日後まで予約で埋まってるんよ。なんせウチでもいちばん人気だから、セトのやつは」
がらがらがら――と、あたしの中の『なにか』が崩れた。
目は見開いているのに真っ暗で、がつんと殴られたように何も聞こえなくなった。喉はからからで、脚はがくがくで、脈拍はばくばくと激しさを増した。服の中を這っていた100匹の芋虫たちは、いつの間にか胃の中で縦横無尽に暴れていた。
「あ、ァあ・・・・・・――」
尋常でないあたしの様子に、ようやっと店主も怪訝な表情を見せた。
「お客さん、失礼だが・・・・・・、お金はお持ちで?」
商売人は金の匂いに敏感だが、それ以上に貧乏人の匂いにはもっと繊細だ。
あたしは立っていられるのも不思議な状態だったが、それでも「失礼します」とだけ告げてすごすごと店を去った。
脱兎のごとくですらなかった。
あたしは亀のようにのろのろと、方角も判然とせず彷徨った。地べたを――眺めながら。
いつの間にかあたしは来たこともない何処とも知れない場所に迷いこんでいたが、そんなことよりも胸に去来するものの方が大事だった。心臓の部分にぱっくりと穴が開いて、血が霧状になって漏れ出していた。
ふいに裏路地を出ると、眩しさに目をしかめた。
正面を見ると、いつもと変わらない朝陽。まるまる一晩中あたしは、夜の街を徘徊していたのか。
「ぅ、ぁ・・・・・・」
急に現れた太陽が――あたしの中からあの少年の笑顔を掘り起こす。
スコップで内側の肉をぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような痛みを感じて、あたしはその場にうずくまった。
(苦しい。苦しい・・・・・・。誰か、助けて、誰か・・・・・・、セ――)
芋虫が食道を逆流してせりあがってきた。血管がささくれ立ち、神経が断裂しそうな嘔吐感。意識が飛びそうだった。
だから吐き気と戦っていたあたしは、石畳を走る轟音と怒号に気を配ることができなかった。
「危ない! 避け――馬が、言うことを――――ッ!」
「――――――――え?」
気付いたときには、あたしの身体は天高く放り上げられていた。
太陽にちょっとだけ近づけた気がして、少しだけ嬉しかった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・。
「そう・・・・・・、あたし死んじゃったのね・・・・・・」
挽き肉のようになった自分の肉体が搬送される一部始終を、いやに冷静な心持ちでぼんやり眺めていた。
呆然としながら、あたしは『あたし』を改めて確認する。
腕は半透明ですかすかしているし、足に至っては地面に着いてすらいない。ふよふよと漂いながら、あたしは野次馬の前で手を振ったり大声を出してみたりした。どうやら誰にもあたしを認識できないようだった。
「だけど――それが何だというの?」
不思議と悲しいとは思わなかった。
誰にも気に止められなかった女がひとり、ひっそりと息を引き取っただけのことだ。所詮生きているか死んでいるか――それだけの違いだ。何が変わるというのだろうか。
あたしが死んでも心動かされる人などいない。逆にあたしの方も、未練となるような大事なヒトなんて――
「セ、ト――――」
どくん――と流れてもいない血潮が熱くなった。
まるで走馬燈のように――もう死んでいるのに――あたしの中に、セトとの思い出がフラッシュバックする。それはあたしの希望。それはあたしの財宝。それはあたしの――全てだった。
「ぅ、あ・・・・・・ッ?」
悲しくない? 本当にそうか?
ならば何故、あたしはこんなにも苦しい? ならば何故、馬車に撥ね飛ばされたときよりも痛みに苛まれている?
頭痛がする。身体の表面に湿っぽい暑さが這い回り、芯はからからに冷え切っていた。
「セト、セト、セト――――!」
あたしと談笑している裏で、セトは内心では無知な女だと嘲笑っていたんだ――許せない。
あたしが真実を知って彷徨っていた一方で、セトは見知らぬ女にあの笑顔を向け媚びへつらっていたんだ――許せない。
あたしは血を流しながら冷たくなっている間も、セトはそいつらと身体を重ねて暖め合っていたんだ――許せない!!
憎い、憎い、憎い、憎い――――!
体験したことのない激情が駆け巡る。それは例えるならまるで焔のよう・・・・・・、いや――焔そのもの――だった。
あたしの心臓のあった部位が、ふいに音を立てて燃え盛った。枯れ草になったあたしの心を薪にして、火の手の勢いはどんどんと増していく。
あっという間に、底冷えするような蒼い炎があたしの全身を飲みこんだ。
いや違った。あたし自身が――蒼い炎になったのだ。
『フシャーッ!』
足下で水溜まりを覗きこんでいた猫が、いきなり跳び上がり去っていった。
そこに映っていたのは――生きていた頃には決して浮かべたことのない、はらわたの底から笑顔を浮かべている幽鬼だった。
「あ、は・・・・・・。あはは、はは・・・・・・、ははははははハハハハハハハハハハハハハッ!」
決してその場の誰にも届かない哄笑が、凄惨な事故現場に響いた。
けど構わない。あたしの声も、あたしの熱も、あたしの魂も――全てはたったひとりのためのものなのだから。
「待っててね・・・・・・、待っててよね、セトォ!」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・。
その貸家の一室は真夜中にもかかわらず施錠され、家主は外出していた。閉められたカーテンの隙間から朝陽が漏れ、小鳥の囀りが聞こえだした頃ようやっと――ゆっくりと玄関の扉が開いた。
「ただいま・・・・・・」
勤めを終えたもの特有のくたびれた声音。返事など期待しているわけでない、独り言めいた儀礼的な習慣。
だから――
「おかえりなさい」
部屋に潜んでいたあたしがにっこりと微笑んであげると、セトは疲れも忘れて驚いて飛び上がった。
「だッ、誰・・・・・・ッ!? 泥棒・・・・・・、って、え、お姉さん? え、え・・・・・・? そうだ、お姉さん、何できのう待ち合わせに・・・・・・、っていうか、あれ? お姉さん、どうして僕の家知って――――」
暗い室内でもはっきりと、セトの表情が混乱を極めていることがわかった。
「そうか・・・・・・、お姉さん、全部知っちゃったんだね・・・・・・」
かと思うと、今度は観念したかのようにうなだれた。
「店長がね、変なお客さんが来たって教えてくれたんだ。僕のことを捜してたって。まさか・・・・・・、って思ったんだ。違うって信じたかった。けど、やっぱりお姉さんだったんだね」
今まで見たことない自嘲的な笑みを浮かべて、ごめんね――とセトが呟いた。
「蔑んでくれていいよ。職人の弟子なんて嘘っぱちさ。だけど今更言い出せなかったんだ。お姉さんと話してると、仕事のことを忘れられた。また明日会うために、今日も頑張ろうって思えた。悪気はなかったんだ。だから――」
「ごちゃごちゃと――言い訳がましいガキね、セト」
「・・・・・・? お姉さん・・・・・・?」
普段の――今までのあたしなら、絶対にしないであろう受け答え。
そこでようやくセトも、この空間を包む違和感に辿り着いたらしい。
なぜ鍵のかかった部屋の中にあたしがいたのか。どうして閉め切っている割にはぼんやり明るいのか。そうしてセトの視線がまじまじとあたしに――燃え盛りながら空中に静止しているあたしに注がれる。
「お・・・・・・、おば、け・・・・・・?」
「どうしたの怯えた顔して。セトに会いたくて・・・・・・、ちょっと化けて出てきちゃっただけじゃない」
「う、わ――」
ほとんど反射的に、セトが踵を返した。
理性でなく本能が鳴らした警鐘に従って、遮二無二ドアノブへと手を伸ばそうとした。
「うふふ、だぁ〜め♪」
届こうかというその瞬間、まるでシャッターが落ちるように巨大な檻がセトの目の前の地面からせり上がった。完膚なきまでに物理法則を無視したその檻が、そのままあたしのいる方向へ収縮しながら帰還した。
まるで底引き網のように――セトを絡め取りながら。
「つぅかまえたァ♪」
悲鳴をあげるセトを、あたしは柔らかく抱き寄せた。
驚愕と、混乱と、恐怖とでかわいそうにセトは震えていた。そしてその瞳の中では――鬼火が狂喜に微笑んでいた。
「なんで・・・・・・、どうし――んむぅッ!?」
何事かを叫ぶ前に、あたしはセトの唇を奪った。
とにかくセトを安心させるのが火急に必要だったし――なにより、これ以上はあたしが我慢できなかった。
「んむ、ぷ、ぁむ、ぇろ、ぐず、ちゅっ、れ、ちゅぷ、くちゅちゅっ――」
「んぐ、むぅぅ・・・・・・ッ、んむ〜〜〜〜っ!」
二つの口腔内で、壮大な鬼ごっこが始まった。
逃げ惑うセトの舌を、猟犬のようにあたしの舌が捕らえ、絡み、ねじ伏せる。だが貪られながらも獲物は、スキを窺いぬるりと抜け出す。そうするとすぐに追跡が再開される――その繰り返しだった。
熱くて、激しくて、本当に長いベーゼだった。比喩などでなく、永遠にこうして口づけを交わしていたかった。
酸欠で真っ青な顔をしながらセトにばんばん肩を叩かれて、ようやく唇を離した。
「ハァ・・・・・・、ハァ、ハァ・・・・・・ッ! し、死ぬかと思った・・・・・・ッ」
「あら・・・・・・、ダメよ。亡霊の前で軽々しく死ぬとか言っちゃあ」
改めてあたしの死を突きつけられて、セトの表情が激しく歪んだ。
セトは良い子だ。ひとの死を悼む心を持っている。だがそれは哀れみでこそあれ、悲しみではなかった。やるせなさでこそあれ――悔しさではなかった。
「やっぱり・・・・・・、こんなこといけないよ、お姉さん」
それは死人が意思を持って動くことに対してだろうか。
「ねえお姉さん、僕に――何かできることはない?」
それはどうしたらあたしが成仏するかということだろうか。
実に優等生な意見だ。とてもとても――癪に障った。
「幽霊を祓いたいなら・・・・・・、どんな時代だって場所だって方法は変わらないわ。未練を晴らし、憂いを断てばいい。ひとことで言うなら、満足させることよ」
「満足・・・・・・?」
簡単な話だ。
「ふたりがセックスして、セトがあたしをイかせればいいのよ」
その瞬間セトが浮かべたのは動揺だった。だが決して、狼狽ではなかった。
それは『余裕』だった。曲がりなりにも男娼として数多の娘を抱いてきた自分が、こんな根暗でおぼこな女に後れを取るはずがない――そういう自負だった。
「あは、あはははははははっ。お姉さん、冗談言っちゃいけないよ。最期の望みがそんなことで、本当にいいの?」
死ななければあたしは『そんなこと』すら頼めなかった。
けどセトを責めることはできない。セトにとってそれは日常だったのだから。あたしとセトは文字通り、生きる世界が違ったのだから。
だけど――これからは違う。
「わかったよ、お姉さん。そういうことなら協力するよ。じゃあ・・・・・・、僕がリードするから、お姉さんは大人しく――」
「――何を勘違いしているの?」
いきなり、あたしの手がセトの肉棒を掴んだ。先程までの接吻で程よく硬くなったそれを、熱いよだれをだらだらと垂らす秘所へとまっすぐ運ぶ。
「ああ、すごい・・・・・・♪ セトのおちんちん、もう待ちきれないよ」
「い、いやあの、お姉さん・・・・・・? こういうのはまず、前戯があって――」
なおもペースを握ろうとしてくるセト。だが、それは認められない。
金属がこすれる音を立てて、あたしたちを覆っていた檻が変形した。
外側から押されるように狭まっていく空間は、必然的にあたしとセトを密着させる。そして床から生えてきた手錠と足枷が、セトの四肢を捕らえて中空に固定した。
「こ、これは・・・・・・!?」
「怖がらないで――ううん、存分に恐れ戦きなさい」
あくまでも――これは祟りだ。
あたしを裏切った恨めしいセトに、あたしの憎しみを思い知らせてやる儀式なのだ。祭壇に捧げられた生け贄は、ただ許しを請うていればいい――
「もっとも・・・・・・、泣いて謝ったって、やめてあげないけどね♪」
「ま・・・・・・っ、いきなりは、ッッッ〜〜〜〜――――!」
ぶちりという音が聞こえかねない激しさであたしの純潔を剛直が突き破った。
待ちわびた多幸感と圧し広がる異物感とで、あたしは必要ないことも忘れて息を詰まらせた。つつ・・・・・・と、亡霊に似つかわしくない破瓜の血が、セトの肉棒をゆっくりと伝った。
「い、たぁぁぁぁ・・・・・・ッ! すご、これ、ふ、太いぃ・・・・・・っ! セトの、あたしの膣内で、ますます大きくなってるぅぅ・・・・・・ッ♪」
「ぅ、く・・・・・・、せま・・・・・・ッ、ほら、言わんこっちゃない。お姉さん、大丈――――・・・・・・・・・・・・ッ!?」
処女貫通で悶えているあたしを気遣っていたセトの目の色が、ふいに変わった。
「あ・・・・・・、びくんびくんって、セトのおちんちんが脈打ってるの感じる♪」
「ぁ、ぇ、ぁ・・・・・・? な、なにこれ・・・・・・? あ、熱い! 火傷しちゃう・・・・・・ッ、こんな熱い女のひとの、僕、今まで・・・・・・、知らないっ!」
それはそうだろう。いくら受肉しているとはいえ、あたしの本質は炎の塊だ。
しかもただの炎ではない。愛する者を暖めて、昂ぶらせ、包みこみ、そして逃がさない。魔性のものだけが持つことを許される、人間を狂わせる地獄の蒼炎。たかだか街で一番人気の男娼が――御せられる類いのものではない。
「ぅあああああっ! 待って、待って待って待って! ストップ、お姉さん、いったんやめ――」
まるで小動物が媚びを売るような目で、セトがあたしを窺った。今まで幾人もの女を落としてきただろう、必殺のおねだり。
だがゆっくりとセトのそれが、絶望に変わっていく。舌舐めずりするあたしが彼の願いを聞く気などないことを――はっきりと理解したからだ。
「うんうん、もう我慢できないんだね。それじゃ今すぐ動いて、気持ち良くしてあげるからね?」
「ち、ちが・・・・・・っ、お姉さん、話を――くぁああああッ?!」
抗議は嬌声で最後まで言い終えることはできなかった。
熱さのせいで無意識に引いていたセトの男根を、あたしがひと思いに押し挿入れたからだ。セトのこどものものとは思えないペニスが、蛇に食べられるようにあたしの膣内に丸呑みされる。
「あっ、あっ、あっ、な、か・・・・・・、うねうね動いて・・・・・・、あぁあっあっあああっあ」
「うっ、くっ、ふ・・・・・・ッ、あ、あは・・・・・・っ、すご、すごいよぉ♪ 突くたびセトのおちんちん、あたしの気持ちいいとこ全部こすりあげてるぅ・・・・・・ッ♪ 腰止まらない♪ セトってぇ・・・・・・、セックス上手いんだね?」
実際のところ、セトと交われたのが嬉しくてどこを責められても感じてしまっているだけだ。むしろ自信満々だったセトの方が、目をつぶり歯を食いしばって逆に耐えている。
処女そのものの締めつけに、処女のものとは思えぬ膣肉のうねり。人間の女では到底味わえない魔物の快楽が、少年の心を病みつきにさせる。
「駄目――駄目だよセト。あたしを見て。あたしだけを見て。今あなたと繋がってるのは誰? あなたを捕まえているのは誰? 快楽を味わいながらしっかりと、その眼に刻みつけなさい」
両頬をつかんで、強引にあたしの方を向かせる。
あたしからも、あたしに負けたという現実からも目が逸らせない。喘ぎ声をあげながら、熱に浮かされたセトの瞳が暗示でもかけられたようにぼんやりと揺れていた。
「お、ねえさん・・・・・・、あぁ、僕・・・・・・もう・・・・・・ッ」
すがりつくようにセトが懇願した。
「ふふ、堪え性のない子ね。でも、いいよ、受け止めてあげる・・・・・・」
ストロークのペースが更に増した。とろとろになったセトの表情を愛おしげに撫でながら、あたしはスパートをかけた。
おもむろに睾丸がきゅっと縮まり、亀頭がぷくっと膨らむ。
「あは、来て――♪」
「射精す、射精すよっ、お姉さん――くぅぅッ!」
燃え盛る火よりなお熱い液体が、あたしの中に注がれる。
生まれて初めて――いや、死んで初めて味わった、愛しいひとの子宮への射精。天にも昇る幸福が、あたしの魂を支配した。
「ぁ、はあああぁぁぁぁっ♪ あったかぁい♪ セトのぷりぷりの精液が、あたしの中にどぷどぷ流れこんでるっ! 嬉しさだけでイっちゃう、イっちゃうよぉぉぉッ♪」
「あ、あ、あ――! ま、待って、止まって! 無理だからぁッ! イってる間に動かれたら・・・・・・ッ、敏感になってるからぁ・・・・・・ッ!」
半狂乱になって膣内から抜こうとするセトの腰を、浮遊しながらもあたしの脚ががっしりと捕まえた。
「ごめんねぇ・・・・・・っ、けど、無理なの♪ セトのが良すぎて、イってるのに腰ぃ、止まんないんだもん・・・・・・ッ♪」
「あ、あ、が・・・・・・、く、ぁ、ま・・・・・・、また射精る・・・・・・ッ! ぅあああああ――――」
「はぁ・・・・・・、お腹のなか、いっぱぁい・・・・・・♪」
結局セトが三回目の射精をしてようやく、あたしのグラインドがおさまった。こぽり――とあたしの子宮のあった位置が満足げに揺れる。
「ぅ、あ、か・・・・・・、もう、指一本うごかな、い・・・・・・」
一方セトは、心なしかやつれて見えるほどぐったりしていた。
たぶん霊体とのセックスは、生身のそれとは快感の質が違うからだ。精神や肉体を凌駕した、魂そのもので感じる快楽。文字通り精も根も尽き果てたセトがくたびれるのも、仕方のないことなのだ。
少し、悪いことをしたのかもしれない。
――だけど、
「だけど・・・・・・、これで満足したからお姉さんも成仏できるんだね?」
寂しそうな、けど裏腹に安堵したような表情をセトが浮かべる。
――足りない、
「僕、お墓参りに必ず行くよ。だからお姉さんも、安らかに・・・・・・」
神妙な声でセトが言う。あたかももう終わったかのように。
――もっと欲しい、
「ね、ねえお姉さん? そろそろ・・・・・・、この鎖を解いてくれないかな。だってもう――」
「――何を言っているの?」
安定していた火の手が、再び勢いを取り戻した。
「これでお終い・・・・・・? 甘かったわね、そんなわけないじゃない。セト、わかっているの? あなたはあたしに酷いウソをついたのよ」
「それは、謝って・・・・・・、でも、もう、協力して――」
「あたしがここで待っている間も――セトはお店で他の女を客に取っていたのよね」
糾弾の詰問にセトがぐ・・・・・・、と黙った。
「7人かしら? 8人かしら? 許せない、とても看過できないわ。だったらその人数分あたしを満足させなければ――とても公平とは言えないわよね」
「そ、そんなの――」
「そればかりじゃないわ。だってセトは何年もずっと売りをしてきたんですもの。何年もずっとあたしを騙し続けていたんですもの。出逢う前からずっとあたしを裏切っていたんですもの。セトが今までに抱いた女の回数分、少なくともあたしに捧げてもらわなくちゃあ・・・・・・――」
「あ、あ・・・・・・」
狂気の炎にあてられて、セトがみるみると青ざめる。
話し合いは無駄だ。相手は理屈を超越しているからだ。
抵抗は無意味だ。あたしは理学を超越しているからだ。
ここに至ってセトはようやく自分の境遇を理解した。
自分は悪霊に取り憑かれた――逃げ場を、力を、尊厳を、発言権を奪われて、病めるときも悩めるときも、共に過ごさなければならない。この女は死ぬまで――いやたとえ死んでも――自分を手放さないであろう・・・・・・。
「さあ、時間はたっぷりあるわ。まずはさっきの続きを、もう一度始めましょう・・・・・・」
萎えかけていた男根も、あたしの熱に晒されれば現金なものですぐ硬さを取り戻す。
「ゆ、許して・・・・・・! ごめんなさい、ごめんなさ――〜〜〜〜ッ!」
二回目の口づけでセトの唇を塞いだ。
余計な言葉はいらない。セトはただ、喘いでいればいいのだ。求めていればいいのだ。あたしだけに依存して、あたしだけに執着する。あたしからだけに心を動かし、あたしからだけに一喜一憂すればいい。
「ふふ、挿入れるわね・・・・・・」
あたしの襞のしわ一つ一つを丹念に教えこむように、じっくりじっくりと飲みこむ。時間は掃いて捨てるほどある。
永い永い抽送が――再び始まった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・。
小鳥のさえずりがいつの間にかねぐらに帰るカラスに取って代わっているのを聞いて、あたしはようやく遮幕の隙間から斜陽が差しこんでいるのに気付いた。
「あ、は・・・・・・♪ また射精たぁ。これで、えっと・・・・・・、そう、96回目の射精♪ うーん、さすがに薄くなってきたかなあ」
「あ、か・・・・・・・・・・・・?」
日の出から夕暮れまで不断で腰を振り続けていたなんて、いくらあたしが疲れを知らない肉体だからって――本当に、楽しいことは経つのが早い。
一方セトは完全にグロッキーだった。
ひょっとしたらもう数時間もセトがちゃんと喋っているのを聞いていない気がする。いくらなんでもやり過ぎたか。そろそろひとまず休憩させてあげるべきかもしれない。
「ほら、セト、しっかりして。起きて」
頬を優しくぺちぺちと叩くと、あたしに抱きかかえられたままのセトの瞳にぼんやりと光彩が戻る。自分の部屋にいることすら理解しているのかおぼろげだった。
ふらふらと定まらなかった視線が、紅い西日を捉えて止まった。
それは――無意識だった。寝言のような、思考の埒外における独り言。責任などない。何が悪いなどない。
「もう・・・・・・、こんな時間・・・・・・?」
だから誰に聞かせるでもなく、セトはぽろりと言葉を漏らした。
「しごと・・・・・・、行かなきゃ――――」
ぴしり――と空気が固まった。
言ってからマズイと気付いたらしい。一気に覚醒したセトが、全身から玉のような汗をかいて慌てて弁明を始めた。
「あっ、いや、その、今のは、ちが・・・・・・」
「ふぅん、そう・・・・・・、そうなんだ・・・・・・。セトはあたしとこうやって一緒にいるより、お金をもらって誰とも知らない女に媚びを売って犯してもらう方が好きなんだ・・・・・・」
「ち、ちがくて・・・・・・ッ! 今のは、その、習慣というか・・・・・・、いつもそうしてるから――あぁ、ごめんなさいごめんなさいっ!」
「休憩は・・・・・・、終わりだね?」
あたしが優しく微笑みかけてあげると、セトがまた逃げ出そうとする。
元気なものだ。指どころか舌だって満足に動かせないくせに。無駄な努力に身体を震わせているだけのセトを、前後運動を再開しながらあたしは檻をますます密着させて支える。
「も、ぉう、いやだぁ・・・・・・ッ、イくの、怖いよぉ・・・・・・! も、もうイきすぎで・・・・・・ッ、イってるのかイってにゃいのか、自分でもわからひゃい・・・・・・。もうやへて、やめへよぉッ!」
「うるさい! ホラ吹きの悪い子のくせに。あたしの心を弄んだくせに・・・・・・。ずっと嘲笑ってたんでしょ? 馬鹿な女だ、ちょっと助けたくらいで舞い上がっちゃってって」
「違う、それは――違うんだ!」
やけにきっぱりと、セトが叫んだ。
腰を振るのをいったん止めて、あたしは何事かを訴えるセトの目を覗きこむ。
「違うって・・・・・・何が?」
「始めにお姉さんを助けた、その理由だよ。幽霊みたいって言ったけど、でも本当は、本当は――」
つらい思い出に苛まれるように、セトが唇を噛んだ。
「親だけじゃなくて・・・・・・、姉がいたんだ。病気で一緒に死んじゃったんだけど、それが――お姉さんと、あんまりにも似てたんだ。市場で見かけたとき、びっくりした」
真摯そのものな瞳で、必死にセトは語った。
「だからお姉さんが困っていたとき、声をかけなくちゃって・・・・・・、そう思ったんだ」
そういうことだったのか。
セトはあたしに、実の姉の面影を見ていた。だからあたしの危機を救ってくれたし、それからも何くれとなく良くしてくれた。
なんていじましいんだろう。なんて健気なんだろう。そしてなんて・・・・・・、なんて――
「なんて――――嫉ましいんだろう」
今まででいちばん勢いをつけて、ペニスをあたしの奥底にねじこんだ。ほとんど総毛立って、セトが絶叫をあげた。
「う、がぁぁぁああぁあぁぁぁあああぁっぁ!? お、おねえさ・・・・・・ッ、なん、で・・・・・・?」
「要らないのよ全部。セトの心の中に、あたし以外の女は要らないの。たとえ死人だろうと。たとえ肉親だろうと。だから忘れさせるの。ねえ、魂が壊れるくらい激しくぐちゃぐちゃに犯せば、もしかしたら記憶も消え去るんじゃないかなあ?」
「そ、そんな――ぅわあああああっ?!」
きゅっと睾丸が持ち上がる、射精の前兆。何十回味わってもこの感触は、飽きることがない――
「ふふふ・・・・・・、それじゃ俗世にばいばいする97回目の絶頂、元気よくいってみよっか」
「あああぁ・・・・・・♪ ァァああぁアあぁあああッ――」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・・・・・・・。
・・・・・・。
日はとっぷりと暮れ、満月が煌々とあたしたちを照らしていた。カーテン越しの西日と違い、月ははっきりと肉眼で確認できる。
何故なら――
「ほらどうしたの、セト。縮こまっちゃって。高い場所怖いの? ん、でもここは、やっぱり硬いままね」
「む、無理無理無理だよお姉さん! こ、こんなの・・・・・・ッ、絶対誰か見てる。見られてるっ!」
ロマンチックな満天の星空に囲まれて、セトが羞恥に真っ赤に染まる。
ここは街の遙か上空。あたしが檻を持ち上げて作った、何ものも邪魔できないふたりだけの絶対の空間で、相変わらずあたしたちは交わり続けていた。人は豆粒のような大きさだが、月を眺めていたらもしかしたら、あたしたちのことも目撃するかもしれない。
「そうね・・・・・・、ねえセト、わかる? 街中の人間にいま、セトはセックスを見せびらかしてるんだよ。何千人もの野次馬の前なのにこんな興奮しちゃうなんて・・・・・・、変態だね? もうセトが戻るところなんて、どこにもないね・・・・・・?」
「あ、ぁ・・・・・・」
改めて逃げ道を封じられて、セトの表情が曇る。
そしてそれを、あたしが抱きしめる。硬い鉄の檻と柔らかいあたしの肉で挟まれて、頑なだったセトの心にゆっくりと毒が流れこむ。
「けど安心して。たとえセトがどんな救いのない嘘つきで変態でも・・・・・・、あたしだけは味方。あたしだけは見捨てない。あたしだけは・・・・・・セトを受け入れてあげる」
「お、ねえ・・・・・・、さん・・・・・・」
涙をにじませながら、セトがあたしの胸に突っ伏する。
その様子はまるでおっぱいを欲する赤ちゃんのようで――あたしの庇護欲と征服欲をくすぐらせた。
「あたしだけが寒がるセトの身体を暖められる。あたしだけが寂しがるセトの心を埋め合わせられる。あたしだけが乾いたセトの魂を――潤してあげられる」
あたしに依存しなさい。あたしを渇望しなさい。
あたしに溺れて、あたしに流されて、あたしに手も足も取られて、そして最後にあたしにすがりなさい。
子守歌でも聞かされたみたいに、セトのまぶたがとろんと落ちた。子供らしく、さすがにおねむらしい。まあ、今日のところはこれくらいでいいか。
何せあたしたちには――永遠の時間がある。
「眠りなさい、月があたしたちを見守ってくれてるわ」
太陽の笑顔をあたしだけに浮かべながら、ゆっくりとセトは夢の中に落ちていった。
15/05/10 05:00更新 / メガカモネギ