第一章 第五皇子と<貪食族>~荒野のグール~その5
それから7年。ヤルタヒムでは、特に問題なく生活が続いた。マフムートは、骨細工師として義父に弟子入りした。獣だけでなく、荒野で生き倒れた身寄りのない人間の骨を加工することもあった。
グールとしての習性か、ナディーヤ達は死体に鼻が利いた。彼女らは、死にかけの旅人を手当てしたり、身寄りのわかる死体を遺品と共に近隣の人集落に届けた。基本的には夜中、寝静まった頃だが、人間に見つかることもあった。
そのためか、未だに「人食い鬼」の噂は消えていないようだ。マフムートは、時折、手空きの時間に壁画や服装品、また遺構を調査した。
彼は、その中である仮説を思い付いた。アル・マナート神は、一般に家庭の神であり祖神信仰の女神だと思われている。しかし、アル・ラート("神"の女性形:美と愛の女神)がエロス神、アル・ウッザー(強き力:魔法の女神)がヘカテとなるならば、このマナート神はヘスティアに相当するのだろうか?
「私が思うにだよ…」マフムートは、骨の揺りかごに寝かした赤子に話しかけた。「マナート神は、多島海の西で言うところのプルート女神ではないか、あるいは謎めいた『堕落神』と関係があると考えるのだが…ねえ、アラナイ?」「あうう…あぶ」赤子は自分の足をしゃぶった。
「まだ話せない赤ちゃんには、早いのでは?」ナディーヤは呆れた。「私達の娘だぞ!きっと、君に似て賢い、いたっ」マフムートは揺りかごを揺らしながら反論したが、娘に噛まれた。「アラナイ、またこんなに噛みついて…」生まれて3ヶ月だが、既に親と同じように、厳めしい乱杭歯が生え揃っていた。
「お腹すいちゃったのかなぁ〜?」ナディーヤは、アラナイを抱き抱え、直ぐ様授乳の体勢に入った。「あむ…まうま!」「まあ、食いしん坊さんね…」赤子は、母にむしゃぶりついた。「ところで、さっきの仮説ですけど…」「ん?」ナディーヤは、揺りかごと毛布を取り替えていたマフムートに話しかけた。
「マナート神が、プルートに相当するんじゃないかって」「ああ…地下ないし冥界の管理者だよ。要は、マナート神は家庭の神が先祖を祭る神になったっていう通説から、ここや他で発掘した…」彼は、今まで集めたパピルスや石板を見せた。「物語を再構築してみると…」「冥界の女神が先祖への畏敬という点で、家庭の神へと信仰が変化した…」
「やはり、ナディーヤは話が早くて助かる」マフムートは、妻の背中から抱きつき、頬を寄せた。「あううう!」「もうっ、お乳を飲ませてるんですから!」「ごめんよ!ほら、べろべろばー」彼は娘をひったくりあやした。「あっあっあああ!」「まったく、この人は…」
「邪魔するよ」その時、石扉を開けてジャミーラが入ってきたのだった。「やあ、ジャミーラ」「あら、こんばんは」「ああっああっ」三者三様の挨拶に、彼女は出迎えられた。「よおアラナイ!元気してたか?」彼女は、赤子を抱き上げ、掲げるようにしてあやした。「あっあっああっ」
「それにしても、あなたが部屋まで入ってくるなんて」「ああ、それなんだがちょっと顔貸してくれないか?」ジャミーラは、一転して神妙な顔になった。「今?でも、アラナイから手を離せないし…」「大丈夫。私がこの娘を見ておくよ」マフムートは、娘を両腕で掬い上げた。
「アスバルは、ウチのシャイフさまよか役に立つな!」「また、自分の夫をそんな風に…それにこの人、何かに打ち込むと娘のことすらすっぽぬけちゃうし…」ナディーヤは、ジャミーラの言葉に反論した。「まあ、そんな時間かからねえから、大丈夫だって!」「いってらっしゃい!」
「はあ…とりあえず部屋から出さないのと、変なもの口に入れさせないようにね…」「任せてくれ!」マフムートは、胸を張って言った。「ほら、アラナイも母さんに、いってらっしゃいって…」「まう、いっああい!」父親に促され、赤子も小さな手を振ってナディーヤを見送った。
「…いってきます!」「じゃあな、すぐ母ちゃん戻って来るからよ。アスバルもな!」2人は、部屋を後にした。マフムートは、獣の骨と皮を加工した囲いに娘と入った。「さあ、アラナイ!母さんが帰ってくるまで、父さんと一緒に何する?」「あー?」アラナイは、部屋の中を見回した。
「あい、あっあ、あえい…あうああ!」赤子は、机の上を指差した。「何か面白いものなんかあったか?」マフムートは、机に載った品々を手に取っていった。「あうああ!」「ん?」アラナイが反応したのは、絵のかかれた粘土板であった。
「これかい?」「あう」赤子は、父親の膝の上でそれに触れた。「やっぱり、興味持ってくれたか」マフムートは満足気に頷いた。
~~~~~
1刻程のち、ナディーヤは戻ってきた。「お帰りなさい。それで、一体何があったんだい?」「それが…」「?」彼女は答えに詰まった。マフムートは、心配そうに彼女を座らせ寄り添った。「君がそんな顔をするなんて…大丈夫か?」「…」ナディーヤは、彼の手を取りそして目を見た。
「西から遠征軍が迫ってる…」「遠征…今の連中なら、禁軍だけで何とかするだろ?」彼は、父や兄が戦った<東帝国>について考えた。「僕らは国を捨てたんだ…今さらどうでもいいだろう」「西の…異教徒の…聖征が始まったって噂が国中に広がってるみたい…」「何だって!?」
昨晩、ヤルタヒムは旅人を保護した。身なりの良い家族であった。彼らの口から、「近々、聖戦が始まる」といった話が出てきた。グール達は、直ぐ様情報収集に乗り出した。墓守や乞食のネットワークや、ハラール(聖別)を行う屠殺業者等に掛け合った。
グールは魔物だが、死体を扱う職業や死に近い者達には昔から亡骸の処分で、秘密裏に頼られることもあった。前者は社会階層の低さ故に、貧者として保護され独自の情報網となった。
後者は、ハラールではないとされ、口にされない肉や腐ったものを、人間の代わりに引き渡す昔の習慣から関係があった。やはり、死に近いせいか一般に忌避され、内的な結び付きが強く機密性が高く信用できる。
「それで…」「彼らも口を揃えて、『聖征軍が海を渡って近づく』と言っていた…」「何てことだ…」マフムートは、ナディーヤと抱き合い青ざめた顔を隠した。(海を越えた、つまり<主神教>という連中か…)その教化は、あまりに苛烈であった。魔物はもちろん、異教徒は人頭税等の条件もなく、追放か虐殺、よくて身代金である。
(宮殿の書庫の歴史書、ムワラドが著者だったか?200年の間に、9回は『聖征』と称して攻め込んできたらしい…)彼は、いよいよ背筋が凍るように思った。「私達はどうする…魔物がガズワ(聖戦)に参加するのか?それとも、ここを放棄し、砂漠に逃げるのか?」「…」ナディーヤは俯いた。
「君はどう思ったんだい?」「…私は」貴方を追い詰め殺そうとした国なんて、彼女はそう言おうとした。「まうまぁ〜?」「起きちゃったか?よしよし…」マフムートはアラナイの揺りかごを揺らした。ナディーヤは娘を見た。(この場所は、この娘の生きる場所でもある…)
「私は…」そして、夫を見た。「貴方は、どう思った?」「私かい?」彼は顔だけ向けた。(複雑だなぁ…)未練はないと思われたが、存亡の危機、皇帝たる兄、民の行く末、それらが胸を刺すのであった。何より…「少なくとも…この娘はこの国、この地域、ここにいた人々、神々の歴史が好きみたいだ。無くなったら、アラナイも悲しむだろう…」
ナディーヤは、その言葉に決意した。「私は…私も嫌だと思った。何かできることがあれば、お母さん、やるだけやってみたい!いいかな?」母は、赤子に問いかけた。「あう?まうま、あああい!」アラナイは鋭い歯を見せて笑った。「ふふ、この娘も母さんを応援してるって!」マフムートは彼女の頬に口づけた。
~~~~~
皇帝タールートは、小高い丘陵から水平線を見据えた。黒い点が、ぽつぽつと顔を出したかと思えば、それはマストになりそして船となった。大小様々、20隻は優に越す船団であった。
彼は、付き従う直属部隊<新軍>と共に、城に帰還した。「門を固く閉じよ」そう、番兵に指示を出し屋形に入った。幕僚や将軍達は、彼の前で侃々諤々の議論を交わした。タールートは、「使者が来るまでは、絶対に門を開けるな。また、先走って何か攻撃を加えようとする者は、斬刑に処す」そう言い残し、寝室へ戻った。
「余の天命、国の行く末…果たして…」タールートは、即位からの七年を振り返った。「アル・ウッザー、アル・ラート、アル・マナート。我に力を貸したまえ…」彼はそのまま、微睡みに身体を預けた。
「む…」月が天頂に達しようという時に、彼は目を覚ました。(気配がする…)暗闇に目を凝らすと、そこには数人の女がいた。体格は華奢だが、醸し出す雰囲気と死臭が、只者でないことを示していた。
「無礼者ども…余に断り無く寝所を犯すとは、族滅でも赦されんぞ」タールートは、努めて冷静に宣告した。その中から体格の良い者が一歩前に出でた。月明かりに照らされ、その全貌が露になった。グールである。
「これはとんだ失礼をば…皇帝陛下に置かれましては益々の繁栄を…」「余を愚弄しておるか、単刀直入に聞く、望みを申せ」「では、要点だけ。私は、<貪食族>というグールの戦頭、後ろの連中は戦士だ」グールは恭しい態度を一変させた。
「そのグールが何故皇帝に不敬を働く?余を食らうのか?」タールートは、壁に立て掛けた剣に手を伸ばした。「あんたを?悪いが、人間と違って不貞はしない。我々は、ただ西からの侵略者を追い出したいだけだ」「魔物がか?」彼は、剣に手をかけたまま、話を聞いていた。
「魔物だからこそ、だ。西の連中はこちらより過激だからな」「ふうむ…」タールートは思案した。援軍到着前に、この周辺の兵で時間を稼ぎ、講和まで持っていく算段であった。こちらが数で劣るとは言え、敵の先遣部隊を足止めし、援軍が来たときに逆包囲できれば勝機はある。(「聖征」とはいえ烏合の衆、先触れを蹴散らせば動揺する)
そのために、自軍は奇襲のチャンスを捨て、使者や敵からの攻撃を待った。自軍が先制すれば、講和は難しくなる。この状況すら、時間稼ぎに利用した。だが、自軍と無関係の者達が奇襲できれば?<主神教>は魔物に敏感だ。そちらに目を向けさせれば、時間を更に稼げるだろう。(使い捨てても惜しくはない)
タールートは、冷徹に計算し熟考した。「よかろう。ともあれ、余が断れば死あるのみ。近衛兵も貴様らを補足できなんだか…」彼はため息交じりに首肯した。「物分かりがよくて助かる。さすがは皇帝だ」戦頭は頷いた。そして、グール達は速やかに部屋から去った。一人を除いて…
「貴様は、行かんのか?」タールートは、残ったグールに声をかけた。「…」その者は、躊躇いがちに影に立ち尽くしていた。皇帝は苛立った。「はよう消えよ。さもなければ、余はいますぐ番兵を呼びつける。例えグールといえど、一匹であれば捕らえ、殺すのは容易い」
グールは、その言葉に何事か呟き、頭を下げて消えた。よく見ると、月明かりの下に何かを置いていったようだ。「なんぞ?」タールートは用心深く、遠巻きにそれを眺めた。「まさか!?しかし、だとすれば…マフムート、ナディーヤめ…」それは、彼が7年前に捨てた宝刀であった。(あやつめ…どこへ消えたかと思えば)
~~~~~
歴史書には、「皇帝タールート1世。奇襲により、異教徒を散々に打ち破る」と記された。しかし、<主神教>側の資料には、「邪教の徒は、忌むべきことに魔物すら使った。彼奴らは、同胞を連れ去り地下に潜った。恐らくは、地獄の亡者であろう…」そういった記述が残る。
公式的には、タールートの最後の戦、騎馬民族<鉄馬族>との戦いから、次代の皇帝ダウード1世の代に魔物を取り入れたとされる。後世、これらの資料や、ダウードが最初から魔物に親和的だったことから、この時点で何かしら接点があったのではないかと主張する歴史家もいる。
アフメト・ヤバンジオウルやアスバル・イブン・アヴドゥル等があげられ…
「まあ、見てくださいな!」「ん?どれどれ」ある夫婦が、白い石壁のバルコニーから、夜の海を眺めていた。妻の方は、夫に読んでいたハードカバーの本を見せた。
「貴方のお名前と、参考文献にも…」「おお…私の本もそれなりに資料として、名が知れたか!」「今夜はご馳走にしましょうか?」「私も手伝うよ」夫は、新聞を椅子に残した。その紙面には、「アラナイ・ハヌム陸軍相、講和会議に出席…」の見出しが載っていた。
第一章 完
グールとしての習性か、ナディーヤ達は死体に鼻が利いた。彼女らは、死にかけの旅人を手当てしたり、身寄りのわかる死体を遺品と共に近隣の人集落に届けた。基本的には夜中、寝静まった頃だが、人間に見つかることもあった。
そのためか、未だに「人食い鬼」の噂は消えていないようだ。マフムートは、時折、手空きの時間に壁画や服装品、また遺構を調査した。
彼は、その中である仮説を思い付いた。アル・マナート神は、一般に家庭の神であり祖神信仰の女神だと思われている。しかし、アル・ラート("神"の女性形:美と愛の女神)がエロス神、アル・ウッザー(強き力:魔法の女神)がヘカテとなるならば、このマナート神はヘスティアに相当するのだろうか?
「私が思うにだよ…」マフムートは、骨の揺りかごに寝かした赤子に話しかけた。「マナート神は、多島海の西で言うところのプルート女神ではないか、あるいは謎めいた『堕落神』と関係があると考えるのだが…ねえ、アラナイ?」「あうう…あぶ」赤子は自分の足をしゃぶった。
「まだ話せない赤ちゃんには、早いのでは?」ナディーヤは呆れた。「私達の娘だぞ!きっと、君に似て賢い、いたっ」マフムートは揺りかごを揺らしながら反論したが、娘に噛まれた。「アラナイ、またこんなに噛みついて…」生まれて3ヶ月だが、既に親と同じように、厳めしい乱杭歯が生え揃っていた。
「お腹すいちゃったのかなぁ〜?」ナディーヤは、アラナイを抱き抱え、直ぐ様授乳の体勢に入った。「あむ…まうま!」「まあ、食いしん坊さんね…」赤子は、母にむしゃぶりついた。「ところで、さっきの仮説ですけど…」「ん?」ナディーヤは、揺りかごと毛布を取り替えていたマフムートに話しかけた。
「マナート神が、プルートに相当するんじゃないかって」「ああ…地下ないし冥界の管理者だよ。要は、マナート神は家庭の神が先祖を祭る神になったっていう通説から、ここや他で発掘した…」彼は、今まで集めたパピルスや石板を見せた。「物語を再構築してみると…」「冥界の女神が先祖への畏敬という点で、家庭の神へと信仰が変化した…」
「やはり、ナディーヤは話が早くて助かる」マフムートは、妻の背中から抱きつき、頬を寄せた。「あううう!」「もうっ、お乳を飲ませてるんですから!」「ごめんよ!ほら、べろべろばー」彼は娘をひったくりあやした。「あっあっあああ!」「まったく、この人は…」
「邪魔するよ」その時、石扉を開けてジャミーラが入ってきたのだった。「やあ、ジャミーラ」「あら、こんばんは」「ああっああっ」三者三様の挨拶に、彼女は出迎えられた。「よおアラナイ!元気してたか?」彼女は、赤子を抱き上げ、掲げるようにしてあやした。「あっあっああっ」
「それにしても、あなたが部屋まで入ってくるなんて」「ああ、それなんだがちょっと顔貸してくれないか?」ジャミーラは、一転して神妙な顔になった。「今?でも、アラナイから手を離せないし…」「大丈夫。私がこの娘を見ておくよ」マフムートは、娘を両腕で掬い上げた。
「アスバルは、ウチのシャイフさまよか役に立つな!」「また、自分の夫をそんな風に…それにこの人、何かに打ち込むと娘のことすらすっぽぬけちゃうし…」ナディーヤは、ジャミーラの言葉に反論した。「まあ、そんな時間かからねえから、大丈夫だって!」「いってらっしゃい!」
「はあ…とりあえず部屋から出さないのと、変なもの口に入れさせないようにね…」「任せてくれ!」マフムートは、胸を張って言った。「ほら、アラナイも母さんに、いってらっしゃいって…」「まう、いっああい!」父親に促され、赤子も小さな手を振ってナディーヤを見送った。
「…いってきます!」「じゃあな、すぐ母ちゃん戻って来るからよ。アスバルもな!」2人は、部屋を後にした。マフムートは、獣の骨と皮を加工した囲いに娘と入った。「さあ、アラナイ!母さんが帰ってくるまで、父さんと一緒に何する?」「あー?」アラナイは、部屋の中を見回した。
「あい、あっあ、あえい…あうああ!」赤子は、机の上を指差した。「何か面白いものなんかあったか?」マフムートは、机に載った品々を手に取っていった。「あうああ!」「ん?」アラナイが反応したのは、絵のかかれた粘土板であった。
「これかい?」「あう」赤子は、父親の膝の上でそれに触れた。「やっぱり、興味持ってくれたか」マフムートは満足気に頷いた。
~~~~~
1刻程のち、ナディーヤは戻ってきた。「お帰りなさい。それで、一体何があったんだい?」「それが…」「?」彼女は答えに詰まった。マフムートは、心配そうに彼女を座らせ寄り添った。「君がそんな顔をするなんて…大丈夫か?」「…」ナディーヤは、彼の手を取りそして目を見た。
「西から遠征軍が迫ってる…」「遠征…今の連中なら、禁軍だけで何とかするだろ?」彼は、父や兄が戦った<東帝国>について考えた。「僕らは国を捨てたんだ…今さらどうでもいいだろう」「西の…異教徒の…聖征が始まったって噂が国中に広がってるみたい…」「何だって!?」
昨晩、ヤルタヒムは旅人を保護した。身なりの良い家族であった。彼らの口から、「近々、聖戦が始まる」といった話が出てきた。グール達は、直ぐ様情報収集に乗り出した。墓守や乞食のネットワークや、ハラール(聖別)を行う屠殺業者等に掛け合った。
グールは魔物だが、死体を扱う職業や死に近い者達には昔から亡骸の処分で、秘密裏に頼られることもあった。前者は社会階層の低さ故に、貧者として保護され独自の情報網となった。
後者は、ハラールではないとされ、口にされない肉や腐ったものを、人間の代わりに引き渡す昔の習慣から関係があった。やはり、死に近いせいか一般に忌避され、内的な結び付きが強く機密性が高く信用できる。
「それで…」「彼らも口を揃えて、『聖征軍が海を渡って近づく』と言っていた…」「何てことだ…」マフムートは、ナディーヤと抱き合い青ざめた顔を隠した。(海を越えた、つまり<主神教>という連中か…)その教化は、あまりに苛烈であった。魔物はもちろん、異教徒は人頭税等の条件もなく、追放か虐殺、よくて身代金である。
(宮殿の書庫の歴史書、ムワラドが著者だったか?200年の間に、9回は『聖征』と称して攻め込んできたらしい…)彼は、いよいよ背筋が凍るように思った。「私達はどうする…魔物がガズワ(聖戦)に参加するのか?それとも、ここを放棄し、砂漠に逃げるのか?」「…」ナディーヤは俯いた。
「君はどう思ったんだい?」「…私は」貴方を追い詰め殺そうとした国なんて、彼女はそう言おうとした。「まうまぁ〜?」「起きちゃったか?よしよし…」マフムートはアラナイの揺りかごを揺らした。ナディーヤは娘を見た。(この場所は、この娘の生きる場所でもある…)
「私は…」そして、夫を見た。「貴方は、どう思った?」「私かい?」彼は顔だけ向けた。(複雑だなぁ…)未練はないと思われたが、存亡の危機、皇帝たる兄、民の行く末、それらが胸を刺すのであった。何より…「少なくとも…この娘はこの国、この地域、ここにいた人々、神々の歴史が好きみたいだ。無くなったら、アラナイも悲しむだろう…」
ナディーヤは、その言葉に決意した。「私は…私も嫌だと思った。何かできることがあれば、お母さん、やるだけやってみたい!いいかな?」母は、赤子に問いかけた。「あう?まうま、あああい!」アラナイは鋭い歯を見せて笑った。「ふふ、この娘も母さんを応援してるって!」マフムートは彼女の頬に口づけた。
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皇帝タールートは、小高い丘陵から水平線を見据えた。黒い点が、ぽつぽつと顔を出したかと思えば、それはマストになりそして船となった。大小様々、20隻は優に越す船団であった。
彼は、付き従う直属部隊<新軍>と共に、城に帰還した。「門を固く閉じよ」そう、番兵に指示を出し屋形に入った。幕僚や将軍達は、彼の前で侃々諤々の議論を交わした。タールートは、「使者が来るまでは、絶対に門を開けるな。また、先走って何か攻撃を加えようとする者は、斬刑に処す」そう言い残し、寝室へ戻った。
「余の天命、国の行く末…果たして…」タールートは、即位からの七年を振り返った。「アル・ウッザー、アル・ラート、アル・マナート。我に力を貸したまえ…」彼はそのまま、微睡みに身体を預けた。
「む…」月が天頂に達しようという時に、彼は目を覚ました。(気配がする…)暗闇に目を凝らすと、そこには数人の女がいた。体格は華奢だが、醸し出す雰囲気と死臭が、只者でないことを示していた。
「無礼者ども…余に断り無く寝所を犯すとは、族滅でも赦されんぞ」タールートは、努めて冷静に宣告した。その中から体格の良い者が一歩前に出でた。月明かりに照らされ、その全貌が露になった。グールである。
「これはとんだ失礼をば…皇帝陛下に置かれましては益々の繁栄を…」「余を愚弄しておるか、単刀直入に聞く、望みを申せ」「では、要点だけ。私は、<貪食族>というグールの戦頭、後ろの連中は戦士だ」グールは恭しい態度を一変させた。
「そのグールが何故皇帝に不敬を働く?余を食らうのか?」タールートは、壁に立て掛けた剣に手を伸ばした。「あんたを?悪いが、人間と違って不貞はしない。我々は、ただ西からの侵略者を追い出したいだけだ」「魔物がか?」彼は、剣に手をかけたまま、話を聞いていた。
「魔物だからこそ、だ。西の連中はこちらより過激だからな」「ふうむ…」タールートは思案した。援軍到着前に、この周辺の兵で時間を稼ぎ、講和まで持っていく算段であった。こちらが数で劣るとは言え、敵の先遣部隊を足止めし、援軍が来たときに逆包囲できれば勝機はある。(「聖征」とはいえ烏合の衆、先触れを蹴散らせば動揺する)
そのために、自軍は奇襲のチャンスを捨て、使者や敵からの攻撃を待った。自軍が先制すれば、講和は難しくなる。この状況すら、時間稼ぎに利用した。だが、自軍と無関係の者達が奇襲できれば?<主神教>は魔物に敏感だ。そちらに目を向けさせれば、時間を更に稼げるだろう。(使い捨てても惜しくはない)
タールートは、冷徹に計算し熟考した。「よかろう。ともあれ、余が断れば死あるのみ。近衛兵も貴様らを補足できなんだか…」彼はため息交じりに首肯した。「物分かりがよくて助かる。さすがは皇帝だ」戦頭は頷いた。そして、グール達は速やかに部屋から去った。一人を除いて…
「貴様は、行かんのか?」タールートは、残ったグールに声をかけた。「…」その者は、躊躇いがちに影に立ち尽くしていた。皇帝は苛立った。「はよう消えよ。さもなければ、余はいますぐ番兵を呼びつける。例えグールといえど、一匹であれば捕らえ、殺すのは容易い」
グールは、その言葉に何事か呟き、頭を下げて消えた。よく見ると、月明かりの下に何かを置いていったようだ。「なんぞ?」タールートは用心深く、遠巻きにそれを眺めた。「まさか!?しかし、だとすれば…マフムート、ナディーヤめ…」それは、彼が7年前に捨てた宝刀であった。(あやつめ…どこへ消えたかと思えば)
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歴史書には、「皇帝タールート1世。奇襲により、異教徒を散々に打ち破る」と記された。しかし、<主神教>側の資料には、「邪教の徒は、忌むべきことに魔物すら使った。彼奴らは、同胞を連れ去り地下に潜った。恐らくは、地獄の亡者であろう…」そういった記述が残る。
公式的には、タールートの最後の戦、騎馬民族<鉄馬族>との戦いから、次代の皇帝ダウード1世の代に魔物を取り入れたとされる。後世、これらの資料や、ダウードが最初から魔物に親和的だったことから、この時点で何かしら接点があったのではないかと主張する歴史家もいる。
アフメト・ヤバンジオウルやアスバル・イブン・アヴドゥル等があげられ…
「まあ、見てくださいな!」「ん?どれどれ」ある夫婦が、白い石壁のバルコニーから、夜の海を眺めていた。妻の方は、夫に読んでいたハードカバーの本を見せた。
「貴方のお名前と、参考文献にも…」「おお…私の本もそれなりに資料として、名が知れたか!」「今夜はご馳走にしましょうか?」「私も手伝うよ」夫は、新聞を椅子に残した。その紙面には、「アラナイ・ハヌム陸軍相、講和会議に出席…」の見出しが載っていた。
第一章 完
24/08/23 09:36更新 / ズオテン
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