連載小説
[TOP][目次]
前編
ジパングのどこか、古寺にて。中年の男が、多くの童の前に立ち、頭を下げた。「お早うごさいまする。学びは力、習いは技、教えは心。今日も皆さん、拙僧と一緒に学びましょうぞ」子供で溢れた部屋を見渡して、一人の僧侶が挨拶を始めた。彼の袈裟は濃い浅葱色であった。

「「「おはようございます!」」」異口同音に、部屋の中に子供達の元気な挨拶が響いた。ここには身分の別はない。みすぼらしい者も、よく仕立てた着物の者、村の者、寺で育った者、等しく学ぶためにこの場に集まった。さらに言えば、それは人の範疇に留まらない。

髪を伸ばし放題にした童子、朝から髪を結えたおのこ、上等な櫛をさしためのわらわ、角を生やした大柄な童、まるで獣を思わせる耳の子供、あやかしも人も分け隔てなく、隣り合い座っていた。僧侶はそれを一瞥し、微かに目尻を下げた。

「さて、先日も述べた様に、学ぶは真似ぶに通じ、習うは倣うから来ています。良い生き方をするなら、先人の良い生きざまを参考にしましょう。本日は、こちらの史書……
まだまだ、昇ったばかりと思った日が、あっというまに南中に達した。それと同じくして鐘が鳴り響いた。

「…という所まで、かの英雄は戦ったようです。修羅の道に堕ちたと彼を断じる羅漢も多い」僧侶は一旦言葉を切り、子供達の表情を見た。皆それぞれ感ずるところありと見えた。「されど、拙僧達は修行の身なれば、人々の生き方を軽々しく評すべからず。諸方無我、物事には必ず原因があるのです。それを知ること、皆さんの生き方を知ることの手助けになります。」そう言うと、彼は手本を閉じる仕草をした。皆がそれに続いた。

「今回はここまでですが、次回はいよいよ彼が戦う理由と、その戦った結果築かれた体制について見ていきましょう。さにあらば、ここにしばし別れ、再びあい見えましょうぞ」「「「左様なら!」」」僧侶と子供達は互いに会釈した。

僧侶は、障子戸の横で一人一人出ていくのを見送った。一人だけまだ残っている者がいた。彼女は、寺の小僧で、背中に甲羅を背負っていた。「蓮甲。どうしましたか?手習いの後は、掃除をする時間のはずですが?」彼は、蓮甲と呼ばれた幼い比丘尼に質問した。

「これは、慈亀坊様!すみません!」彼女は、目上の僧侶に頭を下げた。「謝る必要はありませんよ。何か、考え事をしていたのですか?」慈亀坊は静かに理由を尋ねた。「…」「どうしたのですか?答えられないことでしたか?」小僧は、俯いて口を開かなかった。

「…実は、今日のお話なのですが…」「今日?史書の話ですか」「はい」「どのようなことを考えていたのですか?」
慈亀坊は、先ほどまでの内容を振り返りながら問い詰めた。「英雄は、家族や友、恋人のために戦ったのですよね?」「要約すれば、それも一因でしょう」「しかし、多くの教えでは、愛(カーマ)は執着とされています!」蓮甲は声を荒げた。

「…そう考える宗派が多数であることは否めません」「執着は苦諦を生み、苦諦は人を悪からしめる。愛とは、良からぬ物なのでしょうか…」「…」慈亀坊は彼女の言葉を黙って聞いていた。「慈亀坊様、我らの寺院、我らの教えは、異端なのですか!?」「誰ぞにそう言われたのですか?」「…いいえ」蓮甲は俯いて唇を噛んだ。

「…拙僧は、貴女にその問いに答える時間がありません。また、貴女にはまだ理解するには時間を要する部分もあります…」「…」高僧の静かな言葉は、この小僧には重くのし掛かるように感ぜられた。(すげなく、断られたか…)

「しかしながら、住職なら貴女の疑問の助けになるでしょう」「…それは!」「私から掛け合ってみましょう。何かに問いを持つことこそ、良い生き方への第一歩。問い、迷い、そしてそれを克服ないし共生する、貴女のためになると思います」慈亀坊は、優しく蓮甲の頭を撫ぜた。小僧はくすぐったげに反応した。

「ただし、日々の修行も疎かになされるな。まずは、掃除に行ってきなさい」高僧は促した。「承知いたしました!」彼女は手本と筆の一式を持ち、すぐさま部屋を出た。「愛とは、執着か否か…」慈亀坊は、遠い目をして、蓮甲の背に昔の情景を重ねた。

それから数刻、既に日は落ち、参拝者もいなくなった頃。
慈亀坊は、蓮甲を連れて本堂へと向かっていた。「蓮甲」「はい、慈亀坊様!」「今日も修行は恙無く終えましたか?」「…はい」(また、何か壊しましたね)小僧の反応に、僧侶は眉根を寄せた。

本堂は、寺院の最奥、切り立った崖に面していた。海面までは、三十間(約30メートル)といったところで、下では白波が壁にぶつかる光景が見えた。(そろそろ、満潮ですか)本堂に入ると、二人を厳めしい木像が出迎えた。それは、言われなければ鬼女と見紛う、大柄な女性の姿であった。

髪は逆立ち、頭に光背と獅子の冠を、背中には日輪を背負っていた。顔は無表情とも、静かな怒りとも取れる表情をしていた。一際目を引くのが、その四臂の異形である。上のひとつの腕は花を手にし、もうひとつはただ拳を握っていた。下の腕は、一方が矢をつがえ、もう一方は弓を持っている。ラーガラージャという、天女(ないし、アスラ)である。

慈亀坊は、堂に入るやいなや直ぐ様、かの像に手を合わせた。蓮甲は、一瞬圧倒されたように眺めていたが、同じ様に祈りを捧げた。「まだ、住職はいらっしゃっていない様ですが、先に愛について一つ教授いたしましょう」高僧は、背を正し小僧に向かい直った。蓮甲も面を上げ、慈亀坊に顔と意識を向けた。

「この像は何を象っていますか?」「ラーガラージャです!」蓮甲は待っていたとばかりに答えた。「正しい」「はい!」「では、その名の意味するところは?」「…ええと…」教えは、ジパングの西にある霧の大陸、更にその西の天篤(シンドゥ)という国から伝来した。ラーガラージャはその国の言葉である。「ふむ。拙僧は、貴女達に一度この寺院の本尊について、説教した覚えがありますが…まあ、いいでしょう」慈亀坊は、汗をたらし必死になって思い出そうとする彼女をみて、質問を打ち切った。

「意味は、天篤の言葉で、『情欲の王』といった意味合いです。霧の大陸で言うところの、アイラン・ミンワン、すなわち『愛で満たされた賢者の王』とも」「すみません。忘れておりました…」「今日からまた覚えていけばよろしいのです」蓮甲は素直に謝った。慈亀坊は謝罪に頷いた。

「あれ、『情欲』ですか?」蓮甲はその名前の意味を飲み込むと、ふと別の疑問が浮かんだ。「何故、煩悩そのもののこちらの天女を、僧侶達が信仰するのでしょう?」「正にそれが、弊寺が愛を説き、またある程度は情交を許している因の一つなのです」「つまり…」

「ラーガラージャは、『離愛金剛』とも呼ばれます。つまり、愛欲とはそれを突き詰めると、また悟りに近づくこともできるという考えがあるわけです」慈亀坊は滑らかに言葉を紡いだ。しかし、蓮甲の顔は納得がいかないというものであった。(あの人にそっくりですね…)慈亀坊は敬愛する者の面影を小僧に見いだした。

「貴僧達、面白い話をしていらっしゃいますね」その時、声が響いた。落ち着きのある、優しげな女性の者であった。「住職、今晩はまた一層、衆生のお救いなさったようで…」慈亀坊は声の主に向き直り、頭を下げた。「住職様!今晩はお時間を作っていただき、有り難きことに存じます!」慌てて、蓮甲も頭を下げ背を曲げた。

そこにいたのは、女性(にょしょう)であった。その姿は、正に尼僧といった装いであった。剃髪した頭は、尼頭巾に隠し、化粧はなくしかし自然な美貌。黒い法衣に、紫の袈裟をしていたが、ほのかになだらかな曲線が見えた。ただ一つ、尋常でない部分があるとすれば背中にあるモノであった。それは、蓮甲のものを背丈に合わせて、そのまま拡大したような亀の甲であり、濡れていた。海和尚というあやかしである。

「蓮甲よ。何やら、『愛』について、拙僧にご質問があるとか」「はい!我らの教えは、悟りは我執を除いた先にあるというもの」「概ね、どの教義もそのように言われますね」「何故、当院は『愛』を肯定するのですか?渇愛、愛別離苦、淫蕩、愛とは執着ではないのですか?」蓮甲は住職に食い入るように質問した。

「確かに、一見すると我らの宗派は矛盾していますね」住職は一歩進み出でた。それによって、彼女の法衣から水滴が溢れた。「貴女は今迷っています」「!?」静かであるが強い一声であった。「煩悩や迷い、確かに苦諦のもと。されど、惑う、迷う、欲する、それは生きること。人もあやかしも獣もそれなくば死すのみ」「…」

「死は苦しみからの解放ですか?」「…覚者はそう言ってはいません…」「然り。愛に囚われては道を違え、しかし失くすも外道となる。我らは、愛との…欲との付き合い方を模索し、また人々を導く教えなのですよ」「…私は答えを急ぎすぎたのでしょうか…」「誰ぞに恋をしましたか?」「…はい」住職は蓮甲の仕草から全てを察した。慈亀坊は黙っているが、『恋』に眉を動かした。

「原理を厳守し、恋を諦める。なるほど、正しく聞こえます。しかし、それもまた道への執着とも言えます」「そうなのですか?」「拙僧はそう考えます。慈亀坊はどうですか?」住職は、小僧の傍らの僧侶に意見を求めた。「それは、高僧としての考えでございますか?さもなくば、親としての見解でしょうか?」慈亀坊はばつの悪そうな顔をした。住職はその表情に微笑んだ。

「拙僧は敢えて、母として、比丘尼としての言を分けていませぬ。和御房、どちらの見方からも、この娘の迷いに答えてやりなさい」「承知いたしました」二名の僧侶は互いの目を見た。そして、弟子であり、二人の娘を見た。「蓮甲よ」「…はい」「まだ、納得がいかないようですね」

「…愛と教えは本当に両立できるのですか!?」「…かつて、私達もそういった壁にぶつかりました」「ええ?」慈亀坊は淡々と切り出した。「住職様、当時は凪波尼と名乗られていました。拙僧は攘妖派の国人からの以来で、この地に出没するあやかしを調査、できれば退治するよう依頼されました…」「そんな!?」「ちと、長い昔話ですが、貴女の迷いに一つの答えを与えるのものと存じます」
24/07/04 19:51更新 / ズオテン
戻る 次へ

TOP | 感想 | RSS | メール登録

まろやか投稿小説ぐれーと Ver2.33