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第一章 第五皇子と<貪食族>~荒野のグール
ケマル帝国、帝都。ここは、砂漠地方と主神教世界の中間に位置する。日の出より前、この昏い時間に、既に兵士達は走り回り厳戒態勢が敷かれていった。

その最中、路地を通り、民家の影でやり過ごす2人の人物がいた。一人は、襤褸を纏い顔を汚していたが目付きには知性のある男児。もう一人は、目元以外を覆った女であった。母子、はたまた姉弟か。彼らは、地面の穴、水路に入り町を出ようとしていた。

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ここ数日、首都は物々しい雰囲気に包まれていた。時の皇帝は病に臥せり、明日をも知れぬ容態であった。臣民は彼の回復を祈り、皇族は領土と財産の分割に悩み、官僚と兵士は次の君主は誰かを推量しながら過ごしていた。

午前5時過ぎ、皇帝身罷る。宰相と、その日帝都に滞在していた皇族達、幾人かの幕僚と近衛兵団がその事態を知り、また暫く秘密にした。この時期にしては、嫌にからっとした風が吹いていた。

今上帝は病床、しかし後継者決まらず。この連日、帝国はその話題で持ちきりであった。なぜなら、かの皇帝の長男は既にこの世にいなかったのだ。彼は、皇太子に指名されるやいなや、宿敵<東帝国>の皇太子ガリオスと共謀し、それぞれの父帝に反逆、最後には鎮圧された。

長男はケマルオウルの血を継ぐ皇太子であった。何より、父親のお気に入り、彼もまさか厳罰に処されるとは思っていなかったであろう。しかし、父親である前にそれは皇帝であった。眼を潰され、耳を削がれて、最期は処刑された。

彼の子は、他に4人いた。順当にいけば、次男のタールートが皇太子になるはずだった。しかし、皇帝は4番目に産まれた男児を溺愛した。母親の一族(外戚)は、すぐさま彼を擁立する派閥を形成した。一部の貴族は、こちらに取り込まれた。

しかし、第二皇子は献身的だった。ここ数ヶ月は、重病の父を看病してさえいた。御殿医を締め出すほどに…。密室に2人を残し、高官や皇族達は扉が開く時を待った。タールートは、沈痛な面持ちで姿を表した。彼の第一声はこうだった。「ここに皇帝陛下より賜った遺言状がある」

この日、第四皇子とその母は拝領地から帝都に召喚されていた。領国で起きた農民反乱について聞き取りのためだ。近衛兵団は、速やかに2人を捕らえた。護衛は既に血の海に浸かっていた。彼らは三日と立たず処刑された。罪状は謀反であった。

さて、皇子はまだあと2人いた。第三皇子は、将軍であり<東帝国>との戦で虜囚となっていた。もう一人、末子はタールートと同じ腹から産まれた弟である。第二皇子、最早皇帝といって差し支えない彼は、第五皇子マフムートを軟禁した。

タールート1世の戴冠式は、<東帝国>との講話と第三皇子の「捕虜交換失敗」の発表の後に行われた。第五皇子マフムートは、数日の間に行方不明となった。後ろ楯なく、自前の兵力のない彼は兄の魔の手を逃れたのだろうか?

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「マフムート様、ここを通れば帝都より脱出ができます。どうか、暫しの不便を辛抱くださいませ…」若い女が、マフムートに呼び掛けた。彼は、鼻を刺激する汚水に顔をしかめつつ、大きく息を吸い水路に降りた。

「ナディーヤ、君のお陰で何とか宮殿から出られた。君には感謝してもしきれない」彼らは、身を屈め足元を濁った水で汚しながら、少しずつ歩を進めた。「勿体なきお言葉…さあ!見えてきました、出口です」遂に、2人は帝都より脱出…したはずだった。

「弟よ…余に挨拶もなくどこへ出掛けるか?」彼らを出迎えたのは、皇帝タールートその人であった。周囲には、黄金に輝く番兵が槍を構えていた。タールート(長身)は、しかして兵士達より頭一つ高く、そのカフタンは周りを圧倒する彩で、その下には先帝が装備した鎧を着ていた。

「タールート…陛下…」「兄上…」ナディーヤとマフムートは、その言葉を発するだけで精一杯であった。皇帝は、彼らをただ見据えた。そして、腰に提げた短剣を抜いた。先端に行くほど反り返り、柄は宝石で装飾されていた。

「ナディーヤ、お前はこの十年帝室に尽くし、父上…先帝も高く評価されていた。…マフムートを殺せ、そうすれば命は許そう。剣も扱えず、満足に馬にも乗れない、そんな愚か者のために死ぬこともあるまい?」タールートは、短剣を女官に投げ渡した。ナディーヤの眼には怒りが満ちた、一瞬彼女の目が赤い光を灯した。

女官は、短剣を拾うと、皇帝に刃を向けた。兵士達は、槍投げの態勢に入った。タールートは鼻を鳴らした。「まあよい、お前のような女、西の異教徒どもを蹴散らせばいくらでも手に入る。不肖の弟と運命を共にするがよい」ナディーヤは、何か叫ぼうとしたが、手を掴まれ制止された。それは、マフムートであった。彼は、彼女より一歩前に出た。

「兄上、いえ、皇帝陛下!私めへの謗りは、いくらでも受けましょう。しかし、ナディーヤへの、我が乳母への言葉が過ぎます!」彼は、兄へ啖呵をきった。タールートは、全く意に介さなかった。皇子は、女官に振り返った。「ナディーヤ…しかし、兄の言うことは的を射ている…私のために死んでくれるな」

「マフムート様…」ナディーヤは、マフムートの目を見た。彼が小さい頃から、この瞳に将来の王を見いだした。いつの間にか、背も越えられた。「大きくなられましたな…」彼女は感慨深げに呟いた。そして、短剣を向けた。「何を…」皇子は、怪訝に思った。

「お許しください…貴方をお守りするため…」「や、やめ、うわっ!」ナディーヤは、マフムートの手を斬りつけた。たらりと、彼の傷口から血が流れた。タールートは面白くもなさそうに、踵を返した。「つまらん、もう少し抵抗があればな。後は任せる、遺体はなるべく傷つけるでない。母上が悲しまれるからな」数名の兵士をその場に残し、皇帝は宮殿へ戻った。

「ナディーヤ!何故、首や胸ではなく手を?これでは、死ねぬぞ!」マフムートは、あまりのことに頓珍漢なことを叫んだ。「マフムート様、2人が助かるには…こうするしかないのです!」「言ってる意味が…」ナディーヤは、彼の手を掴むと傷口を啜った。

「わわっ!」「ふむ、やはり美味しゅうございますね♥…」彼女の顔は恍惚とし、目は真っ赤に染まった。「!?」マフムートは、ナディーヤのこのような顔は見たことがなかった。「何をやっている!」「皇子の身体は傷つけるなと言われたばかりだぞ!」兵士達も動揺し、包囲を狭め近づいた。それが仇となった。

「うわあああ!」マフムートは目を見開いていた。ナディーヤは、兵士達に振り返った。「…ば、化け物」兵士の一人が呟いた。無理もない、彼女は今や目が血走り、上体を大きく捻り、髪は白く染まっていき、乱杭歯を剥いた。「グウウッ…男!」

「く、来るな!」兵士は、向かってくる鬼女に槍を投げた。槍はナディーヤに突き刺さる直前、掴まれてしまった。「死ねえええ!」兵士達は、曲刀を抜き、斬りかかった。彼女は短剣で受けると、槍の腹で兵士達を薙ぎ払った。彼らは、地面に投げ出され、気を失った。ナディーヤは、彼らの流す血を舐め取った。「おいしい…おいしい♥」

マフムートは、あまりのことに腰を抜かした。ナディーヤは、あらかた兵士を片付けると、彼に向き直った。「ひっ…」マフムートは、背中が凍りつくような感覚に陥った。ナディーヤは、異様な速度で走りよって来た。(次は私の番か!)彼は、死を覚悟した。しかし、彼女は眼前で立ち止まった。

「…」「…ナディーヤ?」マフムートは、彼女の名を言うことしかできなかった。「マフムート…はああ…さまぁ」彼女の顔は、悦楽に歪んでいた。(本当に…これが…ナディーヤなのか?)彼女は、姉や母のように感ぜられる女性のはずだった。その面影はどこにもなかった。

「マフムート…さま…」「痛っ!」ナディーヤは、マフムートの傷に噛みついた。「かわいらしい…」「ううっ…」彼女は、マフムートの血を舐めた。それは、母猫の毛繕いのように優しく、しかし、乳を求める仔猫のように熱心であった。

(なんだか…身体が熱く…)マフムートはというと、噛まれてからは、のぼせたようにボーッとした。傷口を舐められているというのに、不思議な高揚感に包まれた。身体中に血が巡っていく感覚に絶頂しかかった。「ふうっ…」「ああっ…」しかし、ナディーヤは舐めることを止めてしまった。彼は思わず、名残惜しさにため息をついた。

「…ハッ!マフムート様、貴方をお守りするためとはいえ、ご無礼を!お許しください…」ナディーヤは、正気に返り、平身低頭した。「…あ、ああ…いいよ。顔を上げて、ナディーヤ。謝ることはない…」マフムートも、我に帰り彼女を許した。

「しかし、これから、如何様にすべきか?じきに、巡回が来るぞ。」マフムートは、軟禁から脱したが、そもそも寄る辺はなかった。彼は、宮殿で産まれ、帝都で育った。ただ、ナディーヤが命を助け出してくれただけだ。

「そのことでございますが…」ナディーヤが遂に頭を上げた。「ここから南東20ミール程に、私めがいた部族がございます。貴方の身分は伏せ、そこで急場を凌ぎ、他国へ亡命するもよし、移住するもよしと考えます」マフムートはその発言に思案した。(故郷もなく…母上に頼ることもできぬ…私はただ皇族に産まれただけの非才の身…)

「わかった…」「マフムート様…大丈夫でございます、我が部族、<バナト・ヤルタヒム>は外からの者も、受け入れまする…」彼は、ナディーヤに手を引かれて、歩き出した。とりあえず、近くの村で足を手にいれるしかない。(しかし、あの鬼気迫る姿…それに、バナト・ヤルタヒム(貪る者の娘達)という名…私はどうなるのか)彼は、小さくなってゆく帝都を振り返りながら、今後の展望に思いを馳せた。
24/08/11 12:10更新 / ズオテン
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