連載小説
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前編
 12月30日、この年の瀬に蛇口からお湯が出なくなった。それでこうして寒空の下、溶けかけたシャーベット状の雪を踏みしだき、リュックを背負って歩いている。

 不運な青年の名は半場亨という。春から地元企業への就職が決まっている、一般的な大学生である。その表情は暗い。路面に積もった最早雪とも呼べないような細かい氷の集合体は、一歩踏み出すごとにじゃくじゃくと奇妙な音を鳴らし、転ぶほどではないが無視できるほどでもないといった嫌な歩き心地をブーツ越しに伝えてくる。見上げれば重苦しい曇天、まだ16時過ぎというのに既に辺りは薄暗い。住宅街ではあるもののどの家もすでにカーテンを閉め切っている。普段歩かない道を歩いていることもあってか、なんとなく街並み全体からうっすら拒否されているような気持ちにすらなってくる。半場は見知らぬ丁字路に差し掛かったところで徐に歩みを止め、大きくため息をつき、手袋を外す。外套のポケットから取り出したスマートフォンは氷の板のように冷たかった。
 ことに気が付いたのが12月30日の12時過ぎ。大家にはなんとか連絡がついたものの、もう年末年始に入ったから対応は難しいとのことであった。今から地獄のように混んだ新幹線に乗って帰省する気力はないし、風呂を借りられるほど親しい友人も残念ながらいない。シャワーを使える24時間営業のトレーニングジムもスーパー銭湯も、この田舎にはないのである。八方ふさがりの半場に唯一残された希望が、ネットで見つけた得体の知れない銭湯「南無の湯」であった。




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 それはいかにもといった見た目の古めかしい建物であった。ガラス戸のついた2階建ての木造住宅で、明治や大正時代から建っていると言われたら信じてしまいそうな外観である。外壁の木板は経年劣化ゆえか黒ずんでいる一方、ところどころ表面が剥げて内側の白い部分が露になっている。ガラス戸は模様入りの曇りガラスなのだろうが、年季が入りすぎて至るところにひびが入っているように見えなくもない。もしガラス戸を通して暖かい橙色の光が漏れ出していなければ、あるいはパイプ煙突から白い煙があふれ出していなければ、人が住まぬ廃墟と言われても信じてしまいそうだった。

 湯之無南

 達筆な字体で、白地の暖簾にはそう記されている。汚れ一つない綺麗な暖簾だ。全体的に黒ずんだ建物を背景にすると暖簾が浮いて見えるほどアンバランスだった。何とも言えない居心地の悪さを感じる。半場は一瞬逡巡したが、身に沁みる寒さが容赦なく背中を押してくる。家路のことを考えるだけで気が重くなるのに、さらに家で待っている氷のような蛇口のことを思うと、目の前の暖かい光がどうしようもなく魅力的に思われた。自然と半場の脚が動く。暖簾をくぐりながら古びたガラス戸に手を掛けると予想に反してその手ごたえは軽く、からからと小気味のよい音を立てて戸が滑った。
 内部はやや手狭であった。見るに、玄関で男湯と女湯が分かれる構造をしている。石張りの土間を上がってすぐ目の前に骨董品めいた木製の番台が鎮座しており、そしてその上には粉の吹いた干し柿のような小さな老婆が物言わず正座していた。目を開いているのかもわからないその顔からは、おおよそ感情と名の付くものをうかがい知ることはできそうもない。まるで来客を男湯行きか女湯行きかに裁く閻魔大王のような雰囲気であった。半場は黙っていそいそとブーツを脱ぐ。靴棚はこれまた年季の入った木製のものだったが、埃や泥汚れ一つなく綺麗にされている。そこに雪と泥で汚れた自分のブーツを置くのがどうにも躊躇われ、結局土間の隅に置くことにした。足先をきっちりと揃える。普段の半場は決して几帳面な男ではなかったが、こうでもしないと番台の老婆が閻魔大王に豹変し、襲い掛かってくるのではないかという子供じみた妄想が何故か頭から離れないのだった。


 半場が立ち上がって振り返り老婆に相対するのと、老婆が空のお玉を突き出してきたのがほぼ同時であった。

 「480円」

 老婆は抑揚のない声でそう言った。年相応のかすれ声に、少なくとも敵意や悪意は感じられない。金属製のお玉には10円玉硬貨2枚が既に載せられている。500円以外受け取らない、ということのようだった。半場がその意図を理解し、あたふたと財布を取り出すまでの数秒間、老婆もお玉も、当然その上の10円玉硬貨もぴくりとも動かなかった。幸いなことに小銭入れの中には500円玉硬貨が忍び込んでいた。半場は脇に財布を挟み、右手で500円玉硬貨を載せ、左手で10円玉硬貨2枚を受け取る。先に10円玉硬貨を受け取ってしまえば閻魔大王が現れるような気がしたからであった。500円玉硬貨を載せたお玉は音もなく引き上げられ、老婆の下へ消えていった。

 「男湯」

 身じろぎ一つしない老婆は、閻魔大王よろしくそう言い放った。半場は上ずった声で律儀に返事をすると、逃げるように青い暖簾をくぐったのだった。


 
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 半場亨に己が歪んだ性的嗜好を気づかせ、その後の苦難を決定づけたのは、かつて出会った一人の少女であった。最早名前も顔も思い出せない、無邪気でひとかけらの警戒心もないその少女が、今でも彼の心象風景に居座って、決して尽きることのない燃料となり、粘ついた炎を燃やし続けている。
 あれは高校2年生の夏休みだった。半場は一人で大型ショッピングモールを訪れていた。典型的な寂れた地方都市では、親と太陽の目を逃れられる場所といえばそこしかない。動機がその程度だ、ふらふらとたどり着いたクレーンゲームの筐体に閉じ込められたぬいぐるみも、特段欲しかったわけではない。ただ時間を潰せればそれでいい、そんな心持ちで100円玉硬貨をこすり合わせ、1枚を投入口に入れようとしたその時だった。

 「あー!」

 すぐ左隣から幼い声がした。目をやるとその少女はいた。クレーンゲームの透明なケースに額と両の手をべったりくっつけ、景品のぬいぐるみを凝視している。背丈は半場の臍の高さほど、歳は小学校中学年くらいだろうか。長く、枝毛一つない艶々した髪がカーテンのように垂れ、顔は見えない。少女が身にまとう白いワンピースは着古されたのかあるいはそういった意匠なのか、脇と胸元がゆるく開いてしまっていた。
 その喉元から見通せてしまった、本来隠されているべきなだらかな曲線を、半場は今も忘れることができないでいる。胸骨とわずかに膨らんだ乳房とが作る浅い谷、周りの皮膚とほとんど同じ色ながらぷっくりと膨れた乳輪、筋肉が未発達ゆえ臓器を押し返せず水風船のように張り出した腹。薄い布切れの下に見え隠れする、未成熟な肢体。本来劣情を抱くべきではない、抱くはずのないそれに、その時半場はなぜか鮮烈な性的魅力を見出してしまった。半場はあの日から永遠に、この人間社会における異端、落伍者となってしまったのである。
 それ以来、半場にとって人生とは苦難の連続であった。部活動の試合遠征で訪れた体育館や、サークルで遊びに行った夏の砂浜。行く先々で出会う少女たちにあのゲームセンターの少女の亡霊が憑りついているのだ。短パンの裾から覗く野暮ったい下着や、水着が食い込み浮き彫りになった幼い尻の形や、そんな無垢な幼子の貌に出会う度に半場の顔は一瞬だけ固く強張った。腹に力を入れ目線を虚空へ流し、努めて自然な様子で踵を返す、おおよそ健常な人間には不要な作業が半場には必要だったのだ。半場はしばしば、子供たちの人生を考える。たとえわずかであったとしても、たとえ知られなかったとしても、その子らに劣情に満ちた視線を向けること自体が、その子らの人生を致命的に穢すことになるのではないか。やや行き過ぎとも言える思考を巡らすことで、半場はおぞましい肉欲を強固な理性と倫理の檻に入れることに成功していた。そしてその涙ぐましい努力は今のところ結実している。彼が今まで手錠を掛けられず、企業の内定まで獲得している事実がその証左であった。



 そしてその頑丈な心の檻は、とある「先客」によって呆気なく打ち崩されることとなる。



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 浴場に足を踏み入れた瞬間、半場の足が止まった。原因は明らかであった。少女である。浴場内に一人だけ先客が――少女がいたのだ。
 少女は壁付けのカランの前に腰かけて髪を洗っている。それゆえ後ろ姿しか見えず、顔つきまではわからない。しかしその長い黒髪に、弓なりに反った背筋に、寸胴のような腰つきに、明らかにあの亡霊が宿っていた。間違いようもない、あれは少女である。半場はそう確信すると同時に、無意識に辺りを見渡している自分に気が付いた。少なくとも見える範囲に父親や祖父らしき人影は見当たらない。

 (あ...)

 思わず半場は小刻みに首を振る。少し遅れて、ゲジゲジやムカデを見た時のように背筋がぶるると震えた。

 (...だからなんだってんだ...何考えてんだ、俺は)

 一瞬だけ浮かんだ邪念と、それによって現れた自らの行いに、半場はひどく狼狽した。何かに追い立てられるようなぎこちない足取りで、少女とは反対側の壁に向かい、カランの前の風呂椅子に腰かける。心臓が早鐘のように打っていた。視線を上げれば眼前の鏡に少女の小さい後ろ姿が映っていた。刹那、ふいごで空気を送り込んだように、穢れた欲望の炎が燃え上がる。バレるはずがない、半場はそう思ってしまった。
 だらしなく開いた口の端から涎が垂れる。鏡から血走った目を離すことができない。少女が身じろぎするたびにその幼い尻の肉が風呂椅子に密着し、はみ出て、柔軟に形を変える。半場の理性の檻が、亡霊の手によってばきばきとへし折られていく。

 不意に鏡の中の少女が立ち上がった。半場は思わず声が出るほどに息をのみ、慌てて視線を目の前のカランに戻す。生唾を無理やり飲み下すと、ぐびび、という奇妙な音が鳴った。何十秒間、いや何分間かもしれない。いったいどれほどの間少女の後ろ姿を鏡越しに凝視していたのか、自分でもわからない。わからないが、今の自分がとてつもなく挙動不審であったことは確かだった。半場は何かを誤魔化すかのようにボタンを押し、思い出したように洗面器をあてがい、目的もなく水を溜め始める。
 洗面器に水が溜まりきるよりも、少女が歩き出す方が早かった。それくらいの短い時間だったが、半場には永遠のように感じられた。半場の背後で少女はぺたぺたという水音交じりの足音を鳴らし――愚かな男の覗き見を咎めなどするはずもなく――遂に浴場の戸をがらがらと開けて、出ていった。洗面器から水が溢れ、ざばざばとこぼれ落ちる。少女が出て行った後も、半場はまるで猫をやり過ごす鼠のようにしばらくじっと息を潜めていた。実はあの子が半場の視線に気づいており、父親か祖父か、保護者に報告しにいったのだったらどうしよう。気づけば半場の股間のそれは痛いほどに勃起している。今にも彼女の保護者が戸を蹴破らんばかりの勢いで現れ、殴りかかってくるのではないか。うちの娘じろじろ見てたらしいねお兄さん、などと詰めてくるのではないか。そんな恐ろしい妄想が浮かんでは消えを繰り返すのに、半場の男根は一向に萎えようとしないのだった。




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 放心状態で天井を見上げ、ゆっくりと目を瞑る。誇りですらあった理性の檻が呆気なく打ち壊されたことへの悔恨と、今も網膜に焼きついている幼く扇情的な肢体が、半場の頭の中でごちゃまぜになっている。いや、正確に言えば後者によって前者が弄ばれている。あれから数十分かけて身体を洗いながら男根が萎むのを待った半場は今、ようやく湯舟に浸かっていた。

 (一瞬だけ浮かんだ邪念?一瞬?どこがだよ...まじでクソだ、俺は)

 そうやって自分をどれだけ責め立てようとしても、少女の裸体が脳裏にちらつく。理性で覆い隠そうとした分だけ、あの生白い肌やぽってりとした腰つきが情欲を燃え上がらせる。檻は最早壊されてしまったのだ。しばらく作り直すことすらできそうにない。
 ふと気づけば熱い湯の中、半場はまた勃起していた。男根はひどく熱を帯び、湯との境界線が判然としない。肩まで浸かったこの湯全体が自分の肉欲を表しているような錯覚に囚われる。水風呂が欲しい。半場は切実にそう願った。

 「......」

 再び目を瞑り、大きくため息をついたその時であった。

 「なぁなぁ、どっかあんべわりんだが?」
 「...なっ」

 すぐ左隣から、幼い声がした。目を開けるとそこには先ほどの少女がいた。
 それは些か不可解な話だった。いかに半場が目を瞑り考え事に耽っていたとしても、水音も足音も立てずに肩が触れるほどまで近づくことができるだろうか。怪異。幽霊。心霊現象。いくつかの非現実的かつ似通った選択肢が半場の頭をよぎる。だがしかし、そんな思考が超高速で左から右に吹き飛ぶほどに。

 (かわいい...)

 半場を見上げる少女は見惚れるほどに可愛らしかった。仔猫のような大きい目に、西洋人形を思わせる長い睫毛。その奥では、世の中の醜いことなど何も知らないような綺麗な黒目がきらきらと輝いている。ふっくらとした頬は湯舟に浸かっているせいかやや上気し、どことなく色っぽい。一方で鼻頭のそばかすと緩んだ口から覗く八重歯は庇護欲を掻き立てる幼さを帯びていた。
 さらに半場の目を奪って離さなかったものはその下方にあった。浅い谷間と幼児特有の乳輪、そして水風船のような腹。腰まであろうかという長い黒髪が湯気に濡れて小さい肩や背中にへばりつき、白磁のような肌の輪郭を際立たせている。奇しくもあのゲームセンターと同じ角度でありながら、あの時より近く、あの時より鮮明に、そして布切れなどに隠されることもなく、幼い肢体が晒されているのだ。

 「おーい?のぼせてらんだが?喋らいねぇの?」

 裸の少女は東北の言葉で話しかけながらさらに半場に近づき、その顔を覗き込む。腕同士が触れ合う。半場は静電気が走ったかのように天井を仰ぎ、左腕をひっこめようとしたが、できなかった。少女が両の手を以て半場の左腕を掴んでいたからだ。半場の上腕の半周を回るか回らないかといった小さな掌二つ、その柔らかい感触が伝わってくる。ぐびり。また生唾を飲み込んで、思わず視線を天井から少女の顔へ戻したところで、半場はさらなる異変に気が付いた。最初、辛うじて残った理性の思考回路で半場はこう考えていた。この少女はのぼせた半場を心配して引っ張り上げようとしているのだろう、と。だが今、無垢であったはずの少女の瞳は、表情は、先ほどまでとはどこか違った。

 「...おめぇ、いい匂いすんなぁ」
 「あっちょっと...っ」

 少女の顔はさらに近づき、もはや半場の頬に鼻先が触れるほどであった。これは夢ではないのか。そう思案する半場の頭の中は最早理性だとか欲望だとかそんな次元の二元論すらも論じることができなくなっていた。完全にショートした脳味噌は正常な電気信号の送信を諦めたのか、立ち上がったり少女の手を振り払ったりという選択肢を提示することすらしない。結局半場に残された選択肢といえば再び天井を仰ぎ少女を見ないようにすることくらいだった。無論、そうしていても何も変わらないどころか、どこか様子のおかしい少女はぐいぐいと近づいてくる。左腕に触れるむにむにとした柔らかい感触は未成熟な乳房や腹のそれに違いなく、当然ながら半場の男根は今までにないほどに怒張し、周りの湯より熱いのではないかと思うほどであった。
 そうしているうちに少女の息遣いが半場の首元に触れる。少女はまるで初めて出会った人懐こい犬のように、すぴすぴと鼻を鳴らして半場の匂いを嗅いでいる。時折少女の口から大きな吐息が漏れて半場の鼻先を掠めると、乳飲み子のような甘い匂いがした。不意に半場の左足に柔らかい何かが絡みつく。緩慢な動きで目線を下げると、半場のがっしりとした左脚に白蛇のような何かが纏わりついている。水面の下でゆらゆらと揺れるそれは、少女の左脚に違いなかった。気づけば少女の左手は半場の右脇腹へ、右手は右肩に回されている。少女は今や半場の左脚にまたがるようにして、その左半身に自身の胸を、腹を、ぴったりと密着させているのだった。

 「...あぃしがたね、こんた匂いっこ嗅いだこったば...」

 少女の熱に浮かされたような声が半場の耳に届くのとほぼ同時だった。ぬるり、と熱くぬめった何かが半場の頬に這う。舌で頬を舐められたのだ。人生で一度もない経験でありながら、半場は瞬時にそう理解した。心臓が体から飛び出そうな勢いで打っている。興奮の二文字では到底表現しきれない、脳の血管など一、二本ちぎれているのではないかと思うほどの熱狂が半場の体中を支配していた。少女は何も言わず、何度も何度も半場の左頬を舐め上げる。半場の裸体に自らの裸体を絡みつけ、されるがままになった男の顔をべろべろと舐め回し続けているのだ。半場の男根はもはや限界であった。体中に広がっていた血の騒ぎが下半身へ、そして屹立する男根へ集合し、それ以外の四肢体幹は抜け殻となってぴくりとも動かなくなってしまう。心臓の位置が入れ替わったのかと思うほどに男根はどくどくと脈動し、湯船に浸かっていることなど、まして直接触れてもいないことなどお構いなしに、粘ついた白濁を吐き出し始めた。

 半場の男根は何度も脈動を繰り返し、快感を幾重にも脳髄に刷り込みながら大量の精液を吐き出し続け、十秒ほど経ってようやくひくひくと震えるのみとなった。温かい湯の中に射精するのは初めてであったし、まして公衆浴場でしたことなどあるはずもない。罪悪感と開放感が交じり合った快楽は麻痺毒のようで、射精が終わった後も半場は身動きを取るどころか指一本動かせなかった。まるで自分そのものが排出され、湯の中に溶け込んでしまったような錯覚に囚われる。異常なほどの倦怠感が全身を支配していくにしたがって、ゆっくりと半場の瞼が下がっていく。意識を手離す直前に、少女の悪戯っぽい笑い声が聞こえた気がした。

 「...あぃー、んめごど!...おれ、おめんどごさ行ぐ!」



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 見慣れた道に出た半場は、上がった息を戻すようにゆっくりと歩こうとしていた。それでも自然と歩みが早くなってしまう。今しがた遭遇した異質な事件がそうさせているに違いなかった。

 数分前。脱衣所にて全裸で目覚めた半場の周りには誰もおらず、浴場内にも人影はなかった。見た限りでは湯舟の中に放たれたあの浅ましい汚れもないようだった。脱衣所の古びた壁掛け時計は16時半を指していた。明らかに時間の進みが遅い。まるであの少女との逢引の分がまるごとなかったことになったような感覚であった。
 青の暖簾を裏側からくぐると、番台の老婆は出会ったときと全く同じ姿勢で正座していた。まるで置物のようであった。

 「......」

 半場は老婆と目を合わせないようにしつつ、番台の前を通り過ぎる。先ほどの出来事がこの老婆には全てお見通しであるような予感が半場にはあった。目を合わせれば最後「地獄」と言われそうな気がしてならなかったのだ。いそいそとブーツを履く。ブーツにこびりついていた雪と泥は溶け落ち、その表面はすっかり乾いていた。とんとんとつま先を鳴らし、ガラス戸に手を掛けたその時であった。

 「あんた...気に入られたんね」
 「...え?」

 掠れ声が聞こえ、思わず振り向くと、老婆は笑っていた。しわくちゃで、どことなく寂しそうな笑顔であった。

 「...もう遅いよ。暗くならんうちにはよ帰り」
 「は、はあ...」

 促されるままに半場は銭湯を出る。からから、ぴしゃりと戸を閉める。半場が道路に向き直った瞬間に、ふっと辺りが暗くなった。嫌な予感がした。思わず振り返れば、先ほどまでガラス戸を通して漏れ出ていたはずの暖かい光は消え、すりガラス越しに窺える店内の様子は真っ暗闇であった。

 「...あ......えっ...!?」

 怯えるように建屋から離れたことで半場は気づく。パイプ煙突は沈黙し一筋の煙も昇っていない。苔の生えた軒先には蜘蛛の巣がはり、ガラス戸の端はひびが入って一部が欠けている。暖簾もない。
 電気を消したとか、中でカーテンを閉めたとか、そんなものでは断じてなかった。それは正しく、人が住まなくなって長く経つ廃墟であった。



 見慣れた道に戻るまで、半場は走り続けた。シャーベット状の雪がじゃっじゃっと音を鳴らして足を掬っても、息が切れても構わず走り続けた。家に着いてからスマートフォンでいくら調べても、遂に「南無の湯」を見つけることはできなかった。悪路を全力疾走したせいか、全身のじんじんとした疼きだけがいつまでも残っていた。
25/01/04 23:26更新 / 第十七代将軍徳川真剣吉
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■作者メッセージ
あんべ:塩梅。ここでは体の具合のことを指している。
〜だが?:ですか?
のぼせてらんだが?:のぼせているのですか?
喋らいねぇの?:喋れないのですか?
あぃしがたね:困ったことになった。
こんた:このような。
っこ:小さいものや親しみのあるもの、好意的にとらえているものの語尾にしばしば付けられる。
こったば:ことであるならば。この文脈では、嗅いでしまったら。地域差あり。
んめごど:おいしいなあ。

そこそこ合ってるとは思いますが生粋の秋田弁ユーザーからしたら間違いもあるかもしれません。そんなときはまあ、ネオアキタということで...。

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