最終話
それからの一か月、自分に何があったのか、勘介は正直よく覚えていない。
あとで馬鹿正直にそれを口にしたら、ハヤテには蹴られ殴られた。ソヨには泣かれた。
その日シマキはご飯をつくってくれず、その夜は権現さまにしこたましぼられた。
自分でもひどいとは思ったが、おまえらにいろんなことをされすぎたせいだとも思う。
四人が嵐のように自分の周りを跳びまわっていたくらいにしか覚えがない。
シマキたちは服も着ず、鼬の姿のままずっと家の中をはねまわっていた。
「か・ん・す・け、さぁーん」
どすん!
「うわあ! し、シマキ?!」
「えへへ、勘介さんの背中、あったかい」
「いきなり押し倒さんでくれと、何度言えば・・・」
「聞こえない。うふふ」
ひゅるん!
「わっ?! こら、ハヤテ!」
「へへへ」
「勝手に斬るなと言っただろうが!」
「いいじゃん、もう我慢しなくていいんだもん」
ぺと ぺと ぺと 。
「こ、こら! ソヨ!」
「たいへんカンちゃん、切れちゃってるよー」
「またお前は・・・ こら、そこは切れてない! そんなところに塗るな!」
「きもちいい? ね、きもちいい?」
「う、ふっ・・・ いいからやめろ!」
「あはあ、きもちいいんだね?」
シマキが突き飛ばし、ハヤテが切り刻み、ソヨが薬を塗る。
これをされたが最後、もうわけがわからなくなってしまう。
「どうかな。 どうかな?」
「そろそろ、たまんなくなっちゃうころだよ」
「おっ、むずむずしてきたみたいだぜ。 それじゃ本番といくか」
にゅるん。
「・・・かゆいでしょ、カンちゃん。 かいてあげるからね」
ソヨの口から、あのときの薄桃色のとがった舌が伸びた。
ぬ ら っ 。
「念入りにやってあげないと、な」
ハヤテの口からも、薄桃色のとがった舌が、胸元あたりまで伸びる。
ぬ ら ぁ り 。
「細かい破片がのこっていては、いけませんから」
シマキの口からふたりのものよりはるかに長く太い舌が
へそのあたりまで伸びて鎌首をもたげた。
そこからのことは、ほんとうにまるでおぼえていない。
頭が真っ白になったように思えるだけである。
そしてすべてが終わったとき、なぜか三人のほうがひっくり返っていたくらいか。
「な、なめかえしてくるとは、思わなかった・・・」
「半日は、しびれてるだけ、塗ったはずなのにぃ・・・」
「は・・・はへ 、 勘介さん、もっとぉ・・・」
その次の日。
ソヨが里に下りてきていた。
「うんしょ、うんしょ、うんしょ」
「おやあソヨちゃん、買い物かい?」
「う、うん」
小さい体には不釣り合いな大きな包みを背負って、
里の大通りを歩いている。
「お買いものかあ、たいへんだなあ」
「だいじょうぶ、だよ」
「勘介のやつは大丈夫かい?」
「あ、あ・・・ まだ、ちょっと・・・」
ソヨは顔を真っ赤にして答えた。
気のせいか、いつも以上に肌がぷるんと張りつめているように見える。
「そっか、勘介によろしくなあ」
「う、うん。 じゃあね」
大きな荷物をゆっさゆさ揺らして、ソヨは山に駆け戻っていった。
「ああ、かんすけ、さんっ。 ダメです・・・」
「シマキ、シマキ・・・」
「ごはん、つくれない・・・ あっ・・・」
「あー! 姉さんまたやってるー!」
「お布団でも朝風呂でもいっしょだったのにー!」
「勘介もなんとか言えよ、この野郎!」
「すまん。 だが、シマキは、やっぱり、俺には特別・・・ んっ!」
「ふふふ。 勘介さん、すてき。 ・・・んああっ!」
「なんだよそれー!」「んもー、むかつくー!」
「こら、ハヤテ! もうかわりなさい!」
「い、いいじゃん、あっ。 姉さん、先に、やってた、じゃん、ああっ!」
「ハヤテお姉ちゃん五回目じゃない! ずーるーいー!!」
「・・・おまえら、ひとりにしたことは三人とも感じるんじゃなかったのか」
「それでもダメなんです!!」「ダメなのっ!!」
「わかった、すぐ済ませる」
「あ、おっ、うおあ! こ、壊れるようっ!」
「シマキとソヨに話を通したというのは嘘だったのだな。 おしおきだ」
「あ、ご、ごめっ・・・ うああぁああぁあっ!」
「・・・カンちゃん、きもちよくない、でしょ」
「そんなことはないぞ」
「・・・うそ。 ぜんぜん入ってないもん。 くっつけてるだけ・・・」
「・・・ ・・・ ・・・」
「ごめんね、カンちゃん。」
「・・・ん。 うっ・・・」
「え?」
「う、あ、あっ!」
・・・・・・・・・・・・・・
「うは、すごいなこれ」
「今までで一番かもしれませんね・・・」
「はーっ、はーっ、はーっ・・・」
「カンちゃん、ありがと・・・」
「おまえのが、すばらしいんだ。 俺の方こそ、ありがとう」
「・・・愛してる。ソヨ、カンちゃんのこと、愛してるよ」
一週間後。
ハヤテが里に下りてきていた。
「う、うんしょ、こらしょっ・・・」
大八車いっぱいに荷物を載せて、えっちらおっちら歩いている。
「あーら、ハヤテちゃーん!」
「お、おお。 お勝さん」
「どーしちゃったの、それ? 引っ越しでもするの?」
「あ、ああ、その、ちょっと、物入りで・・・」
「・・・ふーん」
「じゃ、じゃあ、また」
がたがた荷車を引いてそそくさと去っていくハヤテに、
陽気な声が投げかけられた。
「勘介ちゃんのこと、よろしくねー!」
ハヤテは耳まで真っ赤にして、その場に座りこんだ。
「あ、あ、あっ。 勘介さん、勘介さん」
「・・・シマキ。 いくぞっ」
「き、きて。 きて ―」
「はあ、はあ、はあ」
「・・・ ・・・・ ・・・・」
「はあ、はあ・・・」
「・・・・・・・・・・・。」
つ ぷ っ 。
「はあっ?!」
「す、すまん、シマキ。 痛かったか」
「・・・ ・・・ ・・・」
シマキは、何も答えない。
腰が高くかかげられる。
濡れた茂みが、その上のすぼまりが、開かれる。
「・・・ ・・・ ・・・」
・・・ つ ぷ 。
「・・・ くっ」
つ ぷ り 。 に ゅ ・・・
「 く う あっ・・・」
「あ、あっ、これ、すごっ・・・」
「・・・ ・・・ ・・・」
「おかしく、おかしく、なっちゃうっ・・・」
「おくすり、使わないんじゃなかったの?」
「さいしょ、だけって、いったろ・・・ おふっ!」
いよいよハヤテが、とめどない高みに達し始めたようだ。
子袋がせりさがっていく。
「あ・・・ふ、はへっ・・・ い、いい、いひっ・・・」
「もう、ハヤテお姉ちゃんったら、おさるさんみたい」
「う、るせっ、ひっ、ひい・・・ ひぃっ!!」
「ハヤテ、いくぞ! ・・・おおっ」
「んふぁああっ!」
・・・・・・・・・・・・・・
「は、はひ、はひっ・・・」
「よかったか、ハヤテ。 いい子だ」
「・・・や、やっ」
「いい子だ。 いい子だぞ・・・」
「やん、そんなとこ、拭かないで・・・」
「・・・ふ、ふう、ふーっ」
「・・・ちぎれそうだ」
「お薬、塗り足します」
ぺと ぺと ぺと・・・
「もう少し、なんだろうけどな」
「・・・まだ駄目だ。 きょうは、これでいい」
「・・・い、いい。 カンちゃん、もっと」
「駄目だ」
「で、でも、ソヨ」
「焦らなくていい、じっくりしよう。 それに、俺ももう・・・」
・・・・・・・・・・・・・・
「すげーな。あたしたちのときより多い」
「ソヨが一番ですか? 妬けちゃいますね」
「ごめんね、ごめんね、カンちゃん」
「謝るな、ソヨ。 俺が早すぎるだけだ」
「カンちゃんの、うそつき・・・」
二週間目。
庄屋の座敷に、シマキが通されていた。
庄屋の弟、つまり勘介の父も同座している。
シマキは深々と頭を下げ、つっかえつっかえ話し始めた。
「あ、あの、その。 ずいぶん長くなってしまい、申し訳ないです」
「・・・ ・・・ ・・・・」
「勘介さんは、あの、傷は、いいんですが、その」
「・・・・・・・・・・・・」
「その、もうしばらく、だけ・・・」
「もうええよ、シマキさん」
庄屋は相好を崩した。
彼もまた、シマキたちのおさななじみだ。
「あの朴念仁がお世話になってることは承知しとる。
というか、里の者も山の者も、もう全員知っとる」
「あいつがシマキさんたちに選ばれたんだってこともな。
知らんかったのはあのバカくらいなもんだろう」
シマキは顔を真っ赤にしてその場に突っ伏した。
頭から湯気があがっていそうである。
「お金だけおいて行きなさい。あとはわしらがなんとかする。祝言の準備もやっとく」
「シマキさん、あのバカをどうかよろしく頼みます。
・・・別に、さらっていってもらってもよかったんじゃが」
耳まで真っ赤にして突っ伏していたシマキが、小刻みに震えはじめた。
嗚咽が漏れている。
― わたしたちは、わたしたちは間違っていなかった。
ありがとう、ありがとう、みなさん ―
シマキの床に重ねられた手から、涙が外に零れ落ちた。
庄屋も、勘介の父も、目を潤ませていた。
次の日から、権現さまの社に、山のようなお供え物が届けられるようになった。
米、塩、味噌、醤油、野菜、魚。
勇魚に山鯨に八つ目鰻。
懐紙に布団に着物まで。
あきらかに庄屋に預けた金では買えぬ量のそれらを、
姉妹は涙ぐみながら持ち帰っていた。
そして、それらは持っていったそばからどんどん使われ無くなっていった。
「むぐ、むぐ、はぐ」
「もぐ、うむ、くむ」
「はく、はく、もむ」
四人は交代交代で大量の食事をつくり、それをあっという間に平らげていった。
勘介はもちろん、姉妹もどこに入るのかというくらい大量に食べている。
食べながらも交わり続け、ほとばしりながらも食べ続けた。
まるで蛹にならんとする芋虫のように。
「・・・ん・・・」
ちゅく ちゅく くちゅ。
にゅる にゅる。
「・・・もう、いいです。 どうぞ」
「いいのか」
「はい・・・ きて、ください・・・」
「いくぞ」
ず ぷ っ 。
「んっ・・・・!」
「・・・うっ」
「よ、よい、ですか」
「いい。 いいぞ、シマキ」
「あ、あっ、お・・・」
ずぷ ぐぬ ずぬっ・・・
「・・・喰いちぎられそうだ」
「あ、おああ、おおっ」
ずっ ずっ ずっ !
「出すぞ、出すぞシマキ!」
「ああ! あおお、あぅおぁおおーっ!」
「あ、いく! いっちゃう! ああーっ!」
び く っ !
「あ・・・ あっ・・・」
「・・・うっ、く。 むん!」
「あう?!」
ず、ず、ずっ!
「ま、まだ、でてる、のに?! あああっ!」
「ハヤテ! ハヤテ!!」
「ああああ?! もう?! ・・・ああ、いっくぅーっ!!」
ずん ずん ずんっ 。
「あ、あたし、まだ、いってる・・・ うあああぅあああーっ! 」
「や、やめて! いってる、いってるのっ!」
「もう、しっ、しんじゃふぅ・・・ ああーーーーーーっ!!」
「・・・・・・・・・・・・・・・・ソヨ」
「・・・ふ、ふーっ、ふーっ・・・」
ぎ ち ・・・
「やったな、ソヨ。 よくがんばったぜ」
「ソヨ、おめでとう。 勘介さん、よさそうですよ」
「・・・ふー、ま、まだ・・・」
「・・・ ・・・ ・・・」
「カンちゃん、うご、いて・・・ よく、なって・・・」
「必要ない」
・・・ ぎ ゅ う 。
「おねがい・・・ おねがい、よ・・・ ソヨで、よく・・・」
「いくぞ」
「え・・・」
「息をゆっくり吸え、吐け。 おれは、もう・・・!」
「ソヨ、くるぞ!」「しっかり!」
ど ば っ !
「うぶあ?!」
「ソヨ・・・ ああ、ソヨ!」
「ぐぶ、うぇあ!」
「がんばれ、がんばれっ!」
「受け止めなさい、ソヨ!」
「うぶ、ぷう! くああっ―!」
「・・・ソヨ」
「カン、ちゃん・・・」
「よかった、よかったぞ。お前は素晴しかった」
「ほん、と・・・?」
「ああ。 シマキよりも、ハヤテよりも、ずっとよかった」
「まあ、しょうがねえかな。 よかったな、ソヨ」
「ふふ、ソヨ。あなたが勘介さんの一番ですよ」
「・・・う、ううっ。 うぇぇぇぇんっ・・・」
そして、三週間が過ぎたころ。
針のように細い月の夜。
― ・・・勘介さん。
「・・・権現さま」
本殿、神殿の前。
祀られている明王像の前に、権現さまが座っていた。
足を蓮華座に組み、三人の腕をひろげ、ゆらしている。
宝具はたずさえていない。
― はじめます。
「頼む」
― こうかい なさいませんね
「けして」
― いらして ください
その言葉を受け、勘介は権現の前に進み出た。
目前で座り、足を組む。 降魔座だ。
「ゆくぞ」
― はい
勘介は権現の躰を抱え、わが腰へと座らせる。
そこにはすでに屹立したものがあった。
権現はそこに、寸分ずれず、ぴたりとおさまった。
まるで最初からそうつくられたものであるかのように。
― ああっ。
「・・・おお」
ひとつになった瞬間、ふたりは天へと昇った。
静かに、ただただ静かに。
権現は足を勘介の腰に回し、たがいをつなぎとめる。
勘介と三人の腕が互いを抱き合い、ふたりを結びつける。
ふたりのあいだから、一切のすきまがなくなった。
すがた
和合の 像 。
ふたりは抱きしめあうままつながりあうまま、みじろぎひとつしない。
眼も開かない。言葉も交わさない。
何もする必要がなかった。
― ・・・ あ ・・・
― ・・・ おお ・・・
おたがいのからだとこころが、一つに溶けあっている。
たがいがたがいを抱きあいつながりあう感覚が、たがいに我がこととして感じられる。
勘介と権現の想いが、ひとつになって混ざり合う。
― ・・・ ・・・ ・・・
― ・・・ ・・・ ・・・
ふたりは涅槃の境地にいた。
ふたりの中で、果てつきたあの一瞬が、永劫に続いている。
ふたりはずっと、ずっとそのまま、そこで座っていた。
まったく動かず。なにひとつ口にすることなく。
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
日が昇ると、勘介の上にはシマキが座っていた。
日が沈むと、ふたたび権現さまになっていた。
次の日にはハヤテが。 その次にはソヨが。
日が昇るとあらわれ、日が沈むと神となった。
― ・・・ ・・・ ・・・
― ・・・ ・・・ ・・・
三日三晩経ったあたりから、変化が現れる。
勘介の体が、みるまにむくむくと大きくなってきた。
からだのそこかしこに生えていた強い毛が青みをおび、全身に生えそろっていく。
ついには顔にまで、隈取りのように青い毛なみがはしった。
「・・・・・・・・・・」
「・・・・・・・・・・」
そして、ぴったり30日後。
勘介は三姉妹を伴い、山を降りた。
「おお」
「うわあ・・・」
「な、なんと」
里の者が集まってくる。
三人の周りはすでに、十重二十重と山の民が囲んでいた。
「あれが、勘介か」
「権現さまに、選ばれたのじゃ」
「生き神様じゃ、生き神様じゃあ」
ひとだかりから小山のような姿が、ぬっと突き出していた。
腕も首も腰も、しめ縄をさらに巻きしめたように太く固い。
そして全身、顔にまで蒼い毛が生えている。
髪からは鼬の耳が、腰からは鼬の尻尾が突き出していた。
「おお、明王様。 明王様じゃ」
本殿で祀られる明王、奥の院で祀られる飯綱権現。
この両者の和合した像こそ、この里山の鎮守神。
かいい
勘介はその 魁 偉 な姿を錦の羽織袴で飾り、
したが
巫女装束の三姉妹を 随 わせていた。
三人は人の波に流されるようにそのまま庄屋の家へと連れていかれた。
そこではすでに祝言の用意がととのえられていた。
あれよあれよと勘介と三姉妹は、黒い羽織袴、黒引き振袖に着替えさせられた。
先ほどの羽織袴に巫女装束同様、どちらも三姉妹の両親のものである。
仕立てなおしなどいっさいしていないのに、どれもあつらえたようにぴたりとおさまった。
親類縁者が大広間に集められ、さらに入りきれない人たちが庭に集まり、祝言がはじまった。
祝詞があげられ盃を交わす。角隠しの下で、三姉妹の目から涙が落ちた。
姉妹の周りを里山中の女が囲む。
こんなに、こんなにきれいになって。
おめでとう、おめでとう。よかったね。
しあわせになって、シマキお姉ちゃん、ハヤテお姉ちゃん、ソヨお姉ちゃん。
少女から老婆までが、三人の手を取りそう言って泣いた。
三姉妹もおしろいが流れるほど泣いていた。
そして勘介は里山中の男に群がられ、土間へ庭へと転がされていた。
このやろう、シマキさんになんてことを。
ハヤテ姉さんを幸せにしやがれ、こんちくしょう。
ソヨ姉ちゃんを泣かせたらぶっ殺すぞ。
童から爺、父親までが勘介をそう言って笑いながら袋叩きにした。
勘介も大笑いしながら転がされていた。
そうやって過ぎていった、嵐のような一か月。
祝言からさらに三か月がたち、ようやく少し落ち着いた。
「ふん、せっ、はっ!」
勘介は三姉妹の家に住みこむこととなった。
そのまま権現さまの宮司におさまる予定である。
慣れぬ神事の作法をシマキから学ぶ毎日である。
「せいっ! とうっ!」
「はっ! やっ!」
窮屈な習い事がひと段落し、勘介は庭に出た。
シマキが剣術の稽古をつけてくれている。
「せやっ!」「くっ!」
「それまで!」
勘介の手の木刀が、シマキのそれを弾き飛ばした。
シマキは手加減など一切していない。
勘介の身に宿った力は、いまや三姉妹のそれをはるかに超えていた。
「・・・もう、あなたには勝てませんわね」
「力ずくでやっただけだ。俺はまだ速さでも技でも、お前に遠く及ばん」
「なら、早くわたしを追い抜いてくださいな。あなた」
シマキはいたずらっぽく微笑み、勘介の汗をぬぐう。
縁側からハヤテが庭に飛び出してきた。
「おーう勘介! そろそろ山廻りに行くぞ!」
「もう、ハヤテったら。だんな様への言葉遣いじゃないでしょう」
「いいじゃん、こっちのほうがしっくりくらあ」
日はもうだいぶ高くなっている。
いよいよ山の風も冬の匂いがしてくるようになった。
けれど澄んだ空気を日差しが抜ける間だけはまだ暖かい。
「はい、カンちゃん、ハヤテお姉ちゃん」
ソヨが弁当を持ってきてくれた。
自分の頭ほどもあるおむすびを竹皮でくるんでいる。
「おう、こりゃあいいな」
「はっは、こいつは豪勢だ」
「具もいっぱい入ってるからね。 カンちゃんの好きなものばっかりよ」
「もう、ソヨも。 カンちゃんだなんて」
「うーん、でも、カンちゃんって言ったほうがぴったりするの」
「はは、実のところは俺もそうだ」
「もう、勘介さんったら」
「はは、姉さんもそうだろ」
「あ、あらいけない。 ・・・あなたっ、たら。」
「ははははっ」
ソヨのおむすびを包んだ勘介は、シマキの方に向き直った。
「シマキ、あれを」
「はい」
シマキは勘介に、錦で包まれた大太刀を捧げ渡した。
かぜきり た ち
風 切 の 太 刀 。
勘介はそれを受け取った。
鞘袋をはぐ。 鞘を払う。
――――・・・。
― せ い っ !
裂帛の気合が、こだまとなって響く。
大上段からの一振りが、うなりをあげて空に打ち下ろされた。
「それでは、いってらっしゃいませ」
「気をつけてね」
シマキが、ソヨが、勘介を見おくる。
「おう。 いくか、ハヤテ」
「おうっ!」
ハヤテが、勘介にしたがう。
勘介は一息に、権現の山を飛び降りた。
その後を、ハヤテがぴたりとついていく。
ひ ゅ る る る ・・・
ふたりの姿が、山並みの中に、風となって溶けていく。
今日も里山に吹く風は、あたたかで、おだやかだった。
[ 了 ]
17/10/11 21:50更新 / 一太郎
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