前編
ジパングの深山幽谷に、一つの屋形あり。ここに今、武装した一団が攻め寄せようとしていた。先頭で馬に跨がる青年のもとに報告を行うため、一人が進み出でひざまづいて言った。
「若様、敵方にこちらの進軍は気取られておらぬ様子。こちらに陣を敷き、早朝打って出るべきと存じ上げます」若様と呼ばれた青年は頷いた。その額には俄に汗が滲み、精悍だが幼さを残す顔に頼りなさを表出させた。
彼らは、隣国の大名に仕える郎党であり、青年は重臣の息子であった。主君の命を受け、この地に潜む敵勢を炙り出しに来たのである。初陣の代わりに比較的安全な任を言い渡され、気炎万丈に軍を進めて来た。「楽な任務」のはずであった。
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「…しゅうにごさる!敵襲にござる!」「…なんと!?」青年は、夜襲を告げる法螺と見張りの声に起こされた。(敵襲…見破られたというのか!?)彼は、着の身着のままで陣屋を飛び出した。「…?」そして、すぐさま違和感を覚えた。
襲撃を受けたにしては、まだ誰も起きてはいないように静まり返っていた。それどころか、彼が陣屋を出た途端に法螺の轟音も見張りの叫びも消えていた。気味悪く思った青年は、焚き火の不寝番に状況を聞きに向かった。
「!」結論から言えば、不寝番は皆眠っていた。いや、気絶していたと言うべきか。明らかに襲撃者が侵入している…彼は直ぐ様近くの兵舎に駆け込んだ。「すまぬ!誰かある…!?」
青年は、恐るべき脅威を目の当たりにした。「…〜ン?何じゃあ?まだ、起きとるヤツがおッたンか?」身の丈八尺を越え、筋骨隆々の手足。「ふんふん…ヒック…かわいらしい顔しとるのォ…この際、お前さンでも良かろ?」切れ長の眼は猛獣のように暗がりで光り、近づく度に酒臭い匂いが強まった。
「…あっ、な、何奴!?…」青年は圧倒された。明らかに尋常の人間ではない。「何奴?…そらァ、鬼よ」「おに…!」彼はその言葉と威圧感に後退りを始めた。(おに…鬼…あやかしだ!)はち切れんばかりの忍装束や鎖帷子から垣間見える赤い肌、異様に伸びた鋭い爪、何より額当てを貫く一本角が否応なしにこの者を赤鬼であると証明した。
「そう怯えんでもええじゃろ?」「お、お前が襲撃の…げ、下手人か…!?」青年の声は奇妙に上擦った。「如何にも」「な、何故、我らを…」「何故とな?」赤鬼は瓢箪を煽り、口を拭って答えた。「そらァ、あんたらがワシらの…ヒック…"庭"に踏み入ったからよ」「な…」
「言ってしまえば、ワシはあんたらに襲われる前に追い返しに来ただけよ。寧ろ、あんたらの方が"襲撃者"と呼ばれて然るべきじゃないかえ?」「…それは」青年は言葉に詰まった。主君の命とはいえ、敵地に踏み込んだのはこちらである。鬼はその様子に、常よりなお紅潮した顔を愉しげに歪めた。
「さァて、お喋りはこのくらいにして、お前さンも眠らせてやらんとなァ…ヒック」「あああ…」鬼は、背中に吊るした棍棒を引き抜いた。「動くなよ…下手に動くと痛むからのォ。なに、心配せんでも死にゃあせん、よ!」「うわあああ!」青年は、自分の身の丈程の金棒からすんでの所で逃れた。前のめりになりながら、彼は外へ逃げ出した。
「…はぁ!はぁ!」彼は必死に陣屋に向かった。生きも絶え絶えの全身全霊である。「おーい!ワシから逃げられはせんぞォ!」「ひいっ…」それを追う鬼は、涼しい顔であった。千鳥足だが、背丈や一足の距離の大きさでとてつもない速さであった。それでいて、力強い一歩にはあって然るべき足音も巨体の揺れも無かった。
「うわあああ!」転びそうになりながらも、青年は陣屋に飛び込み太刀を手に取った。逃げられないのであれば、死に物狂いで戦うより道はない。「…」彼は、震える足を強いて立ち上がり、陣屋の入り口を見据えて刀を構えた。手は汗ばみ、いつもより刀の重みを両腕に感じていた。
「…!」外の篝火が天幕に、巨大な影が浮かび上がらせた。「出ておいでェ…ヒック…悪いようにはせんぞォ」影はしゃがみこみ、ゆっくりと幕に手をかけ腕を挿し込んできた。「ッ!悪鬼め、食らえ!」青年は、渾身の力を込め、太刀を振り下ろした。(手応えあったか!?)刃が腕に食い込んだ…が、
「おーいた…ヒック」「!?」しかし、薄皮を切りつけた刀は硬い肉に阻まれた。「じゃが、これくらいは活きがよくなきゃつまらんからなァ…ヒック」「あ…あああ…」青年は顔面蒼白となった。
「のォ…」「ひいっ!」「お前さン、懲りたか?」「えっ…」若武者は、唐突な質問に困惑した。「いやなに、そもそもワシらは別に命までは最初から取る気はのうてな?」「そ、それは…それは誠か?」「鬼は嘘はそんなにつかんぞ、人間じゃあるまいし」
「これに懲りたなら、手勢を連れて邦に帰るんじゃ」「しかし…わ、我らは武士なればおめおめと逃げ帰れは…」青年は、必死に言葉を絞り出した。矜持と恐怖に揺れ動きながら、彼は糸口を探していた。
「そうかえ…人間も大変じゃの」「…」鬼の声には、落胆と諦観、少しの憐憫が入り交じっていた。「…良いわ」「…えっ」「今夜は赦してやろう、と言っとるんじゃ」そう言うな否や、腕の力が弱まり刀が抜けた。
「見逃してやるわい…」「…!」若武者は、身体の力が抜けるのを感じた。真っ赤な巨腕は、するすると陣幕の外へと戻っていった。外の影は、しばし佇んでいたが、少しずつ小さくなっていた。「ふぅ…」彼は、安堵からその場に座り込んだ。
「あっ、言い忘れておった…」「…!?」鬼の声が再び聞こえた刹那、篝火が燃え上がった。青年の影が後ろに伸び、天幕に影法師を作った。「見せしめは、一人はおらんとな」「な、なにを…」鬼の影が遠ざかるに従い、彼の影が歪に膨らんだ。
「ワシ"ら"に着いて来て貰おうかのォ…」「あっ…」そこで、彼は気づいた。後ろの影法師に「角」が生えていることに…「のう、呉葉」「はい、ねえ様」彼の肩は、影から生えた赤い腕に掴まれた。
25/02/23 21:32更新 / ズオテン
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