後編
拙僧は、そうして住職様と孤児達とともに数十日ほど過ごしました。もちろん、食い扶持はそれ以上の厄介にならないよう、托鉢や採集で糊口を凌ぎました。
「栄清はなんで坊さんなんかやってんだ?」日焼けした少年三平が、僧侶の背おう籠に木の実を入れながら話しかけた。「何故、出家したかですか?それは、跡目争いを防ぐため、と言えばお分かりか?」栄清は顔だけを向けて答えた。
「栄さんって、お侍さんだったの!?」山草を手に取り、嗅ぎ分けていた美根がその言葉に驚いた。「てことは、この辺の水軍を率いてる三宅の殿様とこの出なのか!?」三平がさらに質問した。「拙僧はこのあたりの者ではござらん。強いて言えば、都よりも遠い東の国の出身でございます」
「そうなんだ…ねえ、なんか術はできないの?あたし、化けるの得意だよ!」そう言うと、美根の顔は陽炎のように歪み、三平と同じものになった。「俺はこんな間抜けな面じゃねえぞ!」彼は、狐耳が付き、鼻水を啜る自分に抗議した。「あんたなんか、いつまでもはなたれ小僧で十分よ!」「何だと!」二人は取っ組み合いになった。
「おやめなさい」栄清はそれぞれの肩に手を置き、引き離した。「三平、美根。凪波尼殿が言っていることですが、互いを意識するのであれば、力でなく、悪戯でなく、悪口であってはなりません」「でも栄清…」三平は僧侶の言葉に反論しようとした。「でもはなし。そして美根…」「はい…」
「三平の顔に確かに似ていました」「でしょ!」「おい!」狐耳の少女は破顔し、少年は怒った。「しかしながら、人様の顔を誇張するのはよろしくない。顔とは魂に等しいもの、それを歪めるのは貶めることに繋がる」「ごめんなさい…」美根は耳を折り俯いた。
「喧嘩するほど仲が良いとは言いますが、素直に言葉にすることも大切ですよ」僧侶は二人の頭を撫ぜた。「別に、俺はコイツと仲良くなんかねえよ…」三平は頬を赤らめて言った。「あ、あたしも、別に三平のことなんか…」「なんかとはなんだ!」「そっちこそ!」二人は互いを指さした。「二人とも…」
「たいへーん!助けて!」その時、大声を出しながら走り来た者がいた。孤児の一人、おとみであった。「どうしたんだ!」「先生やみんなが、水軍に囲まれてるの!」「なんと!?」栄清は驚愕に目を開き、籠をその場に捨て駆けだした。「待って!栄さん!」「俺たちも行くよ!」「皆さんはこちらで隠れていてください!もし、日が暮れる前に戻らねば、村の方にお逃げください!」「でも…」子供たちは表情を曇らせた。
「拙僧は心配ご無用!こう見えて、荒事や調停には慣れております!」「栄さん/栄清!」二人の声を背に、僧侶はまるで突風が如く林を駆け、砂浜を目指した。坂になった獣道が開けると、入江には船が泊まっているのが見えた。その中央に立つ帆の先端には、丸に波を描いた旗が刺さっていた(あれが、三宅水軍!)
「へへへ!尼さんよぉ、言う通りにすりゃ、悪いようにはしねぇからよ!」ぼさぼさの髪を後ろのまとめ、髭面の男が尼装束の女と童子たちを縄で縛り、小舟に乗せようとしていた。付近には、ちぐはぐな鎧姿の者たちが槍や刀を手に,下脾た笑みを浮かべて囲んでいた。
「待ってくだされ!」栄清はわき目も振らずにその場に走りこんだ。気づいた周囲の水軍の浪人達が得物を手に彼を阻もうとしていた。「何者だ!」「坊主が何の用だ!」しかし、僧侶は立ち止まることはしなかった。制止を振り切るため、彼は手を翳した。「御免!」瞬く間に、周囲に旋風が起こり、浪人達はもんどりうって転んだ。「うげっ!」「てめえ!」尚もその武器で刺突を繰り出そうとしていた。
「南無三!」栄清は槍を掴むと手刀でその穂先を折った。「喝!」「んぬ!」そして空中の穂先に蹴りを入れ、そのまま浪人を気絶せしめた。「幸吉!しぐれ!…凪波尼殿!」僧侶は一心不乱に全員に呼び掛けた。尼僧はそれに気づき振り返った。「栄清殿!来てはなりませぬ!拙僧達は大丈夫です!」
「何だあ?坊主が俺たちの商売にケチ付けんのか!」髭面の浪人は、刀を抜くと切っ先を栄清に向けた。「拙僧、栄清と申す。冷泉山如意輪院の法力僧にござる!」「だからどうした!てめえはこの妖怪やガキどもと何の関係があるんだよ!」浪人が手で合図すると周囲の兵士が僧侶を囲んだ。
「そのあやかしは依頼により、拙僧の目付のもとにある!これはこの地を治むる領主、海東家のお墨付きが…」栄清は国人の朱印が入った書状を取り出した。訝しみつつ浪人は、この書状をひったくるように読み始めた。「えーと、如意輪の僧を求む。…この地に居ついたあやかしを探り、その誰何と是非を行うべし。生死を問わずその証を持ち帰り給う。だと」
「これでわかっていただけるか…拙僧がいる限りそのあやかしは悪さを行うことはないのです!」僧侶は必死に念を押した。「ああわかった…」「では…」浪人は頷き、その手を上げ…そのまま下ろした。すると、兵士は孤児や尼僧を無理やり小舟に蹴りこんだ。「乱暴はおやめください!」「やめてー!」栄清は狼狽した。「何を!?」
「知らなかったのか?三宅の殿様は、その海東の所領を召し取ったのさ!三宅軍の土地で何しようが、俺らの勝手なんだよ」「何たる非道!」栄清は掌底を繰り出そうとした。しかし、「いいのか?尼の頭が吹き飛ぶかもしれんぞ」小舟には短筒を構える浪人が、凪波尼の後頭部に突き付けていた。「そんな!」
「この近くの村も、押さえておくよう言われてんだ。何も見なかったことにして、帰んな」栄清はその場に倒れこみ、小舟が小さくなるのを見るしかなかった。(俗世の…乱世の習い…あの船に乗せられれば…もはや)しかし、その時潮が急速に沖へ引いていった。
「何だこりゃ…」「今日は凪いでて、波も全然ねえのに…」水軍の者たちが訝しんだ。「あれは…」僧侶は沖から、軍艦に近づく大小さまざまな影を見た。「よくわからんが警戒しろ!」髭面の浪人が叫んだ時にはすでに、大波ができつつあった。それは瞬く間に、船を飲み込んだ。「こは如何に!?」浪人は狼狽した。
「南無三!」その隙を見た栄清は、髭面の浪人の腹に掌底を打ち込んだ。「ぐうっ!」泡を吹いてその者は倒れた。「凪波尼殿!みな!」波が小舟へと迫っていた。あまりの波濤に大きく揺れ、短筒や船頭の男たちは海に落ちた。僧侶はただ叫んだ。「…!」尼僧が何事か身振り手振りで伝えようとする。それを波が飲み込んだ。「…嗚呼…」栄清はその場に崩れ落ちた。
「許してくだされ…凪波尼殿…子供達」僧侶は手を合わせた。掌の間の砂粒の痛みが、彼の悲痛を表すかのようであった。「…しんどの!栄清殿!」「!?」栄清は上体を起こした。小舟は水の膜を張り、その中から尼僧と童子たちが手を振っていた。(…この声。紛れもない…そうか!)尼僧はただの比丘尼ではなく、海和尚であった。あれだけ荒れていた波は、彼女らを乗せた小舟を優しく砂浜に運んだ。
「…!」栄清は一も二もなくそこへ駆け寄った。「皆、無事でございまするか…」「ええ…この術はたとえ昏い海の底であろうと子供たちを護ります」凪波尼は泣きあう童子達を慈しみを持った顔で抱きしめ、慰めた。「大過なく、連れ去られず、無事でようございました…」僧侶は思わず、尼僧の腕の輪の上から子供達を包んだ。「…」「…はっ!これは出過ぎた真似を!」「良いのです…皆の無事を考え、また我らを助けようとなさったのでしょう」凪波尼は栄清の手を取り、輪に引き込んだ。「!」彼にとって今まで感じたことのない抱擁感に包まれた。
「おーい!」「みんなー大丈夫だったー!?」そこに三平、美根とおとみが走り寄ってきた。「心配をかけました…あなた達も無事でよかった」凪波尼は彼らに返答した。「良かった…ほんとに良かったよぉ!」「栄さんも、先生たちも…」「せんせー!」三人も泣き出しそうになりながら、輪に入ってきた。
〜〜〜〜〜
「…という経緯があり、拙僧はその翌日に如意輪院に戻り、報告を終えた後、三宅様への談判状をお送りしました」慈亀坊は当時の書簡を蓮甲に見せながら、事のあらましを説明した。「そうして、当院の開山へとつながると…」「その通りにございます」小さな海和尚は頭をひねった。「しかし、愛については如何なる話が?」
「…事件の夜に、住職様と拙僧は議論を交わしました」「…それは愛について…」蓮甲の言葉に慈亀坊は頷いた。「あの夜は、御和房はそれはそれは熱心でございましたね…」住職は懐かしむようにつぶやいた。「…熱心…」「誤解を招くような物言いはお気を付けくだされ…」僧侶は小僧の赤面を見て訂正した。「今思えば、懸想文のようなものでしたね…」「…言うも言いたりとこのことですね」
〜〜〜〜〜
栄清はその晩やけに目が冴えた。(…ここ数日の経過、今回の三宅様の横紙破り、報告には十分ですね…女御には明日起つとお伝えしましょう)僧侶は凪波尼や童子達とは少し離れた横穴に藁を敷いていた。一応、彼らを監視するためだ。
そのようなことを考え、微睡に入ろうとしているとき、栄清は物音を聞いた。「…?」ふと見ると、件の海和尚がいなくなっていた。僧侶は気になって、探しに出た。すると、物置のようにしてる穴に入る後姿が見えた。(…一体何をしていらっしゃる…)物陰からのぞくと、尼僧は壁になっている部分に吸い込まれた。(…!?)栄清は忍び足でその壁まで近づいた。
「…?ここには岩肌がない?」僧侶が壁に触れてみると、そこは何もないかのように透過した。なんらかの妖術か。(あの方に限って、邪なものを隠すとは思えませんが…いったいこの先には?)栄清は意を決して中に進んだ。
その通路は人ひとり通るのがやっとの空間であった。苦労しながら進むと、闇にほのかに光るものが浮かんできた。その反射で、凪波尼の甲羅が一瞬閃いた。(…何をなさっている?)「見られてしまいましたか…」「!?」
その瞬間、狭い空間に青白い光が灯った。それは何もない空中に浮かぶ不知火であった。部屋の中が照らし出され、海亀が這うように跪く凪波尼と、奥に鎮座する銅像が見えてきた。「…ラーガラージャ…」その像には見覚えがあった。西の国より伝来した護法の女王である。
「いかにも」「いったいこれは何なのですか」栄清は凪波尼に質問した。「拙僧は海和尚、わだつみの遣い」「しかしこれは…」「そう、天(デーヴァ)を信ずる正真正銘の比丘尼でございます」(土着の神でなく、梵法に帰依していると!?)僧侶は驚愕に目を見開いた。
「驚くのも無理はありません。拙僧はかつて、霧の大陸に存在したある国へ向かう船に乗っておりました」凪波尼はぽつぽつと話し始めた。「当時、この国ではかの帝国から知識や技術、文化を輸入し交流を深めていたのはご存じでしょう」「ええ。その中には海を渡り教えを請い、竹簡を持ち帰った僧侶たちがいたことも…」栄清は自分の言葉にハッとして気づいた。「その船団に…」「尼僧として修業していた拙僧も同船しておりました」
「文献には三回、七回で座礁、沈没した航海があったと…」「そして、それはあやかしの仕業、正確にはわだつみの意志でございました」「比丘や比丘尼たちは…」「男性はあやかしの番に、女性は拙僧のごとく海のあやかしに成っていきました」栄清は俄かには信じられなかった。しかし、凪波尼の顔は真剣そのものであった。(そして水軍に群がったあの無数の影は…)
「貴僧はあやしになっても信仰は捨てなかったのですか?」「それはわかりませぬ。当時は何度もこのようなカルマを呪いました。欲を捨て去り、梵と法に生きる身になったと思っていたのですが、あやかしの本能が愛を…情を…精を欲するのです…」「…」尼僧の表情は複雑であった。後ろに立つラーガラージャと同じく、怒りとも無表情とも取れるものであった。
「人は煩悩があるゆえに苦諦を経験する、ましてや情欲そのもののあやかしは生きながら地獄へ落されたようなもの」凪波尼は肩を震わせた。「そのようなものが比丘尼などと…滑稽と笑うなら笑ってくだされ」(ラーガラージャは、愛欲を肯定する…自分への赦しを)そこに至り、栄清は気づいた。(救われぬもの、赦しされぬもの、それを放り自分だけが悟ろうとは、今の如意輪院、ひいては今の教えの姿は…)
『成人したあやかしは教えを受け入れず、そのため寺院の救済ではどうすることもできない』これが驕りではなくば、何であろう。僧侶の心にその疑問が浮かび上がった。「貴僧は…凪波尼殿は…」「…?」「菩薩に見えます」彼は相手の両手を取った。「…何を言うかと思えば、姑息な慰めなどはおやめください!」尼僧は憤った。
「貴僧が菩薩でなくば、天女と言ってもよいでしょう!」「それ以上は本当に怒ります!」凪波尼は両手で栄清を押しのけようとした。僧侶は頑として動かなかった。「この戦乱の世に、迷い惑いながらそれでも孤児を助け養うその姿」「戯言を…」「ある宗派では『悪人正機』というものがあります」「…それが拙僧と何の縁が…」
「我々は自分を善人だから救われると考えてしまいます」「承知しています。悪人と自覚のある者ほど必死に念仏を唱え、善人と考えてしまう只人よりも熱心になるものだと。道徳や規範の善悪でなく、『自らの至らぬを自覚し向き合う』ことが肝要、それが?」「あやかしに成ってなお、その宿業を得ても、道を全うしようとするその真摯さ」「…」
「ラーガラージャに祈り、孤児を育て、日々をよく生きる。これこそ梵と法に生きる姿と理解しました」「…それで貴方が納得しようとも、世が、人々が、羅漢がそれを認めてくださいますか?」「わかりませぬ」「…」「しかし、ほかのどの宗派、寺院もそれは同じではないですか」「…先は、悟りの道は、進むしかない、そうおっしゃるのですか」「…はい」
「…ふふふっ」「何かおかしなことでも?」栄清は首を傾げた。「いえ、拙僧も破戒僧とはいえ、比丘が比丘尼の手を掴み、力説するのが、まるで契りを交わす檀家のようで」「…ア、こ、これは無礼を!」僧侶は慌てて手を離した、その顔は一気に真っ赤に染まった。「良いのです。なんだか、肩の荷が少し降りたような気がしまする…」「…拙僧でよければいつでも問答には付き合います…」
「…明日には行ってしまわれるのですか?」「…はい」彼らの表情は不知火の影になり見えなかった。ただ、ラーガラージャに見守られながら、少しづつ両者は近づいていった。
〜〜〜〜〜
「そういったやり取りがあり、拙僧はこの地に戻り、凪波尼様、童子達とともに少しづつ教団に認めさせるように説得しました。そして、当院は建立されて今に至るというわけでございます」「…」蓮甲は物足りないといった表情をしていた。「何か?」「いえ、私が産まれるまで、お二人のいろいろがあったのではないかと…」
「蓮甲…」慈亀坊は呆れた。「良いではないですか。拙僧達の『問答』はその後何度もあったのは確かでございましょう?」住職が口をはさんだ。「教えていただけますか!?」「拙僧もいろいろなことを思い出してきましてね、弟子にして愛娘に教えるは吝かではないです」「ありがとうございます!」
「住職様がそうおっしゃられるのであれば…」僧侶は息を吐いた。「ただし、もうよい時間です。明日も早くから修行せねばなりません」「かしこまりました」「では、お休みなさい」住職は礼をした。「住…母上と父上も、お休みなさいませ!」小僧は元気に一礼してその場を後にした。残るのは水色の袈裟の僧侶と、紫色の袈裟の海和尚であった。
「あの娘は村のわらべや、他の僧達とも仲良くやれているようですね」「まだ経文の半分も読めませぬが、まあこれからと言えましょう」両者は頷いた。そして、床の上に向かい合わせに坐した。「作麼生!」「説破!」「愛とは?」「道なり」彼らの毎夜の問答がここから始まる。
「栄清はなんで坊さんなんかやってんだ?」日焼けした少年三平が、僧侶の背おう籠に木の実を入れながら話しかけた。「何故、出家したかですか?それは、跡目争いを防ぐため、と言えばお分かりか?」栄清は顔だけを向けて答えた。
「栄さんって、お侍さんだったの!?」山草を手に取り、嗅ぎ分けていた美根がその言葉に驚いた。「てことは、この辺の水軍を率いてる三宅の殿様とこの出なのか!?」三平がさらに質問した。「拙僧はこのあたりの者ではござらん。強いて言えば、都よりも遠い東の国の出身でございます」
「そうなんだ…ねえ、なんか術はできないの?あたし、化けるの得意だよ!」そう言うと、美根の顔は陽炎のように歪み、三平と同じものになった。「俺はこんな間抜けな面じゃねえぞ!」彼は、狐耳が付き、鼻水を啜る自分に抗議した。「あんたなんか、いつまでもはなたれ小僧で十分よ!」「何だと!」二人は取っ組み合いになった。
「おやめなさい」栄清はそれぞれの肩に手を置き、引き離した。「三平、美根。凪波尼殿が言っていることですが、互いを意識するのであれば、力でなく、悪戯でなく、悪口であってはなりません」「でも栄清…」三平は僧侶の言葉に反論しようとした。「でもはなし。そして美根…」「はい…」
「三平の顔に確かに似ていました」「でしょ!」「おい!」狐耳の少女は破顔し、少年は怒った。「しかしながら、人様の顔を誇張するのはよろしくない。顔とは魂に等しいもの、それを歪めるのは貶めることに繋がる」「ごめんなさい…」美根は耳を折り俯いた。
「喧嘩するほど仲が良いとは言いますが、素直に言葉にすることも大切ですよ」僧侶は二人の頭を撫ぜた。「別に、俺はコイツと仲良くなんかねえよ…」三平は頬を赤らめて言った。「あ、あたしも、別に三平のことなんか…」「なんかとはなんだ!」「そっちこそ!」二人は互いを指さした。「二人とも…」
「たいへーん!助けて!」その時、大声を出しながら走り来た者がいた。孤児の一人、おとみであった。「どうしたんだ!」「先生やみんなが、水軍に囲まれてるの!」「なんと!?」栄清は驚愕に目を開き、籠をその場に捨て駆けだした。「待って!栄さん!」「俺たちも行くよ!」「皆さんはこちらで隠れていてください!もし、日が暮れる前に戻らねば、村の方にお逃げください!」「でも…」子供たちは表情を曇らせた。
「拙僧は心配ご無用!こう見えて、荒事や調停には慣れております!」「栄さん/栄清!」二人の声を背に、僧侶はまるで突風が如く林を駆け、砂浜を目指した。坂になった獣道が開けると、入江には船が泊まっているのが見えた。その中央に立つ帆の先端には、丸に波を描いた旗が刺さっていた(あれが、三宅水軍!)
「へへへ!尼さんよぉ、言う通りにすりゃ、悪いようにはしねぇからよ!」ぼさぼさの髪を後ろのまとめ、髭面の男が尼装束の女と童子たちを縄で縛り、小舟に乗せようとしていた。付近には、ちぐはぐな鎧姿の者たちが槍や刀を手に,下脾た笑みを浮かべて囲んでいた。
「待ってくだされ!」栄清はわき目も振らずにその場に走りこんだ。気づいた周囲の水軍の浪人達が得物を手に彼を阻もうとしていた。「何者だ!」「坊主が何の用だ!」しかし、僧侶は立ち止まることはしなかった。制止を振り切るため、彼は手を翳した。「御免!」瞬く間に、周囲に旋風が起こり、浪人達はもんどりうって転んだ。「うげっ!」「てめえ!」尚もその武器で刺突を繰り出そうとしていた。
「南無三!」栄清は槍を掴むと手刀でその穂先を折った。「喝!」「んぬ!」そして空中の穂先に蹴りを入れ、そのまま浪人を気絶せしめた。「幸吉!しぐれ!…凪波尼殿!」僧侶は一心不乱に全員に呼び掛けた。尼僧はそれに気づき振り返った。「栄清殿!来てはなりませぬ!拙僧達は大丈夫です!」
「何だあ?坊主が俺たちの商売にケチ付けんのか!」髭面の浪人は、刀を抜くと切っ先を栄清に向けた。「拙僧、栄清と申す。冷泉山如意輪院の法力僧にござる!」「だからどうした!てめえはこの妖怪やガキどもと何の関係があるんだよ!」浪人が手で合図すると周囲の兵士が僧侶を囲んだ。
「そのあやかしは依頼により、拙僧の目付のもとにある!これはこの地を治むる領主、海東家のお墨付きが…」栄清は国人の朱印が入った書状を取り出した。訝しみつつ浪人は、この書状をひったくるように読み始めた。「えーと、如意輪の僧を求む。…この地に居ついたあやかしを探り、その誰何と是非を行うべし。生死を問わずその証を持ち帰り給う。だと」
「これでわかっていただけるか…拙僧がいる限りそのあやかしは悪さを行うことはないのです!」僧侶は必死に念を押した。「ああわかった…」「では…」浪人は頷き、その手を上げ…そのまま下ろした。すると、兵士は孤児や尼僧を無理やり小舟に蹴りこんだ。「乱暴はおやめください!」「やめてー!」栄清は狼狽した。「何を!?」
「知らなかったのか?三宅の殿様は、その海東の所領を召し取ったのさ!三宅軍の土地で何しようが、俺らの勝手なんだよ」「何たる非道!」栄清は掌底を繰り出そうとした。しかし、「いいのか?尼の頭が吹き飛ぶかもしれんぞ」小舟には短筒を構える浪人が、凪波尼の後頭部に突き付けていた。「そんな!」
「この近くの村も、押さえておくよう言われてんだ。何も見なかったことにして、帰んな」栄清はその場に倒れこみ、小舟が小さくなるのを見るしかなかった。(俗世の…乱世の習い…あの船に乗せられれば…もはや)しかし、その時潮が急速に沖へ引いていった。
「何だこりゃ…」「今日は凪いでて、波も全然ねえのに…」水軍の者たちが訝しんだ。「あれは…」僧侶は沖から、軍艦に近づく大小さまざまな影を見た。「よくわからんが警戒しろ!」髭面の浪人が叫んだ時にはすでに、大波ができつつあった。それは瞬く間に、船を飲み込んだ。「こは如何に!?」浪人は狼狽した。
「南無三!」その隙を見た栄清は、髭面の浪人の腹に掌底を打ち込んだ。「ぐうっ!」泡を吹いてその者は倒れた。「凪波尼殿!みな!」波が小舟へと迫っていた。あまりの波濤に大きく揺れ、短筒や船頭の男たちは海に落ちた。僧侶はただ叫んだ。「…!」尼僧が何事か身振り手振りで伝えようとする。それを波が飲み込んだ。「…嗚呼…」栄清はその場に崩れ落ちた。
「許してくだされ…凪波尼殿…子供達」僧侶は手を合わせた。掌の間の砂粒の痛みが、彼の悲痛を表すかのようであった。「…しんどの!栄清殿!」「!?」栄清は上体を起こした。小舟は水の膜を張り、その中から尼僧と童子たちが手を振っていた。(…この声。紛れもない…そうか!)尼僧はただの比丘尼ではなく、海和尚であった。あれだけ荒れていた波は、彼女らを乗せた小舟を優しく砂浜に運んだ。
「…!」栄清は一も二もなくそこへ駆け寄った。「皆、無事でございまするか…」「ええ…この術はたとえ昏い海の底であろうと子供たちを護ります」凪波尼は泣きあう童子達を慈しみを持った顔で抱きしめ、慰めた。「大過なく、連れ去られず、無事でようございました…」僧侶は思わず、尼僧の腕の輪の上から子供達を包んだ。「…」「…はっ!これは出過ぎた真似を!」「良いのです…皆の無事を考え、また我らを助けようとなさったのでしょう」凪波尼は栄清の手を取り、輪に引き込んだ。「!」彼にとって今まで感じたことのない抱擁感に包まれた。
「おーい!」「みんなー大丈夫だったー!?」そこに三平、美根とおとみが走り寄ってきた。「心配をかけました…あなた達も無事でよかった」凪波尼は彼らに返答した。「良かった…ほんとに良かったよぉ!」「栄さんも、先生たちも…」「せんせー!」三人も泣き出しそうになりながら、輪に入ってきた。
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「…という経緯があり、拙僧はその翌日に如意輪院に戻り、報告を終えた後、三宅様への談判状をお送りしました」慈亀坊は当時の書簡を蓮甲に見せながら、事のあらましを説明した。「そうして、当院の開山へとつながると…」「その通りにございます」小さな海和尚は頭をひねった。「しかし、愛については如何なる話が?」
「…事件の夜に、住職様と拙僧は議論を交わしました」「…それは愛について…」蓮甲の言葉に慈亀坊は頷いた。「あの夜は、御和房はそれはそれは熱心でございましたね…」住職は懐かしむようにつぶやいた。「…熱心…」「誤解を招くような物言いはお気を付けくだされ…」僧侶は小僧の赤面を見て訂正した。「今思えば、懸想文のようなものでしたね…」「…言うも言いたりとこのことですね」
〜〜〜〜〜
栄清はその晩やけに目が冴えた。(…ここ数日の経過、今回の三宅様の横紙破り、報告には十分ですね…女御には明日起つとお伝えしましょう)僧侶は凪波尼や童子達とは少し離れた横穴に藁を敷いていた。一応、彼らを監視するためだ。
そのようなことを考え、微睡に入ろうとしているとき、栄清は物音を聞いた。「…?」ふと見ると、件の海和尚がいなくなっていた。僧侶は気になって、探しに出た。すると、物置のようにしてる穴に入る後姿が見えた。(…一体何をしていらっしゃる…)物陰からのぞくと、尼僧は壁になっている部分に吸い込まれた。(…!?)栄清は忍び足でその壁まで近づいた。
「…?ここには岩肌がない?」僧侶が壁に触れてみると、そこは何もないかのように透過した。なんらかの妖術か。(あの方に限って、邪なものを隠すとは思えませんが…いったいこの先には?)栄清は意を決して中に進んだ。
その通路は人ひとり通るのがやっとの空間であった。苦労しながら進むと、闇にほのかに光るものが浮かんできた。その反射で、凪波尼の甲羅が一瞬閃いた。(…何をなさっている?)「見られてしまいましたか…」「!?」
その瞬間、狭い空間に青白い光が灯った。それは何もない空中に浮かぶ不知火であった。部屋の中が照らし出され、海亀が這うように跪く凪波尼と、奥に鎮座する銅像が見えてきた。「…ラーガラージャ…」その像には見覚えがあった。西の国より伝来した護法の女王である。
「いかにも」「いったいこれは何なのですか」栄清は凪波尼に質問した。「拙僧は海和尚、わだつみの遣い」「しかしこれは…」「そう、天(デーヴァ)を信ずる正真正銘の比丘尼でございます」(土着の神でなく、梵法に帰依していると!?)僧侶は驚愕に目を見開いた。
「驚くのも無理はありません。拙僧はかつて、霧の大陸に存在したある国へ向かう船に乗っておりました」凪波尼はぽつぽつと話し始めた。「当時、この国ではかの帝国から知識や技術、文化を輸入し交流を深めていたのはご存じでしょう」「ええ。その中には海を渡り教えを請い、竹簡を持ち帰った僧侶たちがいたことも…」栄清は自分の言葉にハッとして気づいた。「その船団に…」「尼僧として修業していた拙僧も同船しておりました」
「文献には三回、七回で座礁、沈没した航海があったと…」「そして、それはあやかしの仕業、正確にはわだつみの意志でございました」「比丘や比丘尼たちは…」「男性はあやかしの番に、女性は拙僧のごとく海のあやかしに成っていきました」栄清は俄かには信じられなかった。しかし、凪波尼の顔は真剣そのものであった。(そして水軍に群がったあの無数の影は…)
「貴僧はあやしになっても信仰は捨てなかったのですか?」「それはわかりませぬ。当時は何度もこのようなカルマを呪いました。欲を捨て去り、梵と法に生きる身になったと思っていたのですが、あやかしの本能が愛を…情を…精を欲するのです…」「…」尼僧の表情は複雑であった。後ろに立つラーガラージャと同じく、怒りとも無表情とも取れるものであった。
「人は煩悩があるゆえに苦諦を経験する、ましてや情欲そのもののあやかしは生きながら地獄へ落されたようなもの」凪波尼は肩を震わせた。「そのようなものが比丘尼などと…滑稽と笑うなら笑ってくだされ」(ラーガラージャは、愛欲を肯定する…自分への赦しを)そこに至り、栄清は気づいた。(救われぬもの、赦しされぬもの、それを放り自分だけが悟ろうとは、今の如意輪院、ひいては今の教えの姿は…)
『成人したあやかしは教えを受け入れず、そのため寺院の救済ではどうすることもできない』これが驕りではなくば、何であろう。僧侶の心にその疑問が浮かび上がった。「貴僧は…凪波尼殿は…」「…?」「菩薩に見えます」彼は相手の両手を取った。「…何を言うかと思えば、姑息な慰めなどはおやめください!」尼僧は憤った。
「貴僧が菩薩でなくば、天女と言ってもよいでしょう!」「それ以上は本当に怒ります!」凪波尼は両手で栄清を押しのけようとした。僧侶は頑として動かなかった。「この戦乱の世に、迷い惑いながらそれでも孤児を助け養うその姿」「戯言を…」「ある宗派では『悪人正機』というものがあります」「…それが拙僧と何の縁が…」
「我々は自分を善人だから救われると考えてしまいます」「承知しています。悪人と自覚のある者ほど必死に念仏を唱え、善人と考えてしまう只人よりも熱心になるものだと。道徳や規範の善悪でなく、『自らの至らぬを自覚し向き合う』ことが肝要、それが?」「あやかしに成ってなお、その宿業を得ても、道を全うしようとするその真摯さ」「…」
「ラーガラージャに祈り、孤児を育て、日々をよく生きる。これこそ梵と法に生きる姿と理解しました」「…それで貴方が納得しようとも、世が、人々が、羅漢がそれを認めてくださいますか?」「わかりませぬ」「…」「しかし、ほかのどの宗派、寺院もそれは同じではないですか」「…先は、悟りの道は、進むしかない、そうおっしゃるのですか」「…はい」
「…ふふふっ」「何かおかしなことでも?」栄清は首を傾げた。「いえ、拙僧も破戒僧とはいえ、比丘が比丘尼の手を掴み、力説するのが、まるで契りを交わす檀家のようで」「…ア、こ、これは無礼を!」僧侶は慌てて手を離した、その顔は一気に真っ赤に染まった。「良いのです。なんだか、肩の荷が少し降りたような気がしまする…」「…拙僧でよければいつでも問答には付き合います…」
「…明日には行ってしまわれるのですか?」「…はい」彼らの表情は不知火の影になり見えなかった。ただ、ラーガラージャに見守られながら、少しづつ両者は近づいていった。
〜〜〜〜〜
「そういったやり取りがあり、拙僧はこの地に戻り、凪波尼様、童子達とともに少しづつ教団に認めさせるように説得しました。そして、当院は建立されて今に至るというわけでございます」「…」蓮甲は物足りないといった表情をしていた。「何か?」「いえ、私が産まれるまで、お二人のいろいろがあったのではないかと…」
「蓮甲…」慈亀坊は呆れた。「良いではないですか。拙僧達の『問答』はその後何度もあったのは確かでございましょう?」住職が口をはさんだ。「教えていただけますか!?」「拙僧もいろいろなことを思い出してきましてね、弟子にして愛娘に教えるは吝かではないです」「ありがとうございます!」
「住職様がそうおっしゃられるのであれば…」僧侶は息を吐いた。「ただし、もうよい時間です。明日も早くから修行せねばなりません」「かしこまりました」「では、お休みなさい」住職は礼をした。「住…母上と父上も、お休みなさいませ!」小僧は元気に一礼してその場を後にした。残るのは水色の袈裟の僧侶と、紫色の袈裟の海和尚であった。
「あの娘は村のわらべや、他の僧達とも仲良くやれているようですね」「まだ経文の半分も読めませぬが、まあこれからと言えましょう」両者は頷いた。そして、床の上に向かい合わせに坐した。「作麼生!」「説破!」「愛とは?」「道なり」彼らの毎夜の問答がここから始まる。
24/07/18 11:11更新 / ズオテン
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