第二章 典雅王と魔物娘 終
ダウード1世8年二つ目の地固月14日。この日も、朝から謁見の間には、多くの者が集い報告と陳情の列をなした。幕僚、地方の県令、周辺国の外交官、各地の有力者。挨拶だけでも、数十分を要した。
正午すぎ、最後の謁見者を見送ると、続いてダウードは昼食を摂りに廊下へと出た。そこに、彼を探す者がやってきた。明るい色の朗らかな青年であった。
「兄上、ご機嫌麗しゅうございます」「カリムよ、次期皇帝に障りがなさそうで余も満足じゃ」彼は、弟に冗談めかして挨拶を返した。「何をおっしゃる、私と貴方兄弟の仲ではございませんか」「ふふ、悪かった」
「いえいえ…」「して、余に何か用か?昼餉は食したか?これから昼餐に行くところだが」「…兄上にはお見通しでしたか」「…また皇太后殿下のことか?」「如何にも」
ムスタファの事実上の廃立と、ダウードの即位は皇太后の勢力を削ぐことはできたが、完全に排除とは行かなかった。未だ後宮での権力を保持し、有力官僚と宦官長を抱き込んでいた。
「…ヘレーネへの仕打ちには、これ以上は腹に据えかねまする」カリムの言葉には、忸怩たる思いと苛立ちが滲んでいた。「不甲斐ない、余が、兄が苦労をかける…」「兄上が謝ることではありませぬ!」「それでも…だ」
ヘレーネ、ガリオスの末娘にして、皇太子妃である。今は、東帝国の皇女の身分であるが、カリムとの成婚で、後宮の一員となる。(そうなれば、私にも守りきれんやも知れぬ)
その時、彼らの元に足音が近づいてきた。「…自室で落ち合おう。誰ぞの耳に入るかわかったものではない」「承知致しました」「なあ、カリム…」「はい?」「お前は、好いてくれるおなごを守ってやれ」「…わかりました」ダウードは弟の背を見て、一呼吸後会食の部屋へと向かった。
〜〜〜〜〜
ダウードは、寝るまでの間執務室にて、一日の公務に関する資料をまとめ、勅書に目を通すことを日課にしていた。
彼の書物を捲る手が止まった、即ちドアを叩く何者かに気づいたのだ。「カリムか…鍵はかけておらぬ。入るがよい」彼は、肩越しに扉が開かれる音を聞いた。
「ヘレーネのことについてだが…」「ヘレーネ?妾以外に親しくするおなごがおったのか?」「…何と」その声は、カリムより低く、しかし細いものであった。よく知るそれは、「アマシスよ。いつぶりか…」
「妾も無沙汰だったがの、お主はいつも簡素な手紙だけだった。流石に待つのに飽いたわ」彼女の話し方には、ダウードを責める意図以上に、会えたことへの嬉しさが含まれていた。
「近衛兵は何をしておるのだ」「まあ、そう言うでない。本気でアマゾネスを一人も入れないとすれば、寝ずの番をする豪傑が千でも足りぬわ」ダウードは、アマシスの言葉が冗談か本気か測りかねた。「それが誠ならば、余は眠れぬな」
「ふふ、さあてな」彼女の目が嬉しげに細まった。彼は、意を決して切り出した。「して、汝は何をば欲して余の閨に入り込んだか?」アマシスは、答える代わりに鼻を鳴らした。
「単刀直入よな、政と読み合いが勤まるのかの?」「何を申すか…余と汝の仲ぞ。今更探られて痛い腹があるものか」彼女は彼の言葉に一瞬面食らった。「…そういうところが」「どうした?」
「つまりだ。シシュペーやオウィデウスら、お主に貸し渡した郎党から、何よりお主の書状から、窮状を察しての…」「…余のためにか」「悪いか?」
ダウードは、深い皺を更にくしゃくしゃにして笑みを作った。「…汝には助けられてばかりよな」「…勘違いするでない、お主、弟君のために全てのしがらみを受け持って、消える気であろ?妾はただ逃がしたくないだけだ」
「逃げるとな?」アマシスは、ダウードに近づき手を取った。「そうだ。妾も君主の端くれ、命を尽くして国を守る、一族を守ると決め込む気持ちもわかる」「…」「だが、燃え尽きるには…生を捨てるには早い」「しかし…うっ」
彼女は爪が食い込むほどに、彼の手を強く握った。「お主がいなくなるのは悲しい…妾の唯一の対等な友がだ」「すまない…」「頼れ…君たる強さは個人の才覚だけではない、人を、街を、国をうまく使うことにある。お主は妾の部下を、ミュルミドーンを、忠を尽くす旧来からの臣の手を借りただろう」「!」
「妾は頼りないか?」「違う!」ダウードは、アマシスの手を強く握り返した。「ずっと逢いたかった!友が、お前がいることが心の支えだった!」「ではなぜ?」「…こんな頼りない姿を…逢ったら必ず弱音を吐くと、見られたくなかったのだ」「愚か者め!なればこそ、逃げるな!妾にも頼れ!」
彼は息を呑んだ。これほど必死な彼女の姿は見たことがなかった。「…ふふ」「何ぞ?気色悪い」「いやな、お前のこのような姿、例え親兄弟でも見れるものではなかろうな」彼女は一度言葉を飲み込むと、すぐさま赤面し手を離した。「…っ!」「ふふふ…」
その時、がたっと扉の方から物音がした。二人がそちらを見ると、カリムがバツの悪そうな顔をしていた。「これは…失礼致しました」「よい、紹介しよう。我が旧友のアマゾン女王アマシスだ」ダウードは、体を動かし弟とアマシスの間で促した。
「…兄上が…いえ陛下と懇意ということで、知己を得て大変有り難く思います」「堅苦しい挨拶はよろしいですよ…妾はアマシス。アマゾンの長にして、皇帝陛下の友を名乗らせていただいている。こちらこそ会えてよかった」
「さて、顔合わせもそこそこに、早速だが…役者が揃った。アマシス」「ああ」「私を助けてくれないか?」「断るわけなかろう」「そうよな」二人は、改めて握手を交わした。
〜〜〜〜〜
後宮とは、「ハレム」と呼ばれる。意味は禁足地であり、特定の者、もしくはなんぴとも入ること罷らぬ場所を言う。この場合、男人禁制ということである。
今でこそ、権力者が愛妾や側室、正妻を一緒に囲うものとされるが、元は砂漠地方の気候から女性をなるべく屋内や日陰に守る意味合いの習慣が起源とされる。
そこの主は、皇后または母后である。皇帝の正室、実母は俗に「女スルタン(スルタナ)」と称えられる。たとえ、大帝であろうとも、毎朝の挨拶や儀礼的な承認に顔を見せねばならない。
そして、今ダウードは、エジェ・スルタナ・ハヌムつまり兄の生母と対峙した。皇后時の権力を保持し、またダウードの母親が既に亡くなったことを理由に、異例のことである。実家たる外戚の「アイドゥン侯爵家」がベイリクとして強大なこともあり、後宮どころか帝都の構造に根深く入り込んでいた。
「義母上、本日もご機嫌麗しゅうございまする」皇帝は恭しく頭を下げた。「陛下、今日はいつもより遅かったですね。隈も酷い、しっかりと眠れていますか」豪奢な刺繍のカウチに肘掛け座るは、齢40過ぎと思えぬ美貌と艶やかな濡れ烏の貴婦人であった。彼の体調を心配する口調と裏腹に、表情は興味のない真顔であった。
「実は、本日は義母上に報告させていただきたく思いました」皇太后は形のよい眉をひそめた。「…お聞かせくださいまし…」ダウードは喉の息を飲み下し、一呼吸置いて話し始めた。「先日より、わたくしめはさるご婦人と文のやり取りをしていまして…その、結婚の許しをいただきたく参上しました」
エジェは目を見開いた。「その女人は、貴族でございましょ?」「高貴な身分ではありますが、帝国の公的な称号は持ち合わせておりませぬ」「無位無官の…皇帝たるもの、奴隷を側女にして遊ぶならまだしも、下賤なものとの婚姻でございますか?誰が許すものでしょうか?!」その口調は徐々に激しさを増した。
ダウードは額に汗を湛え縮こまった。「…しかし、私とその婦人は10数年来の仲でございまして、またアマゾネスとの有効の標ともなりますれば…」その言葉に、皇太后は目尻をきつく上げた。「アマゾネス!?冗談はおよし下さい!相手はシャイターンの眷属ではないですか!?」
「お待ちください…」そのとき、部屋に通された者がいた。たおやかだが、筋肉が浮き出た四肢。鋭くしかし気品ある眼差しに、香油で整えられた長髪。シルクの簡素なキトーンが、彼女の優雅さを強調していた。
「アマシス!?何故入ってきた!呼ぶまで来るでない」「陛下、わたくしのせいで御身が面倒されることに、最早居ても立ってもいられませぬ」「しかし…」エジェは呆気にとられ眩暈を催した。
「皇太后殿下!わたくしが件のアマゾネス、陛下との結婚をどうかお許しくださいませ!」アマシスは五体を擲って
跪いた。「なんということでしょう!?宦官や女官はどこでございますか?!この不届き者を連れていきなさい!」エジェは手を叩いた、直ぐ様足早に部屋に近づく足音が聞こえた。
「何をやっていたのです!?部外者が部屋まで侵に…」しかし、部屋に入ってきた者達は女官でも、宦官ですらなかった。皇太子カリム、皇太子妃ヘレーネ、宰相デルヴィーシュ・パシャ、将軍ジャファル、神官長ユースフ、シシュペーとオウィディウス率いるアマゾネス、ジャイアントアント達であった。
「ひいっ」エジェは恐慌状態に陥った。「お許しくださいませ!不肖なわたくしめが皆に相談したところ、説得のためとは言え後宮に押し掛けてしまったのです!」「皇太后殿下!この者らと陛下に何卒罰を与えるな!わたくしの独断です!」ここに来て、ダウードとアマシスの証言が食い違った。
「寄るでない!」皇太后は彼らの手をはね除けた。「お前達の咎は追って伝える故、刑に服すのを首を洗って待っていなさい!」「義母上!」「うるさい!皇帝である内は貴方達の結婚など認めません!」
部屋内が一気に静かになった。「…義母上、今なんと?」ダウードは彼女に問いかけた。「…貴方が皇帝を続けるのであれば、結婚は認められません」彼はアマシスと目を見合わせた。「本当にそう考えますか?」「決して皇統に魔物の血を入れることは許しませぬ」
「…仕方ありませぬ。では、わたくしはカリムに帝位を譲りまする」部屋内がどよめいた。「ダウード!お主がそのようなことする必要は…」「止めてくれるな!今生でそなたと添い遂げるには、こうする他ないのだ!」二人は芝居ががった様子で問答した。「そうですよね…義母上!」
「カリム殿が即位と?」エジェは目を丸くして質問した。「はい…わたくしはアマシスを娶れなくば、一生を未婚で過ごす所存でございました。どちらにせよ、男児は望めませぬ…カリムは貴女も支持する才覚の持ち主、悪い話ではないかと」
「兄上!?血迷ったのですか!?」「黙れ!余の心の内も知らぬで!」兄弟は大袈裟に口喧嘩をしていた。皇太后は一連の衝撃に頭が揺さぶられる心持ちであった。彼女は、ダウードの排除とカリムの即位という降って沸いた僥倖に注目してしまった。「カリム殿、陛下の退位…」
他の者達も、侃々諤々の議論を装った。エジェは心に笑みを作った。「確かに、陛下が臣籍降下なされ、カリム殿が皇帝に就けば、皇統の汚染は解消されまする…しかし」彼女はアマシスに目を向けた。アマゾネスの女王は気品ある微笑みを返した。
「貴女はダーイフ(信ずるに値しない/怪異)にしては、礼儀を納めていますね」「有り難き幸せ…こう見えて小さいながら、一国の長を務めておりますれば」アマゾンの友好、ダウードの排除、カリムの即位!上手すぎる提案と見抜くには、彼女の判断力は摩耗していた。
「良いでしょう。陛下、心苦しいですが、貴方の決定です。二言はないですね?」「はい…」「アマシス殿とおっしゃいましたね?」「はい、殿下」「先帝に及ぶべくない器ですが、どうかダウード様を頼みました」エジェは結婚を承認した。
「「有り難き幸せ…ん」」二人は脇目も振らず、口づけを交わした。皇太后は祝福の裏でほくそ笑んだ。「義母上、ではわたくし達の婚姻は!?」カリムが口を挟んだ。傍らにはヘレーネがいた。エジェは露骨に鼻白んだ。
「許すも何も、正式に帝国が認めた結納をわたくしが反対したことがおありで?」彼女は高圧的に返答した。「畏れながら、皇太后殿下…わたくしは何か粗相をしましたか?一度も口を利いていただいていません…」ヘレーネが恐る恐る口を開いた。
「この娘は…有ること無いこと吹聴して。カリム殿、嫁御の躾がなっていませんね。東帝国では、貴女は皇女かも知れませぬが、この後宮、この建物にいる間はわたくしの監督下です」「しかし…義母上!」「貴方は皇太子、ひいては皇帝になる方でしょう…しかし、後宮ではわたくしが対等です。それを侵すのであれば、叩き出すことも吝かではありません」
「そんな御無体な…」「黙りおれ!申し立てがあろうとも、この場を退きはしません!たとえ梃子でもこの場から、この建物からは出ていきません!」再び場が静まりかえった。「本当ですか?ヘレーネが正式に後宮に入る運びになっても、『この建物』を出ていかないとおっしゃる?」ダウードが場を繋いだ。
「いかにも。わたくしの皇子が帰ってくるまで、この場を守らねばなりません!」全員の視線が彼女に釘付けになった。「それは三女神達に誓っても、ですか?」カリムは釘を刺した。
「ええ。アル・ウッザー、アル・マナト、アル・ラートの全員に誓ってもです…」「仕方ありません、義母上の意思は硬い。『この建物』は貴女のものです…」「当然です」エジェはニヤリと笑った。
「では、我らは一旦宮殿に戻りまする。朝から義母上のお邪魔して申し訳ありませぬ」下の者から一礼して、部屋をでていった。皇太后は、勝ち誇った笑みを隠そうともしなかった。彼女は、ダウードが出ていくのを見送り、扉を閉じた。そして、カーテンを開け、邪魔者達がとぼとぼ帰る様を見ようとした。
「…?」エジェは違和感に固まった。(この時間であれば、太陽は東に見えるはず…)本来とは真逆の太陽の位置、良く見れば庭園も窓から見ることが不可能な風景であった。「もしや…」そして、宮殿と後宮を交互に見返した。
何と、皇太后が知らぬ間に「後宮はもう一つ作られていた!?」
〜〜〜〜〜
「見よったか?あの皇太后の勝ち誇った顔を…今頃どのように歪んでおるか」アマシスは意地悪な笑みを作った。「義母上も、これで少しは灸を据えられたのであれば良いが…」
この計画は、1ヶ月前、カリムと三人で作り上げたものであった。ジャイアントアントの建築技術で寸分違わぬ後宮を作り、アマゾネスでエジェの財産、服、調度品を少しずつ移し変え、最後に寝ている彼女を偽後宮に連れていくというものであった。
「魔物は女子しかおらぬ故、後宮であれば露見しにくいとは妙案よな」「しかも、宦官のような男手なくとも、我らアマゾネスとミュルミドーンは百人力、女官としてむしろ有用ではないか?」「その考えは無かったが…しかし、宦官どもの専横を無くすには良い案やも知れぬ。すぐにクビにせず、『皇太后付き』にすれば反発も少なかろう」
「お主はすぐ公務の話になるな。根を詰めすぎるなと言うておるに…」「すまぬ」「良いは…そうだ!」アマシスは徐に器具と袋を取り出した。鍋とサイフォン、そしてコーヒー豆であった。
「おお」「文にも書いておったよな、これが忘れられぬと」二人は笑い合った。豆を炒り始め、パチパチと音がする鍋を見ていた彼らは、顔を見合わせ、どちらともなくキスをした。「「ん」」
「結婚、受けてくれるか?」アマシスは返事をする前にそっぽを向いた。「勘違いするな…」「…そうか」彼女は一息吸って吐き出した。「男を娶るのが、アマゾネス流だ!」ダウードは力強く抱き締められた。彼は涙を堪え、同じくらいの勢いで抱き返した。
第二章 終わり
正午すぎ、最後の謁見者を見送ると、続いてダウードは昼食を摂りに廊下へと出た。そこに、彼を探す者がやってきた。明るい色の朗らかな青年であった。
「兄上、ご機嫌麗しゅうございます」「カリムよ、次期皇帝に障りがなさそうで余も満足じゃ」彼は、弟に冗談めかして挨拶を返した。「何をおっしゃる、私と貴方兄弟の仲ではございませんか」「ふふ、悪かった」
「いえいえ…」「して、余に何か用か?昼餉は食したか?これから昼餐に行くところだが」「…兄上にはお見通しでしたか」「…また皇太后殿下のことか?」「如何にも」
ムスタファの事実上の廃立と、ダウードの即位は皇太后の勢力を削ぐことはできたが、完全に排除とは行かなかった。未だ後宮での権力を保持し、有力官僚と宦官長を抱き込んでいた。
「…ヘレーネへの仕打ちには、これ以上は腹に据えかねまする」カリムの言葉には、忸怩たる思いと苛立ちが滲んでいた。「不甲斐ない、余が、兄が苦労をかける…」「兄上が謝ることではありませぬ!」「それでも…だ」
ヘレーネ、ガリオスの末娘にして、皇太子妃である。今は、東帝国の皇女の身分であるが、カリムとの成婚で、後宮の一員となる。(そうなれば、私にも守りきれんやも知れぬ)
その時、彼らの元に足音が近づいてきた。「…自室で落ち合おう。誰ぞの耳に入るかわかったものではない」「承知致しました」「なあ、カリム…」「はい?」「お前は、好いてくれるおなごを守ってやれ」「…わかりました」ダウードは弟の背を見て、一呼吸後会食の部屋へと向かった。
〜〜〜〜〜
ダウードは、寝るまでの間執務室にて、一日の公務に関する資料をまとめ、勅書に目を通すことを日課にしていた。
彼の書物を捲る手が止まった、即ちドアを叩く何者かに気づいたのだ。「カリムか…鍵はかけておらぬ。入るがよい」彼は、肩越しに扉が開かれる音を聞いた。
「ヘレーネのことについてだが…」「ヘレーネ?妾以外に親しくするおなごがおったのか?」「…何と」その声は、カリムより低く、しかし細いものであった。よく知るそれは、「アマシスよ。いつぶりか…」
「妾も無沙汰だったがの、お主はいつも簡素な手紙だけだった。流石に待つのに飽いたわ」彼女の話し方には、ダウードを責める意図以上に、会えたことへの嬉しさが含まれていた。
「近衛兵は何をしておるのだ」「まあ、そう言うでない。本気でアマゾネスを一人も入れないとすれば、寝ずの番をする豪傑が千でも足りぬわ」ダウードは、アマシスの言葉が冗談か本気か測りかねた。「それが誠ならば、余は眠れぬな」
「ふふ、さあてな」彼女の目が嬉しげに細まった。彼は、意を決して切り出した。「して、汝は何をば欲して余の閨に入り込んだか?」アマシスは、答える代わりに鼻を鳴らした。
「単刀直入よな、政と読み合いが勤まるのかの?」「何を申すか…余と汝の仲ぞ。今更探られて痛い腹があるものか」彼女は彼の言葉に一瞬面食らった。「…そういうところが」「どうした?」
「つまりだ。シシュペーやオウィデウスら、お主に貸し渡した郎党から、何よりお主の書状から、窮状を察しての…」「…余のためにか」「悪いか?」
ダウードは、深い皺を更にくしゃくしゃにして笑みを作った。「…汝には助けられてばかりよな」「…勘違いするでない、お主、弟君のために全てのしがらみを受け持って、消える気であろ?妾はただ逃がしたくないだけだ」
「逃げるとな?」アマシスは、ダウードに近づき手を取った。「そうだ。妾も君主の端くれ、命を尽くして国を守る、一族を守ると決め込む気持ちもわかる」「…」「だが、燃え尽きるには…生を捨てるには早い」「しかし…うっ」
彼女は爪が食い込むほどに、彼の手を強く握った。「お主がいなくなるのは悲しい…妾の唯一の対等な友がだ」「すまない…」「頼れ…君たる強さは個人の才覚だけではない、人を、街を、国をうまく使うことにある。お主は妾の部下を、ミュルミドーンを、忠を尽くす旧来からの臣の手を借りただろう」「!」
「妾は頼りないか?」「違う!」ダウードは、アマシスの手を強く握り返した。「ずっと逢いたかった!友が、お前がいることが心の支えだった!」「ではなぜ?」「…こんな頼りない姿を…逢ったら必ず弱音を吐くと、見られたくなかったのだ」「愚か者め!なればこそ、逃げるな!妾にも頼れ!」
彼は息を呑んだ。これほど必死な彼女の姿は見たことがなかった。「…ふふ」「何ぞ?気色悪い」「いやな、お前のこのような姿、例え親兄弟でも見れるものではなかろうな」彼女は一度言葉を飲み込むと、すぐさま赤面し手を離した。「…っ!」「ふふふ…」
その時、がたっと扉の方から物音がした。二人がそちらを見ると、カリムがバツの悪そうな顔をしていた。「これは…失礼致しました」「よい、紹介しよう。我が旧友のアマゾン女王アマシスだ」ダウードは、体を動かし弟とアマシスの間で促した。
「…兄上が…いえ陛下と懇意ということで、知己を得て大変有り難く思います」「堅苦しい挨拶はよろしいですよ…妾はアマシス。アマゾンの長にして、皇帝陛下の友を名乗らせていただいている。こちらこそ会えてよかった」
「さて、顔合わせもそこそこに、早速だが…役者が揃った。アマシス」「ああ」「私を助けてくれないか?」「断るわけなかろう」「そうよな」二人は、改めて握手を交わした。
〜〜〜〜〜
後宮とは、「ハレム」と呼ばれる。意味は禁足地であり、特定の者、もしくはなんぴとも入ること罷らぬ場所を言う。この場合、男人禁制ということである。
今でこそ、権力者が愛妾や側室、正妻を一緒に囲うものとされるが、元は砂漠地方の気候から女性をなるべく屋内や日陰に守る意味合いの習慣が起源とされる。
そこの主は、皇后または母后である。皇帝の正室、実母は俗に「女スルタン(スルタナ)」と称えられる。たとえ、大帝であろうとも、毎朝の挨拶や儀礼的な承認に顔を見せねばならない。
そして、今ダウードは、エジェ・スルタナ・ハヌムつまり兄の生母と対峙した。皇后時の権力を保持し、またダウードの母親が既に亡くなったことを理由に、異例のことである。実家たる外戚の「アイドゥン侯爵家」がベイリクとして強大なこともあり、後宮どころか帝都の構造に根深く入り込んでいた。
「義母上、本日もご機嫌麗しゅうございまする」皇帝は恭しく頭を下げた。「陛下、今日はいつもより遅かったですね。隈も酷い、しっかりと眠れていますか」豪奢な刺繍のカウチに肘掛け座るは、齢40過ぎと思えぬ美貌と艶やかな濡れ烏の貴婦人であった。彼の体調を心配する口調と裏腹に、表情は興味のない真顔であった。
「実は、本日は義母上に報告させていただきたく思いました」皇太后は形のよい眉をひそめた。「…お聞かせくださいまし…」ダウードは喉の息を飲み下し、一呼吸置いて話し始めた。「先日より、わたくしめはさるご婦人と文のやり取りをしていまして…その、結婚の許しをいただきたく参上しました」
エジェは目を見開いた。「その女人は、貴族でございましょ?」「高貴な身分ではありますが、帝国の公的な称号は持ち合わせておりませぬ」「無位無官の…皇帝たるもの、奴隷を側女にして遊ぶならまだしも、下賤なものとの婚姻でございますか?誰が許すものでしょうか?!」その口調は徐々に激しさを増した。
ダウードは額に汗を湛え縮こまった。「…しかし、私とその婦人は10数年来の仲でございまして、またアマゾネスとの有効の標ともなりますれば…」その言葉に、皇太后は目尻をきつく上げた。「アマゾネス!?冗談はおよし下さい!相手はシャイターンの眷属ではないですか!?」
「お待ちください…」そのとき、部屋に通された者がいた。たおやかだが、筋肉が浮き出た四肢。鋭くしかし気品ある眼差しに、香油で整えられた長髪。シルクの簡素なキトーンが、彼女の優雅さを強調していた。
「アマシス!?何故入ってきた!呼ぶまで来るでない」「陛下、わたくしのせいで御身が面倒されることに、最早居ても立ってもいられませぬ」「しかし…」エジェは呆気にとられ眩暈を催した。
「皇太后殿下!わたくしが件のアマゾネス、陛下との結婚をどうかお許しくださいませ!」アマシスは五体を擲って
跪いた。「なんということでしょう!?宦官や女官はどこでございますか?!この不届き者を連れていきなさい!」エジェは手を叩いた、直ぐ様足早に部屋に近づく足音が聞こえた。
「何をやっていたのです!?部外者が部屋まで侵に…」しかし、部屋に入ってきた者達は女官でも、宦官ですらなかった。皇太子カリム、皇太子妃ヘレーネ、宰相デルヴィーシュ・パシャ、将軍ジャファル、神官長ユースフ、シシュペーとオウィディウス率いるアマゾネス、ジャイアントアント達であった。
「ひいっ」エジェは恐慌状態に陥った。「お許しくださいませ!不肖なわたくしめが皆に相談したところ、説得のためとは言え後宮に押し掛けてしまったのです!」「皇太后殿下!この者らと陛下に何卒罰を与えるな!わたくしの独断です!」ここに来て、ダウードとアマシスの証言が食い違った。
「寄るでない!」皇太后は彼らの手をはね除けた。「お前達の咎は追って伝える故、刑に服すのを首を洗って待っていなさい!」「義母上!」「うるさい!皇帝である内は貴方達の結婚など認めません!」
部屋内が一気に静かになった。「…義母上、今なんと?」ダウードは彼女に問いかけた。「…貴方が皇帝を続けるのであれば、結婚は認められません」彼はアマシスと目を見合わせた。「本当にそう考えますか?」「決して皇統に魔物の血を入れることは許しませぬ」
「…仕方ありませぬ。では、わたくしはカリムに帝位を譲りまする」部屋内がどよめいた。「ダウード!お主がそのようなことする必要は…」「止めてくれるな!今生でそなたと添い遂げるには、こうする他ないのだ!」二人は芝居ががった様子で問答した。「そうですよね…義母上!」
「カリム殿が即位と?」エジェは目を丸くして質問した。「はい…わたくしはアマシスを娶れなくば、一生を未婚で過ごす所存でございました。どちらにせよ、男児は望めませぬ…カリムは貴女も支持する才覚の持ち主、悪い話ではないかと」
「兄上!?血迷ったのですか!?」「黙れ!余の心の内も知らぬで!」兄弟は大袈裟に口喧嘩をしていた。皇太后は一連の衝撃に頭が揺さぶられる心持ちであった。彼女は、ダウードの排除とカリムの即位という降って沸いた僥倖に注目してしまった。「カリム殿、陛下の退位…」
他の者達も、侃々諤々の議論を装った。エジェは心に笑みを作った。「確かに、陛下が臣籍降下なされ、カリム殿が皇帝に就けば、皇統の汚染は解消されまする…しかし」彼女はアマシスに目を向けた。アマゾネスの女王は気品ある微笑みを返した。
「貴女はダーイフ(信ずるに値しない/怪異)にしては、礼儀を納めていますね」「有り難き幸せ…こう見えて小さいながら、一国の長を務めておりますれば」アマゾンの友好、ダウードの排除、カリムの即位!上手すぎる提案と見抜くには、彼女の判断力は摩耗していた。
「良いでしょう。陛下、心苦しいですが、貴方の決定です。二言はないですね?」「はい…」「アマシス殿とおっしゃいましたね?」「はい、殿下」「先帝に及ぶべくない器ですが、どうかダウード様を頼みました」エジェは結婚を承認した。
「「有り難き幸せ…ん」」二人は脇目も振らず、口づけを交わした。皇太后は祝福の裏でほくそ笑んだ。「義母上、ではわたくし達の婚姻は!?」カリムが口を挟んだ。傍らにはヘレーネがいた。エジェは露骨に鼻白んだ。
「許すも何も、正式に帝国が認めた結納をわたくしが反対したことがおありで?」彼女は高圧的に返答した。「畏れながら、皇太后殿下…わたくしは何か粗相をしましたか?一度も口を利いていただいていません…」ヘレーネが恐る恐る口を開いた。
「この娘は…有ること無いこと吹聴して。カリム殿、嫁御の躾がなっていませんね。東帝国では、貴女は皇女かも知れませぬが、この後宮、この建物にいる間はわたくしの監督下です」「しかし…義母上!」「貴方は皇太子、ひいては皇帝になる方でしょう…しかし、後宮ではわたくしが対等です。それを侵すのであれば、叩き出すことも吝かではありません」
「そんな御無体な…」「黙りおれ!申し立てがあろうとも、この場を退きはしません!たとえ梃子でもこの場から、この建物からは出ていきません!」再び場が静まりかえった。「本当ですか?ヘレーネが正式に後宮に入る運びになっても、『この建物』を出ていかないとおっしゃる?」ダウードが場を繋いだ。
「いかにも。わたくしの皇子が帰ってくるまで、この場を守らねばなりません!」全員の視線が彼女に釘付けになった。「それは三女神達に誓っても、ですか?」カリムは釘を刺した。
「ええ。アル・ウッザー、アル・マナト、アル・ラートの全員に誓ってもです…」「仕方ありません、義母上の意思は硬い。『この建物』は貴女のものです…」「当然です」エジェはニヤリと笑った。
「では、我らは一旦宮殿に戻りまする。朝から義母上のお邪魔して申し訳ありませぬ」下の者から一礼して、部屋をでていった。皇太后は、勝ち誇った笑みを隠そうともしなかった。彼女は、ダウードが出ていくのを見送り、扉を閉じた。そして、カーテンを開け、邪魔者達がとぼとぼ帰る様を見ようとした。
「…?」エジェは違和感に固まった。(この時間であれば、太陽は東に見えるはず…)本来とは真逆の太陽の位置、良く見れば庭園も窓から見ることが不可能な風景であった。「もしや…」そして、宮殿と後宮を交互に見返した。
何と、皇太后が知らぬ間に「後宮はもう一つ作られていた!?」
〜〜〜〜〜
「見よったか?あの皇太后の勝ち誇った顔を…今頃どのように歪んでおるか」アマシスは意地悪な笑みを作った。「義母上も、これで少しは灸を据えられたのであれば良いが…」
この計画は、1ヶ月前、カリムと三人で作り上げたものであった。ジャイアントアントの建築技術で寸分違わぬ後宮を作り、アマゾネスでエジェの財産、服、調度品を少しずつ移し変え、最後に寝ている彼女を偽後宮に連れていくというものであった。
「魔物は女子しかおらぬ故、後宮であれば露見しにくいとは妙案よな」「しかも、宦官のような男手なくとも、我らアマゾネスとミュルミドーンは百人力、女官としてむしろ有用ではないか?」「その考えは無かったが…しかし、宦官どもの専横を無くすには良い案やも知れぬ。すぐにクビにせず、『皇太后付き』にすれば反発も少なかろう」
「お主はすぐ公務の話になるな。根を詰めすぎるなと言うておるに…」「すまぬ」「良いは…そうだ!」アマシスは徐に器具と袋を取り出した。鍋とサイフォン、そしてコーヒー豆であった。
「おお」「文にも書いておったよな、これが忘れられぬと」二人は笑い合った。豆を炒り始め、パチパチと音がする鍋を見ていた彼らは、顔を見合わせ、どちらともなくキスをした。「「ん」」
「結婚、受けてくれるか?」アマシスは返事をする前にそっぽを向いた。「勘違いするな…」「…そうか」彼女は一息吸って吐き出した。「男を娶るのが、アマゾネス流だ!」ダウードは力強く抱き締められた。彼は涙を堪え、同じくらいの勢いで抱き返した。
第二章 終わり
24/10/12 22:12更新 / ズオテン
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