お姉さんと図書館
トリウィアは、巻き角を生やした小柄な童女の姿をしていた。少年は、生物の時間に習ったヤギを連想した。簡素なローブを着て、オリーブの葉を髪にあしらっていた。その周囲には、似たような格好の魔女が三名仕えていた。
「求むは如何なるや?」彼女が手をあげると、周囲の本棚が、糸のように引き伸ばされ、瞬時に移動した。「図鑑、辞典、説話集、詩歌、戯曲に…自由帖、何でもござれだ」「…僕の!?」トリウィアが手に取りしは、少年の自由帖であった。表紙には、ハニービーの見事な挿し絵がある。紛れもなく、彼のものである。
「ふむ。それも気になるが、『読書感想文』の課題図書だ。ここは、童話か小説でも見せてくれないか」デーモンは、顎に手を宛て、それぞれの書物を吟味した。「『読書感想文』…一体、幾人が、その苦行の果て、この図書館に迷い込んだことか」バフォメットは、目を閉じて過去を振り返りながら呟いた。
「…お姉さん?」「どうした、少年」悪魔は、本を捲る手を止めて、少年に目線を合わせた。漆黒の眼に、彼の顔が反射した。「なんで、読書感想文でここの人たちは、なんかその、まじめになってるの?」
「サバトには、それぞれ探究すべき真理がある…」デーモンに代わり、トリウィアが彼の質問に答えた。「さて、この図書館を、この異界『ロゴダイモニア』を発見したのは、小生が師匠筋。すなわち、シロクトー女史やルーニャルーニャ師であった」
「この空間には、『本』が集まる。形而上学的な『ロゴス』がな。我々はそれを解析する」バフォメットは言葉を切った。少年の顔にいくつもの疑問符が浮かんでいたのだ。「けいじ、じょう…ロゴス?」「現実にあるものの本質、形のないココロだけの…いわば想像の世界を学ぶこと。ロゴスは、本質の一つだね」彼の疑問に、デーモンは説明を与えた。
「想像…学ぶ?それって、何の役に立つの?勉強って、現実で生きるために必要なことを習うんじゃないの?」少年は、更に困惑を強めた。トリウィアは、感心したようにほおと声を出した。
「汝れの番は、中々どうしてよい質問をするものよ。小僧、その疑問忘れるでないぞ」「…お褒めにあずかり、私も嬉しいですな」バフォメットとデーモンの会話に、何らかの歴史が見え隠れした「つがい…?」
トリウィア「ともあれ、そういう本を集め、管理するのはルーニャルーニャ師の領分、空間についての魔術的研究はシロクトー女史の得意とすること、そして彼女ら以外もバフォメット(仮名)御大やクロフェルル聖下が参画した。小生は、在野の研究者として招聘された。そして、権限を借り受け、今管理者に就いたというわけよ」
「話を戻すと、この『ロゴダイモニア』は、知的生命体が何かを考えた、書いた、話した。それらが、蓄積され何らかの本になっている。シロクトー女史によれば、『集合無意識』だそうだ」「そして、お姉さんの先生(トリウィア)は、ここで本を読む人員を求めている、というわけさ」
トリウィア「いかな魔法使いと言えど、人間共がこの空間に到達するは困難極まる。小生の兄者は、論文を書いている内に、寝食を忘れ、気づけばここにたどり着いた。小生は、兄者と身体と議論を重ねる内に…」
お姉さん「ノロケは他所でやってくれたまえ」
トリウィア「まあ最後まで聞け。その内に、気づいたのだ、つまり極度集中状態で、疲労や苦痛を和らげるため、あるいは誤魔化すために、身体は快楽元素"セルム・トーニクム(解きほぐす水)"を出すのだ。確か、グレイリア博士の著書だったか?」
お姉さん「グレイリア著『緊張と緩和:生理学入門』だね」デーモンは、学術書を投げ渡した。
トリウィア「すまんな。どれどれ…あった」彼女は、本の内容を空中に投影した。「見ろ、『高度な生物ほど精神的作業に没頭し、極度集中しての作業をしてしまいがち…(中略)セルム・トーニクムと名付けた』と」
少年(何言ってるかわかんないよ…)悪魔は、知恵熱になりかけの彼の額を撫でた。(お姉さんの手、ひんやり気持ちいい…)
お姉さん「勉強や仕事を頑張ることに、キモチよくなることがあるってことさ。で、トリウィア・サバトはえっちによるキモチよさを高めるために、こちらの精神活動の動きとこの異界の探究を目的にしてるってわけだね」
「小生の兄者のように、魔法使いかどうか問わず、何らかの頭脳労働や趣味に無心する者はいつかこの領域に迷い込む。小生は、そういう人間共の精神を分析し、解明がしたいのだ」トリウィアが本を閉じると、書籍は独りでに書庫のあるべき場所に飛んでいった。「もちろん、表向きというか、業としては師と女史の名代として図書館の管理を行うがな。知識の蒐集は命題と近しい。サバトにはそういう者達を勧誘しておる」
トリウィア「小僧。汝れはこの秘密の世界を知った。そこな悪魔は、始めあまり学徒として優秀ではなかったが…」
お姉さん「一言余計だね…」
トリウィア「だが、ここにたった数十年いただけで、『邪淫』から狡智のデーモンへと相成った。人間も、現世よりここで学ぶことが多かろ。サバトに入らぬか?」
少年「えっ…?」
お姉さん「いや、彼は読書感想文の課題図書をだね」
トリウィア「そうだった…まあ、図書館を好きに使うがよい」彼女が手を叩くと、図書館は緊急事態から姿を戻した。
「ではな。久しぶりに馬鹿弟子と話せて楽しかったぞ」「私も、向こう数千年は顔を会わせたくないぐらい、満足したよ」デーモンは、去り行く師匠の背中に礼儀正しく、頭を下げた。少年は、呆気にとられていたが、すぐに折り目正しく続けて一礼した。
お姉さん「やれやれ。先生としてはともかく、個人としては苦手だね」悪魔は、いつになく疲れた表情をした。
少年「さっきの…トリウィアさんはさ」
お姉さん「どうしたかね?」
少年「お姉さんのこと、ここでいっぱい勉強したって言ってた」
彼の眼差しは、いつになく尊敬の色を含んでいた。
お姉さん「勉強(learn)というよりは、研究(study)かな」
少年「何が違うの?」
お姉さん「勉強…というか君が受けてる初等教育とは、さっき言ってた『現実で生きるために必要なこと』を子供の成長にあわせて、広く教えることなんだ」
少年「学校の先生も、注意するときに言ってた。『勉強しないと社会に出るのが大変になる』って」
お姉さん「それに対して、研究とは究極的には『自分が知りたい』で自主的にやるものなんだ」
少年「自分から学ぶってこと?楽しんで?」
お姉さん「そういう奴らがいるんだよ。私も、元来快楽主義でね、わざわざ修行僧みたいに学習なんてやりたくはなかったさ」
少年「じゃあなんで、こんなとこにやってきてサバトに入ったのさ?」
お姉さん「理が変わるまで、魔王が交代するまで、私は淫魔そのものだった。交わり、精を吸い、ただキモチよくなることに貪欲だった」彼女のかつての姿らしき幻影がちらついた。
お姉さん「そこに来て、私は前も言ったが"賢者の時間"とでも言うべき状態に陥った。あちこちで、快楽に溺れて淫滔に耽る世界を見ると、虚無感が襲ったのだ…」
少年「じゃあ、お姉さんは…」
お姉さん「色んな魔法を試してみた。もはや流通している魔法道具を使い尽くす段に来た。だが、渇きは一向に癒えない。腹は満たされているのにな…」
少年「…だから、ここに来たんだね」
お姉さん「ああ。初めての体験だったよ…学ぶこと、習うことがこんなにも楽しいとはね」
少年「僕も、そんな風に思える日が来るのかな?」
お姉さん「そのために、君が大悪をもたらすか、はたまた大善を成すか。どちらにせよ、今の勉強をしっかり修めなければいけない。お姉さんは、そのために少年と契約したのだよ」
二人は、いくつかの本を手に取り、それらを一緒に読んだ。時折、面白くて、びっくりして、恐怖して、声を漏らしてしまうことがあった。その度に、司書に咎められたが、彼らは楽しんで本を読み漁った。しかし、段々と疲れからか、少年の瞼は重くなっていった。
「あれ…?」彼は、ベッドの上に寝ていた。「あっ…」衣服はちゃんと着ていて、ベッドは乱れた様子もなかった。そして…外はまだ夕焼けであった。少年は、机に向かった。その上には、魔導書と夢で見た本が置いてあった。
彼は、本を手に取り、読書感想文の原稿を出した。「何だろう…」一切れの紙が落ちてきた。そこには、「返却期限:満足するまで」の文字が刻まれていた。少年は、笑みを浮かべつつ、宿題に取りかかった。
「求むは如何なるや?」彼女が手をあげると、周囲の本棚が、糸のように引き伸ばされ、瞬時に移動した。「図鑑、辞典、説話集、詩歌、戯曲に…自由帖、何でもござれだ」「…僕の!?」トリウィアが手に取りしは、少年の自由帖であった。表紙には、ハニービーの見事な挿し絵がある。紛れもなく、彼のものである。
「ふむ。それも気になるが、『読書感想文』の課題図書だ。ここは、童話か小説でも見せてくれないか」デーモンは、顎に手を宛て、それぞれの書物を吟味した。「『読書感想文』…一体、幾人が、その苦行の果て、この図書館に迷い込んだことか」バフォメットは、目を閉じて過去を振り返りながら呟いた。
「…お姉さん?」「どうした、少年」悪魔は、本を捲る手を止めて、少年に目線を合わせた。漆黒の眼に、彼の顔が反射した。「なんで、読書感想文でここの人たちは、なんかその、まじめになってるの?」
「サバトには、それぞれ探究すべき真理がある…」デーモンに代わり、トリウィアが彼の質問に答えた。「さて、この図書館を、この異界『ロゴダイモニア』を発見したのは、小生が師匠筋。すなわち、シロクトー女史やルーニャルーニャ師であった」
「この空間には、『本』が集まる。形而上学的な『ロゴス』がな。我々はそれを解析する」バフォメットは言葉を切った。少年の顔にいくつもの疑問符が浮かんでいたのだ。「けいじ、じょう…ロゴス?」「現実にあるものの本質、形のないココロだけの…いわば想像の世界を学ぶこと。ロゴスは、本質の一つだね」彼の疑問に、デーモンは説明を与えた。
「想像…学ぶ?それって、何の役に立つの?勉強って、現実で生きるために必要なことを習うんじゃないの?」少年は、更に困惑を強めた。トリウィアは、感心したようにほおと声を出した。
「汝れの番は、中々どうしてよい質問をするものよ。小僧、その疑問忘れるでないぞ」「…お褒めにあずかり、私も嬉しいですな」バフォメットとデーモンの会話に、何らかの歴史が見え隠れした「つがい…?」
トリウィア「ともあれ、そういう本を集め、管理するのはルーニャルーニャ師の領分、空間についての魔術的研究はシロクトー女史の得意とすること、そして彼女ら以外もバフォメット(仮名)御大やクロフェルル聖下が参画した。小生は、在野の研究者として招聘された。そして、権限を借り受け、今管理者に就いたというわけよ」
「話を戻すと、この『ロゴダイモニア』は、知的生命体が何かを考えた、書いた、話した。それらが、蓄積され何らかの本になっている。シロクトー女史によれば、『集合無意識』だそうだ」「そして、お姉さんの先生(トリウィア)は、ここで本を読む人員を求めている、というわけさ」
トリウィア「いかな魔法使いと言えど、人間共がこの空間に到達するは困難極まる。小生の兄者は、論文を書いている内に、寝食を忘れ、気づけばここにたどり着いた。小生は、兄者と身体と議論を重ねる内に…」
お姉さん「ノロケは他所でやってくれたまえ」
トリウィア「まあ最後まで聞け。その内に、気づいたのだ、つまり極度集中状態で、疲労や苦痛を和らげるため、あるいは誤魔化すために、身体は快楽元素"セルム・トーニクム(解きほぐす水)"を出すのだ。確か、グレイリア博士の著書だったか?」
お姉さん「グレイリア著『緊張と緩和:生理学入門』だね」デーモンは、学術書を投げ渡した。
トリウィア「すまんな。どれどれ…あった」彼女は、本の内容を空中に投影した。「見ろ、『高度な生物ほど精神的作業に没頭し、極度集中しての作業をしてしまいがち…(中略)セルム・トーニクムと名付けた』と」
少年(何言ってるかわかんないよ…)悪魔は、知恵熱になりかけの彼の額を撫でた。(お姉さんの手、ひんやり気持ちいい…)
お姉さん「勉強や仕事を頑張ることに、キモチよくなることがあるってことさ。で、トリウィア・サバトはえっちによるキモチよさを高めるために、こちらの精神活動の動きとこの異界の探究を目的にしてるってわけだね」
「小生の兄者のように、魔法使いかどうか問わず、何らかの頭脳労働や趣味に無心する者はいつかこの領域に迷い込む。小生は、そういう人間共の精神を分析し、解明がしたいのだ」トリウィアが本を閉じると、書籍は独りでに書庫のあるべき場所に飛んでいった。「もちろん、表向きというか、業としては師と女史の名代として図書館の管理を行うがな。知識の蒐集は命題と近しい。サバトにはそういう者達を勧誘しておる」
トリウィア「小僧。汝れはこの秘密の世界を知った。そこな悪魔は、始めあまり学徒として優秀ではなかったが…」
お姉さん「一言余計だね…」
トリウィア「だが、ここにたった数十年いただけで、『邪淫』から狡智のデーモンへと相成った。人間も、現世よりここで学ぶことが多かろ。サバトに入らぬか?」
少年「えっ…?」
お姉さん「いや、彼は読書感想文の課題図書をだね」
トリウィア「そうだった…まあ、図書館を好きに使うがよい」彼女が手を叩くと、図書館は緊急事態から姿を戻した。
「ではな。久しぶりに馬鹿弟子と話せて楽しかったぞ」「私も、向こう数千年は顔を会わせたくないぐらい、満足したよ」デーモンは、去り行く師匠の背中に礼儀正しく、頭を下げた。少年は、呆気にとられていたが、すぐに折り目正しく続けて一礼した。
お姉さん「やれやれ。先生としてはともかく、個人としては苦手だね」悪魔は、いつになく疲れた表情をした。
少年「さっきの…トリウィアさんはさ」
お姉さん「どうしたかね?」
少年「お姉さんのこと、ここでいっぱい勉強したって言ってた」
彼の眼差しは、いつになく尊敬の色を含んでいた。
お姉さん「勉強(learn)というよりは、研究(study)かな」
少年「何が違うの?」
お姉さん「勉強…というか君が受けてる初等教育とは、さっき言ってた『現実で生きるために必要なこと』を子供の成長にあわせて、広く教えることなんだ」
少年「学校の先生も、注意するときに言ってた。『勉強しないと社会に出るのが大変になる』って」
お姉さん「それに対して、研究とは究極的には『自分が知りたい』で自主的にやるものなんだ」
少年「自分から学ぶってこと?楽しんで?」
お姉さん「そういう奴らがいるんだよ。私も、元来快楽主義でね、わざわざ修行僧みたいに学習なんてやりたくはなかったさ」
少年「じゃあなんで、こんなとこにやってきてサバトに入ったのさ?」
お姉さん「理が変わるまで、魔王が交代するまで、私は淫魔そのものだった。交わり、精を吸い、ただキモチよくなることに貪欲だった」彼女のかつての姿らしき幻影がちらついた。
お姉さん「そこに来て、私は前も言ったが"賢者の時間"とでも言うべき状態に陥った。あちこちで、快楽に溺れて淫滔に耽る世界を見ると、虚無感が襲ったのだ…」
少年「じゃあ、お姉さんは…」
お姉さん「色んな魔法を試してみた。もはや流通している魔法道具を使い尽くす段に来た。だが、渇きは一向に癒えない。腹は満たされているのにな…」
少年「…だから、ここに来たんだね」
お姉さん「ああ。初めての体験だったよ…学ぶこと、習うことがこんなにも楽しいとはね」
少年「僕も、そんな風に思える日が来るのかな?」
お姉さん「そのために、君が大悪をもたらすか、はたまた大善を成すか。どちらにせよ、今の勉強をしっかり修めなければいけない。お姉さんは、そのために少年と契約したのだよ」
二人は、いくつかの本を手に取り、それらを一緒に読んだ。時折、面白くて、びっくりして、恐怖して、声を漏らしてしまうことがあった。その度に、司書に咎められたが、彼らは楽しんで本を読み漁った。しかし、段々と疲れからか、少年の瞼は重くなっていった。
「あれ…?」彼は、ベッドの上に寝ていた。「あっ…」衣服はちゃんと着ていて、ベッドは乱れた様子もなかった。そして…外はまだ夕焼けであった。少年は、机に向かった。その上には、魔導書と夢で見た本が置いてあった。
彼は、本を手に取り、読書感想文の原稿を出した。「何だろう…」一切れの紙が落ちてきた。そこには、「返却期限:満足するまで」の文字が刻まれていた。少年は、笑みを浮かべつつ、宿題に取りかかった。
25/05/27 12:34更新 / ズオテン
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